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映画の渡り鳥5

『ジュラシック・パーク3』

先日、民放で『ジュラシック・パーク3』(2001年公開)を観た。

スピルバーグが放つ遊園地映画第3弾。但しスピルバーグは後衛(製作総指揮)に回っており、実際にメガホンを取っているのは(古い表現だ)家臣団の一人ジョー・ジョンストンである。さしものスピルバーグも、同じネタを3本続けて撮るのに疲れたのか、面倒臭くなったのか。

第1作の主人公たるアナログ恐竜博士サム・ニールが再登場。相変わらず発掘作業の資金繰りに苦労している。こうなると、気の進まない講演活動もこなさなくてはならない。終了後の質問コーナーでは、何も知らない若造が「先生はいつまで化石を掘ってるんですか?《ジュラシック・パーク》の跡地に行けば生きた恐竜が沢山いるそうじゃないですか。そちらを調査した方が手っ取り早いんじゃないですか」などとヘラヘラ笑いながら、生意気な台詞を吐く。込み上げる怒りをグッと抑えるニール。彼に言わせれば「あれは恐竜じゃない。バカ企業が作った人工生物。神秘なる生命に対する冒涜」なのである。自分がそれに関係してしまった事を、ニールは学者人生の汚点だと感じているのだ。学生達の無遠慮な発言はニールの傷口に塩を塗り込む行為に他ならない。別の質問者が「先生は《ジュラシック・パーク》に行かれる気はもうないのですか?」と尋ねてくるが、博士は断言する。俺は行かん。絶対に行かん。例え天変地異が起こっても俺は行かんぞ。

そんなニールの前に突如現れた怪しげな夫婦(ウィリアム・H・メイシー&ティア・レオーニ)。何でも彼らは「冒険好きの大富豪」らしく、今度の結婚記念日には、コスタリカ沖に浮ぶ恐竜島(通称《サイトB》)の上空を飛ぶ事になっている。その際、ニールにガイド役を務めて欲しいと言うのだ。こういう輩とは極力つき合いたくないニールだが、高額小切手をピラピラひけらかされると、無下に断る訳にもゆかなくなる。貧乏学者の哀しさ。研究資金調達の為には多少の妥協は我慢我慢。だが、この夫婦は大変な食わせ者だったのだ。彼らの真の目的は《サイトB》近海で消息を絶った息子の救出であった。嘘の依頼でニールを危険地帯に引っ張り込んだにも関わらず、彼らは罪悪感のカケラも反省の色も見せないのだ。例の小切手も勿論ニセモノ。その正体は大富豪どころか、水道屋のオヤジであった。お宅のキッチン改修の時はお安くしますよ(カネ取るんかい!)などと訳のわからん弁解を弄する有様。息子が。息子が。息子が。息子が。まるでそれが無敵の免罪符でもあるかのように彼らは呟く。息子が愛しく可愛いのは理解出来ないでもないが、その為には何をしても許されるのか。この映画、大型肉食獣スピノサウルスや翼竜プテラノドン等、新顔の恐竜が登場する。しかし、かの夫婦の面の皮の厚さにはとても敵わない。まあ、彼らのようなトラブルメーカーがいないとパニック映画は成立しないのかも知れないが。それにしても酷い。映画中盤、夫婦の思惑を掴んだニールが「地獄に連れて来られた上にタダ働きか!」と毒づくシーンがあるが、その気持ち、よくわかるよ。

人間vs恐竜。血飛沫舞う壮絶な攻防戦が展開!…しないのがこの映画であり、シリーズの特徴である。夫婦が雇った用心棒も前半早々に退場してしまう。島に来る前に対恐竜兵器の調整を尤もらしく行っていたので「さぞ強いんだろうな」と思っていたが、実際には蜥蜴一匹倒せぬままにオダブツ。平和を愛する御夫婦は拳銃ひとつ帯びておらず、ニール一行は丸腰の状態で人外魔境を彷徨うハメとなる。まさに狂気の沙汰である。恐竜に遭遇しても基本的に逃げるしかないのだ。ジャングルの茂みや廃墟から、獰猛な肉食爬虫類がヌッと顔を出す度に、うわっ。出たあ。助けてくれー。逃げろー。などと、叫びつつ走り回るのみ。世界最高のCG技術&特撮技術が創造した恐竜は迫力満点だが、同パターンが繰り返されるだけなので、後半にもなると流石にダレる。それにスピノサウルスにせよプテラノドンにせよ、攻撃方法が噛みつくか、引っ掻くか、踏み潰すかの3種類程度しかないので、単調な印象は拭えない。こうなると、何でもアリの怪獣映画の方が分がありそうである。はっきり言って、この映画のプテラノドンよりも『ガメラ/大怪獣空中決戦』(1995年)に登場する妖鳥ギャオスの方が数段怖いぞ。映画の大詰めに海兵隊が姿を見せるが、活躍場面は皆無。予定調和も甚だしい「恐竜さんと鬼ごっこ」もそろそろ厭きてきた。今度こそは米軍精鋭部隊と恐竜軍団との大激突が観てみたいものである。そう。大人向け『ジュラシック・パーク』だ。強烈な戦闘場面で観客の度肝を抜いた『プライベート・ライアン』(1998年)のノリで撮り上げれば、凄い事になりそうである。頼むぜ、スピルバーグ!

(2004/06/13)

『バトル・ロワイアル』

深作欣二の遺作『バトル・ロワイアル』が公開されたのは2000年12月16日であった。その初日。山奥のシネコンで観た。天気は…忘れた。思えばこれが、劇場で体験する初めての深作映画であった。館内は見るからにガラの悪い連中が大勢詰め掛けており、一寸異様な雰囲気。いいねえ。この感じ。この映画に相応しい空気である。何やら背筋がゾクゾクする。映画が始まる前から俺の血は滾っていた。恐らく彼らの脳内には「深作欣二」の名前は保存されていないだろう。作品の内容に関する前評判を聞きつけて、駆けつけた者が大半だったのではないだろうか。似たような現象が全国の映画館で起こっていたに違いない。作り手は深作ファン以外の観客を確保する事に成功したのである。そして『バトル・ロワイアル』は東映の目論み通り大ヒットを記録。深作は監督人生の最期を黒字で飾った事になる。

無作為に選んだ中学生をクラス単位で殺し合わせる。食うか食われるか。殺(や)るか殺られるか。勝者はただ一人。人工の阿修羅地獄『BR法』が定められた「ある国」がこの物語の舞台である。有り得ない法律だの荒唐無稽な設定だのリアリティがないだの、散々に批判や嘲笑を浴びせられてきた『BR法』だが、本当にそうなのか?アホらしいの一言で片づけてしまっていいのか?人類の歴史を紐解けば「有り得ない事」が度々起こっている。国家という怪物が弱者に対して、如何に理不尽に振る舞うかをインテリ評論家の皆様は忘れてしまったのだろうか。きっと他に考える事が沢山あるんでしょうね。そして、国家が本気で圧力をかけてくれば、我々庶民はいとも簡単に踏み潰されてしまう。言う事を聴かない奴には拷問だって脅迫だってやるだろう。両手の指を小指から順番に切り落とされても、それでも自分の信念や主張を枉げない者はそう多くはいまい。嬲り殺しにされるぐらいなら『BR法』だろうが何だろうが、受け入れてしまうのではないのか。この映画はそんな悪夢的状況をイヤと言うほど味あわせてくれる。そして、真の黒幕は決して画面に現れる事はない。その無気味さ。薄気味の悪さ。この物語の最大の敵役たる中学教師(ビートたけし)も「奴ら」の傀儡に過ぎないのである。

深作とたけし。日本映画界に君臨する二大梟雄が共闘を果たした記念すべき作品でもある。この2人は『その男、凶暴につき』(1989年)でコンビを組む筈であったが、撮影条件が気に入らず深作が降りてしまい、たけしが主演と監督を兼務する事になった。もし深作が渋々でも監督を引き受けていたとしたら、たけしの監督デビューがなくなる事はなかったとしても、かなり遅れていたのは間違いないだろう。北野映画の系譜も変化していたかも知れない。一度は離れた両雄の運命がここで交差したのだ。たけしは深作の期待に応えて、見応えある演技を披露している。台詞回しは相変わらずヘタだが、ゾッとするような迫力と狂気はたけしならでは。映画の前半。殺人ゲームのルール説明の際、たけしが眼にも留まらぬ早業で生徒の眉間をナイフで貫く。獰猛な表情で「悪い悪い。俺が殺ったら反則だよな」とケラケラ笑う。こういうキ××イじみた役柄を何の違和感も感じさせずにサラッと演じこなし、その上に滑稽味を加算出来るのは、今やたけしを置いて他にいるまい。これは演技力云々ではなく、たけしの持つ天性の能力であろう。エネルギーに満ちた若手俳優達と互角以上に渡り合うたけしの貫禄は圧巻であった。

主人公の少年(藤原竜也)の狼狽振りも印象的であった。他のクラスメートはこの状況に比較的あっさりと適応してしまうのだが、藤原だけはどうしても人が殺せないのだ。本能剥き出しの血みどろの闘いが繰り広げられる中をウロウロと逃げ惑う主人公の姿は、戦時下、敵軍の艦砲射撃によって工場も仲間もバラバラに吹き飛ばされた挙句に「結局何も出来なかった」という深作少年の姿に重なるような気もする。そんな藤原が続篇『鎮魂歌』(監督は息子の健太)で反政府ゲリラの首領として再登場した時には驚かされた。あれほど闘争を忌み嫌っていた少年が、自身の軍団を率いる屈強な戦士へと成長を遂げていたのである。しかし、その胸中はかなり複雑だ。血塗れの外見とは裏腹に、その実繊細な心を宿すキャラクターを藤原が見事に演じている。彼の魅力を巧みに引き出した深作父子の手腕に拍手。この二作品は彼の役者人生の中で大きな意味を担う事になるだろう。才能も充分だが、相当な努力家とも聞いている。藤原の今後の活躍が楽しみである。

そんな訳で、俺としては相当好きな映画である。公開前後、某ワイドショーがこの映画の戦闘場面のみを編集して「暴力を誘発する俗悪映画」だと叩いていていたが、そう仰るTV局も「教育に良い番組」を一体何本放送しているのやら。それと××党のセンセイ方、観もしない映画を攻撃するとは何事ですか。それが国民の代表のする事ですか。牛歩はいいから外で立ってなさいって。まあ、ワイドショーのスタッフも観てないだろうけどさ。だって連中、映画(特に邦画)に興味ないもん。さしもの俺もこれが万人向けの映画とは言わないが、よく観れば、殺戮場面だけがこの作品の見所ではないと気づく筈。そこに秘められたテーマは物凄く真面目で恥かしいぐらい。未見の方は先入観を捨てて御賞味下さい。結構美味しいですから。常に強烈過激な題材を追い続けた映画監督。深作欣二が世に放つ最後の爆弾。それが『バトル・ロワイアル』だ。

(2004/06/07)

『武士道ブレード』

先日。ビデオで『武士道ブレード』(1980年公開)を観た。主演は千葉真一(一応)。

レンタル屋の時代劇コーナーの片隅にそれは置いてあった。刀身に映り込んだ千葉師匠の鋭い眼光。このパッケージと裏面の説明文に騙された。共演者も三船敏郎&丹波哲郎と豪華である。もしかしてこれは千葉真一版『ラスト・サムライ』ではないのか?愚かにもそんな幻想を抱いてしまったのである。そして、純真な映画青年(誰がやねん)の期待はものの見事に粉砕されてしまうのである。コレに比べると『ラスト・サムライ』が如何に真摯に作られた映画であるかがよく解る。まあ、最初から珍品の類として観れば腹も立たない…か。

時は幕末。ペリー総督は日本との友好条約締結の最終段階にまで漕ぎつける。後は将軍の調印さえ貰えれば待望の日米和親条約が完成となる。ペリーとの折衝を重ねる将軍名代に三船敏郎。この作品に限った事ではないが、黒澤映画以外の三船はどうも精彩に欠ける。あの落ち着いた豪傑振りは何処に行ってしまうのか。いつも不機嫌そうな表情をしたイライラオヤジにしか見えないのである。そんな三船が記念パーティの席上で「大統領に贈り物をしたい」と突然提案する。ペリーとしては無事に和親条約さえ結べればそれで満足なのだが。そのプレゼントとは日本最高の名刀…サムライの精神が込められた宝剣『武士道ブレード』だという。ところが、この剣が開国反対派の一味に盗まれてしまい、事態がややこしくなる。

そんな刀の行方なんかどーでもいいから、早く調印してくれというペリーの要求を頑なに拒む三船。宝剣を取り返すまではそれは出来ないらしい。将軍の面子を潰す事になるからだ。三船は部下の千葉真一に『武士道ブレード』の奪還を命じる。この任務に失敗した際は切腹すると宣言する千葉。その時は俺も腹を切るぞと言い出す三船。理解不可能な武士の発想にペリーは大いに困惑する。船長室に戻った提督は「日本人は全員キ××イか!」と絶叫したくなるが、とにかく『武士道ブレード』を追跡する事に決める。側近のフランク・コンバースを呼び出し、少年通訳&怪力男をくっつけた特別部隊を急遽編制。千葉の後を追わせる。

刀、侍、忍者、相撲、刺青、ハラキリ…アメリカ人が喜びそうなニッポンアイテムが作品の随所に盛り込まれているが、取ってつけたような印象が拭えず、鼻白む事もしばしば。俺としては敵の版図に単身乗り込んだ千葉師匠の大活躍を望んでいたのだが、意外に見せ場は少なかった。訳のわからないコスチュームも憤懣ものだし、肝心の剣戟場面も師匠とは思えないスピード感のなさ。報酬だけが目当ての仕事だったのか?むしろ伏兵のコンバースの方が頑張っている。敵の居城(多分彦根城だ)に潜入を果たしたコンバースは城主との対面を果たす。言うまでもないが丹波哲郎である。この際、丹波先生が流暢な英語を披露している。流石に「若い時は進駐軍相手に通訳をして食っていた」という逸話を持つ男である。先生は我が藩の代表選手との決闘に勝ったら『武士道ブレード』を返してやると言う。果し合いである。サーベルvs日本刀。西洋剣法と東洋剣法の激突が始まる。奇妙なチャンバラが続くが、相手は丹波藩最強の戦士だけに手強い。女忍者の助力を得て、何とか勝利をものにするコンバース。おのれっ。卑怯者め。たちまち丹波の配下が斬りかかってくるが、そこに「偶然」大地震が発生する。がらがらがら。城塞を囲む石垣が崩れ出す程の勢いだが「天の怒りじゃ。わははははは」と丹波先生は呵呵大笑。何が可笑しいのか俺にはさっぱりわからなかった。

コンバースに託された『武士道ブレード』を旗艦に届ける少年通訳だったが、かの提督に「ああ。ソレはもう要らなくなったよ」と素っ気なく言われてしまう。どうやら千葉やコンバースが決死の闘いを展開している内に両国の交渉は進行していたらしい。三船の割腹と引き換えに条約調印は成ったのである。僕達の苦労は一体何だったんだ…。呆然と立ち尽くす少年。その傍らでは甲板に突き立てられた『武士道ブレード』が鈍い光を放っている。武士道などというものは、所詮島国の野蛮な風習に過ぎないのだと言わんばかりのラストシーン。この展開はかなりショッキングであり、本作唯一の見せ場はここかも知れない。因みに監督のトム・コタニはれっきとした日本人だ。本名・小谷承靖。東宝出身の映画監督(『若大将』『夕日くん』シリーズ等)である。日本人監督が作ったキテレツな時代劇は、果たしてアメリカ人の眼にどう映ったのであろうか?

(2004/06/07)

『血槍富士』

先日。衛星放送で『血槍富士』(1955年公開)を観た。主演は片岡千恵蔵。

敗戦後、自らの意思で9年間中国に滞在(原因不明瞭)していた内田吐夢。これが日本復帰第1作となる。劇中、江戸時代の旅行風景が丹念に描き込まれており、実に興味深い。この頃は日本も「広かった」と思う。移動手段と言えば船か馬か自分の足ぐらいしかない時代である。道中、思わぬアクシデントに巻き込まれる確率も高かっただろうし、目的地に到着した時の達成感も大きかっただろう。そういう意味では、現代の旅行は随分と味気ない。交通機関の発達が旅の利便性を促進したのは間違いないが、同時に旅の重みや風情のようなものを駆逐してしまったのも確かだ。

槍持ち稼業の千恵蔵は主人(島田照夫)と従者(加藤大介)の3人で江戸に向う途中である。島田は人情味に厚く、部下思いの立派な男であり「侍も下郎も同じ人間じゃないか」というかなり先進的な考えの持主でもある。訳のわからない規律だのしきたりだのに縛られた武士生活にウンザリしている節があり、自由奔放な庶民達の生活を見る度にそれを羨ましがるような人物である。この映画の真の主人公はこの風変わりな侍であろう。監督の当時の心情が濃厚に投影されているような気がする。ただ、如何なる人格者にも一つや二つは欠点があるものである。島田の場合はアルコールであった。酒量が増えてくると、次第に態度や言動が横暴になり、ついには腰のモノを振り回すという有様である。悪い酒だねえ。千恵蔵も加藤も島田の悪癖には頭を痛めており、主の前では決して酒の話はしないように努めている。宿場町の居酒屋で島田が暴れ狂う場面があるが、酒乱の気のある人はこれをよく観て、自身の戒めにして貰いたい。えっ。お前にだけは言われたくないって?

この映画の中で最も重要な小道具は知恵蔵が携えている槍である。映画の後半、ある理由で大金が必要になった島田はこれを骨董屋に叩き売ろうとする。かの徳川家康公直々に賜ったという伝家の名槍。島田は少なく見積もっても30両にはなるだろうと踏んでいたが、鑑定の結果、それは10両にも満たぬ屑槍であった。侍なんて者は威張るしか能のない役立たずだな。ぱちもんの槍を拝んで喜んでいるとは…。落胆の色を隠せない島田ではあったが、そのニセモノの槍が街道を騒がせていた大盗賊〈風の六右衛門〉逮捕に一役買ったり、彼自身の仇討ちの際に大活躍したりするのだからわからないものだ。今「仇討ち」と言ったが、この映画には最後の最後に壮絶な殺陣場面が用意されている。それまでのユーモア溢れる内容からは想像も出来ない強烈な修羅場である。この急展開には驚かされる。酔っ払った武士数名に無惨に斬り殺された島田と加藤。その知らせを聞いた千恵蔵が例の槍を掴んで現場に駆けつける疾走感。主人と後輩の惨殺死体を目の当たりにした千恵蔵の中で「何か」がキレた。戦闘開始。武士vs中間。怒髪天を衝いた千恵蔵が、2人の人間の生命を奪っておいて、尚もヘラヘラ笑っているゴロツキ侍どもに襲いかかる。無我夢中で繰り出される千恵蔵の白刃が腐れ外道を貫く瞬間の凄まじさ。その時、かの屑槍は悪鬼羅刹を誅戮する降魔の利剣と化した。

二つの骨壷を抱いて帰国の途に着く千恵蔵の遣る瀬ない表情。ひょんな事から仲良くなった少年が千恵蔵に近寄り「おいらも、大人になったらおじちゃんみたいな槍持ちになるんだ」と朗らかに言う。それを受けた千恵蔵が「黙れ小僧。槍持ちなんかになるんじゃねえ」と厳しく突き放す。おじちゃんの馬鹿ー。涙を含んだ少年の叫びが胸を打つ。幼い心には千恵蔵の心情は理解出来ないのだ。幾ら仇敵を討ち果たしたところで、死んだ者が生き返る訳ではない。心優しい主人と陽気な相棒を一時に亡くした千恵蔵の哀しみと無念。仇討ち成就の表彰状を貰った所で、こんな紙切れが果たして何になると言うのか。敵討ちの虚しさを痛烈に感じさせる見事なラストシーンである。剣戟スターとして名を馳せた千恵蔵だが、意外にも立ち回りは苦手だったそうである。時代劇の華は何と言ってもチャンバラシーンにあるが、千恵蔵の場合は他の要素に力を注いだ作品に意欲を燃やした。この映画も千恵蔵好みの異色の時代劇に仕上がっている。

(2004/06/06)

『三匹の侍』

先日。衛星放送で『三匹の侍』(1964年公開)を観た。

当時人気を博していたTV時代劇の映画化。五社英雄の監督デビュー作でもある。俺は五社時代劇を何本か観ているが、辻褄の合わない脚本の作品が多く、その点が大いに不満であった。幾ら剣戟場面に工夫を凝らした所で、話の造りや登場人物の掘り下げがいい加減だと、映画は盛り上がりに欠けてしまう。物語性と活劇性の歯車が合致した時、初めて映画は滑らかに走り始めるのである。さて、この作品はどうか。

黒澤明が『用心棒』(1961年)『椿三十郎』(1962年)を放ち、時代劇に新風を吹き込んでから間もない頃の映画である。作品の随所に黒澤時代劇の影響を色濃く感じさせる。主役3人が百姓の味方をする辺りは『七人の侍』風味と言えようか。三大風来坊のリーダー格を丹波哲郎が雄々しく演じている。剣の腕が立つのは当り前。それなりに知恵も回り、ユーモア感覚にも秀で、勿論義侠心も備えていなくてはならない。流石に世界のミフネには及ばぬものの、丹波先生の豪放演技も悪くない。台本を覚えるのが面倒で、ついには蜜柑の皮に台詞を書き込んだという伝説を有する先生だが、この映画に限っては長い台詞も淀みなくこなしている。

丹波の対極に位置するキャラクターが平幹二郎である。平も正義感に富んだ快男児だが、それを他人に見せるのが恥かしいので、精一杯冷血を装っている。この男、悪代官の屋敷に居座る食客…つまり丹波の敵側の人間として登場する。勝ち目のない農民に加勢する丹波の英雄的行動をせせら笑いつつ、腹の中ではその心意気に共感しているのだ。徹底的に傍観者の立場を決め込んでいた平が、手負いの丹波を救うべく、ついに愛剣を引き抜く。その瞬間のカタルシス。このニヒル(死語?)な浪人役が評判を呼び、平の知名度を一気に高めたそうである。そして、丹波と平の中間点に立つ侍に長門勇が扮している。刀よりも槍の扱いに長けており、集団戦闘の際にはその技能が最大限に発揮される。長門の演技がやや硬質で、コメディリリーフの役割を果たしていないような気もするが、一見弱そうなオヤジが実は物凄く強いというパターンはいつ見ても気持ちが好い。本人の証言によれば「俺は百姓の生まれなんだ」そうである。菊千代の分身をここにも発見。

丹波、平、長門の最大の敵となる悪代官が余りにも類型的で物足りない。魅力的な主人公を創造した段階で作り手は満足してしまったのであろうか。強烈な悪の存在が時代劇(活劇)には絶対に必要なのである。前半から中盤にかけては、まるっきり『用心棒』だったが、それ以降は五社独自の趣向も組み込まれている。それぞれの侍に女が絡み出す辺りは、五社の独壇場だ。ストイックな黒澤時代劇との決定的な違いがここにある。三強豪の結集を持ってしても悪の根源は滅びないという幕切れや、指導者を失った弱小集団の卑屈な態度等、後味は悪いが、その分、極めて強いリアリティを感じる。丹波達の他にも食い詰め浪人が多数登場するのがこの作品の特徴である。カネの為には、生き残る為には、非道な行為も辞さない彼らの姿に、再就職に喘ぐリストラ会社員の姿がダブった。俺だって、いつあのザマに陥るかも知れないのだ。とても他人事とは思えなかった。チャンバラシーンの迫力は今ひとつだが、ホンモノの剣豪でもある丹波先生の太刀裁きは見物である。そして何より、粟粥が良い。腹を空かした先生が豪快に粥を啜り込む場面が忘れ難い。実際の粟粥はそんなに旨いものではない(と言うより不味い)だろうが、あの時、それは世界最高の御馳走に見えた。

(2004/06/03)

『やさぐれ刑事』

先日。ビデオで『やさぐれ刑事』(1976年公開)を観た。主演は原田芳雄。

パッケージに刻まれた「俺はもう刑事(デカ)じゃない、狂犬(イヌ)だ!」という物騒な惹句がイカす。

芳雄が野獣のような元刑事を熱演している。イーストウッドの『ダーティハリー』(1971年)の亜流と言ってしまえばそれまでだが、凶暴性&異常性はこちらの方が数段上である。主要登場人物の紹介から人間関係の説明まで、とにかくテンポが良い。雪の札幌から映画は始まる。大物ヤクザ高橋悦史が単身乗り込んできたのだ。芳雄と高橋の間にはただならぬ因縁が存在している。互いに宿敵と認め合う2匹の狼が空港の待合室で睨み合う。竜虎対峙の迫力。いずれかが息絶えるまで、闘い続けなくてはならない相手なのだ。

先手を取ったのは高橋であった。直接芳雄を狙うのではなく、その奥さん(大谷直子)を巧みに誘惑する高橋。ついには彼の情婦に成り下がってしまう。ヤクザをぶん殴る事にしか興味のない夫に直子は前々から不満を覚えていた。そのスキを高橋に衝かれてしまったのだ。芳雄がそれに気づいた時、既に2人は逃亡を図っていた。妻を寝取られた惨めさと直子の裏切りが芳雄の体内に眠る「スイッチ」を作動させた。畜生っ。高橋の野郎、ブッ殺してやる!恐ろしい雄叫びと共に警察手帳を引き裂く芳雄。かくして、ターミネーター級の追撃マシンが北の大地に誕生した。日本列島縦断、バイオレンスの旅。怨念と殺戮に満ちた物語の幕が開く。これこそ、俺の観たい、いや、俺の観るべき映画である。世界の中心で愛を、叫んでいる場合じゃないって。

青森の売春窟で芳雄と直子はあっさりと再会する。高橋の仕込みが良いのか何なのか、妻はもう一端の娼婦と化していた。最初は驚愕の表情を見せていた芳雄だが、すぐに不敵な顔に戻る。そして、直子に痛烈なビンタを食らわせると、力任せにベットに押し倒す。俺って、セックスがヘタなんだってさ。だからお前も逃げたのか?ネチネチと嫌味を言いながら、自分の妻を舐めるように犯す芳雄。まさにやさぐれ。まさにケダモノ。許して下さい。殺して下さい。直子の悲痛な願いも叫びもこの怪物には全く通用しない。許さん。絶対に許さん。ふと『その男、凶暴につき』(1989年)のある場面を思い出した。ヤクザにクスリ漬けにされた妹をたけしが撃ち殺す場面である。だが、やさぐれ刑事は武士の情けなどという高級な思考は持ち合わせていないのだ。この後、芳雄は直子をヤクザとの繋ぎ役や情報収集要員としてとことんまで利用し尽くすのである。直子としては骨の髄までしゃぶられた形だ。無惨。

エロフィルム(直子出演)鑑賞に夢中の田舎ヤクザを事務所(パチンコ屋の2階)ごと爆殺した芳雄は、相馬→東京→神戸→鹿児島と各地転戦を繰り返す。旅の途中から復讐戦よりもゲリラ活動の方が面白くなってきたらしく、芳雄はヤクザ掃討作戦を嬉々として進めてゆく。幹部の脳天をブチ抜いた挙句に車もろとも崖下に突き落としたり、麻薬取引を徹底的に妨害したり、激しい銃撃戦の末に暗殺者を返り討ちにしたり…芳雄自身、現役時代よりも遥かに充実感を感じているに違いない。制約から開放された刑事はヤクザ以上に凶悪である。ここまでくると、どちらが善でどちらが悪なのかわからなくなってくる。上映時間が74分しかないので、物語は激流の如き猛スピードで突き進んでゆく。無駄な寄り道をしている暇など何処にもないのだ。芳雄の行動パターンも、飯を食っているか、女を抱いているか、人を殺しているかの三つぐらいしかないという忙しさ。たった1人の敵にいいように振り回されているヤクザ達のマヌケ振りが気になるが、不満と言えばその程度か。芳雄の魅力爆発の痛快ノンストップ・アクション。

(2004/06/02)

『霧の旗』

先日。図書館で『霧の旗』(1977年公開)を観た。

山口百恵&三浦友和主演映画の第6弾。通常なら俺には縁のない映画である。しかし、原作が松本清張である事、出演者に怪物・三國連太郎の名前が刻んである事が俺の食指を動かしたのだった。当時人気絶頂の百恵を配したアイドル映画ではあるが、同時に優れた清張映画でもあった。巷間では最高傑作と称される野村芳太郎の『砂の器』(1974年)などより遥かに面白いような気がした。ところで、ある資料によると、かの黒澤明も清張原作の映画を撮ろうと準備していたらしい。その詳細は…別の機会にしたいと思う。

百恵が三國の運営する弁護士事務所を訪ねて来る所から映画は始まる。彼女唯一の肉親である兄貴が警察に逮捕された。高利貸しの強欲婆さんを撲殺した罪である。兄は無罪を主張するが、状況証拠が揃い過ぎており、刑務所行きは間違いない。それどころか極刑に処せられる可能性すらあるという。お兄ちゃんを救えるのは三國先生しかありません!そんな百恵の懇願に対して、三國の対応は至って冷静である。彼は政財界にも顔の効くスター弁護士である。当然報酬の方も高額であり、百恵に払い切れるような金額ではない。彼女の依頼をやんわりとした態度で応じ、最終的にはキッチリ断る三國。それに俺は忙しいんだ。無論浮気にである。これから俺は当の女に会いに行くところなのだ。美人だろうが何だろうが、田舎娘の相手をしていられるほど俺は暇じゃないのだ。

結局、百恵の兄は獄死する。その後、百恵は上京して水商売に身を窶す。彼女の目的は三國弁護士への復讐である。その好機を彼女は虎視眈々と窺っている。弁護士は別に正義の味方ではない。弱きを助け、強きを挫く…そんなものはフィクションが作り出した幻想である。そして、三國が百恵の依頼を引き受けようが、断ろうが、それは彼の自由である。だが、怨みの矛先はピタリと三國の咽喉元に向けられて離れない。三國もえらい女に狙われたものだ。弁護士というのも因果な商売のようである。三國を破滅に追い込む材料を「偶然」仕入れた百恵は、早速復讐作戦を開始する。彼女は梶芽衣子やユマ・サーマンのように暴力は使わない。氷の如き冷徹さと鋼鉄の信念が彼女の武器である。敵に回すと本当に恐ろしいのはこのタイプかも知れない。百恵に惚れている週刊誌記者(勿論友和)の説得も求婚も彼女は全く受けつけず、着々と計画を進めてゆく。アパートに戻った百恵が、以前に友和から貰った3通の手紙をビリビリと引き裂く場面が強烈である。それは彼女が復讐鬼として生きる無言の決意表明のように思われた。手紙というのが解り易くて良い。無味乾燥の電子メールじゃあこの風情は出ない。

百恵の兄を関口宏が演じている。オーバーアクションがいちいち鼻につくが、TVで見せる嫌味な司会者振りよりもこちらの方がマシに感じた。それに中々美味しい役所である。なにしろ百恵の愛は友和ではなく、彼に注がれているのだから。土砂降りの中、天下の三國連太郎が土下座をして誤っているのに、それでも百恵は許さない。彼女の執念と冷血さは一体何処から来るのか?兄妹愛を超えた「何か」を百恵は関口に抱いているとしか、俺には考えられないのである。脚本が丹念に書き込まれており、物語に無駄がない。ホンさえ良ければ、主演が大根でも充分鑑賞に堪える映画が作れるという好例である。初々しさの残る百恵&友和の表情と三國のヴァイタリティ溢れる演技が一緒に楽しめるお得な作品だ。

(2004/05/30)

『雪崩』

先日。衛星放送で『雪崩』(1970年公開)を観た。日本未公開の映画。

物語の冒頭。両手を縛られた2人の男が走っている。伊達や酔狂で走っているのではない。彼らは逃げているのだ。恐ろしい追手の眼を眩ませるべく、少しでも距離を稼ごうとしているのだ。ギラギラした形相と焦り振り。脱獄囚だろうか。それとも脱走兵であろうか。その正体はよく解らない。この「よく解らない」というのが、この映画の持ち味である。作品全体に「よく解らない」人物や状況が散りばめられており、観る者の混乱と不安を誘う。無論ワザとだ。舞台や人物の背景が不鮮明な分、観客の想像力を膨らませる余地があるという訳である。客の教養次第で好きなように深読みが出来る。そういう意味では非常にユニークな作品だ。

逃げる男達。先頭を行くのは、如何にもアクの強そうなオヤジ(ロバート・ショウ)だ。その後を汗だくの若造(マルコム・マクダウェル)が続く。両者は雪山山頂にある国境線を目指しているらしい。そこまで辿り着く事が出来れば、彼らは助かるのだ。その為にはどんな蛮行を犯そうが平気である。殺人もやれば、泥棒もやる。流石に強姦はやらないが、余裕があったら、しでかしたかも知れない。本能剥き出しで行動する2人の姿は人間というよりケダモノだ。両者の仲が決して良くない。従って、絶妙のコンビプレーが披露される事もない。逃避行を重ねる内に友情らしきものが芽生えそうになるが、結局芽生えずに終るのが面白い。ショウはマクダウェルを足手纏いぐらいにしか考えていない。マクダウェルの方も何かにつけて指図されるわ、バカにされるわで、始終不貞腐れた表情。彼がショウより優位に立ったのは缶詰の開け方を教えた時ぐらいか。ショウ&マクダウェル。曲者俳優の野獣演技に耐えられる者だけが、この映画を楽しむ資格がある。何しろこの世界で台詞を与えられているのは彼らだけなのだから。

ショウとマクダウェルを執拗に追跡する武装ヘリコプターが異様な迫力を放っている。巨大な昆虫を思わせるフォルム。劇中、操縦席が何度も映し出されるが、パイロット達は如何なる会話も交わさない。標的を射程距離に捉えても、攻撃を加えようともせず、その上空をバラバラと旋回するのみである。何がしたいのか。何を考えているのか、さっぱり解らない。解らないが、無駄な抵抗を続ける2人を、高みから嘲笑っているようにも見える。猫が鼠を弄んでいるようにも見える。敵方のふざけた態度に気の短いショウが黙っている訳がない。野郎っ。ナメやがって。ショウはマクダウェルの制止を振り切って、決死の反撃作戦を試みるが…。

主演のショウは脚本も手掛けるという熱の入れようだが、不条理劇の割には上映時間が長過ぎた。途中、ややダレる場面が幾つかあった。プロットが単純なだけに緊張感を保つのに苦労したというのが正直な感想である。思わせ振りな展開も余り度を越えるとクドいものだ。編集の段階で贅肉を刈り込めば、1時間半程度の作品にまとめる事も可能だったのではないだろうか。全篇を殺伐とした雰囲気が支配しているが、腐った缶詰を食べて腹を壊した2人が××を垂れるシーンのみ、ユーモラスな空気が流れる。とても上品とは言えないが、ブラックな味わいの迷場面に仕上がっている。この作品の翌年、マクダウェルはその後の役者人生を決定づける映画&監督と出遭う事になる。その作品のタイトルは…言うまでもないので割愛する。

(2004/05/27)

『世界の中心で、愛をさけぶ』

ガラにもない映画を観てしまった。行定勲の新作『世界の中心で、愛をさけぶ』である。題名からして照れ臭い。女子供向けの恋愛映画。俺は堕落した。理由はどうあれ、観てしまったのは事実。カネを投資したのも事実。俺もヤキが回ったものである。もう長くないかも知れねえな。皆さん。笑って下され。わはははは。

この映画が巷間の話題を呼んでいるのは確かなようだ。いつもはガラガラの場内がほぼ満席の状態だった。最前列に幾つか空席を見つけたのでそれを利用する。ここだと、スクリーンがデカいだけに首が疲れてしまうが、仕方あるまい。ずっと立ちっ放しよりはマシだろう。出入り口に通じる通路にバカな餓鬼どもが座り込んでいた。目障りなので、トイレに行くフリをして踏み潰してやろうと思ったが、失敗した。畜生。今日は何てついてない日なんだ。係員に確認してみた所、これから始まる映画が上映時間2時間半の「超大作」である事が判明。ぐわっ。果たして持つのか?俺の集中力とやらは。

嫌いなジャンルではあるが、映画としてはまずまずの仕上がりであった。ノスタルジックな風景をバックにふつーの少年(森山未來)とスポーツ万能少女(長澤まさみ)の恋愛模様が丹念に描き込まれてゆく。ありきたりの物語と言えばそれまでだが、ラジオの深夜放送やウォークマンや写真と言った小道具が実に効果的に使われており、中々面白い。一寸した工夫を施す事によって、映画というものはこうも変わるのかと感心させられた。若い恋人達の純粋無垢なやり取りは見ていて微笑ましいが、穢れ果てた身の上としては、段々画面を正視しているのが辛くなってきた。拷問に近いぞ。周囲の餓鬼どもは真剣な眼差しをスクリーンに注いでいる。俺は場違いなエリアに入り込んでしまった時特有の居心地の悪さを感じた。

さて、このまま平和に2人が結ばれてしまうと映画にはならない。何か事件が起きなくてはならない。2人の関係を引き裂くような何かが。この作品の場合、それは病気であった。白血病である。少年の恋人は病魔に蝕まれていたのだ。不治の病に侵された少女がジワジワと弱ってゆく姿は痛々しいと言う他はない。俺の一番苦手なパターンである。死ぬなら死ぬでスカッと一撃で死んで貰いたい。男の方も自分の力ではどうする事も出来ない。ただ見守るだけ。変に明るく振舞おうとする辺りが余計哀れである。それにしても癌だの結核だの白血病だのの死病という奴は、どうしてよりにもよって美少女に取り憑くのであろうか。奴らには侵入対象の好みでもあるのだろうか。どうせ取り憑くなら…以下省略。

儚くも美しい物語に、突如アクの強いオヤジが登場すると吃驚する。彼である。山崎努である。少年と少女が住む町に在る写真館の主人だ。年齢を感じさせぬ鋭い眼光。一癖も二癖もありそうな強面のオヤジである。戦闘経験豊富な古強者の迫力を湛えている。時々突拍子もない事を言い出したりするが、根っからの悪人ではないらしい。2人にとっては良き理解者であり、相談役でもある。どうやらオヤジの方も彼らの事を気に入っている様子である。口にこそ出さないが。この役を山崎が流石の貫禄で演じている。彼が画面に現れるとその場の雰囲気がぎゅっと引き締まるのである。まさにベテランならではの味わい。これこそが山崎の本領なのである。この前の『死に花』のマイナスはこれで帳消しにしておこう。劇中「人殺し以外なら何でもやったぜ」「遺された者が出来るのは後片付けしかない」等の言葉が出てくるが、こういう台詞を吐いてサマになる俳優が最近少なくなってきた。山崎努67歳。体力と意欲が続く限り、役者稼業に打ち込んで貰いたい。後輩や若手をビシビシ鍛えて貰いたい。そういう積み重ねが日本映画の存続に繋がると、俺は信じている。

誉めてばかりいるのも悔しいので文句をふたつ。現在の主人公(大沢たかお)の恋人役を柴咲コウが演じている。しかし、これが全く不要なキャラクター。柴咲は『バトル・ロワイアル』で鎌を振り回していた頃からのファンではあるが、彼女の出演作全てを無条件に賞賛する程、俺はお人好しではないのだ。まあ。不要というのは言い過ぎかな。でも彼女に関する設定には相当無理がある。公開中の作品なので詳しい説明は避けるが、感動を高めようとホンを凝ったのが裏目に出てしまった感じだ。あと、平井某(えらい人気者らしいね)が歌うテーマソングだが、はっきり言って、物語を盛り上げるに足るレベルには達しておらず、これも減点。

(2004/05/25)

『ハリーの災難』

先日。衛星放送で『ハリーの災難』(1954年公開)を観た。監督は巨匠アルフレッド・ヒッチコック。

ミステリー映画の大家として、映画史にその名を刻み込んだヒッチコック。イギリス時代の作品群が認められたヒッチコックがハリウッドに引き抜かれたのは1939年頃の話である。現在でも余り変わらないと思うが、かの映画工場ではプロデューサーの権限や意向が絶対的である。監督は映画という製品を作る工場長に過ぎないのだ。仕上がった商品をプロデューサーが加工したり修正(修悪?)したりする事などザラである。ヒッチコックもこのハリウッド特有の体質には随分悩まされたようである。監督だけではなくプロデューサー業にも乗り出したのはそれ故である。自分の作りたい映画を作る。当り前の事のようだが、これが中々難しい。その「当り前の状況」を構築する為にヒッチコックは大変な時間と労力を費やしたのだった。

評価に迷う不思議な映画である。内容としては同じ死体を埋めたり掘ったりの繰り返し。物語性は希薄で、いつものスリリングな展開は期待出来ない。小道具の使い方の巧みさや、全篇に溢れるブラックユーモアは健在だが、やはりこれは失敗作の部類ではないだろうか。公開当時の評判は散々なものであり、興行収入も芳しくなかったという。しかし「やりたいようにやった」という点では群を抜いている。ヒッチコックは自作の中で様々な種類の殺人を描いてきた。殺人が起これば当然死体が地面に転がるが、この映画の真の主人公はその死体なのである。登場人物も奇妙な連中だ。彼らは死体に遭遇しても変に落ち着いている。だからなんなの?それがどーした?てな感じである。不条理な雰囲気。そこが面白いと言えば面白い。ヒッチコック本人によるヒッチコック映画のパロディのようにも見えてくるのである。監督自身はこの作品を大層気に入っており、売り込みの為に各国を訪問したそうである。その折「殺人は喜劇だ」という台詞を連発していたとか。

勤め先の後輩にN(暗号名・三池典太)という男がいた。この典太も映画が好きだった。特にサスペンス映画に造詣が深く、ヒッチコックの熱心なファンであった。休憩時間や営業車の中で映画談義に耽った覚えがある。ある年の年末。忘年会の席で「あんたの一番好きなヒッチコック映画は何だ?」という俺の質問に対して、典太は真っ先に『ハリーの災難』を挙げたのだった。ベロベロに酔っ払った典太が「絶対観て下さいよ」と力説していたのが印象的だった。数あるヒッチコックの作品群から、敢えてこの怪作を選ぶとは…。如何にも奴らしいユニークなセンスである。そんな典太がこの世を去ってからもう2年以上になる。帰宅の途中、大規模な交通事故に巻き込まれたのだ。生きるべき典太が死に、死んだ方がいいような俺が生きている。ヒッチコック映画じゃないが、世の中も皮肉でいっぱいだ。この作品の出来なんて本当はどうでも良かったのかも知れないな。ようやく典太との約束が果たせた事が単純に嬉しかった。それだけで充分である。

(2004/05/23)

『宮廷料理人ヴァテール』

先日。衛星放送で『宮廷料理人ヴァテール』(2000年公開)を観た。

主人公のフランソワ・ヴァテール(ジェラール・ドパルデュー)は実在の人物である。俺には全く馴染みのない名前だが、フランスではかなりの有名人らしい。歴史上の逸材という訳だ。かの『三銃士』の中にもヴァテールの名が刻まれているという。料理と芸術。両方の才能に恵まれた価値ある男である。日本で言えば千利休のような人物であろうか。この映画におけるヴァテールは主君への忠誠心極めて厚く、部下からも慕われており、芸術家特有の偏屈さは見られない。但し、自分の仕事や作品に対する執念は尋常ならざるものがあり、その性格が彼の命運を大きく左右する事になる。

ヴァテールの主たるコンデ大公(ジュリアン・グラヴァー)はある罪によって、国政から遠ざかっている。この状況を何とか挽回しようと、大公はルイ14世(ジュリアン・サンズ)と一族郎党を居城シャンティイに招待する。3日3晩に及ぶ大宴会を開催するのだ。この超弩級接待に成功すれば、或いは王宮復帰がかなうかも知れない。一か八か。起死回生の作戦だ。その総指揮を大公は第1の側近たるヴァテールに任せた。大公から受けた恩義を返す好機到来。糞真面目なヴァテールは大いに張り切るが、問題は山積みだ。毎日毎日働きもせずに美食と遊びに明け暮れている貴族どもを満足させる事が出来るのかどうか。殿様はこのイベントに全財産をぶち込んでいる。もし国王の不興を買えば、王宮復帰どころか家臣一同首を括るハメになる。ヴァテールは持てる才能を全開放して、決戦に挑む。

劇中、カメラはシャンティイ城とその敷地内から一歩も外に出ない。絢爛豪華な密室がこの物語の舞台となる。城内の各種設備と饗宴の様子。当時の料理法やら風俗やら流儀やら芸術やらが実に丹念に描き込まれている。この壮大な歴史映画実現の為に40億円の巨費が投じられたそうな。カネをかければ良い映画が出来るという保障は何処にもないが、一部のスキもない煌びやかな映像は観る者を驚嘆させるだろう。この種の映画は、TVの小さい画面には勿体なさ過ぎる。やはり劇場の大スクリーンで観なくては。更に贅沢を言うと、エンドクレジットの途中で帰り出す野蛮人との同席は避けたい所だ。豪奢な映画美術を心ゆくまで堪能したい。天才ヴァテールをドパルデューが熱演している。巨躯の持主たるドパルデューが汗だくで調理場やイベント会場を奔走する姿は何やらユーモラスである。映画では余り語られる事はないのだが、ヴァテールは平民出身である。生まれは最下層の階級らしい。故に頭の悪い貴族連中にからまれたり、不当な言葉を浴びせかけられたりする。そんな時もヴァテールは静観を保っている。冷やかしや罵詈雑言にもぐっと耐え、己が剣の主たるコンデ大公に与えられた任務を我武者羅にこなすのみである。ドパルデューの頑強な腕力なら、不良貴族の一人や二人、即座に叩きのめすのは可能だろう。だが、それが実行される事はない。バカにかまっている時間など彼にはないのである。それにしても連中の下品な振る舞いは目に余る。所詮は貴族なんてこの程度なのか。国王陛下の教育もなっていない。未来の重臣がこの有様じゃあ、誇り高きフランスも滅びかねんぞ。過密スケジュールに忙殺されているヴァテールの唯一の救いが女官アンヌである。これに『キル・ビル』の壮絶演技で一躍名を売ったユマ・サーマンが扮している。色んな映画に出ている人だ。彼女のフィルモグラフィを調べてみると、実に多彩なキャラクターを演じている。作品選びがユニークと言うか面白いと言うか、役者稼業を存分に楽しんでいるように見られる。この映画におけるサーマンも段平を振り回す事こそないが、印象深い演技を披露している。無表情な顔の下に誠実な心を隠した女性。まさにヴァテールに相応しい女である。時代劇とは言え、このような格調高い芸術映画にまさか剣戟場面はないだろうと予想していたが、物語の終盤にちゃんと用意されていたので驚いた。酒と女食に溺れるだけが貴族の務めではないらしい。彼らが愛用しているレイピア(細剣)は日本刀や大剣に比べるとやや迫力不足だが、正式な訓練を積んだ者が使えば恐るべき威力を発揮する。拉致されかけたヴァテールの救出に駆けつけた一団が、与太者の肉体をレイピアでブスブス貫く場面は強烈であった。

登場人物は多いが、物語の構造自体はシンプルであり、西洋史に疎い者(俺です)でも充分楽しめる作品に仕上げられている。ただ主人公の下した最後の決断に関しては、正直不満を覚えた。ヴァテール程の男がああも簡単に職場放棄とも取れる行動をするだろうか?史実を勝手に変更する訳にはゆかないので仕様がないのかも知れないが、誰もが納得可能な理由を作っておけば、この映画の完成度は更に上がった事は間違いない。

(2004/05/22)

『三銃士』

先日。図書館で『三銃士』(1921年公開)を観た。

古い映画である。無声映画である。映像の痛みがかなり進んでいる。復旧作業に携わったスタッフは相当苦労したと思われる。俺が観たソフトは完全なサイレントではなく、数種類のBGMが追加されており、飽きっぽい奴が退屈しないように配慮されている。オリジナルにこだわる人には五月蝿く感じるかも知れないが、その時はミュート機能を作動させればよろしい。

お馴染みの物語。陰謀渦巻くフランス宮廷。銃士隊入団を夢見る田舎貴族の息子ダルタニャン。思慮には欠けるが、義侠心に富んだ快男児の活躍が始まる。カメラは常に被写体の正面に据えられており、最初から最後まで落ち着いた雰囲気が楽しめる。単に撮影当時は「カメラを動かす」という発想や技術がなかっただけなのかも知れないが。カチャカチャとせわしない映像に食傷している現代の観客には、このシンプルさが新鮮に映るのではないだろうか。活動写真独特の味わい。

役者の演技は、どうしてもオーバーアクションにならざるを得ないが、実に巧みである。字幕がなくても登場人物の感情や何を言っているかが大体判るぐらいだ。出演者の唇が動いているのが見えるが、あれはやはり台本を喋っているのだろうか。とにかく彼らが芸達者なのは確かである。台詞を棒読みするしか能のない学芸会役者は反省せよ。

女優陣は美形俳優が揃えられており、この冒険活劇に華と色気を添えている。一方、主人公を演じるダグラス・フェアバンクスは当時最高の剣戟俳優として名を馳せた大物だが「長髪のヒットラー」のような容貌にやや違和感を覚えた。俺の脳味噌には、昔、NHKで放送していたアニメ版『三銃士』のイメージが強烈に刷り込まれており、ダルタニャンと言えば「少年の面影を残す青年剣士」になってしまっているのだ。固定観念というのは中々に払拭し難い。この映画のダルタニャンの方が原作のそれに近いのは明白なのだが…。

活劇の面白さとエッセンスが全篇に漲っている。クライマックスでは、宿敵リシュリューが太っ腹な所を見せて、堂々たる貫禄を示してくれる。こういう懐の深い悪役が好きである。そうでなければ主人公の個性に対抗出来ない。強力な悪役の存在が正義のヒーローの魅力をより際立たせるのである。悪役が描けないという事は、主役も描けないという事なのだ。凡庸活劇映画は猛省せよ。大団円の場面では、恥かしながら感動に身が震えるのを感じた。80年以上前の作品。監督もスタッフも俳優も、恐らくこの世に残っていないだろう。だが彼らの作り出した輝きは永遠である。映画って素晴らしい。

(2004/05/22)

『オーシャンズ 11』

先日。図書館で『オーシャンズ11』(2001年公開)を観た。

この映画は1960年公開の『オーシャンと11人の仲間』(主演はフランク・シナトラ)のリメイクらしい。俺としてはオリジナルヴァージョンの方が興味があるが、まあ、今はそれを言っても仕様がないので止めておこう。

主人公のジョージ・クルーニーが刑務所から仮釈放される場面から物語は始まる。クルーニーは名うての泥棒。正義の味方になったり、盗賊になったり、忙しい人である。前回の仕事ではドジを踏んでブタ箱に放り込まれたが、無論改心する気などサラサラない。恐らく服役生活の間も次なる計画をずっと練っていたに違いない。ムショを後にしたクルーニーはアトランティック・シティ(カジノで有名。モノポリーのモデルにもなった街だ)に向う。

クルーニーの目標はラスベガス。街に聳える三大カジノのアガリを丸ごと戴いてしまおうという大胆な作戦だ。これを実行&成功するには強力な仲間が要る。クルーニーまずギャンブラーのブラッド・ピットを参謀に迎えて、その意見を聞きながら「侍集め」に取りかかる。この2人を『七人の侍』に置き換えるとすると、クルーニーが勘兵衛、ピットが五郎兵衛と言ったところか。両名は特に苦労する事もなく、着々とメンバーを揃えてゆく。スリ、古狸、車屋、電気屋、爆弾屋、軽業師等々…どれも自分の技術には絶対の自信を有している奴ばかりだ。こういう連中を束ねるのは骨が折れそうだが「1億6000万ドルを均等に山分け」という条件の前に不平不満を吐く野郎は一人もいないのであった。

このプロフェッショナル集団の最大の敵となるのが、アンディ・ガルシアである。ガルシアはラスベガスを牛耳る真の支配者である。かの3大カジノを掌中に収め、超豪華なホテルも経営している。ついでにクルーニーの元奥さん(ジュディア・ロバーツ)をも愛人にしており、周囲の羨望を一身に集めている。当然反発者も多いだろうが、ガルシアはそれを強引に捻じ伏せてきたようだ。己に敵対する者は親類縁者も皆殺しというのが、ガルシアのやり方である。彼の残虐非道な性格は闇社会でも轟いている。実に恐ろしい男だが、劇中、その「恐ろしさ」が発動する場面が1度もなかったのは不思議であり、残念でもあった。強烈な悪役の登場を思わせただけに、落胆の度合も大きい。

悪党vs悪党の対決の割には全体的にお上品である。死力を尽くした一大攻防戦!を望む客には、この程度では食い足りないだろう。逆に血の嫌いな人には最適の作品に仕上がっている。登場人物もストーリーの展開も解り易いし、コーヒーか軽めの酒でも味わいながら楽しむには打ってつけである。出演者はかなり豪華な顔触れだが、やはり話の中心はクルーニー、ロバーツ、ガルシアの3人に絞られてくる。準主役のピット君はやや損な役回り。大した見せ場も与えられておらず、登場する度に何かを食べている事ぐらいしか印象に残っていない。アクションシーンもほとんど無いし、撮影後、相当贅肉が増えたのではないか。

完璧な予定調和を見せて、物語は幕を閉じるかに見えたが、意外にもラストシーンに微量の毒が仕込んであった。これは続篇へと繋がるブリッジであろう。クルーニー軍団に思い切りコケにされたガルシアの反撃作戦に期待しよう。

(2004/05/20)

『修羅の蛮王』

先日。深夜放送で『修羅の蛮王』(2001年8月リリース)を観た。Vシネマ特有の生臭い題名が良い。修羅という言葉もものものしいが「蛮王」という造語(だよね?)も物騒な感じがして良い。主演は哀川翔。

哀川が几帳面な復讐鬼を演じている。昼間はダメ社員、夜は殺人機械という二重生活を送っている。過密スケジュール。睡眠時間は短いだろうし、ストレスも溜まる一方であろう。だが超人哀川は不可能の文字を知らない。愚痴も零さず、呪われた道を黙々と進んで行く。時々、同僚の女子社員に言い寄られたりするが、肝心な所ではぐらかしたりして、相手にしない。復讐一筋の真面目な人生である。

ヤクザ、銀行、建築会社、哀川の殺戮目標はこの三つの組織に潜んでいる。宿敵の現在のポジションを調べ上げ、一人ずつ確実に消去してゆく。殺しの場面は基本的に薄暗くて、哀川の表情はよく見えないのだが、物語の後半、処刑を行う彼の顔が鮮明に確認出来る部分があった。睡眠薬を飲ませた標的を風呂に沈めて窒息死させるシーンである。画面一杯に哀川の顔が大写しになる。凄い顔であった。鬼気迫る顔であった。気の弱い奴ならこの形相を見ただけで死ぬのではないのか。いつのまに哀川は貞子クラスの迫力を身につけてしまったのか。恐ろしいな。激烈な人気競争が繰り広げられるVシネマ界で一大勢力を張っているだけの事はある。

哀川の過去を追跡する不良刑事に石橋蓮司が扮している。「カネさえ貰えれば、俺はそれでいい」それが蓮司の口癖である。こういう台詞を吐く人物に限って、本当はいい奴だったり、正義感が強かったりするものだが、蓮司の場合は「その通り」だったので驚いた。この男の頭の中にはカネとギャンブルしかないのである。蓮司の演(や)る役はこんな役ばっかりである。物語の終盤、蓮司は哀川の稼いだ17億円を横取りしようと企むが、見事に失敗。哀川の反撃を受けて、虫ケラのように焼き殺されてしまう。悲惨な場面だが、その際の蓮司のジタバタ振り―待てっ。哀川っ。待て待て待て待て待てええええ―が可笑しくて、思わず笑ってしまった。深作映画の名脇役たる室田日出男も登場。仇敵の一人を憎々しく演じていた。ゲッソリ痩せて、顔色も悪かったが、往年の凄味を残していたのは流石であった。哀川との直接対決が用意されていないのには拍子抜けしたけど。

復讐や敵討ちは活劇映画の定番とも言うべきテーマだが、自分の目標をずーっと保ち続ける事が出来る主人公の持続力には脱帽するしかない。哀川の目標は、ずばり「親の仇を討つ」事だが、その因縁が発生したのは、彼の子供の頃である。もう30年も前の話なのである。30年だぜ。復讐計画を立ててから、それを実行に移すまでに哀川は血の滲むような努力を積んでいる筈だ。彼は仇敵の経営している一流銀行に就職した。誰でも入れるような企業ではない。学生時代は勉学に励んだ事だろう。その合間を縫って、変装術や話術の特訓もしなくてはならない。商売のコツや交渉術、話術も習得しなくてはならない。勿論、人の殺し方も練習しなくてはならない。度胸も要るし強運も要る。更にこの計画には大変なリスクが伴う。途中で官憲に捕まれば、間違いなく死刑であろう。例えそうならなかったとしても、生涯を獄中で過す身となるのは避けられまい。膨大な時間と労力の投入。復讐とはそんな危険を冒してまで果たさなくてはならない行為なのだろうか。それとも人間の恨みや怨念は年月を重ねる毎に増大するものなのか。だとしたら注意が必要だな。世の中、他人の気持ちを土足で踏み躙った挙句に、平気な面で歩いている輩が沢山いるけど、気をつけた方が良さそうだぜ。手前が年寄りになった時、或いはそれなりの幸せを掴んだ時、ふらっと「哀川翔」が目の前に現れたとしたら…あんた、どうする?

(2004/05/18)

『Go!』

昨年。衛星放送で『Go!』(2001年公開)を観た。

ややこしいタイトルである。窪塚洋介主演の映画と混同する奴が出てきてもおかしくない。偶然なのか何なのか公開時期も近かった。おまけにこちらの方にも山崎努が出演しているので、余計にややこしい。山崎自身「似たような題名の仕事が続くなあ」と考えていたのではなかろうか。それともワザとかな?そう言えば『魔界転生』がコケて以来、窪塚の名前をとんと聞かなくなったが、最近は何をしているのだろうか。相変わらず週刊誌のカメラマンを蹴飛ばしているのだろうか。映画界に復帰する心算があるなら、早くしないと、すぐに忘れ去られてしまうぜ。

こちらの主人公は窪塚ではなく(当り前だ)高田宏太郎が演じている。不覚にも、この人の事を全然知らなかった。何でも「カリスマ高校生」と呼ばれている(いた?)らしいが、一体何者なのであろうか。カリスマという言葉は近頃余り信用出来ない。カリスマ君の俳優としての才能は未知数である。この映画に限っては、悪くない印象を受けたが、宏太郎に役者を続ける意欲があるのかどうか。美少年とは言い難い風貌である。しかし、野性的な面構えではある。本人の努力次第では、ある程度の成功は望めるのではないか。

宏太郎は平凡な高校生。例によって父親はいない。両親は1年前に離婚しており、宏太郎は母親(美保純)の下で暮らしている。美保は敏腕編集者。女としても枯れておらず、早速料理好きの男(松重豊)を家に連れてきたりする。宏太郎はそんな家庭環境にウンザリしているようだ。畜生。面白くねえな。そんなイライラを抱えながら、宏太郎は今日も夜の街をスクーターでぶっ飛ばす。アルバイトである。ピザ屋の出前が彼の小遣い稼ぎなのである。

どかーん。ある夜。宏太郎は接触事故を引き起こす。相手の女性(椋木令子)に怪我はなかったが、彼女の持っていたカメラのレンズを壊してしまう。その時の謝り方が滅茶苦茶ヘタで、椋木の怒りはかえって増幅。とにかくレンズを弁償しなくてはならない。修理代調達に奔走するが、とても高校生風情が作れる金額ではない。改心した宏太郎を哀れに思ったのか、椋木は「もうお金はいいわ」と告げる。それでは気が済まないという宏太郎に、彼女は暫く考えて「じゃあ。君の拵えたピザを私の家に届けてくれないかしら」と言う。宏太郎は配達をした事はあるが、ピザを焼いた事はない。至急店に戻り、特訓開始である。この時点で、宏太郎が椋木に惚れているのは明らかだ。年上好みのませた餓鬼である。困ったもんや。

宏太郎は旅に出る。憧れの女性にピザを届ける為に。椋木は故郷の長崎にいるらしい。無論、ピザの配達は口実だ。真の目的は別にある。ただ、あれだけの美人である。既に男がいてもおかしくない。それが心配だ。その事はなるべく考えないようにして、宏太郎は愛車(配達用スクーター)を走らせる。そんな彼の前に次々と災難が立ちはだかるのだった。果たして、少年は無事長崎に着く事が出来るのだろうか?

…という訳で風変わりなロードムービーが展開する。旅の行方を見守る正体不明のハーレー男に山崎が扮している。こういうクセのある人物を演(や)らせると、山崎は抜群に巧い。時々意味深長な台詞を吐くが、その内容を理解可能な者は誰もいない。喋っている本人もわかっているのかどうか怪しいものである。当の宏太郎もこの男を持て余し気味なのが面白い。まあ、派手なコスチュームに身を包んだ山崎が大型バイクで追いかけてきたら大抵の奴は吃驚するだろうな。怖いって。

そんな山崎が少年の守護神として起動する場面が後半に用意されている。恐らく、あれがこの映画最大の見せ場であろう。山崎の他にも、宏太郎が一宿一飯の世話になる自動車修理工場のオヤジ(苅谷俊介)も良い味を出していた。それにしても登場人物が皆真面目である。真面目過ぎてこちらが照れちゃうぐらい。脚本にも作風にもそれが感じられる。映画に「毒」を求める向きには一寸物足りないかも知れないが、たまにはこういう純情映画もいいんじゃねえの。毎日アクの強い料理ばっかり食べてると、お腹壊しますよ。

(2004/05/17)

『サムライ』

先日。衛星放送で『サムライ』(1967年公開)を観た。

殺し屋映画の傑作である。端正な磨き抜かれた映像が実に魅力的だ。贅肉を削ぎ落としたかのような脚本も見事であり、出演陣の抑制の効いた演技も心地好い。雨に濡れたパリ市内の頽廃的美しさ。主人公が愛用する鍵束(路上駐車の車を奪う時に使う)を始めとした小道具の面白さ。そして、全篇に流れるクールな雰囲気。何もかもが一級品だ。寡黙な暗殺者にアラン・ドロン。この前年、ドロンは犯罪ファンタジーの名作『冒険者たち』にも主演しており、まさに脂の乗り切っていた時期の映画と言えるだろう。ドロン自身、役者として最高の充実感に浸っていたに違いない。

映画の前半、早速殺しの場面がある。標的を鮮やかに仕留めたまでは良かったが、現場から離れる際、ドロンは多くの人間にその姿を目撃されてしまう。たちまち警察の包囲網が張り巡らされる。さしものドロンもそのアミから逃れる事は出来ず、他の容疑者と一緒に拘留される。警察側は九分九厘ドロンが犯人だと睨んでいる。やり手刑事の激しい追及。目撃者一同による首実検。だが、如何なる窮地においても男の表情は変わらない。このしぶとさ。この精神力。男は最後の最後まで諦めるという事を知らない。まるでそれがサムライの宿命だとでも言わんばかりに。

劇中、ドロンの借りているアパートが何度も登場する。殺風景な部屋である。必要最低限の家具と生活用品。テーブルの上に置かれた鳥篭が印象的だ。その中で飼育されている小鳥は、案外ドロン自身の姿なのかも知れない。彼には当然、美しい愛人がいるが、彼女を自分の部屋に引っ張り込む趣味はないらしい。裏切り者の襲撃を受けて左腕を負傷したドロン。部屋に戻り、怪我の治療を行う場面が良い。ザクリと切り裂かれた傷を消毒液で洗い、片手一本で包帯を巻く。その背中にアウトサイダー特有の哀しさが濃厚に漂う。

警察は総力戦の構えでドロンを追う。一方、彼に仕事を依頼したヤクザもその命を狙い始める。彼の存在が組織運営の支障になる恐れがあるからである。表と裏。二大勢力の魔手が男に迫る。最早自分が生き延びる道はなくなった。それを悟ったドロンは血塗られた人生の終焉を飾るべく、行動を開始するのだった。警察の執拗な追跡をかわしつつ、男は何処に向うのか?誰にも迷惑をかけず、自分の起こした不始末は自分の手で決着をつける。その覚悟と潔さに限りない好感を覚えた。パリの闇社会に一瞬閃いたもののふの心意気。確かに見届けたぞ!

(2004/05/16)

『恐怖のメロディ』

先日。深夜放送で『恐怖のメロディ』(1971年公開)を観た。

記念すべきクリント・イーストウッド、長篇映画第1回監督作品。言うまでもないが主演は監督本人である。イーストウッド監督が選んだ最初の題材がサイコ・サスペンスというのが面白い。馴染みの薄いジャンルに取り組んだイーストウッドのチャレンジ精神を買いたい。しかもそれが成功しているのだから凄い。終始落ち着いた演出振りは新人監督とは思えない。イーストウッドの才能が妬ましくなるほどである。真に才ある者は何をやらせても巧いものだ。脚本がよく書き込まれており、監督も腕の振るい甲斐があった筈だ。

イーストウッドが深夜ラジオの人気DJに扮している。彼の番組に毎夜『ミスティ』をリクエストしてくる女がいる。ある晩、その女ジェシカ・ウォルターがイーストウッドの前に姿を現わすシーンから物語は始まる。場所はイーストウッドの行きつけのバーだ。そこのバーテン役として、映画監督のドン・シーゲルが顔を出している。シーゲルはイーストウッドの良き兄貴分と言ったところか。両雄は『ダーティハリー』『アルカトラズからの脱出』等でコンビを組んでおり、互いに気心の知れた中。シーゲルは俳優を目指していた時期があり、今回その時の経験が役立ったのではないか。作品世界の一員として堂々たる個性を発揮していた。この人も才人だ。面構えに説得力がある。

イーストウッドを執念深くつけまわすウォルターの迫力が圧巻である。登場する度に少しづつキ××イ度が増してゆくサマが極めて無気味である。予測不可能なウォルターの行動の数々に、さしもの御大もタジタジである。中盤以降、ウォルターの狂気エンジンがフル回転。イーストウッドの家で自殺を図るわ、大事な商談はブチ壊すわ、家政婦を包丁でブスブス刺すわと、やりたい放題の大暴走を繰り広げる。 ウォルターはもしかしたら怨念の集合体なのではないのか。そう。イーストウッドが弄んできた数多の女達の怨念である。時に人間とは思えない神出鬼没振りを見せるのもそれで納得がゆく。実生活でも輝かしい女遍歴を誇るイーストウッド。随分女を泣かしてきただろうし、逆に泣かされる事もあっただろう。ストーカー行為に悩まされた事も一度や二度はあるのではないだろうか。苦い経験を仕事の際に生かしてしまう御大の図太さ。逞しさ。

森の中のエロい場面やジャズライブのシーンは省略しても良いような気もするが、決して目障りにはならない。むしろ初めての監督業を心ゆくまで楽しんでいる様子が伝わってきて、かえって心地好い。画面設計、小道具の使い方、見せ場の作り方も達者なものである。勿論、自分を格好良く撮る事も忘れちゃいない。この辺りは流石に御大である。暗闇の中で展開される決戦場面も緊迫感充分。かの『五点掌爆心拳』も吃驚のイーストウッドパンチに注目だ。

(2004/05/16)

『続・猿の惑星』

先日。民放で『続・猿の惑星』(1970年公開)を観た。

衝撃のラストシーンから2年。前作の大ヒットで20世紀フォックスは倒産危機からの脱出に成功した。満を持して放つ2匹目の泥鰌。

今回の主人公は「チャールトン・ヘストンを救いに来た」という宇宙飛行士ジェームズ・フランシスカス。ヘストンは脇役に回っており、物語の最初と最後に顔を出す程度である。例の如くフランシスカスの操縦する宇宙船が地球に墜落。その際の怪我が元で船長は息絶えた。埋葬を済ませたフランシスカスはへストン捜索を開始する。彼もまた自分が落ちた惑星が地球である事を知らない。それにしても、彼らの愛機には、自分達の位置を確認したり、目的地を捕捉したりする装置は装備されていないのであろうか?相当いい加減な宇宙船である。

理由は不明だが、サル世界は深刻な食糧不足に陥っている。飢餓状況を打破すべくゴリラ将軍は「禁断のエリア」への侵攻を主張する。そこに「何者」かが潜んでいる事を将軍は掴んでいる。奴らを滅ぼして、その食糧&財産を奪ってしまおうという寸法だ。初めは「聖域」を侵す事に反対だったオランウータン博士も、将軍の強引な説得に同意。そして自らも攻略部隊に加わる。武器弾薬の準備が進む中、人間狩りも益々激しくなる。当面の兵糧にでもされるのかと思ったが、さにあらず、射撃訓練の標的代りがその利用法である。我々人類の子孫は奴隷以下の存在と化したのだ。無惨。

一方、サル軍団よりも先に「聖域」に踏み込んだフランシスカスは異形の集団と遭遇する。テレパシーや幻覚発生能力等を有するミュータント達。彼らはかつてニューヨークと呼ばれた場所の地下に独自の王国を築いていた。そして彼らは正真正銘のキ××イ集団だった!何処から拾ってきたのか、究極の破壊兵器『コバルト爆弾』を御神体に据えて、日夜礼拝に勤しんでいるのだ。馬鹿馬鹿しい戯画めいた光景だが、現実世界を痛烈に皮肉った秀逸なシーンでもある。彼らを笑い飛ばす資格のある国家がこの世に幾つあるだろうか?

ミュータント達の性格は陰険陰湿。地下牢で邂逅を果たしたヘストンとフランシスカスを御自慢の超能力を使って、殺し合わせるという変態振りである。物語終盤、サルの大軍が彼らの領域を蹂躙するが、この時ばかりはサルどもに感情移入してしまった。立ち並ぶミュータントの彫像を発見したオランウータン博士が「汚らわしい。叩き潰せ!」と絶叫。がらがら。がっしゃーん。博士の配下が彫像群を次々に破壊するシーンには奇妙な爽快感が漂っていた。

アクの強い作風。全体的に色気のない物語だが、ヘストンとフランシスカスに付き随う人間族の娘(リンダ・ハリソン)がせくしーで魅力的。この映画唯一の眼福である。人間族は知能が低く言語も持っていない。従って会話は出来ないという設定だが、そんな彼女が1回だけ言葉を発するシーンがある。その悲痛な叫びは、まるでヘストンに対する愛の告白のように聴こえた。意外であった。まさかこの映画を観て、そのような感想を抱くとは予想もしていなかった。とにかく心に響く名場面である。必見必聴。

この作品の後も『新・猿の惑星』(71年)『猿の惑星/征服』(72年)『最後の猿の惑星』(73年)と、20世紀フォックスは性懲りもなく『猿』シリーズを作り続けた。余勢を駆ってTV版も製作されたが、これは視聴率が低迷し、早々に打ち切りになったそうである。

(2004/05/15)

『ドン・サバティーニ』

昨年。衛星放送で『ドン・サバティーニ』(1990年公開)を観た。

主演はマーロン・ブランドという事で、俺としてはかなり待していたのだが、これが奇々怪々な出来であった。ブランドはドン・コルネオーネを想起させる老ヤクザに扮している。ブランド自身に『ゴッドファーザー』のパロディを演じてもらおうという趣向だが、そのアイディアから一歩も前に進んでいないのがこの作品の限界と言える。大雑把な造りに加えて、ブランドの演技も精彩を欠き、かの名作に比べれば、まるで子供騙しである。これが天下のマーロン・ブランドが出るべき映画と言えるのだろうか?

世界的なスター俳優として名を馳せるブランドだが、相当なひねくれ者としても有名である。とかく奇行蛮行が目立ち、その我儘振りも国際スケールだ。コッポラ先生もこれには随分悩まされたと聞いている。ブランドは台詞を記憶するという行為を嫌う。役者が台詞を覚えないでどうするんだ?と誰もが思うだろうが、かの怪物には我々の常識など一切通用しない。専らカンニングペーパーを愛用している。高い評価を得た『ゴッドファーザー』(1972年)の現場でもその流儀は変わらなかった。同年公開の『ラストタンゴ・イン・パリ』の現場でもそうだったのだろうか。そして『地獄の黙示録』(1979年)の頃になるとこの傾向は益々酷くなり、監督の要求さえもブランドは無視するようになる。この作品の製作は過酷を極めた。撮影中、コッポラは何度も寝込んでしまったそうだが、その原因のひとつがブランドの振る舞いである事はまず間違いない。普通の役者なら即座にクビだろうが、そう出来ない「何か」を彼は備えているらしい。

クリント・イーストウッドの証言によると、役者修行中のブランドは「俳優は男子一生の仕事に非ず」という言葉をしきりに繰り返していたそうな。この感覚はその後もずっとブランドの中に居座っていたのではないだろうか。撮影現場はブランドにとって苦痛のなにものでもなく、生活費を稼ぐ為に嫌々参加しているに過ぎないのかも知れない。あのふてぶてしい、不貞腐れたような独特の表情は、案外そこから来ているのではなかろうか。だとしたら痛烈な皮肉である。そんなブランドの「演技」を我々は激賛して止まないのだから。但しあの重々しい存在感がホンモノである事は疑いようがない。世界を魅了したあの風格は揺るがない。ブランドが演じてきたどのキャラクターよりも、彼本人の個性の方が勝っているような気がする。多分これからも。

さて『ドン・サバティーニ』だが、見所を発見するのが大変困難な映画である。ストーリの内容もほとんど忘れてしまった。アドバルーンのように肥満したブランドが何処となくユーモラスだが、それだけで1時間40分を持たせるのは流石にしんどい。

(2004/05/13)

『自転車泥棒』

先日。図書館で『自転車泥棒』(1948年公開)を観た。

敗戦直後のローマ。巷には失業者が溢れ返っている。主人公の男(ランベルト・マジョラーニ)もその1人である。彼はこの2年間働いていない。勤労意欲はあるが職がないのである。生きていれば腹が減る。マジョラーニは飢える家族を食わせなくてはならない立場にいる。家長としての責任を果たしていない焦りと苛立ち。そのイライラが頂点に達しようとした時、ついに朗報が舞い込む。役所経由の仕事である。ローマ市内の指定の壁にポスターを貼るという単純作業。だが、贅沢を言っている余裕がマジョラーニにある訳がない。このままゆけば家族全員首を括るハメになるのだ。彼は即座に承知する。

「是非やらせて下さい」「但し、この仕事にはひとつだけ条件があるよ」「なんでしょう?」「移動&運搬用の自転車さ。これは自前で用意して貰いたい」「えっ」

さあ。大変だ。彼の自転車はとっくの昔に質草として使ってしまっている。至急取り戻さなくてはならないが、果たしてそんなカネが我が家に残っているだろうか?頭を抱えるマジョラーニ。こういう際は女性の方が判断が早いらしい。かの細君は家中の布団を叩き売って、強引に資金を調達するのだった。夫の再就職が、家族の命運がかかっている。多少の犠牲は我慢しなくてはなるまい。女は強いね。当時、自転車はかなりの高級品であった。現在の自動車に匹敵する価値を有していた。

翌朝。意気揚々と初仕事に出掛けるマジョラーニだが、運命の神様はこの男が余程お気に召さぬらしい。一瞬のスキを衝かれたマジョラー二は、命より大事な自転車をあっさり盗まれてしまう。この頃のローマは泥棒やら窃盗団やらがウヨウヨしていたようである。お人好しのマジョラー二などは格好の標的であろう。死に物狂いで追いかけたものの、自転車ドロはたちまちの内に雑踏へと消え失せた。悲観に暮れるマジョラーニ。警察に被害届けを提出するが、ほとんど相手にされない。デモ鎮圧で忙しいのに、自転車泥棒なんぞにかまっていられるか。と。

中盤からは、マジョラー二と息子(エンツィオ・スタイオーラ)の犯人捜しの旅が展開する。この一連の場面は絶望色に塗り潰された地獄巡りの様相を呈している。唯一の手掛かりが登録番号だけでは話にならない。友人の助勢を借りて、朝市(盗品が販売される場合が多い)に乗り込んでみるものの、無数にある自転車の中から、自分の自転車を見つけるなど事実上不可能である。原型を止めているならまだしも、パーツ毎にバラバラに分解されている恐れもある。そうなったら、おしまいだ。最早打つ手はない。万策尽き果てたマジョラー二の下した皮肉な決断とは?

何の収穫も得られないまま、ローマの街を彷徨う親子の姿が哀れである。これを演じるマジョラー二とスタイオーラは俳優ではなく監督とスタッフが見つけてきた全くの素人だそうである。両者のリアルな演技に息を呑まされる。もしかしたら2人とも同じような体験を現実世界でもしているのではないだろうか?その時代に生きた者にしか出せない迫真性が2人の表情や仕種に色濃く出ていたような気がする。全篇ロケーションというのも絶大な効果を挙げている。単に資金が不足していただけなのか、それとも周到な作戦なのかどうかはわからないが、戦後の荒廃した雰囲気をフィルムは残酷なまでに記録している。まさにリアリズム。映像の持つ凄さ恐ろしさをまざまざと感じさせてくれる。

極限状況というものは人間の理性をいとも簡単に剥ぎ取ってしまうらしい。ケダモノと化した人間は何をやるかわからない。自転車泥棒などまだ可愛い方かも知れない。食う為なら、生き残る為なら、強盗だろうが殺人だろうが何だってするだろう。この前、自転車泥棒ならぬ賽銭泥棒を重ねつつ、国内を放浪していた餓鬼が逮捕されたと新聞に出ていた。人を傷つけたり殺めたりするよりは遥かにマシだが、やはり尋常な行動ではない。平和日本の住民すらこの有様である。俺自身、似たような状態に陥ったとしたら…どこまで理性が保てるか、正直自信がない。

(2004/05/11)

『死に花』

昨夜。岐阜のシネコンで犬童一心の新作『死に花』を観た。主演は山崎努。

山崎の名前を意識し出したのは、再放送で観た『新・必殺仕置人』がキッカケである。山崎が演じるのは凄腕の暗殺者・念仏の鉄。かの中村主水と互角の個性を誇るアクの強いキャラクターである。そのダークヒーロー振りに高校生の俺はすっかり魅了されてしまった。最終回。死闘の果てに宿敵を仕留めた鉄は、フラフラと遊郭に迷い込み、遊女の腹の下で静かに息絶える。まさにアウトローに相応しい死に様であり、俺もかくありたいものだと本気で思った。それ以来の山崎ファンである。

山崎の主演した異色作『お葬式』を連想させるファーストシーン。この辺から早くも居心地の悪さを感じ始めた。安易な模倣やパロディに走る映画にはロクなものがないからである。物語の舞台は最高級老人ホーム。館内にはありとあらゆる設備が整えられており、老人達は優雅な生活を送っている。誰もが入居出来る施設ではない。その大半がブルジョアかエリートだと思われる。俺には生涯縁のない場所だ。

豪勢な棺桶を買ったり、骨壷に凝ってみたり…入居者の一人である藤岡琢也は自分の葬式を自分の手で演出するのだと張り切っている。大切な余生を、残された貴重な時間をそんなものに費やす藤岡の感覚が一向に理解出来ぬまま、その日が来てしまう。だって、葬儀が執り行われる時には、自分はこの世にいないんだぜ。生きている内にしか出来ない事をすべきじゃないのか?生は。これが俺の生き方だと言われてしまえばそれまでだけど。

画面は火葬場に切り替わり、ここで異常な事態が起こる。藤岡の頭蓋骨の横にもうひとつの頭蓋骨が並んでいるのである。点火スイッチが押される前、藤岡の棺の中に潜り込んだ奴がいるのだ。どうやら謎の頭蓋骨の正体は、生前、藤岡と仲の好かった加藤治子のものらしい。藤岡の友人達―山崎、宇津井健、青島幸男、谷啓―は加藤の奇行に愕然となるが、観ている俺も、リアリティの欠如に興醒めした。まず有り得ない話であり、この映画が浮世離れした夢物語である事がここで判明した。この現実味の希薄さは終幕までずっと続く。映画は虚構である。だが、せめて観客が納得可能な「リアリティのある嘘」をついてもらいたいものである。

葬儀後、老人4人は、ある大手銀行の金庫破りに着手する。それは藤岡が残した復讐計画であった。このまま朽ち果てるなら最後にどでかい花火を打ち上げようや。その心意気は大いに買うが、如何なる理由があろうと、金庫破りや現金強奪は犯罪である。登場人物がそれに対する後ろめたさを感じる描写はほとんど見られないし、この計画に反対意見や異論を唱える奴もいない。山崎を慕う松原智恵子もバカのように彼の行動を賞賛するばかりである。ひょっとして、この人達は全員ボケているのではないかと思ったぐらいである。

喜劇風味の犯罪映画という体裁だが、放たれるギャグのことごとくが不発であり、観ているこちらが恥かしくなってくる。笑えないコメディほど無惨なものはないのだ。犯罪映画としても食い足りない。老人達の作戦が都合の良い方向に進み過ぎるのである。無理矢理観客を感動させようとする場面や台詞が多いのにも辟易した。細部の描写が杜撰なのに、クライマックスだけ盛り上がるような映画などある訳がない。雑な脚本に加えて演出不在。ここまで悪条件が揃ってしまうと、どうしようもない。折角集めた芸達者も泣くというものだ。ちぇっ。つまんねーのと呟きながら途中退場する奴が何人かいたが、それも仕方のない出来であった。

不謹慎を承知で言うが、出演者の中にはこの映画が遺作になる人もいるだろう。役者人生の終を飾る作品がコレでは、死んでも死に切れんぜ。それこそ死に花も咲かねえ。山崎は日本では数少ない「作品を選ぶ俳優」として知られているが、その最新作がこの有様とは…。無論、全ての出演作が名作傑作である筈はないのだが。俺は暗澹たる気持ちで劇場を後にした。

(2004/05/09)

『復活の日』

先日。深夜放送で『復活の日』(1980年公開)を観た。

原作は『日本沈没』『首都消失』の小松左京。角川春樹が深作欣二を迎えて放つSF大作。深作は空前の南極ロケを敢行する。日米豪華キャストが集結。ジャニス・イアンが唄う主題歌も悪くない。製作費も20億円を超えており、日本映画としては破格の金額である。

核戦争、天変地異、宇宙人襲来、デーモン族の侵略等々…人類を滅ぼす方法は沢山あるが、この映画で活躍(?)するのは、究極の細菌兵器『MM−88』である。この恐るべき生物兵器を巡って熾烈なスパイ戦が展開する。このウイルスに弱点はない。爆発的増殖力と恐るべき殺傷能力を備えており、人間も家畜も殺して殺して殺しまくる。低温状態の時のみ活動を停止するが、それ以外の場所では、誰も『奴』を止める事は出来ない。例え『奴』を開発した者であっても。

映画の導入部。東京湾に原子力潜水艦(中古だけど本物)が浮上する。遠隔操縦の偵察ヘリコプターのカメラが捉えたものは…死屍累々。地獄の風景であった。東京中を埋め尽くす白骨死体の群れ。かつては繁栄の象徴であった高層ビル群も、今や日本国民の大いなる墓標と化した。何故世界は滅びたのか?何故にこのような大悲劇が起こったのか?映画は惨劇の発端まで時間を戻して、その過程を克明に描き出してゆく。今回の深作はいつもの破天荒演出をなるべく抑えて、終始シリアスな描写に徹している。やれば出来るじゃないか。豪放無頼のイメージが強い深作だが、実は如何なるジャンルをも撮りこなす器用な監督なのである。

ゴジラよりも恐ろしい細菌兵器の猛威。最近世間を騒がしている事件や事故を考えると、とてもSFだの角川映画だのと笑ってはいられない。まあ、笑っていられる内は良いが、気がついた時には「全て手遅れ」になっているかも知れんぜ。

物語の中盤『MM−88』の攻撃に晒された我が国が映し出される。続々と担ぎ込まれる患者に各病院はパニック状態。未知の病気。日増しに増加する死亡者。この絶望的状況下、看護婦の多岐川裕美(主人公の恋人)は発狂寸前だ。先生っ。こんな事が一体いつまで続くんですか?裕美の血を吐くような質問に対して、医者の緒形拳は「わからん」と答えるしかない。休憩室のソファに腰を降ろす疲労困憊の緒形。宙を睨みながら「だが、物事には必ず終りが来る。それがどんな形になるかはわからないが…」と緒形は呟く。その鋭い視線の先には水槽がある。そして、その中では細菌兵器の餌食となった金魚がプカプカ浮いているのである。思わず背筋が寒くなる強烈な瞬間。

この作品は『日本沈没』『ノストラダムスの大予言』に匹敵する国産滅亡映画の秀作と言えそうだが、何かが足りない。何かが欠けている。何だろう。そうだ。丹波哲郎である。丹波先生の演説がないのである。深作の最狂作『宇宙からのメッセージ』では地球大統領(!)まで務めた男が登場しないとは、まさに人類の損失である。そう言えば、この作品には日本政府が一度も姿を見せない。ホワイトハウスは頻繁に出てくるのだが。山積みにした犠牲者を自衛隊が焼き払うシーンの前後に国会議事堂がちらりと画面に現れる。恐らく、あの中では、抵抗勢力をものともせず、丹波首相が得意のハッタリに満ちた大熱弁を振るっている事だろう。そんな幻が一瞬、脳裏を過ぎった。

深作第一の盟友たる千葉真一も出演している。人類最後の砦となった南極基地。千葉は基地に所属する調査隊の隊員を演じているが、残念ながら、見せ場どころか台詞もほとんどない。それも仕方がないのかな。この頃、千葉は初の監督作品(アクションのみ)となる『戦国自衛隊』の撮影に取り組んでおり、そのスケジュールを縫っての『復活の日』参加だったからだ。千葉隊員の生死は不明である。映画後半の核爆撃の際に、南極基地もろとも吹っ飛んだ筈だが、なにしろ生命力溢れる師匠の事だからわからんぞ。地球の何処かで図太く逞しく生きていそうである。

(2004/05/09)

『猿の惑星』

先日。民放で『猿の惑星』を観た。主演は偉大なる大根役者チャールトン・ヘストン。

SF映画としては物足りない部分が多々あるが、作品内に仕込まれた毒の威力は痛烈である。××の××の残骸が現われるラストシーンの印象も凄まじく、何の予備知識のない者や無邪気なお子様がこれを観たら、強烈なトラウマとして突き刺さるだろう。映画史上に残る風刺映画の傑作。

遥かアルファケンタウリの探索旅行(目的不明)を終えた宇宙船イカルス号は帰路の途中「ある惑星」に不時着する。イカルス号は着陸のショックで大破してしまった。探検隊のリーダー格ヘストンは、食糧と水を求めて異星の大地に降り立つのだった。その前にコールドスリープに失敗した隊員が、睡眠装置の中でミイラ化している場面が用意されている。短いシーンだがその衝撃度は大きい。ヘストンと仲間達、そして観客の不安と焦燥を煽るという仕掛けである。

その星は猿頭人身の怪物が支配する世界であった。ここにも人間に似た生物がいるのだが、知能指数の方はどうやら「サル並」らしい。飛び道具と騎馬を巧み操るサルどもに駆り立てられるだけの存在に過ぎないのだ。ヘストン一行もサル軍団の「人間狩り」の標的にされてしまう。人間とサルの立場が逆転した世界。まさに悪夢としか言いようのない光景である。ヘストンも必死の抵抗を試みるが、多勢に無勢。結局はサル軍団の虜囚となる。

捕獲されたヘストンは、サル達の集落に連行され、牢屋にぶち込まれる。食事も与えられず、檻の外では彼を「この人間を去勢する」などと物騒な話をしている。囚人以下の扱いだ。ヘストンは最前の人間狩りの際に喉を裂かれており、声が出せなくなっている。彼には怒声を上げる事すら許されないのである。発狂しないのが不思議なくらいだ。ここまで過酷な状況に追い込まれる主人公というのも稀である。この後も、ヘストンは様々な形で虐待を受ける事になる。

ヘストンの仲間2人が辿った運命も悲惨である。1人は人間狩りの際に死亡。剥製にされて村の博物館に飾られるハメとなる。そして、もう1人は脳手術を施されて「くるくるぱー」にされてしまうのである。地獄である。だが、よーく考えてみよう。我々人類が他の生物にしてきた仕打ちの数々を。自分達の未来と栄光の為に我々はどれだけの生物を利用し、殺戮してきた事か…。サルどもにとって、ヘストンもその仲間も「他の生物」に過ぎないのである。だから何をやっても平気である。罪悪感などある訳がない。理科の授業で、餓鬼達が蛙の解剖をする。それと同じ事である。流石にそのような描写は見られないが、奴らが捕らえた「獲物」を食っている可能性もある。ほら、人間の中にもいるじゃないですか、ゲテモノを好む人が。

この作品が封切られたのは1968年である。奇しくも、国産侵略SFの傑作『吸血鬼ゴケミドロ』が上映された(併映作品は深作欣二の『黒蜥蜴』)年でもある。当時の映画ファンの中には『猿の惑星』と『ゴケミドロ』の両方を観た者もいたのではないか。余りの薄気味悪さに、その晩は寝込んでしまったに違いない。この頃のSF映画には、絵空事、笑い事では済まされない異様な迫力を帯びている。映像面も薄っぺらいCGまどでは表現出来ない生々しさがある。あの嘘寒さが良いのだ。特撮万歳。犠牲者の額がバカッと割れてゴケミドロが侵入する場面のおぞましさ!

因みにキューブリックの代表作『2001年宇宙の旅』が公開されたのも同じ1968年である。

(2004/05/05)

『ある殺し屋』

先日。衛星放送で『ある殺し屋』(1967年公開)を観た。

映画の冒頭。駅の改札を抜けて、ひょろっとした体格の男が姿を現わす。市川雷蔵である。雷蔵はタクシーを拾うと、行き先を告げる。海岸に面した荒地の真ん中で雷蔵は車を降りる。そこからは徒歩である。墓場の傍に建っている今にも潰れそうなボロアパートだ。耳の遠い老婆(管理人)に空き部屋を案内してもらう。横と下に下宿者がいない事を確かめると、雷蔵は「部屋を借りたい」と婆さんに告げる。雷蔵の手荷物はやや大きめの鞄ひとつ。そのチャックをおもむろに開き「中身」を取り出す。ばさっ。出てきたのは2丁のピストルであった。じゃじゃーん。ここでタイトルが出現。赤い文字で『ある殺し屋』と。

雷蔵の職業は暗殺者である。狙った獲物は必ず仕留める事で有名であり、闇社会ではそれなりの信用を得ている。愛用の凶器は鋭く磨いた畳針だが、格闘技術も抜群。その外見からは想像も出来ない戦闘能力を備えている。無敵である。相手がヤクザであろうと女であろうと、常にクールな態度と言動で接する男。雷蔵の棒読みに近い台詞回しに最初は何事かと思ったが、今回の役(凄腕のキラーマシーン)に限っては、それも許されるのかなと思い直した。

客に注文をつけるタイプ。仕事の手順に関しては依頼人の意見すら聞こうとしない。気に入らないんなら、いつでも辞めるよ。それが雷蔵の口癖だ。入念な調査。段取りにはたっぷり時間をかける。殺しの決行日がいつになるのやらわからない。頼んだ側も相当気が揉める。芸術家肌の殺し屋と言えようか。カネに対する執着が案外薄いのもこの男の特徴だ。標的抹殺後に報酬を受け取るというのが、それを示している。普通の殺し屋なら前金ぐらいは取る筈である。

雷蔵の表稼業は居酒屋のマスターである。この店が全然流行っていないのが面白い。余り忙しくなると、本業に差し支えるので手を抜いているのだろうか、それとも単に料理や酒がマズいだけなのか。

雷蔵は戦時中、空軍に所属していたらしい。戦友はことごとく大空に散ったようである。所謂「特攻崩れ」かも知れない。激烈な戦争体験がこの男の人間的感情を破壊してしまったのだろうか。雷蔵が殺し屋稼業に手を染めた理由は、この辺にあると考えられるのだが、明確な説明は敢えて避けられている。その方が神秘性があって良いという作り手の判断であろう。

ごっそり貯め込んだカネを狙って、欲の皮に突っ張った男女(成田三樹夫&野川由美子)が雷蔵に接近してくる。仲間になると見せかけて、不意討ちを食らわせようという魂胆である。例のアパートで雷蔵、三樹夫、由美子の3人がボソボソと折り詰めの寿司を食べる場面があるが、何やら無気味な雰囲気で強烈な印象。全篇を貫く硬質な画面造りに感心させられたが、それもその筈、撮影監督は名手・宮川一夫であった。流石である。目新しさに乏しい物語を、時間を組み替える事によって、面白く観せてしまう脚本も鮮やかであった。劇中、銃器が何回も登場するのに、ついに1度も発砲される事がないというのもユニークだ。

(2004/05/05)

『スタンド・バイ・ミー』

先日。図書館で『スタンド・バイ・ミー』(1986年公開)を観た。

オレゴン州キャッスルロック。人口1200人一寸の田舎町である。ここに住む悪餓鬼四人組が1泊2日の旅に出る。行方不明の少年が森の奥で列車に撥ねられたという情報を入手。彼らはその遺体を捜しに町を出るのだった。かなり異常な目的である。そんなものを見つけて一体どうしようというのだろうか?俺にはよく解らないが、彼ら曰く「死体を発見すれば、マスコミで騒がれて有名になれるから」だそうである。

余り住み良い町ではないらしい。埃っぽい、世の中の流れからとり残されたような町だ。尊敬に値するような人物は誰もいない。バカの見本のようなゴロツキどもが町中を闊歩している。ゴロツキ達は余程やる事がないのか、ダサい車を乗り回したり、悪趣味な刺青を彫り込んだり、他人の家の郵便受けを破壊したりして喜んでいる。それは少年達の未来の姿でもある。僕達もいずれあんなアホになるのだろうか…。口にこそ出さないが、多分そう考えている。その上、4人の家庭はそれぞれ深刻な問題を抱えている。この状況に嫌気がさしている彼らにとって、今回の探索行は極めて魅惑的な計画のように思われたのであろう。探索対象が死体だろうがツチノコだろうが、何でも良かったのではないか。要は冒険(現実逃避?)に出る理由が欲しかっただけなのだ。

主人公の少年(ウィル・ウィートン)は原作者スティーブン・キングの分身だろう。ウィートンの兄はフットボールの名選手であった。人気者の兄貴はウィートンにも優しかった。優秀な兄の突然の事故死。彼に絶大な期待を抱いていた両親は意気消沈。ほとんどノイローゼに近い状態である。何故お前が生きているんだ。お前が死ねば良かったのに…いつの頃からか、両親はそんな眼でウィートンを見詰めるようになった。実はウィートンは大変な文才の持主であり、決して出来損ないではないのだが、愚かな父親は息子の才能を端から認めようともしないのだ。

辛い境遇だよな。餓鬼の頃に受けた精神的ダメージというのは後々まで響く。まして自分の親に蔑まれたショックはその後の人生さえも狂わせてしまうものだ。だからこそ、親は子供に丁寧に慎重に接しなくてはならない。その程度で落ち込む方が悪いと仰る向きもあるだろうが、そんなに強い人間ばかりだったら苦労しやしないって。幸いウィートンは作家として大成する訳だけど、そういう例は稀だと考えた方が良い。不用意な言葉が子供の繊細で脆い精神をどれだけ傷つける事か。気をつけないと、寝ている間に金属バットで頭を叩き割られるハメになるかも知れないよ。御用心御用心。

派手な場面の少ない地味な映画だが、独特の味わいを有する佳篇である。原作の旨味を抽出して、それを巧みに映像化した手腕が見事だ。主人公達の行動に好感や共感を覚えない男の子は、恐らくいないのではないか。俺にもこんな時期があったよな。そして、あの楽しく美しい少年時代はもう二度と帰って来ないのだ。大人になったからこそ、あの時の輝きが理解出来る。その懐かしさ、その刹那さが、心地好く、少しほろ苦い。劇中、ウィートンが創作した『百貫デブの復讐』というエピソードが挿入される。確かに面白い話だが、この映画にはそぐわないグロテスクな印象を受けた。果たして、あのゲロゲロシーンが必要だったのかどうか、いささか疑問が残る。

(2004/05/04)

『仮面の男』

先日。図書館で『仮面の男』(1998年公開)を観た。

物語の舞台は17世紀パリ。長引く戦争。食糧不足。女と寝る事しか頭にないルイ14世(レオナルド・ディカプリオ)の無能政治に都民の怒りは爆発寸前だ。いずれ大規模な暴動に発展するやも知れぬ。そこを他国に突き込まれたら…。このままバカ殿を放置すれば、愛するフランスが地上から消え去る恐れすらある。この祖国存亡の危機に立ち上がったオヤジ達。@アトス(ジョン・マルコヴィッチ)Aアラミス(ジェレミー・アイアンズ)Bポルトス(ジェラール・ドパルデュー)の3人である。そう。言わずと知れた《三銃士》のメンバー。

かつては最強の三大剣士として、宮廷内に勇名を轟かせた豪傑どもも時の重みには抗し難いのか。三勇者筆頭たるアトスはとっくに引退しており、自宅でヴァイオリンを弄る毎日。唯一の楽しみは息子が嫁さんを迎える事ぐらいだ。ポルトスの衰弱振りが深刻である。精力絶倫を誇った巨漢も年齢には勝てず、オスの機能は年々低下の一途。女を引っ張り込んだのは良いが、肝心のモノが役に立たず、失意のドン底へ。何かにつけて「死にたい死にたい」と喚き散らすので周囲はウンザリの様子。3人の内、アラミスのみが健在である。聖職者を隠れ蓑にして、何やら暗躍と策謀に忙しい。さて、そのアラミスが弾き出した「起死回生の策」とは?死を覚悟して計画を進める《三銃士》がやたらに元気である。この作品、ディカプリオ主演の偶像映画に見えて、実はオヤジ激励映画なのかも。

この3人の敵として立ちはだかるのが《三銃士》最大の盟友たるダルタニアン(ガブリエル・バーン)である。お互いにやり辛い相手である。出来れば対決は避けたい。もし適わぬ場合は全力で相手を叩き潰す。それが男である。それがもののふの宿命である。闘いに生きる者の心意気は東も西も余り変わらぬものらしい。

現在のダルタニアンに血気盛んな若武者の面影はない。銃士隊隊長という重職を担っており、時には国王の相談役として、敢えて苦言を呈する機会も多い。剣術の腕前は国内最強クラスであり、国王を狙う刺客を何人も仕留めている。部下やパリ市民の信望も厚く、今や国政には欠かせない人材へと成長した。押しも押されぬ大男児。味方にすればこれほど頼もしい男はいないだろう。彼さえいなければ、国王の首はとうに宙を舞っている筈である。それにしても、ダルタニアンの忠誠心は度外れている。少し異常なほどだ。彼は友情と忠義を天秤にかけて後者を選んだ。何故か?以前の彼なら前者を優先したのではないか。その理由は物語後半に明かされる事になる。苦悩するダルタニアンの存在がこの映画に深みを与えている。いつの時代、何処の国に行っても、中間管理職は大変だ。

今回ディカプリオは二役に挑戦している。その分、出没頻度が高いので、ファンは大喜びであろう。彼のワンパターン演技に興味のない者は、素敵なオヤジ達の友情物語に酔えば良いだろう。二段構えで観客の興味を誘う仕掛けである。この辺り、中々に芸が細かい。多少強引な部分や疑問点もあるが、そこは目を瞑って、この大袈裟且つ華やかな冒険活劇の世界を堪能してしまおう。これは娯楽時代劇である。理屈や史実を言い出したらキリがない。迷った時は『柳生一族の陰謀』を想い出せ。あのデタラメ振りに比べたら『仮面の男』なんて可愛いものだ。チャンバラシーンの迫力が今ひとつなのが気になるが、これは女子供が観る事を考慮しての処置なのだろうか。それとも、ディカプリオの活劇センスの無さを誤魔化す為の配慮なのだろうか。俺が観る前に「つまらなそうやな」と感じた映画は大抵面白い。その法則がまたしても適用されてしまった。

(2004/05/03)

『キル・ビル Vol.2』

昨夜。岐阜の山奥にあるシネコンで『キル・ビル Vol.2』を観た。

ユマ・サーマンの殺し旅もいよいよ佳境である。仇敵たる《毒ヘビ暗殺団》も残り3人となった。彼女の復讐計画が達成されるか否か、物語は俄然盛り上がる。前篇では良くも悪くもタランティーノのはしゃぎ振り、悪乗り振りが目立ったが、後篇は終始落ち着いた雰囲気に仕上がっており、大いに気に入った。戦闘場面を最小限に抑え、各キャラクターの人物像を掘り下げる事に時間が割かれている。

メンバー2人が屠られた事により、最強の敵ビルが本格的に動き始める。これを演じるデヴィッド・キャラダインの迫力。その死神然とした風貌(八名信夫+天本英世?)が観る者に強烈な印象を与える。凄腕の暗殺集団を率いる総大将に相応しい風格。タランティーノの配役センスが光る。

サーマンがこの強敵に負けない個性を発揮している。これほどにアクの強い主役&悪役は近年稀である。第3の標的であるビルの弟の計略にハマって、絶体絶命のピンチに追い込まれるサーマン。武器を奪われ、手足を縛られた上に「生き埋めの刑」に処せられてしまう。それでもサーマンは諦めない。彼女が秘める驚異的生命力が今、発動する。土中に埋められた棺桶の中という特殊なシチュエーションで、サーマンの大熱演が繰り広げられる。その気迫。その表情。地獄の底から蘇った女闘士の異常な執念を演じ切っている。ここまで追い詰めたタランティーノも凄いが、その期待に応えたサーマンはもっと凄い。映画史上に残るタフなヒロインの誕生である。

今回も『ハンゾウソード』が重要な小道具として大活躍している。サーマンのライバル的存在として登場する隻眼の女暗殺者(ダリル・ハンナ)もハットリ・ハンゾウ(千葉真一)が作った剣に尋常ならざる執着を見せるのである。世界を飛び回る殺しのプロフェッショナル達にここまで愛されているのだから、刀鍛冶冥利に尽きると言えるだろう。なにしろビルでさえ、ハンゾウの事を「さん」付けで呼んでおり、その尊敬振りはタダ事ではない。後篇では残念ながら出番はなかったが、千葉師匠も良い役を得たものである。

タランティーノはワンシーン、ワンシーン、手を抜かずに実に丁寧に撮り上げている。現実味の乏しい荒唐無稽な物語だが『キル・ビル』は前後篇共に独特の格調を帯びている。それはタランティーノの映画に対する真摯な姿勢が生み出しているのだと思う。一見、ふざけているように見えるが、実際は恐ろしく真面目な男ではなかろうか。この映画が始まる前に、観るからにつまらなそうなCG多用映画の予告篇が何本も流されていた。俺の好みなどとは全く関係なく、これからもデジタル映画の隆盛と氾濫は続くのだろう。そんな風潮に逆らうように、あくまでも手作りにこだわるタランティーノ。そんな映画監督が1人ぐらいいてもいい。

(2004/04/29)

『リトル・ストライカー』

先日。衛星放送で『リトル・ストライカー』(2000年公開)を観た。

最初は能天気なジャリ向けサッカー映画かよと侮りつつ観ていたが、それは大きな間違いだった。まず娯楽映画のキモを心得た脚本が見事である。出演陣も味のある俳優が揃えられている。各々自分の役所を確実にこなしており、観ていて気持ちが好い。加えて、作品の随所にイギリス庶民が抱える悩みや問題が嫌味なく配置されている。この辺りも実に興味深い。

タイトルを見れば一目瞭然だが、主人公はサッカー小僧(ルイス・マッケンジー)である。優れた才能を持ちながら、いざ本番となるとそれが発揮出来ないタイプ。少年も自分の弱点を何とか克服しようと努めているのだが、中々うまくゆかない。少年はある理由でかなり激しいイジメに遭っている。それでもめげずに毎日通学している点は偉いと思うし、健気である。ズタズタになった心を引き摺りつつ、家に戻ると、得体の知れない男が居座っている。少年のお母さん(ジーナ・マッキー)は自由奔放な性格。男を捕獲するのが得意らしい。年齢を感じさせぬ美貌の持主であり、いつのまにかオスどもが寄って来るのだ。彼女自身も悪い気はしない。そんな状態がずっと続いている。だが、少年には余りありがたくないようである。ただひとつの例外を除いては。劇中、少年の父親について語られる事は一切ない。死んだのか?離婚したのか?謎である。多分後者だと思うが。

少年の通う学校の体育教師に扮するロバート・カーライルが良い。カーライルはサッカーチームの監督も任されているのだが、全くやる気がない。少年がイジメられている現場を目撃してもただ眺めているだけである。こういう先生は生徒にナメられる。悪餓鬼の一人に「腰抜け」と罵られても、やはり無言のままである。ダメ教師の典型のような人物だが、実はこの先生、タダ者ではない。それが判明するのは物語の中盤である。彼もまた大きな挫折を経験した男であった。それを他人に話す趣味を彼は持ち合わせていない。そのキズは根深く、未だに癒えていないだ。カーライルの一寸気弱そうな風貌が、この先生のキャラクターにピタリと合致している。

少年はひょんな事から「魔法のシューズ」を手に入れる。その日から少年のサーガが始まる。地区予選の開始。チームの快進撃を支える戦力として少年は大活躍。チームのお荷物とバカにされていたのが夢のようである。険しかった少年の表情も次第に自信に満ち溢れたものへと変わってゆく。それと並行するように周囲の人々も意欲とエネルギーを取り戻してゆく。その過程が実に小気味好い。前半の重苦しいムードを吹き飛ばすかのような爽快感。驚くべき「魔法」の効果。だが、所詮それは他力がもたらした幸福ではないのだろうか?そう考えると何処か虚しい。かの「魔法」が解けた時、少年の本当の闘いが幕を開けるのだ。

サッカー映画だけに試合場面が見せ場となる。俺としては地区予選・第1試合が最も面白かった。札付きのゴロツキチームとの対戦である。ドロドロの競技場で繰り広げられる喧嘩サッカー。試合そっちのけで殴り合う餓鬼達に抱腹絶倒。餓鬼と言っても栄養が充分ゆき届いているのでガタイは良い。格闘能力に長けた連中の激突は迫力満点だ。まさに泥仕合。しまいには審判(相手校教師)自ら反則行為をやり出す有様である。同様の場面を俺は現実に観た事がある。それはサッカーではなかったが、余りの品の悪さに愕然となった覚えがある。そんな記憶がふと蘇った。清く正しい学生スポーツも一歩間違えるとこうなる。スポーツの裏には、人間の持つ凶暴な闘争本能がじっと潜んでいる。

(2004/04/29)

『DEAD OR ALIVE FINAL』

先日。深夜放送で『DEAD OR ALIVE FINAL』(2001年公開)を観た。

竹内力&哀川翔。Vシネマ界に君臨する二大巨頭が共演を果たす『DOA』シリーズ。衝(笑?)撃の最終章である。監督はとにかく忙しい男・三池崇史。

俺はこのシリーズとは縁がある。第1作『犯罪者』は出張先のホテルで観た。そのホテルは館内にビデオレンタルの設備が設けてあり、宿泊者は低料金で気軽に利用出来る。ほろ酔い状態の俺は、竹内、哀川、三池…三狼の名前に惹かれて借りてみた。前半はつまらなかったが、非常識極まるラストシーンに呆然とした記憶がある。第2作『逃亡者』は都内漂流中に《テアトル新宿》で観た。レイトショーである。両雄のファンが多数詰めかけ、場内は異様な熱気に包まれていた。内容的にはギャグ的要素が強く、かなり楽しめた。周囲の連中と一緒に腹を抱えて笑ったものである。そして『FINAL』とまみえる時がやって来た。

西暦2346年の横浜を舞台に狂った物語が炸裂する。この街の支配者ウー(リチャード・チェン)は人工調節と称して「子供が生まれなくなる薬」を全市民にばら撒き、その服用を強要している。ウーは男色の気が濃厚にあり「同性愛こそ真の恋愛だ」などと公言して憚らない。当然だが、このキ××イじみた政策を拒絶する者も多く存在する。ウーの傍らには凄腕の竹内警部が控えており、反逆者を片っ端から摘発する。ただでさえ怖い竹内が、日本刀を携え、更に愛用の重量級バイクで迫って来るのだからこれほど恐ろしいものはない。

一方、哀川の役所は「戦闘用レプリカント」である。この時代の戦争テクノロジーは極限まで発達しているらしい。外見が人間そっくりなのは当り前として、ラーメンを啜るわ、チャーハンを食べるわ、おまけに歯まで磨いていた。何処から見ても人間にしか見えない。そこらの人間以上に感性豊かであり、弱者がやられるのは放っておけないという義侠心まで備えている。このレプリカントを作った奴は多分天才だ。という訳で、哀川としては特に役作りの必要もなく、いつも通りの飄々たるスタイルを貫いている。敢えて「何もしない」という事が、リアリティに繋がっているのだから面白い。大量の銭を投入して人造人間を登場させている映画に対するアンチテーゼと言っては誉め過ぎか。

映画の冒頭。いきなり二大強豪の対決がある。追う竹内。逃げる哀川。ずばっ。追手の放った弾丸をブーメラン型の鉄パイプで防御する哀川。ぐぎゃー。上空に飛んだ跳弾が鴉をブチ抜く!逆襲に転じる哀川。びゅん。猛スピードの鉄パイプを竹内に投げつける。敵もさる者。既に竹内は愛剣を引き抜いている。ぶおっ。飛来物に猛然と白刃を振り下ろす竹内。ばきーん。快刀一閃。鮮やかに両断される鉄パイプ…マンガ的性格の強い殺陣だが、迫力もスピード感も充分。三池作品は常に手に汗握る活劇場面が用意されている。そこが好きである。三池自身、相当な運動神経の持主らしい。

全篇香港ロケ。スタッフもキャストも現地の人材を積極的に採用している。現在の香港を24世紀の横浜に見立てるという無茶苦茶さ加減。相変わらずの強引な手法である。映画終盤、決戦の場へと赴く竹内と哀川。その際、両雄の背後を彩るのがバッハの名曲『G線上のアリア』である。益々訳がわからなくなってくるが、更に人を困惑させるシュールな幕切れ(『エヴァンゲリオン』風?)が観る者を待っている。俺としては許容範囲だったが、誰もが歓迎出来る内容ではないのは確かだ。ふざけるなと卓袱台をひっくり返す奴もいるかも知れない。だが、この程度でいちいち厭きれたり、腹を立てたりしていては、とても三池ファンは務まらない。

(2004/04/27)

『股旅 三人やくざ』

先日。衛星放送で『股旅 三人やくざ』(1965年公開)を観た。

「秋の章」「冬の章」「春の章」という三つのエピソードからなるオムニバス映画である。それぞれ、違ったタイプの渡世人が登場して、彼らの数奇な運命が描き込まれるという趣向である。キャストも豪華で全体的に贅沢な造り。この頃の日本映画はまだまだ力を残していたようだ。

第1話「秋の章」は仲代達矢が主人公を演じている。仲代は役人2人を斬り殺した罪で追われており、その首には賞金がかけられている。長い長い逃亡生活。その割には綺麗な格好をしているが、つまらない茶々は止めておこう。如何に節度を守ってみても、ヤクザ稼業はどうしてもカタギの衆から敬遠されがちである。それは仕方ないとして、仲代の場合は同業者にすら嫌われているのである。ヘタに匿うと巻き添えを食う危険性があるからである。まさに孤立無援。究極のアウトサイダーとも言うべき存在である。ある女郎の告白を聴いて、男は命を捨てる覚悟を固める。その表情は何故か満足そうであった。或いはこの男は自分に相応しい死に場所をずっと捜していただけなのかも知れない。仲代の控え目な演技が男の漂わせる悲壮感に繋がっていた。

続く「冬の章」には2人の渡世人が登場する。若造(松方弘樹)と老人(志村喬)である。若き松方のイキの良い演技も見物だが、重鎮志村の老練な味わいにはかなわない。腕と度胸で突き進むアウトロー生活。そこには一般人には到底経験出来ない危険で刺激的な魅力に満ちている。しかし、ヤクザも人間である事には変わりがない。人は必ず歳を取る。年齢を重ねれば、イカサマの技術も衰えるし、喧嘩も勝てなくなってくる。事実、この物語は志村が賭場から叩き出される場面から始まるのである。一体俺の人生は何だったのか…老ヤクザの哀愁を志村が全身で演じてみせる。ギリギリに絞った登場人物。雪に埋まった茶店という限定空間。シンプルな設定だけに「老い」という人類普遍のテーマがより際立つ。

第3話「春の章」は前2話から一転して、陽気な雰囲気。主人公は中村錦之助。ある村に立ち寄った錦之助は、村民に悪代官(加藤武)打倒を頼まれてしまう。さあ大変だ。実はこの男、口の回転は滑らかだが、腕っぷしの方はまるで自信がないのだ。颯爽たるヒーローを得意とする錦之助にこの配役。意想外の設定であり、錦之助本人も楽しそうに演じている。加藤は居合い抜きの達人。とても勝てる見込みはない。錦之助が返事を渋っていると、村長が恐ろしい顔をして「一宿一飯の義理は果たせねえのか」と怒り出す。この時の錦之助の慌て振りが実におかしい。だが笑ってばかりもいられない。何故なら「ヤクザなんて所詮はこの程度なんだよ」という作り手の痛烈な視線が感じられるからである。散々逃げ廻っていた錦之助がついに真っ向勝負を挑むクライマックス。無惨に返り討ちに遭うのか?それとも奇跡が起きるのか?

今回不思議だったのは、エピソードの登場する順番が資料とは違っていた事であった。どうやら「春」「秋」「冬」が本来の配列らしい。資料が間違えているとは考え難い。この映画は2ヴァージョン存在するという事なのだろうか?何らかの理由で再編集が行われたようだが、真相はわからない。

(2004/04/25)

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