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芝居の渡り鳥1

『リア王』を作る

山崎努は俺にとって最初の映画スターであった。高校生の頃。再放送で観た『新・必殺仕置人』における山崎の怪演にすっかり魅了されてから、彼の出演作を熱心に追いかけ始めた。黒澤明という巨大な門を潜ったのもこの時期である。隣町のレンタル屋さんで『天国と地獄』と『影武者』を2本一緒に借りた記憶がある。山崎はクロサワワールドに足を踏み入れる「鍵」の役割を果たしてくれたのだった。生来の映像好きである俺の事だから、いずれは黒澤の存在を意識するようになったとは思うが、もし山崎との遭遇がなかったら黒澤作品入門も遅れていただろう。案外洋画方面へ走っていたかも知れない。となると、俺は実際とは大分違う映画遍歴を辿っていた事になる。ともあれ、両才能は俺に日本映画の面白さ奥の深さを教えてくれた恩人だと思っている。山崎は仕事を選ぶ。納得出来ない脚本や企画は原則的に断るというのが彼のスタイルである。自分の気に入った仕事のみをやる。男の生き方である。俺などは単純にカッコいいなと思うが、この姿勢を貫くには相当な勇気が必要だ。その分、収入も減るし、頼んできた側の反発を生む可能性もないとは言えない。その事が次の仕事に悪影響を及ぼす事も考えられる。まあ。彼ぐらいの豪傑ともなると、そのようなセコイ思案とは無縁なのかも知れないが。とにかく半端役者には真似の出来ない芸当である。それだけ己が能力に自信があるという表れにも見える。俳優たる者、この領域に達する事がひとつの理想であろう。ラストサムライ渡辺謙が山崎を尊敬しているというのも頷ける。因みに山崎は「役者」と呼ばれる事が苦手らしい。その理由は「照れ臭いから」だそうである。

山崎の守備範囲は広い。現代劇も時代劇も器用に演じこなし、善悪両面を表現する事が可能である。どちらかと言えば悪人の方が彼の嗜好に合うようである。勿論尋常な悪人ではない。強固な存在感を放つ極めて魅力的な悪なのである。欲望なり野望なりに逆らわず、周囲の批判にも躊躇わず、自分の生きたいように生きている男。そんなキャラクターがよく似合う。桁外れのアクの強さの中に独特の茶目っ気やユーモアを感じさせる所が素敵だ。その自由奔放な生き方に俺は限りない憧憬を覚えるのだった。特に80年代の山崎の充実振りは注目に値する。映画だけを見ても名作揃いである。事実上の主演とも言える『影武者』を皮切りに『スローなブギにしてくれ』『ダイアモンドは傷つかない』『道頓堀川』『お葬式』『タンポポ』『マルサの女』『舞姫』『利休』等々…どれも山崎の個性が最大限に発揮された作品ばかりである。屈折した人物を好んで演じる俳優として緒形拳がいるが、同じアウトローを演じさせても緒形と山崎とではかなり雰囲気が違ってくる。それがまた面白い。庶民大衆が有する強靭な生命力を発動させる事に長けた緒形に対して、山崎はドロップアウトしたインテリ役を得手にしている。どちらもしぶとく逞しいはぐれ狼だが、敵に回すと異常に厄介だ。逆に味方につければ実に頼もしい存在となるだろう。両者とも素直じゃないので、そう簡単には味方になってくれそうもないが。この二人が本格的な演技合戦を繰り広げる映画を観たかった。例によって余談になるが(この文章自体、余談みたいなものだが)緒形&山崎は藤田まことと並ぶ『必殺』スターである。初期シリーズが誇る無類の面白さは彼らの活躍なくしては成立しなかった。残念ながら緒形は山崎とも藤田とも共演していない(製作ローテンションの関係か?)が、山崎と藤田は『仕置人』『新・仕置人』にて絶妙のコンビプレーを展開している。知らぬ顔の半兵衛(緒形)念仏の鉄(山崎)中村主水(藤田)これに草笛光子か山田五十鈴の女元締が加われば、江戸最強の暗殺集団が誕生する。これは観てみたい。観てみたいが年齢的にもスケジュール的にもこの顔合わせは実現不可能だろう。文字通りのドリームチームと言う訳である。

先日。山崎の著作『俳優のノート』(メディアファクトリー)を読んだ。これは1998年に新国立劇場で上演された『リア王』に関する全記録である。山崎は映像作品と併行して演劇活動にも力を入れており、客席は常に満杯だそうである。俳優座出身の彼としてはこちらの方が本業なのかな。シェイクスピア作。四大悲劇の最高作。この芝居に懸ける山崎の情熱は並々ならぬものがあり、彼は準備期間の段階から丹念に演技日記をつけていた。それを活字として起こしたのがこの『俳優のノート』である。味も素っ気もないタイトルが微笑ましい。素っ気ないと言えば、虚飾を排した簡潔な文体にも好感が持てる。そこには必要最低限の事のみが記されており、芸能人の書いた本(大半はゴーストライターが書いているのだと思うが)にありがちな「俺はこんなに偉いんだ。凄いんだ」という鬱陶しさ、押しつけがましさは微塵もない。読み応えたっぷりのこの記録書は「準備」「稽古」「公演」の三部に分かれている。どの部門も非常に綿密に書き込まれており、読者は『リア王』上演に至るプロセスを山崎の眼を通して体験出来るという趣向である。同時に観客を感動させる舞台を作り上げる事が如何に大変な作業かもわかる。満場の拍手と喝采を浴びる栄誉。役者ほど華やかで楽しい稼業はない。だが、その裏では、膨大な努力が積み上げられている事を我々は知らない。血の滲むような研鑽が重ねられている事を我々は知らない。興味本位で飛び込むと酷い目に遭う。いや、相当な覚悟を固めていたとしても栄光を獲得する者はごく僅かなのである。演劇を志す人には是非読んでもらいたい良書である。これは山崎流の演劇指南書であり、辛辣な警告書でもあるのだ。何事も舞台裏ほど興味に満ちたものはないが、山崎も芝居作りの中で様々なトラブルに見舞われている。だが、そこはベテラン、流石に落ち着いている。それらの諸問題をひとつひとつ丁寧に解決してゆく山崎。百戦錬磨の貫禄である。芝居、芝居、芝居。山崎の脳内は『リア王』一色に塗り潰されている。稽古中は無論だが、移動中も食事中も会話中も『リア王』に肉迫する事しか考えていない。この難役を完全支配下に置くまで山崎の奮闘は続く。ああ。芝居漬けとはこの事か。芝居と刺し違えるとはこの事か。ここまで来ると狂気の薫りすら感じるが「芝居を作る」という行為は本来こういうものなのであろう。そんな山崎の事だから、恐らく寝ている時も夢の中の舞台を踏んでいるに違いない。芝居作りの間、藤田敏八、伊丹十三、三船敏郎という山崎の映画人生から切り離す事の出来ない重要人物達が相次いで亡くなっている。豪胆で鳴らす山崎とは言え、精神的動揺は隠せない。盟友を失った哀しみを抱えつつ、山崎は稽古に打ち込み、ついに宿願たる『リア王』の舞台に立つ。その光景はシェイクスピア劇以上に劇的だ。この本には公演中の山崎の写真も多数収録されている。その中で最も印象的だったのは142頁の写真である。手鏡を睨み、自ら化粧を施す。山崎努という現実世界の住民が今まさに虚構世界へと乗り移ろうする瞬間を捉えた逸品である。山崎の眼光が異様に鋭い。これも必見だ。

(2005/05/01)

『煙が目にしみる』

先日。衛星放送で『煙が目にしみる』という芝居を観た。

昨年の4月、新宿の〈シアターサンモール〉で上演された作品である。

幕が開く。ソファに腰を降ろした2人の中年男(鈴置洋孝&内海賢二)が何やら訳のわからない事を喋っている。この男達は何者なのか?何をしようとしているのか?その会話を聞いている内に、彼らが幽霊である事、彼らのいる場所が火葬場の炉前ホールである事が明らかになってくる。2人が死装束に身を包んでいる理由もこれで理解出来る。ここまでが導入部。次に2人の遺族が舞台に姿を現わし、物語は本格的に動き始める。

幽霊が見えるのは観客だけ…という設定を利用した喜劇である。遺族らは本人がいない(当たり前だが)のを良い事に故人について好き放題に論じ始める。それに対する幽霊のリアクションが笑いを生み出すという仕掛けである。遺族のやり取りが故人が如何なる人生を送ってきた人間なのかを説明してくれるのは言うまでもない。その内容がわざとらしいと鼻につくが、脚本がよく練られており、鈴置&内海の生前の職業や行動が自然に伝わってくる。

先程「幽霊が見えるのは観客だけ」と書いたばかりだが、実は登場人物の中で唯1人、彼らとコミュニケーションが可能な者がいる。それが鈴置の母親(麻生美代子)である。この婆ちゃん。周囲からは「最近ボケ気味で…」と半ば厄介者扱いされているが、どうしてどうして、頭の回転は若い連中よりも速いし、機転も利く。この痛快老婆の存在がこの芝居を一層面白くしている。彼女を「中継マシン」にして、故人と遺族が語り合う場面がこの芝居最大の見せ場である。麻生の演技も名人芸の域に達しており、客席を大いに沸かしていた。わはははは。ついでに俺も数回笑い転げた。この物語の主人公は間違いなくかの婆ちゃんである。それにしても麻生の年齢を感じさせぬ活躍振りはどうだ。老人パワー恐るべし。

舞台装置を活用した洒落たラストシーンも申し分なく、こういう芝居は末席でも良いから劇場で観てみたいと思った。敢えて難を言うなら、麻生以外の女優陣の演技である。ヘタという訳ではない。むしろ巧過ぎるぐらいだ。もう少し肩の力を抜いて演じた方が良いのではないかと思った。力演熱演も度を過ぎると、かえって嫌味に映るものである。まあ、学芸会役者がでかい顔をしている昨今では、贅沢な注文かも知れないが…。

この脚本を映画にしてみたらどうだろうかとふと思った。現在の技術なら充分可能であろう。でも止めておいた方が良いかな。これは映画にすると途端に嘘臭さが目立ちそうだ。演劇にしか出来ない事をやってくれる演劇。そういう芝居が俺は好きである。

(2004/02/24)

『ギャンブラー』

先日。下北沢の〈本多劇場〉にて〈加藤健一事務所〉第53回公演『ギャンブラー』を観た。その日の前夜。新宿の小劇場で若手俳優の芝居を鑑賞した。脚本はよく書けているのに、出演者の演技がダサ過ぎて(一部を除く)えらい損をしている。余りのもどかしさに観客のイライラが募る。こちらの存在を意識しながら演技をしているようではまだまだである。頑張ってくれ。マイナー劇団のくねくねしたアングラ芝居も良いが、立て続けに観ると流石に飽きてくる。こういう時は、ベテラン俳優達が繰り広げる本格的な演劇が恋しくなるものだ。そんな事を考えながら、俺は「ぴあ」の頁を捲った。冷たい雨を避けつつ、当日券を買おうと劇場受付に向かう。座席表を見せてもらうと、既に大部分の席が埋まっていた。決して安くはないチケット代。それでも毎回客が絶えないという事が、加藤と彼率いる劇団の信用度の高さを物語る一要素と言えるだろう。加藤が今回選んだ『ギャンブラー』(ジョン・セシル・ホーム&ジョージ・アボット作/小田島恒志訳)は、大恐慌時代を背景にした秀逸な喜劇であった。主人公は若き天才詩人。この役を客演たる山崎直樹(元カクスコ)に任せて、座長の加藤は最重要脇役として出演している。賢明な判断である。競馬にカネどころか、人生の全てを賭ける中年ヤクザを、加藤は実に楽しそうに演じていた。物語が面白く、達者な俳優が存分に自分の芸を披露してくれるのだから、客席は大喜びである。2時間の長尺もあっと言う間であり、終幕後は万雷の拍手が場内を揺るがした。賭博がテーマの演劇なので、現役ギャンブラーたる尾崎君にお薦めしたいのだが…前述のように料金設定がやや高め。一応詳細を下に記しておきます。万馬券を獲られた際にでも寄って戴ければ幸いです。

【題名】加藤健一事務所第53回公演『ギャンブラー』(東京公演は3月16日迄)

【出演】山崎直樹・加藤健一/加藤忍・江間直子/さとうこうじ・松本きょうじ・大島宇三郎 他

【会場】下北沢・本多劇場(小田急線・下北沢下車5分)

【料金】前売4000円/当日4300円(全席指定)

【電話】03−3557−0789

(2003/03/02)

今年最初に観た芝居

2002年3月30日。俺は都内杉並区の阿佐ヶ谷にいた。長い幽閉生活を経て、久々の東京であった。馴染みの小劇場〈ザムザ阿佐ヶ谷〉に足を運ぶ。その時の俺は何の情報も持っていなかった。ジャンルは何でも良い。かかっている演劇を観よう。行き当たりばったり。それが俺の人生である。春も近いのにその日は肌寒かった。小劇場の前に到着。コンクリート製の階段を使って地下に潜る。薄暗い。会場の扉前に設けられた即席のチケット販売所。俺は当日券を購入する。劇団名は〈月夜果実店〉とある。タイトルは『謎のそばにいて』であった。開演まで1時間弱。俺は腹拵えの為に、駅前の飲食街に戻った。阿佐ヶ谷はやたらにラーメン屋が多い。その内のひとつの暖簾を潜る。いらっしゃいませー。湯気とスープの香り。やれやれ。この店に来るのも半年振りか。ラーメンも良いが、豚の角煮が妙に旨い店である。長身のオヤジが清潔な厨房を忙しそうに動き回っていた。

首尾良く最前列を獲得した俺は、コンクリートと荒削りの木材で形成された劇場内部をぼんやり眺めていた。一時はもう来る事はないだろうと考えていたが、俺はまたここに腰を降ろしている。都内劇場に田舎者の俺が。あれはいつだったか、かの〈柳生宗矩〉に「お前は運が強い」と言われた。ふふふ。確かにね。尤も運は運でも悪運だけど。やがて芝居の幕が上がる。物語の舞台はある山奥の女子大。その哲学同好会のメンバーが巻き込まれる摩訶不思議な体験の数々。有名な哲学者の言葉が随所に登場するが、嫌らしさを感じさせない気の利いた脚本。面白い。上出来だ。出演者の大部分が女性。座長格の中年男優がアクの強い芸を披露して爆笑を誘う。それにしても主要メンバーの若さと達者な演技には驚く。恐らく20代前半か10代後半であろう。満員の観客にも動じない堂々たる態度。声量もあり、台詞の回転も滑らかであった。大したもんや。拍手拍手。公演終了後、俺は滋賀県に戻った。

今年は合計30数本の演劇を鑑賞した。自己最多記録。何の自慢にもならないが。その内、40%は満足。30%は及第点。残りは思い出したくもねえ、という感じである。名も知らぬ劇団。見た事もない役者。聞いた事もない劇作家。彼らが織り成すアナーキーな世界に魅せられた一年であった。2003年も〈彼ら〉を追いかけてゆこうと思う。俺の悪運が続く限り。

(2002/12/29)

天井桟敷

天井桟敷という言葉を辞書で引くと「本来は身分の低い者が座る席」とあった。8月の後半。俺は下北沢の〈「劇」小劇場〉に潜り込んだ。タイトルは『ペンギンの庭』と言う。劇団名は…忘却した。劇場前は結構な賑わいを見せている。日没から随分時間が経過していたが、残暑の熱気は意外にしぶとく、俺も額の汗を何度も拭った。ガードレールに腰を降ろして、開場時間を待つ。俺の近くで、他の劇団関係者らしい女性がチラシを配っている。大半の通行人は無視。一寸気の毒に思い「何を配ってるんですか?」と聞くと、彼女は「どうぞ」とその一枚を渡してくれる。それはある劇団(やはり名称は忘れた)の新人募集要綱であった。オーディションの資格や日時等が記載されており、最後に「公演の際のチケットノルマ10枚」と結んであった。そうだろうな。今時、芝居好きの奴なんかそうはいない。無理矢理にでも席を埋めない事には格好がつかないのであろう。これが現実か。少し寂しかった。

俺に用意された席は、2階席の右端であった。俺は無造作に置かれた座布団に陣取る。定員100人程度のミニシアター。眺めは良好である。普段なら、一寸でも舞台に接近したい俺だが、その時は「天井桟敷も悪くねえな」と思った。ステージの上には職員室と思われるセットが組まれていた。入場時に貰ったパンフレットを読む。脚本と演出を担当した田村孝裕なる人物のコメントが載っている。曰く「…もしこの芝居がつまらなかったら、それはこの熱さのせいです。きっと」嫌な予感がした。

嫌な予感はよく当たる。上演時間は2時間弱だったが、俺には倍以上の長さに感じられた。それにしても脚本がダサ過ぎた。ゾロゾロと教師やら生徒やらOBやらが大勢出てきたが、その中で感情移入出来る人物が1人もいないというのはどういう事だろうか。しょうもない人物同士が繰り広げる不毛な会話の連続にはウンザリさせられた。この軽薄さは橋田寿賀子ドラマと良い勝負。無駄なシーンが多く、伏線も中途半端。故に物語の盛り上がりも何もない。劇中、出演者が盛んに小細工やら手妻やらを披露してくれるのだが、正直言って少しも面白くない。そんなもんで笑うほど観客は甘くない。終了後、作者の田村孝裕が舞台に現れて「本日はありがとうございました」と深々と頭を下げた。まあ。その心意気は大事にして欲しいが、俺としては芝居が面白ければそれで良い。俺は演劇を楽しむ為にここに来た。別に彼のお辞儀を見に来た訳ではないのだから。アンケート用紙に感想を記入する気にもなれず、俺は早々に退散した。

その3日後。俺は『夏の夜の夢』を観る事になる。演出は蜷川幸雄。

(2002/12/14)

『劇評』

かの声優劇団の公演を体験した俺は、その2日後、下北沢の〈本多劇場〉に向かった。若い役者中心の荒削りなエネルギーに満ちた芝居も良いが、時には本格的な演劇も堪能したい。下北沢という町はそんな客の要望に応えてくれる場所だ。かの劇場の本日の演目は〈加藤健一事務所〉第51回公演『劇評』である。かの管理人様が「俺は嫌いや」と仰る加藤健一が主役を張る。予約も当日券もほぼ完売。加藤が客を呼べる俳優である事は間違いないようだ。舞台装置の豪華さに一寸驚いた。今年観た芝居の中では最高級と言って良いだろう。俺の周囲は如何にも芝居好きと思わせる客ばかりである。その会話も相当にマニアックで、暫く耳を傾けていたが、俺の脳味噌じゃあ半分も解らねえ。

そして、上演開始。主人公はある著名な劇評家。辛口の論調で愚作凡作をずばずば斬り捨てる痛快さがウケている。ある日。彼の奥さんが演劇の台本を書くと言い出す。夫は馬鹿にして散々に笑い飛ばしていたが、この脚本で芝居を打とうというインチキプロデュサー(古田新太)が現れて、劇評家は大騒動に巻き込まれるのであった。流石に出演者の演技には安定感がある。子役の少年もよく訓練されていた。新進劇団の公演では、役者が台詞を間違えたり、その為に恐慌状態に陥りかけたりと、観ている方がハラハラさせられる事もしばしばだ。まあ。それがまた面白いのだが。今日の芝居はそういうスリルはなく、最初から最後まで、笑いを取る所は確実に取り、泣かせる所は泣かせるという鮮やかな観客操縦振りだった。物語後半のベロベロの酔っ払いと化した主人公の独白場面「俺は如何にして劇評家になったのか」も見応えがあった。観劇後、俺は慌しく劇場を去った。次の目的地は京都。そう。陳五郎様のライブであった。

(2002/11/22)

『ヒーロードリル』

7月の後半。劇団〈ヘロヘロQカンパニー〉の第11回公演『ヒーロードリル』を観た。場所は〈東京芸術劇場〉である。演劇鑑賞の度に大量に貰う新作公演のチラシの山。その中からこの公演を知った。劇場が宿泊所の近くであり、時間設定も丁度良かった。ただ劇団名も作品名も訳がわからない。まあ。たまには訳のわからん芝居もオツかも知れないな。そんな気楽な感じで俺は出掛けた。最寄駅を下車して会場へ。劇場自体はかなり立派である。各種設備や座席なども普段の小劇場から比べると遥かに上等である。ただ劇場内の雰囲気がいつもと違う。漠然とだが、何やら異質めいたものが漂っている。なんだろう?この劇団の座長は関智一。後から知った事だが、彼は人気声優の一人らしい。他の出演者も大半が若手声優であった。確かにその声質はアニメっぽい。そして、会場を満席にした客達の大部分が彼らの熱烈なるファンであった。俺は場違いな所に迷い込んでしまったようだった。気づいてももう遅いが。この公演は、関が脚本を書き、演出を担当し、おまけに出演もしている。残念ながら物語の内容はダラダラと長いだけで、退屈な印象が濃い。役者陣の熱演で雑な脚本をカバーしているような状態であった。一方、観客のノリは最高級だったが。とにかく贔屓の役者が登場するや否や、拍手と爆笑と歓声の嵐が渦巻くのである。芝居が面白いとか、つまらないとか、そんなものは彼らの興味の外であるらしい。これだけの喝采を浴びれば、演じる側も気持ちが良いだろうな。関さんよ。今度は脚本に充分な手間をかけてくれ。そうすれば、貴方の軍団は一層長生きすると思うぜ。

(2002/11/06)

芝居の帰り(A)

下北沢の駅を降りた頃には雨は止んでいた。俺は南口近くの駅ビルに入り、小劇場〈OFFOFFシアター〉を目指して階段を昇る。本日の演目は、かの柄本明が主演を務める『授業』である。チラシを読むと、どうやらフランス製の翻訳芝居らしい。当日券を購入。金2000円也。開場まで多少時間があるので、劇場裏の大衆食堂にて腹拵えをする。肉じゃがを酒肴にして軽くビール。その後、煮魚定食を平らげて、再び劇場へ。館内は100名も入れば一杯の規模であり、いつもの〈ザムザ阿佐ヶ谷〉に造りも雰囲気も似ている。俺は最前列の座布団席に座り込む。手を伸ばせば舞台を直接触れるような距離だ。これこそ小劇場の魅力。複数のスポットライトに照らし出されたセットは実にシンプルであった。円形のステージに椅子とテーブル。そして「窓」空中に吊り下げられている。予約組と当日券の客が続々と入場して来る。満員になった所で、芝居の幕が上がった。

柄本明登場。彼を含めて出演者は3名。柄本扮する〈教授〉の家に、「全体的博士号」とやらを習得したいという少女が訪ねて来る。物語は主に彼らの会話によって進行する。時々、皮肉屋の女中が現れて、何かにつけて暴走する教授を嗜めるという仕掛けである。流石にベテランの柄本である。複雑な台詞を完全に自分のものにしている。適所で放たれるアドリブも絶妙としか言い様がなく、客席は爆笑に次ぐ爆笑である。いや、我々だけではない。舞台上の女優2人も柄本の強烈演技に噴き出すの必死に堪えている。何しろ1メートルも離れていない場所で演じられているので、役者の表情が鮮明に確認可能なのである。1時間強という短い芝居だったが、内容がギッシリと詰まっており、終了後は心地好い充実感に浸る事が出来た。これだから芝居はやめられねえ。それにしても柄本の旺盛なるサービス精神には度肝を抜かれたなあ。拍手拍手。

その後、ホテル近くのネットカフェに潜り込み、この駄文を作成した。送信機能作動。かちり。

(2002/11/01)

『子供騙し』

緒形拳。長いキャリアを誇りながらも「代表作不在」と称されるユニークな俳優である。俺の中では、TV時代劇『必殺必中仕事屋稼業』の知らぬ顔の半兵衛や今村昌平の『復讐するは我にあり』の連続殺人鬼が強く印象に残っている。緒形は我らが千葉師匠と2度の一騎討ちを演じており、対戦成績は1勝1敗。役者の必須能力たる運動神経も発達している。今年67歳の現役俳優の滋賀公演を知ったのは1ヶ月程前だった。頻繁に利用するバイパス沿いの長浜市民会館。会館前に芝居の宣伝ポスターがデカデカと張り出されていた。水谷龍二作・三人芝居『子供騙し』と。この芝居。実は東京で観る心算であった。ところがその計画が呆気なく崩れ去り、いつものパターンで俺は不貞腐れていた。ところが、如何なる運命の悪戯であろうか。1日限りとは言え、地元長浜で公演されるとは。何やら因縁めいたものを感じつつ、10月5日、俺は会場である市民会館に向かった。

800の客席の埋まり具合は8割程度。田舎の演劇に対する関心度がこの数字に現れているような気がしないでもない。定刻を少し過ぎた所で開幕となった。照明が一旦落ちて、光が戻る。舞台中央に浮かび上がる老人。まさに緒形拳その人である。予想していたよりも体格は立派であり、声の通りも滑らかだった。彼の姿が視界に入った瞬間、映像の世界における緒形の演技の数々が、俺の脳裏をガーっと過ぎった。このベテラン俳優の最新の演技を俺は直接観ている!背筋がゾクゾクと震えるのが自分でも判った。脚本の出来は及第点程度。緒形扮する老理髪師と、そこに転がり込んできたワケありの女(富樫真)更にオカマの探偵(篠井英介)が加わわって、丁丁発止のやり取りを繰り広げる。客席の反応はすこぶる良い。中盤以降、芝居が盛り上がってくると、爆笑と拍手が会場を幾度も包む。これだけウケると役者達も乗ってくる。各登場人物が自分の血液型を順番に紹介する件で、緒形が「俺O型」と駄洒落をかますと、観客は大喜び。何でもないギャグだが、タイミングが絶妙。つくづく笑いは間の取り方である。公演終了後、お馴染みの花束贈呈が行われた。その際、緒形は小さくガッツポーズ。緒形はほぼ全篇を通じて出演していた。その間、客の興味を巧みに引きつける技は流石にプロ中のプロと言えた。最近、緒形は演劇に力を入れて活動しているそうな。原点回帰の意味もあるのだろう。大いにやってもらいたいものである。この老優に乾杯。

(2002/10/14)

『梵天でかくれんぼ』

7月中旬。俺は地下劇場〈ザムザ阿佐ヶ谷〉の最前列に座っていた。階段状の木造座席と薄暗い館内。この独特の雰囲気はいつ来ても良い。さて本日の出し物は、劇団〈フールズキャップ〉の第13回公演『梵天でかくれんぼ』である。チラシによれば原発ジャックを題材にした演劇らしい。平日ながら満員に近い状態だ。出入り口のドアが静かに閉まり、やがて芝居の幕が開く。最新設備を誇る原子力発電所〈梵天〉が物語の主要舞台である。この最新施設にに侵入を果たす〈桃太郎〉〈犬〉〈猿〉〈雉〉と名乗る4人のテロリスト達。彼らは「無血クーデター」などという夢物語を標榜する狂信集団の構成員である。侵入者と真っ向から対決する警備主任とその部下。そこに生意気な新聞記者とボケ老人。そして、地元の土建屋の息子と三流代議士が絡んで、エゴ剥き出しの死闘を繰り広げる。出演陣は全員が汗だくの大熱演。しかし、もう少し肩の力を抜いて楽に演じても良いのではないかと思われた。熱演も度を過ぎるとクドい。警備主任の部下の1人を演じていた女優が、何となく我らが偶像〈弁財天〉に似ていたのが面白かった。常に冷静な態度を崩さない彼女が、終盤、ふにょふにょした新入りの言動にブチ切れて「聞けっていうのがわからねえのか!」と怒り爆発。会場全体がびりびり震えた。あの新入り、何だか俺みたいだな。終盤、作戦失敗を認めたテロリスト達は自らの命を絶つ。大団円も良いが、苦いラストシーンも悪くないものだ。つい先日、某原発の壁の裂傷が問題になった。案外かの施設の防衛システムも怪しいかも知れぬ。だとすると、この芝居もたかが虚構と笑ってばかりもいられない事になる。不思議なのは、原発問題をテーマにした日本映画がほとんど見当たらない事である。元来、映画は刺激的題材を扱うものだった筈である。毎回毎回、毒にも薬にもならない作品の羅列ばかりじゃあ客は集まらねえ。俺が演劇に傾倒してしまう理由はこの辺にある。

(2002/10/01)

『ハイ、本番です!』

7月の中旬。演劇ユニット〈LOVE SESSION〉の第2回公演『ハイ、本番です!』を観た。小屋は下北沢〈『劇』小劇場〉である。人気劇団らしく、会場には熱心な演劇ファンが詰めかけていた。空調設備の調子が悪いらしく、館内は異様な熱気に満たされていた。立派な顎鬚を蓄えた精悍な男が、続々と入場してくるお客を各座席まで案内していた。全ての客席が埋まると、若い女性劇団員が舞台に立ち「皆様。本日の御来場ありがとうございます。真に恐れ入りますが、携帯電話やアラーム音は演出の妨げになりますので必ず電源をお切り下さい。尚…」と、聞き慣れた前口上を述べ始めたのだが、実は既に芝居の幕は開いていたのである。例の鬚男も颯爽と壇上に昇り、若き女優と軽妙なやり取りを展開する。観客の意表を衝く趣向である。我々は一挙に作品世界へと引き擦り込まれる。脚本も随分凝っており、無駄な登場人物が一人もいないのが心地好い。出演者全員が自身の演技能力を大いに発揮していた。劇中、歌と踊りの大サービスも繰り広げられて、客席はバカ受け。演技者も観客も汗だくの2時間であった。これだけの芸を披露する為に彼らは相当な研鑚を積んだ筈である。上演の間、熟練者特有の余裕が俺には感じられた。だからこそ、爆笑を誘発するアドリブも可能なのである。演劇の特性を生かし切った公演だった。お見事!

北海道から戻った俺に、4通の残暑見舞いが届いていた。その内の1通は、なんと〈LOVE SESSION〉からのものであった。この度の公演は大成功。今後とも応援よろしくとある。俺の如き田舎者にまで、わざわざ手書きの便りを送ってくれるとは…。芝居も良かったが、この細やかな心遣いには感服した。人を呼び寄せておいて、挨拶すらしようともしない何処かのアホとは大違いである。次回公演は来年1月の予定とか。彼らの益々の活躍に期待しよう。関東在住の皆々様。もしも、時間と財布に余裕がおありでしたら〈LOVE SESSION〉の新作に是非御来場下さい。

(2002/08/18)

旗揚げ公演2本

5月の中旬。新進劇団の旗揚げ公演を連続で観た。1本目は劇団〈いちじく〉の『ミニシアター殺人事件』である。場所は新宿御苑駅近くの地下劇場。名前は失念してしまった。パンフレットには「観客参加型の新感覚演劇!」とあった。宣伝文句に偽りはなかった。最前列のお客を舞台に上げたり、突然クイズが始まったり、観客の中に役者が潜伏していたりと、様々な趣向が凝らしてある。そのサービス精神は大いに買いたいが、出演者の演技が稚拙すぎた。大半の俳優が、役の顔ではなく、本人の顔で芝居をしているのである。これはシラける。折角の仕掛けも台無しだ。中には熟練者もいるのだが、全体のレベルが低過ぎてとても支え切れない。舞台に立った以上は道化に徹しなくては駄目。その翌日〈ザムザ阿佐ヶ谷〉にて、劇団〈ホットプレス〉の『いつかの妖怪たち』を観劇。資料には「旗揚げ準備公演!」とかいう訳のわからない事が書いてある。それでも、客席は満員御礼。劇団関係者の友人がかなりいたようだが。感想を一言で述べると「長かった…」となる。脚本家兼演出家は「出演者全員に見せ場を作りたかった」と言っていた。その気持ちはわからないでもないが、それには余程の腕前が要求される。3時間近い上演時間だったが、出演者は台詞を覚えるのが精一杯という感じであった。削除すべき部分が随分あったように思う。俺は演劇が好きだし、役者や演出家を志す人は微力ながら応援したい。だからこそ、余りにも酷いアラは見過ごす事は出来ない。芝居に懸ける情熱は認めよう。だがこちらも幾ばくかのカネと時間を使って、この場所に来ているのだから、それなりのモノは観せて欲しい。情熱だけでは贔屓客はまずつかない。

(2002/08/06)

同じ芝居を2回観る

今年の4月22日。地下劇場〈ザムザ阿佐ヶ谷〉にて、男優4人からなる小劇団〈ギグル〉の公演を観た。劇場に入ると舞台装置と呼べるものは見当たらなかった。演技力と脚本で勝負するタイプらしい。5本のミニコントの間に2人組の演奏が挟まるという構成。どのコントも趣向が凝らしてあり、かなり面白い。最後のアドリブ合戦も見応えがあった。上演終了後、不敵な表情をしたリーダー格が進み出て「明日もやりますので、是非来て下さい。料金は面倒臭いから結構です。今日のチケットを見せて戴ければ、入場OKです」と太っ腹な事を言う。図々しい俺は翌日も〈ザムザ〉に足を向けた。余りにも厚かましいと思ったので簡単な手土産だけは持参した。同じ芝居を2回観るのはこれが初めての経験である。芝居は昨日感じた無駄な部分が削ぎ落とされており、洗練を極めていた。客席は爆笑に次ぐ爆笑である。終了後、例のリーダーが「今日は気持ち良く演じさせて貰いました。ありがとうございました」と、深々とお辞儀をする。それを受けて、忽ち拍手が巻き起こる。これぞライブの醍醐味である。良い芝居だった。

(2002/07/14)

芝居漬け

今月は4本の芝居を捕捉する事が出来た。即ち(1)『怖いの嫌い!』(2)『殺人狂時代』(3)『カナリア放送局』(4)『スノー・クイーン』という作品群である。各々に工夫が凝らしてあり、各々に独自の面白さがある。予備知識零で選んだ結果が、4打数4安打というのだから、俺の悪運も大したものである。或いは日本の演劇水準は相当に高いのであろうか。(2)(3)の感想は既に述べた。(1)は観客の拍手と爆笑を呼んだ上質の喜劇。深夜の学校を舞台に〈お化け屋敷作り〉に取り組む教師達の物語である。出演者の絶妙のやり取りに俺の隣席の女性客は、抱腹絶倒していた。(4)は昨日観賞。ミュージカル嫌いの俺をも引きつける力量に感心した。役者全員に訓練がゆき届いており、ドッシリとした安定感がある。脇狂言もかなり面白く、ステージを飛び出す豪快な演出も良かった。演劇という魅惑的な世界に俺は益々埋没してしまいそうである。さて、来月は何を観ようかな…。

(2002/06/30)

『カナリア放送局』

劇団〈東京スウィカ〉の水無月公演『カナリア放送局』を観た。場所はお馴染みの地下劇場〈ザムザ阿佐ヶ谷〉である。先日観た『殺人狂時代』のようなハードな演劇も面白いが、こういう娯楽に徹した芝居もまた良い。物語はやや類型的。あるアパートの住人の生活を描いたものである。会場には大掛かりな舞台装置が組まれており、立体的な演劇空間が楽しめた。劇中、アカペラをふんだんに盛り込むというサービス精神が嬉しい。出演者は芝居と歌という両刀を見事に使いこなしていた。芸達者な大人の俳優に混じって、子役の少年が奮戦を展開していたのも印象的だった。終了後、彼と少し話す機会があった。中学1年のこの新進俳優は、今回の公演の為に2ヶ月の稽古を積んだという。劇の後半、彼扮するアパートのオヤジの息子が盛大にコケる場面があった。余りにも見事なコケ振りに場内が一瞬ざわめいた程だった。彼は「予定通りの演技です」と余裕の笑みを浮かべていた。おいおい「ニュース・アライブ」の橘某よ。芸人として完全に負けているぜ。頑張ろうぜ。子役の名は伊山伸洋。将来、彼が大成してくれると面白いのだが。その頃、俺は何をしているのか…今と大して変わらねーだろうな。

(2002/06/27)

『殺人狂時代』

昨夜、強烈な芝居を観た。流山児祥の筆による『殺人狂時代』である。場所は下北沢本多劇場。話題の演目らしく、場内は超満員である。俺の席は、急遽用意されたパイプ椅子という有様だった。俺がこの芝居を観たいと思った動機はミーハー的でちと恥ずかしいが、TV『必殺仕置屋稼業』映画『利休』で印象的だった観世榮夫と、ラジオドラマ版『カムイ外伝』に出ていた大谷亮介の両雄が出演するからであった。2人のナマの芝居を堪能出来る好機と、俺は一路下北沢に向かった。薄汚れた倉庫を舞台に、12人の傭兵達が繰り広げるディスカッションドラマである。出演者全員が百戦錬磨の猛者であり、彼らの演技合戦の数々は観る者を圧倒する迫力であった。極めてアナーキーな内容だったが、演劇とは元来こういうものなのであろう。

(2002/06/12)

『ハダカノオレサマ』

一昨日。俺は新宿の小劇場〈THEATER/TOPS〉を目指していた。本日の演目は、劇団〈双数姉妹〉の『ハダカノオレサマ』である。例の如く、汗だくになりながら俺は劇場受付に滑り込む。当日料金3500円を支払い、指定の席に着く。館内は満員に近い状態。開始まで、後10数分。客席に置いてある山のようなチラシに目を通し、時間を潰す。それにしても凄まじい量だ。都内では、連日連夜、至る所で演劇が上演されているらしい。演る方も大変だが、これを追いかける奴も大変である。照明が落ち芝居の幕が上がる。安保闘争に日本が揺れていた時期の東京大学を舞台にした物語である。良質の脚本、俳優陣の達者な演技、腹を抱えて爆笑する観客達。泣かせる幕切れも用意してあり、緩急自在。見事なものである。

(2002/05/17)

『葡萄酒いろのミストラル』

東京宿泊最後の日。演劇情報誌の頁を捲る。シアターサンモールにて午後7時半より、劇団シアターキューブリックの『葡萄酒いろのミストラル』公演とある。どんな内容なのか見当もつかないが、行く事にした。現在位置は御徒町、時刻は午後6時半。俺は走り出した。まず、JR秋葉原を目指す。最終目的地は、地下鉄丸の内線新宿御苑前だ。秋葉原からお茶の水に着く。ここで下車…したのが失敗であった。四谷で丸の内線に乗り換えるべきだったのだ。各駅停車する電車にイライラしながら時計ばかり見る。新宿御苑前にようやく到着。出口を出て、ファミレスの手前を左に曲がる。時間がないぞ。走れ走れ走れ。四つ目の角を右折。劇場の看板を補足した。安堵も束の間。息を切らして、受付に飛び込む。自由席は1000円という安さであった。

劇場に入ると、最前列の自由席が空いているので、有り難く座る。芝居は演者に出来るだけ接近した方が良い。時刻は午後7時15分。先程迄、狂ったように走り続けていた自分を思い出し苦笑する。俺の隣席は余り芝居演劇とは縁のなさそうな婆さんであった。フル稼動していた心臓が平常運転に戻った頃、公演開始。この劇団の芝居を観るのは、今日が初めてだ。明日をも知れぬ俺としては、これが最初で最後となる可能性も高い。だから、一生懸命観る。物語の舞台は敗戦から数年を経た東京。犬や猫や馬という動物が、メインキャラクターである。出演陣は皆熱演。ステージをところ狭しと、駆け巡る。客席に突入しかねない凄まじい勢い。隣りの老婆がいちいち悲鳴を上げていた。感動的な芝居だったが、個人的にはもう少し毒気が欲しかった。

(2002/04/26)

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