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娯楽三昧

娯楽三昧 その五

『魔界転生』

剣客、神童、豪傑、ズラリと並んだ八名の勇者。

その誰もが物語の主人公足り得る個性を備えている。

実際、彼らを主役に据えた小説・映画も数多い。

この豪華絢爛たるメンバーと隻眼の剣豪・柳生十兵衛が死闘を繰り広げるという奇想天外な小説がある。

鬼才・山田風太郎の代表作『魔界転生』である。

現実には絶対に有り得ない「夢の対決」である。

山田は《魔界転生》という秀抜なアイディアを捻り出して、途方もない「夢」を実現してしまったのである。

この世に強烈な未練や執着を残して死んでいった者達を、地獄の底から呼び戻し、復活させる禁断の忍法。

それが《魔界転生》である。

傑作揃いの山田作品の中でも一際異彩を放つこの物語の映像化に挑戦したのが、これまた破天荒な作風で知られる深作欣二であった。

原作は全二十四章、千頁を超える長篇小説である。

多彩な登場人物の削除と物語の整理。

加えて《魔界転生》のルールの簡略化。

深作は試行錯誤を重ねて、脚本を完成させた。

長大な原作を適格にまとめ上げた労作である。

娯楽性を重視したのは良いが、史実無視が著しい点は非難の対象になりかねない。かつて、将軍家光の首を撥ねた深作にとっては、何でもない事かも知れないが。

映画版に登場する魔剣士は、天草四郎、宮本武蔵、宝蔵院胤舜、柳生但馬守の四名。

魔剣士軍団の総帥たる森宗意軒は登場しない。

天草四郎が脇役から主役級のキャラクターへと格上げされており、宗意軒に代って幕府殲滅を画策する。

この復讐鬼に沢田研二が配役されている。

残念ながらこれがミスキャストであった。

ジュリーはこの荒唐無稽な役柄を、最初から最後まで持て余し気味であった。

ぎこちない沢田の演技は観ていて辛いものがある。

残り三名の配役には不満はない。

宮本武蔵に緒形拳。

宝蔵院胤舜に室田日出男。

柳生但馬守に若山富三郎。

後年、緒形は文芸アクション(!)映画『火宅の人』『華の乱』でも深作と組んでいる。前者では主人公を飄々とした味わいで演じつつ、監督の本音をも表現するという名演を披露。後者のダメ親父振りも実に楽しい。

室田は川谷拓三と並ぶ深作映画には欠かせない名脇役の一人だ。深作の下で才能を磨いた室田は、凶暴性の中にユーモアを感じさせる逸材へと進化したのである。

若山は『新仁義なき戦い』『青春の門』に続く三度目の出演。弟の勝新太郎に劣らぬ重量感を備えており、運動神経も抜群だ。実子・十兵衛との勝負に異常な執念を燃やす但馬守を、貫禄たっぷりの演技で表現している。

魔剣士軍団を追撃する者。

柳生十兵衛。

十兵衛に扮するのは日本屈指の活劇俳優・千葉真一。野性味溢れる千葉にとって、十兵衛はまさに適役であり彼自身、最も気に入っているキャラクターだという。

深作映画における千葉の躍動感は素晴らしい。

深作の活劇精神に千葉が心酔し切っている事が、画面を通してこちらに伝わってくるようである。

深作も千葉の魅力を引き出す要領をよく心得ている。

妖刀村正。

対魔人の必殺武器を獲得した十兵衛の逆襲が始まる。

試し斬りの相手は宮本武蔵。

千葉十兵衛と緒形武蔵の対決である。

かの巌流島に酷似した船島で繰り広げられる血戦。

この八年後、千葉と緒形は『激突・将軍家光の乱心』という作品でも一騎討ちを演じている。

千葉がアクション監督と最大の敵役を兼任した、入魂の集団時代劇である。随所に千葉の活劇美学が光る。

いずれは取り上げてみたい映画だが今回は割愛する。

本作最大の見せ場。

燃え盛る江戸城の中で二大剣鬼が対峙する。

若山但馬守と千葉十兵衛。

生前、将軍家指南役の職務に邁進。内に秘める激烈な闘争本能を常に抑制し続けてきた但馬守。

一方、退屈な指南役を放棄して、武者修業を理由に諸国を放浪。豪放無頼に生きてきた十兵衛。

性格もライフスタイルも余りに対照的な父と子。

史上最強を誇る柳生剣法の頂上決戦が開始される。

千葉の反射神経も凄いが若山の太刀筋も極めて鋭い。

研ぎ澄まされた技量と刃が火花を散らす。

十兵衛のトレードマークである眼帯が吹き飛び、村正が砕け散る。恐るべし、但馬守の豪剣!

立ち回りに関しては絶大な自信を持つ両雄の激突。

この剣戟場面は息をもつかせぬ迫力に満ちている。

辛くも勝利を収めた十兵衛の前に現れる最後の敵。

天草四郎。

魔剣士軍団を操る首魁の登場である。

だが、この最終決戦は今ひとつ盛り上がらない。

沢田では千葉の動きについてゆけないのである。

ここにきて、またしてもミスキャストが響いた。

志穂美悦子。

この場面を観る度に志穂美の名前が浮かぶ。

深作は舞台版『魔界転生』の演出も手掛けている。

この芝居で四郎役を務めたのが志穂美であった。

千葉の愛弟子たる志穂美なら激しいアクションもこなせるし、深作とも気心が知れている。

志穂美四郎なら、千葉十兵衛と互角の闘いを演じる事も充分可能だっただろう。

四郎の有する中性的な魅力を醸す事も出来た筈だ。

但馬守との父子対決に続く「師弟対決」という面白味もあった。

もし志穂美が出演していれば、この映画の完成度が更に上がった事はまず間違いない。

十兵衛の活躍によって魔剣士軍団は全滅した。

しかし、幕府の支配拠点たる江戸城は灰燼に帰した。

幕府首脳のほとんどは但馬守が斬り殺してしまった。

四郎の計画は達成した訳である。

焼け崩れる江戸城の中で十兵衛は何を思うのか…。

国家権力に猛烈な反発を抱く深作らしい結末である。

深作には、柳生一族を描いたもう一本の映画がある。

その名も『柳生一族の陰謀』。

長らく時代劇から遠ざかっていた東映が、その復活を目論んだ巨大プロジェクトであった。

主演は東映最後の時代劇スター萬屋錦之介。

豪腕深作が制御出来なかったほぼ唯一の存在。

狂気を孕んだ、錦之介の熱演が全篇に炸裂する。

『魔界転生』に匹敵する獰猛なエネルギーに満ちた異色作であり、千葉十兵衛の原点ともなった映画である。

誌面が尽きたので、その話は別の機会に。

(一九八一年公開)

初出『奇魂』第八號(2004/03/03刊)

娯楽三昧 その四

壱『フルメタル・ジャケット』

スタンリー・キューブリックは寡作の映画監督であった。原作を吟味し、撮影の準備に惜しみなく時間を注ぎ込む。その為、新作の発表頻度が極端に遅くなる。作るからには妥協はしたくない…完全主義者の業である。

『フルメタル・ジャケット』はキューブリックが得手とする戦争映画である。題材はベトナム戦争。

前半と後半を綺麗に割った二部構成がユニークだ。

前半は「訓練篇」である。高校を卒業したばかりの若者達が体験する新兵訓練の風景を克明に描いている。

映画の導入部、彼らは自慢の髪の毛をバリカンで刈り込まれる。兵隊に個性や感情は不要という事か。

この剃髪場面は、映画の主題を適格に捉えている。

鬼教官ハートマンの登場。彼の目的は、若造どもを優秀な殺戮機械に仕立て上げ、戦場に送り込む事である。

入隊式。いきなり「手前らは蛆虫だ。地球上で最下等の生物だ」と新兵達を徹底的に罵倒するハートマン。鉄拳制裁は勿論だが、罵詈雑言の嵐がとにかく凄まじい。生徒達の人間性を完全否定し、破壊し尽くすのである。いや〈人間〉であっては困るのだ。あくまでも〈機械〉になってもらわなくては。この男も同様の教育の果てに誕生した怪物であろう。自分の職務に対する嫌悪や疑問など微塵もない。これが軍隊という組織の真実なのか。

ハートマンの桁外れのアクの強さは観客に強烈な印象を与えるが、彼を演じるリー・アーミーは実は素人である。元々、アーミーは演技指導の顧問として、キューブリックが呼び寄せた軍隊経験者。撮影を続ける内に「アーミーにやらせた方が面白い映画が出来る」と監督が判断したらしい。アーミーは期待に応え、既存俳優にはない存在感と迫力を発揮している。自分の理想を構築する為に出演者をギリギリまで追い詰めるキューブリック。ハートマンはその分身と言えるのかも知れない。

後半、戦地へと赴いた新兵達は〈恐るべき敵〉と遭遇する事になる。正確無比の射撃術で、次々と仲間を血祭りに上げてゆく〈敵〉の正体とは?それを知った者は、異様な虚無感に襲われる事は間違いない。一体、あの過酷極まる訓練は何だったのか…前半の緻密な描写の数々がラストで痛烈な皮肉として浮上する鮮やかさ。キューブリックが仕掛けた罠の威力を、是非味わって欲しい。

(一九八七年日本公開)

弐『ノストラダムスの大予言』

一九七三年、小松左京の小説を映画化し、日本列島を海中に沈めた東宝が次に選んだテーマは『ノストラダムスの大予言』であった。当時話題を呼んでいた五島勉の怪ベストセラーを礎石とした物語を、豪華キャストと破格の製作費を投入して作り上げた一大地獄絵図であり、日本特撮映画史上に名を刻む最強の異色作である。

主演の丹波哲郎が常軌を逸した熱演を見せる。

丹波扮する西山良玄は異常に正義感の強い科学者である。冒頭から「彼らは一体何を考えているんだ!」と、怒り爆発。この調子で全篇怒鳴りっ放しという物凄さ。

西山は環境研究所所長として公害問題と対策に取り組でいる。彼の一族はどういう訳か、ノストラダムスの『諸世記』の研究を代々続けており、西山は予言の現実化を回避すべく孤軍奮闘。獅子奮迅の活躍を展開する。

西山の敵は企業であり、日本政府である。庶民には慕われているが、彼の行動を快く思わない者も存在する。その為、自宅や愛娘の職場に厭がらせが頻発しているが西山自身は全く気づいていないのが、妙に可笑しい。

度重なる異常現象、夢の島に突如現れた巨大ナメクジの大群、赤潮に侵された日本近海は死の海と化し、東京の地下鉄にはコンクリート壁をブチ破って、怪獣…ならぬ突然変異の大型植物が出現。構内に繁殖を開始する。

「このままでは人類は滅びるぞ!」怪事件続発を破滅の前兆と感じた西山は、政府首脳の説得に乗り出すが、ほとんど相手にされない。逆にノストラダムスなどという詐欺師の戯言を信奉する西山は嘲笑を浴びるハメに。当然「何を言うか!」と大声で猛反撃に出る西山だが、肝心の「人類救済計画」の方は遅々として進まない。

異常事態は日本だけではなく世界中を覆い始める。

滅亡の恐怖に怯える日本国民は自殺者が急増。汚染された都市上空に現れた「鏡」を見て多数の市民が発狂。そんな中、病弱の西山の妻がついに息を引き取る。個性の強過ぎる夫に振り回され続けた生涯であった。合掌。

そして〈恐怖の大王〉が降臨する。最終戦争の勃発である。特撮特有の泥臭さ嘘臭さが、悪夢的映像の創生に貢献している。人類は死滅したかに見えたが…核爆撃に晒された大地に蠢く異形の者があった。それは、激烈な放射能の影響により、醜悪に変貌したヒトの姿だった。

『ノストラダムスの大予言』は諸事情により、ソフト化もTV放映も禁じられている。不当極まる扱いだが、この作品に相応しい呪われた勲章と言えなくもない。

(一九七四年公開・舛田利雄監督作品)

参『ドーベルマン刑事』

今年急逝した深作欣二は、アウトロー映画の名手であった。社会からも秩序からも逸脱した獣のような男達。彼らが演じる血戦を深作は好んで描いた。代表作『仁義なき戦い』において、深作のスタイルは完成を迎える。 高い確率でヒットを飛ばす深作は、コンスタントに映画を撮り続けており、SF、文芸、時代劇と懐が広いのも特徴である。どのジャンルの映画にも何処かアナーキーな雰囲気が漂っており、作家の個性を強く感じる。

そんな深作と最も相性が良かった役者の一人が、日本を代表する活劇俳優・千葉真一である。深作はスタッフやキャストの意見を積極的に取り入れる事で有名であった。一方の千葉もアクションシーンに関しては、天才的な閃きの持ち主であった。両雄は撮影現場においても盛んに意見交換を行い、スピード感溢れる名場面を創造。国内だけでなく海外の活劇マニアの喝采も博している。

『ドーベルマン刑事』は深作と千葉が組んだ好篇のひとつ。原作は同名の人気マンガだが、タイトル以外は共通点はほとんど見られない。と言うより「原作に忠実な映像化」など最初から考えもしていなかったようだ。

沖縄出身の刑事(千葉)が、新宿警察署を訪ねて来る場面から映画は始まる。この男、犯罪者や悪党は片っ端から殺しまくるという問題児であり、仲間内からも〈ドーベルマン〉という渾名で忌み嫌われている。

千葉上京の目的は、焼殺された知人の遺骨を受け取る為であった。だが、その裏に策謀の匂いを嗅ぎつける。 劇中、千葉の前に二人の強敵が立ち塞がる。

一人は室田日出男(深作映画常連)扮する狂信警官である。彼は「街を汚す奴は許さない」という信念に取り憑かれており、自己の法則に従って殺人を重ねてゆく。

もう一人は松方弘樹演じる暴力団崩れの芸能プロダクション社長。彼は「ヤクザの世界では落ち零れたが、この世界では必ず天下を取ってみせる」という野望に燃えており、ヤクザ流の奇策を巡らせる。千葉が密かに思いを寄せていた女性を奪った憎い男。言わば恋敵である。

好敵手を得たヒーローは活躍し易い。続々と襲い来る刺客を撃破する千葉。強靭な肉体から繰り出されるアクションはやはり迫力が違う。後半、最強の飛び道具を入手した千葉は決戦に臨む。彼はもはや刑事ではない。桎梏から解き放たれた狂犬であり、室田も松方も問答無用で撃ち殺す場面は、暴走気味の面白さを醸している。

肩の凝らない娯楽映画として、最高の一品である。

(一九七七年公開)

初出『奇魂』第七號(2003/06/23刊)

娯楽三昧 その三

壱『ルパン三世』

モンキーパンチ原作のアニメシリーズ『ルパン三世』の人気は根強い。第一TVシリーズが開始されたのは、一九七一年。映画界では、かの『ダーティーハリー』が予想外のヒットを記録し、ブルース・リーが国際的に売り出し始めた年である。破天荒な登場人物が織り成す意外性に富んだストーリー展開が『ルパン三世』の魅力。このアニメーション化に挑んだのが、演劇畑出身の大隅正秋だった。この時代としては画期的と言える「大人の観賞に耐えるアニメ」を目指し、大隈は奮闘を続ける。

しかし、その野望は頓挫してしまう。作品の質は高かったが、視聴率が低迷。大隈はシリーズ序盤にて、退場を余儀なくされる。その後を引き継いだのが、若き日の高畑勲と宮崎駿であった。それでも支持は得るには至らず、番組は早々に打ち切られた。両才能の現在における知名度と活躍振りを考えると、信じ難い結末だが、この頃の二人は一般的には無名の存在に過ぎなかったのだ。

その五年後、第二シリーズの放送が開始される。第一シリーズ再放送の好評が原動力となり『ルパン』は復活を果たしたのである。但し、内容的には子供向けの色合いが強い。故に『旧ルパン』のアナーキーさを好むファンには不評だったが『新ルパン』は常に高い視聴率を弾き出した。全一五五話・放送期間三年。その間、映画版二本が製作。劇場公開されるという華やかさであった。

その後も『ルパン』は驚異的な生命力を示す。八四年に第三シリーズ開始。前述の二本とは別に、三本の劇場版が封切られている。現在も継続中のTVスペシャルは夏の恒例番組として定着している。世代を超えて観る者を魅了する怪物アニメ。その最大要因が、強烈な個性を誇るメインキャラクター五人の存在であろう。アナクロな設定としか言い様がないが、均整の取れた絶妙の布陣である。或いは、そのアナログさが、デジタル社会に埋没した我々に、懐古の念を呼び覚ますのかも知れない。

モンキーパンチは寛大な原作者である。この五人さえ登場すれば「後は好きにやりなさい」というスタイル。先の人物設定を生かせるかどうかは,料理人の腕次第。多くの映像作家がこの素材に取り組んでいる。TVシリーズと劇場版を合せて二五〇本を越えるエピソードがあるが、その中から高い完成度を誇る劇場版二本を選んでみた。両作品は『ルパン』としては勿論、映画として観ても充分面白い。これを凌ぐものは今後まず現れまい。

弐『ルパンVS複製人間』(一九七八年公開)

第二TVシリーズ好評に力を得て製作された、劇場版第一作。ファン内では『マモー篇』とも呼ばれている。

監督の吉川惣司は業界では中堅クラスの演出家。クローン人間というSF要素の濃いテーマに、これでもかとマニアックな小道具を詰め込んで、面白い作品に仕上げている。強引な展開が各所に見られるのは否めないが。

冒頭から痛烈だ。コツコツと死刑台の階段を昇る男。誰であろう、この物語の主人公・ルパン三世である。そして〈彼〉は絞首刑により、呆気なくこの世を去る。宿敵の死を聞いて、銭形警部はルパンの遺体が葬られたという古城へと急行する。安置された棺を開く銭形。見間違える筈もないルパンがそこにいた。愕然とする銭形の前に〈別のルパン〉が姿を現わす。奇怪な事に彼もまた〈本物のルパン〉なのだ。混乱を深める銭形。ではこの死人は一体何者なのか?お馴染みのメインテーマがスタート。軽快な音色に乗って謎に満ちた物語が滑り出す。

映画でもアニメでも、強力な悪役を創造出来るかどうかが活劇成功の分岐点。極端に言えば、面白い好敵手が得られさえすれば、物語は自動的に転がってゆくものである。この作品はその条件を満たしている。不老不死と世界征服を標榜するマモーの存在感。そのスケールはシリーズ史上、最強最大だ。声を担当した実力派俳優・西村晃の怪演も強烈な印象を放つ。一万年前に誕生したという神秘的生命体・マモーは、独自のクローン技術を開発。複製に複製を重ね、時間を超える旅を続けてきた。開幕直後に吊されたルパンも、マモーの仕業であった。

カリブ海に浮かぶマモーの秘密基地にて、激突する両雄。永遠の生命に対するマモーの熱弁を聞いても、ルパンは動じない。生物は誕生し、やがては死を迎えるのが自然界の掟。それに逆らう愚かさをルパンは指摘する。

後半「処刑されたのは、コピーではなくオリジナル。お前は複製のルパンだ」と、マモーはルパンに告げる。思わぬ精神攻撃にさしものルパンも愕然。その言葉の真偽を確かめるべく、宿敵の牙城へ赴くルパン。史上最高の盗賊として、この世のあらゆる財宝を我がものとしてきた彼だが、恐らく〈自分〉を奪還しに行くのは初めての経験だろう。この作品の独自性はまさにここである。

脇を固める次元と五右ェ門がアウトローの魅力を大いに発揮している。中盤、女色に惑わされるルパンに呆れ果てた両者は戦線離脱するものの、盟友が敵中に墜ちたという情報を知るや、迷わず動き出す。サラリと描かれる男の友情が心地好い。ルパン対マモーの死闘も見物だが、不二子の可愛さと銭形の執念も秀逸。三波春夫が絶唱する「ルパン音頭」がこの異色作を締め括っている。

参『カリオストロの城』(一九七九年公開)

宮崎駿初の監督作品である。前作の雰囲気とはガラリと変わった、宮崎の才気が全篇に迸る痛快冒険活劇。

過去に幾度も世界経済を揺るがせた伝説の偽札「ゴート札」製造の本拠地・カリオストロ公国に、ルパンは相棒と共に乗り込む。首尾良く潜入を果たしたルパンは、花嫁姿の美少女に出遭う。ある陰謀の渦中に引き摺り込まれた彼女を救出すべく、ルパン達の大活躍が始まる。

架空の国・カリオストロを舞台に、宮崎一流の息をもつかせぬ冒険物語が展開する。宮崎この時、三十八歳。アニメーターとしても演出家としても、脂の乗り切っていた時期であり、溢れ出るアイディアをこの映画に贅沢に注ぎ込んでいる。最近の宮崎作品は「重厚なテーマ」に束縛されていて少々説教臭い。この頃は本気で娯楽映画を作ろうとしており、人物造型も実に鮮やか。主役級から端役至るまで、愛すべき生命が吹き込まれている。

本篇の敵役は、世界最小の国連加盟国を統べるカリオストロ伯爵である。前作のマモーに比べれば、レベルダウンは否めないものの、倒し甲斐のある強敵と言える。悪党である事は間違いないが、一国の宰相としての風格と器量は充分に備えている。伯爵の本業は権謀と暗殺。彼は〈カゲ〉と呼称される直轄部隊を自在に操り、国営の前に立ちはだかる数々の障害を排除してきた。伯爵自身も勇猛果敢な戦士であり、クライマックスでは、愛剣を颯爽と抜き放って、主人公と一騎討ちを演じている。

王家の血を引く少女・クラリス。伯爵の目的は彼女の持つ指輪である。彼もまた先祖伝来の指輪を保有しており、その二つが揃った時、秘められた財宝への扉が開くという。両者の関係は、宮崎が後に発表する『天空の城ラピュタ』に登場するシータとムスカのそれとほぼ同一である。何か「とてつもないもの」を入手する為に必要な「鍵」の存在とそれを巡る熾烈な争奪戦は、冒険活劇の王道であり、宮崎好みのモチーフのひとつでもある。

宮崎作品には、彼の美学が貫かれた多種多彩なメカニックが登場する。不思議な愛嬌を湛えたソフトなデザインに滑らかな動きを見せてくれる一連のメカ群は、映画を盛り上げる〈名優〉として重要な役割を担っている。

この作品の代表メカは、やはり伯爵の居城であろう。外観は古式蒼然たる石造りの城だが、その内部は電波探知器と小型レーザー砲を装備した難攻不落を誇る要塞である。城内には大規模な偽札製造工房が隠されており、各国の侵入者を阻む様々なカラクリが施されている。そして、その地下は大勢の犠牲者が眠る死屍累々たる巨大墓地である。昨年公開された『千と千尋の神隠し』の舞台となった日本中の神々が湯治に訪れる温泉旅館。館内に張り巡らされた仕掛けの描写に宮崎らしさを感じたがカリオストロ城の緻密な構造と比較すると、やや大雑把な印象を受けた。さしもの天才も老いてしまったのか。

クラリスの救出に失敗した上に、負傷したルパン。傷ついた体を寝台に横たえながら、彼は自分の過去を語り始める。次元や五右ェ門とチームを組む以前の、本当の一匹狼時代。野心に燃える盗賊は、伝説のゴート札の秘密を暴くべく、カリオストロ城に潜り込む(この時、伯爵に遭遇?)。しかし、城側の痛烈な反撃を喰らって、退却を余儀なくされる。ズタズタになったルパンに回復の水を差し延べたのが、幼きクラリスだったのである。今回の救出作戦が、かつての挫折に対する復讐戦を兼ねている事が、このエピソードで明らかになる仕組みだ。

『カリオストロの城』における、銭形警部の素晴らしさは特筆に値する。アニメ版では道化役に甘んじる場合が多いが、この映画ではルパンに伯仲する快男児として描かれている。旗本隊を率いて、かの国に着陣した銭形は優美な城の裏側に潜む血塗られた歴史を知る。正義の体現者と化した彼の奮迅振りは、何度観ても面白い。一時休戦と共闘を申し出てきたルパンに対し、承諾はするものの「馴れ合いはせん!」と握手を拒む所も最高だ。

現在では、永遠の名作として揺るぎない評価を受ける『カリオストロの城』だが、公開当時、興業的には惨敗を喫している。製作に臨んだ宮崎の中には「今更『ルパン』を作る意味があるのか?」という鮮度の落ちた材料への鬱屈たる思いが常に内在しており、その上、製作期間は四ヶ月半という強行軍だった。にも関わらず、完成した映画は稀に見る娯楽活劇の秀作となった。この辺りの機微が映画の危うさであり、面白さと言えるだろう。

(全文敬称略)

初出『奇魂』第六號(2002/12/08刊)

娯楽三昧 その二

『シャイニング』

スタンリー・キューブリック。

映画という芸術形式が殷賑を極めた二〇世紀に活躍した英雄の一人である。完全主義者の筆頭として、斬新な映像世界を築き上げ、世界中の映画ファンを唸らせた。

日本の映画監督で、キューブリックに対抗可能な者と言えば、やはり黒澤明であろう。良質な作品は、黒澤の創作意欲を大いに刺激するらしく、彼は国籍を問わず、大量の映画を観まくっていた。達人中の達人だけにその鑑定眼は当然厳しいが、同じ求道者として彼はキューブリックの妥協を許さぬ仕事振りを、高く評価していた。

黒澤のお気に入りは、一八世紀欧州を克明に描写した歴史映画の大作『バリー・リンドン』である。物語の展開はやや単調なものの、徹頭徹尾に優雅な映像美を備えた比類なき名品だ。黒澤はこれを絶賛。後日、キューブリックは、感謝状を黒澤に送っている。謎めいたイメージが濃厚な為、彼は厭世主義者と呼ばれた事さえある。しかし、噂とは違う律義な一面も時折見せている。

キューブリックが本格的に個性を発揮し始めたのは、核戦争勃発という深刻な題材を痛烈なユーモアで描いた『博士の異常な愛情』辺りからだろう。ファンの中にはこの作品を彼の最高傑作に推す者も少なくない。その後全知全能を傾けた、革命的SF映画『2001年宇宙の旅』を発表。映像による神話の域まで達したこの作品は公開当時、賛否両論の嵐を巻き起こした。どちらにせよ『2001年』が強烈な爆撃力を有している事は間違いない。映像分野に限らず、各国の作家に多大な影響を与えている。この爆弾は、今尚機能中なのだから脅威だ。

押しも押されぬ名監督の座を手に入れたキューブリックだが『2001年』後も、更なる研鑽を積み、暴力、時代劇、ホラーと、あらゆるジャンルの映画に果敢に挑んでいる。どの作品にも、彼にしか醸し出せない格調と独特の妖気が張り詰めており、まさに「キューブリック映画」としか言い様のない圧倒的存在感を放っている。

キューブリック唯一のホラー映画。それが『シャイニング』である。主役を張るのはジャック・ニコルソン。鬼才監督と曲者俳優。二人は互いの実力を認め、意気投合した仲であった。狂演・怪演を得意とするニコルソンが、持てる能力を全開放して、この映画に取り組んでいる。何十回も再演を命じるキューブリックの執拗な演出にも「これぞ映画だぜ」と快く応じ、監督を喜ばせた。ニコルソンのアクの強い演技の連続には、嫌味さを感じる刹那があるのは否めない。しかし、映画中盤の禁酒の誓いを破り、恍惚の表情を浮かべつつ、バーボンを飲み干すシーン等、彼だからこそ成立した名場面も多い。

この映画の主要登場人物は次の通りである。

この家族は半ば崩壊している。

ジャック・ニコルソン扮するアル中気味の夫は小説家志望。酔った勢いで、原稿を散らかした息子に乱暴を振るって怪我を負わせた過去がある。妻は我儘な夫に神経を磨り減らして、疲れ果てており、眼差しも何処か虚ろである。ストレスを誤魔化す為のタバコが手放せない。

妻を演じるシェリー・デュヴァルは、自分が納得するまでは容易に腰を割らないキューブリック演出に相当参っていた様子である。まともに帰宅すら出来ない生活が何ヶ月も続く。イライラが募り、体調を崩した彼女は、撮影中に幾度も倒れた。しかし、病人に対しても、監督の鋼鉄の意思は変わらない。彼女の台詞を一言一句チェックして、最適の演技を求めた。時には、彼女から監督に切り返す場面もあった。その分、彼女の演技は磨き込まれる事になる。両者の葛藤が好結果を呼んだのだ。

愛情などとうに消え去り、冷え切ったこの夫妻には、可愛らしい一人息子がいる。彼は霊感能力(シャイニング)の所有者である。夫婦喧嘩に忙しいのか何なのか、二人はこの真相に気づいていない。時々、奇怪な行動に出る我が子を、軽度の精神病患者として処理している。夫はあるアルバイトの契約を結ぶ。コロラド山中腹に聳える《オーバールックホテル》の冬季管理人である。冬の間、この瀟洒なホテルは豪雪に埋まってしまう為、閉鎖となる。冬季管理人は期間中、無人のホテルに泊まり、館内施設の点検や除雪作業を行う。夫はこの仕事をこなしつつ、新作を書き上げようという魂胆である。

だが、このホテルは悪霊が巣喰う魔窟だったのだ…。

キューブリックは、この映画の大半を占める展望ホテルのセットの構築に心血を注いだ。この大掛かりなセットは彼自慢のスタッフが、映画美術の粋を凝らした強力無比な結界であり、その精密さには驚嘆する他はない。

夫は、家族を乗せて展望ホテルへと愛車を走らせる。

車中でのぎこちない会話。夫の無責任な発言に、妻はウンザリした様子であり、息子は息子で何を考えているのか全く判らない。現代日本でも頻繁に現れる場面である。百鬼夜行が跋扈するホテルという異常な状況下、肉親の絆という曖昧な条約が破棄された時、果たして何が起こるのか?観客の残酷な期待は除々に高まってゆく。

父親が展望ホテルの管理人を任されたと知り、息子は戦慄する。彼の潜在能力が動き始めたのだ。奔流の如き血が吹き出すエレベーターや正体不明の双子の美少女を少年は幻視する。不吉な予兆に恐怖しつつ新生活の場に到着。親子三人は支配人にホテルを案内してもらう。その際、少年はある重要な人物に邂逅する。黒人のホテル料理長・ハロランである。彼も霊感能力を秘めており、少年としては、生まれて初めて遭遇する「仲間」であった。ハロランは「二三七号室が気になる」と話す少年に「あの部屋には近づくな」と警告を与えるのだが…。

息子を演じるダニー・ロイドは、五〇〇〇人の候補者から選ばれた逸材。演技者としては全くの素人である。彼はこの物語の鍵を握る存在として、全篇に出演しており、プロ顔負けの達者な芝居を披露している。巨匠と称えられる映画監督は、子役や素人を巧みに遣いこなして観客を驚かせる事を得手としているが、キューブリックも然り。因みに、原作者や音楽家と激しい論争をやらかすこの大監督も、子供にだけは優しかったようである。

展望ホテルでの三人だけの生活が始まった。夫は管理人の務めは妻に任せ切り。自分はタイプライターに向かって「傑作」とやらを打ち込むのに懸命である。妻は支配人から渡されたプログラムを忠実に守り、職務遂行に余念がない。仕事の合間には、屋外に息子を連れ出して観光客用に建築された巨大迷路の門を潜り、二人で散歩を楽しんでいる。この家族にも一応の平穏が訪れたかに見えたが、悪霊達の策動は着々と進んでいたのである。

ステディカム。

カメラマンが激しく被写体を追跡しても、画面ブレは全く生じないという特殊カメラである。手持ちカメラの不安定な映像は、映画の緊迫感を盛り上げる独特の効果があり、しばしば登場する手法だが、潔癖症のキューブリックはステディカムの特性に猛烈な興味を抱いた。その試作品が手元に届いて以来数年、彼は試行錯誤の末に自分専用のステディカムを完成させた。そして『シャイニング』クランク・イン。この映画は、改良型ステディカムを本格投入する、初実戦の場でもあったのである。

ステディカムは全篇に亘って使用されており、観る者はこのカメラ特有の円滑な映像を堪能出来る。中でも、息子が三輪車を駆って、館内を疾走するシーンが素晴らしい。ステディカムの威力が、何気ない場面を魅惑的な映像へと進化させている。キューブリックは、写真家として映像の世界に入門した。映画監督になり、頭角を現してからも、現場では自らカメラを操る事が多かった。この作品でも、新しい剣の切れ味を存分に試していたようだ。堂々たる体躯と風貌を誇る彼が、カメラ・オペレーターと一緒に、撮影現場をドスドスと走り回る姿は、何やら、悪戯小僧が珍しい玩具に夢中になっているようで微笑ましい。天才には何処かに幼児性が潜んでいる。

夫は、自覚もない内に魔の領域へと深く踏み込んでいた。その周囲は亡者の群れに埋め尽くされており、理性を喪失した彼は悪霊側の尖兵として、行動を開始する。このホテルを支配する魔物は直接は手を下さず、人間同士の殺し合いを膳立て、見物するのが趣味らしい。殺人マシーンと化した夫は、鋭い斧を引っ提げて家族に襲いかかり、妻は、バットや包丁と言った手頃な武器で対抗し、シャイニングによる救援信号を感知したハロランは修羅場に駆けつけ、息子は意外な方法で反撃に出る。

キューブリックはチェスの名手でもあった。個性的な駒を駆使して智恵を競うこの盤上遊戯の要素を、彼は映画にも応用していた。登場人物や小道具を自在に操り、前半に張り巡らした伏線が、滑らかに作動する終盤の攻防戦は、彼らしい「理詰めの活劇」に仕上がっている。

『シャイニング』の原作者たるスティーヴン・キングはこの映画版が大いに不服だった。物語の基本設定を除いて、自分の作品世界が瓦解してしまっているのが、その理由。キューブリックにとって、原作とは映画の着想を得る出発点に過ぎない。むしろ、原作を超越した映像空間を創造する事が、彼の果てしない野望であった。キングは「キューブリックはホラーを理解していない。あの映画は最低」と罵倒しているが、監督は監督で、原作者の書き下ろした脚本を「こんなものは映画にならん」と、屑籠に放り込んでいる。ジャンルは異なるものの、第一人者同士の闘いは、小説映画以上に激烈であった。

『シャイニング』撮影当時のキューブリックは、五〇代前半。創作意欲に燃える彼の下に、優秀なスタッフと少数精鋭のキャストが揃った。強固な部隊を編成した彼は、約一年という製作期間を経て、この作品を撮り上げている。希代の才能がたっぷりと時間をかけた端整な映像の数々は見応え充分。私も暇があると、DVDを再生装置に滑り込ませて、この妖怪屋敷に訪問してしまう。私はこの映画に「とり憑かれて」いるのである。

(文中敬称略・一九八〇年日本公開)

初出『奇魂』第五號(2002/07/07刊)

娯楽三昧 その一

『隠し砦の三悪人』

黒澤明は、生涯妥協と闘い続けた映画監督であった。彼の作品の映像はとにかく濃い。黒澤の言う「撮るに値する被写体」を作るべく、全スタッフが東奔西走。何気ない繋ぎのシーンにすら、隅々まで気を配り、完璧に近い映像設計が施されている。黒澤映画を観ると、非常に贅沢な気分に浸る事が出来るのは、それ故である。

『二〇〇一年宇宙の旅』で有名な、スタンリー・キューブリックも、映像構築に徹底的に凝る監督である。その偏執的なまでのこだわり振りは、黒澤と共通するものがあるが、キューブリックは、作品の娯楽性には無頓着であった。その点、黒澤の場合は、深刻なテーマを取り扱っていても、それを面白く見せる手腕に長けていた。

『隠し砦の三悪人』は一九五八年に公開された。既に黒澤は『生きる』『七人の侍』等の、名作傑作をものにしており「世界の巨匠」としての位置を確立していた。この頃、日本の映画産業は史上最高の観客動員数を記録しており、映画にとって、最も幸福な時期でもあった。

時は戦国時代。秋月家は隣国・山名家との勢力争いに明け暮れていた。宿敵との決戦に敗れた秋月軍は崩壊。生存者も、執拗な残党狩りに次々と斃れていった。

そんな中、若き秋月家後継者たる雪姫は、岩窟を利用したアジト(隠し砦)に辛くも逃げ延び、秋月復活の策を練っていた。一方、秋月最強の武将・真壁六朗太は、隠し砦近辺をうろついていた百姓二人を捕らえる。彼らの発言から、警戒が薄いと予測される山名領を、敢えて横断し、友国・早川領へ脱出するという作戦を立てる。

かくして、雪姫と軍資金(黄金二百貫)を護衛しつつ早川領を目指す、六朗太の決死の冒険行が始まった!

物語自体は単純明快。しかし、巧みな構成と、個性的な登場人物達を布陣し、観る者を飽きさせない。黒澤は自ら脚本を手掛け、演出するタイプの監督だが、晩年の作品を除き、常に複数の脚本家との激論を重ねた末に、脚本を完成させている。この作品も然り。ホン(脚本)は映画の基盤であり、いい加減なホンでは、ロクな映画は出来ないというのが彼の持論だ。確かに、粗悪な脚本だと、演技者までが、バカに見えるから不思議である。

本篇の主人公・真壁六朗太を演じるのは、三船敏郎。三船自身は繊細で神経質な性格だったらしいが、一連の黒澤活劇における無敵の豪傑振りは痛快そのもの。

三船は海外作品も含め、数多くの映画に出演したが、黒澤映画以上に、彼の魅力を引き出した作品は、絶無と言って良い。三船は、切れ味は鋭いものの、尋常な腕では威力を発揮出来ない「妖刀」のような俳優であり、彼を完全に使いこなしたのは、黒澤明ただ一人であった。

黒澤と三船は、世界的にも充分に通用する、日本映画最強のコンビだった。しかし、一九六五年の『赤ひげ』以降、二人はタッグを組んでいない。黒澤後期の超大作『乱』には、久々の三船主演の噂が流れた事もあったが結局実現しなかった。両者決別の理由については、様々な憶測が為されているが、黒澤も三船も、この世を去ってしまった今となっては、それは永遠の謎となった。

六朗太が軍用金以上に、死守しなくてはならない存在が、亡き主君の愛娘・雪姫である。猛々しい気性の中に高貴さを備えた少女であり、この物語の核となる大役である。その為、彼女のキャスティングは難航を極めた。

雪姫役の女優を募集した所、四〇〇〇人の応募者が集まった。しかし、黒澤の納得のいく者は現れず、全員不合格となった。そんなある日、映画会社の宣伝部員が連れてきた花嫁修行中の上原美佐を見た黒澤に、直感が閃いた。彼は「君にやってもらう」と即断し、ようやく、雪姫役が決定したのだった。まるで冗談のような話だが天才は時として、突拍子もない事を平気でやるものだ。

『隠し砦』の前半にこんなシーンがある。

雪姫の影武者に仕立てた六朗太の妹が、処刑されたという情報が隠し砦にもたらされる。雪姫の居室に赴き、「小冬(妹の名)がお役に立ちました」と、簡潔に報告する。肉親の死にも、平常心を崩さぬ彼を見て、雪姫は「それでも人間か!」と激しく罵り、鞭を振り上げる。無論、少女風情の威嚇にたじろぐ六朗太ではない。睨み合う両者。堪らず視線を逸らし、雪姫は「いやじゃ、いやじゃ!」と喚きながら退出する。彼女の横暴な行動に「あんまりだ」と嘆く老侍女。しかし、六朗太は、秋月家を背負い、艱難辛苦の待ち受ける君主の道を歩む事を余儀なくされた、雪姫への深い同情をもらすのだった。

雪姫も、内心では、六朗太の卓越した武力と鉄壁の忠誠心を高く評価している。だが、余りにも冷静沈着で、毅然過ぎる六朗太の態度に、彼女は嫉妬めいたものを覚えているらしい。何かにつけて、彼に反抗するのは、その為だろう。互いに感情表現が不得手な主君と家臣のやり取りは、ユーモラスな雰囲気を醸し出すが、その裏にある両者の強固な絆の存在を窺わせる所が、心憎い。

演出中の黒澤の威圧感は凄まじい。日本人離れした巨躯で、撮影現場をノシノシと動き回り、破鐘のような声で怒鳴りまくる。気の弱い俳優なら泣き出しそうな勢いである。雪姫を演じた上原美佐は、演技経験ゼロにも関わらず、画面上では実に颯爽としており、それなりの風格も備え、サマになっている。上原の好演は、黒澤に鍛え上げられた成果である事は間違いないが、演技指導の補佐を務めた、三船と三好栄子(老侍女役)の存在も大きい。特に三船は上原との共演場面が多く、彼女もこの大先輩を頼りにしていたと思われる。それにしても、黒澤、三船、三好とは、なんと豪華な指導陣であろうか!

映画の中盤、六朗太一行は、数騎の騎馬武者に補足されてしまう。敵の目を欺き切れぬ事を悟った六朗太は、瞬間、その戦闘能力を爆発させる。追跡部隊の一人を斬り捨てると、騎馬を奪取し、報告に走る敵兵を猛然と追走する。この時、三船は馬上で、裂帛の絶叫を放ち「八相の構え」を取るという離れ業を披露。精悍な風貌と、筋骨隆々の肉体を誇る三船は、まさしく運動神経の塊に見えるが、意外にも馬術は苦手だったらしい。しかし、超人・真壁六朗太と一体化している彼は、この激しいアクションシーンを見事にこなし、観客の絶賛を浴びた。

追跡者を討ち果たした六朗太は、勢い余って、山名の張り巡らした陣所のひとつに、突入してしまう。たちまち、大勢の警備兵に包囲されてしまう。不敵に笑う六朗太。すると「貴様らの相手ではない!」という野太い声が飛ぶ。敵側屈指の勇将・田所兵衛の登場だ。両者は、戦場で幾度も刃を交えた仲らしい。主人公と互角の実力を有する好敵手は、活劇を面白くする重大要素である。

兵衛に扮するのは武骨な容姿が印象的な藤田進。黒澤のデビュー作『姿三四郎』の主演を務めた、初期黒澤作品の常連である。兵衛は、部下に待機を命じて、六朗太に一騎討ちを挑む。つまりこれは、新旧黒澤ヒーローの激突であり、公開当時は大いに盛り上がったと思われるが、その事を証明する資料に、今の所目にしていない。

段平による対決は時代劇ではお馴染みのシーンだが、この映画では、少し趣を変えて、槍術勝負が展開する。槍を縦横に操る両雄の立ち回りには、緊張感が漲っている。この時代、スタントマンという職種は確立しておらず、勿論、CG技術など想像すらされていない。活劇シーンも当人が演じるのが常であった。三船・藤田の体を張ったアクションは、ゾクゾクするような迫力がある。
激しい攻防の末、六朗太に槍をへし折られる兵衛。生粋の武人たる彼は、敗北の恥辱に耐えられず、六朗太に己を斬るように催促する。しかし、六朗太は「また会おう」の一言を残して、対決の場から立ち去るのだった。

映画の終盤、山名の虜囚となった、六朗太と雪姫の前に、兵衛が姿を現す。その顔は、六朗太との決闘に敗れた上に、彼の逃亡を黙認した罪により、醜く切り裂かれていた。兵衛は「何故あの時、斬らなかった」と、恨み言を並べ立てる。そんな彼を諫めたのは雪姫であった。彼女の言葉に感銘を受けた兵衛は、処刑寸前の一行を、自慢の槍で救出するのだった。見方によれば、六朗太以上においしい役であり、藤田も楽しそうに演じている。

黒澤映画の「百姓差別」は有名だが『隠し砦』は、その傾向が最も色濃い作品かも知れない。映画の序幕から登場する農民二人、太平と又七。彼らは、立身出世を夢見て、秋月軍に従軍していた。しかし、味方は大敗北。二人は哀れ流浪の身となった。逃避行の果てに、彼らは真壁六朗太と出会い、敵中突破の旅に駆り出される。

劇中、彼らは欲望の象徴として描かれている。旅の途中、六朗太を出し抜いて、軍用金を奪おうとしたり、眠っている雪姫を見て、ムラムラと欲情し、強姦未遂に及んだりと、トラブルメーカー振りを大いに発揮する。

山名領を経由して、早川領を目指すというアイディアは、元々彼らの発案であり、厚顔無恥とは言え、この二人は、決して頭は悪くないという描写が随所にある。だが、六朗太の正体を最後の最後まで、山賊か何かだと思い込んでいた事は、極めてマヌケとしか言い様がない。

太平と又七は、この作品のコメディリリーフの役割も担っているが、主として、彼らの無節操な性質がギャグになっており、がさつな私としては、それらの場面に無邪気に笑う気にはなれなかった。そして、私が最も不快に感じたのはラストシーンである。六朗太と雪姫が体制側の重要人物である事が明かされると、惨めに平伏する二人の姿が、ひたすら哀しかった。一片の黄金を与えられ、トボトボと石段を下る二人は、その行動力の源たる強欲さえも奪われ、まるで廃人のように見えた。武士は潔癖であり、百姓は醜悪だという対比は、人間の両面性を判り易く表現したものだが、少し配慮に欠けている。

前述のような不満があるものの『隠し砦の三悪人』が無類の面白さを秘めている事は確かである。今後、この作品のような、正統派冒険活劇が日本で撮られる事はまず有り得ない。そして、これ程に、娯楽純度の高い黒澤映画も稀であり、あらゆる意味で、必見の秀作である。

(文中敬称略)

初出『奇魂』第四號(2001/11/03刊)

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