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雑文集3

大魔神は何処へ行った?

そう言えば『大魔神』が復活するという話はどうなったのだろうか?『妖怪大戦争』も良いが、俺としてはこちらの方が断然食欲をそそる。以前、あるSF雑誌に筒井康隆のオリジナル脚本が掲載され「おおっ」と驚愕したものだ。購入後、馴染みの喫茶店で一気に読み終えた記憶がある。このホンはいつ映像化されるのか?誰が監督を務めるのか?やはり樋口真嗣かな。それとも原口智生かな。などと楽しい想像を巡らせたが、その後、何の音沙汰もない所を見ると、どうやらこの企画は完全に消滅したらしい。残念無念。大映特撮の代表選手と言えばガメラに決まっているが、同等かそれ以上の個性を主張する大魔神。しかし意外にも《彼》が活躍する映画は僅か3本しか作られていない。即ち@『大魔神』A『大魔神怒る』B『大魔神逆襲』の3本である。@は大魔神起動篇。Aは湖面を切り裂いて出現する大魔神の迫力が凄い。Bでは大魔神が初めて腰の愛刀を引き抜いて悪党を誅戮する。それにしても大魔神は恐ろしい顔をしている。何処から見ても「大魔神」としか呼びようのない面構えである。因みに《彼》の面貌は緒形拳を連想させるが、実際のモデルはカーク・ダグラス(マイケル・ダグラスの親父)だそうである。こんな奴が自分を殺しにきたらさぞ怖いだろうな。何処へ逃げようが隠れようが無駄である。戦いを挑んだところでまず勝ち目はあるまい。鉄壁の防御力と激烈な攻撃力。人間風情の敵う相手ではない。あらゆる障害物を破壊しつつ《彼》は進撃を続ける。標的を抹殺するまで行動を止めない。地獄の底、地の果てまで追跡してくるのだ。ずしんずしんと心臓に悪い地響きを立てながら。貞子も嫌だが大魔神も嫌だ。俺みたいな臆病者はとても耐えられないだろう。多分「大魔神が来た」と感知した時点で気が狂うと思う。資料を漁っていて驚いた。何と『大魔神』シリーズは全て1966年に封切られている。大魔神は忽然と観客の前に現れ、猛然たる活躍を展開したかと思うと、今度は魔神の如く(当り前だ)消え去ってしまったのである。大魔神の登場は当時の観客に相当な衝撃を与えたようだ。実写と特撮の融合も滑らかであり、大映の技術水準の高さを物語る。まさに職人芸と賞賛すべき出来映えである。これらの優れたテクニックが全然継承されていないのが哀しいが。この強烈キャラクターは評判を呼び、興行成績も良かった。ではシリーズ短命の原因は何か?答は実に簡単である。カネ(製作費)がかかり過ぎたのだ。投入した金額と回収した金額のバランスが不釣合いだったのである。映画会社もまた営利組織の宿命を背負っている。大映特撮は妖怪映画に活路を求め、空飛ぶ巨大亀の連作へと方向を転換したのであった。

筒井脚本では物語の舞台は江戸時代の初めに設定されているが、もし大魔神を復活させるとしたら、現代の方が面白いのではないか。混迷の21世紀こそ《彼》も大鉈の振るい甲斐があるだろう。少なくとも『鉄人28号』よりは痛快な映画になる筈である。何故か横浜スタジアムの地下深くに眠っていた大魔神が起動する場面はこの作品の見所のひとつだ。タイミングが良いのか悪いのか「その日」は佐々木主浩の引退試合であった。球場全体に無数の亀裂が走り、禍々しい巨体を現わす大魔神。勿論客も選手も恐慌状態に陥る。逃げ惑う人間どもを睥睨しつつ《彼》は「目的の地」を目指す。突然の巨神出現に日本政府も大パニック。とりあえず近辺の自衛隊を動かして促成の防衛ラインを築くものの、あっさり突破されてしまう。本体起動に呼応して、各地に封印されていた大魔神の武器も行動を開始する。大魔神ブレード、大魔神アックス、大魔神ボウ、大魔神シールド等々。元々善悪を超越した性格が大魔神の魅力だが、この映画ではその部分を更に強調する。初期のバイオレンスジャックを彷彿とさせるキャラクターである。敵将と人質を同時に斬り殺すあのアクの強さが欲しい。そう言えば、某誌で『バイオレンスジャック』の連載が始まったけど、永井豪は過去の名作の焼き直しを一体何度繰り返せば気が済むのだろうか。当然強力なライバルも登場する。無敵の魔神に対抗する者。候補としてネオギャオス(二本首の新型ギャオス。一方は超音波メスを、もう一方は無重力光線を撒き散らす)も考えたが、やはりガメラと戦った方が客も喜ぶだろう。大魔神の前に立ちはだかるガメラは正義の怪獣ではない。地球上の全生物を食い尽くそうとする「負のガメラ」「もう一匹のガメラ」である。名称は「ダークガメラ」か「ブラックガメラ」辺りが適当であろう。着ぐるみは以前使用していたものを黒く塗るだけで良いので予算も助かる。超古代文明が作り上げた万能生物兵器というのが、平成ガメラの経歴であった。この設定をちゃっかり利用する。ダークガメラは開発中に偶然誕生してしまった失敗作。言わばガメラの粗悪品、出来損ないという訳である。ギャオスを超える凶暴性と本家ガメラに匹敵する戦闘能力を秘めた脅威的存在。この呪われた亀怪獣と大魔神が真っ向から激突する。

大魔神ブレードがダークガメラの首を刎ねるか、ガメラの火炎球が大魔神を吹き飛ばすか。一進一退の攻防が繰り広げられる。戦場となる首都東京は地獄の巷と化す。都内観光名所を有名な順に潰しながら激しく争うガメラと大魔神。ラグナロックの現出。我々人類は神々の闘争を見守る傍観者に過ぎないのか。否、東宝の傑作メカニック「轟天号」「メーサー殺獣砲車」の上を行く究極兵器(いつの間に作ったんだ?)が雄々しく出撃する。それがこの映画のクライマックスとなるのだが…やっ。ここまで書き進めてきたら別の妄想が湧いてきたぞ。大映が誇る二大スターの共演。その名も『座頭市と大魔神』だ。大映はカツシン健在時にこの映画を作るべきであった。もし俺が永田雅一だったら間違いなく得意のラッパを吹き鳴らしていただろう。因みに『座頭市』の第1作が公開されたのは1962年。以降、大映好調を支える人気シリーズとなる。この頃のカツシンは『悪名』『座頭市』『兵隊やくざ』と奇跡のようにヒットを飛ばしていた。その役者人生の中で最も多忙を極めた充実期であった。カツシンと特撮映画の相性も悪くない。彼の存在自体が特撮みたいなものだからだ。確か『鯨神』という海洋特撮映画にも出てるし。永田渾身の70ミリ大作『釈迦』『秦・始皇帝』も大掛かりな特撮場面が用意されている。映画の基本は夢である。ホラである。妄想である。最近の邦画は観客の夢を駆り立ててくれるような企画が余りに少ない。予告篇を観ただけでワクワクするような映画。どうしても観ずにはおかないような映画。俳優も監督も大切だ。だが、企画力もそれらと同じくらい重要である。俺達を「あっ」と言わせてくれるような凄腕プロデューサーが現れないものか。そう考えると、かつての角川春樹の奮戦は再評価されて良いのではないかと思う。インテリ評論家には端からバカにされていた角川映画だが、そう捨てたものでもない。カツシン然り。永田雅一然り。角川春樹然り。いつの世も型破りな奴が時代を作る。

(2005/5/8)

百の大典

その日。俺は都営新宿線・九段下駅を下車した。今日の目的地は九段会館。その大ホールで『グイン・サーガ』100巻達成記念イベント「百の大典」が催されるのだ。主催は早川書房。入場無料とは太っ腹である。但し入場には参加券が必要となる。第99巻『ルードの恩讐』のオビに参加券の申し込み方法が記されていた。それに従って俺はハガキを出した。まさか当選するとは思っていなかったのだが、これも運命神ヤーンの悪戯なのか。後日参加券が送られてきたのである。最近の俺は妙にツイている。我が悪運もホンモノになってきたな。穏やかな春の陽射しが心地好い。会館近辺の桜も満開の状態であった。大典を彩るに相応しい華やかな雰囲気。花見に行くのだろう。弁当や飲み物を提げた家族連れも多い。時計の針は午前10時を一寸回ったところ。開場時刻までにはまだ2時間以上ある。空腹を覚えた俺は手近の喫茶店で遅い朝食をしたためた。店内はガランとしており、客は俺一人である。トーストと目玉焼きとサラダで500円は少し高いような気もしたが、紅茶は旨かった。まあ。今日はめでたい祝賀祭。セコイ話をするのは止めておこう。

会場たる大ホールの入口前には既に行列が出来ていた。その最後列に並ぶ。初めはスカールのコスプレでもしてやろうかと企んでいたが、サマにならないので普段着での出席となった。俺は本を読んだり、周りの参加者と話したりして時間を潰した。初対面ではあるが共通の話題を持つ者同士、会話が弾む。わざわざ静岡からやって来た男性。はるばる鹿児島から駆けつけた女性。彼らの熱意に圧倒される。俺はここまで『グイン』を愛しているだろうか?徐々に行列の厚味が膨れ上がってゆく光景は壮観であった。その整理にスタッフ全員が追われている。午後12時30分開場。待ちかねた参加者がどっと館内に雪崩れ込む。受付にて係員が参加券と引き換えに記念品を渡してくれる。俺はとりあえずホール内に入り、座席の確保に走った。なるべく舞台に近い席が良い。最前列は報道陣の専用スペースだったので、次の列にする。まずまずの好位置をキープ。その後、書籍販売コーナーへ直行。またしても長い行列が伸びている。今日はここでしか買えない第100巻『豹頭王の試練』(特別ヴァージョン・作者の直筆サイン付)が販売されているのだ。サイン本が飛ぶように売れてゆく。俺も目当ての『豹頭王の試練』『グイン・サーガ・ハンドブック3』を無事購入。本当はサイン本のみでも良かったのだが、勢いで『ハンドブック3』も買ってしまった。俺なりの祝儀の心算であった。さてと、やるべき事は済ませた。後は大典の幕開けを待つばかりである。席に戻り、偶発的に某雑誌社のインタヴューを受ける。質問内容は勿論『グイン』の魅力についてである。はいはい。何でも聞いて下さいよ。何でも答えますから。わはははは。俺はここぞとばかりにペラペラと喋りまくった。評論家気取りである。いい気なもんだ。かの美人記者も内心呆れていたんじゃないかな。

するすると緞帳が上がった。いよいよ大典の始まりである。第1の演目は栗本薫と高千穂遙の対談である。進行役はファンタジー評論家の小池真理だ。舞台中央の椅子に座っている着物姿の女性。年齢不詳な感じ。その顔には微笑すら浮んでいた。落ち着いたものである。きっと大勢の前で喋る機会も散々経験しているのだろう。堂々たる話し振りだった。彼女は何処かに「私は裏方人間」と書いていたが、とんでもない。主役ではないにせよ「役者」として充分通用すると思った。彼女が栗本薫か…。俺はそれほど猛烈な栗本ファンではないが、彼女の存在は小学生の頃から知っていた。本屋の店頭に山積みされていた『魔界水滸伝』(永井豪の表紙!)の衝撃。それ以来のつき合いだ。大典の主柱たる『グイン』に着手したのは、確か就職した年である。この時期、俺は仕事の関係で滋賀県と東京の往復を繰り返していた。行き帰りの新幹線の中で『グイン』を読み耽ったものである。経済情報誌や営業マニュアルはただの一度も読んだ事はないけれど。栗本作品の真髄は何と言ってもキャラクターの面白さにある。物語の整合性やまとまりに関しては疑問を覚える事がしばしばである。その弱点を補っているのが個性溢れる登場人物達なのだ。グイン、スカール、カメロン、ヤンダル・ゾッグ、安西兄弟、秋月慎吾…数々の名キャラクターを創造し、今も尚増産を続ける人物造形の達人・栗本薫。その達人の肉声を聞く事が出来る喜びに我が身が震えた。生きるという事は案外辛い。ただ「生きている」というだけでも結構大変である。だが、生きているからこそ、このような好機に恵まれる事もあるんだなとしみじみ思った。やはり自爆は駄目だ。人間は生命が尽きぬ限りは生き続けなくては。

第2の演目は実力派の画家4名による座談会。絵物語としての側面も持つ『グイン』にとって表紙、口絵、挿絵の担う役割は大きい。加藤直之(初代絵師)天野喜孝(二代目)丹野忍(四代目)という豪華な顔触れが揃った。三代目の未弥純は恥かしがり屋なのか、スケジュールが合わなかったのか欠席であった。司会を務めるのは同じくイラストレーターの田中光である。どのメンバーも絵筆を操るのは得意だが、どうも喋りは苦手の様子であった(それがまた面白いのだけど)。その中で加藤御大のみが絶好調であった。御大の豪快発言を受けて会場は何度も爆笑に包まれた。最年少たる丹野画伯も独特の言い回しで我々の興味を引いた。愚かな俺はこの人を今日の今日まで女性だと思い込んでいた。誠に失礼しました。ただ男臭さを感じさせるタイプではない。繊細な風貌や体つきは彼の画風に通じる。丹野サンに限らず、画家とその絵は自然と似てくるものである。架空の人物に「様」を付けて呼ぶ丹野サン。これはまさにオタクの習性。今後の日本はオタクが支えるのかも知れんね。頑張れ、丹野。ついでに地球も救ってくれ。その後も、栗本一座のミニライブや入場者参加のクイズ大会(3問目で玉砕しました)に加えて『グイン』スタッフへの花束贈呈式(作者発案)等々、盛り沢山の内容であった。最初の対談の中で栗本薫は「私は面白いものが大好きなんです」と語っていた。なるほど。彼女の貪欲なまでの好奇心は全てその作品内に反映されている。凄まじい作品量を誇る彼女だが、現在は栗本流『西遊記』を構想中とか。その飽くなき創作意欲には毎度驚かされる。これからも全自動小説マシンの活躍は続くのだろう。今日の大典には全国のファン700名が集結したという。人を動かし、金を動かし、そして運命を動かすのは《選ばれし者》の特権であり能力である。栗本の小説には英雄豪傑が多数登場するが、彼らの勇姿は作者の姿そのものなのだと思った。

(2005/4/10)

転ぶ宍戸錠

その日の午後。俺はJR阿佐ヶ谷駅の改札を抜けて、かの名物映画館へ向った。ラピュタ阿佐ヶ谷である。ラピュタでは2月〜4月の初めにかけて、黄金期の日活映画の集中上映が組まれていた。この日の献立は@『あらくれ』A『反逆のメロディー』B『拳銃は俺のパスポート』C『新宿アウトロー/ぶっ飛ばせ』の4本である。どのタイトルも俺の食欲を大いにそそってくれるが@の上映は既に始まっていたのでこれは断念。残りの3本を一気に観る事にした。こういう場合は回数券(3枚綴り)を利用した方が良い。一般料金の25%引きの値段で映画を楽しむ事が出来るからだ。購入の際、整理番号も一緒に押してもらう。今日はスペシャルゲストがラピュタに現れる。故にBの売れ行きが特に好調であった。因みに俺の番号は39だった。ラピュタの収容人数は48名なのでギリギリ間に合ったという感じである。幸運であった。あと1時間遅れてきたらアウトだっただろう。現に程なくして「完売」の赤いシールがメニュー表に貼られる事になった。座席の確保が済んだら、次にやる事は決まっている。腹拵えである。馴染みの洋食屋や居酒屋を訪ねたが、ことごとく休みである。どうしてかなと思ったら今日は日曜日だったのだ。毎日土竜のような生活をしていると、段々曜日の感覚がなくなってくる。良くない傾向ですな。仕様がないので駅前の天麩羅屋(チェーン店)に行く。そう言えば、今月開催される『奇魂』東京オフ会の主役も天麩羅である。美味しい天麩羅を求めて、宴会部長たるしみじいさんが都内を駆け巡ってくれている。ありがたい話である。食通で鳴らすしみじいさんの事だからきっと素敵な店を見つけてくれるだろう。部長に万事お任せである。それにしても俺って本当に他力本願だね。カウンター席に陣取り、天麩羅の盛り合わせ&笊うどん、熱燗一合を頼む。天麩羅を肴に日本酒をゆるゆると呑む。例え安物でも昼間っから呑む酒ほど旨いものはない。この瞬間にくたばるのも悪くないかなと思ったりもする。天麩羅を平らげ、酒を飲み干すと、おもむろにうどんを啜り込む。不自然な味のダシが気になるので、大量の薬味をぶち込んで誤魔化す事にする。これでダシさえ旨ければ毎日通っても良いのだが。この種の店はここら辺が限界かな。などと偉そうな事を考えながら、結局全部食べてしまう。今日の昼飯はこれでおしまい。まだ食い足りないが、そろそろ映画が始まる時刻だ。勘定を払って、再びラピュタへ。

Gパンヤクザの原田芳雄が大暴れする『反逆のメロディー』(1970年公開)を堪能した後、俺達はその人物の到来を待った。館内は無論満員であり、臨時席が用意されるほどの盛況振りであった。司会の紹介が終わるや否や、殺し屋ファッション(!)に身を包んだでかい男が会場に踊り込んできた。日活アクションが誇る豪傑の一、宍戸錠の登場である。その巨躯から発せられる異常なエネルギー。この迫力。この貫禄。鋭い眼光。分厚い声。その場の雰囲気をたちまち自分のカラーで染め上げてしまう。うおっ。錠さんが小さく叫んだ。舞台へと続く階段を降りる途中でズッコケ(死語)そうになったのだ。場内爆笑。これは地なのか演技なのかはわからないが、何をやっても笑いが取れるのはスターの証明でもある。この日の錠さんは上機嫌であった。多少アルコールが入っているのも幸いして、弁舌滑らか。貴重な撮影裏話からかなり際どいエロ話まで観衆の興味を自在にコントロールしていた。当初の予定では渡辺武信との映画対談が展開する筈だったが、ほとんど錠さん喋りっ放しの状態。トークショーと言うよりワンマンショーと言った趣だ。渡辺氏の対応も的確であった。このまま錠さんの好きにさせておいた方がイイと判断したのだろう。余計な口は挟まずに終始聞き役に徹していた。流石である。中盤には錠さん&相棒氏が華麗なガンアクションを披露するという大サービスもあった。千葉真一には日本刀が、宍戸錠には拳銃がよく似合う。会場は大いに盛り上がり、絶えず拍手と笑いが弾けた。こんなに面白いイベントがタダで観られるとは、今日のお客さんは随分得したね。勿論俺も大満足である。終了後、ファンの質問や握手に気軽に応じる錠さんの姿が印象的であった。無機質役者の植物演技もそれなりの味はあるものの、桁外れのアクの強さこそが俳優本来の魅力ではないかと思う。その辺に歩いていそうなお兄さんお姉さんが画面に現れても余り嬉しくない。嬉しくはないが、それが当世の風潮である事も否定は出来ない。お客の心を鷲掴みにするような腕力を持つ俳優は今後もどんどん減ってゆくんだろうな。やれやれ。楽しいイベントの後にそんな寂しい事を考えてしまう俺も相当なひねくれ者である。錠さんが会場を去ると、すぐに『拳銃は俺のパスポート』(1967年)の上映が開始された。果たして傑作であった。そこでは38年前の宍戸錠が凄腕の狙撃手に扮していた。強靭な肉体が奏でる躍動感に俺達は酔った。

(2005/4/2)

動く千葉真一

その日。俺はHMV渋谷にいた。6階イベント広場。ここにある男が来る。日本が誇る最強のアクションスター。俺が勝手に「師匠」と呼んでいる豪傑の1人である。千葉真一。彼の出演映画を追いかけ始めたのはいつの頃だったろうか。恐らく「映画秘宝・第16号」の特別インタビューを読んでからだったと思う。そこには「勝新太郎さん(座頭市)をCGで蘇らせるんだ」とか「その映画にはサミュエル・L・ジャクソンを出演させる」とか「深作さん&タランティーノと組んで映画を作りたい。脚本をもう1度練り直さないと駄目なんだけど」とか「石井監督を招いて『キイハンター』を映画化したいね」とか「スティーヴン・セガールとやりたい企画(時代劇)があるんだ。但し60億円ぐらいかかるんで難しいけどね」とか。とにかく途轍もない夢のような話がボンボン載っているのであった(因みに上記のアイディアは現時点でひとつも実現していない!)。多少の胡散臭さは感じたものの、千葉ちゃんの映画に対する異常なまでの情熱だけは、さしもの俺も認めざるを得なかった。この人は余程映画が好きなんだな。そう思った。それからは常に千葉映画を意識するようになった。その大半が芸術性、思想性とは無縁のB級もしくはゲテモノ的作品である。だが、そこには映画(活動写真)本来の面白さが満ち溢れていた。娯楽に徹した内容と超人的なアクションの数々。それまでの俺は「映画を神棚に奉る」という妄念にとり憑かれていた。その呪縛を解き放ってくれたのが千葉ちゃんだったのである。その瞬間、彼は俺の「師匠」となった訳である。

ナマの千葉真一に遭遇する好機を俺は2度逃している。京都で1度。東京で1度。最早失態は許されぬ。富士山が爆発しようが、ゴジラが上陸しようが、そんな事には関わってはいられない。何がなんでもこの機会を生かす覚悟であった。俺、宮村直佳は2005年2月5日(土)千葉師匠に遭うのだ。これは宿命だ。それが正しい運命なのだ。もう誰にも止められんぞ。わはははは。トークショー開始は午後3時。開始30分前にもなると用意された観覧スペースはほぼ満員の状態である。正確な数はわからないが、翌日のスポーツ紙には「約200人のファンが集まった」とあった。大した人気、集客力と言えるだろう。流石は我らが千葉ちゃんである。俺もその周辺も固唾を呑んで師匠の登場を待ち受けている。時間の流れが酷く遅く感じられた。ようやく時計の針が指定の時間を指した。そして…ステージの上にガッシリとした体格を持つ精悍な男が姿を現わしたのだった。爆発のような拍手と歓声が会場を包んだ。ついに、ついに俺は千葉真一を肉眼で捉えたのだった。その刹那―『仁義なき戦い』『直撃!地獄拳』『子連れ殺人拳』『空手バカ一代』『ドーベルマン刑事』『北陸代理戦争』『ゴルゴ13』『柳生一族の陰謀』『宇宙からのメッセージ』『赤穂城断絶』『魔界転生』『必殺4』『激突』『いつかギラギラする日』―これまでに観てきた名作怪作珍作の映像群が俺の脳裏を走り抜けた。千葉ちゃんの表情は思ったより温厚であった。眼差しが優しい。スクリーンで観せるアクの強いアウトローの顔とは別人のようだ。やはりあれは周到な役作りによるものなのだ。それに若い。とても60代後半の「老人」とは思えない。したたかな精気が会場の空気を一変させていた。これがスターのオーラーというものなのか。やる気の全く感じられない司会者(俺がやった方がまだマシだ)の的外れな質問にも丁寧に言葉を選んで応じている。その真摯な態度に俺は好感を抱いた。面白い話を沢山聞く事が出来た。特に千葉ちゃんの愛剣(勿論撮影用)が実は若山富三郎御大から譲り受けた刀だという裏話には驚かされた。このエピソードも千葉伝説に刻まれる事は間違いないだろう。ショーの最後に「次回作の構想はありますか?」と司会者が問うと、待ってましたとばかりに千葉ちゃんの眼が鋭く光った。私は日本文化の素晴らしさを世界に伝えたい。それには映像という手段が最も適している。私はもう若くないけど、生命が続く限り頑張りますよ。これからは娯楽映画と並行して、そういう作品を作りたいと考えています。皆さん、期待していて下さい。力強い言葉であった。確固たる目的(野望と言ってもいい)を持つ者には年齢など関係ないのだ。途中、最近の若い連中の覇気の無さ、意欲の無さを師匠が嘆く場面もあった。俺も何かをやらなくては。何かを始めなくてはと痛烈に思った。途中、父親に肩車をしてもらった男の子が「千葉ちゃーん」と可愛らしい声を張り上げた。それに気づいた師匠が満面の笑みを浮かべつつ「おー」と陽気に応じる光景が印象的であった。アクションスター千葉真一、健在也。

(2005/2/7)

エキストラ

その日は朝から冷たい雨が降っていた。京王相模原線・京王多摩川駅下車。路面を打つ雨の勢いは弱まりつつあったが、気温は相変わらず低い。油断をすると風邪を引くかも知れない。同志Mの提案に従い、コンビニで使い捨てカイロを調達した。その後、駅近くのファーストフード店で軽い朝食をしたためる。温いコーヒーを啜っていると、もう1人の同志が姿を現わした。同志M&同志H。そして俺を加えた計3人は傘を取り出し、目的地へと向った。角川大映撮影所。そこでは夏公開予定の超大作ジャリ映画『妖怪大戦争』の製作が行われているのだ。手元の資料には「角川グループ創立60周年記念作品」とある。監督は三池崇史。無頼系筆頭の三池演出を見学してみるのも面白いかなというのが、参加を決めた直接の動機であった。同時に製作現場を体験する事は映画について語る際に役立つのではないかとも考えていた。自分の眼で得た情報ほど確かなものはないからである。他にも幾つか子供じみた理由があったが、それは追々述べる事にしよう。奇しくも今日はクランクアップの日であった。かの撮影所は駅から徒歩5分の位置にある。案内図を忠実に守って進んでゆくと、それらしき建造物が見えてきた。おっ。次の瞬間、俺の視界に異様な物体が飛び込んできた。怪獣である。撮影所の門前にはガラスルームが備えられており、その中でガメラとイリスが対峙しているのだ。これは『ガメラ3/邪神<イリス>覚醒』(1999年公開)で使用されたものであろうか。或いは展示用として新たに作られたものだろうか。ともあれ二大怪獣は強烈な迫力と存在感を周囲に発散していた。もし夜中に出食わしたら腰を抜かしてしまいそうである。まるでこの撮影所の守り神のように俺には映った。賽銭箱でも設置したい気分だ。案外小銭を投入する者もいるのではなかろうか。時々カラーコピーした紙幣を入れるバカがいるかも知れないが、その場合、無敵の亀怪獣が地獄の底まで追撃してくるので覚悟しておくように。守護神の横を通り過ぎると、そこはもう撮影所の中である。右手に喫茶店兼レストランが建っており、店の名前は「GAMERA」とある。休憩の際にコーヒーでも飲もうかなと思ったが、生憎営業はしていないようであった。どんなメニューが整えられているのかは全く不明だが「大魔神ランチ」とか「バラゴン鍋」とか「ギャオスステーキ」とかが出てきたらイヤだな。左手には4軒のスタジオが立ち並んでいる。立派なものである。予想していたよりも大きい。各棟、高校の体育館程度の規模を誇っている。撮影所は「夢の工場」と呼ばれる事がある。映画に興味を持ち始めてから早十数年が経つ。ついに俺は映画の総本山へと辿り着いたのだ。ゾクゾクするような興奮が俺の肉体を支配していた。いつのまにか真冬の冷気さえも感じなくなっていた。これならカイロも要らねえな。どうやら少量の脳内麻薬が分泌されているようであった。

受付を済ませると、まずは衣装合わせである。因みに今回の参加手続きを請け負ってくれたのは同志Mである。お忙しい中、本当にありがとうございました。その後、同志Hは別棟に移動する。当然だが、男と女では着替える場所が異なるのだ。Hさんが如何なる妖怪に変身するのか今から楽しみである。既に多数のエキストラが集結しており、館内は大変な騒ぎになっている。群衆の中をスタッフ数人が常に駆け巡り、何事か指示を飛ばしている。参加準備を終えた者は随所に用意された大型ストーブで暖を取っている。スタジオの最奥部では往年の大映産妖怪映画(DVD)がエンドレスで上映されていた。暇潰しでそれを眺めている者もいれば、記念撮影に忙しいグループもいる。子連れエキストラのやり取りも微笑ましい。俺の周辺では竜頭だの猿頭だの鬼女だの狐狸だの天狗だの、多種多彩な怪物どもがウヨウヨしている。非日常的風景と言えた。最早そこは魔界と化していた。午後から開始される撮影を控えて異常な熱気と喧騒がこの空間を包んでいた。後で聞いた話ではこの日は約500人の「兵隊」が集まったそうである。世の中には酔狂な人間が結構いるらしい。交通費は自己負担。出るのは弁当と関連グッズのみ。条件の割には上々の動員数である。妖怪人気は未だに根強いようだ。負けてるぜ、ゴジラ。加えて、企画に名を連ねる京極夏彦の影響力も侮れない。この中には相当数の京極ファンが混じっている様子であった。女性が多いのもその為だろうか。同志Mと映画の話で盛り上がっている内に俺の番が回ってきた。ベテランと思しき衣装係が俺の身長&体形に適したコスチュームを選び出してくれた。着物である。鮮やかな手並でベテラン氏がそれを着させてくれた。流石にプロである。動きに無駄がない。出来映えは「妖怪」と言うより「富山の薬売り」みたいな感じだが、これはこれでいいかなと納得した。俺の変身願望はとりあえず満たされた訳である。次に小道具のコーナーに進み、そこで鬼の面と手拭を受け取った。面の裏には「鬼A」とある。鬼Aか。これが俺に与えられた役である。手拭で髪を隠し、鬼面を装着する。ゴムがキツくて鼻が痛い。鏡を見ながら面の位置を調節する。まあ、こんなものか。安物妖怪、一丁上がりである。だが何かが足りない。そう。武器である。題名に「大戦争」と謳っているからには、何らかの戦いが繰り広げられる筈である。敵の正体が西洋妖怪かクトゥルーかは聞かされていないが、丸腰では寂しい。鬼と来れば当然金棒だろう。しかし、俺の腕力ではそんな大層なものは使いこなせない。槍か斧か刺股か。でも俺の好みからするとやっぱり日本刀だよな。刀こそ日本映画最大の華である。ここは夢の王国。竹光ぐらい幾らでもあるだろう。落ち着いたら小道具さんに頼んで借りる事にするか。チャンバラごっこで鍛えた腕前を発揮する時が来たぜ。わはははは。幼稚園児並の妄想に耽っていた俺だったが、撮影直前に「とんでもない得物」を手渡される事になろうとは、無論知る由もなかった…。

(2005/1/22)

道具の形

夏の終りからつい最近まで、俺は毎日遊び暮らしていた。酒浸り、映画漬けの日々。俺としては夢にまで見た理想の生活である。十数年間、俺は訳のわからない連中とのつき合いに振り回されていた。よく気が狂わなかったなと自分でも感心する。俺は一体何の為に生きているのか?ガラにもなくそんな事を考えたりしていた。人間というのは不思議なもので、遊蕩三昧にも限界があるようだ。段々厭きてくるのである。それに金銭面の問題がのしかかってくる。預金通帳の残高がジワジワ減ってゆく様子は精神上よろしくない。カネというものは貯めるのは大変だが、いざ使ってみるとあっと言う間である。生まれて初めて、餓死の恐怖に晒された。せめて生活費ぐらいは稼がなくては。俺は無性に働きたくなってきた。窮地は人格をも変化させる。怠け者代表たる俺の中に勤労意欲などという恐ろしいものが湧いてきたのである。とりあえず、無料配布の就職情報誌を何種類か手に入れた。パラパラと頁を捲ってみる。意外に求人数は多い。職種も条件も様々である。その中から自分に合っていそうな仕事を探す。俺は頭が悪いので頭脳労働は出来ない。虚弱体質なので肉体労働にも向かない。かと言って、特殊な能力や技術を身につけている訳でもない。俺って本当に役立たずだなと泣きたくなった。それでも探してみればあるものである。幾つかの候補に赤マジックで印をつける。先方に電話を入れて、面接日を決めてもらう。履歴書を携えて、いざ出陣。スーツを着たのは久し振りだ。30分程の面談を終えて、あっさり合格。翌日に研修を受けて、翌週から現場に入る事になった。最初の2ヶ月は見習い期間である。朝6時に起きて、夜10時に寝るという生活が続いている。以前の俺には考えられない健康的サイクルである。長年悩まされていた不眠症もいつのまにか消滅していた。体の調子はすこぶる良い。食欲もある。酒も旨い。同じビールでも労働の後に呑むビールの方が美味しく感じる。仕事の内容については詳しくは明かせないが、精密作業に使用する道具の洗浄とでも言っておこう。この種類が物凄く多い。まさか万単位ではないだろうが、数千種類ある事は確実である。器具によって掃除の仕方も微妙に異なる。高価な品も沢山あるのでミスは許されない。集中力が求められる仕事だ。俺には後がない。無我夢中で取り組む。

洗浄作業を繰り返す内に俺は奇妙な事に気づいた。各道具のデザインが我々のよく知っている生物を連想させるのである。カニ、ワニ、ウナギ、ペリカン、フラミンゴ、カブトムシ、クワガタムシ、シャクトリムシ…ざっと思いつくだけでもこんなにある。まるで動物図鑑だ。今日もヒトデやスカイフィッシュを思わせる「新種」に遭遇している。これからどんなヤツが現れるのか一寸楽しみである。ところでこれは偶然の産物なのだろうか?これらの道具は先に述べた生物をモデルにして作られたのか。それとも研鑽に研鑽を重ねたデザインがたまたまそれらに似ているだけなのか。休憩時間。先輩のAさん(映画通)に俺の妄想を話してみた。Aさんは「この新入りはバカか?」という表情を一瞬浮かべられたが、すぐに元の温厚な顔に戻って「うーん。まあ。そういう事もあるかも知れないねえ」とやんわり否定されるのだった。ガラスケースに収納された道具群はそれぞれ独特の美しさを湛えている。その光景は壮観ですらある。洗練されたフォルム。無駄を削ぎ落とした究極の形態。これが機能美というものなのか。俺は金属磨きが結構好きなので、案外天職かなと思ったりもする。終業時間は午後4時30分。定刻にキチンと終わるので有り難い。そんなの当り前じゃないか。と仰る方もあるだろうが、俺は「当り前じゃない組織」に長く所属していたので、こういう「当然の事」が異常に嬉しく感じるのである。在職中は労働基準法なんて一切信用していなかったけど、ちゃんと守っている企業もあるんだね。いや、違うか。これがあるべき姿なんだよ。俺達は法治国家日本に住んでいるのだから。どうやら俺が以前棲息していた場所は異次元空間、もしくは蛮…止めよう止めよう。過ぎた事を今更蒸し返したところで詮方ない。地の利。俺にとっては重大な選択要素である。現在の職場は交通の便がとても良い。ここからだと馴染みの劇場や映画館に行くのも容易だし、夕方までに我らが地下割烹《味舟》に乗り込む事も可能である。今夜は興味を惹かれるイベントがなかったので、真っ直ぐ塒に戻り、この駄文を仕上げた次第だ。今週後半から、またぞろ名画座通いが始まるだろう。

(2004/11/9)

『必殺からくり人』

先日。テレビ東京で『必殺からくり人』(1976年放送)を観た。早坂暁がメインライターを務めたシリーズ屈指の名作。以前から観たい観たいと考えていたが、ついに今回捉まえる事が出来た。地元滋賀県では『必殺』シリーズの再放送が少ないのである。あったとしてもマンネリ化が極限まで進行した後期作品ばかりなのだ。主役の藤田まこともやる気のなさがミエミエ。これじゃあフラストレーションが溜まります。

江戸の闇世界に君臨する二大暗殺組織。花乃屋仇吉(山田五十鈴)と曇り(須賀不二男)はイデオロギーの違いから激しく対立する。仇吉は例え無報酬でも「可哀想だから」という理由で弱者を助ける正義の味方。一方、体制側と内通している上に、カネの為にはどんな汚い仕事でも平然とやる曇り。彼にとって《からくり人》の存在は目障りのなにものでもない。何かの折に皆殺しにしてやろうと目論んでいる。仇吉としても曇りの刺客団に先代の元締め(芦田伸介)を惨殺された過去があり、いずれは決着をつけなくてはならない相手だと考えている。曇り一家という強敵を据えた全13回の短期シリーズ。各エピソードの随所に時代劇の概念を逸脱した様々な実験が試みられており、スタッフ&キャストの意気込みが伝わってくる。名作は時を超えて観る者の胸を打つものである。映画であろうとTVドラマであろうとそれは変わらない。

最終回直前の第12回「鳩に豆鉄砲をどうぞ」は仇吉チームの遊撃隊長・夢屋時次郎(緒形拳)が歴史上の人物を狙うサスペンス篇。標的は「蛮社の獄」の首謀者たる鳥居耀蔵(岸田森)である。岸田は別の番組でも鳥居を演じており、彼の当り役のひとつになっている。出番自体は少ないが、冷酷なエリート官僚を見事に表現。本当に殺したくなるような憎々しさはこの人ならでは。流石だね。役者稼業は悪役を演じこなして初めて一流です。大物暗殺。計画に成功しても失敗しても自分の命はないだろう。覚悟を決めた時次郎は仲間に迷惑が及ばないように細心の注意を払う。単独犯行を強調する為に敢えて仇吉と縁を切る時次郎。仲間に宛てた手紙には「当日」のアリバイ工作の方法まで記されていた。更に自爆用の火薬を調達し、馴染みの娼婦を解放してやる。一見不可解に思われる時次郎の行動の数々。その真意が仇吉の部下(森田健作&芦屋雁之助)の調査によって徐々に明らかになる仕組である。早坂の巧妙な作劇術が光る。全ての清算を済ませた時次郎は鉄砲鍛冶のジイさん(自称日本一)を訪ねる。護衛団に守られた鳥居をブッ殺す手段は飛び道具しかない。ジイさん入魂の高性能狙撃銃(!)を手にした時次郎は何度も試射を繰り返す。ミスは絶対に許されない。必ず一撃で仕留めなくてはならないのだ。暗殺映画の秀作『ジャッカルの日』(1973年)を彷彿とさせる展開。時代考証よりも面白さを優先してしまう破天荒な姿勢を買いたい。時次郎を演じる緒形の鬼気迫る表情も強烈な印象を放つ。時次郎が射撃ポイントに篭った後は、緒形の一人芝居がずっと続く。特に弾丸の数と得物の名前をいちいち確認する場面が素晴らしい。画面には絶えず緊張感が漲っており、時代劇とは工夫次第でいくらでも面白く作れるという事を再認識した。脚本も良い。役者も良い。全ての歯車が噛み合った傑作エピソードである。これは『必殺』いや…TV時代劇史上に残る奇跡だ。

最終回「終わりに殺陣をどうぞ 」では曇り軍団vsからくり人の全面抗争が繰り広げられる。曇りは仇吉に自分の傘下に入る事を勧める。死にたくなかったら我が軍門に下れという訳だ。しかし仇吉はこれを断固拒否する。ボス同士の最終会談が決裂した。後は戦争である。食うか食われるか。いざ勝負っ。兵力の厚みに関しては曇り側の方が圧倒的に上。暗殺部隊の執拗な追跡が始まる。仇吉側も必死の抵抗を見せるものの、仕掛の天平(森田)は失明し、八尺の藤兵ヱ(芦屋)は落命する。死闘に次ぐ死闘。監督は『十三人の刺客』(1963年)の工藤栄一。集団抗争の演出は手慣れたものである。平尾昌晃の切ないテーマ音楽が戦いの物語をガンガン盛り上げる。愛娘のとんぼ(ジュディ・オング)の江戸脱出を見届けた仇吉は曇りのアジトに単身斬り込む。からくり人は崩壊した。仇吉の胸には「せめて曇りと刺し違えよう」という悲壮なる決意が秘められていた。ずばずばずばっ。復讐の刃が閃いて、襲い来る戦闘員を地獄へ送る。仇吉はついに曇りとの対面を果たす。殺戮可能範囲に宿敵を捕捉した喜び。曇りさん。あなたも一緒に死んでもらいますよ。この際、仇吉はゾッとするような笑みを瞬間浮かべる。まさに暗殺者の顔である。ベテラン山田の貫禄が凄過ぎる。対する曇りは無言で愛銃を構える。お互いこれまでに幾人の人間を殺めた事か…。百戦錬磨の殺し屋二人。どちらが勝つのか?頂上決戦の行方や如何に?それは観てのお楽しみ。初期の『必殺』シリーズでは前述の藤田、緒形に加えて、山崎努や沖雅也も迫力のある演技を披露しているが、女優陣ではやはり五十鈴先生が最高であろう。幸い『必殺からくり人』は昨年DVD化されているので手軽に鑑賞可能である。実験精神に富んだアウトロー時代劇。この機会に是非お試しあれ。主題歌は川谷拓三が絶唱する『負犬の唄・ブルース』だ!

(2004/09/25)

ルッチプラザ

勤めの帰り。山東町の《ルッチプラザ》に立ち寄る事が多い。総合文化施設とでも言えば良いのだろうか。田舎町の外れに突如浮上する巨大建造物。劇場、浴場、図書館、託児所、学習室、レストラン、インターネット…あらゆる文化設備が同じ敷地、同じ建物内にギシッと圧縮されている。俺は米原町民だが、ルールさえ守れば館内施設の利用は自由である。山東町はとても気前が良い。文化振興に力を入れている。劇場ではコンサートや古典映画の上映が意欲的に行われている。残念なのは芝居の上演が極端に少ない事である。仲代達矢か平幹二郎を招いてシェイクスピア劇をやって貰うのが俺の夢である。時間に余裕がある日は風呂に浸かる。入湯料300円。安いもんだ。規模的には大した事はないが、空いているから有り難い。大抵俺一人である。頭と体をザザッと洗い、浴槽に飛び込む。気持ちが好い。ヘタな歌でも張り上げたくなる。表の張り紙によると、この風呂は「トロン温泉」なんだそうである。果たして「トロン」とやらが何に利くのか俺は知らない。説明書きもあるが頭が悪くて理解出来ない。入浴後、レストランの暖簾を潜る。生ビールを呑む為である。但し酒肴や食べものは注文しない。食通振る気は毛頭ないが、俺の好みと合わないのだ。ちーん。電子レンジの音が露骨に聞こえたりするが、あれは止めた方が良い。火照った体に冷えた麦酒が染み渡る。旨いねえ。車の運転があるので一杯だけにしておく。その後は図書館に行く。ここは夜の10時まで営業(?)している奇跡的空間である。月の半分近くは休館という某図書館も少しは見習って戴きたい。ほろ酔い加減で映画の本を読む。キネマ旬報社から出ている「日本映画人名事典」という本が好きだ。高価な書物なので「貸し出し禁止」の棚に収められている。この場で閲覧するしかないのだ。分厚い本である。資料的価値も充分だが、名優の人生や運命が詳しく記されている。意外な過去や経歴等も紹介されており実に楽しい。緒形拳、山崎努、原田芳雄、千葉真一、三船敏郎、丹波哲郎、勝新太郎、三國連太郎…豪傑どもの名エピソードが満載。これを読み始めると時が経つのを忘れてしまう。素晴らしい本である。名著である。欲しい。でも高い。読書に疲れると、今度は視聴覚室でビデオ&DVDを観る。内容の重いものや上映時間の長いものは避ける。集中力が持たないからである。今日は「アガサクリスティシリーズ」にしよう。これは映画ではないらしい。向こうで放送されたTVドラマのようである。余り有名な役者は出てこないが、結構面白い。字幕を追うのが面倒である。しかし、それを言い出すと、映画を観る資格を失うので言わない事にする。時々、友人や後輩に出会ったりもする。その際は休憩所で珈琲でも啜りつつ雑談に耽る。これも楽しい。ルッチプラザ。まるで「俺の為に」存在するかのような建物である。ほとんどカネもかからないし。もはや俺専用の竜宮城と化している。いや、それは思い上がりが過ぎるか。ともあれ、我らが山東町に感謝せねばなるまい。ありがとう。

ルッチプラザURL…http://plaza.town.santo.shiga.jp/

(2004/08/22)

大いなる謎

★何故70ミリが滅んだのか、謎です。

1961年。名プロデューサーにして、大映を崩壊させた男・永田雅一が日本初の70ミリ映画『釈迦』の製作に取り組んでいます。この時に使用された「ビスタビジョン・カメラ」の総重量は860kgあったそうです。使い手を選ぶ超弩級カメラ。その上、当時の日本には70ミリフィルムを現像・プリントする施設は存在しなかったとか。臨場感溢れるダイナミックな映像の裏には、桁外れの費用が動いていた模様です。当然、映画館にもそれに対応する設備が必要となってきます。現在の映画の置かれた状況を考えると「70ミリは滅びざるを得なかった」と言えるのではないでしょうか?映画が元気だった時代だからこそ70ミリは輝きを放つ事が出来たのだと愚考致します。

「70ミリは何故に滅んだのか?」貴兄の疑問は非常に興味深いので、その解答を自分なりに探ってみたいと思います。

(2004/03/07)

「一筆啓上 地獄が見えた」

先日『必殺仕置屋稼業』(1975年7月4日〜翌年1月9日放送)の第1話「一筆啓上 地獄が見えた」を観た。

中村主水シリーズ第3作。殺しの世界から足を洗っていた主水が「職場復帰」するエピソードである。腑抜けさが目立つ後期シリーズとは違って、この頃の主水には近づき難い凄味がある。しょっちゅうイライラしており、凶暴性も抜群。まさに悪党の上を行く悪党という感じである。何か気に入らない事があると、味方だろうが敵だろうが、殴るわ張り倒すわ蹴飛ばすわで、やりたい放題の大暴れ。扮する藤田まこともこの役を完全に捉えたらしく、気持ちよさそうに演じている。この強烈な脇役に匹敵する主人公が作れるのだろうか?と一寸心配になるが、作ってしまう所がこの作品の凄さである。

それが市松(沖雅也)である。主水でさえ厭きれるほどのアクの強さを秘めた男。水も滴る美丈夫にして、冷静沈着な殺人機械。誰に対しても心を開かず、正確無比に人を殺す。主水に殺しの瞬間を見られた為、市松は主水を追跡する。物語中盤、両雄が対決するという美味しい場面もちゃんと用意されている。暗殺技術やセンスに関しては主水をも凌駕する市松。主水の首筋に市松の凶器が迫るが、百戦錬磨の貫禄でドローに持ち込む辺りは、観ていてゾクゾクする。

「刀、引いてくれや」という市松の頼みへの主水の回答が良い。

「駄目だ。俺はカカアを始めとして、他人(ひと)様を信用しねえ事にしてるんだ」

主水&市松。まるで敵同士のように激しく衝突するものの、酷く似ているようにも思える二大暗殺者。この2人だけでも充分濃いが、これに怪力無双のエロ坊主・印玄(新克利)が加わるのだから、狙われる方も堪らねえ。地獄の鬼も逃げ出すような強力布陣の完成である。

そして初仕事。市松が標的の首領格を仕留めておしまいかと思いきや、これで終らないのだから油断出来ない。脚本・安倍徹郎の恐るべきサービス精神。巡礼姿の少女に市松の殺しが目撃されてしまったのだ(よく見られる男だな)。どうする?決まっている。目撃者は即排除するのが殺し屋の鉄則だ。それが女の子であろうと誰であろうと死んでもらうしかない。少女の眼前に凶器を突きつける市松だが…相手が盲目と判り一安心。出航する船に少女を乗せる為、彼女を抱き上げる市松。さしもの冷血殺人者もこの時ばかりは優しい笑顔を見せるのだった。その様子を見守っていた主水が、やれやれという感じで闇に消えてゆく所で、第1話は終幕となる。

主水を血塗られた運命へと導くおこう(中村玉緒)。主水にボコボコにされながらも、必殺チームの密偵役を務める捨三(渡辺篤史)。主水の愉快なお目付け役・亀吉(小松政夫)等々…他の脇役陣も大充実。TVシリーズのファーストエピソードとしては、ほぼ完璧な仕上がりではないだろうか。サブタイトルが「一筆啓上○○が見えた」というのもユニーク。昔のTVは随分面白い番組(時代劇)をやっていたんだなと改めて思う。

(2004/02/29)

ゴジラ生誕50周年企画

近未来日本。今日は世界初の首都原発《おめが》の竣工式。その式典の最中、突如雲海を切り裂いて巨大飛行物体が姿を現わす。飛行物体は原発の上空で静止。中から武装集団が躍り出て、あっと言う間に会場を占拠、出席者全員を拘束した。周囲の反対を押し切り「おめがプロジェクト」を推進してきた敏腕都知事(柄本明)も、この想像絶する事態に呆然。自らを《轟天》と名乗った物体はマスコミを通じてこう宣言した。

「全ての都民に告ぐ。今日から一週間後に《おめが》の原子炉を爆破する。死にたくない奴は東京から出ろ」と。

一方、日本近海では腹を空かしたゴジラが出現。手始めに、海岸でレイプを楽しんでいた変態サークルの連中を一人残らず食い殺す。今回のゴジラは放射能だけでなく、人間も食べる。凶暴性と言い、残虐性と言い、シリーズ最強。彼の牙は「肉」を喰らう為に存在しているのだ。ばりばり。

この第一級非常事態に日本政府は上へ下への大騒ぎ。そんな中、ゴジラ研究の権威たる丹波哲郎先生(本人)は何者かに拉致されてしまう。とりあえずの空腹は満たしたものの、ゴジラの食欲は止まる事を知らない。今度は放射能熱線のエネルギーを求めて、海路東京を目指す。狙いは無論《おめが》に決まっている。ゴジラ襲来。自衛隊は総力を挙げてゴジラ迎撃に動き出す。東京湾は海上自衛隊の精鋭部隊が守りを固め、陸上自衛隊は航空自衛隊と共同戦線を張る。その際に登場するのが、改良型・メーサー殺獣砲車である。強靭なゴジラ細胞さえも焼き尽くす究極の殺戮兵器。首都防衛の要である。

大混乱の東京。一般市民は都心から少しでも離れようともがくが、高速道路も公共機関も車やら人やらで溢れかえり、都内各所では暴動や火災が発生する有様。それを鎮圧しようと機動隊や消防隊が出動するが、道路という道路が車両で埋め尽くされており、身動きひとつとれない。そのパニックの中を悠然と歩く偉丈夫がいた。愛用の段平を携えて男は東京湾の方向へと向う。勿論ゴジラと対決する為である。言うまでもないが、この男を演じるのはラスト・サムライ藤岡弘である。そして、その横を自転車で駆け抜ける青年。この頃、映画・演劇に大忙しの藤原竜也である。藤原のただ一人の肉親が《おめが》内に囚われているのだ。姉さん。待ってろよ。今、俺が助けてやるからな。

ぐわおー。自衛艦艦隊を蹴散らして、東京上陸に成功するゴジラ。目標捕捉。撃てっ。殺獣砲車軍団の一斉射撃がゴジラの肉体を貫く。生か死か。人類と自然の死力を尽くした一大攻防戦が開始されたのだ。

柄本都知事の運命は?丹波先生の行方は?藤岡弘の剣はゴジラに通用するのか?彼の行動の裏には何が秘められているのか?果たして、藤原竜也は無事姉を救出出来るのか?そして、正体不明の飛行物体《轟天》の真の狙いとは?謎が謎を呼び、物語は最終決戦へと雪崩れ込むのだった…

…というのは全部俺の妄想ですが、東宝がゴジラ生誕50周年作品を企画しているのは事実です。現時点でその内容は全くの不明です。何でも三つのシナリオが用意されているそうですが。織田裕二に出演交渉をしているとか、十大怪獣が登場するとか、その程度の情報しか―少なくとも俺には―入っておりません。個人的には、織田主演の怪獣映画(に限らず?)なんて観たくもないし、登場怪獣にしても頭数を揃えれば良いってものでもないでしょう。折角の記念映画ですから、ここは原点に帰って、物凄く怖いゴジラを作って欲しいものです。餓鬼どころか大人さえも震撼させるような怖いゴジラを。最近、トラウマになるような強烈な作品が少ないように思います。

(2004/01/21)

『ラスト・サムライ』の予告篇

★概念ないし先入観に捕われない方が(感動できるという意味で)お得な映画です。

この映画の予告篇は腐るほど観せられましたが、ただの一度も食欲が湧いた事はありませんでした。トム・クルーズが全然面白くない冗談(独り言?)を言って、勝手に笑っているシーンで気が殺がれました。それが、尾崎君の文章を読んで少し印象が変わってきました。仕事が早く終わった時にでも行ってみます。時代考証については余り期待しておりません。考証が行き届いているから、その映画が面白いとは限らないし…。黒澤映画も出鱈目な場面が結構あります。勿論「本物」を知った上で「嘘」をついているのですが。俺などは根性が悪いので、この種の映画は「勘違い振り」が逆に楽しみです。感動の涙を流しておられる人の横で爆笑していたら、白い眼で見られるかな。

(2003/12/09)

台詞を潰せば、差別は消えるのか?

★差別語の排除が差別以上に悪質な存在の抹殺になつてゐる例だらう。

差別という問題は、人間社会に根深く存在しており、これを軽視する事は危険です。それは解りますが、台詞内の差別語を削除したところで、差別も一緒に消滅する訳ではありません。むしろ、観る者に無気味な印象を与えるだけです。高坂様の映画評を拝読すると『新・悪名』が差別を増長させたり、誘発させたりする映画のようにはとても思えません。要は作品の内容ではないでしょうか?もし作品内に問題があるなら、その時こそ大いに論議をすれば良いのではないでしょうか?それよりも、下品なタレントが弱者を虐待して笑いを取る(何が面白いのか俺には全く理解出来ませんが)一連のTV番組の方こそ削除して貰いたいものです。

ここ数年、衛星放送でも民放でも差別語の「処理」をせずに放送するケースが増えてきました。俺のような人間には嬉しい傾向です。それだけに、今回のKBSのお話は残念に思いました。

(2003/11/07)

陳五郎が語り、珍獣王が唄う2

ライブが始まった。今夜のゲストたる《みゅーず》が颯爽と先陣を切る。何度も聴いている曲の筈なのに、場所や環境が変わると、新鮮に聴こえてくるから不思議である。陳五郎御大は別格として、大城氏も演奏技術に益々磨きをかけてこられた事が、ド素人の俺にすら感じられた。曲間のトークも落ち着いたものである。観客の反応も好評であった。ステージにビール瓶が投げ込まれる事もなく《みゅーず》の演奏は盛況の内に幕を閉じた。

いよいよ《珍獣王国》登場である。が、その前に《みゅーず》との共演が実現した。御大は珍獣王・山下氏と共に『キー・トゥ・ザ・ハイウェイ』を熱唱。うわー。かの掲示板で予告はされていたものの、まさかまさかという感じである。わざわざ、俺如きの為に両雄が唄っている…勿体ないような、恥かしいような、でも嬉しかった。感動した。身震いした。自然目頭が熱くなった。ああ。俺には、俺にはそんな価値などないのに…。

その後は《珍獣王国》怒涛のライブが始まる。猛烈なファンが駆けつけており、野太い声援が飛ぶ。山下氏の毒の効いたギャグに爆笑が弾ける。俺には専門的な事は何もわからないが、文字通り、生命を削るような山下氏の歌声にすっかり魅了されてしまった。他のお客も同様である。ライブ終了後も異様な熱気が場内を包んでいた。凄いね。これは。

その夜の客の中に高坂氏の従兄弟君が混じっていた。知的な風貌と涼やかな雰囲気を備えた好青年であった。ライブ後、暫く2人で呑んだ。過密スケジュールを縫っての来場だという。年中ヒマを持て余している俺とは大違いである。かの従兄弟君、今後の人生について悩んでいる様子であったが、彼なら最善の選択をするであろう事は容易に予測がついた。これも俺とは大違い。かの青年はとても親切で、ベロベロに酔っ払った俺を駅まで送ってくれた。途中、名古屋で起きた「幻の大地震」か何かについて喋っていたような気がするが、よく覚えていない。

JR京都駅到着。米原方面への新快速発車まで十数分ある。強烈な空腹感に襲われた俺は、駅内の立ち食い蕎麦屋に飛び込んだ。大急ぎでカレーうどん&ライスを注文。素うどんにレトルトカレーをブチ込んだだけの代物だったが、腹が減っていたので、一気に平らげた。帰宅し、服を脱ぎ、布団に入ると、枕元の時計は午前0時を指していた。

(2003/11/05)

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