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マンガの渡り鳥1

現代マンガ図書館

その日の午後。俺は有楽町線江戸川橋駅を下車した。地上へと続く階段をタラタラッと駆け上がる。良い天気だ。今年の冬はやたらに寒かったような気がするが、流石に春の気配が周囲を包んでいる。ようやくの春到来である。この辺りは食べ物屋さんが結構多い。昼飯は済ませてきた。帰りは何を食おうかと思案しつつ、新目白通りに沿って5分ほど歩くと、目的の建物が見えてくる。現代マンガ図書館。今や日本文化の代表格として定着したマンガ。毎週毎月、膨大な数のマンガ誌、コミックがこの世に送り出されている。過去の名作を含めて、その収拾・分類・保存をやってしまおうというのが、この私設図書館の理念であり使命なのだ。途轍もない野望である。口で言うのは簡単だが、それを実行するのは極めて困難である。反面、やり甲斐のある仕事だとも思う。生涯を懸けるに相応しい仕事に巡り合う。これほど幸福な事はあるまい。本人の努力と才能も深く関与してくるのは言うまでもないが。中に入ると、まず入館料として300円を支払う。後は蔵書リストから任意のマンガを選び、それを申請書に記入して受付のお兄さんかお姉さんに提出する。暫く待っていると希望のマンガが届けてもらえるという仕組みである。閲覧料金は1冊100円である。但し、資料的に貴重な作品はマンガ図書館友の会会員のみ閲覧可能となる。会員には他にも様々な特典が用意されている。年会費は6千円だ。因みに入館料を払えばその日の内なら出入り自由である。マンガ三昧に疲れたら、近所の喫茶店で休憩しても構わない。この図書館は遡行専用のタイムマシンだと思う。ここにはマンガの歴史が丸ごと収蔵されている。利用者は自分の思うままに時を遡る事が出来るのだ。過ぎ去った時間を捕捉するという行為は麻薬的な面白さがある。これは病み付きになるぞ。閲覧料100円なんて安い安い。この図書館をそこらのマンガ喫茶やインターネットカフェと同一視して語るのは失礼だ。格が違うのだから。

普段は70〜80年代のマンガ誌&アニメ誌を手当たり次第に読み耽っている俺だが、今日に限ってはある目論見があった。先頃読んだ「ゴルゴ13」の資料集に載っていた単行本未収録作品4本を探り出してやろうと考えていたのだ。その資料集には「諸般の事情によりこのエピソードの単行本収録は自粛しています」とあった。読めないと言われると無性に読んでみたくなるのが人(オタク)のサガ。その本には話数と掲載誌、そして発表年月日が記されていたので、それを頼りに捜索作業を進める事にした。題名は不明だが「ゴルゴ13」の単行本はほとんど読み潰しているので、未読のエピソードならすぐに判るという自信はあった。それにしてもこんな作戦が成立するのは東京広しと言えど、この図書館か国立図書館ぐらいだろうな。青年誌リストを借りて「ビッグコミック」のページを開き、ある程度の見当をつけてその号を抜き書きする。出庫してもらった「ビッグコミック」を読む。おや?多少のズレがあるようだ。次回申請の際は誤差を修正する。それを何度か繰り返した。俺の調べ方が悪かったり、基のデータが誤っていたりと、予想以上に手間取ってしまったが、何とか四つの「封印エピソード」の発掘に成功した。各タイトルは次の通り。

@『幻の栽培』A『スワップ/捕虜交換』B『バチカン・セット』C『告発の鉄十字』

この4エピソードに単行本収録を躊躇わせるような如何なる「毒」が仕込まれているのか?俺は嬉々として読み始めたのだった。しかし途中から若干の戸惑いを覚えた。収録不可能の理由がわからないのである。この程度の内容なら特に神経質になる必要もないのではないか。Cはナチ収容所で行われたとされる大量虐殺が話に絡んでくるので少々ヤバイのかも知れないが@〜Bは一体何が引っかかるのかさっぱりわからない。頭の良い人が読めば「問題箇所」を即指摘するのだろうが、国際情勢に疎い俺には無理であった。因みに@は黒澤明の『影武者』を髣髴とさせる話である。Aは物語自体には新鮮味がないが、二つの標的を同時に仕留めるゴルゴのキラーテクニックが光る。Bはバチカン銀行vsスイス銀行の大喧嘩が楽しめる。近頃世間を騒がしているスキミング問題を先取りしていて興味深い。Cの狙撃場面も中々凝っている。標的は二重人格者。片方の人格だけを射殺してくれという前代未聞の依頼である。いずれも及第点に達している面白いエピソードなので是非単行本に加えて欲しいものだ。何かにつけてやかましい御時世。出版社も心労が耐えないのだろう。だが、あれも駄目これも駄目と自主規制をしていてはこの業界の未来は暗くなるばかりだ。危険さ、奇想天外さ、突拍子のなさこそ「ゴルゴ13」の…いや、劇画本来の魅力だと俺は信じている。

「何かの研究ですか?」探索に夢中の俺にそう尋ねてきた紳士がいた。その風貌は声優の清川元夢に一寸似ている。この人物こそ、現代マンガ図書館の主たる内記稔夫氏であった。俺がこの図書館に初めて来館したのは確か9年前。今日までに幾度か館長の姿を見掛けているが、俺風情が気軽に話を出来る人物ではないと考えていたので、会釈をする程度にしていた。しかし今回は事情が違う。先方から俺に話し掛けてきたのだ。これぞ千載一遇のチャンスだと俺は喋りまくった。来館理由を述べると内記館長は「そうですか。なるほど。それは面白いですね」とニコニコと笑っておられる。実は「暇な奴がいるものだな」と苦笑されていたのかな?でも俺はテレパスじゃないからその確証はない。俺はおもむろに名刺を取り出して内記館長に手渡した。館長はそれを丁寧に受け取ると「第一回手塚治虫文化賞特別賞受賞・現代マンガ図書館」と刷り込まれた名刺を返して下さるのだった。前の会社を辞めてから8ヶ月。これが2度目の名刺交換となる。まさか内記館長の名刺をゲットする日が来るとは…。昨年、冗談半分で作った名刺がこのような場所で役に立つとは思ってもいなかった。館長は「近々京都で講演があるんですよ」と言われた。どうやらその下調べをされている様子であった。これ以上、その進行を妨げる事はさしもの厚顔無恥で鳴らす俺にも許されなかった。マンガの認知度が上がれば上がるほど、館長の忙しさも増すという訳である。ともあれ、日本のマンガ文化を守るサムライの一人と知己を得られた事は俺にとってかけがえのない収穫であった。現代マンガ図書館では通常会員とは別に賛助会員(一口1万円)を募っている。これだけの施設を維持運営する為には何かと経費が嵩むのだろう。マンガに愛着を感じていて、更に財布に余裕のある方は検討をよろしく。勿論、賛助会員ならではの特典もあります。もし俺が大金持ちならドサッと1億円ぐらい寄付するんだけどなあ。何処かにそんな気前のいい資産家はいないものかね。俺が今後富豪になる確率はゼロに等しいが、金がなくてもそれなりの応援方法がある筈だ。でも俺という人間は「知恵を絞る」ってのが一番苦手なんだよな。とにかくペテンがトロいからさ。そこの君、何か妙案あるかい?

現代マンガ図書館のウェブサイト

(2005/3/20)

川尻早人は時をかける

先日。図書館で『時をかける少女』(1983年公開)を観た。原作は筒井康隆。キラメキの新人女優(予告篇より)原田知世扮する主人公が時間遡行能力を身につけてしまう物語。SF風味のラブストーリーと言ったところか。大林宣彦の繊細な描写が独特の味わいを醸し出している。哀しくも美しい幕切れも印象的だった。名作である。だから角川映画は侮れない。初々しい知世の姿を眺めている俺の脳裏に浮上してきたマンガがあった。荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』(第4部)である。この作品には「スタンド」と呼称される特殊な能力が登場する。超能力をヴィジョン化するという発想が素晴らしい。この源流は横山光輝の作品群にあると考えられるが、その話は別の機会にしよう。画期的システム「スタンド」は第3部より導入され、以降の荒木作品の根幹を支える主要アイディアとして現在も駆動中だ。吉良吉影。第4部を代表する傑作キャラクターである。生来の殺人機械という呪われた宿命を背負いつつも、安息の日々と静謐な暮らしを追い求める男。その強烈な個性と行動は主役を凌ぐものがある。物語の中盤、正体がバレてしまった吉良だったが、川尻浩作という人物の顔と生活を奪い取り、尚も逃げ延びようとする。無様であろうが惨めであろうが関係ない。如何なる手段を講じても生き続ける。この恐るべき執念には感動さえ覚える。仲間と群れたがらない孤高の性格も魅力的だ。第4部のクライマックス、吉良は究極の爆破能力《バイツァ・ダスト》を駆使して、追跡チームに対抗する。この能力は『時をかける少女』が原型になっていると思われる。荒木が筒井作品の愛読者という事を考慮するとまず間違いないだろう。尤も「時をかける」のは吉良本人ではない。吉良は川尻の息子である早人に《バイツァ・ダスト》を仕掛け、敵軍襲来に備える。必殺爆弾の作動条件は「吉良吉影」という言葉である。早人に対してキーワードを浴びせた者は、次の瞬間、粉微塵に吹き飛ばされる。絶対に死ぬ。この攻撃を回避する方法はない。爆撃範囲の広さと正確無比の命中率は全スタンドの中でもトップクラスに属する。普段は控え目な態度を崩さない吉良先生が「無敵の能力」と豪語するのも頷ける。実際、追跡部隊の主要メンバーも《バイツァ・ダスト》の威力の前に一度壊滅しているのだ。対象者全員を爆殺した後「1時間ほど時間が戻る」というのがこの能力のユニークな所である。その特徴故に早人は合計2回の時間遡行を経験する事になるのだ。当初は端役扱いに過ぎなかった早人だが、物語の進行と共に自我を発揮。年齢を超えた正義感と使命感に燃えて、少年は凶悪殺人鬼に徹底抗戦を挑むのだった。絶望的状況下、決死の反撃が開始される。この辺りの展開は極めてスリリングであった。第4部の本当のヒーローは早人のような気がする。その勇気と判断力。僅かなスキを衝いて吉良の結界を打ち破った功績は賞賛に値するだろう。彼の活躍がなかったら、第5部の主人公は吉良吉影になっていたかも知れないのだから。個人的にはそちらの方が嬉しいけど。

筒井作品の引用は他にも見られる。第6部の土壇場では「加速する時の中での戦い」が繰り広げられるが、これは同じ設定の短篇『急流』のパロディであろうか。ついで言うと、宿敵ブッチ神父が玉砕する場面と「そっくりの箇所」が『七瀬ふたたび』に存在するので、暇を持て余している方は是非探してみて下さい。小説にせよ映画にせよマンガにせよ、影響を受けた作品の持つ要素(旨味)を荒木は巧妙なやり方で自作の栄養にしている。単なる引用や借用ではなく、常に「進化した形」で我々読者に提供してくれる。それが凄い。そしてそれこそが、荒木と凡百作家との決定的な差なのである。思い出したくもないが、庵野秀明の半分の才能もない輩が『新世紀エヴァンゲリオン』の猿真似をして喜んでいたが時期があった。あれは信じ難い愚行であり、醜悪な光景でだった。この連中には作家としての誇りも信念もないのかと愕然とした。無論それを見逃した編集者の罪も重い。もし一緒になって騒いでいたとしたらまさに愚の骨頂である。プロ意識を失った者は潔く筆を折ってもらいたい。つき合わされる方はたまったもんじゃないぜ。客をバカにするのも大概にしておいた方が良い。まあ。バカにされている事に気づいていない客が結構多いのも問題ではあるが。マンガ大国日本などと言っても読み応えのある作品を描いている者は少数である。荒木飛呂彦は嬉しい例外の一人だ。今後も斬新な作品を世に送り出し、我々の度肝を抜いて欲しいものである。

(2004/11/18)

のっとる

鋼鉄の壁に四方を囲まれた地下室。血と狂気が渦巻くその場所に異形の集団が集まりつつあった。古き者ども。人間よりも先に生まれ、進化し、太古の地球を支配していた者達…先住人類デーモン。 悪魔の群れが地下室を埋め尽くそうとしたその時であった。凶悪凶暴。猛者揃いのデーモンの中ですら《地獄の野獣》と恐れられるアモンがいきなり近くの仲間に襲いかかったのだ。どかっ。ぎゃあー。ぐぐぐ。ばりばりばり。アモンはそいつの頭部を鷲掴みにすると、力任せに引きちぎった!どっ。ぐるぐる。血塗れの頭が鋼の床に墜落し、鮮血を撒き散らしながら独楽のように回転する。

デーモンA「何をするっアモン!」(吃驚)

デーモンB「狂ったか!?アモン」(状況が理解出来ない)

?????「アモンではない!お前たちデーモンを一人残らず地上から消す為に生まれた悪魔…」(睨む)

?????「デビルマンだ!」(「何っ」と驚くデーモン一同)

デーモンC「意識を人間にのっとられたのねアモン」(泣きながら)

デビルマン「のっとったと言ってもらおうか。俺はデーモンの体を、デーモンの超能力を…」(不敵な笑顔)

デビルマン「貴様たちを滅ぼす為に手に入れたのだー!」(と絶叫しつつザコデーモンのどてっ腹をブチ抜く)

永井豪の最高傑作『デビルマン』。そのファーストエピソード「悪魔復活編」のクライマックスである。日本マンガ史上最強の変身ヒーロー誕生の瞬間。敵と闘う手段として、当の敵と合体し肉体と能力を奪うという設定は今見ても斬新である。この後『デビルマン』の亜流&模倣が何度繰り返された事か…。その影響力は計り知れないものがある。まさに記念碑的作品であり、豪ちゃんの長い作家生活の中でも最高に冴えていた時期のマンガである。

「悪魔復活編」の完成度は極めて高い。何気ない日常から幕が開き、そこからジワジワと恐怖感を煽ってゆく展開が見事であり、巧く料理すれば秀逸なホラー映画に仕上げられるだろう。実を言うと、俺はこのエピソードが一番好きや。今年公開予定の実写版『デビルマン』は、どうやら原作後半を題材にしているらしい。大丈夫かいな。あの辺を本気で映画にしようとしたら、カネが幾らあっても足りないような気がする。先日、その予告編を観る機会があったが、期待どころか不安に落ち込むような出来であった。あれほど映像化については慎重な姿勢だった永井サンがよくGOサインを出したよな。熱心なファンが多い作品だけに、あんまりバカなものを作るとそれこそ暴動が起こるぜ。とか何とか言いながら、結局は観に行ってしまうんだろーな。

(2004/04/01)

「動作・24分の4」

先日。さいとう・たかをの『ゴルゴ13』を読み返す機会があった。第18巻収録の「動作・24分の4」。奇妙な題名のエピソードだが、ゴルゴ13が仕事に対する異常なこだわりを見せる傑作である。

今回の依頼人は田舎ヤクザのボス・ベントナ。ニューヨークを根城とする巨大組織(ファミリー)の侵略を受け、ベントナの組織は惨めに崩壊した。部下も財産も縄張りも毟り取られたベントナは、最後の反撃手段としてゴルゴを雇う。俺の死は免れまい…せめて相手のボスも道連れにしてやろうという訳だ。だが、敵もさる者。ベントナの計画を察知したボスは、ファミリー所属の暗殺チームを動かして返り討ちを狙う。かくして、ゴルゴvsファミリーの死闘が始まった!

物語の途中、ベントナは激しい拷問の果てに息絶える。この時点で、敵側の「ゴルゴ包囲網」は完全に構築されている。生き残ったベントナの部下&その妻に「犬死には止めて下さい」と何度制止されても、世界最強にして、世界一頑固な暗殺マシンは耳を貸そうともしない。「仕事に入った以上、依頼者以外の者と話を聞く気はない」それが彼の答えだ。この瞬間、血塗られた犯罪者でありながら、プロフェッショナルの心意気を有するというゴルゴ最大の魅力が煌く。一度引き受けたからには、如何なる困難があろうとも契約は実行する。依頼者にとって、これほど頼もしい男が他にいるだろうか。神経質な条件や多額の報酬を要求するだけの事はある。

ヤクザの群れがウヨウヨしている街中へと単身で乗り込む壮絶な格好良さ。防弾ガラスで固めた部屋に立て篭もる標的を、秘密兵器を駆使して撃ち砕く場面のカタルシス。組織が誇る暗殺軍団との熾烈な攻防…80数頁の中に盛り沢山の内容がギッシリと詰め込まれている。ファンならずとも必読だ。

(2003/12/01)

『SPACER』

昨夜。自室の片隅に『エウレーカ』を発見。一気に読了しました。

尾崎君の指摘のように『七夕の国』はTVドラマ向き。『エウレーカ』は映画向きという感じですね。脚本化は可能として…真剣に作ろうと思ったら、両作品とも幾らでもカネがかかりそう。岩明マンガは読者の意表を衝く戦闘&殺戮場面が魅力のひとつですが、これを映像世界に巧く変換する事が出来るかどうか。ドラマ部分は、台詞を映画用に改良して、優秀な俳優が集まれば、何とか成立すると思います。

クドくて申し訳ないのですが…俺としては原作はあくまでも土台に留めて、映画独自の世界を展開してくれた方が嬉しいですね。

◆シンイチや田宮良子を演じられる役者がいるのか甚だ疑問です。

いない事はないと思いますよ。演劇の世界には巧いのが一杯揃っていますからね。ただ…彼らは知名度が低いので、映画には出演し難いという哀しい現実がありますが。

今年の3月に、新宿の劇場で『SPACER』という芝居を観ました。ある町の住民が地球外生物に侵略されてゆく模様を描いた作品です。その世界観は『寄生獣』に類似しています。演劇ですから、CGを使う訳にもゆかず、特殊効果やスプラッタ表現には自ずと限界があります。そのような「弱点」を綿密な脚本と出演者のリアルな演技で見事に克服していました。

と言うより、ヘタなホラー映画より怖い怖い。舞台には安バーのセット組んであるだけ。主人公のマスターと友人や客達の何気ない会話が、少しずつ少しずつ異様なものへと変貌してゆきます。導入部から終幕迄、ハードSFの醍醐味を満喫させてくれました。作り手の工夫次第では、ここまで観客を魅了出来るものなのかと、改めて演劇の凄さを痛感しました。

もし、映画版『寄生獣』を日本で作るとしたなら『SPACER』の路線を狙ってみるのも面白いかなと思います。或いは、金子修介辺りが、怪獣映画のノリで撮ってくれないかなと考えたりもします。

(2003/06/03)

怒る原作者

◆『七夕の国』は『奇魂』第七號で宮村さんが取り上げておられるとのことで、ちょっと吃驚しました。

1頁弱の雑文です。いつもの調子で好き勝手に書き散らしました。またぞろ熱烈且つ臆病なファンの方から抗議を頂戴しそうな内容です。

尾崎君も岩明マンガがお好きのようですね。俺は『エウレーカ』は未読です。荒れ果てた部屋の何処かに隠れていると思いますので、近々読んでみたいと思います。何故に『七夕の国』や『エウレーカ』が映像化に向いているのか…その理由を是非窺いたいものです。個人的には『雪の峠』『剣の舞』辺りが映画の素材として適しているのではないかと思います。巧く調理すれば、気の利いた短編映画が1本出来ますよ。

◆要は映画の特性と限界を踏まえて原作を生かす努力が必要、ということでしょうか。

まさにその通りです。それを実行するのは至難ですが…。

原作者というものは自作の映像化に関しては極めて手厳しいですね。キングもキューブリックの『シャイニング』を始めとして、大半の作品を認めていません。思い余って、キング自ら監督を務めた映画もありますが、出来の方は今ひとつのようです。

日本では池波正太郎のこだわりが有名。人気時代劇『必殺』シリーズのルーツは池波の『仕掛人・藤枝梅安』ですが、徐々に原作の世界を逸脱し始めた番組内容に池波が激怒。第2作からは「原作・池波正太郎」というテロップを外させました。以降『必殺』は独自の進化を遂げる事になります。現在『剣客商売』の主人公を藤田まことが演じていますが「池波先生が存命ならこの配役はなかった」と、藤田自身が何かのインタビューで答えていました。

(2003/06/02)

二次元の三次元化

多分俺だけでしょうけど、マンガのキャラクターを実際の俳優が演じる事に抵抗を感じます。マンガがアニメーション化されるのなら、まだ許せるのですが…。先日観た『あずみ』も、各登場人物が原作通りの扮装をし、マンガ的(余り好きな言葉ではありませんが)な台詞を喋っているので、幾度か失笑してしまいました。マンガだからこそ出来る大袈裟な表現を、そのまま真似するのはどうかなと思います。マンガを原作にした映画(ドラマ)に漂う特有の嘘臭さ。これを巧く処理した作品は滅多にないですね。知名度の高いマンガを素材にするのは、興行的に有利なのは解りますが、マンガの魅力要素を抽出して、映画の世界に違和感なく取り込む工夫を見せて欲しいものです。

(2003/05/28)

荒木飛呂彦

『ゴルゴ13』第27巻収録の「芹沢家殺人事件」は、荒木飛呂彦が「僕の好きなマンガ」の第1位に挙げていたエピソードです。両作品のファンなら絶対に見逃せない作品だと思います。荒木が邦楽嫌いの洋楽贔屓というのは有名な話。仕事場ではお気に入りの曲をガンガンかけて執筆に励んでいるとか。作品内に登場する独特の擬音もその影響が大きいのではないでしょうか。この前も少し触れましたが、第6部のラストで、歴代ジョジョの活躍も冒険も「なかった事」になりました。この結末を見て、我が友人の〈眠らない男〉より「肥大化した物語をリセットする為の苦肉の策だったのではないか」という意見が出ております。果たして『第7部』ではどのようなストーリーが展開されるのか?興味津々です。

尾崎君の指摘通り、ゴルゴ13も吉良吉影も個人主義の権化と言えるキャラクターです。特に前者(最近は流石にお疲れですが)は、如何なる思想・理念・国家に対しても中立の姿勢を貫いており、アウトロー好きの夢を大いに駆り立ててくれます。吉良があれほど魅力的な敵役に仕上がったのは、荒木自身の理想が、彼の中に色濃く投影されているからだと思います。悪役には作者の本音が出ると誰かが申しておりました。俺も同感です。

(2003/04/20)

吉良吉影2

吉良吉影が最初から登場していれば、第4部は傑作になっていたと思います。吉良は多分連載途中で考え出されたキャラクターでしょう。初めは性格設定もいい加減で「こんな奴が最強の敵なんかい」と落胆していました。そんな吉良が強烈な魅力を発散し出したのは、自分の腕を自ら切り落としてでも生き延びようとした辺りから。勝負の行方やプライドなんて関係ない。生きる。絶対に生き抜く。異常過ぎる執着と執念が圧倒的でした。彼に比べれば、主人公とその仲間(特別出演の承太郎は別)なぞ小物の集まりに過ぎません。最後の闘いで、主人公側のアホの1人が、彼に向かって「殺人が趣味のブタ野郎」などと口汚く罵っていました。とんでもねえ。こいつらこそ、自分達の能力を悪用して一般人を騙した前科を持つ「ブタ野郎」であり「手前ら人の事が言えた義理か」と憤慨した記憶があります。

吉良は群れる事を徹底的に嫌う真の一匹狼というのも良いです。彼は職場では昼行灯を演じ切っていたようですが、その辺のエピソードも読んでみたかったですね。同じサラリーマンとして。魂だけの存在になった彼が、彫像のように砕け散る土壇場はインパクト充分。名悪役の多いこのマンガの中でも、特筆すべき死にっ振りと言えるでしょう。

(2003/04/17)

吉良吉影

吉良吉影の名前が出てくる辺りは流石に尾崎君です。吉良は『ジョジョ』を代表する傑作キャラクター。彼の目的は「安眠したい」ただそれだけ。マンガ史上稀に見るセコさと桁外れのアクの強さが魅力的でした。彼の原点はデューク東郷ではないでしょうか(他にも色々混ざっていますが)?自分の過去や経歴を追う者は「絶対殺す」という異常な執念が、ゴルゴ13と共通しています。この性質は第5部のディアボロにも引き継がれる事になります。物語のクライマックスに登場した、吉良の最終能力『バイツァ・ダスト』にも強烈な印象を受けました。キーワードに触れた追跡者を問答無用で爆破する最強の必殺能力。作者自身もお気に入りと聞いております。決戦に敗れ去り、あの世とこの世の境目を彷徨う幽霊と化した吉良。その状況に悲観するどころか「ここにこそ私の求める生活がある」と喜んでしまう凄さ。この〈名優〉は最後の最後まで魅せてくれました。第4部の真の主人公は、吉良吉影その人だったと俺は確信しています。

(2003/04/15)

『ストーンオーシャン』

俺は基本的に「ジャンプ」系のマンガは嫌いだが、荒木飛呂彦の作品は例外である。全篇を貫く独特の美学と奇抜な物語展開に魅了されたのは中学生の頃。それ以来のファンである。今週、3年に及ぶ連載を経て『ジョジョの奇妙な冒険・第6部・ストーンオーシャン』が終了した。毎回、個性強烈な悪役を登場させて読者を楽しませてくれるこのシリーズ。今回の敵役は「天国に行く方法」を見つけんとする狂信者・ブッチ神父。これを迎え撃つのは初の女主人公・空条徐倫である。

昨年の暮れ辺りから、物語は佳境に突入しており、血みどろの最終決戦が繰り広げられていた。激しい攻防の果てに、ブッチは宿願たる「究極能力」を獲得し、徐倫とその仲間達に逆襲を仕掛ける。結果、主人公と彼女の父親・承太郎(第3部の主人公)が共に討ち死にしてしまう。予想外の壮絶な展開に、このマンガは一体どうなるんだ?と思わず息を呑んだが、何と一番の足手まといだった筈の少年が、主人公の意思を引き継ぎ、仇敵をブチ殺すという意外な結末が用意されていたのである。読み手の意表を衝くのが得意な荒木らしい仰天フィナーレであった。

読んで貰えば解かるが、ブッチの能力の影響により、長年積み上げられてきた『ジョジョ』の作品世界は崩れ去った。荒木は既に新作の準備に着手していると聞いている。果たして、それが『第7部』になるのか、全く別の作品になるのかは、今のところ不明である。どちらにせよ、荒木が「ジャンプ」史(誌)上最強の異色作家としてこれからも活躍してくれる事を祈っている。

(2003/04/10)

バベルの塔攻防戦

横山光輝の代表作の一『バビル二世』である。互いに認め合う宿敵同士。世界征服を標榜する魔人ヨミと超能力少年バビル2世(一寸生意気)が真っ向から激突する。バビル2世だけなら、ヨミの組織力なら踏み潰すのは容易いが、この発火小僧の守りを固める面々が極めて厄介である。天空の王者たる怪鳥ロプロス、海中を自在に駆け巡る鋼鉄の巨神ポセイドン、変幻自在の怪生物ロデム。そして、大砂漠の中に聳える科学要塞バベルの塔。この塔内には、数千年間も活動を続ける脅威の万能コンピューターが存在する。仮に損傷を受けたとしても自己修復機能により、忽ち再生可能という化け物だ。割と軽率な主人公に比べて〈彼〉は常に沈着冷静。緻密にして有効的な戦略を組み立てる。24時間営業の諸葛孔明と言った所だろうか。

ヨミは〈三つのしもべ〉よりも、むしろ〈彼〉を警戒している。このコンピューターを掌中に納めるべく、ヨミは様々な作戦を展開するものの、ことごとく撥ね退けられている。数々の敗退にもメゲず、対バビル護衛団兵器たる飛行戦艦V号を完成させたヨミ。彼は自慢の飛行戦艦を駆って、バベルの塔に決戦を挑む。鉄壁の装甲板を誇るV号はレーザー砲もミサイルも通用しない。塔上空に迫るV号の悪魔的な威容!大いにビビる主人公。だが〈彼〉は既に最高の反撃手段を弾き出していた。ヨミがバベルの塔に猛烈な爆撃を敢行しようとしたその瞬間、爆弾射出口を狙って行動可能なレーザー砲が熱線火線を集中する。どかーん。大爆発と閃光が煌めき、乗組員が虫ケラのように吹っ飛ぶ。うわー。V号殲滅には至らなかったが、撃墜には見事成功する。このマンガには、前述のような手に汗握る攻防戦が随所に描かれている。

秋田書店のマンガは比較的簡単に入手出来ます。皆々様。是非読んで下さい。TVアニメ版より数倍燃えると思います。

(2002/11/12)

『ミノタウロスの皿』

中学生の頃。臨海学校の夜である。エネルギーの塊たる餓鬼どもが大人しく寝る筈もない。仲間達とはしゃぎ疲れた俺は、枕元に置いてある物体の存在に気づいた。1冊の分厚いマンガ。書名は『ミノタウロスの皿』とある。作者は藤子不二雄(Fの方。当時はコンビを解消していなかったと思う)である。まだ《九大天王》に認定される(されても何の特典もないが)前の〈千両役者〉の仕業であった。表紙の上の部分には「異色SF短篇集」と銘打っている。俺は誕生以来のSF好き。千両役者が読了したその本を俺は貪るように読んだ。

『ミノタウロスの皿』は、名作の多い藤子・F・不二雄異色短篇の中でも群を抜いた面白さと毒気を誇る。ある惑星に不時着した宇宙飛行士が遭遇する痛烈な悲喜劇である。その星の人類(牛そっくり)は、年に1度大祭を催す。その際、彼らは最も質の良い家畜(人間そっくり)を殺して食う慣習を持っている。主人公は今年の「聖なる生け贄」に選ばれた少女を愛してしまう。彼は彼女を助けようと駆けずり回るが、全くの徒労に終わる。皮肉なのは、少女が自分の立場を大変な名誉と認識している事である。その認識はこの星に住む全ての者の絶対常識であり、たかが異星人が1人で喚き散らしたところでどうしようもない。大歓声を全身に浴びて公開屠殺場に入場する少女。茫然自失でそれを見送る主人公。彼が救助隊のロケット内で「待望のステーキを頬張りながら、俺は泣いた」というラストの台詞も良い。この陰湿さとブラックユーモア。藤子に「健全なる児童マンガ家」のイメージを抱く人には、彼のSF短篇は少々違和感を覚えるかも知れない。だが、彼の代表作『ドラえもん』にすら、強烈な悪意が見え隠れしていたように思う。残酷な笑いこそ彼の本領ではないかと俺は考えている。マンガをテーマにしたあるTV番組で、有名(らしい)女性弁護士が藤子を、清潔無比の作家と断定して一席ぶつ所を見た事があるが、俺には一寸不愉快に感じた。偉そうに喋りまくってるけど、あんたは本当に藤子作品を研究した事があるのかい?

(2002/10/10)

隣の会話

その夜。仕事を終えた俺は新宿駅構内のカフェバー(名前は忘れた)でビールを呑んでいた。俺の臨席は恰幅の良い初老の男と30代ぐらいの男性であった。その2人が店内に轟かんばかりの銅鑼声で何やら喋っている。どうやら彼らは熱烈な囲碁ファンらしい。もしかしたら日本棋院の関係者かも知れない。老人が言う「今、囲碁のマンガだかアニメが流行っているらしいな」それを受けて若い方が「『ヒカルの碁』ですか」と答える。「ありがたい話だな。そのお陰で若い囲碁ファンが増えているそうだから」「お言葉ですが先生。あの手の連中は別に囲碁の奥深さに魅了されている訳じゃないんです。単にアニメやマンガ好きなだけなんです」「それでも構わんだろう。沢山の子供達が囲碁の世界に入ってきてくれる。囲碁人口の増加だ。結構な事じゃないか」「駄目です!それは邪道です!そんな俄ファンはすぐに飽きてしまいます。そんな奴等は必要ありません。鬱陶しいだけで、囲碁界の為にはなりません!」弟子(?)の頑なな態度に老人はウンザリした様子であった。かの人気作品を俺は1度も読んだ事はないが、ひとつだけ気掛かりがある。このマンガの絵を担当している小畑健である。前々から申し上げているように、俺は一部の例外を除くと「少年ジャンプ」のマンガが大嫌いである。しかし、小畑の描く絵は非常にシャープで色気があり、俺は密かに期待していた。彼はストーリーを作るのが苦手らしい。誰か優秀な原作者と組んで、SF冒険活劇でもやらせたらどうかと思う。時代劇でも良い。和月某の100倍は面白い作品が出来るぜ。このまま『ヒカルの碁』に彼の才能を注ぎ込んでしまうのが惜しいような気がする。さっさと連載を終了させて、新作を描いて貰いたいが、人気があれば作家が発狂するまで止めさせないのが「ジャンプ」の体質である。俺の希望など届く筈もない。そう言えば、同誌で不細工な代物を載せていた作者が、少女売春をやらかして逮捕。哀れ連載打ち切りと相成った。作品と作者の人格は必ずしも合致しないが(彼)の場合、マンガは下らないし、人間的にもとても信用出来ない。他人の不幸を喜ぶのは下品な行為だが、ゴミのようなマンガがこの世から消滅した事は実にめでたい。この体験をバネにした傑作でも放てば大したものだが(彼)の才能ではまず不可能。さようなら。永久に。

(2002/08/31)

『美味しんぼ』3

そう言えば『美味しんぼ』は数年前に映画化されている。山岡を佐藤浩一が、海原雄山を三國連太郎が演じていた。確か「初の親子共演が実現!」というのが宣伝文句だったと思うが、佐藤も三國も嫌そうな顔をして出演していた。恐らく彼らの確執はマンガのそれを超えているのであろう。年齢を感じさせぬアクの強い演技が三國の持ち味である。しかし、この作品に関しては全くやる気が感じられなかった。映画最終盤の「馬鹿野郎。窯の上に乗るんじゃねぇ!」と新聞記者を怒鳴りつける場面にのみ、いつもの迫力があった。脚本もいい加減だった。原作の台詞を映画にも引用しているが、マンガ特有の大袈裟な台詞を実際の俳優(財津一郎だったかな?)が喋ると、非常に白々しく聞こえる。映画用の台詞に変換されていない故の失敗だ。物語の導入部、主人公が魚市場にて鯛か何かを購入。会社の屋上で七輪を持ち出して朝食を作る。これ程、飯にこだわる奴は稀である。そんな山岡に「あんな奴に料理の事が分かるのか?」などと、ボケた事を言う彼の上司。俺はマンガの映像化には反対のクチだが、それ以前の問題である。金が無いのはどうしようもないが、せめてホンだけでも凝って欲しいものである。

(2002/07/17)

『美味しんぼ』2

当初の山岡士郎は非常にアウトロー色の強いキャラクターであった。普段は何を考えているのかわからないが、食い物に関しては異常な知識を秘めているという設定が秀逸だった。そして、常に山岡の一枚上を行く海原雄山の存在感は圧倒的迫力があった。例の『もてなしの心』における「人の心を感動させる事が出来るのは人の心だけだ。材料や技術だけでは駄目だ!それが分からぬ者に味を語る資格はない」という雄山の絶叫は強烈だった。含蓄に富んだ言葉であり「味」を「芸術」に入れ替えても差し支えはないだろう。原作者の芸術観を端的に表している。餓鬼の俺は、両者の死闘に大いに胸躍らせたものである。このマンガがおかしくなり始めたのは「究極のメニューvs至高のメニュー」などという茶番が定期的に行われるようになってからである。一見、華やかに見えるが、その分アホらしさも倍増してしまった。それにしても、無駄な登場人物が多過ぎる。これが冒険活劇なら適当に討ち死にさせる事も可能だが、この作品の場合そうもゆかぬ。大地震か飛行機事故を発生させて人員整理を施すべきである。と言うより、もう終わろうぜ。

(2002/07/17)

『美味しんぼ』

俺は餓鬼の頃、酷いアレルギー性鼻炎であった。最終的には漢方薬の服用で治したが、耳鼻科医院にもよく通った。鼻の穴に治療機具を差し込まれる苦痛は体験した者にしかわかるまい。通院の日は朝から憂鬱な気分であった。唯一の楽しみは、待合室にズラリと並んだマンガ本の数々。その中に後の愛読書となる『ゴルゴ13』の姿もあったように記憶する。俺はここで当時大ブームを巻き起こしていた『美味しんぼ』を貪るように読んだ。俺が食い物に関して、どうのこうの言い出すようになったのはこの作品の影響であるのは間違いない。中でも、ご飯と味噌汁をテーマにした「もてなしの心」というエピソードは、印象強烈だった。このマンガの要素は全てこの話に凝縮されている。この作品は現在も連載中だが、主人公の白痴化にはガッカリさせられる。最強の敵役たる海原雄山ですら、当初のアクの強さは見る影もなく、近頃はただの料理好きのオヤジになりつつある。度を過ぎた長期連載はその作品を腐らせる可能性が極めて高い。惜しまれて散るのが華。

(2002/07/16)

光と闇

娯楽作品といえば冒険活劇。光と闇の激突こそ、古今東西、あらゆる作家があらゆる作品で延々と描き続けてきたテーマである。使い古された題材だが、俺はこれが大好きである。小説にせよ、映画にせよ、マンガにせよ、このテーマをとことん追求した作品を俺は愛する。主人公のキャラクターが面白いのは当然だが、それ以上に重要なのは悪役の造型である。受け手は、普通正義の味方に感情移入して物語を追う。しかし、主人公が倒すべき相手が手強くなくてはドラマが盛り上がる訳が無い。違った角度から見れば、彼らは主人公にもなり得る。だからこそ、それなりの〈正義〉を備えている必要があるのだ。ところが、この条件を満たしたマンガが何と少ない事か。例えば「少年ジャンプ」に載っている安っぽい代物の数々。アホ面の主人公と寝惚けた悪役。こんな連中が闘った所でどうしようもない。残るのは不快感と作者の自己満足だけ。大体「ジャンプ」の面々は不勉強な奴が多過ぎる(全員とは言わぬ)。不細工な料理を食わされても気づく気配すらない読者にも問題があるが。この世に絶対の正義は存在しない。如何なる英雄も、その剣に屠られた者にとっては大悪魔。その辺りの機微を取り込んだ上で、物語を構築出来る作家が、マンガ界にもっといても良い。

(2002/07/04)

大長編劇画 対 人気時代劇

俺が学生時代に読み耽った、さいとうたかをの代表作『ゴルゴ13』は現在も連載中である。最近のものは、作者の〈老い〉が見え隠れして哀しいが、単行本30〜70巻辺りは非常に面白い。さて、本編の主人公・デューク東郷は極めて几帳面なテロリストである。例え依頼人が死亡した場合でも、生前に引き受けた仕事はキッチリと遂行する。一方、人気時代劇『必殺シリーズ』の殺し屋達は、依頼者がこの世を去ると、刃を収める。標的を始末しても喜ぶ奴がいないのだから、敢えて危ない橋を渡る必要はないという訳だ。それだと話にならないので、このルールが守られた例は少ないが、原則はそうである。ゴルゴ13と江戸の暗殺者。どちらが、真のプロと言えるのだろうか?ある酒席で盛り上がったが、結論は出なかった。あなたはどう思いますか?

(2002/05/21)

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