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映画の渡り鳥9

『座頭市鉄火旅』

先日。DVDで『座頭市鉄火旅』(1967年公開)を観た。柳生十兵衛(千葉ちゃん版)の妖刀村正、スラムキングの斬馬刀、子連れ狼の胴太貫、ゴルゴ13のアーマライトM16改造銃…娯楽世界に登場する凄腕のキラーマシーンは大抵その者に相応しい業物を所有しているものだ。我らが座頭市も降魔の刃を内蔵した仕込み杖を愛用している。この仕込み杖が最重要小道具として活躍するのが『鉄火旅』というエピソードである。刀一振りで映画一本を成立させてしまうのだから面白い。映画というものはカネよりも知恵を使った方がユニークな作品に仕上がる確率が高いようである。映画の前半。例によって、逗留先の賭場に潜り込む座頭市。そこは悪徳ヤクザの支配下にあった。相手のイカサマを見抜いた市はそれを逆用して大金をせしめる。お馴染みのパターンだが、ギャンブラーとしての才能を発揮する盲目剣士の勇姿は何度見ても痛快である。ボロ儲けした座頭市はその足で屋台に直行。勝負に勝った後は何を食っても旨い。酒の味も格別だ。ゾゾッと美味しそうな音を立てて、素饂飩を啜り込む座頭市。饂飩自体はそんなに旨そうには見えないのだが、カツシンの食い方が観る者の食欲をそそるのである。俺が饂飩屋の社長なら間違いなく座頭市をCMキャラクターに起用するね…って、そんな事はどうでもいいんだが。この屋台で市はアル中気味の胡散臭いジイさん(東野英治郎)に出遭う。ずばっどばっぐばっ。博打に負けた腹いせに奇襲を仕掛けてきたチンピラを屋台ごと(!)ぶった斬る座頭市。腰を抜かすジイさん。老人の正体は刀鍛冶であった。老人は市を自宅に招き、彼の仕込み杖をじっくりと眺めるのだった。鑑定を終えた老刀匠は刀を丁寧に鞘に収め、恐るべき予言を口にする。この刀はもう限界だ。あと一人斬ったら、間違いなくこの刀は折れるだろう。と。

何たる偶然か。座頭市の愛刀は老人の師匠が打ち上げた品だったのだ。これまでに数々の修羅場を突破してきた座頭市。この仕込み杖は市の守護神として常に彼の傍らにあった。悪党外道を殺しに殺し、その刀身は彼らの血をたっぷりと吸っている。素人には判断がつかないが、根元部分に「見えないキズ」が走っているのだという。この「見えないキズ」という布石が物語後半、劇的に作動するので注目してもらいたい。愛刀の寿命を知った座頭市はこれを契機に今度こそ堅気になろうと決意する。老人の斡旋で地元の旅籠に住み込みのマッサージ師として雇ってもらう事になる。技術を持っていると再就職も比較的楽に進むようである。そのユーモラスな風貌と性格が受けて、たちまち職場の人気者になる座頭市。血で血を洗う人生を過ごしてきた市だが、ここに来て、ついに安息の地を得たのだろうか。一方、老人も師匠の傑作を鑑定してから、急に創作意欲が湧いてきたらしい。この刀を俺の生涯、最高の作にしてやるぞ。と、新作の製造に日夜没頭するのだった。一振りの刀が男達の運命に大きな影響を及ぼす。これも名刀の秘める効能なのであろうか。例え作者はこの世から消滅しても、作品に篭められた魂は生き続けるという訳か。後半、バカ役人の差し金で落命する老人。老人の遺体にすがりつく市。恩人を虫ケラ同然に殺された瞬間、座頭市のギアは堅気モードから復讐モードへと切り替わる。そして、その手には老人が全身全霊を注ぎ込んで作り上げた芸術品が握られていた…。座頭市に対抗可能なライバル剣士が登場しないのが一寸寂しいが、藤田まこと、水前寺清子と言ったゲストアクターの好演が楽しく、市の冗談にいちいち過剰に反応するゲストヒロイン藤村志保(実は老人の娘)との掛け合いも微笑ましい。このところ『千両首』『血笑旅』『関所破り』『地獄旅』と立て続けに『座頭市』を観ているが、非常に安定感のあるシリーズだと感じた。とにかくハズレが少ないのだ。良い脚本、良い役者、良いスタッフが揃えば、そんなにカネをかけなくても充分面白い映画は作れるのである。どれも似たような展開に見えて、実際は各々に独自の工夫が凝らされている。その中でも『鉄火旅』は特に俺の嗜好に合うエピソードであった。まさに研ぎ澄まされた日本刀の威力を備えた逸品である。新たな利剣をゲットした座頭市。必殺の居合い斬りもいよいよ神業レベルに到達したと言えるだろう。

(2006/1/15)

『新・座頭市物語』

先日。DVDで『新・座頭市物語』(1963年公開)を観た。座頭市の剣の師匠・伴野弥十郎(河津清三郎)が登場するエピソードである。俺は市の居合い抜きは純然たる我流剣法だと思い込んでいたのだが、これは誤りであった。田舎道場とは言え、正式な修練を経た上であの必殺剣は誕生したのである。お師匠によれば道場滞在中、市は「狂ったように」修行に打ち込んでいたそうな。目明きの連中の鼻を明かしたい。悲壮とも言える覚悟と鍛錬が市を優秀な剣戟マシンへと進化させたのだった。以降、縦横無尽の活躍を続けている市だが、彼が悪徳ヤクザを斬れば斬るほど「打倒座頭市」を標榜する輩が増殖する。安彦の島吉(須賀不二夫)もその一人だ。兄貴分の仇を討つ為に市を執拗に追撃する島吉。こうくれば、市と弥十郎が組んで島吉一味を撃退するのかな?と予想されるが「そうならない」のがこの映画の面白い所である。実際は全く逆の展開が用意されている。主人公の個性だけに頼らない物語の作り方が秀逸である。弥十郎は剣術が抜群なのは言うまでもないが、相当な野心家でもあり、いつしか道を踏み外し、ダークサイドに堕ちてしまう。この狡猾剣豪を河津が持ち前のアクの強さを発揮、堂々と演じていて悪くない。翻って、凶暴残忍なヤクザに見えた島吉が実は人情を弁えた好漢である事が後半判明する。ついに仇敵を追い詰めた島吉だが、ある事情で「カタギ宣言」をした市(結局カタギにはならないんだけど)を見逃してやるという度量の深さを示すのだった。ある意味座頭市よりもカッコ良いキャラクターであり、須賀はこの儲け役を完全にものにしている。俺も俳優なら是非こんな役を演じてみたいものだ。市の優しさに惹かれる弥十郎の妹(坪内ミキ子)の清楚な美しさ。邦画最高級を誇る大映美術陣の見事な仕事振りも加わって、スクリーンの中に「座頭市の世界」が濃厚に構築されており、見応え充分。最近の時代劇に決定的に不足しているのはこの重量感であろう。映画のクライマックスは座頭市vs弥十郎の一騎討ち。居合いvs居合い。殺気漲る師弟対決が繰り広げられる。当然ながら勝利を収める座頭市だが、その表情に嬉しさはない。己が師匠さえも手にかけた虚しさにくまどられている。前作『続・座頭市物語』(1962年)において、市は実兄・与四郎(若山富三郎!)をも殺めている。その凄まじき人生。

続いて『ガントレット』(1977年)を観る。監督&主演クリント・イーストウッドのバイオレンスアクション。ヒロインを演じるのはイーストウッドの恋人(当時)とされているソンドラ・ロック。ワンマン映画の極致、まさに一部の隙もないオレ流映画である。だが、イーストウッドは各場面を丁寧に撮り上げており、単なる活劇映画に終わらせない格調と言うか、風格のようなものを画面に漂わせている。この映画でイーストウッドが徹底してこだわっているのは「蜂の巣アクション」である。ばばばばば。ががががが。ばきゅばきゅ。ばきゅーん。家に車にバスに無数の弾丸が撃ち込まれ、ズタボロに破壊粉砕されるサマをこれでもかと言うばかりに追求するのだ。その常軌を逸したこだわり振りにイーストウッドのこの映画に懸ける執念を感じる。因みに公開時のポスターには「《ダーティハリー》を超えた新シリーズに挑むクリント・イーストウッド」というコピーが刻まれている。でも、その後『ガントレット』シリーズは作られていないから、あんまりヒットしなかったのかな?この作品は勝ち組vs負け組の激突映画でもある。フェニックス市警のヒラ警官であるイーストウッド。喧嘩とセックスには自信があるが、破天荒な性格行動がマイナスに働いて、出世街道には縁がない。後は退職金を楽しみに定年まで粘るぐらいしかする事がない。そんな余剰人員の象徴たるイーストウッドに組織中枢の罠が襲いかかる。誰にでも出来る「簡単な仕事」の裏に隠されたゾッとするような悪意。人間を虫ケラ扱いするエリートどもにダメ刑事の猛反撃が開始される。世に「窮鼠猫を噛む」の例えもあるが《彼ら》が利用しようとした男は「鼠」どころか「狼」であった。野獣の本性に目覚めたイーストウッドを止める事は何者にも不可能。現にエリート達は暴走イーストウッドを物凄く警戒している。俺が思うに勝ち組の皆さんは獲得した幸福を病的に堅守しようとする性質があるようだ。一方、負け組は何も失うものがないだけに思い切った行動に出られるという強味がある。まあ。勝ちは拾えないまでも相討ちまでに持ち込めれば上々である。勝ち組の連中が最も恐れるのは負け組特有の「何をやるかわからない」爆発力であろう。長距離バスを強奪し、即席の防弾加工を施したイーストウッドは愛人ロックと共に宿敵の本丸へと特攻を仕掛けるのであった…。勝ち組の方々、油断や安心は禁物でっせ。戦争というのは「守り」に入った瞬間が一番危ない。いつ負け組が運転する装甲バスが窓を突き破って、あなた達の平和をブチ壊すかわかりませんぜ。くれぐれも御用心を。

(2006/1/9)

『やくざ戦争・日本の首領』

先日。ビデオで『新・仁義なき戦い』を観た。手元の資料によれば「1974年12月28日封切り」とある。堂々の正月映画。この前年、深作欣二は大ヒット作『仁義なき戦い』シリーズを世に送り出し、東映を代表するスター監督の座を獲得する。この時期の深作映画は内容的にも興行的にも成功しており、今観ても面白い名作怪作がズラリと並んでいる。映像的にはやや物足りなさを感じるが、観る者を強烈な暴力世界へと引き摺り込む禍々しいエネルギーが心地好い。この『新・仁義なき戦い』も全盛深作が投下した高性能爆弾のひとつ。深作一座のメンバーが集結する豪華布陣に宍戸錠や若山富三郎が加わり、アクの強さもバイオレンス濃度も増幅されている。野獣級のヴァイタリティを備えた広島ヤクザ達が虚々実々の暗闘を繰り広げる。映画の冒頭。例によって、対立組織の首領を撃ち殺す菅原文太。文太の服役中、親分(金子信雄)と若頭(富三郎)の確執は修復不可能レベルにまで進んでしまう。陰惨な内部抗争が出所した文太を待ち受ける。この映画、妙に食事場面が多い。いつドスで斬り合うかわからないような連中が集まって、仲良く同じ鍋を囲んでいる光景は無気味でもあり、滑稽でもある。楽しい筈の夕食が会話の成り行き次第で修羅場に変貌してしまうのである。飯を食うのも命懸け。ヤクザ稼業も楽じゃない。今更だが人間というのは不思議な生き物である。本当の感情とは全く別の行動をとる事が出来るのだ。腹の中にドロドロとした憎悪を蓄積しながら、表面上は笑って話せるのだから器用なものだ。これはヤクザであろうと一般人であろうとそんなに変わりはない。むしろサラリーマン世界の方が陰湿だと言えるかも知れない。権謀術数を張り巡らせる登場人物を眺めながら、かつて会社に勤めていた頃の自分や周辺の人間達を想起したりしていた。自らの人生経験と照らし合わせつつ映画を追いかけるのもまた一興。映画後半、ついに富三郎抹殺を決意した文太はいきなり自分の指を切断する。文太の鮮血と腰を抜かした田中邦衛の嘔吐物が画面一杯に飛び散る凄絶場面。文太は詰めた指を持参して、広島ヤクザ界の実力者(安藤昇)の屋敷を訪ねるのだった。安藤親分に「これから俺のやる事を黙殺して欲しい」と頼み込む為である。その代償が指詰めという訳である。この辺のやり取りは普通の人間の理解を拒むミステリーゾーンであり、ヤクザならではの「超感覚」と言えるだろう。そんな血みどろ場面の合間に「笑える場面」が挿入されるのが深作映画の魅力である。卓越した喜劇性。それが作り手の意図したものなのかどうかは定かではないが、思わず爆笑してしまう場面が必ず用意されている。この作品では何と言っても「邦衛の手旗信号」がケッサクである。今年観た映画の中では最も可笑しかった場面であり、この駄文を綴っている今でさえ笑いが込み上げてくるぐらいだ。腹を抱えて笑い転げる事必至。

その数日後。今度は『やくざ戦争・日本の首領(ドン)』(1977年)を観た。東映が日本版『ゴッドファーザー』(1972年)を狙った野心作である。もし山本薩夫がヤクザ映画を撮ったらこんな感じになるのではないだろうか。画面の密度、映像の重量感は本家にはとても及ばないが、娯楽性に関してはこちらの方が上のような気もする。台詞は覚えないけど大名優のマーロン・ブランドに対抗するのは「面の皮の厚さなら負けねえぞ」の佐分利信。佐分利は『華麗なる一族』(1974年)にて、ヤクザ顔負けの図太さを有する銀行頭取を毒々しく演じていたが、その実績を買われての起用だったと考えられる。鶴田浩二、菅原文太、松方弘樹、千葉真一…東映作品のスター俳優の中にあっても佐分利の奇怪な存在感は健在であった。物語を支える柱石としての凄味を感じさせる。これは配役の勝利と言えそうだ。ドロリと濁った眼の色、ゴツゴツとした台詞回し、何を考えているのかわからない不敵な表情。その全てが関西最強の暴力組織の頂点に君臨するボスライオンの貫禄に繋がっている。劇中、当然のように流血沙汰が頻発する。その源流に位置する佐分利だが、自分の手を直接血で汚す事は決してない。時には古参幹部をも切り捨てながら、帝王の座を堅守し続けるのである。ヤクザの結婚事情や本家に張り合うかのような「生首切断事件」等、印象強烈なエピソードが目白押し。ボスに絶対の忠誠を誓う鶴田、佐分利組の関東侵略に真っ向から対決する文太、ボスの娘(と言っても養女だが)と肉体関係を持った尾藤イサオを可及的速やかに「処理」する松方、暴れ狂った末に破門され、獄中自殺を図る千葉ちゃん…脇役陣も一癖も二癖もある個性派が揃っている。その中でも佐分利家の長女(彼女も養女)と結婚した高橋悦史の策動振りが興味を惹く。エリート医師であった高橋が、ヤクザワールドと交わる内にいつの間にかヤクザ以上に凶暴な存在へと転じてしまう恐ろしさ。佐分利の意思を汲んだ高橋は至極あっさりと殺しに手を染める。さしものボスライオンも戦慄するが、高橋は薄く笑って「お父さん。僕も佐分利家の人間なんですよ…」と平然と答えるのだった。上映時間132分の長尺を一気に魅せる中島貞夫の力技。中島としても会心の出来であろう。巻末に収録されていた『野望篇』(同年公開)の予告も良かった。エピソード2には関東の首領役として三船敏郎が登場するらしい。老獪佐分利と世界のミフネ。日本映画を代表する巨竜同士の激突である。三船の決め台詞「日本に2人のドンはいらん!」もカッコ良かった。こりゃ面白そうだ。早速、レンタル屋さんで借りてみたのだが、テープが腐っているのか何なのか、映像も音声もズタズタ状態でとても観られたものではなかった。翌日。店に文句を言いに行ったら、能面のような顔をした店員が「無料券」を1枚くれた。タダ券はいいから、まともなソフトを置いて欲しいなあ。

(2005/12/25)

『脱獄・広島殺人囚』

先日。ビデオで『脱獄・広島殺人囚』(1974年公開)を観た。主演は松方弘樹。深作欣二の『仁義なき戦い』シリーズ(1973年~)出演を経て、ようやく役者としての自我に目覚めた男。そんな松方が爬虫類のような生命力を誇る脱獄常連者を熱演している。ギラギラと光る物騒な眼差しが怖い。それでいて何処か滑稽味も感じられる所が良い。敗戦から2年。未だ混乱状態にある日本がこの物語の舞台である。冒頭から殺人機械が積極的に動き出す。ばあん。渡瀬恒彦と組んで闇商売に手を染めていた松方は渡瀬に銃口を向けたヤクザを迷わず撃ち殺す。ばあんばあん。殺戮の興奮に酔ったのか狂ったのか、松方はヤクザの愛人まで殺してしまう。その後逃亡を図るが、追跡厳しく、松方はあっさりと官憲の手に落ちるのであった。懲役20年。それが松方に下された裁きであった。野望と性欲に燃える松方がとても我慢出来る長さではない。所内規則も厚顔な暴力看守も気に食わねえ。一秒たりともこんな所にはいたくねえ。脱獄しては捕縛され、捕縛→収監されては再び脱獄するというユニークなライフスタイルを貫く内に、いつしか松方は「日本のジャン・バルジャン」と渾名されるようになるのだった。無論脱獄を重ねる毎に松方の懲役は確実に加算されてゆく。どういう訳か松方の収監先はずっと広島刑務所のままである。地獄の塀を乗り越えて、外界に潜り込むも、松方は半ば当然の如くこの刑務所に舞い戻るのだ。妹(大谷直子)以外は肉親もなく、どの組織にも属さないはぐれ狼。広島刑務所。生粋のアウトサイダーたる松方にとってそこは唯一の「我が家」であったと言えるかも知れない。

広島刑務所の名物男の脇を固める囚人達も揃って個性的である。若山富三郎が『ショーシャンクの空に』(1994年)で言えば、モーガン・フリーマンに該当するキャラクターとして登場する。徹底服従主義を標榜する富三郎はやたらに反抗的な松方の対極に位置する人物と言えよう。そんな富三郎だが、松方には奇妙な好意を抱いているようだ。その理由はよくわからない。自分とは異なる生き方を追求する松方にある種の憧れを感じているのだろうか。富三郎は「刑務所で看守に逆らっても勝てる筈がない。自分が損するだけや。何を言われても腹の中で舌を出しとったら、それでええんや」と説くが、獰猛松方には若山理論は全く通じず、性懲りもなく脱獄人生を継続するのだった。蛇足だが、筆者も実生活で富三郎と同じ台詞を聞いた覚えがある。それが大人の意見、賢い処世術であると思いながらも、やはり心の底では納得出来なかった。納得が出来ない事を無理に続けると、ストレスが溜まる。ストレスが蓄積すると、体重は減り、髪の毛も段々白くなる。あらゆる事を悲観的に考えるようになり、ついには首が吊りたくなる。弱者がそこから逃れるには「脱走」するしか方法はない。将棋の途中で盤を引っ繰り返す訳だ。しかしこれは最後に残された非常手段である。リスクも大きいし、それ以降、まともな人間としては扱われない場合もあるので、他人には勧められない。第一、皆が皆「脱走」をやり出したら、世の中自体が成立しなくなるような気がする。

松方は獄中でもふたつの殺人を犯す。この男の「殺し癖」は娑婆であろうと牢内であろうと関係なく作動するらしい。脱獄仲間の梅宮辰夫に大怪我を負わせた小松方正が最初の犠牲者である。小松は牢名主的人物であり、無気味な笑みを湛えつつ、憎々しさ満点の怪演を展開する。本当に殺したくなるようないやらしさ。死ねやあ。案外友情に厚い松方はこれを刺殺するのだった。この騒動によって松方の懲役も獄内での存在感も大幅に増幅される。そんな松方の前に新たな強敵が現れる。小松の舎弟・伊吹吾郎である。伊吹はさしもの松方も「本物(ホンマモン)の極道」と認める実力者だ。小松の仇討ちを目論む伊吹だが、奇襲奇策は好まず、正々堂々と松方に果し合いを申し込むのだった。兄貴分とは対照的な性格であり、こういう奴が一番手強い。第二の殺人は浴室で実行される。相手によっては手段を選ばないのが爬虫類のしたたかさ。かなり卑怯なやり方で難敵を仕留めた松方はたちまち看守達に取り押さえられてしまうが、この瞬間、入獄当初から散々に苛められてきた保安課長(神山繁)の顔面をズタズタに切り刻む。積年のカリを一気に返済する松方。バイオレンスマシンの本領が大いに発揮される衝撃場面だ。気がつくと松方の懲役年数は41年7ヶ月に膨らんでいた…。他にも見所が多い。金子信雄の使い方も面白いし、西村晃が期待通り(?)の無様な死にっぷりを披露してくれる。志賀勝、川谷拓三、室田日出男の凶悪三人組が嬉々として取り組む牛の解体(勿論非合法)場面も強烈な印象を放つ。適度にリアル、適度にファンタスティックな和製脱獄映画の秀作。決着をつけない曖昧な幕切れがかえって物語に広がりを与えている。

(2005/12/17)

『新・仁義なき戦い/組長の首』

先日。ビデオで『最も危険な遊戯』(1978年公開)を観た。雀荘に始まり、ストリップ劇場で終わるという殺し屋映画の佳作。主演は松田優作。脚本自体はやや平板な印象を受けるが、随所で炸裂する優作のアドリブが楽しい。このような意表を衝く即興演技は彼の独壇場である。記録映画っぽいザラザラした映像(撮影監督の仙元誠三の功績が大きい)も魅力的だ。国家規模の大プロジェクトに絡んだ企業間戦争が勃発。凄腕のスナイパー鳴海昌平(優作)は官憲&ヤクザが入り乱れる暗闘の真っ只中に飛び込む。鳴海は正義の味方ではない。アウトロー流の強引な方法を駆使して標的に肉迫する。その際に活躍するのが右足に仕込んだ愛用のナイフ。飛び道具だけではなく、刃物の扱いにも長けている。このふたつは暗殺映画には欠かせない重要小道具である。その両方を巧みに使いこなす優作がカッコいい。頼りになる相棒もいなければ、窮地に駆けつけてくれる仲間もいない。そんな鳴海が自室で黙々と鍛錬に励む場面が良い。孤立無援の野獣は一人静かに牙を研ぐ。濃厚に『タクシードライバー』(1976年)の影響を感じる。そんな鳴海の唯一の味方と言えるのが、戦いの途中で知り合ったヤクザの愛人(田坂圭子)である。鳴海の怪我を治療したり、食事の支度をしたりと、まめまめしい介護振り。健気な彼女に対して「もういいから帰れよ」「一度寝たくらいで女房面されたらたまらんぜ」などと酷い台詞を投げつける鳴海。でも優作が言うと面白いというかユーモラスに聞こえるのだから不思議である。映画後半、圭子は敵側の尖兵に拉致されてしまうが、これを鳴海が追いかける。自らの足で猛然と追いかける。これがこの男のカリの返し方なのか。何処までも何処までも追いかける。カメラも優作を追いかける。この長い長い追走劇がこの映画のクライマックスとなる。優作と親しい工藤栄一が「彼ほど走る姿がサマになる俳優はいないね」と評していたが、それも納得の見事な追撃場面だった。

続いて『新・仁義なき戦い/組長の首』(1975年)を観る。怪物じみた登場人物が跋扈するヤクザ映画…と言うよりバイオレンス映画の秀作。全篇に横溢する禍々しいエネルギーと独特のスピード感。これぞ深作映画の醍醐味である。主演は菅原文太。凶暴文太も勿論良いが、むしろ準主役の山崎努が光る映画である。ヤクザ映画とは縁の薄い山崎が、この世の者とは思えない幽鬼メイクを施しヒロポンヤクザ楠哲弥を怪演している。かつては北九州の極道界を背負って立つ男として将来を嘱望されていた楠だが、今では骨の髄までヒロポンに侵されて、廃人同様の体に成り果てた。組織のお荷物である楠は格下の若い衆にまで軽視され、ボス(西村晃)にもキ××イ呼ばわりされる有様だ。破門どころかいつ殺されてもおかしくない楠が辛うじて命を保っていられるのは、彼がボスの娘(梶芽衣子)の夫だからである。ヤクザ世界からもドロップアウトしてしまったダメダメ人間の姿は同年に深作が描いた理解不可能のスーパーヤクザ石川力夫(渡哲也)と重なる。深作は楠や石川のような「外道中の外道」を撮らせると本当に巧い。その描写には愛着すら感じさせる。これに山崎のアクの強さが加算されて、凄まじい妖気を発散している。禁断症状に陥った楠は勢いに任せて家具家財をブチ壊す。暴走に次ぐ暴走。献身的に尽す奥さんが余りに可哀想だ。抜き身のドスと化したヒロポン中毒者の落ち着く先は精神病院しかなかったのである。それにしても恐ろしい。覚醒剤とはここまで人間を腐らせ、狂わせ、堕落させてしまうものなのか。説教臭い警鐘CMよりもこの映画の方が数段説得力がある。悪い事の実態を隠して、悪い事を止められる訳がない。シリーズ屈指の魔女に扮したひし美ゆり子も強烈である。惚れた男をことごとく破滅させるという特殊能力(?)を秘めた妖怪だ。美形なだけに始末が悪い。ヒロポンと同等かそれ以上に危険な存在である。有力ヤクザの室田日出男も成田三樹夫も彼女の魔的な磁力に引き寄せられ、悲惨な末路を迎える事になる。行きは良い良い、帰りは怖い。それ故にゆり子は「究極のサガリボンボン」として地元を震撼させているのだ。さしもの文太も彼女にだけは手が出せず、早々に退散するハメとなる。最早無敵である。この物語の最強(恐)キャラクターは間違いなく彼女であろう。鬼気迫る山崎&妖艶ゆり子。関係者を高確率で爆破する人間地雷が観客の度肝を抜く。両個性派の悪魔的演技がたっぷり楽しめる逸品である。

(2005/12/4)

『戦国自衛隊』

先日。十数年振りに『戦国自衛隊』(1979年公開)を観た。我らが活劇スター千葉真一が主演とアクション監督を兼任したSF風味のバイオレンス時代劇。戦国最強を誇る武田騎馬軍団と重武装の自衛隊が激突する。まさに荒唐無稽の極みだが「有り得ない話」の具現化こそ映画の存在意味であり、神が千葉ちゃんに与えた至上命令なのである。奇々怪々な導入部から壮絶な幕切れまで、息をもつかせぬ展開で魅せる。この映画には「やってはいけない事」をヌケヌケとやってしまった面白さに満ちている。時代考証だの辻褄合わせだのは完全無視、見せ場優先に徹した脚本もイカす。自衛隊が突然戦国時代に放り込まれるという物語に理屈も整合性もお呼びじゃない。千葉ちゃん扮する伊庭義明三尉は余り人望はないが、誰よりも戦闘技術に長けた男。多分自衛隊最強の戦士。昭和日本は伊庭には相当居心地の悪い場所だったに違いない。自身の能力を発揮しようにも平和な時代においては殺人鬼扱いされるのがオチ。仕方がないので自衛隊に入門するが「戦えない軍隊」という曖昧なポジションに伊庭のストレスは溜まるばかりである。そんな彼にとって、勝者こそ正義、弱肉強食の実践たる戦国乱世ほど魅惑的な世界はないだろう。ここが俺の生きるべき時代だ!と伊庭は心の中で歓喜の絶叫を繰り返していたのではないか。或いは今回のタイムスリップも伊庭が抱えていた物騒な願望が引き起こした奇跡なのかも知れない。まるで伊庭の狂気が乗り移ったかのような迫真の演技&活劇を千葉ちゃんが披露。特に土壇場で見せた死顔が凄い。これ以上は死ねないだろうと思わせる恐ろしい形相であった。

脇役も良い。何かにつけて伊庭に反抗する矢野隊員を渡瀬恒彦が怪演している。山本薩夫の『皇帝のいない八月』(1978年)から転生してきたようなキャラクター。かつて伊庭に「クーデターを邪魔された」事を根に持ち、ネチネチと餓鬼じみた言動行動を繰り広げる。両者の対決が中盤の山場となる。哨戒艇をジャックした矢野一党を伊庭の軍用ヘリが追撃する。別働隊の動きから敵の目を逸らす為に伊庭は自ら囮を買って出る。宙吊り状態で海上の反乱軍に激しい銃撃を仕掛ける伊庭。自分に矢野の弾丸が命中するなんて思ってもいない様子である。千葉ちゃんは余程宙吊りが好きなのか『ゴルゴ13/九竜の首』(1977年)でもやってました。スリップ直後、伊庭部隊は史上名高い戦国武将と遭遇する。後の上杉謙信、長尾景虎(夏八木勲)である。一目見た時から、二大豪傑の間にデキる者同士の友情が芽生えるのだった。時空を超えた友情。尤も景虎の興味は伊庭本人よりも、彼らが保有する未来兵器の方に向いているような気がしないでもないが。ともあれ、敵陣に突入した景虎の鬼神の如き戦い振りが伊庭の持つ荒ぶる魂を触発したのは確かである。何処か戦闘を楽しんでいるかに見える凶暴景虎が強烈な印象を放つ。この頃の日本には彼のような戦い慣れした猛将闘将が割拠していたのだろう。その瞬間、以前読んだ「戦国期の日本は世界最強の島国であった」という奇説をふと思い出した。絶妙のコンビプレーで無敵の進軍を続ける伊庭&景虎連合軍。それに伴い伊庭の妄想もついに頂点に達する。俺は天下を盗るぞ!隊内唯一のSFオタクの「無闇に歴史に干渉しない方がいいですよ」という進言にも全然耳を貸さず、部下の不満を「俺達が天下を制覇すれば、歴史の神が怒って、俺達を元の時代に戻すだろうさ」と強引に捻じ伏せる有様。勿論伊庭が「昭和に帰りたい」なんて少しも考えていないのは明白である。最早何者も彼の暴走を止める事は出来ない。かくして伊庭軍団は決戦の地、川中島へと駒を進めるのであった。狙うは景虎の宿敵、武田信玄の首級!若き日の真田広之や薬師丸ひろ子も登場する決戦場面は千葉ちゃんがこれまでに培ってきたアクションテクニックが全て投入されている。次々に繰り出される奇抜な千葉活劇を楽しみつつ、彼もまた伊庭同様「時代を間違えて生まれてきた男」ではないかという考えが脳内に浮んだ。大胆不敵な性格と抜群の運動神経。領袖は無理でも優秀な武将になれる資質は充分備えている。もしかして千葉ちゃんは戦国時代から現代日本にワープしてきたタイムトラベラーだったりして。常に激しいアクションを求めて、彼が映画道に精進しているのは実はそういう裏事情があったからである…って、そんな訳ねえか。

(2005/11/27)

『網走番外地/大雪原の対決』

先日。池袋の新文芸坐で『網走番外地/大雪原の対決』(1966年公開)を観た。好評の内に幕を降ろした「追悼・石井輝男監督特集」のひとつ。健さん扮する義侠心の塊のような主人公が活躍する「網走番外地シリーズ」は新旧合わせて合計18本が製作されており、旧シリーズ10本を石井が手掛けている。今回観た『大雪原の対決』はその第7作になる。娯楽性に富んだ内容。シリーズの勢いを感じさせる痛快な仕上がりである。最近作ではこの世の全ての苦悩を背負い込んだような表情をしている健さんだが、この作品における彼は紛れもないヒーローではあるけれど、陽気な性格で茶目っ気も充分。喋ります。歌います。殴ります。まるで別の俳優の如し。健さん本来の魅力を最大限に引き出した石井演出が見事だ。このシリーズの大ヒットによって、健さんはめでたく映画スターの称号を獲得した訳だが、それも納得のカッコ良さ。冒頭から快男児・橘真一の反骨魂が爆発。自分達が犯罪者であり、刑に服している身である事は重々承知している。だが、傍若無人な鬼畜看守(関山耕司)は絶対に許せねえ。そいつの御機嫌を取り結ぶ為には仲間さえ売り飛ばす密告野郎(健さん曰くコジキヤクザ!)は尚更許せねえ。健さんvs関山看守の死闘が展開する。言うまでもないが、両者の関係は対等ではない。むしろ健さんとしては絶対不利の状況である。例え負けるとわかっていても己の主張を貫き通すのがアウトローの心意気。実際にはこんな人間は存在しないと思うけど、映画という夢の世界に限ってはそれが許される。夢の体現者・高倉健に多くの観客が共感や憧憬を覚え、その勇姿に拍手を送ったのだ。石井は西部劇の要素をも貪欲に吸収している。見せ場見せ場の連続で観客をグイグイ惹き込む。特に面白かったのは健さんグループが「飯抜きの刑」を受ける場面。例の関山看守の嫌がらせである。わざわざ食堂に呼び出して、別のグループがガツガツ食べている所を見せつけるという陰湿さ。獄内唯一の楽しみとも言える食事を奪われてはたまらない。もう面倒臭えや!悪魔的な関山攻撃に逆ギレした健さん以下、グループの面々が大暴れ。口一杯に食べ物を頬張りつつ、繰り広げられる猛烈な乱闘場面に館内が大いに沸いた。この面白さは時代を超える。他にも出所した健さんが弟分(執拗な拷問を受けて惨死)の遺骨に話しかけながら、関山看守をボコボコにブチのめす場面や雪達磨の中に忍び込んだ(!)刺客を健さんがぶった斬る場面も印象深い。ユーモアとバイオレンスの融合は石井映画の真骨頂と言えよう。伝説の殺人者たる鬼寅親分(嵐寛寿郎)も物語中盤より参戦。アラカンが流石の貫禄で魅せる。鬼寅親分は橘真一に比肩する名キャラクター。健さんとは一種の師弟関係にある。この2人が揃えば天下無敵。如何なる悪党も勝てません。もしかしたら彼らはジェダイ騎士の末裔かも知れない。難敵との激戦を制した健さんはゲストヒロイン(大原麗子)とキスを交わす事もなく、鬼寅親分に彼女を託して再び網走へ。新たな試練冒険が勇者を待っている。

日にちが前後するが、同特集で『ポルノ時代劇・亡八武士道』(1973年)を捉まえた。自ら「ポルノ時代劇」と謳ってしまう思い切りの良さがかえって清々しい。原作は小池一雄&小島剛夕の劇画。主演は石井の盟友たる丹波哲郎。丹波先生扮する謎の凄腕浪人・明日死能(!)が暴れまくり、斬りまくり、殺しまくる。悪党が悪党を殺すダークな快感。低予算のハンデを全く感じさせない狂ったエネルギーが迸る怪作だ。人体バラバラ、夥しい血糊が宙を舞う驚愕の殺陣場面は先生自身が演出したそうである。いつになく意欲的な丹波先生が頼もしい。武蔵顔負けの二刀流も披露してくれるし、皆さんお待ちかねのカタナvsピストルの異種対決も用意されている。奇想天外なチャンバラシーンの面白さもさる事ながら、江戸最大の遊郭の裏側(何処まで「本当」なのかはわからないが…)をじっくり描いている点も見逃せない。強引なやり方で連行されてきた女達が優秀なセックスマシンに「改造」される戦慄の場面。天下の吉原が一体どういうエリアなのか、イヤと言うほど教えてくれる。普通の時代劇が描写しない或いは意図的に回避している部分にこの映画は敢えて踏み込んでいる。吉原を牛耳るバケモノ(遠藤太津朗)に窮地を救われた死能は彼の命じるままに抵抗勢力を潰してゆく訳だが、利用価値が消滅した瞬間、その毒牙は死能へと向けられるのだ。無論死能も相手の思惑は計算済み。陥穽に落ちたと見せかけておいて強烈な反撃に転じる。アヘン漬けにされた体を引き摺って、最後の戦いに突入する死能の姿には悲壮感すら漂う。生きるも地獄、死ぬも地獄。大量の御用提灯に包囲された死能が鬼神の剣を振るう。奉行所の連中もあの手この手で死能を捕らえようとするのだがどうも巧くゆかない。そう。生きながらにして無間地獄を彷徨うこの男を屠る事は誰にも出来ないのである。雪の中に一人佇む死能を捉えたラストシーンも彼の置かれた特殊な境遇をよく表現していると思う。後年、石井は血みどろの鉄槌映画『地獄』(1999年)にも明日死能を登場させてファンを喜ばせた。石井のパロディ精神も嬉しいが、監督の要請に応えて出演を快諾した丹波先生のサービス精神も称えたい。この日は『亡八武士道』と『直撃地獄拳・大逆転』(1974年)の豪華二本立て。丹波先生の異色時代劇を楽しんだ後に千葉ちゃん主演の能天気アクションを堪能する幸せ。個人的には客演の倉田保昭が「先輩!車の月賦払って下さい!」と喚き散らす第一作(同年公開)の方が好きだが。驚くべき事に『大逆転』のラストには鬼寅親分(勿論アラカン本人が演じている)が当然のように顔を出す。おまけに丹波先生も出てるし。石井ワールドは奥が深く、刺激的な遊び心に満ちている。

(2005/11/20)

『ヨコハマBJブルース』

先日。有楽町のファンタスティック・シアターで『ヨコハマBJブルース』(1981年公開)を観た。現在開催中の「松田優作映画祭」の一本。物語の骨格を優作が提案し、それを基に丸山昇一が脚本化。そして監督は優作の信望も厚い工藤栄一である。優作、丸山、工藤…磐石の布陣がここに揃った。自身が持ち込んだ企画だけに気迫の篭った演技を披露してくれる。映画の導入部。洋式トイレの便器に腰かけた優作が飯を食い、牛乳を飲んでいる。異様な出だし。吸収と排泄を同時に行う奇妙な男の登場だ。早くも濃密な優作ワールドが始まっている。彼扮する「BJ」と呼ばれる主人公は毎夜酒場(店主は宇崎竜童)でブルースを歌っている。中々魅惑的な声質であり、結構人気を集めている様子だが、ブルースだけでは生活が成り立たない。仕方がないので、暇な時間は私立探偵めいた稼業に精を出している。どうやら元刑事でもあるらしいこの男にとっては比較的やり易い商売なのであろう。探偵兼ブルースシンガー。現実世界ではまず有り得ない人物だと思うが、優作が演じると不思議な説得性を帯びるから面白い。これほど正体不明のキャラクターが似合う俳優も珍しい。彼特有の退廃的な雰囲気は誰にも真似の出来ない強力な武器である。全てを見透かすような鋭い眼差し。人並外れた体躯から繰り出されるアクションも迫力があるし、実生活における経験を生かした(?)濡れ場の演技もカッコいい。絵になる男。どんなジャンルにも「その職業に選ばれた」「それをする為に生まれてきた」としか考えられない傑物怪物が必ず存在するが、優作もまたそのタイプの人間であると思う。

ばきゅーん。BJの眼前で旧友(内田裕也)が射殺された。優作の友達が裕也というのも凄い配役だが、二大アウトローが同一画面に映っている奇跡に興奮する。椋圭介。BJとしては因縁の相手である。過去に一人の女(辺見マリ)を巡って激しく争った男である。訳もわからぬ内に犯人として逮捕されてしまうBJだったが、証拠が何もないので、間もなく釈放される。椋は何故殺されたのか?犯人の目的は何か?友人殺しの汚名を晴らすべく…というような気負いは全然見られないがBJは独自の調査を開始するのであった。混沌の街ヨコハマを舞台に敵討ちの物語が幕を開ける。意外に友情に厚い男である。酸いも甘いも知り尽くしたような顔をしているBJだが、その内面には未だに熱いものが燃え盛っているらしい。ただ感情を表に出す事を極端に嫌う。それだけの話である。きっと自分の美学に反するからだろう。第一ダサいし。何もかもペラペラ喋り倒す男が増殖してから日本はダメになった。真犯人の見当はついている。この界隈を牛耳る犯罪組織に所属する殺し屋(蟹江敬三)だ。用心深い奴である。その居所を知っているのはボス(財津一郎)一人。他の者には、例え愛人であろうと、自分の動きは一切教えないというルールを厳守している。蟹江得意の無気味演技も強烈だ。この難敵を追ってBJが夜のヨコハマを駆ける。異文化が違和感なく共存するミステリアスシティに魔人優作が加わり、魅力に富んだ幻想空間が出現する。そう。これは「横浜」ではない。何処にもない街だ。ここは空想世界にのみ存在を許される蜃気楼「ヨコハマ」なのである。ヨコハマの門を開く為だけでもこの映画を何度でも観たくなる。全篇を貫く暗闇を強調した映像(工藤栄一の真骨頂!)もイカす。適度なユーモアを交えつつBJと麻薬組織の攻防戦が展開する。そして映画は怒涛のクライマックスへ。これまで暴力は振るうものの殺人だけは犯さなかったBJが初めて人を殺す。撃ち殺す。その対象は今度の事件の張本人。BJの放った銃弾に眉間を砕かれたその男の名は…かなり強引だが「あっ」と驚くどんでん返しもちゃんと用意されている。いや、この作品に理屈は要らない。ここは魔都。何が起きてもおかしくはないのだ。物語の整合性を考えるよりも、優作が紡ぎ出すハードボイルドな世界観に酔うべき映画。組織に弄ばれた挙句に惨殺された家出少年(山田辰夫)に鎮魂の歌を捧げるBJの優しさに胸を打たれた。美しくも哀しい。そして切ない。出色のラストシーンであった。

(2005/11/6)

『ミリオンダラー・ベイビー』

先日。池袋の新文芸坐で『ミリオンダラー・ベイビー』を観た。今や映画監督として次回作が期待されるクリント・イーストウッド。その最新作である。イーストウッド御大は監督主演に加えて音楽も担当している。今年75歳を迎えるイーストウッドがである。映画監督という仕事はあらゆる才能を求められる。更に体力的にも強靭でなければ個性派揃いのスタッフやキャストを束ねる事は難しい。イーストウッドの恐るべきヴァイタリティに改めて驚かされる。この『ミリオンダラー・ベイビー』もやや古風な印象を受けるものの、王道を行くような重厚演出で魅せる。当世主流のCG地獄とは無縁の手作り感覚溢れる映像が心地好い。映画本来の醍醐味が堪能出来る最上級料理。名声も栄光も充分に獲得したイーストウッドだが、現在も尚、映画に対する意欲情熱を燃やし続けているのだ。まさに全身映画人とも呼ぶべき存在である。脱帽。

クリント・イーストウッド&モーガン・フリーマン。世界最強のジジイ二人が運営するボクシングジムに三十路の女ボクサー(ヒラリー・スワンク)が現れる。彼女は自分のトレーナーとしてイーストウッドを指名する。バカなっ。なんで俺が女の世話なんかしなきゃいけねえんだ。ボクシングとは男と男が命を張り合う修羅世界。過酷な渡世を長年渡り歩いてきたイーストウッドとしては、女流ボクシングなどタチの悪い冗談か遊び程度にしか映らないのであろう。だが、断られても断られてもスワンクはイーストウッドにしつこく食い下がるのであった。私の能力を開花させられるのはあなたしかいないのよ。逃げるイーストウッド、追いかけるスワンク。この構図がまず面白い。こういう事を書くと偏見だの差別的だのと怒られそうだが、筆者も御大とは少し違った意味で「ボクシングは女のやる商売ではない」と考える。以前、試合直後のボクサーの顔を見せてもらう機会があったが、実に生々しいものであった。顔の表面に走る鋭いキズの数々が戦いの壮絶さを物語る。そう。これはスポーツではない。闘争なのだ。鍛え上げられたボクサーの拳は凶器に等しい。大勢の観客が見守る中、己が鉄拳を使って激しく斬り結ぶ訳である。何と言われようと、か弱い女性が踏み込むべき領域ではないと思う。一歩間違えれば再起不能、最悪の場合は落命の危険すらあるのだ。だからこそ好奇心の塊たる民衆の興味を集めるのだろうが…。しかし、極貧生活に喘ぐスワンクは敢えてこの道を選んだ。スワンクの熱意とフリーマンの説得に根負けしたイーストウッドは渋々ながら、彼女の依頼を承諾する。但し「俺のやり方に100%従え。口答えは一切許さん」という厳しい条件付きだ。

流石に単騎では映画を支えるのはしんどいと判断したのか、イーストウッドは自分と互角の実力を備えたフリーマンを投入して映画に厚味を持たせている。思えばイーストウッドの一大転機となった『許されざる者』(1992年)以来の顔合わせである。俳優の生理を知り尽くしている監督だけにその演出も使い方もいちいち適確である。フリーマンにもキチンと見せ場を用意する辺りにイーストウッドの細やかな配慮を感じる。新人ボクサーを執拗に苛める性悪ボクサーに怒りを感じたフリーマンは久々のリングに上がる。その勇姿はまさに古武士の風格。彼もまたボクシングに魅了され、その人生を捧げた男なのである。狼の血が再び騒ぎ出す。熟練の剣(拳)が小生意気な若造を叩き潰す場面に拍手喝采。年寄りを舐めるな!というイーストウッドの咆哮が伝わってきそうである。映画後半、イーストウッドとスワンクに悲惨な運命が襲いかかる。ただのボクシング映画だと高を括っていた観客(筆者)の度肝を抜く仕掛けが作動する。監督の手腕はむしろこの部分で発揮されている。そしてイーストウッドは重大な問題に直面する。愛弟子スワンク、最後の願い。拒否すべきかそれとも叶えてやるべきなのか…。俺は一体どうすればいいんだ?近所の教会で頭を抱えるイーストウッドが痛々しい。悪党100人をブチ殺す方が余程楽である。御大としてはそっちのが得意だし。異様な緊迫感を保ちつつ、映画は究極の解決法を示すのだった。ラストのイーストウッドの行動に関しては、またぞろ物議を醸しそうだが、筆者には正しい選択だと思った。万一自分がこのようなシチュエーションに立たされたとしたら、とてもイーストウッドのように振る舞う自信はないけれど。永遠のヒーローは現在「硫黄島をテーマにした映画」二本を鋭意準備中と聞いている。超人イーストウッドには年齢を数えている暇などないのである。

(2005/11/3)

『子連れ狼/地獄へ行くぞ!大五郎』

先日。シネマアートン下北沢で『子連れ狼/地獄へ行くぞ!大五郎』(1974年公開)を観た。若山富三郎主演、驚愕の血みどろ時代劇シリーズ。その第6弾。これが事実上の最終作となる。拝一刀vs裏柳生の死闘もいよいよ大詰め。裏柳生総帥たる烈堂はこれまでに息子3人を子連れ狼打倒の為に送り込んだが、ことごとく返り討ちにされた。残るは愛娘の香織(瞳順子)のみ。烈堂は彼女に必殺技『お手玉の剣』を伝授する。これを会得した香織は早速仇敵追跡の旅に出る。兄達の仇は私が討つ!その決意は天晴れではあるが、どう考えてもこのような少女が冥府魔道に生きる怪物剣士に勝てるとは思えない。しかし香織本人は至って真面目である。一方、子連れ狼は物騒な誓いを胸に秘め、惨殺された妻の墓参に訪れていた。柳生烈堂を斬る。奴こそ諸悪の根源。彼ら親子を阿修羅地獄に陥れた烈堂を殺さねば、亡き愛妻に顔向けが出来ないという訳か。だが、裏柳生の追及はこの墓地にまで伸びていたのだ。敵の気配を察知した子連れ狼の対応は迅速且つ残酷であった。たちまち厳かな空気が破られ、強烈なバイオレンスシーンが現出する。ばばばばば。ががががが。どばばばば。子連れ狼愛用の戦闘乳母車が吼えた。車体前面に装備された機関銃(バカな!)が土塀の中に潜んでいた暗殺団を貫いたのだ。大変な苦労をしてこんな所に隠れていたのに、この奇襲攻撃で彼らの面子も生命も瞬時に崩れ去った。この乳母車、飛び道具だけではなく、あらゆる場所に刃物が仕込まれている。まさに全身武器の塊。元公儀介錯人の殺しの美学が凝縮された究極の殺戮マシンだ。しかも操作は作動レバー3本で済むのだから、使い勝手も悪くない。大五郎君(富川昌宏)でも充分操れます。この秘密兵器に対抗して(?)敵側も爆弾だのロケット弾だのをびゅんびゅん飛ばしてくる。特に大五郎に玩具をくれた鳥追女が、親子の眼の前でバラバラに砕け散る場面は壮絶である。時代劇の概念を超越した荒唐無稽な光景が連続するが、パラレルワールドだと解釈すれば問題ないだろう。要するにここは「銃火器技術が異常に発達したもうひとつの日本」なのである。元寇だろうが黒船だろうがドンと来いや。

宿敵烈堂に大木実が扮している。俺としてはエピソード1に登場した胡散臭さ満点の伊藤(雄之助)烈堂が好きだったので、この配役には不満を覚えるが、シリーズものの場合、同じキャラクターを違う俳優が演じる事は珍しくない。ここは原作そっくりの衣装に身を包んで熱演を繰り広げている大木に免じて見逃すとしようか。さて、子連れ狼の奇策の前にあっさり敗北した香織に代わって、烈堂が新たな刺客として選んだのが、愛人の子・土蜘蛛兵衛(木村功)であった。我が子4人が殺されたら、今度は隠し子まで駆り出すという烈堂の神経と言うか、感覚が俺にはわからない。そろそろ自分で戦えよ、ジイさん。まあ。彼には彼なりの理屈があるのだろうが、俺には子連れ狼から逃げ回っている(怖がっている?)ようにしか見えないのである。或いはかつての対決で一刀に右目を潰されたショックがトラウマになったのか。兵衛としても餓鬼の頃に犬のように捨てられた恨みを忘れておらず、今更淫乱親父の命令に従う気はない。裏柳生の沽券など俺の知った事か。兵衛はあくまでも「土蜘蛛軍団の優秀性を天下に轟かせる為」に子連れ狼の首を狙うのだ。殺し屋親子の意地の張り合いが実に面白い。大五郎のラブリーささえちゃっかり利用してしまう鉄面一刀よりも彼らの方が遥かに人間的に感じられるのである。無敵の強さを誇る子連れ狼に対して、土蜘蛛軍団は史上最悪の嫌がらせ作戦『五車の術』を敢行する。拝親子に関係した者を片っ端から殺しまくり精神的打撃を与えようという陰湿極まる計略である。何しろ会話を交わしただけで「関係者」と看做されてしまうのだからたまらない。故に子連れ狼は今まで以上に孤独な旅を強いられる事になる。宿にも泊まれないし、食糧の調達もままならない。やむを得ず、農家の軒先に下げられた大根やお地蔵さんのお供え物を食べて飢えを凌ぐ。その際にキチンと代価を置いてゆく辺りはもののふの素養であろうか。

兵衛が放った無常、無我、無門(草野大悟、宮口二郎、石橋蓮司…凄いメンバーだ)の3人の刺客は地中を自由自在に移動出来るという恐るべき能力を有している。スタンド使いかデーモン一族クラスの厄介な追っ手である。土中を進む暗殺者をどうやって撃退するのか?子連れ狼は「雪山に篭る」というシンプルな方法で迎え撃つ。さしもの最強三人組も寒さには弱かった。彼らが凍えて死にそうになっている間、拝親子はかまくらの中で大根鍋(余り美味しそうじゃないが)を楽しんでいた。ずばっ。どばっ。ぐばっ。地上へと引き摺り出された土蜘蛛どもは、哀れ殺人乳母車の餌食と化す。またしても難敵を退けた子連れ狼の眼前に大軍を率いた烈堂が姿を現わす。いよいよ頂上決戦の勃発か?冬山のゲレンデで開始される大剣戟。天然CG富三郎御大の運動神経が最大限に発揮される。例の乳母車を雪橇仕様に改造。これに跨って脅威的な殺陣を展開する御大の勇姿に度肝を抜かれる。水鴎流・斬馬刀、最後の活躍。次々に押し寄せるスキー忍者を斬る斬る斬る!とかく軽視されがちな劇画原作映画だが、ここまでやってくれれば文句はない。映画は馬鹿馬鹿しさの臨界を超えて、未知の映像空間へと突入する。場合によっては卑怯な戦術も厭わない子連れ狼。とてもヒーローとは思えない破天荒さ、何を考えているのかわからない無気味さが拝一刀の魅力である。そしてこのキャラクターに説得性を持たせている富三郎の厚味が凄い。この人もスターの座を獲得するまで随分時間がかかった。時には辛酸も舐めつつ、端役脇役敵役とあらゆる属性の人間を貪欲に演じこなしてきた富三郎だからこそ成し得た奇跡と言えるだろう。かのタランティーノが熱狂したのもわかる。唯一の心残りは一刀vs烈堂の決着がつかなかった事だが、何処か中途半端な印象で終わってしまうのもシリーズ映画の宿命なのかも知れない。

(2005/10/23)

『新座頭市/破れ!唐人剣』

先日。シネマアートン下北沢で『新座頭市/破れ!唐人剣』(1971年公開)を観た。シリーズ最大の異色作とも呼ばれるこの一篇。元祖カンフースター王羽(ジミー・ウォング)をゲストに迎えて、我らがカツシンと対決させようという発想が大胆である。何故江戸時代の日本に中国の武芸者が歩いているのか?考えてみれば不思議だが「有り得ない事」を具現化するのが娯楽活劇の本領なのだ。細かい事は気にしちゃダメだよ。我流剣法が勝つか、正統剣法が勝つか。クライマックスは当然ながらカツシン対ジミーの一騎討ちとなる訳だが、そこに至るまでのプロセスをどう描くかが脚本家の腕の振るい所という事になる。映画の冒頭からジミー(役名は王剛)の鬼神のような強さを見せつける描写が満載。この男、デキる!片腕の剣術使い。その右手は過酷な修行か死闘の果てに失ったのか。左手一本と運動神経のみを頼りに敵と戦う姿は悲壮感さえ漂う。戦闘能力も物凄いが、義侠心も桁外れ。この唐人剣士は弱者が苛められているのを見ると黙っていられない性分らしい。そういう意味では座頭市に酷似している。相手が将軍様への献上品を運ぶ大名行列であろうが知った事ではない。問答無用で斬り込む。虐殺の対象が同郷の者であれば尚更だ。達人剣が閃き、死体の山が築かれる。だが、強過ぎる正義感はかえって自身を危険に追い込むようだ。どうやら王剛は本国で何らかの問題を起こしたらしい。故に彼は日本へ逃げてきたのである。異国の地でもウォンテッドされてしまった王剛。結局、何処へ行こうと彼に安息の時間は許されないのか。官憲とヤクザの両方がその首を狙って動き出す。

同じ人間なのに言葉が通じないってのは不便だなあ。旅の途中で王剛と知り合った座頭市が呟く。王剛が追われている身である事に気づいた市は何とか彼を助けてやろうと奔走するのだが、その好意がことごとく裏目に出てしまう哀しさ。座頭市や王剛のような阿修羅界に生きる者達にとって、意志の疎通が図れないという事は命のやり取りに繋がりかねない。陋屋や親切な農家に提供してもらった水車小屋で竜虎は対面する。しかし、両雄間に円滑なコミュニケーションは成立しない。如何に超人座頭市と言えどそう簡単に中国語が理解出来る筈もない。王剛も同様である。一応王剛が救った旅芸人の少年が通訳をしてくれるのだが、この子もそんなに日本語が堪能ではないので、ほとんど話が噛み合わず、事態は益々ややこしい事になる。この場面は一見ユーモラスな雰囲気なのだが、来るべき惨劇を暗示するようで無気味な印象を受ける。言葉の持つ恐ろしさ。座頭市と対立するヤクザ(安部徹)が拉致した少女にデタラメを吹き込む場面に寒気を覚えた。座頭市はカネの為ならどんな事でもする汚ねえ野郎なんだぜ…。これを鵜呑みにした少女は窮地から救われたにも関わらず「親の仇」として、座頭市を激しく嫌悪するのであった。ここまで極端ではないが、我々の生活の中でも似たようなシチュエーションに直面する事がままある。誰々さんはこういう人だから気をつけた方がいいよ…。悪意を有する人間がばら撒く嘘八百が誤解を呼んで予想外の被害を発生させるのだ。俺自身、手痛いダメージを被った経験が何度かある。その根源も大体見当がついている。そいつの名は我が脳内に眠る「ブッ殺したい奴リスト」の先頭に登録されているが、現時点では「実行」していない。尤も今までに一度も実行した事はないけど(当り前だ)。まあ。俺も余り他人の事をとやかく言えた義理ではないのだが。俺の不用意な一言が何処かで重大なトラブルを招いているのかも知れないのだから…。お互い醜いねえ。言葉は怖い。言葉は凶器である。皆さん、使用の際はくれぐれも慎重にね。俺達のようになったらもう手遅れです。

今回もカツシンの剣捌きが冴えに冴える。俺としてはやや冗長気味の決戦場面よりも、座頭市が安倍親分の邸宅で大暴れする場面の方が面白かった。恩人の娘を救出すべく、市は飢狼の巣窟に単身乗り込む。仰向けの親分の顔面に手練れの刃が迫る。あくまでもシラを切ろうとする親分の右耳をサクリと削り落とす座頭市。うぎゃあ。この凄味。この迫力。様々な制約に縛られた正義の味方にはまず不可能な行動。ダークヒーローの魅力が炸裂する瞬間であった。この盲目剣士を怒らせた者には悲惨な運命が待っている。それにしてもカツシン映画は脇役が豪華である。ベテラン娼婦(だと思う)に扮した浜木綿子の色っぽいし、道化役に徹したてんぷくトリオの面々も楽しい。多分カツシンに「出てくれよな」と頼まれたら誰も断れないんだろうな。

(2005/10/16)

『新女囚さそり・701号』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『新女囚さそり・701号』(1976年公開)を観た。シリーズ第5作。多岐川裕美が《影の大番長》に続く大役《二代目さそり》を熱演している。全体的に「無理してるなあ」という印象は拭えないけど、若き裕美さんの体当り演技が存分に楽しめます。裕美扮する主人公ナミを徹底的に苛め抜く事に映画の前半部分が費やされている。幸福の絶頂にあるナミが地獄へと突き落とされる経緯が執拗に描き込まれる。余りにも極端な展開に思わず笑ってしまうが、これぞ劇画原作映画の醍醐味でもある。ナミ転落の原因は皮肉にも彼女唯一の肉親である姉さん(范文雀)だった。大物代議士(中谷一郎)の秘書を務めていた文雀は、雇い主の汚職の証拠を掴む。これを公表すれば中谷先生の政治人生はオシマイである。という訳で、中谷は持てる能力を最大限に利用して文雀を潰す。その異常発想は悪魔そのもの。気の狂った権力者はとにかく何をするかわからない。怖いな~。妹のナミも奴の爆撃範囲に含まれている。文雀は変態政治家の奴隷にされた挙句に刺殺された。ナミも中谷の餌食となり、血みどろの短刀を握らされる。姉殺しの濡れ衣を着せられたナミはシナリオ通り女子刑務所にブチ込まれる。無論中谷はここでナミを密殺する心算である。警察も裁判所も刑務所も彼の支配下にあるので、平凡な女子大生に過ぎないナミには抵抗する術がないのである。そして何よりも彼女にとって衝撃的だったのは恋人(夏夕介)の裏切りであろう。美味しいエサをぶら下げられた夏君はあっさりと敵の軍門に下ったのである。ここまで来て、かの『ストーンオーシャン』が荒木飛呂彦版『女囚さそり』だった事にようやく気づいた。

身も心もズタズタに引き裂かれたナミだが、権力側は容赦のない攻撃を続行する。ボコボコに殴られるわ、朝食に砂利を混ぜられるわ、生ゴミの穴に放り込まれるわ、獄内でも苛烈な虐待に晒されるナミ。周り中敵だらけ。四面楚歌の状態にじっと耐える裕美の表情がこの世のものとは思えない妖艶さを放つ。復讐の女神の誕生を期待させる顔だ。怨念執念をエネルギー源にして、ナミは反撃のチャンスを窺う。生ゴミの中から偶然発見した壊れたライター。これがナミを《スコーピオンガール》へと進化させる小道具となる。ナミは虐待リーダーであるバケモノ(浅香光代!)を焼き殺す事に成功する。彼女の中で「全自動復讐機械」のスイッチが作動した瞬間である。それにしても運命の神様はなんと残酷なのか。本来は貞淑で心優しい女性であるナミに血で血を洗う阿修羅街道を用意するとは!近所でも評判の美人お母さんとして、穏やかな人生を終えるというパターンも彼女にはあった筈である。だが、ナミは愚痴ひとつ零さずに与えられた運命を忠実に履行するのだ。愚痴どころか、物語が進めば進むほど彼女の台詞は減り、逆に凄味と殺気が増す仕掛け。

この映画には中谷を筆頭に一癖も二癖もある敵役が多数登場するが、中でも山本麟一(出た!)が演じる刑務所所長のアクの強さが凄まじい。国家権力の傀儡たる山本所長は獄内最強の敵としてナミに立ちはだかる。冷酷非情な性格に加えて腕力体力も怪物クラス。映画後半、ナミはこの難敵との激突に及ぶが、山本所長の馬鹿力に苦戦を強いられる。片目をナイフで貫かれても活動を停止しない天然ターミネーターだ。援軍に駆けつけた喧嘩自慢の受刑者(根岸季衣)とのダブルアタックで辛うじて仕留める事が出来た。山本は現代劇でも時代劇でも常に憎々しい悪漢を演じ続けた。本人がどう考えていたのかは不明だが、これもひとつの役者人生であろう。彼のような怪優がいないと面白い活劇は作れない。そういう意味でも貴重な戦力であったと思う。因みに山本自身は放浪と武術を愛するアウトロー性の強い人物だったと聞いている。

見事脱獄を果たしたナミはただ一人の協力者である季衣を殺して(…何故?)宿願の復讐計画に着手する。黒尽くめの死神衣装を纏ったナミは手始めに元恋人の家を目指す。ここで流れる挿入歌も裕美さんが歌っています。必聴。相当手の込んだやり方でナミは裏切り者を処刑する。スコーピオンガールに変身した彼女は最早無敵である。知らぬ間に戦闘能力も大幅にアップしている。多分バットマンよりも強いんじゃないかな。いつか両雄の対決が観たいものだ。蠍女と蝙蝠男の死闘である。誰か作ってくれ。夏を自ら葬った事に関して、彼女の中でどのような葛藤が繰り広げられているのか?地獄の服役生活を経験した事によって、そのような人間的感情は綺麗に摩滅してしまったような気もするが、ナミの顔には何ら変化は見られず、相変わらず一言も喋らないので、俺には全然わからない。映画のクライマックス。華麗なる復讐劇の仕上げは言うまでもないが中谷先生の抹殺である。ただ殺すのではなく、わざわざ国会議事堂の前に誘き出す辺りにナミのこだわりを感じる。真昼間、ナミが例のコスチュームを着て都内を闊歩する姿はそれだけで異次元ワールド。製作が東映だけに特撮ヒーロー番組的な雰囲気さえ漂う。さしもの前途有望たる大政治家も死神の領域に捉えられた以上は無様に逃げ回るのみである。やがて、ナミの毒針が仇敵の肉体に深々とめり込む。うぎゃああああ。中谷の絶叫と鮮血が周囲に撒き散らされる。このような悪党でもやはり血の色は赤いのか。そして凶器の正体が刑務所内でちょろまかしてきた洋裁鋏というのが実に面白い。計画を完了させたナミに警官隊が迫る。大勢の命を消滅させた彼女に死刑の判決が下されるのはまず間違いないだろう。この国にナミを裁く資格があるのかどうかは甚だ疑問だが…。

(2005/10/9)

『木枯し紋次郎/関わりござんせん』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『木枯し紋次郎/関わりござんせん』(1972年公開)を観た。映画の冒頭。いきなり紋次郎はイヤーな場面に遭遇する。生活に疲れ果てた女が我が子を殺そうとしているのだ。他人の事情には極力首を突っ込まないのが紋次郎の流儀である。自分は良かれと思ってやっているのに、それを誤解したり逆恨みしたりする奴がいるからだ。だからどうしても「関わりござんせん」となる訳である。頼りになるのは己の力のみ。漂白の一匹狼たる紋次郎がトラブルを避けるのは当然の事である。しかし今回ばかりはそうも言ってはいられない。何故なら、今、母親に殺されようとしている赤ん坊はかつての自身の姿だからである。この瞬間、紋次郎の脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。間引きされ損なった男。主人公の出生の秘密がサラッと明かされる巧い出だしである。紋次郎は母親の凶行を制止して、路銀の大半を与えるのであった。行く先々でいちいちこんな事をしていたらキリがないのだが、どうしてもやらずにはいられなかったのである。だが、紋次郎の善意は最悪の結果に繋がるのだった。後日、この母親は赤ん坊だけではなく、他の子供達も道連れにして首吊り自殺を図るのである。紋次郎は死体の転がる家の中を無言で見詰めている。悲哀に満ちた彼の眼差しが痛切である。しかし、その表情は達観と言おうか、諦観めいたものも同時に感じさせる。

仁義なき戦いに突入する直前の菅原文太が紋次郎を好演している。このキャラクターは中村敦夫のハマリ役である事に全く異存はないが、菅原紋次郎もそんなに悪くない。スラリと背が高い上に、この頃の文太はかなり痩せており、渡世人の衣装がよく似合うのである。これは周到な役作りによるものなのか、当時の文太が「本当にハングリー」だっただけに過ぎないのか、そこまではわからないが。クールな風貌と落ち着いた台詞回し。いざチャンバラともなれば、荒々しいヤクザ剣法を披露してくれる。腹を空かした紋次郎が丼飯に味噌汁か何かをぶっかけてガガッとかき込む場面も何だか美味しそうだ。如何に飯を旨そうに食って見せるかも俳優の力量の内である。揉め事アレルギーの紋次郎ではあるが、ヤクザ稼業に身を投じているからには、斬りたくもない相手を斬らなくてはならない場合もある。それがその土地を牛耳る首魁だったりすると事態はややこしくなってくる。ボスの復讐に燃える刺客団の追跡が始まるのだ。そういう連中にとって、ヤクザ界のヒーロー木枯し紋次郎は殺しても殺し足りない仇敵となる。そう。この世に100%他人に好かれる人間などいないのである。勿論、彼の潔癖な性格や男伊達に魅了される者や彼を渡世人の鑑として崇める者も少なからず存在する。因みに紋次郎に心酔する八幡の常平(田中邦衛)によれば、彼の業界ランキングは「関脇クラス」だそうです。どんどん話がズレるが、江戸時代には、真剣なものから冗談半分のものまで、色んなジャンルの番付が作られていたらしい。もし「ヤクザ番付」「渡世人番付」なんてものがあるなら一度見てみたいね。そう言えば鈴木清順の『ピストルオペラ』(2001年)には「殺し屋番付」が出てたな…って、脱線はここまでにしておこう。時には命を狙われ、時には危機を救われるという波乱万丈の日々。これはストレスが溜まります。紋次郎だからこそ成立するライフスタイル。宿屋に泊まっても刀を抱いて眠らなければならない辺りに紋次郎の置かれた境遇がよく表れている。主人公は言うまでもないが、各登場人物の個性をじっくりと描き込んだ野上龍雄の脚本が見事。善玉も悪玉も確固たる存在感を発揮していて気持ちが好い。異常に不愉快な断末魔を残して絶命する今市の金蔵(山本麟一)も印象強烈。金蔵の台詞にさしもの紋次郎もカチンときたのか、珍しく怒りの一撃を見舞っている。当面の敵を全滅させた紋次郎は放浪生活を再開する。紋次郎に助太刀を依頼したが、あっさり断られた大物ヤクザ・下滝の巳之吉(大木実)が紋次郎について「考えてみりゃ、あいつも因果な男だよなあ」と評していた。まさに至言であった。遣る瀬ない渡世を嘆かず、悔やまず、ただ黙々と日々こなす。それが木枯し紋次郎の宿命であり、生き方なのである。

(2005/10/3)

『海と毒薬』

先日。池袋の新文芸坐で『海と毒薬』(1986年公開)を観た。原作は遠藤周作。監督は熊井啓。これまで熊井映画とは「肌が合わんな」と思い込んでいた俺だが、この作品に限っては別であった。開幕から作品の持つ強烈な魔力に魅入られてしまい、一気に物語世界にダイブ。その緊迫感は終了まで途切れる事はなかった。太平洋戦争末期。地方の大学病院を舞台に繰り広げられる狂気の世界。同胞を多数殺傷した連中をどう扱おうが俺達の勝手だ。撃墜した爆撃機の搭乗員(捕虜)の肉体が軍部の傀儡と化した医者達によって切り刻まれてゆく。しかも医学の発展の名の下に…。そしてこれが紛れもない実話である事を知って、再び氷結する。かなり前から複数の名監督達が『海と毒薬』を狙っていたと聞いている。しかし、この小説は容易ならざる異常性、問題性を孕んでおり、小手先で映像化出来るような暢気な題材ではない。かの黒澤天皇に「彼は勇気があるね」と誉められた熊井でさえ、企画の立ち上げから作品完成までに17年の歳月を費やしている。その執念は見事結実した。贅沢とは言えない予算内でスタッフ陣が最高の仕事をしている。中でも美術担当の木村威夫の構築した各セットの見事さ。牢獄風の取調室、清潔感溢れる手術室。いずれも秀逸なデザインである。特に後者は映画の主要舞台として大いに活躍する。前半は人命を救う為(…と言ってもこれにも複雑な思惑が絡んでいるのだが)に使われていた手術室が、後半は全く逆方向の目的で使用されるのだ。崇高な使命を帯びている筈の医師が優秀な殺し屋へと変身する瞬間を観客は目撃するだろう。

端整なモノクロ画面に鮮血が飛び散る。余談に属するが「撮影前に用意した動物の血液だけでは足りなくなり、止む得ず、スタッフから採血した血液を使用した」という熊井伝説はこの映画から発生したものであろう。手術場面のリアルさから「文芸スプラッター映画」とも評された『海と毒薬』だが、この映画の持つ恐ろしさはそんな表層的な生易しいものではない。この映画が訴える恐ろしさとは、極限状況に置かれた人間は、どんなに非人間的な命令にも至極あっさりと従ってしまうし、どんなに残虐な行為でも平然とやってしまうという恐ろしさなのである。しかもその施行者は巷間ではエリートの代表格とされる医者というのだからホラー度は倍加する。奥田瑛二と渡辺謙。対照的な性格の医学部研究生が登場する。生来の優しさ故に非情に徹し切れない奥田。どうせ周りが狂っているんだから「自分も狂ってしまった方が楽や」と何事も合理的に計算してしまう渡辺。どちらの主張にも一理あり、単純に「奥田が正しい」「渡辺が間違っている」と決めつけられない辺りがこの作品の微妙さ奥の深さである。映画のクライマックスたる生体解剖場面が無気味な迫力を放つ。この「世紀の手術」には奥田も渡辺も立ち会うのだが、両者の反応や行動の違いが、そのまま彼らのイデオロギーの違いを表現していると思う。奥田の正義が集団狂気に押し潰される。何も出来ずに手術室の片隅でガタガタと震えるしかない奥田の惨めな姿が脳裏に焼きついている。

奥田&渡辺の好演に加えて脇役勢も充実している。医師の奴隷、まるでマシンのような看護婦に扮した岸田今日子。聖職の良心など微塵も感じられないアクの強さを示した西田健。他に冷徹な査問官に岡田眞澄、野心旺盛な助教授に成田三樹夫、そして、昔は腕が良かったが現在は少々ボケ気味の田村高廣教授…と絶妙の布陣が敷かれている。周到な脚本、重厚なセット美術、出演陣の達者な演技。全篇手を抜かずにキチッと作られた映画というのはやはり面白いし、見応えがある。日本映画だってそんなに捨てたもんじゃないぜ。映画最後の「この手術に参加した医師数名は死刑を宣告されたが、結局は無罪放免された」というナレーションが観る者に決定的なトドメを刺す。罪と罰。重罪を犯したとしてもそれが裁かれるとは限らない。その現実に愕然たる思いがした。だが、待てよとも思う。この惨劇が小説や映画という形で世に晒されたのは、極端に言えば「日本が戦争に負けた」からである。戦勝国が全ての面で清廉潔白だとは言い切れまい。もしかしたら闇から闇に葬った「負の事件」を彼らも抱えているかも知れないのだ。もしあったとしても我々がそれを知る事は永久にないだろう。当り前である。そんな記録はとっくに歴史から「削除」されてしまっているだろうから…。映画館を出て、帰りの電車に乗った俺の脳内でそんな妄念が湧いたり消えたりしていた。価値観をグラグラと揺さぶられるような映画に遭遇したのは久し振りであった。社会派熊井啓、文句なしの傑作。

(2005/9/24)

『玉割り人ゆき』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『高校生無頼控』(1972年公開)を観た。現在レイトショーの枠内で集中上映されている劇画原作映画の一本である。主人公の村木正人(通称ムラマサ!)は容姿端麗、頭脳明晰に加えて喧嘩も強いという万能系キャラクター。但し相当傍若無人な奴でもある。目的を達する為には手段は選ばない。ほとんど学校にも行っていないようだが、法律に関してやけに詳しい。この知識と巧みな話術を駆使して他人のカネを掠め取るなんて朝飯前。生来の嘘つきだ。恐らく将来は立派な詐欺師になるだろう。そんなムラマサを「親父を涅槃で待っている」沖雅也が演じている。まだまだ演技的に不安定な部分があるが、懸命に役に取り組んでいる事が感じられて微笑ましい。愉快と不快の境界線を行ったり来たりするキャラクターがこの役者にはよく似合う。沖と言えば『必殺仕置屋稼業』(1975年放送)における全自動殺人マシン市松の印象が強烈である。思えば、市松も善悪を超越した性格設定が極めて魅力的であった。そもそも沖の容姿自体が浮世離れしてるよな。母親の自殺の原因(遠因?)となった兄貴(岸田森)の首を刎ねるべくムラマサは旅に出る。かの兄さんは何やら訳のわからぬ思想にとりつかれており、警察の御厄介になる事もしばしば。気の弱いお母さんは息子の行動に気を病んで、ついに自らの命を絶ってしまったのである。ムラマサは学校も部活も辞めて、兄貴が拘留されている首都東京を目指す。鹿児島→宮崎→姫路→京都→横浜→東京。無賃乗車、無賃乗船を重ねつつ目的地を目指す異色のロードムービー。兄貴の保釈金50万円を稼ぎながらの苦しい旅である。尤もムラマサはこの状況を何処か楽しんでいる風ではあるが。それにしても「助ける為」ではなく「殺す為」に50万もの大金を調達しようとするところが如何にもひねくれ者のこの男らしい。破天荒なミニエピソードが集積して一本の映画を構成している。ただ、冒頭の示現流総帥(宍戸錠)との一騎討ち以上に面白いエピソードがその後に用意されていないので、物語のテンションが下降気味になるのは否めない。映画終盤にちょっぴり顔を出す岸田森がカッコ良い。その長身を70年代ファッションで包んでの登場である。出演時間はほんの数分に過ぎないが、主人公の最終目標としての迫力と貫禄が充分感じられる。個性的な脇役として真に貴重な存在であった。俺などはスクリーンの中に彼の姿を見つけると妙に嬉しくなる。ワンシーンで映画を変えてしまうような俳優になりたい。それが役者岸田森、終生の目標であったという。

その数日後。今度は『玉割り人ゆき』(1975年)を観た。著名な俳優もほとんど出ていないし、時間にして64分という小品だが、これが中々侮れない出来映え。短い上映時間に東映得意のエロ描写とバイオレンスがこれでもかこれでもかと炸裂する。良識派の方々にすれば「こんなものは映画じゃない」という事になるのだろうが、一寸待って戴きたい。グロテスクな血みどろ描写の向こうに案外人間の本質が潜んでいたりするのだから。時は昭和初期。場所は京都島原の遊郭である。主人公のおゆきさんは栄えある《玉割り人》の称号を持ち、廓内で独特の存在感を発揮している。玉割り人とは要するにセックステクニックの師匠である。夜な夜なやって来る海千山千のエロオヤジどもをも仰天させる「特殊技術」を遊女達に伝授するのが彼女の役目である。他に遊郭で発生するゴタゴタを内密に解決するのも玉割り人のお勤め。既に「女は辞めた」おゆきさん。大抵のトラブルには動じない肝の太さを備えており、生臭い業務を日々淡々とこなしている。原則的にクールな態度を崩さないおゆきさんだが、遊女連中には結構慕われており、新米遊女の悩みを聞いてやる優しさも持ち合わせている。主演の潤ますみのフィルモグラフィを調べてみると、所謂エログロ映画で埋め尽くされている。おゆき役は彼女のキワモノ女優(失礼!)人生の集大成でもあるのだ。娼婦の足抜けをそそのかした罪により、おゆきさんにペニスを切断される(うぎゃー)男を深作映画常連たる川谷拓三が演じている。我らが拓ちゃんの怪演に場内爆笑。川谷はオ×ン×ンの恨みを晴らそうとおゆきさんにしつこく食い下がる。その執念はまさにピラニア級である。ここに「女を棄てた女」と「男じゃなくなった男」の死闘が勃発する。更に反政府活動に邁進するピストル男(大下哲矢)が絡んできて、物語の厚味が俄然増してくる。異常なアクの強さを秘めた男女三人が集結する決戦場面は息を呑む緊迫感に満ちている。一度は修羅道から抜け出そうと試みたおゆきさんだが、結局それは儚い夢に終わってしまった。やはり彼女には玉割り人として生きて行くしか道はないのだろうか。無垢な少女がしたたかな売春婦へと成長する事を予感させるラストシーンも記憶に残る。

(2005/9/18)

『男はつらいよ/寅次郎夕焼け小焼け』

先日。近所の図書館で『男はつらいよ/寅次郎夕焼け小焼け』(1976年公開)を観た。シリーズ屈指の完成度を誇る作品とされている。マドンナは太地喜和子。ゲスト脇役は宇野重吉という布陣である。冒頭に寅さんが見る夢が毎度の楽しみだが、今回はなんと『ジョーズ』(1975年)のパロディ。お馴染みの登場人物が巨大鮫に次々と食われてゆく光景はかなり凄惨である。安っぽい映像がかえって生々しい雰囲気を醸し出す。瞬間、松竹製の傑作ホラー『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)を思い出したりした。遊びにしては少々どぎつい。まあ。観客はこれが夢だとわかって観ているのだから、何をやっても問題はないのだが。映画監督たる者、いつも似たような作品ばかり手掛けていては流石に厭きてくる。ストレスも蓄積するだろう。たまには毛色の違うものを撮りたい。案外この夢場面で山田洋次は日頃の鬱憤を晴らしているのかも知れない。

夢が覚めていよいよ本篇がスタートする。今日は寅さんの甥っ子の入学式である。とらやでは御馳走を用意して、さくらと満男の帰りを待っている。寅さんもささやかながら祝い金を包もうと考えている。そこへ浮かない顔のさくらが現れる。何事かと家族が尋ねると、さくらは「今日学校で皆に笑われちゃったわ」と言うのである。どういう経緯でさくらと満男は皆に笑われたのだろうか?担任の教師が満男の名前を呼んだ際に「ああ。君が寅さんの甥かあ」と付け加えたからだ。次の瞬間、生徒も父兄も大爆笑。何故「寅さんの甥」だと周囲に嘲笑(敢えてこの言葉を使おう)されるのか?理由は色々考えられるが、恐らくこれは寅さんが地域住民に「まともな人間」として看做されていないからである。俺も似たような経験がある。村にせよ町にせよ、共同体とはとかく「異物」を嫌う性格を持っている。普段、そのゾッとするような悪意は胸の奥に隠されているのだが、何かをキッカケにして表面化するのである。今回の起爆スイッチは担任の「君が寅さんの甥かあ」という台詞だったという訳である。人間の醜悪部分をグサリと抉った山田脚本が恐ろしい。

だが、山田の攻撃はこの程度では終わらない。次にその刺客たる宇野重吉が登場する。寅さんは宇野と上野の居酒屋で遭遇する。散々に呑み歩いた2人はベロベロの状態でとらやに雪崩れ込む。家族は「また寅が変な奴を連れて来たぞ!」とウンザリの様子である。夜が明けてもジイさんは帰らない。それにこの老人、極めて厚かましい。何様のつもりか知らないが、茶を淹れろだの風呂を沸かせだのと言いたい放題である。お人好しのとらやの面子も段々腹が立ってくる。ついには「あのジジイは乞食だ泥棒だ」と猛烈に毒づき始めるのである。ところが、老人の正体が世界的評価を得る日本画の大家だと判明した途端に態度が豹変するのである。まさに掌を返すが如く。ああ。庶民とはここまで権威に弱いものなのか。観ていて情けなくなってくるが、或いはあれは俺自身の姿かも知れんぞと思い更に情けなくなるのであった。これに追い討ちをかけるようにさくらがかなり異常な行動に出る。宇野先生の大邸宅を訪問して夫人に7万円を返却するのである。この7万円は宇野が画家らしい方法で調達したカネである。先生はこれを寅さんを介してとらやに渡したのだ。くれると言うのだから、素直に貰っておけばいいじゃないかと俺などは思うのだが、もしかするとこれは「別にカネ目当てでジイさんを世話した訳ではない」という意思表示なのであろうか。貧乏人だと思ってバカにするなという反発であろうか。それはそれで気高いような気もするが、何もさくらが手土産まで持って宇野邸に挨拶に行く必要は何処にもない。むしろ宇野陣営の方が頭を下げに来るべきあろう。迷惑を被ったのはとらやの方だからである。さくらが宇野邸にわざわざ出向いたのはやはり相手が日本画の偉い先生だったからではないのか。もし宇野が「乞食」や「泥棒」だったとしたら、果たしてさくらは同じ行動をとっただろうか。寅さんが前半で言っていた「外見(地位)や格好(立場)で人間を判断しちゃいけねえよ」という言葉が虚しく響く。映画を観ている間、そのようなひねくれた思考が俺の頭の中で絶えず渦巻き続けるのだった。

この後、寅さんと宇野先生を活用した小役人の卑屈さを徹底的に皮肉るエピソードも用意されており、山田の執念深さには驚くばかりである。単なる喜劇映画シリーズと油断していると、バッサリ斬り捨てられるのが『寅さん』の怖さなのだ。白状すると、その事を教えてくれたのは故・田山力哉の一文であった。彼の文章を読んで俺の「寅さん観」はガラリと変わってしまった。映画というものは視点次第で面白くもなればつまらなくもなる。それを認識した時の衝撃は未だに俺の中に残っており、映画に関する拙い文章を書かせる原動力にもなっている。田山評論がユニークなのは山田の才能を高く買いつつも、彼の中に潜む「作家の毒」をとことん追求している点である。いや、この「毒」こそが山田映画の本領なのだと断言すらしている。映画評論はこうあるべきだと思う。盲目的と言うか狂信的と言うか、ただ闇雲に褒め上げるだけの文章など面白くもおかしくもない。因みに田山は西アフリカで開催された日本映画際に『寅次郎夕焼け小焼け』を持参。現地の観客にもこの映画の面白さが理解されたのか、大好評を博したそうである。田山の巧みな解説もこれに貢献したのだと思う。田山力哉。山田洋次としては手強い批判者であるのと同時に最強の支援者でもあった。その死が今更ながら悔やまれる。

(2005/9/4)

『続・愛と誠』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『続・愛と誠』(1975年公開)を観た。梶原一騎&ながやす巧の人気劇画の実写化である。マンガ原作特有の荒唐無稽な描写や展開が続くが、得体の知れないエネルギーが横溢した映画でもある。気の弱い奴やお上品ぶった奴には向かない濃厚料理だ。どの登場人物も肉食動物めいた猛々しさを有しており、そのアクの強さが素晴らしい。それだけにヒロインの美しさ可憐さが際立つという訳だ。所謂放送禁止用語がポンポン飛び出す辺りも面白い。いや、面白がっちゃいかんか。この有様だとテレビ放映はまず無理だな。熱い思いを寄せる誠(南条弘二。因みに初代誠は西城秀樹である)を何処までも追いかける愛(早乙女愛。役名と芸名が一緒!)が実に健気である。だが、その行動力は常軌を逸した勢いだ。多分現代なら愛ちゃんはストーカー扱いされてしまうんだろうな。70年代だからこそ成立するヒロイン像と言えよう。大財閥のお嬢さんたる愛ちゃんは両親の制止を振り切って日本最悪の不良校である花園学園に転入する。何故ならそこに誠が通っているからである。幾ら好きな男がいると言っても中々ここまでは出来ないものである。母親に「あなたは気が違ってしまったの?」と号泣される愛ちゃん。教師から「君は気が狂っている!」と罵られる誠君。愛と誠。史上空前のキ××イカップルの誕生を予感させるが、愛ちゃんの猛烈アタックにも誠は動じない。これは究極の片思いなのか。ここまで惚れられたら男冥利に尽きるというものだが、今の彼は色恋沙汰よりも喧嘩沙汰の方に興味が向いているらしい。恐らく内心は愛ちゃんを憎からず感じている筈だが、硬派の一匹狼を気取る誠は自分の感情を表現する事が異常にヘタなのである。よせばいいのに誠は花園学園を牛耳るスケバングループ(!)に戦いを挑む。とりあえずグループの幹部であるガム子を血祭りに上げる誠だったが、この程度では飢えた野獣の欲求はとても収まらない。喧嘩喧嘩喧嘩。この男の頭にはその二文字しかない。何かにつけてグループに盾突く誠の姿勢はやがてこの学園の真の支配者を招き寄せる事になる。そいつは《影の大番長》と呼ばれている。この悪魔の逆鱗に触れた者にはおぞましい運命が訪れるという。正体不明の難敵。果たして影の大番長とは何者なのか?男なのか女なのか性別さえもわからない。孤立無援の愛と誠は苦闘を強いられる事になる。彼らの唯一の援軍と思われた体育教師(森次晃嗣)も大番長の前にあえなく敗退した。番長の得意武器はナイフである。複数のナイフを同時に投射する恐るべき技術者だ。勿論コントロールも抜群。しかも誰にもその姿を目撃されていないというのが凄い。大番長は時間を止める能力も兼備しているのに違いない。実際にナイフを命中させるのではなく、自分の腕前を標的にイヤと言うほど誇示するのが番長のやり方である。わざと外す。単純に殺すだけでは面白味に欠けるという事か。恐怖という見えない刃が標的を捉える。肉体ではなく心を壊す。お陰で森次先生は発狂。物語が終わっても精神病院から抜ける事は出来なかった。最初は全校生徒の前で「僕はスポーツを通して君達に近づきたい」などとカッコ良い台詞を吐いていたのだが。ウルトラセブンも敵わないのだから大番長は最強無敵だぜ!この痛烈キャラクターを「えっ」と思う人が演じているのが面白い。多×××美も若い頃はこんな役をやっていた(やらされていた?)んだね。映画の終盤、誠とスケバングループとの最終戦争が勃発する。しかし、愛ちゃんを人質に取られているので誠は手も足も出せないのだ。そんな誠にスケバングループ自慢のスペシャルランチ…ならぬスペシャルリンチが襲いかかる。まあ。スペシャルと言ってもバンドで滅多打ちにして、傷口に粗塩をすり込む程度の可愛いものだが、このリンチ場面が結構長いのである。拷問場面が余り好きじゃない俺としては辛い時間であった。そんな中、大番長の哀しい過去が明らかになる。それを聞いた誠は意外な反撃を放つのであった。尤も結果的に「反撃」になってしまっただけかも知れないが。それは番長の弱点を粉砕する絶大な威力を秘めていた。そう。意外にも抗争の決着は「拳」ではなく「言葉」でつけられるのである。まさに寸鉄人を刺す(?)である。強烈な悪役の存在(すぐに面が割れてしまうのが残念だが)に加えて、ツルゲーネフの『初恋』が重要な小道具として使われていたり、サイレント映画の手法が盛り込まれていたり、実験性も充分。ただのマンガ映画と侮れない魅力が随所に光る逸品であった。それにしてもこの人達は何をしに学校に行っているのかねえ。

(2005/8/21)

『戦艦大和』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『戦艦大和』(1953年公開)を観た。日本の軍事科学の最高傑作とも言える戦艦大和。極東の島国が作り上げてしまった(?)世界最強最大を誇る巨艦である。しかし戦争の主役が航空兵力に移行した時代にあってはそのセールスポイントも虚しく響く。大和が与えられた最後の任務は沖縄戦の援護活動である。かの地では民間人をも巻き込んだ熾烈な戦闘が繰り広げられている。その辺りは岡本喜八の『激動の昭和史/沖縄決戦』(1971年)が詳しい。大和の目標は敵輸送船団の撃滅にあるが、果たしてそこまで辿り着けるかどうかも怪しいものである。艦隊上空を守る空中部隊不在の状態で敵の領域に突っ込むというのはほぼ自殺行為に等しい。無論栄えある大本営は百も承知で今回の命令を出している。おまけに搭載燃料は片道分だけとはどういう訳か。何やら大層な御託が並べられているが、要するにこれは大和とその乗員に「死ね」と言っているという事である。このような無茶苦茶な発令をする大本営も狂っているが、それを受け入れる側もどうかしている。命令を出す方も受ける方も狂っているのだろうか?それとも戦争という名の魔物が彼らを狂わせているのであろうか。ここまでは酷くないものの俺自身似たような状況に身を置いた事がある。あの時の俺や俺の支配者の言動行動を省みると「完全に狂っていた」としか思えず、今更ながら寒気がする。人間という生物は本質的に狂っているのかも知れない。仮に「これはおかしい」と気づいていたとしても、結果として命令通りに動いたからには他者に「お前は狂っている」と言われても仕方がない。出撃前夜。艦内では戦意高揚を狙った酒宴が催される。その状況がかなり克明に描かれており、この映画の主眼は後半の特撮スペクタクルではなく、この宴会部分ではないかと思ったほどである。当然ながら宴は全然盛り上がらない。勝つ見込みのある戦いならまだ闘志の燃やしようもあるが、まるで廃棄物処理のような玉砕作戦を直前にして乗組員の士気は下がりまくり。死ぬのは怖くない。いや、本当は怖いけどお国の為なら喜んで死ねるさ。でも何か釈然としないな。何か「理由」が欲しい。俺が命を散らす決定的な理由が。幸運にもそれを見つけられた者もいればついに発見出来ずに終わる者もいる。何故に俺達は戦うのか?そして何故に死ぬのか?この大問題について乗組員の中で激論が交わされる。いつしかそれは喧嘩沙汰に及ぶ。解答の出ない議論。例え出たところでそれにどんな意味があるのだろうか。そのような人間達の事情や思惑とは無関係に時の神は確実に歯車を刻むのであった。余談になるが彼らの会話の中に《世界三大バカ》が登場したのは驚いた。大和が海の上に浮んでいる内にこの忌まわしい称号は巷間に出回っていたのである。それを当の大和クルーが口に出してしまうのだから情けない。帝国海軍の規律も威信もズタズタである。映画のクライマックス。洋上の移動要塞は空中海中の両面攻撃に晒されて哀れ戦闘不能に陥るのであった。瞬間、前半で語られていた大和が有する圧倒的火力の説明を思い出す。対戦相手が同じ戦艦なら大和は絶対に負けない。何処の国の艦であろうと必ず勝つ。それだけの破壊能力を大和は充分に備えている。だが、その桁外れの能力も飛行機や潜水艦が相手では振るいようがない。万策尽きた大和は多くの乗組員を抱えたままその巨体を海中へと沈めてゆく。大和沈没。それは大日本帝国が抱いた野心野望が完璧に潰えた事を告げる象徴的な光景であった。ラストシーンは水中に翻る海軍旗である。あれ?この場面は何処かで観たような気がするな。そうだ。黒澤明の『影武者』(1980年)のラストに酷似しているのだ。あの作品も武田の騎馬軍団という最強兵器が鉄砲という新兵器に敗れ去る物語だった。人類の歴史は武器発達の歴史でもある。強力な兵器が発明されれば、今度はそれを上回る兵器を開発しようとする。一体殺しの連鎖はいつまで続くのか。人類自体を滅ぼしかねない段階に到達してもそれは止まらない。多分「その日」が来るまで止まらないんだろうな。否、止められないと言うべきか。どうやらそれが人類のサガらしいから…。傷だらけの船体を海底に横たえる戦艦大和。対異星人の決戦兵器として《彼》が駆り出されるまでにはまだまだ時間がかかる。

(2005/8/18)

『大日本帝国』

その時。俺は阿佐ヶ谷のクロンボ(凄い名前だ…)というレストランにいた。値段設定が80年代後半ぐらいで止まっているのが嬉しい。アナクロ人間の俺には相応しい店とも言える。ハンバーグ定食500円。少し早い夕食であった。これから『大日本定…じゃなくて『大日本帝国』『俗物図鑑』というアクの強い映画2本を連続でやっつける予定であった。映画を観るという行為も結構体力が要る。空腹の方が集中力が高くなるという説もあるが、映画が終わるのが午後10時半。それから全速力で家に戻るので、当然飯を食う時間などない。今の内に腹ごしらえをしておく方が得策と言うものだ。鉄板の上に盛られたハンバーグに齧りつこうとしたその瞬間、イヤーな感触が俺の全身を貫いた。またアレか。その直後、ごごごごごごご。ぐらぐらぐらっ。震度5弱の地震が関東一帯を襲った。店内は騒然となるかに思われたが、周囲の客は落ち着いたものであった。中には全く興味がないのか、地震発生前の姿勢を崩さずに悠然と飯を食べ、悠々とスポーツ新聞を読んでいる客もいた。多分この人は地球が宇宙から消滅する寸前まで飯を食い続けるであろう。全体的に東京の人は「地震慣れ」しているようだ。俺は地震が大の苦手である。パニック映画が好きな割には、いざ自分がその立場に置かれるとあたふたしてしまう。話がオカルト的になって恐縮だが、いつの頃からか大きな地震が来る前に「無気味な気配」を感じるようになった。それは地中に潜む巨獣の唸り声を連想させる。この「気配」を感じると、ほぼ間違いなく地震が起きるのだ。キッカケはかの阪神大震災。あの時体験した「死ぬ!」という絶大な恐怖が俺の中に隠されていた能力を引き出したのであろうか。霊感だの超能力だのには全然縁のない俺なのに。但し「地震を察知する能力」と言っても数秒前なので実際は何の役にも立たない。むしろ無い方がマシな能力である。後日、職場でこの話をしたら、僕も私もと「例の気配」を事前に感じる人が多かった。別に特殊な感覚ではないようだ。恐らく科学的にも実証可能なんじゃないかな。勘定を済ませた俺は駅ビルを出ると、ラピュタ阿佐ヶ谷を目指してノロノロと歩き始めた。途中JR阿佐ヶ谷駅の切符売場を覗いてみたら、構内は一寸した恐慌状態を示していた。新宿方面の電車も三鷹方面の電車も両方ストップしているらしい。突然の非常事態にオロオロしている人も何人かいる。いよいよ『日本沈没』になってきたぞ。俺も家に帰った方が良いかな?と一瞬考えたが、どうせ電車が動かないのだから移動しようがない。ジタバタしても無駄なようだ。結局俺は目論み通り映画を観る事にした。チケットももう買ってあるし。ラピュタが上映不能状態に陥っているとしたら話は別だが、その心配はないようであった。だが今後何が起きるかわからない。食糧だけは調達しておくか。俺はラピュタに向う前に馴染みのパン屋に寄る事にした。

さて『大日本帝国』(1982年公開)について語ろう。この映画、仰々しいタイトルが一部の人の反発を招き、公開当時は猛烈な上映禁止運動が展開されたそうである。幸いこの日はそのような騒ぎが勃発する事はなかった。内心はちょっぴり期待(?)していたのだが、連中も(誰なんだ?連中って)それほど暇ではなかったようである。映画は無難な仕上がりであった。映像面の脆弱さが気になるものの、戦争を賛美したり美化したりする類の作品ではなかったのでその点は評価したい。脚本は『仁義なき戦い』シリーズで有名な笠原和夫。監督は舛田利雄。主演は丹波哲郎。舛田&丹波と来れば『ノストラダムスの大予言』の名コンビである。この二人、きっと相性が良いのだろう。何度も一緒に仕事をしている。何故かキワモノ的作品が多いのも面白い。舛田は日本最強の演説俳優の個性を引き出す事に長けている。丹波先生が思い切り絶叫出来る環境を作るのが巧いのだ。職人監督の面目躍如と言ったところか。そんな丹波先生が東條英機を演じている。この物語における東條は堂々たる風格を持つサムライとして描かれている。多少狂っている部分もあるが、忠誠心に厚く、与えられた職務に命懸けで取り組んでいる。家庭人としても立派な男であり、妻子を気遣う優しさも備えている。俺の脳内にある東條像とはかなりの隔たりがあるが、これはこれで良いかなとも思う。折角丹波先生を起用しているのだからもっとハメを外して欲しいなと思ったくらいである。東條英機にせよ坂本竜馬にせよ宮本武蔵にせよ織田信長にせよ、我々は歴史上の人物に対するイメージを勝手に作り上げている。それは想像以上に強固なものである。その為かイメージからズレた途端に怒り出したり「事(史)実と違う」と喚き出す者が結構多い。各人のこだわりはわかるけど、もう少し柔軟に対応出来ないのかなと思う。まあ。人物鑑定ほど難しいものはないね。同じ人でも少し視点を変えるだけで大英雄が極悪人になったり、その逆になったりするからだ。権力側の象徴的キャラクターが丹波先生なら、民衆側の代表選手は三浦友和、篠田三郎、あおい輝彦、西郷輝彦の四人であろう。各々が独自の生き方、死に方を見せてくれる。国家や戦争という巨大なパワーに翻弄されつつも、何とか正気を保ち、精一杯自分らしく生きようとする。常に「死」に晒されているからこそ強烈な「生」を生きられるのだろうか。中には大日本帝国の魔力に完全コントロールされている者もいる。西郷扮する血気盛んなヒコーキ乗りである。この男、イイ奴なのか悪い奴なのか容易に判断させてくれない。一寸サイコパス風ですらある。その二重人格的な性格に寒気を覚える。白旗を掲げた敵兵を機銃掃射で皆殺しにするかと思えば、時々「呪縛」が解けるのか、自らの命を捨ててでも大嫌いな上官(篠田)を助けようとしたりする。人間とはかくもフクザツな生き物なのだ。

続いて筒井康隆原作&内藤誠監督の『俗物図鑑』(1982年公開)を観た。一癖も二癖もある異色評論家達が集結。彼らは「現代の梁山泊」を名乗り、世の良識や権威と徹底抗戦を繰り広げる。次第に発言力、影響力を高めてゆく梁山泊プロダクション。時の権力は彼らの活躍を許さず、ついには軍隊を動かして梁山泊殲滅作戦を決行するのであった…。原作を読んだのは高校生の頃かな?当時の俺は奇想天外、奇々怪々の筒井ワールドにどっぷりハマっていたものである。映画は原作の持つ奔放なイメージを何とか映像化しようと四苦八苦している。その挑戦精神は買いたいのだが、筒井作品の有する混沌のエネルギーは凄まじく、原作のアクの強さに映画が「負けて」しまっている場面がかなりあった。異常なヴァイタリティを発揮する筒井キャラクターを現実の人間が演じるとどうしてもマンガ的と言うか、寒々しい印象を受けてしまうのだ。これは筒井原作映画の宿命なのか。この作品ではプロの俳優ではなく、素人俳優を多く起用している。この素人軍団の顔触れが凄い。観てもらうとわかるが「あっ」と驚く豪華メンバーである。これだけの面子を揃えた監督の人脈に驚かされる。映画の出来とは別の部分で感心する。棒読み演技の共演が独特の面白さを醸し出している。最初は素人芸の連続に辟易していたが、いざ慣れてくるとこれがクセになるのである。この程度なら俺でも出来るんじゃないか?という奇妙な親近感さえ覚える。自殺評論家に扮した大林宣彦の悪乗り演技に厭きれるやら爆笑するやら。これは筒井作品に真面目に取り組んでもどうせ失敗するのだから、自分達のやりたいように馬鹿馬鹿しくやってやろうぜという苦肉の策なのかも知れない。俺達が楽しければそれでいいじゃねえか。開き直りにも似た作品の空気に好感と反感を交互に感じつつ、とうとう最後まで観てしまった。

上映終了後、内藤監督本人が登場。即席のトークショーが催された。満席の観客を前にしてしきりに照れる監督。頭をかきながら「バカな映画を作ってすみません」と監督が言うと、場内は笑いと拍手に包まれた。そうか。映画は色んな映画があっていいんだなと思った。映画技巧の粋を尽くした作品もあれば、予算も人材も時間も何もないけれど熱意だけで強引に作った映画もある。どちらが高級でどちらが低級かなんて俺などが賢しらに決めつける資格があるのかなと思った。どんな映画であろうとその作品特有の旨味を吸収する貪欲な胃袋が俺は欲しい。俺はまだ愚かな偏見から逃れられずにいるのだ。駄目だねえ。ショーが終わり、会場を出て階段をタラタラっと降りると、ロビーの玄関付近に内藤監督が立っていた。一瞬目が合った。俺は軽く頭を下げて「映画、面白かったですよ」と言った。監督は照れ笑いを浮かべながら手を振ってくれた。人懐っこい良い笑顔だった。それから俺は阿佐ヶ谷駅に向って走った。復旧作業は完了したらしく、既にJRは動き始めていた。俺は慌てて切符を購入するとまた走った。ホームに滑り込んできた電車に飛び込む。はあはあ。走りっぱなしで汗びっしょり。暑い暑い。おもむろにドアが閉まり電車が動き出した。車窓越しに街の夜景をボンヤリ眺めていた俺の脳裏にスポーツ紙に載っていた星占い(読まなきゃいいのに読んでしまったのだ)が浮んできた。曰く「今日から波乱万丈の日々がスタートします」だってさ。もういいよ波乱万丈は。波乱も酒乱も×乱もここ数年で食い飽きたぜ。吉良先輩の提唱する「穏やかで静かな植物のような生活」が俺の理想なのだ。わはははは。この後、俺の身に何が起きるのかは知らないし、また知りたくもないが、カネと時間が許す限り映画に迫りたいと考えている。果たして映画という怪物の全貌を捉える日が俺に訪れるだろうか?そしてかの大物を仕留める日は来るのだろうか?この勝負、相当分が悪い気もするが今後も懲りずに続けてゆく心算である。映画大陸を流離う旅はまだ終わらない。

(2005/7/31)

『太平洋奇跡の作戦 キスカ』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『太平洋奇跡の作戦 キスカ』(1965年公開)を観た。この映画、以前から気になっていたのだが今回ようやく捉える事が出来た。ラピュタ、ありがとう。昨年の夏、お台場で樋口真嗣が大好きな秀作特撮映画3本を一挙上映するイベントがあった。ローレライ樋口が選んだのは『キスカ』と『新幹線大爆破』『日本沈没』の3本であった。その際に全部観てしまえば良かったのだが、ややこしい事情が重なり『キスカ』を断念せざるを得なかったのだ。釣り逃した魚は大きいと言うが、暫くその事でクヨクヨしていたものである。そんな訳でラピュタの上映スケジュールの中に『キスカ』を発見した時は嬉しかったねえ。釣り逃した大魚が俺の網に再び飛び込んできたのだから。映画というのはどんなカルト作品でも「観たい観たい」と思っているといつか巡り会えるのではないか。時折そんな妄想が過ぎる。これは絶対に無理だろうと考えていた『ノストラダムスの大予言』でさえそうであった。まず「観たい」と思う事が獲物に近づく第一歩なのである。予想外の方向から突然獲物が現れる場合も結構ある。何事も簡単に諦めちゃ駄目ですね。執念深くじっと待ち続ける事も大切です。まあ。図太くしぶとく生き残っていれば何とかなるさ。

さて『キスカ』である。奥崎謙三が上官をぶん殴っていた太平洋戦争後期。各地に派遣された日本軍は撤退敗退全滅を余儀なくされていた。敵側の圧倒的戦力の前に無惨に砕け散る日本軍。死屍累々。異国の地に屍の山が築かれる。まさに地獄の光景である。物語の舞台は北太平洋に浮ぶキスカ島。この海域の要衝たるアッツ島も既に敵の勢力下にある。周り中敵だらけ。連日の空爆と艦砲射撃。四面楚歌とはこの事か。食糧弾薬の補給すらままならない。孤立無援のキスカ守備隊はいつ壊滅してもおかしくない状況である。驚くべき事に守備隊のメンバーは至って冷静であった。全員が玉砕の覚悟を固めているのだ。上の連中もまさか俺達を助けようとは思っていないだろう。一人でも多くの米兵を道連れにして見事死んでやるさ。はっはっはっ。だが…キスカを救え。それが大本営海軍部が下した結論であった。アッツに続いてキスカも見殺しにしたら我々の面子は丸潰れだ。士気は落ちに落ち、後世の人間にバカにされるのは避けられない。結局、大本営はあらゆる意味で「丸潰れ」になるんだけど、その話はまたにしましょう。至急、救出艦隊の編制が進められる。そして、極めて難易度の高いこの作戦の指揮官に抜擢されたのが、海軍部の重鎮たる山村(聡)中将の同級生である三船(敏郎)少将だった。国内最強のサムライが敵中にとり残された友軍5200名の救出に挑戦する。それにしても三船の落ち着き振りはどうであろうか。本当に日本一頼りになる男に見える。今回の任務は気の弱い奴にはまず務まらない。少しでも判断を誤れば、守備隊を助けるどころか、救出艦隊自体が消滅しかねない命ギリギリの計画なのである。しかし三船の表情は変わらない。無闇に怒鳴り散らす事もない。次々に襲いかかる危機や窮地をひらりひらりと鮮やかに回避してゆく。まるで将棋やチェスの名人のように。その度胸と決断力は見事と言う他はない。因みに山本と三船が将棋盤を囲む場面もあるので注目である。三船少将はこれまでに目立った戦績がないので(不思議だ…)一部下士官どもには若干ナメられ気味だが、真の大男児は噂や中傷には動じないものである。要するにこのオヤジは「やるときゃやるぜタイプ」なのだ。最初は三船少将を軽視していた者も彼の肝の太さに感嘆し、徐々に尊敬の念を強めてゆく。

この作品がユニークなのは戦争映画特有の陰惨ムードが希薄で、むしろ娯楽活劇として成立してしまっている点であろう。小難しい理屈は抜きにしてとにかく面白いのである。流石に鬼才樋口が薦める映画だけの事はある。とは言え、片足を失った兵隊(黒部進)が「皆の足手纏いにならないように」自爆して果てるという凄惨な描写もあるにはあるのだが。普通戦争映画で描かれる作戦行動と言えば「相手を殺す」ものがほとんどだが、この映画の場合は「味方を救う」というある意味異色の内容である。この辺りに従来の戦争映画には見られない新鮮味を感じるし『キスカ』の面白さや醍醐味は『ローレライ』にも受け継がれているように思う。嬉しい事に『キスカ』にも潜水艦の活躍場面が用意されており、この物語の中で重要な役割を担っている。そうだ。来月中盤に『ローレライ』がDVD化されるので『キスカ』と一緒に借りてみるのもオツであろう。三船少将率いる救出艦隊は太平洋名物の濃霧を利用してキスカに接近しようとする。と言うより、このミルクのような天然煙幕が彼ら唯一の武器なのである。何しろここは米軍の版図。発見された途端に敵の飛行部隊や迎撃艦隊がウジャウジャ駆けつけるであろう。気づかれたらオシマイなのだ。使ったのと同時に傍受されてしまうので無電無線の類は一切使用出来ないという有様。大変だぜ、この将棋は。忍者艦隊はゆっくりと、しかし確実にキスカを目指す。出演陣の好演に加えて円谷英二の特撮も絶好調。方向を見失った駆逐艦が僚艦に接触する場面は迫力満点であり、敵レーダーをかわす為に救出艦隊が岸壁スレスレを航行する場面には手に汗握る。文字通り息詰まるような綿密描写が続く。派手な艦隊戦を期待していた向きには不満かも知れないが、画面に漲る緊迫感はタダゴトではない。我慢に我慢を重ねた末についにキスカ着島を果たした救出艦隊。奇跡が舞い降りた瞬間である。怒涛のカタルシスが観る者を貫く。うおーっ。地鳴りのような守備隊の歓声が沸き起こる。天皇陛下万歳。大日本帝国万歳。カッコ良く死ぬのもいいけれど、人はやはり生きていたいものなのだ。惨めであろうと無様であろうと生きていたい。それが人間だ。そうでなければこのような歓喜が生じる訳がない。生きたい。人間が持つ最も原初的な願望が迸る素晴らしいクライマックスだった。映画のラスト「米軍がキスカ島に上陸した時、守備隊全員は姿を消しており、犬2匹を残すのみであった」という痛快な一文が入る。確かに痛快ではあるが、この後の日本は更なる地獄を経験する事になる。それを思うと能天気に喜んでばかりもいられない。キスカだけではなく他の戦場でも「ぱっ」と消えられれば良かったのだが。実際は玉砕に次ぐ玉砕である。帝都は焼け野原。沖縄の海は血の色に染まり、広島と長崎には恐怖の新型爆弾が投下された。キスカの成功は例外中の例外と言えるだろう。看板に偽りなし。まさに「奇跡の作戦」であった。

(2005/7/24)

『四谷怪談』

先日。京橋のフィルムセンターで『四谷怪談』(1965年公開)を観た。監督は文芸映画を得意とする豊田四郎。根っからの犯罪者たる民谷伊右衛門に仲代達矢。化けたら怖いお岩さんは岡田茉莉子という布陣である。暑苦しい夜は怪談に限る。恐怖は暑さを一時的に忘れさせてくれる。先人の知恵である。クーラーなんて便利な機械がない時代、怖い話を演じたり聞いたりする事は手軽な消夏方法のひとつだったのだろう。日本人のホラー好きは昨日今日に始まったものではない。それなりの伝統があるのだ。今や日本のホラー映画はハリウッドの一画に切り込んでいる。かの黒澤天皇さえ挫折したハリウッド進出を国産ホラーは果たしたのだ。このブームは長続きするのか、それとも短期間で霧散してしまうのか。最早「何をやっていいのかわからない状態」に陥っているハリウッド。そんな中で日本の才能が気を吐いているのは愉快な光景である。これからも存分に暴れてもらいたい。そして『四谷怪談』こそ和製ホラーの原点。自分をハメた伊右衛門を徹底的に追撃するお岩さん。その執念と持続力は恐ろしいとしか言いようがない。彼女の遺伝子は我らが悪霊スター貞子にも受け継がれている。

映画は伊右衛門が愛刀を売るか売らないかで迷っている場面から始まる。藩が消滅して路頭に放り出された伊右衛門。いつの時代もリストラされたサラリーマンには悲惨な境遇が待っている。傘張りのアルバイトで糊口を凌いではいるものの、それにも限界がある。再就職のメドも立たず、伊右衛門のイライラは日増しに募ってゆく。結局、伊右衛門は刀の売却を中止する。幾ら困窮しても武士の魂を売り渡す事は出来ない。勿論そんな殊勝な考えが陰湿な野心家であるこの男が抱く筈もない。男はこの道具を効果的に使うことにしたのだ。刀の効果と言えば殺人に他ならない。これは殺しの道具だ。その日から男はブスブスと人を殺しまくるようになる。何も殺すことはないだろうと思われる者も容赦なく殺す。確実に殺す。殺人そのものを楽しんでいるようにも見える。生来の殺人鬼とでも言うべきか。全盛期のアラン・ドロンにこの役を演じさせてみたら面白いだろうなという妄想がチラリと脳裏を掠めた。思えばこの男、お岩さんに祟られる前から「何か」にとり憑かれていたのかも知れない。アラン・ドロンも良いが仲代伊右衛門も悪くない。まだ若い仲代が血塗られた運命を熱演している。冷徹な表情で悪逆非道を繰り返す。日本刀の扱いも巧みである。哀れな標的を一刀両断に斬り捨てる。ただ仲代伊右衛門だと「強過ぎる」「堂々とし過ぎている」印象を受けないでもない。優秀な殺人者ではあるが、この男は弱者しか殺せない。もう少しビクビクしている方がキャラクターの厚味が増したような気もする。伊右衛門の悪友である直助を中村勘三郎(先代)が演じているが、これが痛快である。達人の威力は歌舞伎から映画に変わっても健在だ。闊達な演技で大いに笑わせてくれる。まさか『四谷怪談』を観て爆笑するとは考えていなかったが、恐怖と笑いの配合が適切なので物語世界が壊れる事はない。むしろ異なる要素が共鳴し合って独特の雰囲気を醸し出している。娯楽映画として見事な出来映え。

出世に狂った伊右衛門はお岩さんに猛毒を飲ませる。物語最大の山場である。日本家屋の特徴を生かした演出が試みられており、見応え充分である。毒の作用によって「顔が崩れて」しまったお岩さん。だがその「顔」が画面に登場するまでかなり時間がかかる。これが良い。毒を飲まされたお岩さんがどうなってしまったのか?観客の想像をジワジワと煽る仕掛けである。障子越しに現れるお岩さんの無気味なシルエット。妻の「顔」を目の当たりにして腰を抜かす伊右衛門。薄暗い長屋のセットで陰惨な芝居が延々と続く。お岩さんの「顔」の初登場の瞬間も凝っている。鏡である。畳の上に転がった鏡にお岩さんの「顔」が映り込むのだ。観客もそしてお岩さん自身も「崩れた顔」を見るのはこれが初めてである。お岩さんの受けた衝撃を俺達にも味わせてやろうという憎い趣向である。特殊メイク自体は大した事はないけどやっぱり怖い。鏡はホラー映画には欠かせないアイテムだが、こういう使い方があったとは。いやいや参りました。幾度かの小競り合いを経て、伊右衛門とお岩さんは決戦の時を迎える。この期に及んで「仕官仕官」と己の野望を剥き出しにする伊右衛門。それを見詰めるお岩さんの表情は途轍もなく哀しそうであった。怨念ではなく憐憫の情が篭った眼差し。少なくとも俺にはそう見えた。もし伊右衛門が「許してくれ。勘弁してくれ」と懇願すれば、或いはお岩さんもそれを受け入れてくれたのではないか。だが、伊右衛門に反省の弁は全くなかった。白刃が煌く。ずばっ。ぐえっ。お岩さんの魔力が発動し、伊右衛門の刀が最後の活躍を示すのであった…。

その数日後、俺は新宿区左門町の於岩稲荷にいた。職場から意外に近い場所にあるので、散歩がてら足を伸ばしてみたのだ。古今東西、ホラー映画には奇妙な因縁話がつきまとうものだが『四谷怪談』も然り。この作品に出演する役者は事前に於岩稲荷を参拝しないと撮影中や上演中にトラブルに見舞われるとか。この噂について少し調べてみたが、どうやら根拠希薄の都市伝説の類であるらしい事が判明した。実際に訪れてみると、コンパクトな境内はのどかな感じで、おどろおどろしい前評判とは無縁の世界であった。それはそれとして、このようなミステリーゾーンがデジタルシティの真ん中に今も存在しているというのは面白い現象である。何やら食欲をそそられるなあ。因みにお岩さんの墓は巣鴨の妙行寺にあるそうである。高名なるあおしょうの社巡りに対抗して、俺は都内心霊スポットでも廻ってみるかっ(嘘)。

(2005/7/21)

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