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映画の渡り鳥8

『宇宙戦争』

先日。新宿の映画館で『宇宙戦争』を観た。侵略SF史上に燦然と煌く大ウェルズの名作をスピルバーグが映像化。原作小説には猛烈な愛着があるだけに『ジュラシック・パーク』みたいなヌルい映画だったら承知しねえぞ!と俺は一人で息巻いていた。だが、実際は見事な出来映えであり、スピルバーグの底力を思い知らされる結果となった。彼の最高傑作は『ジョーズ』という長年に亘る俺の偏見もグラついてきた。やはり自分の眼で確かめない事には映画の真贋はわからない。事前情報や固定観念はかえって評価や判断を曇らせる作用があるようだ。物語の舞台は現代に置き換えられているものの、原作の持つアクの強さが適所で活用されており、思わずニヤリとさせられる。ただ×の××まで同じというのは余りにも芸がない。手抜きとまでは言わないが、この点に関してはもう一工夫欲しかった。主人公のトム・クルーズは紛れもない庶民である。誇り高きサムライでもなければ、空軍のエースパイロットでも腕利きの諜報部員でもなく、ましてや吸血鬼でもない。スーパーヒーローの対極に位置する人物であり、どちらかと言えば負け組側に属している。そんなダメ男が空前絶後の大災厄に遭遇する。異星人の襲来である。謎の生命体による世界一斉攻撃。かの予言書に刻まれていた(らしい)恐怖の大王とはこいつらの事だったんだな。大王様、約6年遅れの御降臨である。破滅と国税局は唐突にやって来る。映画の最初と最後にナレーションが挿入されるものの、物語は原則としてトム・クルーズの視点で進行する。だからエラい人はほとんど顔を出さない。地球防衛軍や対エイリアン特別部隊などはお呼びじゃないのだ。天災にせよ戦争にせよテロにせよ、一般市民に出来る事は本当に限られている。強大な暴力に対して我々はただ逃げ惑うしか術がない。緊急時における無力さ無能さが執拗に描かれる。トム・クルーズの右往左往振りを笑ったり、エゴイスティックな行動を批判したりする資格が我々にあるのかどうか。あれは俺達の姿である。こういう状況に置かれてしまうと正気を保つ事さえ難しい。人とは何と儚く弱い存在なのか。だが、弱者である我々も一寸したキッカケで最強の勇者になる場合もある。息子(ジャスティン・チャットウィン)と愛娘(ダコタ・ファニング)の生命を守る為、お父さんは奔走する。別れた妻との間に儲けた子供とは言え、彼らは俺の餓鬼だ。俺が守らなくて誰がこの子達を守るんだ?次々と襲いかかる危機を回避している内に、冴えなかったトム・クルーズの表情が段々精悍になってくるから面白い。守るべき存在を持つ者はここまで強くなれるのか。これは俺のような一匹狼(鼬?)には発現不可能な種類の強さである。ただ後半のアレは少々やり過ぎではないだろうか。あなたはどう思いますか?

トライポッド。劇中では侵略者の操る戦闘機械をそう呼んでいる。クラゲを連想させる外見。その漆黒のボディには様々な悪魔的機能が内蔵されている。無造作に放たれる怪光線はあらゆる物体を瞬時に崩壊させる。射程距離も命中精度も相当なものであり、勿論人間がこれを浴びたらひとたまりもない。文字通り消し飛んでしまう。この瞬間、人類は殺虫剤に追いかけ回されるゴキブリやシロアリの気分を味わう事になる。尤も奴らに言わせれば、我々人類こそ地球という豊穣なる果実にとりつく害虫なのかも知れないが。抜群の攻撃能力に加えて守備面も大充実。トライポッドの周辺は強固な防御スクリーンが展開している。少なくとも通常の武器では刃が立たない。こちらの攻撃が本体に着弾する前に爆発してしまうのだからどうにもならない。更にこのくそいまいましい高性能マシンは機動力にも優れている。流石に空は飛べないようだが、海中だろうが陸上だろうが円滑に移動可能。水陸両用の特性を使って人類を徹底的に追い詰める。伸縮自在の触手は迅速且つ正確に「獲物」を捕らえる。まさに万能兵器。究極の戦闘機械と言えよう。よくやった。これを作った奴は天才だ。お前は凄い。誉めてやるさ。でも清潔安全なお家でヌクヌク暮らしていては戦争には勝てないぜ。かのトライポッドは人類発祥以前から地球の各地に埋め込まれていたらしい。まるで横山光輝の『マーズ』に登場する六神体シリーズのような設定である。だが、こんなデカブツが何百何千と地中に埋められていたら、いくらなんでも一体ぐらいは発見されたり掘り出されたりするんじゃねえか?俺の中にふと生じた愚かな疑問。その解答はとうとう得られなかった。トム・クルーズの住む街にもトライポッドが配備されていた。スピルバーグはこのモンスターマシンが起動する過程を緻密に描写している。日常から魔界へと観客を引き摺り込む為には絶対に必要な作業であった。ばりばりばり。どどどどどど。がががががが。道路に無数の地割れが走り、頑丈なビルがまるで玩具のように砕け散る。轟音と粉塵を撒き散らしつつ禍々しい全身を地上に現わすトライポッド。この化物が有する「負の魅力」がそのまま映画の魅力に繋がっている。これら一連の場面は世界最高の映画技術で構築されている。正直参った。映画本来の目的が「誰も観た事がない映像を作る事」だとしたら、スピルバーグはそれを忠実に履行しているという訳だ。これでもかと連打される戦慄のスペクタクル映像。こういう映画を撮らせたらまさに天下一品。悔しいけどかなわねえ。

映画の後半、トライポッドの「中身」が映し出される。それは地獄巡りの最終章に相応しい眺めであった。吐き気を催すおぞましい光景に愕然となる。この状態は発狂しない方がむしろおかしい。省略する手もあったと思うが、敢えて具現化したスピルバーグの英断を称えたい。餓鬼が観たらトラウマになるぜ。ここで約束。パパもママも必ずお子さんを伴って劇場に足を運んで下さい。これだけではなく、映画の随所に観る者の度肝を抜く強烈場面が用意されている。トイレに行きたくなったダコタ・ファニングが川面を埋め尽くす大量の死体を目撃するわ、トム・クルーズの運転する車に狂気の群集が突っ込んでくるわ、火ダルマになった列車がキ××イじみたスピードで避難民の眼前を通過するわ、トライポッドの襲撃を受けた車数台が人を乗せたままの状態で水中に放り込まれるわ(出た!伝統のアオリ映像!)と今回のスピルバーグは結構凶暴である。久し振りに『ジョーズ』級の恐怖と興奮を堪能させてもらった。クライマックスの反撃場面に血沸き肉踊る。とにかく侵略者どものなすがまま。侵攻開始以降、蹂躙され、殺戮され、捕獲され、全くいいところのなかった人類がついに逆襲に転じる。このカタルシスは絶大である。ここまで延々と重ねられてきた屈辱の蓄積が一瞬にして吹き飛ぶ爽快感。これぞ娯楽活劇の醍醐味だ。ほんの少しだけトライポッドの操縦者も画面に登場する。従来の火星人のイメージとはかけ離れたデザインであり、違和感を覚える向きもあるだろう。まあ。奴らが「何処」からやってきたかは明言が避けられているので、タコ型エイリアンにこだわる理由はないのだが。個人的には「E.T.そっくり」の宇宙人が出てくるのではないかと期待していたのだけど、完全に裏切られましたね。でもそれだと悪趣味なギャグになっちゃうか。大阪では何体かやったらしい。という嬉しい台詞(ただ、その後にイヤな台詞が続くのがちょっぴり気になる)がある。無敵の戦闘機械トライポッドをぶっ潰した剛の者が日本にいた事を素直に喜びたい。確かに我が国には妖怪退治の名手やロボットキラーの専門家が豊富に揃っている。これはその辺りを踏まえての冗談のようである。何故場所が大阪なのかと言うと、やはりあの大型遊園地が関係しているのかな。年内に『宇宙戦争』を題材にしたアトラクションが建築されたりするのだろうか。この台詞はその遠回しな予告だったりして。かの映画王ならその程度の芸当は充分可能であろう。さて全人類共通の敵を倒したのは一体誰なのか…修学旅行中の不動明か、通天閣の下でタコ焼きを食べていた本郷猛か、それとも関西出張中のネルフか、栄えあるメーサー殺獣砲車部隊か、或いは国際警察機構所属の「あの九人」か…そんな楽しい空想妄想を膨らませる機会を与えてくれたスピルバーグに感謝。

(2005/7/9)

『斬る』

先日。池袋の新文芸坐で『斬る』(1968年公開)を観た。宮村さん。上映が始まる数分前、俺の名前を呼ぶ声を聞いた。えっ。誰かな?と思い振り向くと、昨年、ひょんな事で知り合ったA氏であった。詳しい説明は省くが氏の日本映画に関する造詣は桁外れであり、俺は密かに尊敬している。黒澤映画についての知識や情報もとても俺が及ぶものではない。誠実な性格と言い、年齢不詳の風貌と言い他人を引き寄せる不思議な魅力を備えている。人望があるというのはこういう人を指して言うのだろう。今夜のように正体不明の田舎者に対しても気さくに話しかけて下さる。A氏との会話は非常に興味深く、示唆に富んでいる。白状すると俺は映画ファン、映画マニアという種族に対して浅からぬ不信感を抱いている。原因は数年前に出席した某映画同好会の酒宴である。自分の埋蔵する知識を賢しらに見せびらかす事に異常な執着を持つ連中がそこにはウヨウヨしていた。連中との対話は不愉快の極みであり、最後には気持が悪くなってきた。あれほど不味い酒というのも驚異的である。最強の反面教師。ああ。俺もこいつらみたいになったらオシマイだなと真剣に思った。それだけにA氏のような健全な方との交流はその際に受けたキズを癒す最適の治療法でもあるのだ。ホームページ、時々見てますよ。というA氏の言葉にひたすら恐縮する。氏のようなエキスパートに閲覧して貰える事は光栄の限りだが、同時に途轍もない恥かしさも覚えるのだった。

開始を告げるチャイムが鳴り『斬る』が始まる。岡本喜八得意の娯楽時代劇。因みに三隅研次&市川雷蔵の同名映画(1962年)とは全くの別物である。原作は山本周五郎の『砦山の十七日』である。喜八さんはこれに強烈なオリジナルキャラクター二人を加えて(これもA氏に教えてもらった)映画独自の面白さを出そうと苦心している。武家社会がアホらしくなってヤクザになった男(仲代達矢)と百姓稼業に嫌気が差して侍になる事を決意した男(高橋悦史)がある藩のお家騒動に巻き込まれるという物語である。いや、自ら巻き込まれたと言い直すべきかな。抱える思惑や動機はかなり異なっているが。何処となく『椿三十郎』(1962年)を彷彿とさせる内容ではある。しかし、仲代も高橋も三船浪人のような無敵の英雄ではない。反骨精神は旺盛だが、多分に人間臭いキャラクターであり、そういう意味では我々に近い人物と言えるだろう。ヒーロー然としていないヒーローというのが面白い。感情移入もし易く、自然と親近感も湧いてくる。岡本映画における仲代のフワフワとした味わいが好きである。仲代と言えば「冷静沈着」が服を着て歩いているような印象が強いが、飄逸なキャラクターも結構似合うのである。今まで収集した情報を総合すると、仲代本人もこんな感じの人ではないかなと思う。岡本映画という舞台で演じる仲代は通常よりも楽しそうに見えるのは俺だけであろうか。喜八さんの代表作のひとつに数えられる『殺人狂時代』(1967年)も出色である。飄々仲代の活躍が堪能出来る殺し屋映画の秀作だ。とにかく喜八さんは役者の個性を引き出す事に長けた演出家である。菊千代的キャラを豪快に演じる高橋も悪くないし、神山繁(最大の悪役)岸田森(虚無的剣士)東野英治郎(食えないジイさん)も面白い。各々にキチンと見せ場が用意してある。良い役を貰った俳優の輝きは本当に素晴らしい。演じ甲斐もあるし、第一ツマラネエ役ではいくら名優であろうと実力を発揮しようがない。俳優とは良いホンがあってこその俳優なのだ。仲代と神山の決戦場面がややもたついたのは残念だが、それ以外は特に不満はない。全篇を貫く軽快なテンポも喜八さんならでは。誰もが楽しめる娯楽活劇に仕上がっている。クロサワ級の土砂降りが叩きつけるラストシーンも良い。大変な雨量だが画面の雰囲気は妙に爽やかである。今回の騒ぎで夥しい血が大地を赤く染めた。この豪雨はそれを洗い流す浄化の雨であろうか。

一週間後。俺は同じ映画館で『ブルークリスマス』(1978年)を楽しみ、その翌日に『ジャズ大名』(1986年)を観た。これが岡本喜八・追悼特集の最終作という事になる。千秋楽という事もあって場内は活況を示していた。この夜は連日の不摂生が祟って、体調が芳しくなかったが、周囲の熱気と言うか尋常ならざるエネルギーが俺を元気づけてくれた。筒井康隆原作の異色時代劇。筒井原作の映画は失敗作が多いというのが定説(勿論例外もある)のようになっているが、これは面白かった。筒井ワールドと喜八ワールドの幸福な融合である。時は幕末。ある小藩が舞台。その居城の地下室で黒人奴隷と藩士一同が入り乱れて大型ジャムセッションを繰り広げる。そしてその頭上では、小難しい思想だの理想だのに呪縛された者どもが、チャンチャンバラバラ、猛烈な殺し合いを展開している。現実にはまず有り得ない光景だが、この皮肉たっぷりの対比が痛快である。充分とは言えない予算を最大限に生かし切った喜八さんの手腕に感服した。自身も昼寝好きのインディアンの役(!)で顔を出している。随所で放たれるギャグもいちいち的確で、場内は何度も爆笑に包まれた。幕切れ寸前。いぇい。という藩主(古谷一行)の陽気な掛声が飛び出し、我々観客も思わず「いぇい」と応じた。その直後、盛大な拍手が沸き起こる。映画と観客が一体化した感動的瞬間であった。演劇ではなく映画でこのような経験をしたのはこれで二度目だ。最初の経験は…また話します。興奮冷めやらぬ俺達を見送ってくれたのは、新文芸坐のスタッフと月桂冠の社員、そして喜八さんの婦人たるみね子さんであった。みね子さんは月桂冠提供のミニカップ『清酒・月』を観客一人一人に配っていた。余談だが、かつての喜八さんのCM出演が縁となり今夜の無料配布に繋がった。喜八さんも晩年は思うように映画が作れずに随分苦労した。ある作品では自邸を抵当に入れたとも聞いている。悪戦苦闘を続ける喜八さんを常に支えていたのがみね子さんであった。内助の功があって初めて男は良い仕事が果たせるのかも知れない。亡くした夫の追悼企画を盛り上げようと努力するみね子さん。俺には彼女が女神に見えた。今、俺の目の前にそのミニカップがある。容器に貼られたラベルには在りし日の喜八さんの写真が刷り込まれており、その横には「喜八魂・岡本喜八監督の軌跡・ありがとうございます・岡本みね子/新文芸坐」と刻まれている。喜八さんの辿ってきた道は決して生易しいものではなかったが、当今稀な良妻に恵まれ、庵野秀明&樋口真嗣という次世代の才能を(間接的ではあるが)育てた。そして何よりユニークな佳篇好篇を多く残した。辛くても充実感のある監督人生だったように俺には思われる。さてと、キーボードをいじるのも飽きてきたな。そろそろ『月』を頂戴しますか。普段はこの種の酒は呑まないんだけど今日は特別である。さあさあ。皆さんも焼酎でも日本酒でもビールでもワインでも何でもいいから一緒に呑みませんか。準備は済みましたか?よろしいですか?それでは喜八さんの映画人生に、乾杯。

(2005/7/3)

『ブルークリスマス』

先日。新文芸坐で『ブルークリスマス』(1978年公開)を観た。岡本喜八唯一のSF映画である。脚本は大御所ライター倉本聰。喜八さんとしては「思い出したくない映画」のひとつだそうだが、これが滅法面白い。特撮やCGに頼らなくても見応えのあるSF映画が作れる事を証明した画期的作品でもある。先のトークショーで庵野秀明が「撮る側と観る側の感覚は全然違う」というような意味の事を言っていた。俺もこの意見に賛成だ。これは映画に限らずあらゆる芸術作品に共通した現象かも知れない。喜八さんの場合、例え気乗りのしない企画であろうと真面目に撮る事には変わりない。その為『日本のいちばん長い日』にせよ『激動の昭和史/沖縄決戦』にせよ本人が知らぬ間(?)に傑作に仕上がってしまうのだろう。因みに庵野も樋口真嗣も『ブルークリスマス』は大好きだそうだ。樋口が岡本邸に遊びに行った折、この映画について色々と聞こうとしたが、喜八さんは巧みに話題を逸らしたという。流石の樋口もそれ以上は突っ込めなかったようだ。喜八さんはこの映画が余程嫌いなんだな。こんなに面白いのに。さて「倉本脚本のSF映画」と言うと、中には違和感を覚える人がいるのではないだろうか。だが、意外や意外。かの倉本先生はUFOや宇宙人の存在を冗談ではなく本気で信じている御仁なのだ。この物語の中核はまさにUFOである。この映画を観れば先生がUFO学(あるのかそんなもん)の権威である事がよくわかる。たけしの番組で肯定派と否定派に分かれて、超常現象を巡る大喧嘩を繰り広げる人気企画があるが、このバトルに倉本先生も前者の総大将として参陣して欲しいものである。白熱の死闘が展開する筈だ。視聴率も上がるぜ、きっと。この際白状してしまうが俺もオカルト系の話は結構好きである。尤も俺の興味はUFO(未確認飛行物体)ではなくUMA(未確認生物)の方を向いているが。そう言えば『レイク・プラシッド』(1999年)とかいうダサクがあったな。空飛ぶ円盤に関しては半信半疑である。何しろ一度も遭遇した事がないので信じようがないのだ。まあ。それを言ったらネッシーもツチノコも見た事ないけどさ。気の遠くなるようなスケールを誇る大宇宙。星の海に地球人類とは別の進化を遂げた知的生命体が絶対にいないとは言い切れまい。でも《彼ら》がわざわざこんな辺境惑星までやって来るかなとも思う。地球外生物殿もそれほど暇じゃないでしょう。多分。

映画の話をしよう。世界各地にUFOの大編隊が出没。僕も見た。私も見たと多数の目撃者が現れる。ここまであからさまに自分達の姿を見せる《彼ら》の目的は何か。こうなると各国政府やマスコミも「オタクやキ××イの戯言」と笑い飛ばしてもいられなくなってくる。我らが地球は異生物の侵略目標となったのであろうか。ところが《彼ら》は「何もしない」のである。各国の上空を意味ありげに飛び回るのみである。連中の目的は「侵略」ではなく「観光」だったのだろうか。わからない。とにかくわからない。いっそ、かの遊星ナタールのように「地球を貰いにきました」と言ってくれた方がまだ気楽である。この「何を考えているのかわからない」というのが非常に無気味であり、観る者の恐怖と焦燥を大いに煽ってくれる。そしてこれがこの映画の重要なテーマでもある。何もわからないという状況に追い込まれた人間が如何なる行動に走るのか?この作品はその過程を綿密に描いた戦慄のシュミレーション映画という見方も可能である。否、むしろそちらが本題か。人類側としては《彼ら》の動向を見守るしか方法はない。敵(かどうかも不明だが)の狙いが曖昧のまま時は流れた。やがて世界中に奇妙な噂が流れ始める。それは「UFOを目撃した者の血が青くなる」という突飛なものであった。血は青いが外見は普通の人間と変わらない。後、性格が目撃前よりも温和になるそうだが、これもまた掴みようのない話である。青い血の人間は日毎にその数を増加させてゆく。青い血の妊婦が生んだ赤ちゃんもやはり青い血であった。と、いう事は…この異常事態を憂慮した各国の支配階級は青い血の人間の追跡を開始する。日本政府も全国民の血液検査を実施。該当者は次々に捕らえられ『収容所』へと放り込まれる。そこはこの世の地獄であった。彼らは片っ端から人体実験の材料にされるという。実験後は植物人間に改造されるか、あっさり処刑されるかのどちらかである。いずれもやられる方はたまったものではない。非人道行為の極みだが「青い血の人間は最早人間ではない」というのが偉い人達の理屈である。言うまでもないがこの『収容所』が具体的な映像として示される事はない。会話や写真を使って間接的に説明されるだけだ。予算がないと言えばそれまでだが、観客の想像力に全てを委ねる高等戦術という事にしておこう。

青い血の人間を根絶やしにせよ。魔女狩りの再来だ。世界規模で実行される大量殺戮。かくして人類は狂気の時代に突入したのである。永井豪の名作『デビルマン』(映画じゃないよ、マンガだよ)の後半を思わせる展開である。たかが青い血でそんな大袈裟なと嘲笑する向きもあるだろうが、さしもの俺もそう能天気ではいられない。人類の歴史は殺しの歴史である。アホみたいな理由でどれだけの人間(弱者)が迫害され虐殺された事か。人間という奴は異物と看做した者を徹底的に排除する習性があるらしい。もしかしたらUFOを操る連中は人間どもの右往左往を高みから眺めて楽しんでいるのではないか。だとしたら相当な悪趣味だが、これもまた確認しようがない。優れたSF作品は人間の本質をグサリと抉る威力を秘めているものだ。荒唐無稽の代表であるSFが強烈なリアリティを帯びる瞬間が確かにある。青い血というアイディアも秀逸である。これは小説よりも映像作品に向いた設定と言えよう。このシンプルな小道具は『ブルークリスマス』の面白さの大部分を支えている。映画の前半、異国の少年が調査員らしき男にあれこれと質問を浴びせられる。男は最後にこう言う。では舌を見せて下さいと。はあ。少年はそれに従う。そのベロは鮮やかなブルー。ひえっ。思わず叫び出したくなるような痛烈場面だった。映画後半の主人公(勝野洋)と元同僚(沖雅也)が居酒屋の2階(!)で再会を果たす場面も印象的であった。勝野は青い血の人間を密かに消し去る特殊部隊に所属している。相手が誰であろうと青い血の人間は抹殺しなくてはならない。それが友人であろうと恋人であろうと…。沖は空軍のパイロットだが、UFOを追いかけている最中に消息を絶った。死亡したと考えられていたが、ある日突然、沖は勝野の前に姿を現わした。彼の血も青色に変化していた。殺す者と殺される者の対面、いや、対決かな。沖の口からもたらされる衝撃情報の数々。勝野と沖の気合の篭った演技が素晴らしく、緊迫感溢れる名場面に仕上がっている。赤と青が滑らかに切り替わる光の演出も見事であった。この映画を観てから血液の色に敏感になった人が少なからずいるのではないか。餓鬼が観たらトラウマになる事は必至。実は俺も歯磨きの際に舌の色をチラリと見たりしている。今朝はとりあえず大丈夫だったけど、明日の朝はわからんぜ。その瞬間から日常は魔界へと変貌するのだ。そうそう。ところであなたの血の色は何色ですか?

(2005/6/19)

『激動の昭和史/沖縄決戦』

その晩。俺は池袋の新文芸坐にいた。岡本喜八・追悼特集の山場。その夜は岡本映画の熱烈なファンであり、生前は親交もあったという二大鬼才が劇場に訪れる予定であった。庵野秀明と樋口真嗣。この二人に関してはもう説明は不要であろう。両才能の対談を楽しんだ後、彼らの作品に絶大な影響を与えた『激動の昭和史/沖縄決戦』(1971年公開)を鑑賞するという豪華企画であった。場内はほぼ満席の状態。その夜の二人はやや緊張しているように見えた。普段は毒の利いた痛快トークが展開されるのだが、この日の対談は岡本監督の死を悼むという至って真面目な主旨であり、さしもの二人にも「ヘタな事は言えないな」という心理が少なからず働いていたようだ。それでも彼らのやりとりは実に面白く、興味深い内容であった。俺もまた彼らの作品に魅了された一人である。特に樋口には日本特撮の後継者として期待を寄せている。その日は司会者がおらず、庵野と樋口の日常会話のような形でショーは進んだ。活字でもなければ映像でもない。彼らが喋っている光景を直接見る事で、彼らの人間性に(一端ではあるが)触れられたような気がする。庵野の繊細さ、樋口の茶目っ気。ああ。こういう人だからあういう映画が出来上がるんだなと納得してしまった。作品には作り手の性格が自動的に反映されるんだなと改めて思った。考えてみれば当り前の現象ではある。面白い人間の作る作品は面白いし、ツマラナイ人間の作る作品はやはりツマラナイ。一部例外もあるだろうが、この法則は大抵の場合に通用するのではないかと思う。庵野と樋口の強味は過去の名作のエッセンスを貪欲に吸収している点であろう。これに彼ら自身の才能がプラスされるのだから、面白い作品が仕上がる訳である。この二人は才にさえ溺れなければ幾らでも傑作をものにする能力を備えている。今回の対談を聞いて、今まで以上の好感を覚えた。両雄が今後どのような運命を辿るのか。俺なりに追いかけてみよう。

さて『沖縄決戦』である。庵野曰く「最も繰り返し観た映画」であるという。確かに彼の作品と共通する部分が随所で発見出来る映画であった。庵野は初の監督作品『トップをねらえ!』の製作中に『沖縄決戦』を観たそうな。もし『トップ』未見の方がおられたら、レンタル屋さんに行った時『沖縄決戦』も併せて借りてみればどうだろうか。そうすれば更に興趣が増す筈だ。先に紹介した『日本のいちばん長い日』も追加すれば完璧である。これは贅沢なメニュー。どちらを先に観るかはお客さんの判断にお任せします。何にせよ面白い事には変わりない。ただ、二つ(もしくは三つ)同時に観ないでね。訳がわからなくなりますから…ってそんな奴いねえか。時は太平洋戦争末期。熾烈を極めた沖縄戦がこの映画のテーマである。例によって喜八さんの好みに合う種類の仕事ではない。でも手を抜かない所は流石プロフェッショナルである。演出は原則的に正攻法に徹しているが、時々笑いを誘う場面も用意されている。緩急のつけ方が見事である。編集技術も巧みで観る者を厭きさせない。映画の出来は編集次第。庵野も岡本作品を観て編集の呼吸を学んだそうである。喜八さんには巨匠名匠という堅苦しい肩書きよりも《職人》という称号こそが相応しい。出演陣も岡本作品常連の強力メンバーが集結しており、各々の個性を存分に発揮している。勿論、天本英世&岸田森の両怪優も出演している。天本校長の出番が少ないのが一寸残念だが、軍医役の岸田が良い味を出している。全くやる気のない表情で怪我人の足を切断する登場場面からして強烈である。この神経質軍医にギャグ場面をやらせるのだから喜八さんも芸が細かい。クールな岸田が滑稽な台詞を吐くので余計滑稽に映るのである。洒落た配役だ。百戦錬磨の猛者に扮した高橋悦史も悪くない。不敵な笑みを浮かべながら凄まじい物量を誇る敵軍を迎え撃つ。この男は勝ち負けや大義名分よりも戦闘自体を楽しんでいるように見える。根っからの戦好きだ。戦争絶望派の筆頭が岸田軍医ならば歓迎派(?)の代表格はこの高橋中佐になるであろう。

脇役陣の好演に加えて、主演三人の力演も見応えがある。温厚篤実の小林(桂樹)中将、豪放磊落の丹波(哲郎)参謀長、冷静沈着の仲代(達矢)高級参謀。因みに小林と丹波先生はこの映画の2年後に『日本沈没』にて再度共演を果たす事になる。この二人には「未曾有の国難に立ち向かう」役がよく似合う。小林、丹波、仲代の三将軍が揃えば如何なる難敵も撃退出来そうだが、現実は厳し過ぎた。本土防衛の前線基地として沖縄全体を軍事要塞に改造しようというのが大本営の目論見であった。だが戦況悪化に伴って、徐々に兵力も物資も沖縄に割けなくなってくる。冷徹とも言える本部の対応に三将軍の不信と焦燥は日増しに募ってくる。大本営は俺達を見殺しにする気か!そんな日本側の混乱を知ってか知らずか、敵の大軍は悠々と沖縄に迫る。ついに開始される地獄の死闘。沖縄救援に派遣された最強戦艦大和も哀れ敵飛行部隊の爆撃目標と化した。この戦いには多くの民間人が参加している。まともな訓練も武器も与えられていない即席の軍隊。圧倒的戦闘力を有する敵の前に数え切れない命が散った。沖縄は累々たる死体に埋め尽くされ、美しい海は犠牲者の流す血に染まった。これは戦争とは言えぬ。大量虐殺だ。自ら命を絶つ者も続出する。米軍に追い詰められた非戦闘員が「最早これまで」と集団自爆を図り、臨時の看護要員として活躍した若き乙女達は毒杯を呷るのだった。凄惨な殺戮描写の連続に平和ボケの見本たる俺はすっかり打ちのめされてしまった。これは一体何だ?この戦闘の責任は誰にあるのか?国家だろうか?大本営だろうか?三将軍だろうか?それとも…。この責任をとれる者などこの世には存在しない。もし「とれる」という奴がいたらそいつは恐ろしく傲慢な人間である。とんだ思い上がりだ。とれるとかとれないとかそんな水準の話ではない。この大惨劇は人間の許容量を遥かに超えている。だが、戦争を起こすのもまた人間なのである。我々に出来る事はただひとつ。戦争をしない事である。原因がなければ責任もまた発生しない。でも性懲りもなくまたやっちゃうんだろうな。それが人間という名の生きものが持つ生来の習性らしい。本当に殺し合いが好きなんだから困るよな。長い長い戦いが終わった。夥しい死体が転がる海岸に一人の少女が現れる。少女は遺体が帯びていた水筒を捥ぎ取ると、その中身をゴクゴク飲む。貪るように飲む。そこで画面は静止してエンド・クレジットが上がってくる。心に突き刺さる印象的なラストシーンである。死んだ者は二度と還らない。そして生き残った者はどんなに辛くても生き続けるしかないのだ。戦争の記憶を後世に伝える使命が彼女にはある。沖縄決戦。それはこの少女を守る為に繰り広げられた壮絶壮大にして余りにも哀しい攻防戦であったのかも知れない。

(2005/6/12)

『日本のいちばん長い日』

先日。池袋の新文芸坐で『日本のいちばん長い日』(1967年公開)を観た。戦争の後始末は大変だ。まして負け戦となれば尚更である。昭和天皇が全国民に日本敗北を告げたラジオ放送。かの玉音放送の裏で展開された暗闘の数々をドキュメンタリータッチで追跡する作品である。東宝創立35周年を記念した大型群集劇。当初、小林正樹が演出を担当する予定であったが、諸般の事情で降板。代わって監督に選ばれたのが《戦争なんてやってらんねーよ主義》の岡本喜八であった。軍隊時代、意地悪上官にボコボコに苛められたクチの喜八さん。彼としては余り気の進まない仕事だったと想像されるが、それはそれ。自分の思惑はとりあえず封印して、演出手腕のみを純粋提供している。プロフェッショナルのしたたかさを感じるね。これもまた映画監督のひとつの在り方と俺は認めたい。英雄豪傑策士曲者…大勢の登場人物が犇めく群集劇は、各人物に割く描写時間がどうしても短くなる。人物像の掘り下げが甘くなるし、余程手際良く捌いていかないと、観ている側の混乱と退屈を招いてしまう。その点、喜八さんの手並はお見事であった。わかり辛い部分は字幕とナレーション(仲代達矢)を駆使する事によってキッチリ補完している。大宅壮一の原作を手堅くまとめた橋本忍の脚本も秀逸である。この仕事の鬱屈が相当溜まっていたのかどうか。喜八さんは翌年の『肉弾』において、存分に本音を吐き出している。それにしても器用な監督である。メジャー会社の大作映画を手掛けるかと思えば、低予算の実験映画も巧みに撮りこなす。スケールが大き過ぎて融通の利かない部分のある黒澤明先輩とは好対照。黒澤が破壊力抜群の戦艦とするなら、さしずめ喜八さんは機動性に富んだ駆逐艦と言ったところか。それで良いし、そうあるべきであろう。色んなタイプの監督がいた方が映画界は盛り上がる。

アメリカ・イギリス・中国によるポツダム宣言。その文面は神国日本に無条件降伏を迫る屈辱的内容であった。日本政府はこれを黙殺。マスコミの方には得意の出鱈目報道を流すように命じる。だが、敵側は彼らの曖昧な態度を見逃すほど寛大ではなかった。脅威の新型爆弾が広島を襲撃、続く第二の爆弾が長崎を壊滅させた。第三の爆弾投下は特務潜水艦《伊507》の活躍により阻止されたが(ウソ)日本政府はいよいよ追い詰められるところまで追い詰められてしまったのである。降伏か滅亡か。政府首脳の腹は決まった。ポツダム宣言受諾である。だが、武闘派筆頭たる阿南陸相(三船敏郎)はあくまでも徹底抗戦を主張するのだった。本土決戦を敢行して死中に活を求めると言うのだ。会議室にまで愛剣を持ち込むこの男…その言動は狂気の沙汰のようにも見える。しかし彼もまた日本の運命について死ぬほど悩んでいる(この後、本当に死んじゃうのには吃驚したけど)のは間違いない。共感も同情もしないが、彼は彼なりの論理で動いているのである。そんな訳で首脳会議は大荒れに荒れた。日本を束ねる男どもが汗だくになって怒鳴り合う光景は壮観ですらある。彼らの部下達も何かある毎に絶叫している。そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないかと思うのだが、今怒鳴らなければいつ怒鳴るんだという勢いで盛大に怒鳴りまくっているのである。黒沢年男扮する青年将校はほとんど気が狂っているし《国家なんてアテになんねーよ主義》の天本英世が演じる陸軍大尉の暴走行為には寒気を覚える。こんなに怒声を張り上げる天本先生は初めて観たな。映画後半の反乱軍(その響きも虚しいけど)が繰り広げる『玉音盤』捜索も強盗団さながらの獰猛さ。かりそめにも正規軍たる者がやる事ではない。戦争終結を知らせる重要アイテム『玉音盤』が新たな闘争を生むという皮肉。未曾有の非常事態にあって、皆の脳内麻薬の分泌が異常に活性化しているようだ。もしかしたらホンモノを打っていた奴もいたのかも知れない。これら一連の場面を観ていると段々おかしくなってくる。何故か笑いが込み上げてくる。極限状態に放り込まれた人間は奇々怪々な行動に走る事がままある。本人達は無論真剣だが、傍から眺めていると実に滑稽なのだ。これは監督の意図ではないだろう。又、笑って観るような類の映画ではない事もよくわかっている。でもおかしいのだから仕方がない。そんな形でしか笑う事が出来ない自分が空恐ろしくもある。

正真正銘のオールスターキャスト。日本映画史に名を刻む名優怪優が続々と画面に現れる。俺などはそれだけで嬉しい。かつてこの国にはユニークな役者が沢山いた。どの俳優も軍服姿がよく似合う。これは彼らが実際の軍隊生活を経ているからだろうか。出演陣が醸し出す独特の重量感が映画の迫真性に繋がっている。それが良い事なのか悪い事なのか…その判断は極めて難しい。多分後者だと思うけど。豪華キャストの中でも一際異彩を放っていたのが三船敏郎であった。喜八さんはこの国際的俳優と何度か組んでいるが、彼の個性や魅力を引き出す事に概ね成功している。この不器用な名優は黒澤や喜八さんのような細かい指示を与える監督の下にあってこそ威力を発揮する。彼は己が能力を持て余しているような所があるからである。それ故に「三船さんに全部お任せしまーす」なんてな監督の作品ではかくも無惨な結果となってしまうのであろう。さて脱線。樋口真嗣の『ローレライ』に出ていた柳葉某も三船ぐらい貫禄があればなあ。そうすれば映画にもっと重みというか深みが加わった筈である。名前が一緒と言うだけで世界のミフネと比べちゃ一寸可哀想かな。でも全般的に現在の俳優に戦争を表現する事は無理だと思う。入念な訓練や稽古を重ねれば話も変わってくるのだろうが、カネも時間も余裕も何もない今の日本映画ではそれは夢物語でしかない。黒澤が若侍役(『椿三十郎』)の俳優に劇中衣装を着せて毎日グラウンドを走らせていた頃とは時代が違うのだ。

映画後半。阿南陸相は自宅でゆるゆると酒を楽しみ、その後、おもむろに腹を切る。部下の介錯を断り、自ら頚動脈を切り裂くという凄まじさである。忠誠心厚いこの猛将は自殺の直前にこう言った。これからの日本は死ぬよりも生きる方が辛い国になる。だが、お前達は死ぬな。生きて、この国の再建に努めてくれ。栄えある帝国陸軍の統率者は今や血みどろの死体と成り果てた。御大将の壮絶な死に様に豪胆で鳴らす側近二人も茫然自失。これより「辛い事」が他にあるのかという感じだが、ひねくれた見方をすれば、これはある種の現実逃避と言えなくもない。彼曰く「死ぬよりも辛い事」を部下に任せて自分はさっさと永遠の逃走に旅立ってしまうのだから。敗戦とは言え、戦争終結が決まったその晩に割腹するという感覚が俺にはどうしても理解出来ない。常軌を逸した行動である。恥を忍び、敢えて生きるという選択肢もあったと思うのだが、これがサムライ流の決着(ケリ)のつけ方なのか。もののふってのも難儀な商売やなあと思うのと同時に彼が「つい此間まで存在した人間」である事に気づき慄然となる。たかが60年である。俺は現在30歳だが、俺が生まれる30年前、日本は地獄の戦争の真っ只中にあったのである。阿南のような人物が政府の中核をなしていた時代。この映画は決して大昔の話ではないのだ。戦争の記憶。これだけ陰惨で悲惨な記憶もない筈なのにその風化速度は異様に早い。そして全ての記憶が失われた時、新たな不幸(それも最大最悪の不幸)が始まるのではないだろうか?そんな漠然たる恐怖が俺の脳裏をチラリと掠める。

(2005/6/11)

『佐々木小次郎』

その日。俺は京橋のフィルムセンターにいた。生誕百周年を記念した「稲垣浩特集」もいよいよ千秋楽。今日のプログラムは『風林火山』(1969年)と『佐々木小次郎』(1967年)である。大作時代劇が2本並んだ。チャンバラ好きの食欲をそそってくれる魅惑の献立だが果たして映画の出来はどうか。まず『風林火山』を観る。資料によれば稲垣が長年温めていた宿願企画の実現とある。その割には際立つ工夫は特に見られず、平凡な仕上がりである。やたらに上映時間が長い。奥行きのない物語がダラダラと続くだけでは流石にしんどい。映像で勝負する監督ではないだけに話が面白くないと途端に睡魔が襲ってくる。編集段階で1時間、せめて30分刈り込んでくれればもう少し何とかなったのではないか。無駄に長い映画ほど退屈なものはない。出演陣は豪華絢爛である。稲垣とは気心の知れた三船敏郎が主人公の山本勘助に扮している。三船、相変わらずの力演だが、何しろミスキャストなのでその情熱が空転しているのが哀しいところである。はっきり言って豪放三船に策士の怪しさを表現する事は不可能に近い。武田信玄(中村錦之助)のワンパターン演技も鼻につく。むしろ弟の賀津雄の方が良い味を出していた。上杉謙信(石原裕次郎)の乱入は嬉しいけれど、これも適役とは言い難い。他に志村喬、緒形拳、田村正和、平田昭彦…錚々たる面子が脇を固めているが、誰もがただ映っているというだけで、とても個性を発揮しているとは言えない。まさに飼い殺し状態であり、オールスター映画の弱点がモロに出たという感じである。このダメ振りは今期低迷の金満球団を連想させる。劇中、有名な「孫子の旗」が登場する。武田一族ならではの重要アイテムだが強烈な印象を放つまでには至っていない。黒澤明の『影武者』(1980年)と比べると―比べちゃいかんのかも知れないが―数段見劣りする作品であった。同じ材料でも調理方法を誤ると悲惨な結果が待っている。映画と言うよりNHKの大河ドラマレベル。以前、かの子連れブルースマンがこの映画における裕次郎の眼光を誉めておられたが、鈍感なる俺にはその凄さがついに理解出来なかった。陳五郎さん、ごめんなさい。

次の映画が始まるまで1時間ほどある。俺は一旦フィルムセンターを出て、近所のサンマルク・カフェに入った。それにしてもこの界隈は妙に喫茶店が多いな。ブラックコーヒー(これが一番安い)を啜りながら『佐々木小次郎』を観るか、それともこのまま帰るかを思案した。先の『風林火山』が全くの期待外れだったので少し警戒したのだ。入場料500円は手頃な値段ではあるが、資料を見ると『佐々木小次郎』も2時間を超える長篇映画である。それだけの時間を投資する価値がこの映画にあるのかどうか。散々迷ったが結局観る事にした。一寸した賭けである。これが『宮本武蔵』なら多分帰ったと思うが、武蔵のライバルである小次郎が主役である事に興味を覚えたのだ。もう何回言ったかわからないが、強烈な悪役敵役は活劇映画には欠かせない要素である。主人公と互角の個性を備えている事が理想となる。最大の悪役は最高の主役たり得るのである。そんな事をグチグチ考えつつ、俺はセンターに再入場した。幸い今度のサイコロは良い目が出た。佐々木小次郎のサーガ。彼もまた武蔵同様、ただならぬ運命を背負った男であった。冒頭の決闘場面から自然と物語世界に引き込まれ、そのまま映画は心地好い緩やかさで進んでゆく。この物語における小次郎は相当いい加減な奴である。剣に生きるのか、それとも女を選ぶのか。この二大目標の間を行ったり来たり。どうもはっきりしない。武芸者らしからぬ優柔不断な態度を嫌悪するか、面白く感じるかが、この映画の評価を決めるだろう。独特の生き方を見せる男である。剣術には長けているものの、生活能力などまるでない。でも大丈夫。小次郎の赴く所には必ず献身的美女が待機しており、あれこれと世話を焼いてくれるのである。とにかくこの男、やたらにモテるのだ。余りにも小次郎に都合良く話が転んでゆくので、思わず苦笑してしまうが、これこそが小次郎生来の特殊能力であるらしい。

宿敵武蔵が姿を現わすのは映画の後半である。武蔵の動きが掴めない為、無気味な感じがしてかえって良かった。小次郎がふにゃふにゃと遊び呆けている間も武蔵は着々と兵法修行を重ねていたに違いない。その差が両雄対決の結果に直結したと言えるのではないか。この作品は「何故に小次郎は敗れたか」その理由を追及する映画であるという穿った見方も成立する訳である。主演の尾上菊之助と「美剣士」のイメージが最後まで合致しないので困ったが、カッコ良さの中に滑稽さを感じさせる好演であった。いつしか俺は尾上小次郎に感情移入をしていた。だが彼は死ぬ。必ず死ぬ。彼が魅力的な人物であればあるほど「敗北の時」が辛くなる。しかしそれは確実にやって来るのだ。武蔵を演じるのは仲代達矢。野性味溢れるアウトロー剣士も仲代が演じると何処か上品になってしまう。まあ。これはこれで面白いかなと思う。仲代武蔵の戦術は巧妙である。強敵と立ち会う際、まず木刀を使う。これで相手の得物(鎖鎌とか長剣とか)を封じるのである。敵の最強武器を使用不能にした瞬間、必殺の二刀流が閃くのだ。二段構えで敵を粉砕する武蔵戦法。その前に数多の腕自慢が崩れ去った。小次郎もまた然り。この映画の巌流島決戦は従来の映画とは一寸違う趣向が凝らされているので注目して欲しい。鞘を捨てた小次郎に対して、武蔵が放つ例の名台詞も省かれている。小次郎敗北。その情報が生前彼と縁の深かった者へと届けられる。わかっちゃいるけど遣る瀬無い結末である。武蔵の剣は小次郎の人生を終わらせると共にその繋がりをも切断したのである。人を斬る、人を殺すとはそういう事だ。悪党の配下達が虫ケラ同然にヒーローに斬り捨てられる。時代劇ではお馴染みの場面だが、斬られた者も人間である以上は感情もあるし人生もある。大半はゲス野郎だと思うが、真面目な奴もいないとは限らない。無論友人や恋人や家族もいるだろう。となると、ほとんどの時代劇ヒーローは哀しみと絶望を大量発生させる優秀な殺戮機械という事になる。そんな事を言い出したらまさにキリがないが、キリのない事を考えたくなる時もたまにはあるよな。ヒーローの手は常に血で汚れている。

(2005/6/4)

『待ち伏せ』

先日。京橋のフィルムセンターで『待ち伏せ』(1970年公開)を観た。三船敏郎、勝新太郎、萬屋錦之介、石原裕次郎…日本映画の黄金期を支えた四大スターがここに集う。文字通りの夢の共演。配役表を見た時「何かの冗談か?」と思ったが、これが紛れもない現実なんですねえ。ビッグネームを揃える事とその映画が面白い事とは全くの別次元ではあるが、確かに映画ならではの豪華メンバーではある。映画スターという華麗なる種族がほぼ絶えてしまった現在の邦画界には作りたくても作れない映画でもある。そういう意味では貴重な作品と言えるかも知れない。製作は三船プロダクション。前年公開の『風林火山』好成績の勢いを駆って作ってしまった(?)のがこの映画である。監督は稲垣浩。これが遺作となった。自己主張の激しい大物俳優が跋扈する撮影現場はさぞやり辛かったと想像されるが、それだけやり甲斐もある。稲垣は作品数が多く、大ヒット作も幾つか放っている。本人はどう考えていたかはわからないが、比較的充実した監督人生を送ったと言えるのではないか。芸術とは無縁。娯楽に徹した芸風。オーソドックスな演出には食い足りなさを感じるものの、訳のわからない自称芸術映画に時間を割くぐらいなら、こちらを買った方が得である。

スター集合映画は一見華やかだが、中身が薄く、粗雑な作品が少なくない。実際、俺も何度か煮え湯を飲まされている。だから『待ち伏せ』も余り期待していなかった。ところが蓋を開けてみると結構面白く、上映中は退屈も眠気も感じなかった。これだけでも良しとしなくてはなるまい。少なくとも『レッド・サン』(1971年)よりは繊細な仕上がりだ。その要因はやはり脚本である。途中「ん?」と首を傾げたくなる場面もないではないが、娯楽時代劇の水準は充分クリアしている。人間爆弾を4個も集めた映画の主要舞台が小さな茶店というのが意表を衝いている。考えてみれば『待ち伏せ』というタイトルも随分地味だよな。映画とは時間の芸術。収容可能な情報量は自ずと限界がある。主人公が彼方此方に移動する映画も面白いが、舞台を固定してじっくりと映画を掘り下げるのもひとつの方法である。こちらの方が芝居も追及出来るし、予算の節約にも繋がる。どうも俺は「移動型」よりも「固定型」の映画の方が好みに合うようである。鑑賞中、その作品に演劇っぽさを求めている自分に気づく事が度々ある。今、この駄文を読んでいるあなたはどちらのタイプが好きですか?寂れた街道にぽつんと建てられた一軒の茶屋。その経営者は欲張り爺さんと小生意気な孫娘である。茶屋とは言っても食事も出せば酒も出す。お客が望めば宿泊も可能である。レストラン兼簡易ホテルと言ったところか。強烈ドブロク『鬼殺し』も好評販売中だ。そんな訳でやたらに食事場面が多い映画である。米飯の魅力を改めて教えてくれる映画である。勿論パンも美味しいし、俺も大好きだが、日本の食生活の中心は米である事を我々は忘れ過ぎてはいないだろうか。これほど旨くて優れた主食も稀だと思うのだが。スター達の食いっぷりが楽しい。こちらも無性にご飯が食べたくなる。それにしても皆さん、美味しそうに食べますね。食事場面というのは一歩間違えると下品な印象を与えてしまうものだけど、この映画にはその心配はない。出演者の力であり、食べ方自体に各々のキャラクターが反映されているようで興味深い。

四天王の役割分担。まずは主演の三船。その役は謎めいた素浪人である。黒澤明と組んだ『用心棒』『椿三十郎』(1961・1962年)以来のお得意のキャラクター。性格と言い喋り方と言い三十郎そっくり。おまけにコスチュームまでそっくりなので驚いた。ヘタをすれば黒澤プロに訴えられかねないが、その辺りの根回しは多分済ませてあるんだろうな。外見は酷似していても頭の回転は三十郎に及ばないのが少々残念ではある。三船に対抗する大きな役をカツシンが与えられている。表向きの職業はお医者さん。カツシンが演(や)るからには酒好き女好きである事は言うまでもない。この男、茶屋の離れに住み着いており、夜な夜な怪しげな薬を精製している。まるでカツシンの未来を暗示するかのような役であった。この男の正体と真の狙いが明らかになるのは終盤である。カツシンがいきなり三船の腕前を試すゾクゾク場面もあるので絶対に見逃さないように。錦之介(因みに当時の芸名は中村錦之助。この2年後に改名)は猜疑心の塊のような病的役人を演じている。とにかく人を見れば犯罪者と決めつける厄介な人物であり、これほど扱い辛い男も一寸いないだろう。周囲の人間もウンザリしている。こんなイヤーな役をよく錦之介が承知したなと思ったら、最後の最後に痛快な見せ場が用意されていた。序盤から中盤にかけての陰険演技はこれを生かす為の布石だったのだ。まさに「やられたな」という感じである。錦之介の狂った眼差しは後の『柳生一族の陰謀』(1978年)における怪演技の原型のようにも思われる。悲惨なのは裕次郎である。哀しい過去を秘めるアウトローに扮しているが、ミスキャストの気配濃厚。見せ場らしい見せ場もないままに映画が終わっちゃった。言いたくはないが、精悍さを失った肉体には渡世人の衣装も全然似合っていない。役者たる者、太り過ぎは禁物です。

映画のクライマックス。カツシンの仇を見事討ってみせる三船浪人。自慢の豪剣が唸りを上げて外道悪党を斬り伏せる。おおっ。カッコいいぜ、三船敏郎!これぞ時代劇独自のカタルシス。受けた屈辱はキッチリ返す。流石は日本一頼りになる男だ。事前に丁寧な描写を積み重ねているからこそ、剣戟場面が盛り上がる訳である。時代劇(活劇)は最後の決闘に至るプロセスが肝要なのだが、その辺りが杜撰な手抜き映画が多くて困るよな。自分達を弄んだ男《鴉》の死を確認した浪人は何処へともなく去ってゆく。余計な事は何も喋らない。ただその大きな背中が印象的である。それが良い。背中で全てを語る三船の真骨頂である。無敵の風来坊の行き先…それはテレビ映画であった。この後、三船もカツシンも錦之介も裕次郎も映画では食えなくなり、活躍の場をかつては嫌っていた電気紙芝居へと移す事になる。新しい世界でもそれなりの成功を収めた四天王だが、何かと制約の多いテレビに窮屈さを感じていたに違いない。映画スターが映画スターとして生きられる幸福な時間は意外に短かった。映画の凋落とテレビの繁栄。三船の背中は大スクリーンにこそ映えるのだが、時代の流れがそれを許さなかったのだ。思えば世界を魅了した背中であった。

(2005/5/29)

『座頭市』(勝新太郎版)

先日。近所の図書館で『座頭市』(1989年公開)を観た。カツシン最後の座頭市は彼自身の指揮下において撮り上げられた。製作・主演・脚本・監督。何処をどうぶった斬っても濃厚なカツシン美学が迸る。究極のワンマン映画だが、ちゃんと商品として成立しているのだから凄い。この作品を初めて観たのは学生時代。大学の図書館内に設けられた視聴覚室であった。当時の俺はただのバカだった。世の中についても映画についても『座頭市』についても、そして勝新太郎という俳優についても、本当に何も知らなかった。映画の随所で繰り広げられる強烈な立ち回り。そればかりに興味を惹かれていた。あれから10年以上の時間が経過している。その間、さしもの俺も多少は鑑賞眼の方も磨かれたようである。今回は前回よりも余裕を持って映画を味わう事が出来た。数々の怪物的エピソードを誇るカツシン。言動も行動も世間の良識とかからはかなり逸脱している。俺の中ではヤクザスレスレのラインを行ったり来たりしているようなイメージがある。この人は俳優にならなかったら、高い確率で「そちらの世界」へ行っていたのではないだろうか。芸能界の爆弾児として常に話題を供給していたカツシン。兄貴の若山富三郎も何をやりだすかわからない弟の行く末を随分心配していたらしい。弟が不祥事をしでかすと、その消火作業に奔走していたとか。カツシンの兄という役を演じるのも楽じゃない。希代のトラブルマシンとも呼ぶべきカツシンではあるが、彼には並外れた才能があった。俳優と監督。この両刀を完全に使いこなしたのは日本映画界ではカツシン一人と言えるのではないか。

…こう書くと「北野武はどうなんだ」という声が聞こえてきそうである。まあ。俺も北野映画は嫌いではないけれど、国内外で大絶賛されるほどに優れた映画とも思えない。デビュー作『その男、凶暴につき』(奇しくも『座頭市』と同年に公開)には衝撃を受けたが、それ以降、北野映画は「私映画」の色合を深めてゆく。どうやらそれが頭のいい人には「芸術」と映るらしい。芸術も大変結構だが俺は映画は「娯楽」だと考えている。北野映画の突発的暴力描写は大いに買っているが、その事がブレーキとなって、手放しの賞賛を躊躇わせているのだ。加えて、たけしのテレの見え隠れする演技も余り好きにはなれない。ビートたけしという俳優はむしろ他の監督の映画において威力を発揮するような気がする。たけしも案外真面目な面があって、他人の作品に出演する場合、全ての台詞を憶え込んだ上で撮影に臨んでいるそうである。だからこそ印象的な演技も可能になってくる訳だが、たけしのようなプロフェッショナルは現場でモタモタするのを一番嫌う。スタッフに余計な迷惑をかけたくないという彼の心遣いである。大胆に見えて繊細。その姿勢はかの深作欣二も感心していた。自分の映画でもそうすればいいのになと思うのだが、無理な相談だろうか。

ごつい風貌の奥に《永遠の映画青年》の顔を隠しているカツシン。その卓越した映像感覚は『座頭市』でも健在であった。光と影の対比が美しい。どちらかと言えば「影」の部分が強調されているが、それがまたカッコいいのである。セットの造形も凝っているし、何より映像に奥行きがある。ただ暗いだけで映画的魅力を全く感じない山田洋次の時代劇とは格が違う。やっている事はその辺に転がっている娯楽時代劇なのだが、センスの鋭い作り手が撮るとこうも変わるものかと驚かされる。キャストも豪華絢爛。カツシンが顔で集めたと思われる個性派軍団だ。座頭市と互角の腕前を有するライバル剣士の存在が物語を面白くする。今回、好敵手役を担うのは緒形拳である。緒形はテレビや舞台版の『座頭市』でもカツシンと共演しており、この配役は必然とも言える。座頭市と緒形浪人のファーストコンタクト。ある街道。無心で絵筆を滑らせる浪人の前に座頭市が現れる。市は浪人の空腹を見抜いて、懐から握り飯を取り出す。市愛用の弁当箱もラブリーな小道具だ。旦那。おひとつ如何ですか。うわ。美味しそう。思わず、手を伸ばしそうになる浪人だが、いや。俺は武士だ。施しは受けん。と頑なに拒否。一瞬、困った表情になる市だが、次の台詞が洒落ている。じゃあ。旦那ではなく、腹の虫さんにどうぞ。飄々とした市の応対にさしもの頑固侍も折れた。余程腹が減っていたのだろう。浪人は満面の笑みを湛えつつ、握り飯をガブリと頬張るのであった。この後、浪人は座頭市と対立するヤクザの用心棒となる。座頭市抹殺を命じられる浪人だが、標的とジャンケンをしたり、酒を呑んだり「赤」の話をしたりと遊んでばかりいる。不思議な刺客もあったものだが、映画の最終盤、竜虎はついに激突に及ぶ。迂闊な事は言えないが、カツシンと緒形の会話は大半がアドリブ合戦だと思われる。即興の面白さ、意外性を狙うのがカツシンのやり方だ。実にユニークな方法だと思うが、演者同士の息が合っていないとまず有り得ない方法でもある。その者の柔軟性も問われるし、台本通りにしか台詞を喋れない役者さんには真似の出来ぬ芸当だ。これは、カツシンが緒形を自分と同格の俳優として認めている証拠でもある。

この映画の撮影中、忌まわしい事件が発生した。日本刀(真剣)を使っていた出演者(奥村雄大)が殺陣師に重傷を負わせてしまったのだ。殺陣師はすぐに病院に担ぎ込まれたが、治療の甲斐なく、この世を去ってしまった。この際、カツシンが現場から離れていたのが不幸であった。もしカツシンがその場に居れば、このような凶事は避けられたように思う。映画の撮影にアクシデントはつきものだが、これはその中でも最悪の部類に属するだろう。時代劇の撮影で本身が用いられるのは日本映画では常識であった。しかしその伝統も邦画斜陽と共に崩壊してしまっていたのだ。日本の時代劇の終息を物語る象徴的事件(余りに悲惨だが)であった。この事件はワイドショーの格好のネタとなった。しかも当事者はカツシンの息子である。例によって正義の味方(マスコミ)の集中攻撃が開始された。カツシンも撮影中止は当然考えた筈だが、敢えて続行を決意した。この判断は正しいとは言えないかも知れないが『座頭市』に全精力、全財産を注ぎ込んでいるカツシンとしては止むを得ない選択だったのだろう。さしもの豪傑も心労が重なり、現場で倒れてしまった事もあったという。それでもカツシンは点滴を打ちながら演出を続けたそうである。凄まじい精神力である。善悪は一寸横に置いておいて、映画に懸けるカツシンの情熱、心意気に俺は共感と憧憬を覚えた。全篇に座頭市というキャラクターに対するカツシンの深い愛着が感じられる作品である。迫力満点の剣戟場面が見せ場なのは勿論だが、座頭市がふと見せる優しさが心地好い。悪党連中には鬼神の剣を振るいつつ、弱者や子供には温かい眼差しを注ぐ(尤も市は盲目だけどね)。北野版『座頭市』(2003年)も好きな作品だが、やっぱり本家の厚味には敵わないなと思う。この映画、もう一度観てみたいな。そうだ。今度も10年後にしようか。もし生きていれば俺は40歳である。その時、俺はこの映画を観てどんな感想を抱くだろうか。少しは成長しているだろうか。それまでにやらなくてはならない事が山ほどある。ああ。時間が足りない。ラスト座頭市、また会おう。

(2005/5/22)

『野盗風の中を走る』

黒澤明の『七人の侍』(1954年公開)ほど、後世の集団活劇映画に影響を与えた作品はないだろう。その強烈な爆発力は国内外を問わずに及んでいる。世界の映像作家がこの映画を模倣し引用し参考にしている。ある者はこの傑作に敬意を表わし、ある者は昂然と反旗を翻す。恐るべき葛藤と試行錯誤を経て、数々の名作と無数の駄作が世に放たれたのだった。先日。京橋のフィルムセンターで観た『野盗風の中を走る』(1961年)も『七人の侍』を多分に意識した作品であった。現在フィルムセンターでは生誕百年を記念して稲垣浩の映画を集中上映している。俺も仕事が早く終わった日や休日を利用して何度か足を運んだ。とりあえず①『柳生武芸帳』②『柳生武芸帳/双龍秘剣』③『日本誕生』④『野盗風の中を走る』⑤『どぶろくの辰』の5本を捉まえた。この内④を除く4本は三船敏郎主演の映画である。稲垣と三船の縁は黒澤以上に深い。さて映画の出来である。脚本や設定自体は面白いのだが、悠々たる稲垣演出がどうも俺の肌に合わないようだ。映画のテンポが緩やか過ぎて退屈や眠気を覚えてしまうのである。特に①②が駄目だった。公開当時はこれが「映画の標準速度」だったのだと考えられるが、現代の感覚で接すると流石にしんどい。破格の製作費を注ぎ込んで完成させた③は見せ場満載の特撮スペクタクルである。東宝も日本列島を誕生させたり、沈没させたりと忙しい会社である。黒澤作品と比較するとどうしても見劣りしてしまう三船だが、この映画では彼の豪快な個性がよく生かされていた。三船はヤマトタケルとスサノオの二役を演じている。後者が秀逸だった。風貌も衣装も台詞回しも役柄にぴったり。スサノオのライバルと言えば勿論八岐大蛇である。美人しか食べないグルメ怪獣に段平一本で立ち向かうスサノオの勇姿。キングギドラより5本も首が多いバケモノを倒せるのはゴジラか世界のミフネぐらいのものであろう。クライマックスの富士山大噴火の迫力も凄まじい。特撮場面と実写場面が違和感なく繋がっており、お見事。大画面に映える品質を誇っている。ただ『日本誕生』は稲垣作品と言うよりも円谷英二の集大成として語られる場合が多いようである。そんな中④は文句なしに面白かった。稲垣映画の名作である。最初は余り期待していなかったのだが、随所に本家を超えんとする工夫や仕掛けが凝らされている。単なるパロディやオマージュでは終わらせないぞというスタッフの意気込みが伝わってくるのだ。それにしても俺が期待しない映画は何故にどれもこれも優れた作品ばかりなのだろうか。

稲垣浩と井出雅人の共同脚本。井出は後に『赤ひげ』『影武者』『乱』のホン作りに参加する事になる実力派ライター。恐らく井出は独自の黒澤研究を重ねていたのだと思う。この映画はその成果発表の場でもあったのだ。まず物語の主人公として野武士を選んでいる点がユニークである。黒澤は野武士を「残酷な侵略者」「殺すべき相手」として扱っていた。侍や百姓に関しては丁寧な人物描写を重ねているが、野武士側の描写はほとんどなされていない。勿論ワザとである。その方が「完全なる敵」として、観る者に不気味な印象を与える事が出来るからである。映画の導入部。殺戮集団が禍々しい姿を現わすが、それ以降、彼らは暫くの間画面から退場してしまう。彼らが再登場するのは後半の合戦場面からである。そんな野武士を稲垣と井出は人間味溢れる愛すべきアウトロー集団として描いている。彼らの敵は弱者を困窮に追い込む「侍」どもである。各地で略奪強盗を繰り返す野武士の一団があった。ある日。彼らは「裕福な村」として有名な集落を訪れる。襲撃ではなく保養の為である。そこに行けば美味しいものも食べられるし、肉欲を満たす事も可能だと聞いたからだ。小躍りしつつ、村に向う野武士達であったが、かの村は輝かしい噂には程遠いゴーストタウンと化していた。主要労働力は全て領主の要塞構築に駆り出されており、村内は荒れ放題、寂れ放題。いるのは娘数人と住職。そして老人衆のみ。食糧はとうに底をつき、仕方がないので「猫雑炊」を作って飢えを凌いでいるという有様である。余りに陰惨な状況を目の当たりにして、さしもの強盗団も言葉を失ってしまう。かちっ。その瞬間、スイッチが入った。彼らの意識の底の底に眠っていた正義感が静かに動き始めたのだ…。

そんな訳で野武士達は村の危機を救うべく英雄的行動を開始するのであった。最初はアホらしいと文句を垂れるメンバーもいたが、村民に崇め奉られる事で徐々に気持が良くなってくる。確かに寝ても覚めても官権の追跡に晒される生活よりはこちらの方が精神衛生上にも好ましい。いつのまにか彼らは「御家再興を悲願とする名門武士団」を名乗る事になってしまう。この際、ある小道具が効果的に使われており、荒唐無稽な展開に最低限の説得力を持たせている。凶悪な犯罪者が本物の侍よりも侍らしい行動を繰り広げる。逆転の面白さがこの映画の本領と言えよう。村民にとっては威張り腐るしか能のない支配者よりも多少胡散臭くても食糧物資を供給してくれるアウトローの方が遥かに有り難い存在なのである。だが、このような異常状態が長く続く筈がない。思わぬ方向から災難が降りかかる。さあ。大変だ。正義の野武士11名の運命や如何に?この映画では、若き日の松本幸四郎(この時は染五郎)と中村吉右衛門(萬之助)が共演を果たしている。更に大物ゲストも出演しており、歌舞伎ファンとしては見逃せない要素を有している。そう言えば、いつになく館内は盛況を博していた。観客の中に歌舞伎マニアの人が相当数いたのかも知れない。梨園のスター兄弟に負けじと、東宝の若手陣も頑張っている。冷静沈着な首領に扮した夏木陽介、斬り込み隊長を演じた佐藤允も悪くない。武士社会の残虐性を描きつつ娯楽性も充分。観て損はない通好みの集団時代劇に仕上がっている。ただ、最後のオチにはやや蛇足めいた印象を受けた。あれは要らないんじゃないかな。まあ。これは観る人の嗜好次第。賛否の分かれるところであろう。

(2005/5/4)

『デルス・ウザーラ』

先日。新文芸坐で『デルス・ウザーラ』(1975年公開)を観た。黒澤明が少数の精鋭のみを率いて、ロシアに乗り込み、準備期間を含め2年半をかけて撮り上げた力作である。日本映画の将来に絶望し、未遂に終わったものの浴室で自殺を図った黒澤。衝撃の事件に世間は鳴動したが、一部マスコミには「甘えるな」「見っともない」などとボコボコに叩かれた。日本の報道機関(他の国も同様なのだろうか)は弱者や辛い立場に陥った者に対して、異常に冷たい態度を見せる。撮影現場における鬼神のような姿の影響だろう。我々は黒澤に「強い」イメージを抱いており、またそれを求めている。しかし、恐ろしく大胆な人間は恐ろしく繊細な部分を持っているものである。黒澤も子供のような「弱さ」を内包する人物であった。マスコミの容赦のない攻撃は彼の精神をズタズタに切り刻んだと考えられる。まさに「どん底」にまで落ち込んだ巨匠だが、この『デルス・ウザーラ』で見事復活を果たしたのである。普通の人間なら再起不能になってもおかしくない状況を逆転した黒澤の強靭なる生命力。やはりこの人のヴァイタリティは日本人離れしている。

原作はウラジミール・アルセーニエフの『デルス・ウザーラ』である。シベリアの地誌調査を命じられたアルセーニエフの密林探検記。ロシア大好きの黒澤の愛読書のひとつであり、彼はその映像化を以前から狙っていたという。その夢が本場で実現したのだから凄い。才能のある人間は幸運を呼び寄せる能力も備えているようだ。脚本は至ってシンプル。アルセーニエフ(ユーリー・サローミン)と自然児デルス・ウザーラ(マキシム・ムンズーク)の交流が静謐なタッチで描かれている。過剰な感情移入を避けた黒澤演出が冴え渡る。だが『影武者』『乱』ほどには突き放していない。その視線には微量ながら温もりを感じる。この映画に『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『用心棒』等の血湧き肉踊る娯楽活劇を期待していた向きには拍子抜けとも言える展開である。これは物語の面白さよりも映像の力で観客を引っ張る種類の作品だと思う。実際、冒頭から息を呑むような美しい瞬間の連続であった。黒澤初の70ミリ作品。クールにしてダイナミックな映像の数々。この素晴らしさは劇場の大スクリーンでしか味わえない。最近は邦画も洋画もテレビの画面にぴったり収まってしまう軟弱映画が主流だが、これは違う。これこそが本物の手触りである。言うまでもないが、出演者はロシア俳優で固められている。黒澤好みの堂々たる偉丈夫が集められており、重厚な演技を披露している。過酷な自然環境に敢然と立ち向かう勇姿はまるでサムライがロシアの大地に転生してきたかのようである。男らしく潔い作風。ああ。俺は黒澤映画を観ているんだな。不思議な感動が全身を走り抜ける。

映画終盤、アルセーニエフの家族が登場する。壮大なロケーションから一転して、アルセーニエフの屋敷が舞台となる。丁寧に作られた立体的なセットである。これは『天国と地獄』の逆パターンだろうか。視力の衰えたデルスを歓迎する妻と子。どちらも大変な美形だ。尊敬する父親を窮地から救ってくれたデルスは息子にとって最大の英雄である。少年と老人。語り合う2人を物陰からそっと見守る夫婦。彼らを同時に捉えた場面はこの映画最高の見せ場である。だが、カメラはあくまでも動かない。カメラが接近する事によって生じる嘘寒さを回避する為の処置であろう。黒澤らしい徹底振りだ。この日。俺は残務整理に追われていた。終了後、電車に飛び乗り、上映開始ギリギリの時刻に新文芸坐に滑り込んだのだった。昼食以降、何も食べておらず、空腹は極限に達していた。一応鞄の中には食糧を忍ばせておいたのだが、サンドイッチなぞを齧りながら観るのはこの映画に対して無礼だと思った。勿論間食は中止。サンドイッチは翌日の朝食に回す事にした。劇中、飢餓状態に陥ったアルセーニエフ隊とデルスがとある民家に立ち寄り、魚料理を振舞ってもらう場面がある。適度に焼けた魚(塩漬けにされた河鱒?)を鷲掴みにして貪り食べる探検隊一行。実に美味しそうであった。美食(大食)家として鳴らす黒澤だが、その作品には意外と食事場面が少ない。それだけにこの場面は印象的であった。自身の腹の減り具合と併せて生涯忘れられないエピソードになるだろう。

傑作誕生を支えたロシア(撮影当時はソビエト)国営撮影所モスフィルムに俺は限りない好感を覚える。黒澤天皇と言えど単独では映画は撮れない。外交能力に長けたプロデューサー、優秀なスタッフとキャスト。そして撮影所の全面協力があって初めて映画は完成するのである。その点、モスフィルムの頑張りは特筆に価する。総勢200名のロシアスタッフは黒澤映画に精通しており、彼の才能に心酔していた。契約書に記された「芸術、創造の問題点に関しては、全て黒澤監督の判断と意向に基づいて解決する」という条項を守るべく、彼らは粉骨砕身、東奔西走の大活躍を繰り広げたのである。黒澤が「野生の虎を連れて来い」と吼えれば、捕獲部隊を編制し、洪水で撮影用道路が使用不能になったら、赤軍を派遣して新しい道を切り開く。後に「あんなにしんどい仕事はなかった」と黒澤が回想しているように、極寒のロシアにおける映画製作は想像を絶する苛烈さであった。そんな中、ロシアスタッフの手厚いケアには黒澤も随分救われたのではないかと思う。言語も文化も歴史も異なる両者だが、同じ映画人として、彼らは強固な絆で結ばれていた。その繋がりは劇中のアルセーニエフとデルスの友情を連想させる。撮影中、ロシア語のわからない黒澤が微妙な演技ミスを即指摘して、主演の2人を吃驚させた事もあったという。映画監督の本能がなせる業なのか。ここまでくると神秘的でさえある。その日の撮影が終われば当然酒宴となる。全盛期の日本映画を髣髴とさせる活気熱気がその撮影所には息づいていたのだ。王様も終始御機嫌であった。大いに食べ、大いに呑み、大いに語ったそうな。言葉が通じるとか通じないとか、そんなものはとっくに超越している。彼らの中には「映画言語」が確かに存在しているのだから。ロシアで過した時間は巨匠の傷を癒す効果もあったようである。この後、黒澤明は日本での映画作りを再開する訳だが、その過程には様々な困難が待ち構えていた。黒澤の世界的才能を発揮するには日本はあらゆる意味で狭過ぎた。この人は日本ではなくロシアに生まれるべきであったのかも知れない。その方が幸福な監督人生を送れたのではないかとふと考えたりもする。

(2005/4/23)

『白い巨塔』

先日。近所の図書館で『白い巨塔』(1966年公開)を観た。腐りに腐った大病院の舞台裏を鋭く抉った問題作である。この前年に公開された黒澤明の『赤ひげ』の対極に位置する作品と言えよう。あちらが光(理想)なら、こちらは闇(現実)という訳である。原作は山崎豊子。因みに監督の山本薩夫はこの後も山崎の小説を原作にした映画(『華麗なる一族』『不毛地帯』)を手掛ける事になる。どちらも秀作であり、山崎&山本の相性の良さを物語っている。松本清張と先日亡くなった野村芳太郎との関係に酷似している。さて『白い巨塔』だが、優れた素材を得た山本が持てる演出手腕をフル稼動させている感があり、文句なしの代表作に仕上がっている。監督自身、撮影中に傑作をものにした手応えを感じていたのではなかろうか。ジャンル的には文芸映画に属する作品だが、殊更身構える必要はない。娯楽映画としても充分成立している。観る者は気軽に楽しめば良い。巧みな脚本、贅沢な配役。そして隅々まで計算の行き届いたモノクロ映像が素晴らしい。大映映画の美術水準の高さを再認識した。どの角度から眺めても「これが映画なんだ」というエネルギーが横溢しており、久々に映画という名の御馳走を腹一杯堪能した次第である。やっぱり山本映画は面白い。このところマンガみたいな料理ばかり食べて(食べさせられていた?)ので、余計にそう感じたのかな。

主演は田宮二郎。出世欲の塊のような男を熱演している。財前五郎。名門・浪速大学病院が誇る食道外科のエース。癌の手術に関しては国内有数の腕前を持つ傑物であり、そのメス捌きは芸術的でさえある。彼のお陰で死地を脱した者も多い。最近の財前は単に手術を成功させるだけでは飽き足らず「タイムレコード」の更新に夢中になっている。患者の体調や回復よりも執刀時間の短縮の方に彼の興味は向いているのだ。この野心家には自分の天才的技術に酔っている節がある。それが他人には傲慢尊大に映る。常に自信たっぷりの態度を崩さない財前を快く思わない者は院内にも少なくない。逆に次期教授の第一候補たる彼に近づく事で、そのお零れを授かろうと目論む連中もいる。今や浪速病院は財前派と反財前派という二大勢力によって真っ二つに割れているのだ。財前の冗長振り、暴走振りには師匠である東教授(東野英治郎)も心底ウンザリしている。幾ら手術を早く終わらせたところでそんなものは手柄にならん。我々医学者は運動選手じゃないんだ!と財前スタイルを厳しく非難追求しているものの、当の本人は全く耳を貸そうとしない。美しい師弟関係などは山本ワールドとは無縁なのだ。こんな厚かましい男に俺の後継を任せていいのか?東教授の弟子に対する不信は根深い。やがて浪速病院は血塗れ金塗れの戦場へと変貌してゆくのだった…。

生涯最高のハマリ役を嬉々として演じる田宮が抜群に良い。余談だが田宮はカツシンに相当な対抗意識を燃やしていたらしい。カツシンにはカツシンの、田宮には田宮の領域や持ち味があるのだから、そんな事を言っても仕方ないし、キリがあるまい。しかし田宮は真剣であった。衝撃的な猟銃自殺もカツシンコンプレックスが一因ではないのかという噂すらある。あくまでも噂だが。更に余談を重ねると田宮の自殺方法は『華麗なる一族』(1974年)における仲代達矢のソレにそっくりである。この作品には田宮も出演しているので偶然の一致とは考え辛い。そんな田宮にとって『白い巨塔』の財前役は「カツシンを超えた瞬間」と言って良いだろう。どんな手段を用いても権力の座を狙うアクの強さ。もしかしたらこの世の誰も信用していないのではないかと思わせる冷徹な眼差し。それでいて何処かマザコンの気を漂わせる男。何もかもかが田宮が演じる為に設定されたかのようなキャラクターである。さしものカツシンもこの役だけは似合うまい。

財前の教授昇格を巡って浪速病院は大揺れに揺れる。陰謀策謀が渦巻き、札束賄賂が乱れ飛ぶ。叡智集団の代表格(の筈)であるお医者さん達が見苦しい争いに血道を上げている。その醜態を見ていると段々アホらしくなってくる。哀しいやら情けないやら可笑しいやら。現実世界もこれと大差ないとすると、暢気に笑ってもいられなくなってくるけど。でもエリート連中も欲の皮が突っ張っている点では俺達と一緒なんだなと少し安心したりする。世の負け組諸君、元気を出せ。勝ち組の奴らも大した事はやっていないらしいぞ。俺達は俺達で自分らしく真っ当に生きてゆこうぜ。権謀術策を弄して手に入れた王座などは所詮幻影に過ぎないのだから。ところで、この病院には俗物か狂人しか務めていないのかな?と一寸心配になるが実はそうでもない。今津教授(加藤嘉)や里見助教授(田村高廣)のような医学に人生の全てを捧げている者もいる。言うなれば「赤ひげ的」な先生である。残念ながら彼らは少数派であり、この組織の主導権を握れるような立場ではない。劇中、財前の取り巻きどもがすき焼きを食いながら、奴は時代遅れのヒューマニストさ。と里見を罵る場面がある。時代遅れ。ヒューマニスト。この発言は黒澤天皇を指しているような気がするのは俺だけか。今津や里見がこの病院のリーダーになるのが本道であり、入院患者も心強いのだが、生粋の学者である彼らには金儲けの才覚は恐らく皆無だろう。彼らのやり方では浪速病院の経営も難しくなってくる。これは大病院(と言うよりもあらゆる組織か)が抱える永遠の矛盾と言えるかも知れない。イデオロギーの違いから財前と対立する里見。里見は財前の高度な技術力を認めるのと同時に一連の行動を激しく攻撃する。映画後半、財前は票集めの一環として里見の家を訪ねる。結局交渉は決裂するのだが、財前の住む豪邸に比べると、里見の暮らしがどんなに慎ましいものかが一目で判る仕掛けになっている。両者の生活格差を台詞ではなく映像で説明してしまう鮮やかさ。映像と言えば有名な「大名行列」の場面が痛烈な印象を放っている。作品の随所に挿入される手術場面も迫力がある。更に田宮の周りを強力な脇役陣が固めている点も注目に値する。特に日本医学会の重鎮の一人とされる船尾教授に扮した滝沢修の存在感が凄過ぎる。要所要所に現れては持前のバケモノ振りを大いに発揮して、映画に厚味を加えているのだ。見所満載、毒気満載の重量級映画である。ここまで中身が濃いと2時間半なんてあっと言う間だ。医療ミスを犯した財前を裁く法廷で不利な証言をした里見。彼が浪速病院を放逐される所でこの異色大作は幕を閉じる。悪党側の完全勝利で終わる辺りは如何にも山本らしい。

(2005/4/16)

『大怪獣空中戦/ガメラ対ギャオス』

先日。ひょんな所で『大怪獣空中戦/ガメラ対ギャオス』(1967年公開)を観た。いや、観直した。この映画は餓鬼の頃に観ている。尤も劇場ではなくテレビだが、大映特撮ならではのおどろおどろしい雰囲気に臆病な俺は恐怖したものだ。あれから20年近くの時間が経過している。久々の再会という訳だ。紛れもないお子様ランチだが、全体的に丁寧な造り。お客が誰であろうと手を抜かないスタッフに映画職人の心意気を感じる。大映名物の「ガメラシリーズ」もこれが第3作となる。製作当時、大映は特撮の老舗たる東宝との直接対決を避けて『ガメラ対ギャオス』を春休み映画の目玉として公開したそうな。東宝が夏と冬に特撮番組を組んでくる事を把握した上での処置である。子供側としては長期休暇の度に怪獣映画が観られるのだから大満足であろう。しかし、その裏では大人達の様々な思惑が動いていたのだ。さて、シリーズも3作目となると、主人公ガメラに関する説明の必要性は薄くなる。重要なのはガメラと激突するライバル怪獣の設定である。どれだけ魅力的な悪役を創造する事が出来るか。それが作り手の悩みでもあり、腕の振るい場所でもある。その意味ではこの映画は成功作と言えよう。とにかく敵役ギャオスのキャラクターが抜群に面白いのだ。まずガメラ同様、高速で空中移動が可能である。加えて「超音波メス」という恐るべき飛び道具も装備している。この光線が煌く時、あらゆる物体は瞬時にして切断される。自動車だろうが戦闘機だろうが名古屋城だろうが、一刀両断。これほど「斬る」というイメージを鮮やかに表現した能力も稀だろう。俺も超音波メスのような切れ味鋭い映画評を書いてみたいものである。更にギャオスは再生能力&消火機能(ギャオスは炎が苦手なのだ)も持っており、まさに生ける戦闘マシンとでも呼ぶべき存在である。如何なる進化を重ねればこのような生物が誕生するのだろうか?ダーウィン先生が聞いたら発狂するぞ。窮地から脱する為には自分の足を切り落とす事も厭わないギャオス。かの吉良吉影を髣髴とさせるアクの強さ。己が特異体質を前提にしての荒業だろうが「生」に対する並々ならぬ執念を見た。ギャオスは平成の傑作『ガメラ/大怪獣空中決戦』(1995年)にも出演を果たしている。新生ガメラと死闘を演じてファンを喜ばせた。ギャオスこそガメラ最大の好敵手だと俺は考えている。その割にはギロン(出刃包丁の化身のようなフォルムが良い。加えて《大悪獣》という肩書きもイカス)の試し斬りに使われていたけど…。俺としてはギャオスを主役に据えた番外篇が観たい。対戦相手は大魔神辺りが適当じゃないかな。第1戦は大魔神の快勝。巨人の豪剣がギャオスの首をぶっ飛ばし、容量を間違えたんじゃないのか?と危惧させるほどの派手な血飛沫が迸る。地域住民は大迷惑だ。勿論、大魔神に面と向って抗議出来る者は一人もいないが。第2戦は奇跡的に蘇生したギャオスの奇襲が決まる。不意討ちを食らった大魔神は煮え滾る溶岩の中へ突き落とされる。最終ラウンド。決戦の舞台はオリンピック開催中の大阪が有力だが、今作るとしたら愛知万博の会場が良いかな。接近戦においては無敵の強さを誇る大魔神に対して、ギャオスは空中からの超音波攻撃を仕掛ける。優劣不明の激しい攻防が続く。そんな中、大魔神の体内に埋め込まれた「究極爆弾」が作動を開始していた…おっと。妄想タイムはこの辺にしておくか。

ギャオスの好物は人間である。今回感じたのだが、ギャオスは意外に可愛い顔をしている。可愛いというのは些か言い過ぎかも知れないが、ユーモラスなデザインである事は確かである。そんなラブリーモンスターが人間をパクパク食べるのだから余計に怖い。人類の天敵である。こいつが増殖を始めたら人間は地球の王座から転落するだろう。流石に核兵器を使用すれば退治する事も出来ようが、懐に潜り込まれたら厄介だ。自国の首都にミサイルの照準を合わせる度胸のある奴はいまい。例え核爆発さえ「体験遊戯」の一環として組み入れてしまう何処かの無神経国家であろうと。この混乱に乗じて敵対勢力の覆滅を目論む輩もいるだろう。ギャオス迎撃作戦がいつのまにか人間同士の殺し合いに繋がらないと良いが。もし核戦争が勃発すれば人類の滅亡は免れまいが、異常な生命力を有するギャオスなら話は別である。放射能に汚染された大地でも逞しく生きてゆける筈だ。或いは強烈な放射線を浴びる事によって新たな進化を遂げる可能性もないではない。そうなれば、地球はギャオスの楽園と化すだろう。生き残った人類は彼らの餌に過ぎない。しかし、第一級危険生物ギャオスにもひとつだけ弱点がある。太陽光線。ギャオスの細胞は紫外線に触れると崩壊現象を起こすのである。それ故にギャオスは夜行性なのだ。陽光が降り注ぐ日中は地下奥深くにある住処にじっとしているしかない。ギャオスの生態を研究した人類の反撃が始まる。ギャオスの目を回して、行動不能に追い込もうという計画が立案され、実行に移される。名付けて「回転作戦」である。フラフラになったギャオスは地面にぶっ倒れ、ジタバタしているところを朝陽によって焼き殺されるという寸法だ。かなり大雑把な作戦だが、人肉を好むギャオスを合成血液で誘き出すというアイディアは秀逸である。ギャオス君は然程グルメではなかったらしくイミテーション血液を美味しそうにゴクゴク飲んでいた。これに下剤か毒薬でも混ぜておけば相当な打撃を与えられたような気もするが。後は東宝からメーサー殺獣砲車を借りてきて(おいおい)腹痛にのた打ち回るギャオスを徹底的に狙い撃ちすれば、人類はガメラ登場を待たずしてこの難敵を仕留めていただろう。要するにギャオスの飛行能力を奪えば良いのだ。最後のトドメは太陽が刺してくれる。映画前半、海中のガメラがギャオスに受けた傷を癒す場面がある。この映像は我が脳内に朧げではあるが記録されていた。こういう細かい部分が案外印象に残っていたりするものだ。人間の記憶とは本当に不思議なものである。ところで、正義の怪獣ガメラ君の食生活は一体どうなっているのかねえ。あの巨体を維持する為には莫大な量のエネルギーを摂取しなくてはなるまい。その辺の鯨でも捕まえて、ステーキにして食べているのかな。その光景を想像すると妙に可笑しい。仮にガメラがダークサイドの怪獣だとして、宿敵ギャオスのように人間を食ったらどうなるか?その際は甲羅に生えた鱗のひとつひとつが食べた人間の顔に変じるであろう。どうだ。気に入ったかね、不動明。これが真の芸術だぜ。カカカカカカ…って、それは『デビルマン』のジンメンだろっ!

(2005/4/5)

『エイリアン VS.プレデター』

先日。新文芸坐で『エイリアン VS.プレデター』(2004年公開)を観た。米産二大モンスターの激突だ。エイリアンにもプレデターにもさして愛着のない俺だが、主役級キャラクターが肩を並べるタイトルを見るとどういう訳か背筋がゾクゾクする。娯楽映画ならではの「夢の対決」の実現である。パロディ的な面白味もある。日本映画にもこの種の作品は少なくない。製作側としてもある程度の収穫が見込めるので、企画が通り易いのだろう。かの怪獣王は悪役時代に『キングコング対ゴジラ』『モスラ対ゴジラ』にて自分と互角の個性を有するスター怪獣と死闘を演じている。カツシンと三船敏郎が生涯最高の役で共演する『座頭市と用心棒』なんて楽しい映画もあるし『極道VS不良番長』『極道VSまむし』などというB級ムード満点の作品もある。節操のない命名がかえって素敵である。柳生十兵衛が怪物化した親父や宮本武蔵や天草四郎を退治する『魔界転生』は「夢の対決映画」の最高峰と呼んで良いだろう。そう言えば『マジンガーZ対デビルマン』というイカス映画があったな。作画水準も高いし、国産アニメ映画の傑作の一本に俺は数えている。当世は高尚アニメ、哲学アニメが主流のようだが、この作品のような理屈抜きの面白さこそアニメ映画の王道ではないだろうか。マジンガーワールドにデビルマンが遊びに来たぞ!ってな感じが痛快至極だった。クライマックス。大ピンチに陥ったデビルマンを救出すべく、飛行能力を得たマジンガーZが敵陣に斬り込む怒涛の展開に血湧き肉踊らない奴はまずいまい。ただタイトルの中に「対」と謳っているのに、マジンガーZとデビルマンが全然戦わないのが子供心に疑問であり、不満でもあった。実はこの映画は両雄が「戦う」のではなく、そのカッコ良さを「競う」作品である事に俺が気づいたのは、随分後の話である。この映画も名作SF『空飛ぶゆうれい船』同様、餓鬼の頃に何度も観た記憶がある。

さて『エイリアン VS.プレデター』である。この映画に俺が期待するものはただひとつ。ルール無用のデスマッチ。これである。悪党と悪党が戦う訳だから「善玉VS悪玉映画」と同じ事をしていてもツマラナイし、この映画を作る意味すらない。御存知のように正義の味方やスーパーヒーローには様々な制約が課せられている。故に思わぬ窮地に追い込まれてしまう事もしばしばである。だが、こいつらにはそのような束縛や桎梏は一切存在しない。いや、存在してはいけないのだ。相手をブッ殺す為には何だってやる。卑怯だろうが汚かろうが要するに勝てば良いのだ。その辺りをとことん追求すれば通常の活劇映画とは一味も二味も違う異様な面白さを醸す事が可能となる。お客の方も予測不可能な激戦血戦を楽しめるという仕掛けである。ところが、この映画の作り手にはそんな気はサラサラなかったようである。宇宙を代表する(?)凶悪生物が揃っているのにどちらも妙にお行儀が良く、戦闘場面がとにかく生温い。温い映画は観ていて辛い。途中から退屈と眠気を覚えた。物語が進む内にプレデターがどんどん人間臭くなるのには驚くやら厭きれるやら。最後は笑ってしまった。男どもは容赦なくブチ殺すプレデター先生も女には案外甘い。恐らく子供にも優しいのではないか。手を振ったらチョコレートをくれるかも知れない。鑑賞後、監督のインタビューを読んでいたら「プレデターに関してはマカロニウエスタン時代のクリント・イーストウッドをイメージして作ったんだ」と答えていたので、こりゃ駄目だと思った。極悪非道に徹してこそプレデターを主役に起用した価値も出てくるというのに…。プレデターもエイリアンもゲテモノではあるが、ユニークな素材である事は間違いない。料理の仕方が下手糞なばっかりに両者とも哀れ御陀仏と相成った。勿体ない勿体ない。

プレデター一族がエイリアンを養殖していたという驚愕(でもねえか)の事実がこの映画で判明した。それも食糧としてではなく、趣味の道具としてである。瞬間、琵琶湖にブラックバスを大量放流して喜んでいる釣りマニアを連想した。かの一族は「エイリアン牧場」として俺達の地球を選んだ。無論、他の惑星でも似たような行為を繰り返しているのだろう。実に迷惑な連中である。まあ。彼らにしてみれば全宇宙が家であり庭であるのだろうけど。でも本拠地には「牧場」はひとつもないんだろうな。ほら、よくいるじゃないですか。公共の場所は幾ら汚しても平気だけど、自宅や敷地内は病的に綺麗にする輩が。巨大な宇宙船を操り、星の海を自由自在に駆け巡るプレデター。我々人類には及びもつかぬ高度な科学文明を誇りながら、やっている事と言えば養殖エイリアンのハンティングかよ。暇と言うか何と言うか。一寸スケールが小さ過ぎやしないか?他にやる事はないのかね。自分の能力をもっと有効的に使おうよ。この物語の舞台は南極に埋没した古代遺跡である。内部セットはそれなりによく出来ていたと思うが、使い古された設定である事は否めない。どうせデタラメな映画なんだから、もっと壮絶な法螺を吹いて欲しかったね。例えば水上都市エドなんてどうだろう。池波正太郎のエッセイによればエドはかのヴェニスに匹敵する水の都であったという。ここへプレデターとエイリアンが侵入してきたら大変な騒ぎになるぜ。プレデターが屋台の蕎麦を食べに来るとか。バカ殿が侍女を強姦しようとしたら、女の腹を突き破って出現したエイリアン(幼虫)に憑依されちゃうとか。エド城の天辺で血のように赤い満月をバックに二強が猛烈なチャンバラを繰り広げるとか。そんな爆笑(失笑?)場面満載の娯楽大作に仕上がるぜ。勿論、人類側も決死の反撃を開始する。その中心人物となるのが、謎の凄腕浪人と幕府直属の最強暗殺者である。前者は藤岡弘が後者は千葉真一が演じるのは言うまでもないだろう。ついでに陰陽師とくノ一も参加させるか。と…妄想幻想は際限なく膨らむが、冗談抜きでエドの詳細を捉えた映画を観てみたいと考えるのは俺だけではあるまい。全盛期のクロサワに200億円ぐらい渡したら作ってくれたかな。凝りまくる巨匠の事なので完成までに数年かかったりして。現在、地球上でエドの具現化が可能なのはハリウッドのみ。最近やけにジャパンづいているから、満更夢物語でもないと思う。但し脚本はちゃんと書いてね。

(2005/3/19)

『東京原発』

『笑の大学』に続いて『東京原発』(2004年公開)を観た。以前「都内に建造された原子力発電所を狙ってゴジラが東京を襲撃する映画があったら面白いのになあ」と考えていたのだが、とっくにこんな映画が作られていたんだね。いやいや参りました。流石にゴジラは攻めてこないが、その代わりとして(?)小生意気な爆弾小僧が登場して大人達を翻弄する。後先を考えずに暴走行為を繰り広げるオタク野郎は怪獣よりも厄介である。間違いが起きない内に駆除しておいた方が世の為かも知れない。あ。そうなると俺も捕まっちゃうか。今の発言は撤回しますね。因みにこの映画の主人公はオタクではなく、豪腕で鳴らす東京都知事(またしても役所広司)である。言いたい事はズケズケ言うし、やりたい事はガンガンやる。とかく強引さが目立つ政治姿勢に対して、内外の猛烈な反発が集中しているが、大衆のウケはずば抜けて良い。巧みなマスコミ戦略が人気維持の秘訣である。自分のアクの強さを逆に利用してしまう辺りは相当なしたたか者と言えるだろう。この人物造形は石原裕次郎の兄貴の影響が多分にあると思われる。破天荒な大将を支える家臣団の苦労は並大抵のものではない。ボスが動く度に何らかの破壊と騒動が巻き起こる。その後始末をこなすだけでも大変な重労働だ。これ以上はつき合い切れねえとリタイアしたくなる事もしばしばである。だが、この名物男が人を引き寄せる不思議な魅力を備えているのも確かである。だからこそ忠誠を誓う価値もあるのだ。そのボスがまたまた想像絶するアイディアを打ち出してきた。慢性的財政難を打開する起死回生の策として、東京に原子力発電所を誘致しようと言うのだ。側近連中の顔色がサッと変わる。彼の奇抜な行動や発想にはこれまで散々驚かされてきたが、今回の「東京原発構想」は桁外れだ。都庁の隣に原発を建てるって?秘策と言うより愚策ではないのか。それも史上最悪の愚策である。ついに俺達のボスは気が狂ってしまったのか?

時々「ん?」と首を傾げたくなる展開や納得のゆかない台詞があるものの、中々面白い脚本である。扱っている題材も刺激的且つ挑戦的だ。毒にも薬にもならない「安全映画」ばかり量産していても邦画界は盛り上がらない。それは良いのだが、全体的に演出の切れ味が鈍いのが気になる。それ故に損をしている場面が沢山あった。監督自身が脚本を手掛けているのにこの有様は何だろう?頭の悪い俺には分析し難い現象である。役所の脇を段田安則、平田満、吉田日出子、岸部一徳と言った芸達者が固めているのだが、それぞれが個性や実力を発揮出来ないままに映画が終わってしまったという感じである。さしもの役所も精彩を欠いており、唯一岸部のみがユーモラスな味わいを醸している。幾ら名刀利剣を集めてみても遣い手の腕前がナマクラでは大きな成果は望めない。まるでテレビドラマのような薄っぺらい映像も減点対象である。この監督は脚本家業に徹した方が好結果が得られるのではないかと余計な事を考えたりする。

主要メンバーを押しのけて、不気味な存在感を示しているのが物語中盤から登場する東大教授(綾田俊樹)である。物理学のオーソリティたる綾田先生が原子力発電に纏わる虚飾の数々を鮮やかに暴いてくれる。原子力発電が如何に効率の悪い発電手段であるのか、原子力発電にどれだけの国家予算が割かれているのか、放射性廃棄物の効果的な処理方法は存在するのか、原発事故による被害者数や被害範囲の規模はどの程度のものか…そんな我々が知っているようで実は何も知らない原発情報を先生は淡々とした口調で丁寧に解かり易く説明してくれる。先生が語る途轍もない内容にはSFめいた恐怖を感じる。瞬間気が遠くなるが、すぐにこれはSFなどではなく現実の問題である事に気づいて背筋が凍りつくという仕掛けである。そこらの凡百ホラー映画よりも綾田先生の原発講座の方が遥かに恐ろしい。やはり原子力は人間の手に余る「神の領域」なのだろうか。人類は自ら開発したエネルギーによって滅びてしまうのか。今更江戸時代の生活水準に戻れと言っても戻れないし、そろそろ何処かの天才が「シズマ・ドライブ」でも作ってくれねえかな。原発問題。このまま放置しておくと本当にヤバイぞ。映画を観ている途中「この脚本は映画よりもむしろ演劇に向いているな」という妄念が俺の中に湧いてきた。勿論、部分的な修正改良は必要だが、芝居の台本として充分通用すると考えられる。舞台装置は都庁内の会議室ひとつで済む。見栄えのする立派なセットを拵えて欲しい。後は巧い役者と優秀な演出家を揃えれば三谷喜劇に比肩する傑作に仕上がるのではないかと思った。今夜は図らずも「人気演劇の映像化に取り組んだ映画」と「映画的面白さよりも演劇的面白さが勝る映画」の両方を観たという訳である。奇妙な巡り合わせと言うべきか。或いはこれも新文芸坐の目論見の内なのか。映画大陸を長年彷徨っていると色んな事があります。

(2005/3/13)

『笑の大学』

先日。新文芸坐で『笑の大学』(2004年公開)を観た。三谷幸喜の秀作喜劇の映像化に挑んだ意欲作。この作品は元々ラジオドラマとして三谷が書き下ろしたものである。その後、舞台で上演されて好評を博した。そして昨年、めでたく映画化の運びとなった。三谷としても愛着の深い作品である事は間違いない。凝った構造を有する物語である。戦時下における創作活動の難しさ危うさを描きつつ、随所に抱腹絶倒の見せ場が用意されている。三谷の最高傑作は『笑の大学』だと力説する人も多い。俺は然程熱心な三谷ファンではないが、彼の発言や行動には興味を覚える。要するに気になる男なのだ。演劇にせよ映画にせよテレビドラマにせよ、三谷は常に笑いの要素を盛り込む事を忘れない。それが良い。どのキャラクターも強烈な個性と独特の愛嬌を備えており、実に魅力的である。主役にも脇役にも作者の愛情が均等に注がれている。この世には本当の悪人なんていないよ。彼の作品を観ているとそんな声が聴こえてくる。登場人物を物語を動かす道具としてしか考えていないアホ面脚本家がのさばる中、三谷の存在は極めて貴重である。

警視庁所属の検閲官と劇団《笑の大学》の座付き作家。国家の手先として忠実に機能する前者とお客を笑わせる事に喜びと生き甲斐を感じている後者。全く異なる属性を持つ二人の男が白熱の攻防戦を展開する。決戦の舞台は警察の取調室である。両者の感覚のズレが思わぬ笑いを呼び寄せる。激しい戦いを繰り返す内に二人は奇妙な友情を覚え始めるのだった。三谷は喜劇作家としての苦労を物語を支える柱としてちゃっかり利用している。この辺りが三谷のしたたかさと言えるのかも知れない。劇中劇という設定は今や珍しくもないが「劇の中で劇を作る」という趣向は新鮮な印象を受ける。石頭の検閲官がいつのまにか座付き作家と一緒になって喜劇作りに没頭してしまう展開が秀逸である。大の男が喜劇の一場面を巡って、ああでもないこうでもないと知恵を絞る姿はとても楽しく、微笑ましい光景である。しかし、彼らの背後には戦争という名のバケモノがじっと控えている。かの怪物は表舞台には決して登場せず、彼らのやり取りを虎視眈々と見詰めているのだ。この仕掛けが物語にある種の緊張感を与えており『笑の大学』をただの喜劇に終わらせていない。映画版のメインキャストは役所広司と稲垣吾郎である。役所が検閲官を稲垣が座付き作家を演じている。役所の巧妙な役作りはいつもの通り。融通の利かない検閲官を滑らかに演じており、安定感抜群である。堅物公務員も演(や)れば、特殊潜水艦の艦長も演る。役者稼業って本当に面白い。心配していた稲垣も予想外の健闘を見せている。何しろ主要人物が二人しかいない映画である。幾ら役所が頑張っても相方がふにゃふにゃでは作品自体が空中分解してしまう。最初はどうせ客寄せ用のパンダ配役だろっと決めつけていたのだが、中々どうして、芝居巧者の役所と互角に渡り合っているではないか。どうやら俺はジャニーズの実力を過小評価しているようだ。稲垣の個性を生かした演出も随所に施されており、彼の代表作となるだろう。

三谷戯曲の映画化と言うと中原俊の『12人の優しい日本人』(1991年)が記憶に残っている。この作品は終始演劇風の演出に徹しており、ある程度の成功を収めていた。では『笑の大学』の場合はどうだろうか?ラジオドラマや演劇では聴く者観る者の想像力に任せていた部分が、映画版では積極的に映像に置き換えられていた。この試みを面白いと思うか、或いは鬱陶しく感じるかが、この映画の評価を定める重大な分岐点となる。映画独自の味わいを出そうというスタッフの意気込みは感じられるものの、目新しい成果が見られないのが残念である。折角の映画化である。もっと冒険して欲しかった。例えば舞台を取調室に限定して全篇ワンカットで撮ってしまうとか。あっ。でもそれだとヒッチコック先生の真似になっちゃうか。かの黒澤天皇もゴーリキーやシェイクスピアの作品を好んで映画の題材に選んでいるが、どれも原作との壮絶な格闘を演じているのが窺える。演劇を映画に組み替える作業は本来ならクロサワ級の腕力が要求されるという事である。今更ながら演劇の映像化は難しいと思った。もうひとつ映画を観ていて気になったのだが、山場に差し掛かる度に画面がマンガになってしまうのはどういう訳か。落ち着いていたカメラが途端にグルグル動き出し、役所も稲垣もオーバーアクションを連発し始める。止してくれ。さっきまでの良い雰囲気が台無しじゃないか。作り手はもう少しお客を信用してもらいたい。俺達はバカじゃない(時々バカもいるが)。過剰な演出や芝居は不要であり、嫌味ですらある。これではこの作品の最大の武器である会話の面白さをも殺しかねない。妙な小細工に走る(逃げる?)のは、劇場の大画面を持て余しているからではないのか。あれこれとアラ探しに夢中の俺ではあったが、他の観客は大いに満足の様子であり、上映中、場内は何度も爆笑に包まれた。最近の俺は「感想文を書く為」に映画を観ているような所がある。毎回、今日こそは純粋な気持で観ようと思うのだが、どうも巧くゆかない。その割には文章能力は全然向上していないし、とにかく困ったものである。映画が終わり、周囲を見回すと客席はギッシリ埋まっていた。ほぼ満席の状態である。作品の出来はともかくとして、日本映画にこれだけの人数が集まってくれるのは嬉しいし、心強い。次の映画が始まるまで暫く時間がある。俺は席を確保した上で、売店に向った。腹はそんなに減っていないが、コーヒーが無性に飲みたかった。カフェイン切れである。以前はブラック一辺倒だったが、たまに甘ったるいカフェオレを頼んだりする。知らぬ間に味覚が変わってしまったのだろうか。でも酒と映画は辛口に限るよな。などと訳のわからない事を考えながらジャリ銭を準備する。今夜の終映時刻は十時半である。因みに毎週土曜はオールナイトの日だ。邦画洋画アニメ…あらゆるジャンルの名作を四本立てで一挙上映する。豪華ゲストを招いてのトークショーも意欲的に行われている。その際は一癖も二癖もある映画好きが大勢詰め掛けると聞いている。新文芸坐の夜は長く、そして熱い。

(2005/3/12)

『ローレライ』

先日。樋口真嗣の新作『ローレライ』を観た。太平洋戦争末期。瀕死の日本にトドメを刺すべく、合衆国は最終兵器の使用を決定した。原子爆弾の投下である。第一の爆弾は広島を地獄に変えた。第二、第三の爆弾も既に用意されているだろう。これを許せば日本列島は文字通りの焦土と化す。負け戦はもう回避出来ない。しかし国土と国民の滅亡だけは何としても防がなくてはならない。日本そのものがこの世から消え去ってしまうかも知れないのだ。原爆搭載機を要撃せよ。絶望的状況下、日本の命運を賭した最後の戦いに出撃する一隻の潜水艦があった。その名は《伊507》と言う。元同盟国のドイツが開発した最強クラスの潜水艦である。神出鬼没の作戦行動を展開するこの潜水艦は敵艦隊を恐怖震撼させた。正確無比の雷撃で僚艦を次々に沈める戦い振りを目撃する内に連合軍はいつしかこの潜水艦を《魔女》と呼ぶようになっていた。究極のレーダー兵器「ローレライ・システム」が魔女の強さを確たるものにしている。このシステムは戦場の地形や敵艦の数、位置等を×体×に×捉×能という画期的(悪魔的?)発明であった。攻めるにせよ守るにせよ逃げるにせよ、これを駆使すれば常に敵の先手が取れる。ドイツの軍事科学の結晶であり、従来の戦法戦術を根底から覆しかねない怪物である。だが、この最新鋭システムにはある残酷な秘密が隠されていたのだ…。

伊507の甲板には立派な大砲が装備されている。実際にこのような潜水艦が存在したのかどうかは俺にはわからない。一見不釣合いだが、中々味わいのあるユニークなデザインである。劇中、この主砲が担う役割は途轍もなく重い。特にクライマックスにおける大活躍は極めて印象的である。そんな特殊潜水艦を操るのは各部隊のはぐれ狼や落ちこぼれ。或いは激戦地に派遣されつつも持前の強運でことごとく生き延びてきた「死に損ない」どもである。岡本喜八の『独立愚連隊』(1959年)を髣髴とさせる歪んだ布陣だ。そして、このやさぐれ乗組員を率いるのが一部で「腰抜け」とバカにされる役所広司艦長である。精鋭だのエリートだのという言葉からは最も程遠い連中だが、それだけに人間味があり、感情移入がし易い。彼らが自分の夢や人生を語る場面が随所に挿入される。彼らも俺達と同じ血の通った人間なのである。もし平和な時代に生まれていれば、このような無茶苦茶な作戦に駆り出される事もなかっただろう。それでも愚痴も文句も言わず、過酷な運命を敢えて受け入れる彼らの態度は天晴れである。与えられた任務を黙々とこなすその姿に俺はサムライの心意気を見た。さて、役所艦長は何故「腰抜け」と呼ばれているのか?それは彼が「自爆攻撃は作戦とは言えない」という意見の持主だからである。なんだ。そんなの当り前じゃないかと仰る向きもあるだろうが、この物語の時代設定を思い出してもらいたい。カミカゼアタックが平気で奨励されているような狂った時代なのだ。その中で「特攻反対」を唱える事が如何に勇気の要る事か。ヘタをすれば国賊、非国民扱いされてもおかしくない。それを免れているという事が、この男の軍人としての優秀性を如実に物語っている。相変わらず忙しい役所が正義感溢れる熱血艦長を力演している。戦闘場面における堂々たる指揮官振りも見物だが、老眼鏡をかけて文庫本を読んだりする静かな場面も悪くない。その佇まいはこの人物の持つ厚味や貫禄を感じさせてくれる。数々の映画出演を経てきた実績はダテじゃない。役所はどんなキャラクターを演じても説得力を持たせられる本当に良い役者になったと思う。彼の代表作がまたひとつ増えた。

樋口としてはこの映画が初の本格的「人間演出」となる。2時間を超える長い物語を観る者を退屈させず、グイグイと画面に引き込み続ける手腕は鮮やかなものである。理屈よりも娯楽を優先する姿勢には好感が持てる。マンガ的と言うか、アニメっぽい演出が多用されており、やや鼻につくものの、映画自体が荒唐無稽な内容なので余り気にならない。ただやたらに人物のアップが多いのには正直食傷を覚えた。俺としては黒澤式の落ち着いた構図が好きなのだが、まあ、これは趣味嗜好の問題と言うものであろう。押井守、出渕裕、庵野秀明…スタッフの中にアニメ界が誇る猛者どもの名前が刻まれている。現在の日本映画の何割かは確実にアニメ勢力に支えられている事を改めて痛感させられた。この『ローレライ』などもその象徴的作品と言えそうである。伊507vs太平洋艦隊。大海原を舞台に息詰まるような攻防戦が繰り広げられる。戦闘場面の大部分はCG映像で表現されており、特撮愛好家の俺は大いに不満である。樋口ならではの特撮スペクタクルを待望していた者としては肩透かしを食った形である。とは言え、迫力満点の水中戦闘場面には思わず手に汗を握った。その緊迫感はCGアレルギーの俺でさえ魅了してしまう圧倒的パワーを有している。これら一連のCG場面を監督したのもやはり樋口である。怪獣映画で言えばドラマ部分と特撮部分の両方を演出するという離れ業を樋口はやりのけた訳だ。今回は初監督作品という事もあってか、所々に甘さや未熟さが見られるが、今後経験を重ねてゆけば充分に挽回可能である。樋口が本多猪四郎の演出力と円谷英二の想像(創造)力を兼ね備えた「万能型監督」に進化してくれる事を俺は期待している。それを実現させる為にもこの映画はヒットしてくれなくては困る。断じて困る。さあ、そこの君。家でゴロゴロしている場合じゃないぞ。ネット漂流なんて後にして、今すぐ近所の映画館を目指そうぜ。伊507の勇姿を劇場の大画面で是非堪能して欲しい。ローレライ・システム起動!

(2005/3/6)

『影の車』

先日。近所の図書館で『影の車』(1970年公開)を観た。松本清張原作の不倫映画。監督は野村芳太郎。やってはいけないと言われると人間は余計「それ」がやりたくなるものらしい。頭では理解していてもついつい深みにハマってしまう。よくある事である。全ての人類が「やってはいけない事」をやらなくなったら、警察も法律も裁判所も刑務所もその存在価値を失う事になるだろう。この映画の主人公(加藤剛)も「やってはいけない事」に手を出した者の一人である。通勤バスの中で同郷の女(岩下志麻)と偶然出会ってしまった時点から、加藤の悲劇は始まる。彼は旅行代理店に勤めている。事務処理が仕事の中心だが、忙しい際は自ら接客を行う。我儘な注文や希望に即座に反応して、的確な旅行プランを組まなくてはならない。てきぱきと能率良く仕事をこなす加藤の姿が印象的である。会話の内容を聞いていると、国内旅行がほとんどである。この時代、海外旅行はまだ珍しかったのだろう。何気ない職場の風景だが、公開当時の空気と言うか雰囲気のようなものも同時に記録されており、中々面白い。ふと見ると「万博旅行の御案内」なるチラシが画面を一瞬横切ったりする。70年代の都市風景を滑らかに捉えた映像も見物である。加藤は妻(小川真由美)と二人暮しである。子供はいない。加藤も真由美も子宝に関しては半ば諦めている。その影響があるのかも知れないが、真由美は自前のカルチャースクールを催している。これがかなり好評であり、加藤夫妻の部屋はさながらオバサン方の社交場(溜まり場?)と化している。日曜日ぐらいは静かな時間を味わいたい加藤だが、オバサン連中のアクの強さ、猛烈なけたたましさにウンザリしている様子である。そんな中、彼は志麻に遭遇したのである。志麻は校外の一軒家に息子(岡本久人)と二人で生活している。旦那は数年前に死亡しており、頑張り屋さんの志麻は女手ひとつで息子を育てている。最初は軽い気持で志麻の家に遊びに行った加藤だが、すき焼きやら蟹料理(故郷の名産)やら、訪ねる度に美味しいものが食べさせてもらえる。我が家の貧弱な食卓とは比較にすらならない。いや、我が家よりも居心地が良い。断然良い。彼女は俺に好意を抱いている。俺も彼女が好きだ。オトナの男女が毎晩顔を合わせていれば、自ずとやる事は決まってくる。二人は当然のように肉体を重ねるようになった。息子が眠る部屋の隣で濃厚なセックスに耽る加藤と志麻。

堅物俳優の代表のような加藤に不倫に傾倒する男を演じさせるとは結構大胆な試みである。仮に山崎努や緒形拳や中尾彬と言った個性派にこの役を演じさせてみたらどうだろうか。芝居巧者の彼らの事である。適度なユーモアを交えつつ凝った演技を披露してくれるだろう。それぞれがどんな芝居を展開してくれるのか観てみたい気もする。だが、意外性という面では加藤に軍配が上がるのではないかと思う。加藤としてもやり甲斐のある仕事だったに違いない。毎回毎回、糞真面目な役ばかりでは観る側も演じる側も厭きてしまう。たまには異質な系統の役を演じた方が新鮮だし、芸の肥やしになるというものだ。加藤の個性を生かした演出も素晴らしく、これは配役の妙と言うべきものであろう。後の大作『砂の器』(1974年)における作曲家役のルーツはこの抜擢にあったのである。6歳の子供に殺意は芽生えるのか?というのがこの映画の最重要テーマである。志麻との仲が親密になればなるほど、息子との軋轢関係が深刻化してゆくという構図である。加藤も何とかこの息子を懐柔しようと、様々なプレゼントを持参するのだが、作戦はことごとく失敗する。懐柔どころか、毒饅頭を食わされるわ、家に閉じ込められた上にガス栓を捻られるわと散々な目に遭わされる。この息子は相当な曲者であり、何を考えているのかさっぱりわからない。加藤に対して憎悪の念を燃やしているのは確かだが、招かれざる客を家に引き込んだ母親も怨んでいるような節もある。最初はただの端役だと考えていたのだが、映画が進行する内にジワジワと自我を発揮。この物語の鍵を握るキャラクターとして加藤、志麻にも劣らぬ存在感を示すようになるのだ。それにしても不気味な餓鬼である。最終盤、加藤は警察に連行されて、冷徹刑事(芦田伸介)の執拗な尋問を受ける。あの子は俺を殺そうとしたんだ。だから俺は自分の身を守った。あれは正当防衛なんだ…。加藤の主張は妄想幻想の類いとして全く相手にしてもらえない。絶望に打ちのめされた彼の脳裏にある忌まわしい記憶が蘇る。もう2度と思い出したくないと考えていた記憶が、遥かな時を超えて、まるで時限爆弾のように彼の人生を破壊するのである。過去は未来に復讐すると言ったところか。過去に作った「借金」はいずれ清算しなくてはならない。過ちの度合によって「利子」も大きくなるので注意が必要である。俺(あなた)にもいずれ過去に食い潰される日が来るのだろうか?その前に墓に入ってしまえば俺(あなた)の勝ちなのだが…。何処まで逃げ延びられるか、お互い走り続けるしかなさそうですな。

(2005/3/4)

『マタンゴ』

先日。京橋のフィルムセンターで『マタンゴ』(1963年公開)を観た。本多猪四郎&円谷英二。特撮映画の黄金コンビが放つ最強の異色作。主要登場人物は7人しかおらず、物語は絶海の孤島を中心に進行する。実験精神に富んだ斬新な構造。ヒッチコック先生も吃驚だ。それもなるほどと思った。何故なら、この物語の土台を組み立てたのが、星新一と福島正実という日本SF界の二巨人だからである。ウィリアム・ホープ・ホジスンのホラー小説『闇の声』が発想の原点になったという。鉄格子の嵌った部屋に閉じ込められた男の独白から映画は幕を開ける。どうやら男はキ××イとして「ここ」に収容されているようだ。男は静かに自分の体験談を語り始める。それは怪奇と恐怖に満ちた驚くべき物語であった…。つまり、この後に映し出される映像は全てこの男の回想という事になる。芥川龍之介の『河童』を思わせるオープニングである。男は仲間6人と共に大西洋ヨット旅行へと出掛けたのであった。男5人に女が2人。金持ちのドラ息子を筆頭に推理作家だの大学の助教授だの二流の歌手だのと言った顔触れである。遊びに関しては誰にも負けない強力メンバーだが、実務能力やサバイバル技術とは一切無縁の連中である。海神の怒り。日頃の行いが悪過ぎたのか、それとも単なる偶然か、彼らを乗せた高級ヨットは大暴風雨に巻き込まれてしまう。どうにか沈没だけは免れたものの、船は推進も操舵も不可能となり、ついでに通信機器もぶっ壊れた。最後の頼み綱だったラジオもバカな女が暇潰しに利用したせいで電池が切れてしまった。水も食糧も残り少ない。絶望の海を漂う壊れたヨット。この危機的状況に対して、ヨットの乗員は基本的に「じっとしている」だけである。この連中には協力とか団結とかいう発想自体ないようだ。乗員全員がヒーローとは程遠い存在であり、自分が生き残る為には仲間の死体すら食い出しかねない。感情移入出来るキャラクターが1人もいない。これだけでも当時のお子様には相当ショッキングだったに違いない。勘の良い子なら「あれ?この映画はいつもの怪獣映画や宇宙映画と雰囲気が違うぞ」と気づいただろう。だが、真の地獄はこれからだった。

ヨットはある島に漂着する。無人島である。人間どころか鳥も獣もいない。腹を空かせた7人は食い物を求めて密林を彷徨うが何も見つからない。彼らのイライラが絶頂に達しようとした時…海岸に横たわる巨大な人工物を発見する。難破船であった。恐る恐る中に入ってみると、船内は毒々しいカビに覆い尽くされていた。待望の保存食をゲットして狂喜乱舞する7人だったが、この船の乗組員は何処に消えてしまったのか?何らかの理由で全滅したのか?集団自殺でも起きたのか?だとしても死体ひとつ残っていないのは不自然である。何もわからない。とにかくこの船が途轍もないアクシデントに襲われたのは確かである。更に無気味なのは「船中の鏡が取り外されている」事である。謎や疑問を次々に繰り出して、観客の不安や恐怖を煽る仕掛けである。中盤以降、この難破船が彼らの生活拠点として活躍する事になる。とりあえず餓死の危険は脱したものの、事態が好転した訳ではない。ヨットは大破したままだし、助けを呼ぼうにも、貨物船1隻島の近くを通ろうとはしない。この島は人類の版図には属していない場所なのだ。いつ終わるとも知れない無人島生活。次第にメンバーの理性は剥がれ落ちてゆく。何とか正気を保とうと頑張る者もいるのだが、周囲の狂気に侵食されてゆくのだった。夜中にこっそり缶詰を盗み出す奴。ヨットを修理して1人だけ助かろうとする奴。セックスに走る奴。海亀の卵を1個10000円で販売する奴…極限状態に置かれた人間はどのような行動をするのか?そのシュミレーション映像と言った趣さえある。普段、正義面を振りかざしている奴ほど信用出来ない。いざ窮地に陥ると真っ先に逃走を開始するのがこの手のタイプである。勿論仲間や同僚の身なんて知った事じゃないのだ。自分さえ助かればいいのだ。自分さえ。うひゃひゃ。そんな醜悪な光景を俺はこれまでの人生の中で何度か目撃している。故にこの映画の展開には物凄いリアリティが感じられるのである。

やがてこの島の本当の支配者が我々の前に姿を現わす。第3の生命体マタンゴ。連日の雨が奴らの動きを活発化させた。正体不明のキノコが見る見る内に巨大化する場面が強烈な印象を放つ。そのデザインは嫌でも×起×た×ニ×を連想させる。上品な円谷映画には珍しい卑猥なイメージである。まるで悪夢の中に放り込まれたような気分になる。この怪キノコを食べたらどうなるか。その者には死ぬよりも恐ろしい運命が用意されているのだ…。衝撃的なラストシーンが観る者を震撼させる。相変わらず日本映画はホラー流行りだが、今から40年以上も前にこのような優れた作品が作られていた事は特筆に価する。本多&円谷の感覚が如何に鋭敏だったかという証でもある。ネタ不足に喘ぐハリウッドが再映画化させろと触手を伸ばしてくるかも知れない。でも、ハリウッドにはこの映画の持つ「観せない美学」なんて理解出来まい。恐らく、物語の舞台が辺境の惑星か何かに置き換えられて、能天気なSFアクションに改造されてしまうのがオチだろう。安直なリメイクはオリジナルを冒涜する最も愚劣な行為である。東宝は再映画化権を簡単に売らないように。この名作を汚す野郎は俺が許さねえ。そういう奴にはマタンゴ弁当を食べさせちゃうぞ。

(2005/2/27)

『麻雀放浪記』

先日。京橋のフィルムセンターで『麻雀放浪記』(1984年公開)を観た。和田誠第1回監督作品。和田と言えばユーモラスな絵柄が特徴のイラストレーターだが、無類の映画好きとしても有名である。映画が好きである事と映画を作る事は必ずしも両立しないというのが俺の持論だが、この作品のような例外もあるようだ。ギャンブル映画としてもアウトロー映画としても上々の出来。和田の底知れぬ才能にただただ驚くばかりである。神様も時に不公平な事をする。そんな嫉妬を覚えるほどの面白さであった。この映画が何故面白いのか?あれこれ考えてみたが、結局「映画の法則」を忠実に守り通した事が好結果に繋がったのだと思う。まず脚本(和田&澤井信一郎)がよく書けている。主要登場人物も各々個性的であり、ドシッとした存在感がある。各人物に厚味と言うか重みが感じられるのである。芸達者が沢山集められ、ユニークなキャラクターを巧みに演じている。素人映画特有の訳のわからないカメラワークもほとんどない。細部まで作り手の配慮が行き届いており、一場面一場面、丁寧に撮り上げられている。見事な手並である。こうなるともう「参りました」と降参する他はない。最早映画マニア云々の範疇を超えている。プロ級の腕前と言って良いだろう。いや、プロの中にもこれだけの作品を撮れる人材が現在何人いるだろうか?異業種監督に対する風当たりが強い。などという見当外れな意見を時々耳にする。我々は面白い映画を求めている。飢えていると言っても良い。面白い映画なら玄人が撮ろうが異業種が撮ろうが我々は大歓迎なのだ。風当たりが強い理由は単純明快である。その映画(だかプライベートフィルムだか何だか知らねえが)がツマラナイからである。その辺を勘違いしている人が案外多いので困ってしまう。資源の浪費としか思えないガラクタを拵えたところで恥をかくだけである。もし『麻雀放浪記』より面白い映画を作る自信(過信じゃ駄目だよ)があるなら、大いにやってもらいたい。そうじゃないなら本業に専念した方が良いだろう。避けられる地雷は避けた方が賢明である。無駄な経費も使わなくて済む。映画という名の怪物はそう簡単に捕らえられるものではないのだ。

敗戦直後の日本。ありったけの才能と情熱をギャンブル道に注ぎ込む。荒廃した国土を復興しようとか、母国再建に力を尽くそうというような殊勝な考えは微塵もない。この物語の住民はそんな人間ばかりである。欲望の赴くままに生きる。虚飾や偽善を剥したナマの人間がここにいる。職場だの学校だの家庭だので、自分のポジション(大したポジションでもないのに)を守る事に神経を磨り減らしている我々よりも、彼らの方が遥かに自由で人間的と言えるかも知れない。一か八か。伸るか反るか。勝てば天国、負ければ地獄。激烈勝負に全てを賭ける。命ギリギリの緊張感がたまらない。この瞬間、俺は確かに生きている。それがギャンブラーだ。主人公の哲(真田広之)は名家の出身だが、学校にも行かず、かと言って働きもせず、博打の魅力にとり憑かれた毎日を送っている。才能はある。だが場数が少ない。故に一癖も二癖もある先輩ギャンブラーのカモにされる事もしばしばである。畜生。今に見てろよ。強敵を相手にして追いつこう追い越そうともがく哲。その姿は師匠たる千葉真一の下を離れて、一人前の俳優として世間に認められようと焦る真田本人の姿でもあるのだ。百戦錬磨の勝負師達に魅せられている雰囲気がとても良い。最近の真田はとかく過剰演技が目立つが、この頃は役や映画に真摯に取り組んでいる感じが伝わってきて、観ている方も応援したくなる。

鹿賀丈史が凄腕ギャンブラー《ドサ健》を好演している。哲の博打指南にして、最強の好敵手と言える人物である。的確な判断力、優秀な記憶力、自分の意思意見を強引に通してしまう図太さ、時折発揮する野獣のような凶暴性。ギャンブラーに求められる要素をほぼ完璧に身につけている。一見、優男風だが、喧嘩も相当強いらしい。まさに博打をする為に生まれてきた男である。演じ甲斐のあるキャラクターであり、こういう役に巡り合った俳優は幸運だ。加賀としても生涯忘れ難い仕事であろう。ドサ健に対抗する者。それがベテラン高品格が演じる《出目徳》である。ギャンブラーとして絶頂期を迎えているドサ健に対して、出目徳は老獪な頭脳作戦を展開する。二大梟雄激突の麻雀勝負はこの映画最大の見せ場である。両者の意地と技術が死闘の火花を散らす。その光景は達人同士の剣戟を思わせる迫力に満ちている。奇想天外なイカサマテクニックが入念に描き込まれている点にも注目したい。仰天のアイディア。それをヌケヌケと実行する面の皮の厚さ。何が何でも勝利を獲得しようとする勝負師の執念には圧倒される。死んだら負け。この稼業で一度落ち目になった奴は中々浮かび上がれない。誰も信じるな。この世界で信用出来るのは自分だけだ。物語の随所に登場する博打哲学。勝負の世界に生きる者ならではの痛烈な言葉だが、それは人生にも応用が利くような気もする。試験、就職、結婚…我々の人生には博打的なイベントが幾つも用意されている。これに成功するか失敗するかで、その後の暮らしがガラリと変化してしまう事は皆さんよく御存知だろう。人生は博打。望む望まないに関わらず、我々は生来のギャンブラーなのである。俺は連戦連敗の有様だけど、あなたの勝率は如何ですか?

(2005/2/19)

『若い貴族たち 13階段のマキ』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『若い貴族たち 13階段のマキ』(1975年公開) を観た。主演は千葉真一の愛弟子・志穂美悦子。原作は梶原一騎&佐藤まさあきのマンガ。美貌と運動神経の両方を備えた逸材。日本映画史上最強の活劇女優の魅力が迸る好篇だ。特撮ヒーロー風のコスチュームがよく似合う。志穂美扮する日向真樹は新宿一帯にその名を轟かせる女番長である。通称・13階段のマキ。世にも恐ろしい渾名だが正義感は人一倍強い。弱い者苛めは許さねえ。兄貴(千葉ちゃん)直伝の空手を駆使して、外道悪党を片っ端からブチのめす。劣悪な条件で働かされていたストリッパーを逃がしてやるわ、ストリップ劇場の舞台でヤクザと大立ち回りを演じるわ、ブルジョワ娘を砂浜に生き埋めにするわとやりたい放題の大暴れ。そんな痛快な毎日を過すマキだったが、その存在を目障りに感じた新宿最大のヤクザ・大門組が彼女と彼女の仲間を本気で潰しにかかってくる。大門組のボスを演じるのが悪役敵役なら任せとけの名和宏。東映活劇ではお馴染みの役者さんである。流石に武道の心得はないものの、権謀術数に長けており、卑劣な罠を仕掛けてマキを窮地に追い込むのであった。麻薬の密輸に人身売買。勢力拡大の為なら手段は選ばない。闇のネットワークも綿密に構築しているし、それなりに商才もあるようだ。どうやら見かけほどバカな男でもないらしい。背信者、裏切り者には必ず制裁を与えるという冷酷さも有している。強敵である。だが敵が強い方が活劇が盛り上がる。超人的格闘能力を除いては何の後ろ楯も持っていないマキ。彼女が率いる「野良猫グループ」も今ひとつアテにならないし、頼みのお兄ちゃんは武者修行に旅立った切り、音信不通である。現在何処にいるのか、生きているのか死んでいるのか皆目わからない。周り中敵だらけの状態でマキの孤独な戦いが繰り広げられる。その分、マキの凛々しさが際立つというものだ。如何なる危機にも、正々堂々、真っ向から立ち向かう。

個性豊かな好敵手達がマキと死闘を展開する。特にマキとデキル者同士の友情(愛情ではない)を交わす大門組の用心棒(南城竜也)が印象深い。リングで3人の対戦相手を殴り殺したという「実績」を誇るボクサー崩れである。殺人者の烙印を捺された南城の生きる道は最早ヤクザの世界しかなかったのだ。堕ちる所まで堕ちた男だが、武芸者特有の潔癖さは保持している。常に一騎討ちを信条としており、神聖な勝負を邪魔する奴は例え仲間であろうと容赦はしない。必殺パンチの餌食となる。クライマックスでは手負いの身を引き摺りながらマキに加勢する。物語の随所に見せ場が用意されており、主役級の扱いである。この映画最高の儲け役と言えるだろう。映画の中盤、マキは名和組長の策略によって少年院へ送られる。獄内で様々な嫌がらせを受ける事になるのだが、それを陰で操っているのが「親ボス」と呼ばれている謎めいた女(柴田鋭子)である。何人かの刺客を放つものの、ことごとくマキに撃破されてしまう。業を煮やした親ボスはついに自らマキとの決闘に臨むのであった。彼女の初登場の場面が物凄い。ぱちん。いきなり任務に失敗した部下の左耳を植木鋏でちょん切っちゃうのだ。痛烈な瞬間。そう言えば、この映画、やたらに残酷描写が多い。当時の流行だろうか。多分タランティーノも観てるぞ。因みにマキの囚人番号13に対して、親ボスの番号は42である。これは「死に」という駄洒落なのか。通常の映画ならアウトだろう。劇画原作ならではのお遊びである。少年院の庭で黙々とトレーニングに励むマキ。武道家たる者、日々の鍛錬が欠かせない。その脳裏に浮ぶのはかつての修行風景。この場面のみ千葉真一が出演している。雪の中、師匠格のお兄ちゃんに何度も投げ飛ばされるマキ。それでも空手のつもりか!そんな事では男に勝てんぞ!厳しい言葉が地に伏したマキに突き刺さる。不屈の精神で立ち上がるマキ…これって、まんまJACの特訓風景に重なりますね。最終決戦。マキは敵の本丸に単身突っ込む。てめえら、みんなブッ殺してやる!正義のヌンチャクが外道連を粉砕する。ついに宿敵を血の海に沈めたマキだが、その表情は暗かった。復讐が達成したとしたところで、失ったものが返ってくる訳ではないからだ。愁いを湛えた志穂美の眼差しが絶品である。ふと彼女に『キル・ビル』の主人公を演じさせてみたいと思った。娯楽活劇の魅力が圧縮された充実の78分。

(2005/2/13)

『薄化粧』

緒形拳という俳優がいる。浮き沈みの激しい芸能界の中で常に安定した人気を維持する実力者である。そろそろ70歳に手が届く年齢だが、映画、演劇、テレビにと、あらゆる舞台で精力的な活動を展開している。未だに「役を演じる」という行為を楽しんでいる風である。様々な人生を疑似体験出来るのが役者稼業の魅力のひとつだが、その特性をこれほど活用している者も少ないのではないだろうか。過密なスケジュール。とにかく多忙である。緒形ともあろう者が何故にこんなツマラナイ映画(ドラマ)に出ているのかな?時々、首を傾げたくなる事があるが、もしかすると彼には「出演作を選ぶ」という感覚自体ないのかも知れない。依頼が来ればまず断らない。どんな役でも貪欲に演じてしまう。良い意味での無節操主義とでも呼ぶべきか。これはこれで役者の生き方であろう。緒形最大の武器は善玉でも悪玉でも両方演じこなせる万能性ではないかと思う。独特の風貌もプラスに働いている。美男でもなければ醜男でもない。ユーモラスな雰囲気も備えている。更にゾッとするような凄味を発揮する事も可能である。器用なものである。この人の眼の動きを俺は気に入っている。特にアウトロー時代劇『必殺』シリーズが出色である。殺しの場面に突入する直前にチラリと見せる鋭い眼光が良い。飄々たる遊び人が凄腕の暗殺者へと瞬時に変身する鮮やかさ。二面性を持つキャラクターを緒形は違和感なく表現していた。ここで培ったテクニックを後の作品で生かしている辺りもこの役者のしたたかさと言えるだろう。

緒形の印象的な演技を挙げ出したら、それこそキリがないが、映画でも良い仕事を数多く残している。今村昌平の『復讐するは我にあり』(1979年)では実在の殺人犯をモデルにした主人公を鬼気迫る勢いで演じている。父親役の三國連太郎との対決も怪獣映画級のド迫力を有している。相米慎二の『魚影の群れ』(1983年)は衝撃的な場面が続出して圧巻であった。大海原をバックに200kgを超える巨大魚と長時間に亘る死闘を繰り広げる緒形。自身の気力体力の限界に挑戦した文字通りの大役であり、緒形の作品歴の中でも一際光を放つ名演だった。千葉真一がアクション監督を担当した娯楽時代劇『激突/将軍家光の乱心』(1989年)における用心棒軍団の首領役も忘れ難い。サムライ時代に受けた屈辱を胸に秘め、敵中突破の決死行に挑むカッコ良さ。我らが千葉ちゃんが最強の敵役に扮しており、物語終盤では『魔界転生』(1981年)以来となる両雄の一騎討ちが楽しめる。土壇場。手負いの緒形が敵陣に斬り込む場面には全身の血が沸騰した。阿修羅降臨を思わせる勇姿であり、リアリティの欠如した脚本への不満を吹き飛ばす快演であった。随分前の話になるが、郷里の田舎町で緒形が主役を務めた『子供騙し』という演劇を観た事がある。傑作とは言いかねる出来の芝居だったが、ナマ緒形の演技を鑑賞する機会を得たのは、俺にとってかけがえのない経験であった。

先日。近所の図書館で緒形主演の『薄化粧』(1985年)を観た。監督は五社英雄。明らかに『復讐するは我にあり』を意識した殺人鬼映画である。類似した場面も多く、まるで『復讐』のリメイクのような作品である。物語の時間が過去と現在を行ったり来たりする等、意欲的な面も見られるものの、二番煎じの印象は拭い切れない。それなりに面白いが映画的な膨らみや奥行きに欠けるという五社作品特有の弱点も眼につく。とは言え、緒形の熱演は見応え充分である。殺人者を演じさせるとこの人はやはり巧い。緒形扮する坂根藤吉は「弱い者には強く、強い者には弱い」というイヤな奴の典型だ。最も友達にしたくないタイプの人間であろう。酒好き女好き。異常な生命力の持主でもあり、頭の回転も悪くない。だが幼稚な男でもある。大枚をはたいて購入したラジオを後生大事にする子供っぽさには苦笑を禁じえない。この玩具が第1の殺人のキッカケになるので笑ってばかりもいられないが。劇中、坂根は「蛇」だの「蝮」だの「爬虫類」だのと散々罵られる。しかし、本人は余り気にしていないようだ。むしろ忌まわしい渾名を実践するかの如く、図太くしぶとく生き抜いてゆく。その強烈なヴァイタリティは善悪を超越した畏怖のようなものを観客に感じさせる。いつ果てるとも知れぬ逃亡生活の途中で坂根は内藤ちえ(藤真利子)という女と出遭う。小さな呑み屋の女将である。血みどろの犯罪者たる坂根が徐々に人間性を取り戻し始める。そんな不思議な能力を彼女は持っていた。坂根が生まれて初めて巡り会った「本当の女」であった。だがもう遅い。この時点で、坂根は妻子を含む複数の人間を殺めている。もっと早い時期にちえと会っていれば、坂根の運命は変わっていただろうか?穏やかで平和な人生を送っただろうか。それとも「蛇の性」は環境や境遇に関係なく作動しただろうか。それは誰にもわからない。坂根が化粧を施す異様な場面が幾度も登場する。この行為には「もう一度人生をやり直したい」という男の儚い願望が込められているように俺には思えた。坂根を執拗に追跡する鬼刑事を川谷拓三が演じている。深作映画の常連。斬られ役、チンピラ役で鳴らした川谷が、ここでは年齢相応の落ち着いた演技を披露しており、彼が役者として着実な成長を遂げていた事を教えてくれる。追う者と追われる者の暗闘。戦いの決着がつくと同時に映画もまた静かに幕を降ろす。その潔さにはさしもの俺も好感を抱いた。

(2005/1/30)

『ゴルゴ13/九竜の首』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『ゴルゴ13/九竜の首』(1977年公開)を観た。上映10分前から整理番号順の入場となる。今日は水曜日。料金1000円均一のサービスデーである。にも関わらず、場内はガランとしていた。俺を含めて客は6人しかいない。おいおい。こんな調子でラピュタの経営は大丈夫か?などと余計な心配もしたくなってくる。現在ラピュタでは「過剰な生き方のススメ」と銘打ち、劇画を題材にした70年代映画の特集を組んでいる。文字通りのマンガ映画。余り言いたくないがゲテモノの部類である。良識ある映画ファンにとっては興味の範疇の外であろう。だが、これもまた映画なのである。芸術映画、文芸映画も大いに結構だが、この種の映画も同様に楽しむ洒落っ気を身につけて欲しいものだ。苦手なジャンルの作品を観る事は良い刺激になるし、好きなジャンルの短所や長所を発見したり再認識したりするキッカケにもなる。映画の鑑賞眼を磨く絶好の機会とも言えるのである。例によって脱線するが、世の中には自分の嫌いなジャンルの映画を頭ごなしに全面否定する(したがる)連中が存在する。俺の最も軽蔑するタイプのひとつである。己が「版図」に頑なに固執する姿は餓鬼じみている。要するに彼らは「外海」へ乗り出す勇気がないのである。そういう奴に限って少しも面白くない話を延々と繰り広げてくれるのだから始末に終えない。ただ、俺も一歩間違えればこいつらと同類になりかねない。アウトロー映画アウトロー映画とバカのひとつ覚えのように喚き散らすのではなく、色んな分野の映画に挑戦してゆかなくてはと考えている。

さて、ここらで本筋に戻るとするか。第1作の高倉健に代わって世界最強の狙撃マシンに扮するのは我らがアクションスター千葉真一。健さんがデューク東郷のモデルである事は、マンガファンだったら誰でも知っている逸話である。だからと言って健さんを起用すれば良いという訳でもないのが映画の微妙な所だ。劇画の映像化などという作業は照れの見え隠れする(道化に成り切れないと言ってもいい)健さんには不向きな仕事である。こういう荒唐無稽な役柄は千葉師匠にこそ相応しい。この映画でも過剰なまでの役作りで臨んでおり、時折失笑してしまうが、如何なる役にも全力で取り組む姿勢には感動すら覚えてしまう。千葉ゴルゴは銃器よりも格闘術の方に自信があるようだ。標的が放った刺客団との乱闘は見物である。彼にとっては鍛え上げた肉体が最大の武器なのだ。飛び道具を使えば話が早いのに、わざわざ鉄拳と蹴りで敵を叩き潰す場面は千葉アクションの真骨頂と言えるだろう。相手の凶器を逆に利用してしまう辺りも痛快である。このように部分的には見応えがあるのだが、作品全体を見渡すと荒っぽい演出が目立ち、残念ながら映画としての完成度は低いと言わざるを得ない。特撮ヒーロー番組の名門たる東映の製作という事も関係しているのかも知れないが、物語が進む毎に映像も展開も『仮面ライダー』みたいになってくるのである。例えば、前半の見せ場として香港警察と麻薬組織の銃撃戦が用意されているのだが、これもマンガ以上にマンガ的であった。警察側の反撃を受けて視力を失ったヤクザがアジトに逃げ込むが、その拍子に壁に生えていた自爆スイッチ(みたいなヤツ)を作動させてしまうのである。どかーん。次の瞬間、ミニチュアのアジトが画面に現れて、木端微塵に吹き飛ぶのである。わはははは。人間笑い袋の俺は思わず腹を抱えて笑い転げてしまった。他の5人も多分爆笑していたと思う。この馬鹿馬鹿しさに耐えられるか耐えられないかが『ゴルゴ13/九竜の首』を最後まで見通せるかどうかの試験のようなものである。先の良識派なら即退席だろうな。幸か不幸か俺はそれ程お上品ではない。これだからインテリは困る。何でもかんでも正攻法にこだわるのではなく、映画に合わせてギアを変換するくらいの柔軟性が何故持てないのか。バカ映画にはバカ映画なりの楽しみ方がある。笑いたければ恥かしがらずに笑ってしまえばそれで済むのである。簡単な事だ。スタッフ&キャストには大変申し訳ないが、この映画を真剣な面持ちで観続ける事は不可能に近い。初笑いには格好の素材である。もしレンタルショップで見つけたら迷わずレジに運んで貰いたい。まだ何処かに生き残っている筈である。少なくとも俺は滋賀県のレンタル屋さんで見掛けた記憶がある。料金分の面白さは確実にあると断言してしまおう。

最後に余談をひとつ。かの押井守と金子修介はこの映画を一緒に観ているらしい。勿論封切りの際にである。両雄の学生時代の話だ。金子は他に観たい作品があったところを、押井が無理矢理に誘ったそうである。終了後「酷い映画を観せられた」と金子は文句タラタラであったという。流石の押井も対応に苦労したとか。でも金子サンの映画も意外に印象が薄いんだよなあ。平成『ガメラ』シリーズは別格として、後は宮部みゆき原作の『クロスファイア』(2000年)を覚えている程度。あれは「人間版ガメラ」とも呼ぶべき雰囲気が好きだったな。永島敏行や桃井かおりの使い方も秀逸だった。新作『あずみ2』の出来はどうだろうか。今度コケたらこのシリーズも打ち止めかな。そんな訳で(どういう訳だ)今回は脱線に告ぐ脱線。相変わらずまとまりに欠ける文章ですが、ここらでエンドマークと致します。それでは、また。近い内にお会いしましょう。完!

(2005/1/23)

『ミスター・ベースボール』

先日。近所の図書館で『ミスター・ベースボール』(1992年公開)を観た。主人公のトム・セレックはニューヨーク・ヤンキースが誇る強打者である。実力も自信も第一級の男だが、最近はスランプ気味である。肝心の打率も下降の一途。そのストレスを紛らわす為なのか何なのか、私生活は乱れ放題やり放題。勝負の世界は辛く厳しい。どんなに実績を積んだ名選手でも役に立たなくなれば即放り出される。我が社のイメージが悪くなる。球団宛にセレックが出演している芝刈り機メーカーからの苦情が届いた。かくして彼の左遷は決定的となったのである。しかも移転先は国内ではない。不思議の国ニッポンである。まさに都落ち。いや、島流しと言うべきか。プライドの塊であるセレックには耐え難い屈辱であった。とは言っても野球以外に生活の術を知らぬ男である。食う為には日本だろうがノスフェラスだろうが行くしかないのだ。その内いい事もあるさ。中日ドラゴンズがセレックの新しい職場である。ドラゴンズ側は現役大リーガーの獲得成功に喜びが隠せず、賓客待遇で迎えるが、当のセレックは不貞腐れた態度を改めようとしない。要するにこのオヤジは日本も日本人も最初からバカにしているのである。島国文化にも全く興味がないし、魚の餌(和食)も食う気になれない。彼の頭にあるのは「一刻も早くアメリカに帰りたい」という願望のみである。通訳を介した黄色人種とのコミュニケーションに飽き飽きしたセレック。それだけに名古屋在住の同国人と会った時は物凄く嬉しそうである。気持ち良さげに本音を吐き出している。彼らの中で交わされる会話の内容は実に不愉快である。その端々に日本人に対する強烈な差別意識を感じる。この連中は他国の人間を見下すのが余程好きらしい。しかもこれは絵空事ではない。現実の世界ではもっと酷い事を喋っているのだろう。大リーグに勇躍斬り込んだゴジラやイチローはそう言った圧迫とも日夜戦っているのかなと、ふと考えたりする。

異国の大地で生まれた荒武者に唯一対抗出来る者。サムライの末裔たる高倉健が我儘セレックを迎え撃つ。子供がそのまま大きくなったようなセレックと大人の風格を湛えた健さんが鮮やかなコントラストをなしている。両雄の激突と葛藤がこの物語を駆動させる最大の原動力だ。それにしても健さん(熱烈なジャイアンツファンらしい)に打倒巨人に執念を燃やす中日監督を演じさせるとは、向こうのスタッフも洒落っ気があるよな。或いはただの偶然だろうか?それはともかくとして、全体的に日本をよく研究しているなという印象を持った。この種の映画特有の「勘違い場面」もほとんどなかった。まあ。それを敢えて期待している向きには残念かも知れないが。東映離脱以降、大作映画の主演俳優として数々の活躍を繰り広げてきた健さんだが、意外に名作傑作は少ない。出演数の割には作品に恵まれていないと思っているのは俺だけだろうか?その点、この映画は健さんの魅力を巧みに引き出している。かつてはスター選手として野球ファンを魅了し、現在は貪欲に勝利を狙う鬼監督として絶大な存在感を示している。このキャラクターのモデルはやはり星野仙一だろうか。緩慢なプレーに対しては鉄拳制裁も辞さない硬骨漢だ。そうかと思えば、自慢の「特殊能力」をギリギリまで隠しているというしたたかさも有している。だが、家庭に戻れば、愛娘(高梨亜矢)の将来を心配するごく普通の父親である。そんな多面的な人物を不器用健さんが楽々とこなしている。準主役の範疇を超える好演であった。猛烈采配を振るう健さんに「楽しんでやらなきゃ野球じゃないぜ」とセレックが説教(?)を垂れる場面等もあって中々面白い。この映画は健さんの後期代表作のひとつに加えてもいいんじゃないかな。後半は異常なアクの強さを発揮していたセレックがあっさり改心。余りにも円滑に物語が進むので、逆に戸惑いを覚えるが、これもまた映画の楽しさとして受け入れてしまおう。

(2005/1/15)

『HOUSE ハウス』

先日。近所の図書館で『HOUSE ハウス』(1977年公開) を観た。《映像の魔術師》の異名を持つ大林宣彦の商業映画第1作。大林本人に言わせると真の処女作は6歳の時に作った『ポパイの宝島』というアニメーションだそうだが。大林は金持ちの家に生まれ、何不自由なく育った生粋のお坊ちゃんである。優しい家族と従順な使用人に囲まれた幸福な日々。彼は周囲から《若様》と呼ばれていたそうな。家庭用映写機(幻灯機)が大林少年お気に入りの玩具であった。俺も多少経験があるが「映像を作る」という遊びほど面白いものはない。実験と試行錯誤。この頃から大林は思う存分イマジネーションの翼を広げていたのだろう。実に羨ましい境遇である。映画監督の経歴を調べてみると、我々庶民には考えられない浮世離れした生活を送っている人が少なくない。あらゆる遊びをやり尽くした者が最後に行き着く場所。究極の遊び。それが「映画を撮る」という行為なのかも知れない。今も現役バリバリの監督して活躍を続ける大林だが、彼にとっては幼年期の遊びの延長に過ぎないのだ。大林こそ《永遠の子供》に最も近い存在のような気がする。

全篇に大林の夢と妄想が横溢する玩具箱。それが『HOUSE』という映画の印象である。物語は単純だ。美少女7人が化物屋敷に取り込まれて順番に食われてゆく。ただそれだけ。これを大林は持てるテクニックを総動員して鮮やかに映像化した。リアリティとは無縁の人工美の世界。ただ余りにも凝り過ぎて、何が起きているのかわからなくなる瞬間があり「策士策に溺れる」の感が無きにしも非ずである。もしも黒澤天皇が観たら「カメラが芝居をするな!」と激怒しそうだ。しかし、それもまたこの映画独自の魅力の一部なのである。登場人物の名前もふざけている。オシャレ、ファンタ、ガリ、クンフー、マック、スウィート、メロディー…異常にわかりやすい称号を誇る彼女達こそ「七人の侍」ならぬ「七人の生贄」という訳だ。サムライを描く能力は絶望的だが、少年少女を描写する事に関してはずば抜けた才能を発揮する大林。短時間で姫君達の顔触れや性格を要領良く説明してしまう手腕は流石だ。映画冒頭のオシャレ(池上季実子)とファンタ(大場久美子)の他愛のないやり取りも秀逸である。仄かにレズ的な雰囲気が漂うので、敬遠したい向きもあると思うが、大抵の客は気持悪さを覚える前にその美しさに酔ってしまうだろう。まさに大林マジック。池上にせよ大場にせよ他の出演者にせよ、台詞回しは決して達者とは言えないものの、仕種や表情がとても滑らかで、ぎこちなさを感じさせない。皆、この荒唐無稽な作品世界に見事溶け込んでいる。物語の住人として成立しているのだ。故に観ている方も自然と映画に引き込まれるという仕組である。

南田洋子がうら若き獲物を食い殺す妖怪屋敷の主人を巧演している。オシャレの叔母に当る人物だが、暫く見ない内にモンスター化していたというとんでもないバアさんである。上品な笑いを浮かべつつオシャレとその友達を歓迎するが、その笑顔の裏には身の毛もよだつ悪意が隠されているのだ。娘達との会話の中に秘められた「毒」の数々を楽しむのも一興である。この辺りは桂千穂の脚本の巧みさを誉めたい。無敵の結界。彼女の版図に入った者は最早逃れる術はない。最初の犠牲者であるマックの生首を美味しそうに食べる南田の顔が強烈である。但し周りの娘達にはそれは「生首」ではなく「西瓜」として認識されている。これもバアさんの妖術のひとつであろう。南田の口元がアップになり「丸い物体」がコロコロと現れたり消えたりする。そう。マックの眼球である。この時の南田の目つきがまた怖い。今度はどの娘を食らってやろうかと、入念に品定めをする肉食獣の視線である。後半はショッキングな場面が連続するが、ホラー映画に徹し切れず、奇妙なユーモアを醸している所がかえって面白い。恐怖と笑いは表裏一体である事を改めて思い出す。この映画の本当の主役とも言える食人屋敷だが、これが観る者の興味をそそる幻想的空間に仕上がっている。和洋折衷。純日本風の建物かと思えば、古風な洋館のような部分もあり、複雑怪奇な構造を有している。映像世界だからこそ許される摩訶不思議な建造物である。館内を彩る装飾品も豪奢で贅沢。もし食われる心配がないのなら、一週間ほど逗留してみたいものだ。そう言えば『シャイニング』(1980年)に登場した展望ホテルも居心地が良さそうだったな。ここもジャック・ニコルソンさえいなければ泊まってみたいね。山口百恵&三浦友和主演の『泥だらけの純情』の添え物として封切られた『HOUSE』は、まさかまさかの大ヒットを記録。大林がメジャー舞台に踊り出る契機となった。愛娘の「鏡に映っている自分が私を食べに来たら怖いな」という言葉がこの映画の原点だったという。

(2005/1/10)

『嗚呼!!花の応援団 役者やのォー』

その夜。俺はJR阿佐ヶ谷駅を下車した。改札を抜けるや否や、冬の冷気がギシギシ迫ってくる。寒い。日本映画専門のミニシアター《ラピュタ阿佐ヶ谷》は北口から徒歩2分という好位置に建っている。今夜の目的地はそこだ。この界隈はやけに飲食店が多い。様々な食材食品の匂いが渾然一体となって腹を空かした野良犬の鼻をくすぐるのである。だが、暢気に飯を食ったり、酒を呑んでいる余裕は今の俺にはない。先を急ぐ。熱燗やらおでんやらラーメンやらの誘惑に耐えつつ、俺はただひたすらにラピュタへ向うのであった。間もなくすると、かの『ガリバー旅行記』に登場する空中都市と同じ名を持つ映画館が姿を現わす。阿佐ヶ谷が誇る名物映画館ラピュタが的確な照明を浴びて、夜の町に静かに浮んでいる。一寸した幻想的風景である。まさにラピュタが現実世界に抜け出てきたような感じである。この映画館とのつき合いは結構長い。以前の職場にいた時は上京の度に足繁く通っていたものである。ラピュタの地下には《ザムザ阿佐ヶ谷》という木造劇場が控えている。映画&芝居。更に最上階には洒落たレストラン《山猫軒》が用意されている。まさに道楽者の為に存在する夢の空間である。ザムザで演劇を観終わると、今度はラピュタのレイトショー(開始ギリギリ)に突っ込むなどという荒業もよくやった。ロクに仕事もせず、朝からラピュタに駆けつけて邦画名作の世界に浸っていた時期もある。余談だがその際は3枚綴りの回数券を利用した方が賢い。そんな愚かな行動を繰り返している内に時間は確実に過ぎて行った。ふと気がつくと、在職年数は7年を超えていた。俺は古参社員の仲間入りをしていた。その会社も昨年の夏で辞めた。住まいも近畿から関東に変えた。あらゆる意味で2004年は俺にとって変化変貌の年であった。尤もラピュタには俺の運命の変転など何の関係もないのだが。相変わらず劇場前の掲示板には魅惑的プログラムが張り出されている。建物1階の待合室では常連客が映画の本を読んだり、映画談義を展開したりしている。この雰囲気が好きである。慢性的な経済不況が続いている。映画館の運営は並大抵の事ではないだろう。それでも頑張っている劇場を俺は応援したい。

現在ラピュタでは「過剰な生き方のススメ」と題して、劇画原作映画の特集が組まれている。今回の『嗚呼!!花の応援団 役者やのォー』(1976年公開) はその第1弾となる。原作はアクの強さが持味のどおくまんプロ。南河内大学応援団団員の奇怪な生活を描いた異常作である。これほどデタラメな映画は久々である。主人公の青田赤道(井上治之)は頼りになるのかならないのか、男らしいのからしくないのか、俺にはさっぱりわからない。故に感情移入がし難い。他の団員もまとまな奴は皆無に近い。規律もなければ誇りもない。野蛮人とバケモノの集まりである。無頼集団、愚連隊の類いと看做して間違いないだろう。映画の前半。応援団は毎年恒例の夏季合宿に出掛ける。これが実に酷い有様である。彼らの中では別名「地獄の合宿」と呼ばれているが、一体こんな事をして何になるのか?結束が強まるどころか憎しみが蓄積するだけだろう。上級生(神様らしい)が下級生(奴隷だそうである)を徹底的に苛め抜く。無抵抗の後輩をボコボコに叩きのめす。さしたる理由もなく殴る蹴る。鬼畜の所業である。たかがマンガ映画と笑ってはいられない。俺自身、中学高校時代に似たような経験をしたからである。何故こんなアホ面どもに俺より1年や2年先に生まれたというだけで服従しなければならないのか?当時の俺には大きな疑問であった。未だに理解出来ない。勿論不平不満を漏らしたり、先輩方に反抗したりしたら大変である。それまで以上の過酷な嫌がらせが待っている。誰も助けてくれない。集団暴力に個人が立ち向かってもまず勝ち目がない事を悟ったのはこの頃であった。そして、自分の身を守れるのは結局自分しかいないという事も…。

拷問に等しい合宿を終えた下級生が仲間に囁く。来年は俺達が苛める番だぜ。と。この一言に俺はゾッとした。人間なんて所詮この程度か。弱者を迫害する事でストレスを解消するというケダモノ感覚を持つ者は現実世界にも多い。かの応援団は案外人間社会の縮図なのかも知れない。一部例外を除いて、出演陣の演技が稚拙過ぎるのが気になった。踊る側がアホに成り切っていないのに、観る側がアホに成れる筈がない。出演者が与えられた役に巧く同調しておらず、俳優本人の顔がチラチラと見え隠れする。おまけに台詞は素人同然の棒読みである。これは白ける。俳優の弱点や未熟さを加工修正するのが監督のお仕事だが、荒唐無稽な脚本を映像として成立させるだけで精一杯という風であった。とてもそこまで手が回らないよ。そんな叫びが聴こえてきそうである。劇中、応援団OBの薬痴寺(なぎらけんいち)とかいうキ××イが盛んに「役者やのォー」という台詞を連発する。この映画に「役者」と呼べる者はほとんど出演してしないのにも関わらず。思わず失笑してしまう。それともあれはこの映画に対する自虐的なギャグであったのか。俺としては好感も共感も抱けない作品だったが、団員の一人がストリッパーといい仲になるエピソードは印象的であった。劇場の楽屋で傷の治療をしたり、一緒に寿司を摘んだりする場面が妙に心地好い。狂気じみた物語の中に忽然と現れたオアシス的な光景であった。どんなダサクでも一箇所ぐらいは面白い部分があるものですな。

(2005/1/9)

『シークレット・ウインドウ』

正月の新文芸坐は結構混んでいた。年頭のプログラムは『ヴァン・ヘルシング』『シークレット・ウインドウ』(共に昨年公開)の二本立てである。マルハン池袋ビルの3階にその劇場はある。まず自動発券機でチケットを購入する。一般は1300円だが俺は《新文芸坐友の会》の会員なので1000円で済む。これはありがたい。次にカウンターへ進み、入場券と会員証を差し出す。有料入場毎に会員証に1ポイントが加算される。ポイントが10貯まると無料鑑賞券が1枚貰えるというシステムである。因みに入会費は2000円である。入会の際には無料券が1枚プレゼントされる。会員証の有効期限は1年間。更新料は1000円。更新時、会員証のポイントは繰り越されて、更に1ポイント加算される。何とか固定客を増やそうという劇場側の苦心が窺える。池袋が自宅から職場への中継駅という事もあって、昨年は随分新文芸坐に通ったものである。カネはないわ、映画は観たいわで今年もこの劇場にはお世話になりそうだ。映画資料がギシッと収められた本棚の横にはアンケート用紙が準備されている。お客は希望の映画を記入して、回収箱に放り込む。運が良ければ神様が願いを叶えてくれるだろう。ロビーには見るからに一癖も二癖もありそうな映画好きがウヨウヨしている。通常の組織内では無意味に目立ってしまう俺だが、この中には自然と溶け込んでしまう。心が休まる。獣でも魚でも鳥でも、各々に適した生活エリアがあるものだ。この空間は俺にとっての「それ」なのであろう。

さて『ヴァン・ヘルシング』である。ハリウッドお得意の遊園地映画。昨年、この作品の予告篇を何度観せられた事か。俺には全く無縁の映画だと思っていたが、ここまで来たら覚悟を決めるしかあるまい。栄えある吸血鬼キラーと同じ名前を冠したニューヒーローの誕生!というのがこの映画最大のセールスポイントである。まあ。それは良いのだけど、主人公の印象の希薄さが気になった。単独で映画を背負うという重大な使命を帯びながら、余りにも凶暴性、アクの強さに乏しい。こんな調子で恐るべきドラキュラ一族に対抗出来るのだろうか?少々不安になるが、対抗するドラキュラ先生も果たしてアホであった。主人公の宿敵として圧倒的な迫力を有していなくてはならない筈だが、何処か間が抜けている。何百年も生きているという不死生物の凄味や貫禄が全然感じられないのである。人類の天敵と言うより田舎ヤクザレベル。こんな奴で大丈夫かと段々心配になってくる。ところで、この先生は一体「何」がしたいのだろうか?多分世界征服を標榜しているのだろうが、これは俺の想像であり、実際はよくわからない。弱者や配下の前で威張り散らすのも良いが、自分の信念や野望をじっくり語ってくれる場面は皆無であった。こういうリーダーに使われる部下は可哀想である。主役と敵役は活劇を面白くする両輪である。個性の塊のような善玉と悪玉が激突するからこそ映画は盛り上がる。現在の観客はこの程度の料理で満足してくれるのだから、作り手もある意味楽だよな。活劇場面は最高水準のCG映像で描写されている。だが、アクションのヴァリエーションが案外少ない。如何に強烈でも同じような芸が続いてはすぐに厭きてしまうものだ。物語の中盤、囮の馬車に仕掛けた「爆弾」で女吸血鬼を仕留める壮絶な場面があったが、あのような面白い映像をもっと観せて欲しかった。優れた刀剣も遣い手の腕がナマクラではその真価を発揮する事は難しい。微温湯映画の上映後、邦画キチガイの俺は岸田森主演の吸血鬼映画『呪いの館/血を吸う眼』(1971年)が猛烈に観たくなってきた。大滝秀治がヘルシング教授に扮したこの怪作に遭遇する機会を俺はまだ得ていない。今度のリクエストはこれにするか。

休憩時間が過ぎ、場内は再び暗くなる。俺は熱いコーヒーを啜りつつ『シークレット・ウインドウ』を観た。今日の目当てはこの映画であった。スティーヴン・キング原作。ジョニー・デップ主演のスリラー映画。主人公の職業は小説家だ。キング作品ではお馴染みの設定である。勿論スランプ気味である。髪はバサバサ。服装も何となくだらしない。そんな役柄を美形俳優の代表格たるデップが演じているので一寸面白い。彼自身も楽しみながら演技をしている気配が感じられる。但し何をやっても美形は美形。それなりに絵になってしまう。色男は得だねえ。へっ。デップは全篇出ずっぱり。ワンマン映画と言って良い造りであり、アンチファンは観ない方が無難であろう。映画の導入部。デップ先生の仕事場が映し出される。湖畔に佇む洒落たログハウス。住人の性格を反映して中身は散らかり放題だ。これで家政婦のおばさんがいなかったら更に悲惨な状態になるだろう。この物語のテーマは盗作である。作家生命を絶つ事に繋がりかねない不正行為をキングはヌケヌケと小説の題材に選んでいる。大胆不敵と言うか。それともネタに困ったと言うべきか。ある日。デップの前に悪魔のような顔をした男が現れる。そいつは「お前は俺の小説を盗んだ。この罪は必ず償ってもらうぞ」とドスの利いた声で宣うのだった。さあ大変だ。正体不明の脅迫者の来襲に右往左往するデップ先生の姿が実におかしい。タイミングが悪い事に、先生は現在離婚協議中なのでイライラは募る一方である。最愛の女房を間男に寝取られたのだ。畜生。なんで俺ばっかりこんな目に遭うんだ。毒づいたところでどうにもならないが、人間という者は追い詰められたらやる事は大体一緒である。作家であろうと凡人であろうと。物語の舞台はほぼ固定されており、登場人物も必要最低限で無駄がない。俺の好きな構造を持つ映画だが、中盤以降、映画はどんどん失速してゆく。それに併せて俺の興味も失せてゆく。物語の途中で結末(原作とは違うらしい)が見えてしまったからである。しかも夢オチに次いで俺の嫌いなパターンだったのが致命的であった。最近の映画は何故こういう虚仮脅しに走るのだろうか。禁じ手を使って観客に「勝った」としても手柄にはなるまい。むしろ不愉快である。CGに頼らない丁寧な画面作りに好感を抱いていただけにショックは大きかった。残念無念。何やらキューブリックの『シャイニング』(1980年)が無性に観たくなってきたな。これもリクエストに加えておこう…という訳で2005年の「映画初め」は散々な結果に終ってしまった。尤もそう簡単に懲りるような俺ではない。鬼が出るか蛇が出るか。映画大陸の探検はまだ始まったばかりである。御常連の方々、本年も御贔屓に。

(2005/1/4)

『宇宙大戦争』

先日。フィルムセンターで『宇宙大戦争』(1959年公開)を観た。本多猪四郎&円谷英二の黄金コンビが放つSF活劇の秀作。この映画が『2001年宇宙の旅』よりも9年早く『スター・ウォーズ』よりも16年早くに作られていたという快挙を我々はもっと誇って良い。映画の導入部。いきなり「一九六五年」のテロップが出る。どうやらこの世界では宇宙科学が猛烈な発達を遂げているらしい。この時点で人類は宇宙ステーションの開発と実用化に成功している。そんな中、日本は時代の最先端を走っており、世界有数の第一級国として先進諸国に認められている。国際舞台でリーダーシップを発揮する日本人の姿は実に頼もしい。もしかするとこの物語における日本は「大東亜戦争に勝った」んじゃねえか。平和と繁栄。殷賑を極める地球人の前に予想外の《敵》が現れる。最初の犠牲者はかの宇宙ステーションであった。人類叡智の結晶たる宇宙基地が《何者》かの襲撃を受けて爆破された。その後、世界各地で「重力が消え去る」という超常現象が頻発する。人的にも物的にも甚大な被害が発生。この異常事態に対応すべく緊急の世界会議が催される。だが、その場にすら周到なる《敵》の魔手が忍び寄っていたのである。遊星ナタール。それが侵略者の名前である。一連の怪事件は全て彼らの仕業であった。地球を植民地化しようというのが彼らの狙いである。勿論人類は奴隷としてこき使う心算だ。何故そんな事がわかるのかと言うと、ナタール自ら作戦の全貌を喋ってくれたからである。しかも日本語ペラペラ。昔の宇宙人は親切な奴が多かった。自信満々のナタールだが、マインドコントロール能力を駆使して同士討ちを誘う辺りは中々芸が細かい。でもこんな奇策を弄するとは案外気が弱いのかも知れないな。個性溢れる侵略者がどんな面をしているのか一度拝みたいところだが、彼らの「顔」が画面に現れる事はない。その分、ナタールの神秘性が強まるという仕掛けだ。なんでもかんでも観せれば良いというものではないのだ。敢えて観せないというのも重要な映画テクニックのひとつである。

ナタールの侵攻計画は着々と進んでいる。月の裏側に前線基地を建築。これを地球侵略の橋頭堡にしようという訳だ。地球側は特別チームを編制。万能宇宙艇スピップ1号&2号を月に向けて出発させる。出来る事なら流血沙汰は避けたい。月面基地撤収の上、ナタールさんにはおとなしくお国に帰って戴きたい。だが、その可能性は低いだろうというのが首脳陣の見解である。故にスピップ1号&2号は完全武装が施されている。先頃完成した究極兵器『熱線砲』が装備されているのだ。抜群の貫通力に加えて半永久的に連続射撃可能という優れものである。恐らく核爆弾を除けば人類最強の武器と言えるだろう。何しろ交渉相手は未知生物ナタールである。用心に用心を重ねておいて間違いはない。いくらこちらが穏便に済ませようと考えていても、向こうが紳士的に振舞う保障などないのだ。丸腰で外交に臨んでも相手にバカにされるか殺されるかのどちらかである。今回の地球側の判断は慎重であり的確だと思った。残念と言うか、やはりと言うか、ナタールに話し合いは全く通用せず、人類は史上初の異生物との戦争に突入した。宇宙大戦争の勃発である。必殺の熱線砲が煌いたかと思えば、ナタール砦から反撃のビームが繰り出される。ばばばばば。びびびびび。月面は火線光線が派手に飛び交う熾烈な戦場と化す。円谷特撮が作り上げる迫力満点の映像に伊福部昭の勇壮な音楽が被さり、観る者を魅了圧倒する。凄い凄い。余りのカッコ良さに血が沸騰するぜ。男というのは何歳になってもこの種の展開に胸が躍るものである。それにしても本当にこれが45年も前に撮られた映画なのか?

初戦はとりあえず引き分けに終わった。敵の戦略でスピップ1号は宇宙の塵となった。選抜隊は残る2号で帰還を果たす。選抜隊の報告を聞いた地球側は大急ぎで対ナタールの準備を整えるのだった。今こそ全人類の力と知恵を結集する時だ。稼動可能な宇宙船は全機戦闘用ロケットに改造された。地上には破壊力重視の『大型熱線砲』(東宝特撮伝統のパラボラデザインがイカす)が配備された。強力布陣。この二段構えでナタールの円盤部隊を迎え撃つ作戦である。人類の命運を懸けた最後の戦いが始まる。戦況は地球側がやや優勢だが、ナタール側も必死である。防衛ラインを突破したナタールの隕石爆弾(劇中では『宇宙魚雷』と呼ばれていた)がニューヨークを直撃する。ずどどどどーん。凄まじい爆発と轟音が巻き起こり、高層ビル群が粉微塵に吹き飛ぶ。おや?この構図は「何処か」で観た覚えがあるぞ。天下のハリウッドも大した事ないな。愚弄しろとまでは言わないが、別に神棚に奉る必要もなさそうだぜ。一方、ナタール母艦は東京上空に飛来する。無重力光線の威力。あらゆる物体が宙に浮かび上がり、空中でバラバラに砕け散る。日本の首都はたちまちパニック状態に陥れられるが、最終兵器たる大型熱線砲は既に敵艦を捕捉していた…。この映画を観ていて痛感したのだが、人間というのは共通の敵が出現すると、途端に仲良くなり、団結も深まるものらしい。時々、遊星ナタールが攻めて来てくれた方が人類の調和の為には良いのかなと思ったりする。

(2004/12/28)

『太平洋の嵐』

先日。中央区京橋のフィルムセンターで『太平洋の嵐』(1960年公開)を観た。正式タイトルは『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦/太平洋の嵐』と少々長い。悪名高き真珠湾奇襲に始まり、大惨敗を喫したミッドウェイ海戦で締める超大作戦争映画。豪華絢爛たる内容に仕上がっており、当時の日本映画の底力をまざまざと感じさせる。この頃は東宝も儲かっていたんだろうな。ほぼ全篇に亘って使用されている特撮映像は勿論《神様》円谷英二が手掛けている。そのこだわりようは偏執的な雰囲気さえ漂わせている。例えば「格納庫に待機していた爆撃機が空母から如何なるプロセスを経て飛び立つか」をいちいち綿密に描写しているのである。細部まで行き届いた工夫の数々が映画の厚味となり、独特の迫力に繋がっている。三船敏郎、鶴田浩二、上原美佐、田崎潤、藤田進、宝田明、志村喬、そしてエノケン…錚々たる面子がズラリ。紛れもないオールスター映画だが、円谷特撮も「主役の一人」として彼らと同等かそれ以上の強烈な個性を発揮している。俳優陣の熱演と特撮の冴えが見事に融合した稀有な作品だ。どうしてもゴジラやガメラが目立ってしまう怪獣映画に比べると、俳優にも特撮にも満遍なく見せ場が用意されており、美しい均整が保たれている。例によって話は脱線するが、円谷映画におけるきめ細かい神経が最近の特撮映画には欠けているような気がする。現在公開中の新作ゴジラも確かに面白いのだが、何やら「無駄にせわしない」感じがする。特撮クリエーターを志す者はもう一度円谷作品の検証をやり直す必要があるのではないか。これほど優秀な研究材料はまたとあるまい。但しオマージュを並べただけでは駄目である。それでは「先」もないし意味もない。円谷要素を吸収した後は、当然それを凌駕する事を目指さなくてはならない。樋口真嗣クラスの才能がせめて数人現れてくれれば、日本特撮界も俄然勢いが出てくるのだが。当世主流たるCG技術の追求は他国に任せておけばいい。

連戦連勝を重ねていた帝国機動部隊がハマった落とし穴。それがミッドウェイ海戦であった。これが大東亜戦争の天王山(劇中の台詞より)と総力戦で臨んだまでは良かったが、結果はメタメタの大敗北である。恐らく敵軍との戦力差は然程問題ではない。それよりも情報収集の面で遅れをとった事が致命傷に繋がったように思われる。この映画では機動部隊上層部の右往左往振りが徹底的に描き込まれている。敵基地の装備に関する分析も行われていないし、敵艦隊が何処にいるのかも把握出来ていない。どうやら我が機動部隊は負けるべくして負けたらしい。爆撃機に搭載する爆弾と魚雷を付けたり外したりしている内に敵主力が襲いかかってきたのだ。痛烈な先制攻撃をまともに食らってしまった。こうなると戦況は一方的になる。いつの時代も戦争は先手必勝。一度逃した勝利の女神は容易な事では戻ってこない。かくして莫大な時間と資金と人力を費やした最強部隊の大半は文字通り海の藻屑と化したのである。男らしく自艦と共に海中に没する三船司令。死の間際に三船は呟く。我々は大変な間違いを犯してしまった。と。彼の言う「大きな間違い」とは作戦の欠陥云々ではなく、世界相手に勝ち目のない泥沼戦争を始めてしまった事を指している。だが今更後悔したところでどうにもならない。この海戦以降も数多の日本人が戦場に散った。彼らとて家族もあれば友人も恋人もいただろう。その哀しみは俺などには計り知れない。日毎に敗色は濃厚となり、国内主要都市は執拗な爆撃に晒され、広島と長崎には原爆が投下された。そして沖縄の惨劇。自ら仕掛けた戦争とは言え、一体幾つの人命が失われた事か。勝っても負けても戦争は地獄だが、敗者の被るダメージは途轍もなく深い。戦闘不能に陥った空母は味方駆逐艦の魚雷攻撃によって「処理」される。艦内には生存者が残っているにも関わらず。これが戦争なのか…。主人公のパイロット(夏木陽介)は茫然自失の表情である。大海原から一転して画面は夏木の故郷に切り替わる。実家では老いた母親と綺麗な嫁さん(上原・この映画が引退作)が暮らしている。息子(夫)の生還を信じて二人は慎ましい生活を送っている。その姿が再び哀しみを誘う。茶の間のラジオは今日も帝国軍の大勝利を伝えている。無論内容はデタラメである。映画は更に進んで、国家が敗残兵をどう扱うかにまで言及している。丁寧な描写の積み重ねが戦争というものの本質を浮かび上がらせる。賢しらに「反戦反戦」と叫びまくる説教映画よりもこちらの方が遥かに効果的である。フィルムセンターの大ホールは最大310名まで収容可能。その日。座席の大部分が埋まっていた。客層を見ると普段以上に年配者、高齢者の方が多かった。その中にはスクリーン上で繰り広げられている巨大作戦に関係したり参加したりした人も混じっているのかも知れない。場内に漂っていた仄かな緊張感は彼らが発していたものだったのか。実際に戦争を体験した人達と想像の世界でしか戦争に接触した事がない者(俺)とでは同じ映画でもあらゆる意味で印象が異なるんだろうな。そんな妄念に浸りつつ俺は『太平洋の嵐』を観たのだった。

(2004/12/23)

『ハウルの動く城』

あれはいつの頃だったろうか。多分小学生の時だったと思う。いや、もう中学に入学していたかな?例によって記憶が曖昧である。親戚の家に遊びに行き、俺は退屈を持て余していた。欠伸を噛み殺していた俺に従兄弟が一本のアニメーション映画を観せてくれた。それが宮崎駿の『天空の城ラピュタ』(1986年公開)であった。俺にとっては生まれて初めて遭遇する宮崎映画であった。その前にテレビアニメ『未来少年コナン』(1978年放送・宮崎初の演出作品)を観ていた筈なのだが、不思議と印象は希薄であった。後年、再放送か何かで観直してみて「こんなに凄い作品だったのか!」と驚嘆する事になる。それはそれとして『ラピュタ』には強烈な影響を受けている。小説にせよマンガにせよ「滅亡した超科学文明」を背景にした作品を好むのはその為である。奥行きのあるガッチリと構築された世界観、魅力的なキャラクター群、息をもつかせぬ怒涛の展開、そして凝りに凝った空間設計…俺は画面に釘づけとなった。一部例外を除けば、あれほど真剣に夢中になって映画を観た事はそれまでなかった。当時の俺は今に比べれば純粋でもあった。最近は余計な事を考えながら映画を観る習慣がついてしまっている。これでは駄目だと、自分でも修正しようと努力しているのだが、最早手遅れであるらしい。鑑賞後、この奇想天外な冒険活劇を作り上げた人物の名前が俺の脳味噌に深く刻み込まれたのは言うまでもない。最初の接触以降「宮崎駿」を異常に意識するようになった。監督作品だけでは飽き足らず、宮崎が天才アニメーターとして鳴らしていた時代の作品も追いかけ始める。グッズだのフィギュアだのには全く関心を覚えなかったが、かなり重症の宮崎中毒だった事は確かである。

宮崎駿がアニメ界の巨匠として一般社会に認知される事になった決定的作品が『魔女の宅急便』(1989年)である。興行的には惨敗を続けていた宮崎映画がついに大幅な黒字を叩き出した作品でもある。これ以後、俺は全ての宮崎映画を劇場で観ている。あれから15年という時間が経過している。放課後の補習をサボっては地元商店街の映画館に入り浸っていたものだ。その劇場も随分前に潰れてしまった。劇場は消え去ったが、俺の行動パターンはその頃とほとんど変化していない。余り威張れた話じゃないな。宮崎映画は『魔女』以降、内容的には低迷もしくは後退を繰り返すようになる。商売的にはヒットに次ぐヒットを飛ばし、宮崎は日本映画の救世主として祀り上げられる。皮肉にもその事がかえって宮崎の創作活動の妨げになってしまったような気がしてならない。映像作家としての限界や衰えもこれに重なった。俺が本当に面白いと感じる宮崎映画は『となりのトトロ』(1988年)が最後となった。その認識は現在も変わっていない。活劇復活を信じて劇場に乗り込んだ『もののけ姫』(1997年)も結局不発に終わり、俺の映画羅針盤は実写に絞られるようになる。それでも新作公開の度に劇場に足を運んでしまうのは何故だろう。恐らく俺はもう一度『ラピュタ』の快感を味わいたいと心の底で願っているのだ。同時にそれが叶う事はあるまいと知りながら…。

先日。近所のシネコンで『ハウルの動く城』を観た。映画の冒頭。天才魔法使いハウルの移動要塞が姿を現わす。無気味さとユーモラスさが融合した摩訶不思議なデザインである。その巨体が大地を踏み締めてガシガシ動き回る場面は圧巻だ。これは天空城ラピュタの陸上版とでも言えば良いのだろうか。それとも《機械式王蟲》であろうか。ハウル城が敵陣奥深くに斬り込んで縦横無尽の大暴れを展開。俺のような好戦的生物はそんな光景を夢想してしまうが、それが現実に描き出される事は決してない。宮崎の目的は別のところにあるからである。科学と魔法が同居するという極めて魅惑的な物語世界。幾らでも面白い活劇が拵えられそうだが、宮崎はそのチャンスをことごとく避けている。その気がサラサラないのは明らかだ。こちらとしては欲求不満が募るばかりだが、それは愚かな行為かとも思う。黒澤明の『影武者』『乱』に『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『用心棒』における血沸き肉踊る戦闘場面を求めても無駄なように。映画の種類が異なるのだからどうしようもない。作家たる者はひとつの世界を完成させたら「次の段階」を目指すのは当然の事である。だから『ハウル』が宮崎の老醜劇場であるとは一概には言えない。むしろ宮崎の新段階に戸惑う俺の方が老いているのかも知れない。ただ、宮崎がこの映画で何をしたかったのか?頭の悪い俺は未だに掴み切れないでいる。これは宮崎の妄想か内面宇宙の映像化なのだろうか。その傾向は中盤以降益々激しくなり、何が何やら訳がわからなくなってくる。宮崎は『紅の豚』(1992年)から脚本を書かずに映画を作っているそうである。この混乱振りはその辺りにも原因があるようだ。登場人物も何を考えているのかよくわからない連中が揃っている。その訳のわからなさが作品の魅力に繋がっていないのが哀しい所だ。俺が唯一好感が持ち得たのはハウルの弟子マルクルぐらいである。単調な物語の中で常に笑いを振り撒いてくれる貴重な存在。彼の活躍する場面が微笑ましい。でもこの程度のキャラクターはかつての宮崎世界にはゴロゴロしていたけどね。全体的に支持し辛い作品ではあるが、宮崎映画特有の「美味しそうな場面」は健在であった。かの移動要塞に潜り込んだ主人公ソフィーが初めての朝を迎える。勝手知ったる他人の家か。早速朝飯の準備を始めるソフィー。そこに城主であるハウルが現れて、自らフライパンを操るのだった。手馴れた動作である。間もなく、旨そうなベーコンエッグが画面一杯に登場し、観る者の食欲を大いに刺激する。ああ。俺は今、宮崎映画を観ているんだなと奇妙な感慨に耽ったものである。前評判は芳しくなかったが、ハウル役の木村拓哉が意外な好演を披露している。絶大な魔力を秘めつつも、何処か気弱で頼りないキャラクターにピタリと嵌っていた。これは思わぬ収穫であった。いい加減な想像だが「どうせ客寄せパンダだろ」と揶揄される事に対する反発が生んだ結果であろうか。アイドルとしての賞味期限が刻々と迫りつつある。これを契機にキムタクが声優界のスターを志すのも面白い選択だけど、実現はしないだろうな。

(2004/12/18)

『ゴジラ FINAL WARS』

先日。近所のシネコンで『ゴジラ FINAL WARS』を観た。これが「最後のゴジラ」になるらしい。日本映画が誇る怪獣王の勇姿もこれが見納めとなる。元怪獣小僧としては感慨深い。脚本は大雑把だが、物語の世界観は好きである。ハードさに乏しく奇妙に明るいのが一寸気になるけど。近未来。人類は怪獣との死闘に明け暮れていた。対怪獣組織たる地球防衛軍がこの映画の主人公である。ラドンだのカマキラスだのアンギラスだのエビラだのが―何処から湧いてきたのか―世界主要都市に続々襲来。激しい攻防戦が繰り広げられる。各支部には空中戦艦も配備されている。巨大生物vs超科学兵器。メカオタクにとっては手に汗握る瞬間である。人類の敵をブッ殺せ。地球の平和を守るんだっ。しかし指揮官が無能なので折角の能力が生かし切れていないのが残念である。宝の持ち腐れ。なにしろ「撃て!」と「怯むな!」ぐらいしか指示や命令がないので、これに従う乗組員は大変だ。正々堂々、正面から斬り込むのはカッコいいけど、そればっかりだと流石に厭きてしまう。もう少し気の利いた作戦を立てるとかさ。これじゃあ命が幾つあっても足りないぜ。もし俺なら迷わず艦を降りるね。そんな中、謎の巨大宇宙船が地球に降臨する。異常に馴れ馴れしい《彼ら》は平和の使者か?それとも…。宇宙ペテン師のX星人にまんまと騙された人類は「あっ」と言う間に危急存亡の窮地へと追い込まれてしまう。頼みの防衛軍も壊滅寸前。人類の命運は尽きたのか?

優等生的キャラクターの多い登場人物の中で、ほぼ唯一強烈な男臭さを発散しているのがゴードン大佐(ドン・フライ)である。地球防衛の要。陸海空を統べる人類英知の結晶。我らが万能戦艦《轟天号》の艦長だ(因みに初代艦長は中尾彬!)。風貌も肉体も怪獣並の迫力を有しており、部下にも結構慕われている様子である。しかし、何かにつけて独断専行が目立つ為、組織内では問題児扱いされている。オレ流采配が災いし、ゴードン艦長は軍法会議にかけられてしまう。上層部の逆鱗に触れてしまったのだ。それでも全く反省せず、裁きの場で上官をぶん殴るというまるで奥崎謙三のような凶暴オヤジである。ただその場面は映像化されておらず、全て台詞で処理されてしまっている。俺みたいなひねくれ者はそういう場面こそ渇望しているのだが。問題児というのはイザという時に役に立つ。幽閉場所から脱出を果たしたゴードンは手兵を引き連れて《轟天号》に乗り込む。目的地は大怪獣ゴジラの眠る南極大陸だ。ゴジラとX星人の怪獣軍団を噛み合わせて、そのスキに敵本部を叩こうという豪快な計画である。冗談と紙一重のような作戦だがゴードンは真剣である。不良艦長が絶叫する。座して死を待つぐらいなら戦って死ね!と。その気合買った!だが待てよ。これは余りに身勝手な行為ではないだろうか?度重なる原水爆実験が自然の秩序を狂わせ、その結果、脅威の怪物ゴジラが誕生した。そして、ようやくゴジラを封印したかと思えば、今度はX星人に対抗する為にゴジラを覚醒させるという。利用可能なら「毒」であろうが「敵」であろうがとことん利用する。この感覚が恐ろしい。この感覚がいつか人類を破滅に導くのではないだろうか。生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められているのだから手段は選べないのかも知れないが、地球外生物の侵略よりもおぞましい「何か」が我々人間の中に存在しているような気がする。尤も、劇中の人物にそんな事を悠長に考えている余裕などありはしない。エンジン全開。地球最強の「兵器」を起動させるべく《轟天号》は氷の大地を目指すのであった。

この映画の監督たる北村龍平には前々作『あずみ』(2003年公開)で酷い目に遭わされたが、今回は手堅い仕事振りを披露している。上映時間2時間5分を観客に退屈させる事なく一気に駆け抜けたのだから大したものだ。ただ見せ場から見せ場へと繋ぐ部分を更に掘り下げていれば、映画に深みと言うか奥行きが出たと思う。やや急ぎ過ぎの印象があるのだ。ゴジラ覚醒や万能戦艦発進に至るプロセスをじっくり描き込むという案はなかったか。細部に凝ってこそ活劇も生きるというものである。活劇前のワンクッション。観客を良い意味で焦らせる手練手管を身につければ、北村の評価も自ずと上がってゆくだろう。ハリウッドも注目する才能云々という宣伝文句を俺は信用していない。天下のハリウッドが北村のどの辺りに注目しているのかはわからないが、この人は未だ成長途中にある。必要以上に煽て上げるのは考えものだ。迂闊な判断はかえって貴重な才能を潰す結果になりかねない。それに彼の主要武器である(筈の)アクション描写も相変わらず切れ味が鈍い。ゴジラvs怪獣軍団にせよ、防衛軍vs侵略者にせよ、いつまでもダラダラダラダラ戦っているような感じである。刀剣や銃器の使い方も巧いとは言い難い。活劇場面とは時間をかければ良いと言うものではない。一撃必殺でズバリと決めるからこそ痛快感も出てくるのである。そういう意味ではまだまだ研究研鑽の余地があるだろう。長きに亘る「ゴジラ・サーガ」もめでたく最終章を迎える事になった。陛下。東宝最大のドル箱スター(古いな。この呼び方も)としてのお勤め御苦労さんでした…とは言うものの、そう遠くない未来にまたぞろ「ゴジラ復活」の噂もある。多分その運びとなるのだろうが、次回は是非『ゴジラ対海底軍艦』をお願いしたい。今回の導入部でとりあえず「夢の対決」は実現したのだが、俺としては全然食い足りない。ゴジラと海底軍艦。この二大材料が揃えば充分美味しい料理に仕上げる事が可能だ。あれもこれもと欲張りに注ぎ込んだところで面白い映画が出来るとは限らない。構造はシンプルでもマニアを唸らせるコクがある。そんな怪獣映画を一皿予約しておこう。

(2004/12/13)

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