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映画の渡り鳥7

『ガクの冒険』

野田知佑。国産アウトローの代表格だ。真に自由人と呼ぶに相応しい人物である。そこら辺にゴロゴロ転がっている紛い物とは訳が違う。愛用のカヌーを携えて世界を旅する男。腕っ節も強く、危機回避能力にも長けている。普通なら死んでいてもおかしくないような窮地を軽々と擦り抜けてしまうのだ。不思議な運命の持主であり、まさに野外生活、放浪生活をする為に生まれてきたような豪傑である。その生き方、考え方には俺の魂を痛烈に揺さぶるものがある。限りない憧憬を覚える。俺が野田師匠(またしても勝手に師匠呼ばわり)の存在を知ったのは小学生の頃である。師匠と片岡義男の対談を収録した写真集『カヌーで来た男』は未だに俺の傍らにある。この本を幾度読み返した事か。俺の数少ない愛読書のひとつである。

先日。野田師匠が出演している映画を発見した。近所の図書館。視聴覚室の一画である。タイトルは『ガクの冒険』(1990年公開)とある。興味をそそられた俺は早速レーザーディスクを受付カウンターに運ぼうとした。しかし…パッケージの裏面に印刷された「監督・椎名誠」という文字が俺の行動を躊躇わせた。イヤーな予感(悪寒?)が全身を走り抜けた。例外もあるが、基本的に異業種監督を俺は信用していない。一時期、作家先生やミュージシャンがこぞって映画をお撮りになり、ことごとく敗北するという怪奇現象が流行った事がある。この映画もその時期に生まれたガラクタの一であろうか。疑念と不安が俺の内に湧き起こったのだった。果たしてそれは的中した。こういう時にだけ俺の勘は妙に働くのだ。そんなもん働いても少しも嬉しくないけど。椎名先生が如何なる経緯、どういう意図で映画作りに着手されたのかは不明だが、まずこれは「映画ではない」と断言させてもらおう。この出来だとプライベート・フィルムとしても苦しいのではないか。素人芸の極み。映画を甘く見ると大変な惨劇が発生するという典型的な例である。一応コレは劇映画であるらしい。確かに野田師匠は風貌も体格も役者向きではある。声も良い。だが、演技経験はゼロであり、正式な訓練を積んだ訳でもない。加えて、演出側の椎名先生もズブの素人である。黒澤やキューブリッククラスの監督なら素人俳優を巧く使う事も可能だろう。しかし素人と素人が組んだところで一体どうなるというのか。結果は目に見えてるじゃないか。負けるとわかっている戦争は避けた方が賢明である。まあ。敢えて負け戦に身を投じなくてはならない場合もあるのかも知れないが、この映画は「その場合」ではないと思う。まさに自殺行為である。試写の後に首を吊りたくなった人もいるんじゃないかな。野田師匠一生の不覚。上映時間55分。中篇に属する作品だが、最初から最後まで学芸会演技をつき合わされるお客はたまったものではない。最早映画と言うより拷問に近い。これなら『死に花』や『鉄人28号』の方がまだマシである。出演者もスタッフも。勿論観客も含めて、これは「関わった者全員を不幸にする」恐るべき映画である。

野田師匠の人生は映画の素材としては抜群に面白い。それは間違いない。例えば、若き野田知佑の物語はどうだろう。大学を卒業した師匠はアルバイトで食い繋ぎながら日本国内を流離っていた。ロケ地を見つけるのに苦労しそうだが、然るべき役者、然るべき監督を揃えれば結構名作に仕上がるのではないだろうか。カヌーのテクニックに関しては日本一の師匠に指導を仰げばいい。或いは野田知佑のアウトドアライフを徹底追跡する記録映画という手もある。クールな映像で稀代の野生児の生活を克明に捉えてくれればそれはそれで興味深い。要は料理人の腕次第。折角の原石を椎名先生は粉微塵に破壊してくれた事になる。この罪は重いよ。小説や音楽の才能と映画の才能は全くの別物である。ついでに言うが、映画が「好き」である事と「撮る」という事も一致するとは限らない。仮の話、文章も書けない(歌も歌えない。楽器も弾けない)者が突然「小説家になりたい」「音楽家になりたい」と言い出したら《彼ら》はどう反応するだろうか?恐らく「小説を(音楽を)ナメるんじゃねえ」と一喝するのではないか。それと同じ事である。どう考えたって、知識も経験も感性もない連中に映画が撮れる筈がないのだ。生兵法は怪我の元。ただ、この程度の理屈は小学生にもわかりそうなものである。にも拘らず、各分野のトップに君臨する達人ともあろう方々が何故に馬鹿げた行動を繰り返すのか。理解に苦しむね。どうやら「映画監督」という称号は何者をも狂わせる魔的な魅力を帯びているらしい。

(2004/12/7)

『真珠の耳飾りの少女』

先日。新文芸坐で『真珠の耳飾りの少女』(本年公開)を観た。寡作の天才画家フェルメール(って全然知らねえが)の『真珠の耳飾りの少女』は如何なる過程を経て完成したのか?それは誰にもわからない。詳細な資料や記録が残されていないので、専門家にも真相が掴み切れていないそうである。だからこそ想像の翼を広げる余地もあるという訳だ。この映画はそんな作品である。物語の構造は実にシンプルであり、芸術映画が大の苦手な俺としては相当しんどい作品であった。上映時間が1時間40分で助かった。それ以上の「大作」だったら、心地好い眠りの世界に埋没していた可能性(危険性?)があった。逼迫した家計を支える為、主人公の少女(スカーレット・ヨハンソン)は強制的に就職させられるハメに。タイル職人の父親が事故で光を失ってしまったからである。勤め先は有名な画家フェルメールの家だ。使用人である。洗濯女である。時は17世紀。場所はオランダ。収入がなくなれば、それは家族の餓死を意味する。この時代の子供には登校拒否だの引き篭もりだのをしている暇はないのである。食べる為には、生きる為には、働かなくてはならない。健気な少女は愚痴も言わずにフェルメール邸に向う。かの屋敷はやたらに気難しい偏屈者の巣窟であった。少女も皮肉だの嫌がらせだのに晒されるが、控え目な彼女はじっと耐えている。だが、単におとなしいだけの女の子でもないらしい。やるべき時はやるぞ。鮮度の悪い肉は容赦なく商人に衝き返すし、悪戯をした餓鬼(フェルメールの娘)に平手打ちを食らわせる度胸もある。それでいい。例えその行動が後の災いに繋がろうと、最低限の尊厳は守る必要がある。幾ら使われている身とは言え、俺達は人間なんだから。

稀代の天才画家をコリン・ファースが演じている。余り喋らないし、その表情は常に沈鬱である。近づき難い雰囲気を周囲に発散している。完全主義。満足のゆく作品を仕上げる為にはそれなりに時間がかかる。嫁さんも彼女の母親も彼の才能を認めてはいるものの、その仕事振りがどうやら気に食わない様子である。財政難が最大の原因である。豪奢な生活を維持する為には莫大なカネがかかる。今更質素な暮らしなど出来る訳がない。収入と支出のバランスが極めて悪いのである。ツケも溜まっている。だから何かにつけてガミガミうるさい。最近は絵の内容にまで口を出すようになってきた。驕慢な細君、吝嗇な義母、出来の悪い娘…とても創作意欲がかき立てられるような環境ではない。さしものフェルメールもいい加減ウンザリしているが、男、或いは父親の威厳を発揮する場面はほとんどない。勿論パトロンには頭が上がらない。あちらにもこちらにも気を遣い、神経を擦り減らす毎日。天才フェルメールともあろう者がこの程度なのか。一寸ガッカリだが、同時に強い共感を覚えたのも確かであった。彼のような境遇に置かれている人間は現代日本にも沢山存在するからである。物語が進む内にフェルメールが中村主水やフグ田マスオにダブって見えた。バカな事を抜かすなと真面目な観客に怒鳴られそうだが、本当だから仕様がない。イライラの蓄積したフェルメールが可憐な少女を新作の題材に選んだのは自然の成りゆき。そちらの方が精神衛生上にも望ましいに決まっている。

当時の生活様式や季節の移ろいが丹念に描き込まれている。特に興味深かったのが、少女が洗濯をする場面である。まずでっかい鉄釜にグラグラと湯を沸かす。そこに洗濯物を放り込み、頃合を見て琥珀色の石鹸を落とす。火傷の恐れもあるし、中々の重労働である。大変だぜ。石造りの街並みや立体的なフェルメールの屋敷も秀抜な出来映えだ。監督やスタッフのこだわりをひしひしと感じる。クロサワ好みの作品だね、これは。映画本来の重厚な味わい。これが映画芸術というものだ。何でもかんでもCGで作っちゃえば(誤魔化せば?)いいってもんじゃない。フェルメール邸の前には運河が流れている。そこには多数の船が行き交い、運送手段、移動方法として大いに活躍している。いつまでも眺めていたい明媚な風景である。まさに一幅の名画と言えるだろう。冬期になると運河は別の顔を見せる。凍った河の上でスケートに興じる者もいるが、この街に住む者にとっては基本的に辛い季節である。地元のオヤジ達が航路を確保する為に氷をガリガリ削っている。その厚さがオランダの冬の厳しさを如実に物語っている。寒い寒い。様々な葛藤の果てに『真珠の耳飾りの少女』を完成させるフェルメール。少女の肉体は滅んでも、絵の中の彼女は永遠に美しい。俺のような無頼者には絵画を愛でる教養も知識もない。だが、カンバスに描き込まれた人物の経歴を考えてみたり、それを手掛けた画家の生涯に思いを馳せるのは結構面白い。そんな楽しみ方があってもいいのかなと思ったりする。

(2004/12/5)

『生きものの記録』

先日。図書館で『生きものの記録』(1955年公開)を観た。黒澤明が原水爆という巨大テーマに挑戦した意欲作である。前年のビキニ環礁における第五福竜丸被爆事件。そして黒澤の盟友たる早坂文雄の「こう生命を脅かされちゃ、仕事は出来ないねえ」という言葉がこの映画の出発点となった。黄金期の黒澤映画にしては話題に上ったり、研究対象になる機会の少ない作品である。黒澤の意気込みが空転した失敗作と断じる者も多い。なるほど、確かにそうかも知れないが、途轍もないエネルギー量を誇る映画である事は間違いない。国家権力の理不尽に対する黒澤の怒りが観客の胸に突き刺さる。その表現方法は至ってストレートである。まさに真っ向勝負という感じがする。人を茶化すのが大好きなインテリ評論家に言わせれば「黒澤特有の単純な正義感」という事になるのだろう。しかし、明瞭な語り口こそ黒澤映画の醍醐味である事も忘れてはならない。黒澤の「要約して二行か三行でバチッと書けるようなものじゃなかったら、いい映画にはならないね」「ゴテゴテ、ゴテゴテ何ページも使って書かなきゃならないような内容だったら、とても映画には無理だね」というポリシー通り『生きる』にせよ『七人の侍』にせよ、彼の映画の脚本は極めてシンプルである。冒頭から物語の核心にズバリ斬り込む気持ち良さ。それでいて、細部にまで神経が行き届いている。主役脇役に限らず、登場人物全てに確固たる存在感があるのだ。そんなキャラクター群を最高の名優怪優陣が演じているのだからたまらない。この厚味。この贅沢。映画の持つ魅力がぎゅうぎゅうに圧縮されている。

主人公の中島喜一を黒澤軍団の筆頭たる三船敏郎が演じている。この時35歳の三船を70歳の老人に配役するというのは相当な冒険だが、三船が監督の期待に見事応えている。入念な役作りと猛烈な演技指導の成果と言えるだろう。生半可な事ではくたばりそうもない野獣的生命力に満ちた老雄。当初主役に予定されていた志村喬にはこのアクの強さを出す事は困難だったと思われる。主演を逃した志村ではあるが、助演の一人に回り、三船を脇から支えている。周囲からキ××イ扱いされる中島老人に共感と同情を覚える歯医者さんの役である。老人の数少ない理解者。その落ち着いた佇まいは、大熱演を繰り広げる三船と好対照をなしており、主役を引き立てるのと同時に自らの個性をも主張している。例え脇役であろうと、印象的な演技さえ心掛ければ、観客の記憶にいつまでも留まる事が可能である。与えられた役に命を懸けて取り組むのが役者というものだ。志村の円熟した芸を眺めながら、そんな事を考えていた。彼に比べれば、やたらに主役主演にこだわる俳優モドキ(とさえ呼びたくないが)など、駄々っ子に等しい。一刻も早くスクリーンから消えて欲しい。原水爆の恐怖。放射能の脅威。その回避策として、中島老人は「ブラジル脱出計画」を立案するが、家族の猛反発によってその目論見は阻まれる。如何に怪物とは言え、準禁治産者に指定されてしまっては手足をもがれたも同然だ。その日を境として、老人は加速的に狂気に侵されてゆく。この光景は何処かで観た事がある。物語の構造自体も酷似している。そう。黒澤後期の力作『乱』(1985年)である。準備段階では『乱』の主演は三船だったという噂がある。結局、一文字秀虎を演じたのは仲代達矢であり、三船起用は実現しなかった。だが、その30年前に三船は『生きものの記録』において、帝王リアを演じていた事になる。この2年後『蜘蛛巣城』にて三船はマクベスに扮している。リアに続いてマクベスと、黒澤演出の下、立て続けに「四大悲劇」の二作品を演じ切ったという訳だ。因みに『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)を『ハムレット』の翻案作品だと指摘する研究者もいる。黒澤映画とシェイクスピアの結びつきは強固である。

黒澤一流の強烈映像や綿密な画面設計には毎回驚かされるが、この映画においてもその完全主義は顕在であった。好きな場面がある。家庭裁判所の廊下で展開するちょっとしたエピソードである。真夏の午後。うだるような暑さ。喉もカラカラ。自分を訴えた家族の為に中島老人が冷たいジュースを差し入れる。会話はない。無言である。全員にジュースを配り終えた老人は備え付けの椅子に腰を降ろす。面倒臭げにストローを投げ捨てると、老人はゴブゴブとジュースを一気に飲み乾すのである。暴君の意外な優しさや豪快な性格を僅かな時間で語り尽くしている。台詞の応酬ではなく映像のみで説明してしまう鮮やかさ。この辺りの技巧は流石と言う他はない。物語のクライマックスに登場する精神病院も圧倒的な迫力を帯びている。入院患者の描写も鬼気迫るものがある。この凄さはやはり劇場で味わうべきだろう。黒澤映画のスケールはテレビの小さい画面にはとても収まらない。光り輝く太陽を見て「ああ。燃えている。地球が燃えている!」と絶叫する中島老人。老人は現在「違う惑星に引っ越してきた」という妄想に沈み込んでいるのである。黒澤映画としては稀有なSFっぽい空気が流れる。才能にも人望にも恵まれ、地位と財産を築いてきた豪傑とは思えない悲惨な末路である。彼の晩年は完全に破壊された。これも原爆の威力であろうか。全ての手段を封じられた老人には狂気の世界こそが唯一の避難場所だったのである。茫然自失の志村が病院の階段をコツコツと降りてゆく。そんな彼と擦れ違うのは中島老人の愛妾(根岸明美)であった。恐らく老人の家族は「厄介払いが出来た」と喜びこそしているが、見舞いにも来ないのだろう。血の繋がりの脆さ危うさを濃厚に感じさせる。カメラはじっと動かず、二人の姿を正面から捉え続ける。演劇的とも言える独特の映像空間が素晴らしい。この病院のセットの出来映えが秀逸である。黒澤美術の傑作のひとつ。ラストシーンを飾るに相応しい精密な造りである。映画は緊迫感を保ったまま、バサリと幕を降ろす。そして暗黒の画面に響き渡るのは、病床の早坂が作曲(弟子の佐藤勝も協力)した音楽である。まさに命を削って書き上げた作品と言えるだろう。巨匠黒澤の絶大な信頼を得ていた作曲家は『生きものの記録』の製作中に惜しくもこの世を去っている。

(2004/12/2)

『ブルーサンダー』

先日。図書館で『ブルーサンダー』(1983年公開)を観た。ロイ・シャイダーvsマルコム・マクダウェル。ロサンゼルス上空にてオヤジ戦争勃発!

ばばばばば。強烈な朝陽をバックにして現れる巨大な影。この映画の主役。対テロリスト用ヘリコプターの登場だ。ロス市警航空課の秘密兵器である。通称ブルーサンダー。完全防弾の装甲に固められたボディが禍々しくも美しい。防御面だけでなく攻撃面も優秀である。機首に装備された高性能機関銃は如何なる標的をも貫通する威力を秘めている。バスだろうが自動車だろうが瞬く間に蜂の巣にしてしまう。こんなものを浴びせられたら人間などひとたまりもあるまい。肉体はバラバラに砕け散り、鮮血のシャワーが路上に降り注ぐだろう。凶悪犯罪者に情けは無用と言う事か。しかし、必要以上に強力な気もする。これでは、一般市民もブルーサンダーの放つ弾幕に巻き込まれはしないだろうか。そんな疑問がチラリと浮んだ。劇中、警察上層部の連中が「テロリスト10名につき民間人1名の犠牲は許容範囲だな」などという物騒な台詞を口にする場面がある。なんて酷い事を言う奴らだとも思ったが、それが現実的な意見なのかも知れない。機関銃の弾丸には殺す相手を選ぶ機能は付いていないのだから。敵の出現エリアは荒野や砂漠ではない。迷路のように入り組んだロサンゼルスであり、そこには夥しい数の人間が動き回っている。犯罪者と民間人の識別は極めて困難である。盗聴装置や情報検索能力&隠密活動能力等々…あらゆる最新設備が施されたブルーサンダーにも出来る事と出来ない事がある。所詮は武器に過ぎない。刀剣同様、遣い手の資質によって神にもなれば悪魔にもなるのである。ブルーサンダーを真に乗りこなせる者は誰か?結局シャイダーに白羽の矢が立った。情緒不安定気味だが、その腕前を高く買われた訳である。この抜擢が大変な惨劇を誘発する事になろうとは…。

シャイダーはベトナム戦争の経験者である。地獄の戦場で被ったトラウマが未だに癒えず、夜毎悪夢に魘されている。その原因を作った男がマクダウェル大佐であった。両者の間にどんな因縁が存在しているのか?それがこの物語の肝を握る鍵となる。思わぬ場所で再会を果たしたシャイダーとマクダウェル。不倶戴天の宿敵が眼前に現れたからには、これを全力で排除しなくてはならない。話し合いで解決しようなどという穏便な考えが彼らにある筈もない。いずれかが血反吐を吐いて崩れ去るまでこの争いが終わる事はない。負け戦ベトナムを引き摺ったオヤジ2人の死闘(舌戦含む)が繰り広げられる。敵役のマクダウェルが汚い手段に訴えるのは仕様がないが、受けて立つシャイダーも相当アクが強い。両者とも全然正義の味方じゃないところがかえって心地好い。かの最新鋭ヘリコプターもこの2人の前では喧嘩の道具に過ぎないのだ。映画中盤からシャイダーの暴走が始まる。マクダウェルの正体を記録したビデオテープを公表して、彼の社会的抹殺を狙うシャイダー。テープの運搬を愛人(キャンディ・クラーク)に任せると、シャイダーは基地内のブルーサンダーを奪取する。テレビ局に向うクラークの車を空中から護衛するシャイダー。邪魔する奴は警官だろうと同僚だろうと容赦はしない。自慢の機関銃が火を噴き、パトカーは両断され、追跡ヘリは橋桁に激突して大破に追い込まれる。国民の税金がオヤジの意地の為に四散する瞬間である。こんな暴挙が許されていいのか。空軍から派遣された戦闘機をも退けたシャイダーの天才的テクニック。最早無敵とも思われたが、愛機を駆るマクダウェルがせめて一太刀と奇襲を仕掛けてくる。真昼間。都市上空で激しく斬り結ぶ二大戦闘ヘリ。要するにこれはベトナムの「盤外戦」をわざわざ本国でやっているという事だ。ロス市民としては大迷惑である。自分達を守るべき存在が嬉々として殺し合っているのだからたまらない。頼むから他所へ行ってくれと叫んでいるに違いない。画面には出てこないが、シャイダー暴走の余波を受けて怪我をした市民も1人や2人ではないだろう。死者が出た可能性だってある。テロリストも恐ろしいが、怒り狂ったオヤジはもっと恐ろしい。何をしでかすのやら予想も出来ない。どうやら「ブルーサンダー計画」は発動早々から座礁の様相である。組織内における責任の擦り合いが目に見えるようだ。事態収拾の為、お偉方のクビが飛んだり、挿げ替えられたりするんだろうな。派手な攻防戦の末、怨敵マクダウェルを討ち果たしたシャイダー。何を思ったのか、この男はブルーサンダーをも粉々に破壊してしまう。貨物列車の直撃を受けて爆発炎上するブルーサンダー。本来の役割を1度も演じる事なく《彼》は消滅した。血税の塊はシャイダーの個人的理由によって散々利用された挙句にスクラップと化したのである。危険な玩具を復讐鬼に与えてしまった上層部の判断は大きな誤りであった。今にして思えば「奴をブルーサンダーに乗せる事は反対だ」というマクダウェルの主張は正しかったのだ。皆さん。人事や人選はくれぐれも慎重にね。

(2004/11/27)

『バージンブルース』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『バージンブルース』(1974年公開)を観た。主演は秋吉久美子。監督は藤田敏八。久美子はお茶の水の予備校に通うしがない浪人生である。狭い女子寮と予備校を往復するだけの虚しい生活。一体こんな事をしていて何になるのか。試験に合格したところでそれが何の役に立つのか。大学に入学する事に何の意味があるのか。久美子(当時19歳)の憂鬱な眼差しがイカす。彼女の演技は巧いとは言いかねるが、卓越した藤田演出のお陰で、神秘的な魅力を発揮している。仲間内では「私は処女」と称している久美子だが、真相はよくわからない。恐らく狂言だろう。浮世離れした雰囲気を濃厚に漂わせているが、危機回避能力に長けている部分もあり、案外侮れない。バカなのか利口なのか。ふわふわと掴みようがない。よく考えてみると、藤田映画の登場人物はこんな連中ばかりである。不道徳と不謹慎の塊。特にストーリーが面白い訳でもないし、彼らの行動に共感を覚えない者には相当辛い映画ではある。頽廃少女の久美子は集団万引きの常習者である。これも彼女にとっては遊びか暇潰しの一環に過ぎないのだろうか。白昼堂々、仲間数人と近所のスーパーに乗り込み、大量の商品を鞄に詰めると、素知らぬ顔で戸外に出る。その動作は至って機敏であり軽快だ。ゲームを楽しんでいるような印象さえ受ける。言うまでもないが、万引きは犯罪である。しかし、久美子は反省もしないし、罪悪感も感じていない。仲間が店員に捕まっても、助けるどころか、一目散に逃走を開始する有様である。酷い女だ。友達を心配する余裕や発想などまるでないらしい。冗談じゃないわ。前科者になんてなりたくないわ。あくまでも御身大切。リーダーの資質ゼロの久美子ちゃん。

そんな久美子にしつこくつきまとう中年男を長門裕之が演じている。駄目人間の見本のような男である。どうやら脱サラをして商売を始めたらしいが、店も子供も奥さんに任せ切り、自分は金もないのに毎夜遊び歩いている。この人物が後の『スローなブギにしてくれ』『ダイアモンドは傷つかない』に登場する自堕落男(山崎努)の原型である事は間違いない。バイオレンス山崎に比べると、狂暴性やアクの強さに欠ける部分があり、いささか物足りない。だが、滑稽味溢れる演技の数々は長門ならではの味わいと言えるだろう。当初は久美子を貫く事しか考えていなかった長門が、徐々に彼女の保護者のように振舞い出すのが妙におかしい。この男はそれほど悪人ではないようである。結局この2人は肉体関係を結ぶ事になるのだが、それは強姦ではなく、互いの同意によるのものである(多分)。長門は若い時にボクシングで鳴らしていたという設定。立ち回りの時はこれが大いに役に立つ。俺はバージンを守る義務があるんだ!などと訳のわからない台詞を撒き散らしながら、アングラ劇団員をボコボコにブチのめす。長門がオヤジの威信を見せつけた唯一の場面であった。例によって話はあちこちに飛ぶが、この作品には約30年前のATM(現金自動支払機)が何度も画面に現れる。キャッシュカードを使って金を下ろす際の長門の誇らしげな表情が笑わせる。現代ではATMなんて珍しくもないが、この頃は最先端の機械だったのだろうか?映画には当時の風俗や流行が記録されている。それに接するのはとても新鮮な気分である。古い映画にはこんな楽しみ方もあるのだ。

物語の後半、広場で奇妙な歌(この映画の主題歌?)を熱唱するヤクザみたいなオヤジが突如出現する。何処かで見た顔だなと思ったら作家の野坂昭如であった。この場面がかなり長いのである。野坂ファン以外には何の必然性も感じられない退屈な時間だった。俺は特別出演というヤツがどうしても好きになれない。ヒッチコックレベルなら話はまた別だけど。そう言えば、深作欣二の『黒蜥蜴』に剥製の役(!)で三島由紀夫が出てたな。横溝正史や松本清張、それに小松左京も見かけた事がある。筒井康隆に至っては俳優名鑑に掲載されている。どうも文士の方々は目立ちたがり屋が少なくないようである。これは俺だけかも知れないが、素人にうろちょろされると、その瞬間「映画が崩れる」ような不快な感覚に襲われるのである。原作者の特権を活用するのも結構だが、そこはグッと我慢して、映画の完成度を優先させて欲しい。作家の才能と俳優の才能は別物なのだから。まあ。話題作りの為に無理矢理出演させられている場合もあるのだろうが…。家族にさえ愛想を尽かされた久美子と長門はアテのない放浪生活を続ける。この辺りから、映画の現実感は次第に希薄になり、不条理な気配が画面を支配し始める。両者の間に愛情が存在しているのかどうか、それさえも曖昧になっくる。藤田映画の常套パターンである。細かい事は考えず、この流れに身を委ねた方が良さそうである。それが嫌なら席を立ってしまおう。時間の無駄だ。心地好い悪夢の果てにシュールな幕切れが用意されている。

(2004/11/24)

『キッズ・リターン』

先日。図書館で『キッズ・リターン』(1996年公開)を観た。監督は北野武。例の交通事故から奇跡的生還を果たしたたけしが初めて手掛けた映画である。今や世界的名声を誇る北野監督だが、作品の出来にはかなりのばらつきがある。北野映画というだけでどれもこれも褒め上げる心算は俺にはないし、第一盲目的(狂信的)な絶賛は作り手に対して失礼である。彼の映画は技巧や常識から最もかけ離れた場所に存在している。従来の映画技法を無視した造りが、既成映画にウンザリした人間の眼には極めて斬新に映るのである。同業者内での評判も良い。黒澤明、押井守、庵野秀明…錚々たる顔触れが北野映画の独創性を認めている。それにしても、不完全主義(?)の代表のようなたけしをクロサワが高く買っていたのは面白い現象である。彼の映画には凝った映像が登場する訳でもないし、脚本が格段に優れているとも思えない。だがそこには独特の空気と時間が流れている。感性のみで撮った映画であり、一歩間違えれば無惨なガラクタになりかねない。途轍もなく心地好い場合もあれば、退屈で退屈で死にそうになる場合もある。ホームランか三振か、この危うさが北野映画の魅力でもある。さて『キッズ・リターン』はどうだろうか。どうやら、たけしの放った打球は見事スタンドに突き刺さったようである。映画の随所に見られる悪ふざけ(たけし一流の照れだと言えなくもないが)には閉口するものの、映画としては上々の仕上がりである。傑作と言って良いかも知れない。監督自身が経験したと考えられる挫折や苦渋が真摯に語られており、観る者の魂を揺さぶる。その飾り気のなさが良い。少年が大人になるまでの僅かな時間。たけしは現実の苦味や厳しさを絡めつつ、青春時代の輝きをスクリーンに刻み込んでいる。自転車の使い方も巧みだし、石橋凌や森本レオ等、脇役陣の好演も印象的である。

この物語の主人公は2人いる。マサル(金子賢)とシンジ(安藤政信)の両名である。どちらもどうしようもない悪餓鬼だ。2人は教師にも両親(画面には現れないが)にも見離された劣等生である。学校の授業にもまともに出席しないし、勉強をする気もない。進学も就職も面倒臭い。専ら悪戯やカツアゲにエネルギーを費やしている。それなりに楽しいが無為な毎日が過ぎてゆく。そんな2人に人生の転機が訪れた。以前恐喝した連中の逆襲を受けたのだ。相手が連れてきたボクサーに叩き潰されるマサル。その場に崩れ落ちる悪友を呆然と見下ろすシンジ。屈辱に塗れたマサルはボクシングジムに通って復讐を誓う。強くなって奴をブチ殺す!報復の報復であり、そんな事をしてもキリがないような気もするが本人は至って真剣である。シンジも何らかの興味を覚えたのか、間もなくジムに入門する。凶暴性に加えて腕っ節も強いマサル。比較的おっとりした性格で無口なシンジ。しかしボクシングの才能は後者の方が上であった。観客の予想を裏切る意外な展開である。たけしのボクシング好きは有名だが、その趣味が映画にも色濃く反映されている。試合場面も悪くないが、過酷な練習に打ち込むボクサー達の姿を丹念に捉えているのには感心した。所属メンバーも実に個性的である。親切に手解きをしてくれる先輩もいれば、良からぬ習慣を教える古株もいる。中には薬を服用して無理矢理減量している選手もいる。実際のジムもこんな雰囲気じゃないかな?と観客に思わせるにたる迫真性を備えていた。日本映画には珍しい本格ボクシング映画としても評価出来る。丁寧な描写の積み重ねがリアリティに繋がっている。順調な成長を遂げたシンジは連戦連勝。このままゆけばスター選手の座も夢ではない。一方のマサルは、馴染みのラーメン屋で知り合ったヤクザ(石橋)の舎弟となり、出世街道を歩み始めている。最早チンピラではない。縄張りの一部を任されている幹部である。背中一面に彫り込まれた刺青もサマになっている。段々両者の表情も変わってくる。野望と自信に満ちた狼の表情だ。弱い者苛めに終始していた頃とはまるで別人のような顔つきである。それも大袈裟ではなくあくまでも自然に。荒削りな中にも繊細さを感じさせる北野演出が鮮やかであった。映画後半では、栄光を掴みかけた2人が惨めに転落してゆく様子が淡々と綴られている。ヤクザにせよ、ボクサーにせよ、サラリーマンにせよ、その世界で勝利を勝ち取る者は数えるほどしかいない。大半の者は生存競争から弾き飛ばされ、脱落し、場末の居酒屋でクダを巻く事になる。だが、たけしの負け組に注ぐ眼差しは驚くほど優しく、そしてあたたかい。人生に失敗はつきもの。いちいちしょげるな。人間、生きてさえいればやり直しも利くし、いい事もあるさ。そんな監督の声が聞こえてきそうである。ラストの「俺達もう終わっちゃったのかなあ」「馬鹿野郎。まだ、始まっちゃいねえよ」というシンジとマサルの会話に全てが集約されている。巧い幕切れだ。これはもう「私映画」の範疇を超えている。商品価値充分。何処に出しても恥かしくない立派な映画である。たけしはついに映画を撮ったのである。本当の映画を。

(2004/11/20)

『緋牡丹博徒/お命戴きます』

先月。ラピュタ阿佐ヶ谷で『緋牡丹博徒』シリーズ(1968〜1972年・全8作)を立て続けに観た。第3作『花札勝負』第6作『お竜参上』第7作『お命戴きます』の3本である。監督はいずれも加藤泰。藤純子扮する女博徒《緋牡丹のお竜》が日本各地で痛快無比の活躍を展開する。毎回2種類の組織が登場する。黴の生えた任侠道にこだわる老舗ヤクザ。これからは経済力がものを言う時代だ。義理や人情に執着したところで、蔵は建たねえ。悪知恵の限りを尽くして事業拡大に精を出す近代ヤクザ。時代の趨勢と照らし合わせれば、恐らく後者の姿勢の方が正しいのだろう。前者の主張は確かに美しいが、明治の日本ではそれは世迷言に近くなっている。言わば彼らは滅びゆく一族なのである。両者がぶつかれば勝利を収めるのは後者であろう。しかしそれでは現実世界と同じであり、お客としてはそんなものは余り観たくない。客が期待しているのは映画ならではの夢幻世界である。前者の不利な立場を逆転させる奇跡の存在。それがお竜さんである。苦境に陥っている彼らの前にふらりと現れ「この場は私に任せて下さい」と、ややこしい揉め事の仲裁を自ら買って出てくれる。最終的には対立組織を壊滅状態に追い込んで、何処へともなく去ってゆく。報酬や見返りを求める事もない。前者にしてみればこんなに便利な人物はまたといるまい。まさに天が遣わした救世主。いや《守護天女》と呼ぶべきか。そう。彼女は万能の女神なのである。何故お竜さんは年を取らないのか?何故お竜さんはいつも同じ服を着ているのか?何故お竜さんの渡世修行は永久に終わらないのか?何故ピンチになる度に都合良く援軍(高倉健や若山富三郎)が出現するのか?お竜さんに関する数々の謎や疑問は、彼女が守護天女と考えれば全て説明可能である。

上記3本の内、俺が最も気に入ったのは『お命戴きます』(1971年公開)である。ゲストは鶴田浩二。鶴田が田舎ヤクザの親分を巧演している。物語に公害問題を絡めている所が作り手の工夫である。マンネリ打開の域までには達していないものの、異色の雰囲気が楽しめる。鶴田親分の版図である山村は現在存亡の危機に晒されている。村の近所に建設された兵器工場が垂れ流す廃液の影響で、畑や田圃が不毛の土地に変わろうとしているのである。このままでは大地が死んでしまう。この土には代々の時間と労力が染み込んでいるのだ。俺も元は百姓の出身だ。庶民派の鶴田親分は陸軍や経営者に抗議行動を繰り返すがほとんど相手にされていない。逆にヤクザ風情が何を抜かすかとボコボコに殴り倒される有様である。どちらがヤクザかわからないような非道の仕打ちだが、鶴田はじっと耐えている。暴力に暴力で応じても何の解決にもならない事を彼は熟知しているのである。そんな鶴田に好感を抱くお竜さん。鶴田の息子も彼女によくなついている。おばちゃん。おばちゃん。何かにつけてお竜さんの興味を惹こうとする。その光景が微笑ましい。少年は彼女に今は亡き母の面影を見ているのだろうか。お竜さんとしては「おばちゃん」呼ばわりされるのは若干抵抗があるのかも知れないが、それをいちいち咎めたりはしない。正義のヒーローたる者の余裕と言えようか。

謀殺された鶴田親分の意思を継承するように、お竜さんが動き出す。どうやら日本とロシアの戦争が迫っているらしい。そんな訳で兵器産業と国家の方針とは密接関係にある。ヘタに手を出せば反逆罪にも問われかねない。だが、我らが守護天女は決して諦めない。お竜さんは陸軍本営に単身乗り込んで「陸軍大臣に会わせて下さい。お話があります」と、直談判を敢行しようとする。お前はキ××イか?大臣殿は忙しいんだ。帰れ帰れ。番兵どもに門前払いを食らわされた天女だが、今度は大臣が入り浸っているという高級料亭に足を向けるのだった。目的を達成する為にはあらゆる労苦を惜しまないのがお竜さんのスタイルである。一度や二度の失敗で消沈→挫折→ひきこもりしちゃう今の日本人は彼女の気力、行動力を大いに見習うべきであろう。稀代の女博徒として名を馳せたお竜さんだが、営業職としての素質も抜群である。不況であろうがなかろうが、売る奴は売っている。全国の迷える営業マンは『緋牡丹博徒』を観ろ!そして泣け!シリーズを重ねる内にお竜さんの戦闘技術もアップしている。飛び道具の扱いも手慣れたものであり、敵の段平を短刀で弾き返して、ピストルで撃ち殺すなんて芸当は朝飯前ある。艶やかな黒髪を振り乱しつつ大奮戦を繰り広げるお竜さん。その華やかさ。その素晴らしさ。戦いの女神、降臨の図である。雑魚ヤクザを右に左に斬り伏せて、ついに仇敵たる河津清三郎を追い詰める。光と闇の最終決戦。お竜さんは鮮やかなドス捌きで憎き清三郎を地獄に送る。おばちゃーん。そこにひょっこり顔を出す鶴田の息子。殺戮の興奮に酔っていたお竜さんだが、少年の声を聞きハッと我に返る。殺人者のギアから母親のギアへ切り替えて、少年をぎゅっと抱き締めるお竜さん。その姿は神々しさに満ち溢れている。女アウトローお竜さんだからこそ成立する出色の名場面であった。藤純子&緋牡丹のお竜。演者と役柄の個性が完璧に合致している稀有な例。日本映画が誇る理想的キャラクターの一人としてこれからも語り継がれるだろう。

(2004/11/14)

『必殺4/恨みはらします』

先日。図書館で『必殺4/恨みはらします』(1987年公開)を観た。番組開始15周年記念作品であり、深作欣二が監督を務めるという豪華版。主演は千葉真一…じゃなくて、藤田まこと。深作は『必殺』シリーズ第1作『必殺仕掛人』(1972年9月〜翌年4月放映)の企画に携わっており、第1・2・24話の演出も手掛けている。同時期『仁義なき戦い』シリーズ(1973年〜)が爆発的ヒットを記録。深作は一躍人気監督となり、活動の中心は映画になる。時折テレビの仕事もしているが『必殺』とは疎遠であった。この映画は、シリーズの基礎を構築した無頼系監督と最強キャラクター中村主水との邂逅という事になる。正義の殺し屋がのさばる悪党に鉄槌を下す。というのがシリーズの基本設定である。テレビ時代劇ならこの設定だけで視聴者を満足させる事が可能だが、映画の時間を持たせるのは一寸しんどい。深作もその点に配慮したのか、様々なアイディアを注ぎ込んで、映画水準にまで引き上げようと苦心している。試行錯誤の甲斐あって、スピード感溢れる痛快作に仕上がっている。それでも画面が「テレビ」になってしまう瞬間があるが、然程気にならない。半狂乱の石橋蓮司が奉行所内で日本刀をびゅんびゅん振り回す導入部。来た来た来た。早くも深作魂炸裂。その後も見せ場見せ場の連続で一気呵成に観せてしまう。純然たる娯楽活劇。思想も説教も芸術性も何もない。頭の悪い俺達(俺だけ?)は深作一流の破天荒演出に酔えば良いのだ。わはははは。大体監督自ら「今回の作品のテーマは…」なーんて言い出す映画に限ってロクなものがない。そんなに立派なテーマなら、わざわざ説明しなくても観客に伝わるって。自信がないから解説を始めるんじゃないかな?違いますかね。

いつになく主水が精力的な活動を展開する。テレビシリーズ後半は何かにつけてやる気のなさが目立った主水だが、まるで別人である。今度の騒動には浮気相手(倍賞美津子)の住んでいる貧乏長屋が深く絡んでいるので、彼も必死だ。警官の立場から事件を検証したり、単独で標的を待ち伏せしたり、自分の足で情報を収集したり…大車輪の活躍振りである。やれば出来るじゃん。物語の主人公として確実に機能している。この映画に限っては《昼行灯》の称号を返上しても良いのではないだろうか。得体の知れない若造集団が主水の前に立ちはだかる。ジェネレーションギャップ。何をしでかすかわからない無軌道無節操な連中にベテラン仕事人もタジタジの様子である。餓鬼にナメられてたまるか。オヤジの威信と意地を懸けて、百戦錬磨の刃がギラリと光る。この対立構図は5年後の『いつかギラギラする日』を髣髴とさせる。我らがアクションスター千葉真一が特別参戦。主水のライバルわらべや文七に扮している。都市定住型の殺し屋とは違い、文七は諸国を放浪しつつ、暗殺稼業を営んでいる。この男には宿泊施設を利用するという発想がないのか、河原に簡易住居を建ててそこで生活をしている。長髪と口髭。剽悍な風貌からはアウトロー臭が濃厚に漂う。屈強な肉体に渡世人風の衣装がよく似合っている。文七は子供2人を連れて殺し旅をしている。尤も血は繋がっていないらしい。間引きされる寸前にカネで救ったのだそうである。文七がユニークなのは子供達を戦闘に参加させている所である。この点が拝一刀とは異なっている。子供に殺しを手伝わせるとはとんでもねえ。主水は文七のスタイルに批判的である。黙れ。これが俺のやり方だ。てめえの指図は受けねえぞ。互いに数々の修羅場を経験している。絶対の自負心を有する両者である。他人の意見をハイハイ聞くような素直さなどあろう筈もない。桁外れのアクの強さを誇るオヤジ対決は見応え充分。弁天の元締め(岸田今日子)の斡旋により、主水と文七はバカ旗本3人の暗殺を請け負う。仕事料は合計6両。好条件とはとても言えない。主水は「的争い」を提案する。ルールは簡単。標的を仕留めた者がその都度報酬を受け取るという仕組だ。2匹の狼がバカの首を追う。旗本Aを狙って遊郭に潜入した主水。彼が部屋に忍び込んだ時、室内は血の海と化していた。その足下にはAさんの生首がゴロリ。奴の仕業だ!慌てて部屋を飛び出した主水は文七と鉢合わせ。二大達人が激しく斬り結ぶ場面は迫力満点。背筋がゾクゾクする。観る者をとことん楽しませるサービス精神が嬉しい。

真田広之扮する新任奉行・奥田右京亮が主水最大の敵となる。白塗りメイクにド派手なコスチューム。外見も中身も完全に狂っているサイコ野郎だ。この男「死ぬは負け」が人生哲学であり、目的の為には体も売るし、人も殺す。保身の為には策略も使うし、脅迫もする。その事に対して罪悪感を感じるヤワな神経は持ち合わせていない。右京亮の姉は当代将軍の慰みものにされた末に自ら命を絶っている。この体験が彼の精神を著しく歪ませたようだが、確かな事はわからない。役者人生初の敵役となる真田だが、実に楽しそうに演じている。彼の中に悪役の才能を見出した深作の眼力は流石である。右京亮の周辺は性別不明の護衛団が常に守りを固めている。こいつらがやたらに強い。見た目は華奢でナヨッとしているが、各々が高い戦闘技術を秘めているのだ。クライマックスでは仕事人チームとの激突に及ぶが、ケラケラと不愉快な笑みを浮かべつつ、敏捷な動作で主水に斬りかかってくる。これだけの強敵となると、さしもの主水も一刀両断という訳にはゆかない。右京亮自身も武術を極めた達人であり、豪快な薙刀捌きを披露してくれる。藤田まことの立ち回りの巧みさには定評があるが、真田の瞬発力はそれを軽く凌駕している。主役以上に敵が強くなきゃ映画は成り立たない。怒涛の決戦場面を眺めながら千葉師匠の名言を思い出した次第である。

この映画には千葉率いるJAC(ジャパンアクションクラブ)が全面協力している。運動神経の塊たる千葉軍団の威力が最大限に発揮されているのが、後半の文七vs九蔵(蟹江敬三)の対決場面であろう。九蔵は右京亮配下の手裏剣遣いである。この男、日常会話さえ覚束ない愚鈍な人物だが、殺しのテクニックに関しては天才的資質の持主である。普段のノロマな態度は地なのか演技なのかは判断が難しい。しかし、その曖昧さがかえってこの人物の無気味な雰囲気を高めている。こういう胡散臭い役を演じさせると蟹江サン絶妙。烈風吹きすさぶゴーストタウンを舞台に二大暗殺者が死闘を繰り広げる。両者の腕前はほぼ互角。手練の剣が火花を散らす。どちらが勝つのか?思わず手に汗握る。廃屋をぶっ壊しながら延々と戦い続ける文七と九蔵の姿は、千葉がアクション監督を務めた『激突/将軍家光の乱心』(1989年)の一騎討ち場面を連想させる。深作テイストをちゃっかり自作に盛り込んでいる千葉監督のしたたかさ。殺しても死なないようなバケモノじみたキャラクターが大挙出演。劇場版『必殺』の最高峰は『恨みはらします』で決まりだね。この映画に匹敵するエネルギーを内包しているのは、工藤栄一がメガホンを取った第3作『裏か表か』(1986年)ぐらいだろう。劇場版はこの2本を押さえておけば大丈夫。ゴテゴテと無駄な描写を積み重ねた第6作『主水死す』(1996年)などは間違っても触れないように。踏まなくても済む地雷はなるべく避けた方が賢明です。

(2004/11/7)

『ゴジラ』

先日。六本木ヒルズ内の映画館で『ゴジラ』(1954年公開)を観た。国産怪獣映画の原点にして最高傑作。怪獣王ゴジラと人類の最初の遭遇である。この作品以降、多種多彩なモンスター群がスクリーンを跋扈するようになった。数多の亜流傍流を誘発した事自体が名作の証である。ガッパもギララもガメラも大魔神も『ゴジラ』の成功がなければ、我々の前に姿を現わす事はなかっただろう。あっ。大魔神は怪獣じゃねえか。俺がこの映画を初めて観たのは今から15年前である。残念ながら劇場ではなく、民放テレビの深夜放送であった。確か『ゴジラの逆襲』(1955年)との「二本立て」だったと思う。最近は怪獣映画や特撮映画がテレビで放映される機会が少ないようである。俺が餓鬼の頃は頻繁にやってたんだけどな。我らが万能戦艦《轟天号》の勇姿に狂喜したのもテレビだし、春休みや夏休みになると大映名物の巨大亀の登場となる。ガメラと冷凍怪獣が血みどろの死闘を演じる『大怪獣決闘/ガメラ対バルゴン』(1966年・決戦の舞台は琵琶湖だ!)なんて何度観たかわからない。特撮映画じゃないけど『空飛ぶゆうれい船』(1969年・原作は石ノ森章太郎。宮崎駿が原画を担当)もしょっちゅうかかってたな。あれは怖いマンガだった。ボアジュース(♪ごっくり、ごっくりこんの…)を飲み過ぎると体が溶けちゃうんだぜ。名画座もレンタルビデオも知らない田舎の小学生にとって、テレビは過去の映像財産を提供してくれる唯一の媒体であった。

さて『ゴジラ』に話を戻そう。日本映画が誇る最強最大のキャラクター。劇中の解説によれば、かの大怪獣は「水棲恐竜と陸上恐竜の中間に位置する生物」だそうである。水陸両用の便利な肉体と強靭な生命力を具備する《彼ら》は氷河期や隕石襲来をも乗り越え、哺乳類の時代においても種を存続させていた。彼らの仲間は世界各地で度々目撃されている。急速な人類武器の発達は彼らの生活をも崩壊させた。某大国による原水爆実験が《彼》を凶暴な破壊神へと変貌せしめたのだ。全長50mの巨大生物が首都東京を蹂躙する悪夢めいた光景は当時の観客の度肝を抜いた。あの戦争が終結して10年も経っていない頃の作品である。人々の心の中に敗戦のダメージが根深く突き刺さっていた時代である。ゴジラの暴れっぷりは地獄の記憶を蘇らせる作用があったのではないかと考えられる。平和日本に埋没している我々には感知不可能な異常な生々しさを帯びていたのだ。インテリ評論家の中ではゲテモノ扱いされる怪獣映画だが「誰も観た事がない映像」を作り出す事こそが映画本来の役割である。これほど壮大な見世物はそうあるものではない。その意味で『ゴジラ』は極めて映画らしい映画と言えるだろう。今回、怪獣映画と白黒映像は非常に相性が良い事を痛感した。まるで記録映画を観ているような迫真性には驚かされた。そう言えば最初のガメラ映画(1965年)もモノクロだったな。見事な特撮場面を創造した円谷英二の功績は激賛に値する。円谷自身は恐竜の生き残りではなく大蛸にこだわっていたという噂もあるが《神様》の称号に相応しい腕前を発揮している。それにしてもゴジラの禍々しい面構えはどうだ。余りの恐ろしさに泣き出したちびっ子も一人や二人ではあるまい。後にゴジラが子供のアイドル、人類の味方(奴隷?)と化すなんて誰が想像し得たであろうか。この映画におけるゴジラは恐怖と絶望と放射能を撒き散らす死神であり、地球の支配者を気取る人間に対する大自然の怒りそのものである。

単なる偶然だが1954年は黒澤明の『七人の侍』が公開された年でもあった。邦画史に名を刻むこの二大傑作にいずれも主役級の役で出演している俳優がいる。志村喬である。これは、コッポラ先生の『地獄の黙示録』の撮影終了後に、スピルバーグの『ジョーズ』に合流するようなものである。一寸違うかな。ともあれ志村喬、役者人生最充実の時。またしても脱線するが『ゴジラ』を観る前日に志村さんの親戚の方と会話をする機会に恵まれた。それも思わぬ場所で。人生何が起こるかわからない。運命って不思議だ。野盗撃退の陣頭指揮を執った志村がゴジラ抹殺に反対する古生物学者を演じている。彼にとってゴジラはまたとない生ける標本であり、貴重な研究対象なのだ。他の登場人物がどうやってゴジラを倒すかを論じている傍らで志村のみが憮然たる表情で「研究材料保護」を唱えている。尤もほとんど相手にされていない様子だが。どいつもこいつもゴジラを殺すことばかり考えおって…大量の放射能を浴びているにも関わらず、尚も行動可能なゴジラの秘密を何故解明しようとしないんだ!絶叫する志村博士。しかし、その叫びに耳を傾けてくれる者はいない。愛娘たる河内桃子も恋人の宝田明との結婚の事しか頭にない有様。いつの時代も世間はおたくに冷たいもんです。クロサワ繋がりでゆけば、古来より怪竜伝説が残る島の長老に高堂国典が扮している。当り前の話だが、口調も風貌も『七人の侍』の村長そっくり。あのアクの強い爺さんが戦国時代から現代へタイムワープして来たかのような錯覚を覚える。以前読んだ資料によれば『七人の侍』の村民と『ゴジラ』の島民はほぼ同じメンバー(大部屋俳優)が演じているそうである。製作会社が一緒なのでこういう現象が起きる訳だが、野武士に襲われるわ、ゴジラに踏み潰されるわ、役者稼業も楽じゃない。

栄えあるゴジラキラー第1号。それが平田昭彦である。志村博士の弟子にして、桃子の元婚約者である。輝ける未来が約束されていた平田だが、戦争によって片目を失い、その後はひきこもりがちに。彼の研究テーマは酸素だそうである。その過程で「偶然」誕生してしまった究極兵器オキシジェン・デストロイヤー。水中の酸素を瞬間破壊する悪魔的発明である。その作動範囲に捉えられた生物は瞬く間に窒息死に至る。この殺傷力から逃れる術はない。例えゴジラであろうと。水槽と熱帯魚がデストロイヤーの効果を説明する小道具として使用されている。深作欣二の『復活の日』(1980年)でも同様の使われ方をしていた。水槽と熱帯魚はSF映画には欠かせませんね。平田は自分の発明が核爆弾に匹敵する恐ろしさを有している事を熟知していた。自らの兵器で自らを滅ぼしかねない現在の人類には手に余る代物なのである。野心旺盛な施政者の手には絶対に渡す事は出来ない。故にその公表は慎重を期さなくてはならない。ところがゴジラ来襲によって事情が変わってきた。怪獣退治の為、デストロイヤー投入を切望される平田。散々迷った挙句に、彼はその依頼を了承する。この時、平田の中である決意が芽生えていた。彼は自嘲的な笑いを浮かべつつ設計図や研究資料を焼却する。おた…科学者にとっては可愛い我が子を殺すに等しい行為であろう。原爆怪獣の脅威に晒された日本を救う為、平田は敢えて信念を枉げたのである。彼は優秀な頭脳の持主であるのと同時に、深い度量も備えている。自分を捨てて別の男に走った桃子に一切の愚痴を言わず、憎しみの対象である筈の宝田にも常に紳士的に接している。大した人物である。平田の行動全てが、科学者たる者はまず人格者であらねばならない事を教えてくれる。東京湾海中にて、秘密兵器を携えた平田博士は宿敵ゴジラとの対決に臨むのであった…。一人のサムライによって日本は滅亡を免れた。断末魔。ゴジラ憤死を見届けた志村博士は無気味な言葉を漏らす。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」と。志村の予言通り、この後も手を変え品を変えてゴジラ映画は量産される事になる。善玉になったり、悪役に戻ったり、ゴジラは時代の要求に応え、転戦を続けてきた。第1作公開から50年。集大成、最終作と銘打たれた『FINAL WARS』が12月4日に封切られようとしている。監督に選ばれた北村龍平が適任かどうかは最早問うまい。ゴジラファン全員を納得させる事は事実上不可能だ。俺としては面白い作品だったらそれでいい。ただ『鉄人28号』みたいなドブ映画だけは勘弁してもらいたい。予告篇を観た限りでは、どうやらその心配はなさそうだが。ゴジラの咆哮もこれが聞き納めかと思うと、やっぱり寂しいな。

(2004/11/3)

『鉄人28号』

その晩。俺は新宿ミラノ座にいた。東京国際ファンタスティック映画祭2004の会場である。東京ファンタ20周年記念ワールドプレミア上映…前振りは随分とものものしいが、果たして今夜の映画がそれに見合う作品と言えるのかどうか。上映前に催されたメインスタッフ&キャストによるトークショーも一向に盛り上がらず、場内には早くも白けた雰囲気が漂い始めた。本日の献立は横山光輝原作『鉄人28号』である。監督や出演者が何を喋っていたのか、ほとんど忘れてしまった。ただこれだけは明確に覚えている。彼らからは自作や映画に対する愛着や愛情がまるで感じられなかった事を。彼らの態度や発言はお客を喜ばそうとか、楽しんでもらおうとか、吃驚させてやろうとか、エンターテナーが当然持つべき気配は希薄であった。と言うより皆無に等しかった。与えられた台本だか台詞だかを棒読みしているようにしか見えなかった。人をバカにするのも大概にしろ。もう少しファンを大切にしないとしまいに愛想を尽かされるぜ。唯一熱意が感じられたのが視覚効果を担当した松本肇のみというお粗末さであった。やる気がないのなら舞台に上るなと言いたい。隣席の先輩が「これじゃあ、祭りじゃなくてお通夜だよ」と呟いた。本来ならこの時点で俺は退場すべきだった。それが正しい映画好きの行動であった。だが、苦労をしてチケットを入手してくれた先輩にも申し訳がないし、とりあえず最後までつき合う事にした。海外の映画祭では「ツマンネエ」と判断したお客は即座に席を立ってしまうと聞いている。気の弱い俺にはとても真似の出来ない芸当である。

前座が退屈でも本篇が面白ければそれでいい。気を取り直して画面に集中する事にしたものの、序盤早々から眠気を堪えなくてはならないような無惨な出来であった。アラ探しを始めたらキリがないが、とにかく映画の体をなしていないのである。この有様ではTVシリーズのファーストエピソードとしても苦しいのではないか。上映中、パラパラと拍手が起きる瞬間もあったが、あくまでも儀礼的、機械的な域から出ていなかった。笑いや拍手を強制しても虚しいだけである。もし真に感動したのなら誰でも自然に手が動く筈である。俺だって拍手もしたいし、歓声も上げたい。だが、魅力も興奮も感じていないのにそのフリをする事だけはしたくない。ここに座っているのも苦痛だというのに。突如東京に飛来した人型兵器ブラックオックス。オックスは日本の首都を徹底的に破壊…しない内に何処かに消えてしまった。この巨大玩具はどうやら天才科学者(らしい)香川照之が作ったものだそうである。香川はオックス一匹で世界征服を狙っている様子だが、本気でそんな事を目論んでいるのだとしたらこいつはアホである。東京タワーを捻じ曲げる程度の能力では世界はおろか日本支配も難しいだろう。物語終盤にオックスが搭載している「必殺爆弾」の存在が明かされるのだが、何やらとってつけたような印象しか受けない。映像作品なのにいちいち台詞で説明するのはやめてくれ。さしもの日本政府もこんな茶番に真剣になるほど暇ではないようだ。オックス撃滅に本腰を入れているとは言えない。まあ。キ××イ博士のやりたいようにやらせとけとそんな感じである。自衛隊を出動させるでもなく、軽装備の警官隊を派遣するのみ。オックスが全然怖くないので、これに対抗する鉄人28号も段々バカに見えてくる。疑問が多い作品だ。鉄人を操縦する為に主人公が特訓を重ねるのだが、その決定的理由が示される事はない。別に他の奴でもいいんじゃないか?もっと相応しい人材がいるんじゃないか?と余計な事を考えたくなる。脚本は映画の設計図。もうちょっと真面目に書いてくれよ。オックスとの交戦中、鉄人のメカニック達がTVを観ながら声援を送るというマヌケな場面がしつこく挿入される。地元の高校が甲子園に出てるんじゃないんだからさ。緊張感ゼロ。日本(えっ?世界だって?冗談だろ)の存亡を賭けた戦いとはとても思えない。オックスと鉄人はCG映像で表現されているが、これが軽い軽い。画面に厚味もなければ奥行きもない。流石に館内のあちこちで失笑が漏れた。まるでドラム缶が殴り合っているような戦闘場面は観ていて辛く、悪い夢に魘されているような錯覚を覚えた。何度も「夢なら醒めてくれ」と天に祈ったものである。しかしそれは紛れもない現実であった。こんなに観るのがしんどい映画に遭遇したのは久し振りだ。

俺の中では金子修介の『ガメラ/大怪獣空中決戦』(1995年)が特撮映画や怪獣映画のひとつの基準になっている。何故あの作品が面白いのか?ドキドキするのか?悪役ギャオスのキャラクター設定が秀逸だからである。人肉を食らう凶暴な飛行生物。優れた殺戮能力に加えて驚異的繁殖力を誇る怪物だ。こいつの増殖活動を許せば、人類の滅亡は避けられない。ギャオスが底知れぬ恐ろしさを秘めているからこそ、これを追撃する守護神ガメラに観客は感情移入をし、応援をしたくなるのだ。入念な下準備があって初めて冒険活劇は成立するのである。作り手が幾ら「あの鉄人28号が現代に復活!」と喚き立てても、映画の法則を無視している作品に栄光はない。栄光どころか原作マンガの冒涜に繋がりかねない。熱心な『鉄人』マニアが観たら多分怒り狂うぞ。予算や時間に余裕がないのはよくわかるが、そこは知恵と情熱で克服するしかない。金子の『ガメラ』だってそんなに贅沢な製作環境ではない筈である。要は頭の使い方、工夫の凝らし方である。未だ『鉄人28号』の一般公開の日時は決定していないそうだが、願わくば人目に晒すのは今回限りにして欲しい。国内のみならともかく、こんなものを海外へ持って行ったら大変だ。鼻で笑われておしまいだろう。まさに日本の恥である。今更、加工や修正を施しても作品の質が上がるとは思えない。原型自体が腐っているのだから治療や手術は無駄である。どうにもならない。心機一転。スタッフもキャストもこの映画は「過去の過ち」という事にして、新たな作品に全身全霊で取り組んでもらいたい。その過程で傑作や名作が誕生すれば「失敗」の意味も出てくるというものである。そんな訳で『鉄人28号』の永久封印を希望しまーす。

(2004/10/31)

『豹は走った』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『豹が走った』(1970年公開)を観た。加山雄三vs田宮二郎。体制の飼犬が勝つか。野生の黒豹が勝つか。宿命の対決が始まる。日本映画としては貴重な本格ガンアクション。監督は活劇映画の佳作秀作を数多くものにしている西村潔。この作品も華麗なる西村演出が冴え渡る好篇に仕上がっている。因みにタイトル内の「豹」は「ジャガー」と読んで下さい。

加山君。すまんが辞表を提出してくれないか。えっ。警視庁警部・加山雄三は上司(神山繁)に突如理不尽な命令を突きつけられる。さしもの若大将も困惑気味だが、これには深い訳があった。事の発端は東南アジアに位置する《南ネシア共和国》で発生したクーデターであった。母国にいられなくなったジャガール大統領が「日本経由でアメリカに亡命する」と言い出したのだ。日本滞在の期間は3日間。この間に殺し屋だのゲリラだの狂信者だのが大統領の首級を狙うだろう。その身辺警護は警視庁の役目である。もし大統領が凶弾にでも倒れたら大変だ。日本政府の信用はガタ落ちになり、深刻な外交問題に発展する事は火を見るよりも明らか。何が何でも大統領を守り通さなくてはならない。しかし、日本の警察は専守防衛が基本概念であり「攻めの部分」を著しく欠いている。それを補う存在が今回のミッションには求められる。襲撃者に対して先制攻撃可能な《遊撃手》を用意しなくてはならない。その重役に選ばれたのが元オリンピック選手たる加山だったのだ。自己の判断で行動して目標を速やかに始末する。その為には一旦職を退いてもらう必要がある。この処置は恐らく警視庁保身の布石も兼ねているのであろう。いざという時は全責任を若大将におっ被せようという腹積もりなのだろう。だが、当の加山は気づいているのかいないのか、上司の指示に従うのであった。守る事は攻める事よりも遥かに難しい。とは『七人の侍』に登場する名言だが、要人を「守る」為に「攻める」という発想は中々面白い。警視庁特製のスーパーマシンを駆って、大統領を乗せた車を密かに追尾する加山。狼藉者が出現するや否や一撃必殺で葬り去る。まさに精密機械を思わせる動作だ。テロリストとは言え人間である。その息の根を止めれば殺人である。人殺しである。原則的に加山は良心の呵責も精神的葛藤も感じていないようだ。あくまでも組織の歯車として正確円滑に機能している。疑問もなければ迷いもない。もしかしたら脳味噌自体ないのかも知れない。上空からコントロールする者としてはこれほど便利な人間もいないだろう。まるで将棋やチェスの駒を連想させる男である。加山のやる気のない演技も何やら傀儡ぽくて、奇妙なリアリティがある。役者の個性(と言って良いのかな?)を巧みに生かした監督の勝利。

強力なライバルの存在が活劇を面白くする。武器商人(中村伸郎)に大統領暗殺を依頼されたフリーランスの殺し屋。ニヒル(死語)代表たる田宮二郎の登場である。気障な台詞や仕種がこれほど似合う日本人俳優は珍しい。田宮の魅力であり才能である。他の者がこの役を演じたらさぞ嫌味に映るだろう。何が楽しくて生きているのかわからないシェパード加山とは対照的にキラーエリート田宮は人生を最大限謳歌している様子である。莫大な報酬を得ているからこそ成立する自由且つ優雅な生活。人を殺めた後に呑む酒は一体どんな味がするのだろうか?実に旨そうに呑んでいるが。セックスに対する執着も並々ならぬものがあり、今迄に体を重ねた女は数知れず。そんな田宮の得意技は高性能ライフルによる遠距離射撃である。そのスコープに捉えられた標的はまず助からない。滑らかな手つきで銃器を組み立てる姿には「プロフェッショナルな雰囲気」が濃厚に漂う。ただ、田宮の自殺に使われた手段を思い起こすと少々複雑な気分になる。意外に地味な護衛活動を続ける内に、シェパードは徐々に《黒豹》の存在を感じ始める。性格も経歴も全く異なる2人の男。両雄唯一の共通点はずば抜けた射撃技術ぐらいか。二大達人の直接対決の時が迫りつつあった。随所で主役を食うアクの強さを発揮する田宮。それは良いのだが、田宮は職業暗殺者としては致命的とも言える「ミス」を犯している。しかも2回連続である。それについて依頼者がクレームをつける場面もないし、田宮本人も特に気にしていないようである。もし彼がプロ中のプロだとしたら絶対に許されない(許せない)失敗の筈にも関わらず。人物造形に若干歪みが感じられる。この程度のキズなら脚本の段階で修正可能だと思うのだが、作り手のツメの甘さを感じた。勿体ないなあ。この辺が「傑作」と「秀作」を分ける境界線と言えそうだ。

加山と田宮が繰り広げる暗闘を静かに見守る女。中村社長直属の美人秘書(外国語ペラペラ)加賀まりこである。極めてクールな人生観の持主であり、自分の感情を決して表に出そうとはしない。まりこには打ってつけの小悪魔的キャラクター。社長も秘書も会社の運命よりも勝負の結果の方に興味を示し始める。最終日。護衛部隊に守られたジャカール大統領の車は空港を目指す。この前日には靖国神社(!)を舞台に警官隊とゲリラが激突。多数の死傷者が出ている。作戦総指揮を執る神山警備部長としてはこの種のお騒がせ男(疫病神?)は一刻も早く日本から消え去って欲しいと考えているに違いない。鉄壁の防衛網に挑む田宮。このチャンスを逃したらもう後がない。百戦錬磨の狙撃マシンが弾き出した起死回生の策とは?そして、若大将は田宮の奇襲攻撃を阻む事が出来るのか?ここに来て物語の緊張感は最頂点に達するのであった。ラストバトルに臨む2人を見送りつつ、まりこは誰に言うでもなく、そっと呟く。「戦う男って素敵だわ」(大意)と。終始冷酷を気取っていたまりこが垣間見せる本音であり、女らしさである。短い場面だが、この映画最大の見せ場のひとつである。無人の米軍格納庫で開始される一騎討ち。互いに決定打が出ず、加山と田宮は血みどろ汗みどろになりながら激しい銃撃戦を続ける。この決戦場面にはかなりの時間が割かれている。やや冗長な印象を受けないでもないが、両雄の気迫迸る戦いは必見である。この映画の4年後、加山は《エスパイ》日本支部部長に任命される事になる。何しろ世界規模のネットワークを誇る巨大組織の幹部なのだから、これは破格の栄転と言って良いだろう。役の水準は飛躍的に上昇したけど、若大将の棒読み演技は相変わらずであった。少しは成長しろよ。

(2004/10/27)

『病院坂の首縊りの家』

先日。図書館で『病院坂の首縊りの家』(1979年公開)を観た。金田一耕助最後の冒険。

角川映画第一作『犬神家の一族』(1976年)から始まった市川崑の人気シリーズ。主演の石坂浩二の好演と市川の映像美学が絶妙に組み合わさり、不朽の魅力を放っている。毎回何人もの人間が惨殺されるのがこのシリーズの特徴だが、肝心の殺人トリックは相当荒っぽく、多少不満を感じないでもない。ミステリー映画として上質の部類に入っているとはお世辞にも言えない。まあ。これは横溝正史の原作小説の弱点と言えるのかも知れないが。因習や怨念や世間体に雁字搦めになった名門一族が繰り広げる愚行蛮行。そこへ何の制約にも縛られない風来坊探偵がふらりと現れるという趣向が面白い。しかも金田一の来訪が犯罪防止には全く役に立たないというのも面白い。本人は熱心に調査を行ってはいるのだが、惨劇の進行を食い止めた試しがない。犯罪者をも丁重に扱ってしまう金田一を果たして「名探偵」と呼んで良いのかどうか。だが俺はこの男の謙虚さや優しさを大いに買っている。申し訳なさそうな表情に微苦笑を浮かべている金田一の佇まいが良いのである。頼りにならなくてすみませんと頭をかいている様子が好ましいのである。探偵としては二流でも人間としての魅力は抜群と言える。そんな金田一をほぼ完璧に演じてみせたのが石坂であった。そのユニークな個性が結末のわかったストーリーを最後まで観せてしまう最大の原動力だと考えられる。高倉健、渥美清、中尾彬、鹿賀丈二、西田敏行、片岡千恵蔵…日本映画を代表する俳優達がこの名探偵を演じているが、石坂に拮抗する金田一役者は今のところ存在しないようである。恐らく将来も出てくる事はないだろう。お茶の間の知名度は高くても映画の世界では低迷を続けていた石坂を抜擢した崑サンの配役センスは誠に鋭い。主としてTVだが、現在も金田一耕助の物語は映像化される機会が多いようである。俺もたまに眺めたりするが「金田一耕助の孫」とか称する小僧が生意気な口を利く番組(実写版&アニメ版)だけは好きになれなかった。原作のマンガも一応読んでみたが、パロディの域にすら達していないダサクであり、不快感を覚える横溝ファンも少なくないと聞いている。じっちゃんの名に懸けてなんたらかんたら…というのが決め台詞のようだが、こんな訳のわからん餓鬼に懸けられる方はたまらねえよ。隔世遺伝なんて俺は信じねえぞ。

さて『病院坂の首縊りの家』の話である。実を言うと俺はこの映画をTVで観ている。多分小学生の時だと思うが、例によって記憶の大半は自動消滅しており、新作に近い感覚で味わう事が出来た。とは言え「佐久間良子が死体を鉈で切断して血飛沫が迸る場面」や「あおい輝彦の生首がぶらーんぶらーんと吊るされている場面」はアテにならない我が脳内にもしっかり保存されていた。当時の俺はこの作品をホラー映画かオカルト映画だと思って観ていたのではないだろうか。鼠のように臆病だった俺だが、怖いもの見たさで画面に釘付けになっていたに違いない。俳優の名前も監督や原作者の存在も何も知らなかった。その代わり、余計な先入観に囚われる事なく純粋に映画を楽しんでいたようにも思う。この頃の俺にはもう戻れない。最後の出血大サービスという訳でもないだろうが、残酷場面の多い作品である事は確かである。猟奇的少年犯罪の原因は全て映像作品に押しつける現在の風潮ではTV放送はまず不可能だろうな。映画の最初と最後に横溝正史先生が登場。金田一の古い知人にして推理小説作家というシンプルな設定である。さしもの大作家も演技の才能には恵まれていなかったようである。画面に現れる横溝先生の表情はまさに「素人の顔」に他ならない。これはファンサービスの一環なのだろうか。先生出演の経緯は謎だが、映画の完成度を著しく下げる最悪の結果となっている。やはり特別出演というのはちらりと画面を横切る程度が丁度良い。横溝先生はどうやら「病院坂」の近所に住んでいるらしい。日本を離れる決意をした金田一はその挨拶をしに横溝邸に訪問したという訳である。金田一はパスポート用の写真を撮る為に先生推薦の写真館(小沢栄太郎経営)を訪ねる。それがキッカケとなり、またしても金田一は血腥い陰惨事件に巻き込まれるのだった…。

金田一渡米の明確な理由は明かされていない。探偵稼業に嫌気が差したのか、これ以上、自分の周りで人が死ぬのを見たくなくなったのか。今回の金田一はいつになく捜査意欲に欠けている。一種のスランプ状態であろうか。彼のやる気のなさを補填するように、精力的な活動を展開するのが、小沢写真館のアシスタント草刈正雄である。草刈が妙な台詞回しを駆使しつつ素人探偵を演じている。時には金田一の助言を仰ぎ、時には金田一の依頼を遂行する。草刈は仕事そっちのけで探偵ゴッコに夢中である。好奇心旺盛な腕白少年のような雰囲気が微笑ましい。そんな草刈が金田一との会話の中で、こんな台詞を言う。「金田一さんは随分犯人に同情的ですね」と。痛い部分を衝かれた金田一は草刈の指摘を無視して、自分の身の上話をしてお茶を濁すのであった。犯人に同情的な探偵…金田一という探偵の性格を端的に示していると言えるだろう。良い脚本だ。予定通り(?)犯人の自殺を見逃した金田一は単身アメリカへと旅立つ。その後の消息は定かではない。かのシャーロック・ホームズは養蜂家として晩年を送ったと聞いている。名物探偵の散り際、退き方というのも中々難しい問題だが、行方不明というのは如何にも金田一らしい幕の引き方だと思った。明晰な頭脳と並外れた強運の持主である金田一はアメリカでもしぶとく生き延びているに違いない。或いは何処かの田舎町で殺人事件の解決に駆り出されている可能性もある。何者なんだこの日本人は?という周囲の反応や視線を浴びながら。そしていつの間にかその共同体に溶け込んでしまうのがこの男の特技なのだ。考えてみればこれほど放浪生活に向いている人物も稀である。異国における金田一の活躍を観てみたい気もするが、想像の段階で留めておいた方が楽しいし無難であろう。

(2004/10/23)

『宮本武蔵』

宮本武蔵はどのような方法で路銀を調達したのか?映画や小説に武蔵が登場する度に浮ぶ疑問である。如何に武蔵が超人とは言え、人間である以上は食わなくてはならない。河に出合えば魚を獲り、山に入れば猪を狩る。そういうやり方で空腹を満たしていたのだろうか。だが、そんなサバイバル生活にも限度がある。それに武芸者の魂たる刀剣は山野には生えていない。茸じゃないんだから。所持金ゼロで諸国放浪を続けるのはまず不可能である。となると自慢の腕前にものを言わせるのが手っ取り早い。国民的ヒーローが強盗や追い剥ぎを働いていたとは余り考えたくないが、いよいよとなればやっただろう。或いは山賊盗賊を返り討ちにしてその財布や武器を奪うか。それともその辺に屯しているゴロツキやチンピラに喧嘩を売るか。武蔵の活躍していた時代は物騒な連中がウヨウヨしていたので「獲物」には困らなかったような気もする。時には道場破りや用心棒的な仕事で食い繋いだかも知れない。何しろスポンサー不在の純粋アウトローである。自分の食い扶持は自分で稼ぐしかないのだ。兵法者たる者はそういう才覚にも長けている必要があると思う。かの黒澤明は戦国時代の浪人生活について徹底的に調べている。膨大量の資料文献を漁った末に「ある村が侍を雇って野武士の襲撃を防いだ」という記録を発見。これが『七人の侍』の出発点となった。技術や度胸も磨けるし、食事や報酬にもありつける。武蔵も似たような小戦争に参加していたのではないだろうか。この前、柴田鎌三郎の『決闘者・宮本武蔵』を読んでいたら、武蔵の旅費が何処から出ていたのかがかなり詳しく書き込まれていた。若干無理があるものの納得可能な範囲ではある。興味を覚えた方は御一読下さい。

百戦百勝。終生無敗。武蔵は強い。鬼のように強い。実際の武蔵がそこまで強かったかどうかは判らないが、少なくともフィクションの世界ではそういう事になっている。武蔵は卓越した剣術遣いというだけではなく、軍師の頭脳をも兼備していた。武蔵の無敵の強さは二大要素の融合にある。大勝負の際には奇策を用いる事で自分の優勢を確保している。常に敵手の意表を衝いて勝利を掴んでいる。いや、もぎ取っていると言うべきか。武蔵は勝つ為には手段を選ばない極めて貪欲な人物ではなかったのか。ヒーローはヒーローでも頭に「ダーティ」が付くヒーロー。正々堂々の試合を演じて敗れ去るより、例え卑怯卑劣と罵倒されても勝つ方を選択する。桁外れのアクの強さ。大抵のアクシデントではビクともしない肝の太さ。それが剣豪武蔵の正体であり、だからこそ度重なる死地を潜り抜ける事が出来たのである。夢枕獏の伝奇時代劇『大帝の剣』に登場する武蔵が良い。この物語における武蔵はまさに史上最大の怪物であった。悪魔的発想の持主。正確無比に標的を仕留める殺戮機械として描かれている。あっと驚く奇襲戦法で難敵強敵を討ち果たす武蔵の活躍は痛快そのものである。はっきり言って主人公よりも脇役である武蔵の方が目立っていた。山田風太郎のホラー時代劇『魔界転生』に登場する悪役武蔵も捨て難い。禁断の秘術《魔界転生》によって黄泉の国から復活する武蔵。その強靭な個性はゾンビになってからも健在であった。物語終盤には術者の仕掛けた呪縛を強引に断ち切って大暴走を開始する。この辺りは読者の予想を超えるスリリングな展開であった。宮本武蔵。主役は無論だが、脇役敵役に据えたとしても実に絵になる男だ。歴史上の人物にして、日本屈指の名キャラクター。

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『宮本武蔵』(1973年公開)を観た。今月の初めから催されている加藤泰特集のひとつである。原作は何度映像化されたかわからない吉川英治。この映画を「武蔵とお通は結ばれるのかな?」「武蔵は吉岡一門に勝てるのだろうか?」「武蔵と小次郎はどっちが強いんだろう?」などとドキドキしながら観ている人は少ないと思う。この物語は『王将』『忠臣蔵』『人生劇場』等と同系列に属する作品である。決まり切ったストーリーに新鮮味はまるで感じられないが、その代わり、娯楽作品としての安定感は抜群だ。余程のドジを踏まない限りはそこそこ観られる作品に仕上げる事が可能である。お馴染みの登場人物を誰が演じるのか。名場面や見せ場が何処まで作り込まれているのか。監督独自の解釈や工夫はあるのか。その辺りをじっくり味わうべき作品であろう。正月や長期休暇の際に軽く好みの酒でも呑みつつ(あくまでも軽くね)楽しむには格好の映画と言える。出演陣の平均年齢はやや高め。武蔵に扮するのは高橋英樹。豪快な立ち回りは見応え充分だが、斬新な武蔵像を創造しているとは言い難いのが残念である。宿命のライバル佐々木小次郎を演じるのは田宮二郎。曰く「武蔵殿は勝てる相手としか勝負をしないのだ」「武蔵殿は試合に遅れて来るのが得意だそうですな」田宮小次郎は剣技よりも喋りの方が達者なようである。それにしてもこの人には皮肉めいた台詞がよく似合う。冷血エリートや頭の切れる敵役を演じさせれればピカイチ(死語)の逸材であった。田宮が衝撃的な猟銃自殺を遂げるのはこの映画の5年後である。その理由は勿論不明。又八役のフランキー堺や沢庵和尚役の笠智衆も面白いが、この作品で最も強烈な印象を放つ人物は、意外にも又八の母親お杉(任田順好)である。異常な執念にとり憑かれたこの老婆は武蔵&お通(松坂慶子)を生涯の仇敵と定めて、地獄の果てまで両者を追跡するのである。情報の伝播が貧弱だった時代である。電話もインターネットもない時代である。仇討ちの旅に出た者が仇に遭遇する確率は非常に低かったらしい。大概の者は仇の顔を見る事もないまま野垂れ死ぬか、目的を諦めるかのどちらかだったという。しかし、この婆さんは別格である。その行動は種々のデータを超越している。偶然という名の強力な武器を彼女は装備している。神出鬼没。もしかしてテレポーターか?武蔵の行く先々に出現しては刃物を振り回す。しかもその口中には目潰し用の針まで仕込まれているのだ。全身武器の塊のバケモノである。武蔵も旧友の母親を斬り伏せる訳にもゆかず、そのまま放置している。そう。何者もこの婆さんを止める事は出来ないのだ。旅の途中で自分の勘違いを指摘されても全く耳を貸さない。幾ら失敗を重ねても反省しないし、改心する気もない。執拗に闇討ち不意討ちを繰り返すのである。お通も危うく絞め殺されかけた。この世にお杉ほど厄介な存在はまたとあるまい。ターミネーター級の追撃マシン振りを発揮していたお杉婆さんだが、ついにその機能を停止させる時が来る。彼女の死顔がまた凄い。この世に未練をたっぷり残した悪鬼の表情である。本当に婆さんは死んだのか?その内、生き返るんじゃねえのか。蘇生する前に心臓に杭でも刺しておいた方がいいんじゃねえか。そんな恐怖と妄想を誘発する任田渾身の怪演技であった。このド迫力は一乗寺の決闘や巌流島決戦をも上回っていた…なんて書いたら怒られるかな。

(2004/10/21)

『ガンマー第3号/宇宙大作戦』

『アルマゲドン』と『エイリアン』はこの映画をパクったんですね。壇上の庵野秀明がそう言うと場内がどっと沸いた。新宿ミラノ座。最大1288名まで収容可能な国内有数の大劇場である。その日はキ××イ系イベント「東京ファンタまんがまつり外伝」が催され、大変な活況を示していた。関東在住のおたくどもが多数集結。誰もが腕に覚えのある(?)連中ばかりである。片足どころか全身を地獄に突っ込んでいる連中ばかりである。この中には重症の庵野信者が相当数潜伏しているらしい。彼に向けて熱狂的な歓声(何を言っているのかよくわからない)が飛ぶ。ファンの声援を軽く受け流している天才監督の姿が印象的であった。最新設備を整えた巨大映画館は今や百鬼夜行の集うサバト会場と化していた。カタギの人間には理解も共感もされないであろう魔の領域である。ヘタに近づくな。気が狂うぞ!庵野の傍らには盟友たる樋口真嗣が控えており、現代サブカルチャーを代表する両才能の揃い踏みとなった。そこへ乱入してきたのがなんと深作健太。さしもの生意気健太も二大巨頭に挟まれて緊張の面持ちであった。血は争えない。作風は似てないけど風貌は父親そっくりだ。何故ここに健太が現れたのか?理由は簡単。彼の親父の映画が上映されるからである。そう。本日の目玉『ガンマー第3号/宇宙大作戦』は深作欣二の映画なのである。この作品はタランティーノも大好きで、深作と対面した際、LDを差し出してサインをねだったという逸話も残っている。

深作唯一のちびっ子(!)向け映画と思われる『ガンマー第3号』は1968年に公開されている。またしても1968年である。この年は『2001年宇宙の旅』『猿の惑星』『吸血鬼ゴケミドロ』等の宇宙映画の傑作怪作が立て続けに発表されている。これも何かの巡り合わせであろうか。庵野&樋口の爆笑トークの後、いよいよ上映開始である。どどーん。タイトルが大スクリーンに現れると同時に猛烈な拍手と鯨波が会場を揺るがした。途轍もないエネルギー量である。このエネルギーを「正しい方向」に使えば日本ももう少し良い国になるんだけどなあ。終始落ち着いた深作演出には好感が持てる。例えお子様ランチと言えど手を抜かない監督の姿勢は立派である。むしろ「大人向け映画」の時よりも丁寧な仕事をしているぐらいである。因みに健太はこの映画が苦手で親父に「一緒に観よう」と誘われたが、あっさり断ったそうな。出演者全員がアメリカ人であり、通訳を介しての演出だったと考えられる。苦労の多い現場であった事は想像に難くない。しかし、この経験は後年の『復活の日』(1980年)において大いに役立ったのではないだろうか。さて気になる物語だがとにかく展開が早い。突如飛来した妖星フローラ。これが地球に激突すれば人類の破滅だ。大急ぎで対策チームが編制され、その日の内に宇宙へ出発。その日の内にフローラに着陸して、その日の内に爆破完了。この手際の良さは神業的だ。まさにスペシャリストである。何処かの石油掘りチームとは格が違う。

特殊部隊は宇宙ステーション《ガンマー第3号》に無事帰還。人類滅亡の危機は回避された。作戦成功を祝して皆で乾杯だ。ここまでで「アルマゲドン篇」はおしまい。次に「エイリアン篇」に移る。これからがこの映画の本題となる。フローラに棲息していた謎の宇宙生物との一大攻防戦が展開する。このアメーバー状の生物は爆破チームの宇宙服にくっついて、そのまま基地内に侵入を果たした。異常な生命力、繁殖能力を有したバケモノである。劇中では「怪獣」と呼ばれたりしているが名前はまだない。ステーションの動力源を勝手に吸収して、最終的にはアボカドみたいなボディに一つ目と触手を備えた怪物へと成長を遂げる。外見は不細工だが退治する事が非常に困難な生物である。迂闊に攻撃すると、傷口から吹き出た血液や体液が成長を開始するのだ。これではキリがない。発電能力も持っており、高圧電流でクルーを次々に焼き殺す。強敵だ。この厄介さは『復活の日』に登場した究極の細菌兵器を連想させる。未知の怪物の増殖を止められず、ガンマー第3号は設立以来の大窮地に追い込まれるのであった。この映画には円谷英二の流れを組む特撮集団が参加しており、結構迫力のある映像を作り出している。特に物語の要となるガンマー第3号の内部セットは見事な出来映えだった。キューブリックの代表作には負けるけど『猿の惑星』に比べたらこちらの方が上。司令室にせよ医務室にせよ格納庫にせよ「人類科学の粋が凝らされているんだ」という感じがよく出ていた。

庵野絶賛の『ガンマー第3号』に続いて上映されたのが劇場版『スパイダーマン』である。勿論ハリウッド印ではない。東映が作った日本製『スパイダーマン』である。これは1978年に公開された「東映まんがまつり」の中の一篇だそうである。珍品中の珍品と言えるだろう。TVシリーズは1978年5月から翌年の3月にかけて放映されている。俺と同年代の方は覚えている人もいるんじゃないかな。餓鬼の頃、好きでたまらなかったこの番組の主題歌をこんな場所で聴く事になるとはねえ。人生は不思議だ。久し振りに聴いたけど改めて名曲だと思った。物語の内容と歌詞のそれが完全に一致しているし、これこそ本当の意味での「主題歌」だよな。もし機会があったら聴いてみて下さい。良い歌なんだ、これが。映画が始まる前に即席のスパイダーマンショーが繰り広げられるという大サービス。悪の大組織《鉄十字団》が会場に攻め込んできたという趣向である。うわっ。助けてくれー。両監督の名演技(?)も見られて会場は興奮の坩堝となった。客のボルテージが最高潮に達した所で、おもむろに本篇スタート。レギュラーメンバーに加えて、チャールズ・ブロンソン風の扮装をした仲谷昇が出演している。これは映画版ならではのゲストという事だろうか。えーっ。瞬間場内がどよめく。この人は仕事を選ばない主義なのか。仲谷の普段と変わらない真面目演技に失笑と拍手が巻き起こる。仲谷の役はインターポール捜査官。まわりくどいやり方でスパイダーマンとの接触を図り、鉄十字団殲滅を誓う。共闘関係の確立だ。そこまではカッコ良かったが、敵方の原始的な罠に引っかかり、アジトへ拉致されてしまう。やむなくスパイダーマンはその救出に向うハメに。その後も仲谷はヒーローの活躍を横から眺めてるだけという体たらくだった。主人公のお荷物でしかないダメ捜査官。本部に戻ったらクビにされちゃうよ。結局この人は何をしに来たんだろう?スパイダーマンと握手をしに来たのかね。劇中、主人公の妹と弟がプールサイドでスイカを頬張る場面があったが、妙に美味しそうだった。切り方が荒っぽくて役者が食べるのに苦労していたのは笑ったけど。住宅地、ビル街、ホテル…懐かしさを誘発する首都の風景。そこには昭和の日本が確実に刻み込まれていた。スパイダーマンのアクションや決めポーズにいちいち過剰反応する観客達。いつのまにか俺もその中に溶け込んでいたのだった。エンドテロップが画面に浮ぶと会場割れんばかりの拍手であった。かくして「まんがまつり外伝」は大々盛況の内に幕を閉じたのだった。これはまさにお祭りである。映画おたくの祭典と呼ぶに相応しい内容であった。ステージと客席が渾然一体となって初めて生まれる充実感。これだけ有意義な時間を提供してくれれば文句はあるまい。マニア心をくすぐるお土産も用意されており、料金以上の価値は間違いなくあった。満足満足。今日来たお客さんは得したね。この前夜。同会場で開催された『鉄×××号』のプレミア上映会とはあらゆる意味で対照的であった。この差は一体…。

(2004/10/18)

『Wの悲劇』

先日。図書館で『Wの悲劇』(1984年公開)を観た。薬師丸ひろ子主演の角川映画。ついでにテーマソングも薬師丸が歌っている。何処かで聴いたような曲調だと思っていたが『Wの悲劇』の主題歌だったんだな。この映画が公開された頃、俺は小学生であった。耳の記憶というものは案外強固である。ミステリー風味のアイドル映画だがこれがバカにならない面白さ。脚本が入念に書き込まれており、最後まで厭きさせない。劇中劇という設定をここまで効果的に使った映画というのも稀であろう。インテリ評論家の間ではほとんど相手にもされていない角川映画だが、良い作品を沢山作っている。少なくとも俺は大好きだ。興行的にも好成績を収めているのだから凄いよな。プロデューサー角川春樹の感覚や手腕はずば抜けている。俳優や監督としての技量は余りアテにならんが。

主人公の薬師丸は劇団《海》の研究生である。実力派俳優が名を連ね、猛烈演出家(蜷川幸雄!自己パロディか?)が辣腕を振るっている。新作公演ともなれば劇場は満員である。高い知名度と集客能力。日本有数の一流劇団と言って良いだろう。それだけに生存競争も苛烈である。薬師丸の他にも俳優の卵が大勢所属しているが、この中で脚光を浴びられる者はほんの一握りである。脇役どころか端役にすらありつけない。雑用だの掃除だのをこなしながら芸を磨く。自分には才能がないんじゃないか。一生芽が出ずに使い走りで終わってしまうんじゃないか。不安や恐怖と戦う毎日である。勿論生活費はアルバイトで稼がなくてはならない。役者稼業も楽じゃねえ。仲間の内の誰かが重要な役に抜擢されたりすると大変な騒ぎである。表面上は応援の言葉をかけながら、腹の中では嫉妬や羨望の念が渦巻いている。陰口や悪口を叩く心ない輩もいるだろう。演出家に怒鳴られたり、先輩俳優のイビリに晒されたり…あらゆるストレスを撥ね返す図太さと精神力が新人俳優には求められるのだ。この程度の重圧に潰される奴は文字通り舞台から降りるしかない。薬師丸も明日のスターを夢見て日々研鑽を重ねているものの、中々チャンスが巡ってこない。ようやく役に恵まれたかと思えば、台詞が一言しかない女中役である。これじゃあ、さしものマイペースひろ子ちゃんも腐ってしまうというものだ。だが、ある事件を境にして彼女の運命は「劇的」に変わるのであった。

劇団《海》の看板女優を三田佳子が演じている。人気と実力を兼ね揃えた大物だ。彼女目当てに劇場へ足を運ぶ客も多いのだろう。優れた演技者であるのと同時に極めてアクの強い人物でもある。現在のポジションにのし上がる過程で利用可能なものは全部利用してきた。随分酷い人道的には許されない行為も含まれている。だが彼女は平気である。その事に対して後悔も反省もしていない。むしろ当然だと考えている。「役者は舞台に立つ為にはなんだってするわよ」という台詞に彼女の生き方が凝縮されている。ここまで開き直られてしまうとかえって清々しい。三田がリアリティ溢れる演技を披露している。いや、これは純粋に演技なのだろうか?もしかしたら実際の三田も似たような体験を経ているかも知れない。となるとこれはある意味「地」なのか。それとも観客にそう思わせる事こそが作り手の狙いなのか。女優が女優を演じる事によって醸し出される玄妙な面白さ。虚構と現実が入り混じる摩訶不思議な映像空間が現出する。この映画の成功の真の功労者は三田と言えそうである。いつものように話は脱線するが、浮き沈みの激しい芸能界で生き残る事は並大抵ではない。男優ならダンディなオヤジ役やジジイ役で人気を維持する事も可能だが、女優の場合はそうもゆかない。特に美貌で売っている者は賞味期限が短い。当時絶大なる支持を受けていた薬師丸も最近は出番が少ないようだし、一方の三田も息子の醜聞以降、仕事が減っているようだ。栄枯盛衰は世の習いとは言え、たかが20年である。人気商売の儚さ虚しさを切実に感じてしまう。だが、この映画における二人は最高に輝いている。絶頂期の姿が永遠に記録される事は俳優業の特権であろう。それぐらいは許されてもいい。

映画中盤から物語は俄然動き出す。ある事情により薬師丸は一世一代の大芝居を打つ事になる。それもステージではなく現実世界でである。これが相当複雑な「芝居」であり、高度な演技能力が要求される。素人にはまず不可能な芸当である。この瞬間、彼女が劇団研究生であるという設定が素晴らしい威力を発揮するのである。世間を揺るがす名演技だ。これが彼女の女優開眼に繋がってしまう展開も説得力充分。容易周到な脚本(後にアーウィン・ショウの短篇『愁いを含んで、ほのかに甘く』からのアイディア借用が問題になったが)の大勝利である。俺としてはこういう映画に接すると「我が意を得たり」という感じで本当に嬉しくなる。やはり脚本の出来は映画の出来に直結する重大なファクターだ。因みに映画の中で《海》が上演する芝居のタイトルも『Wの悲劇』である。芝居の内容と薬師丸&三田の置かれている境遇がシンクロする辺りも見事と言う他はない。虚仮威しや実験ゴッコの劇中劇ではない。物語として確固たる必然性があるのだ。そして、新旧W女優の暗躍や策動を眺めている我々観客の存在も忘れてはならない。極めてユニークな構造を備える映画。この作品には二重三重の面白さが仕掛けられている。敢えて難を言うなら、幕の引き方がややもたついた事だろうか。ここさえ巧く処理しておけば完璧だったのになあ。惜しい。惜し過ぎる。あと少し、もう一押しで傑作誕生となった筈なのに…。でも贅沢な望みだと言われちゃうかな。映画おたくってのは貪欲なもんです。

(2004/10/13)

『座頭市牢破り』

先々月。ビデオで『座頭市牢破り』(1967公開)を観た。シリーズ第16作。勝プロダクション第1回作品でもある。ゲスト悪役は三國連太郎。監督は後に『華麗なる一族』『金環蝕』『不毛地帯』等の秀作傑作を連打する事になる山本薩夫。山本サンとしては乗り気の仕事ではなかった(三國談)らしいが、随所に如何にも社会派と唸らせる描写や演出が施されており、中々興味深い。撮影はカツシンも尊敬する名カメラマン宮川一夫が担当しており、格調高い映像を作り出している。特に自邸で喧嘩支度を進めている連太郎親分の背後で稲光が走る場面が印象に残っている。奥行きを感じさせる素晴らしい出来映えだった。劇場で観たい。

三國の二段階演技が堪能出来る作品である。前半は義侠心に厚い太っ腹親分を巧演。異常に腰が低く「この稼業はお天道様の下は歩けない身。分を弁えなきゃいけません」「あっしらはカタギさんのお陰で食わせてもらっているんです」「困った時はお互い様ですよ」などと、ヤクザと言うよりほとんど慈善事業に近いスタンスである。そんな連太郎親分と座頭市は意気投合する。任侠道は廃れちゃいなかったんだ。諸国放浪中、悪徳ヤクザの横暴にウンザリしていた市が久々に出遭った真の男、本物の侠客であった。この親分の役に立ちたいと考えた市は、対抗勢力代表たる遠藤辰雄を密かに討ち果たすのだった。雨中に閃く必殺の刃。金庫ごと標的を切断してしまう恐るべき威力。毎回そんなアホなとも思うんだけど、カツシンがやると強烈な説得力があるんだよな。こいつならやるかも知れないなってね。座頭市をも心酔させた連太郎親分だが、後半はまるで別人のような悪党振りを披露して観る者を驚かせる。偉くなる前はとてもイイ奴だったのに、権力を握った途端に物凄くイヤな奴になるというパターンである。善と悪は表裏一体。正義の味方は面倒臭い。制約が多いし、ストレスも溜まる。その辛さ苦しさを熟知しているだけにダークサイドへ寝返ると極めて厄介な存在となる。デスピサロ然り。ダース・ベーダー然り。三國は前半は口髭を蓄えているが、後半は髭を剃り落として登場。視覚的にも自分の変身をアピールしている。この辺りは流石に芸が細かい。旅先で連太郎豹変の噂を聞いた座頭市は最初デマだと思った。いや、何かの間違いだと信じたかった。だが、その情報が紛れもない事実だとわかった時、市は再び連太郎邸へと足を向ける。盟友としてではなく、不倶戴天の宿敵として。

座頭市&連太郎親分に匹敵する個性を発揮しているのが鈴木瑞穂扮するインテリ浪人である。彼の発言や行動に監督の本音が最も篭められているような気がする。これだけ座頭市に対して否定的な人物も珍しい。瑞穂は市の技の冴えに驚嘆を示しつつも、剣の儚さ、殺戮の虚しさを徹底的に説く。剣術などと言っても所詮は人殺しの手段に過ぎない。お前は悪い奴しか斬っていないと言うが、そいつらにも友人や家族がいた筈だ。残された者の気持をお前は考えた事があるのか。闘争は哀しみや怨嗟を誘発するだけの愚かな行為だ…さしもの座頭市もやたらに饒舌で理屈っぽい瑞穂を持て余し気味である。うるせえ。黙れと斬り伏せる訳にもいかないし。市としては敵愾心剥き出しで襲ってくる凶暴ヤクザの方が遥かに楽な相手であろう。返り討ちにすればそれで済む。瑞穂の舌鋒には「その辺で勘弁しておくんなさいな」と頭をかくのが精々である。瑞穂は連太郎親分の版図内のある村に潜り込み、百姓達の指導者として精力的な活動を展開する。連日連夜、自宅に大勢の百姓を集めては講義や演説を繰り返す。それには猛烈な幕府批判が含まれている。百姓達は瑞穂の熱弁に感化されて、いつのまにか彼を救世主として崇めるようになる。どうやらこの男、問題発言が多過ぎて、以前所属していた組織から放逐された模様である。体制側にも危険思想の持主としてマークされているようだ。

映画終盤、座頭市は関八州出役(西村晃)に捕縛された瑞穂を救出する為、強引に駆り出される。市さん。市さん。頼む。助けてくれえ。瑞穂先生を助けてくれえ。こちらの都合なんてお構いなし。ぎゃあぎゃあ喚き散らす百姓達に無理矢理神輿に乗せられる市。狂的な群集パワーに突き飛ばされるが如く、役人軍団とのチャンバラを余儀なくされるのであった。西村率いる護送団のメンバーを片っ端から斬り殺す座頭市。鮮やかな手並だが、そこにはいつもの痛快さは感じられない。市が優秀な殺人機械として利用されているような印象を受けるのがその原因だろう。作り手の狙いもまさにそこにある。これは長いシリーズの中でも異色のクライマックスと言えそうだ。よく観ると、この場面では百姓も瑞穂も自分の手を汚していない。役人を殺しているのは座頭市のみである。他の連中は市の奮闘を眺めているだけ。インテリや大衆特有の厭らしさ、したたかさが濃厚に描き出されている。辛辣だね。これは。殺人や殺し合いが悪い事なのは座頭市自身が一番知っている。だが、盲人として酷い差別を受けている市は自分以外に頼る者がいない。自らの命は自らが守るしかないのだ。生き延びる為には暴力に訴えざるを得ない場合だってあるだろう。他力本願しか能のない人間が市を批判する資格などない。この物語最大の《悪役》は一体誰なのか。連太郎親分か関八州の役人どもか。それとも…。不本意な役割を果たした座頭市は元の漂泊生活に戻るのであった。愚痴も不満も漏らさずに。そんな市に限りない憧憬と共感を覚えた。彼こそアウトロー。彼こそヒーローである。

(2004/10/11)

『ガルシアの首』

先日。横浜日劇で『ガルシアの首』(1974年公開)を観た。監督はバイオレンス野郎サム・ペキンパー。主演はウォーレン・オーツ。オーツは西部劇の敵役、憎まれ役として鳴らした男。日本で言えば川谷拓三や室田日出男のような役者であろうか。堂々たる体躯の持主であり、面構えも凄味がある。繊細な演技は期待出来ないが、底知れぬ迫力を備えている。アウトロー監督と悪役のエキスパート。好い組み合わせだ。

映画の出足は美しい風景。水際の古木に横たわる妊婦。滑らかな湖面を水鳥が戯れている。穏やかな日差しの下、妊婦はお腹を撫でながらその光景を眺めている。だが平和な時間は長くは続かない。我らが《血塗れサム》が癒し系映画など作る訳がない。かの妊婦はメキシコ有数の大富豪(エミリオ・フェルナンデス)の愛娘であった。俺の娘を孕ませた悪党。そいつの名はガルシア。アルフレッド・ガルシア。怒り狂ったフェルナンデスはファミリーの前で宣言する。ガルシアを捕まえろ。ガルシアを殺せ。ガルシアの首を獲って来た者には100万ドルをくれてやるぞ!どどどど。がががが。命令は下った。ボス直轄の殺し屋どもが一斉に動き出す。各員が愛車に乗り込み空港を目指す。物語の舞台はメキシコ・シティに移動する。標的はこの街に潜んでいる。暗殺チームはガルシアが潜伏していると思われる場所を徹底的に調べ上げる。しかし、猛烈な探索活動にも関わらずガルシアは見つからない。奴は一体何処に消えたのか?実はガルシアは車に撥ねられて死亡していたのだ。その情報をいち早く掴んだ男がいた。市内在住の不良中年ウォーレン・オーツ。賞金首ガルシアはオーツにとって浅からぬ因縁のある相手でもあった…。この物語の影の主役とも言えるガルシアが既に死んでいるという設定が面白い。一個の死体を巡って様々な人物が右往左往する辺りはヒッチコックの実験作『ハリーの災難』(1955年)を連想させる。それにしても「下郎の首を持って来い」というのは物凄い要求である。戦国時代じゃあるまいし。だが、かのゴッドファーザーはあくまでも本物にこだわるのだ。世にも恐ろしい小道具「ガルシアの首」は物語中盤より登場。以降、大活躍します。最初タイトルを聞いた時には「裏切り者ガルシアがシンジケートに追いかけ回される話かな?」などと考えていたのだが、全然違いましたね。

生首切断用の大型鋸を購入したオーツは愛人(ノセラ・ヴェガ)と一緒にガルシアの故郷へ向う。彼の墓を暴く為である。ゲットした賞金はヴェガとの結婚資金に充てる心算であった。だがヴェガは浮かない表情である。友人の首を切り落としてまでカネが欲しいとは思わないと言うのである。奇妙なロードムービーが展開する。狂騒状態のオーツは強い酒を仰ぎながら愛車(そこら中キズだらけ)をガンガン加速させる。この国には飲酒運転を取り締まる法律はないのだろうか。仮にあったとしてもこのオヤジは守らねえか。危うくバスと正面衝突をしかけるがオーツは平気である。ゲラゲラ笑いながら拳銃をぶっ放したりしている。まさにケダモノである。或いはこれからやらなくてはならない汚い仕事に対する罪悪感を誤魔化そうと、無理に陽気に振舞っているのか。外見も行動も野蛮そのものだが、この男のヴェガを愛する気持に偽りはない。彼女を幸せにする為なら多少の犠牲はやむを得ないと考えている。好きだけでは食っていけない。生活を確立する為にはカネが要る。相当なカネが。千載一遇。折角の大金獲得の好機を生かさない手はない。野宿の最中、ちょっかいを出してきたチンピラ二人を撃ち殺したオーツは、その場を離れて、あるホテルに避難するが、ここで彼らは宿泊拒否を食らう。何故か?はっきりとはわからないが、どうやらヴェガは不当な差別を受けている立場にあるらしい。これに激怒したオーツはドアを蹴飛ばして支配人を脅す。ブッ殺すぞ。この野郎。こいつは俺の女房だ。さっさと鍵を渡せ。やり方は少々荒っぽいがオーツの深い愛情が感じられる瞬間であった。

激しい銃撃戦の果てに宿願のアイテムを手に入れたオーツ。帰路の途中に彼は小さな集落に立ち寄る。朝食を食べる為である。その際、美形の男の子(食堂の息子だと思う)が現れる。少年はドロドロに汚れたオーツの車を指差して「お客さん。綺麗にしましょうか?」と言う。多分小遣い稼ぎだろう。オーツは少年の提案に無言で頷く。せっせと車体を掃除する少年。手慣れた動作である。窓に付着した砂埃を拭った時、異様な物体が彼の視界に飛び込んできた。後部座席に置かれた袋である。それにはスイカ大の「何か」が入っているらしい。しかも袋には無数の蝿が集っている。少年はギョッとして「袋の中身」について客に尋ねる。オーツは「猫だ。友達の猫の死体だ」なんていい加減な返事をしている。子役の男の子が達者な演技を披露。血みどろ汗みどろのオーツとの対比も面白く、ユーモラスな雰囲気が漂う。古今東西、名監督と呼ばれる人は子供の使い方が抜群に巧い。鬼才ペキンパーも然り。ガルシアが埋葬されてからかなりの時間が経過している。加えてメキシコの気候である。死体の腐敗はグロテスクに進んでいる。オーツは特に気にしていない様子だが、車内は酷い悪臭が充満している筈である。少年の指摘を受けたオーツは氷を買い求めて、それを袋の中にゴリゴリ押し込み始める。今更遅いような感じもするが。果たしてガルシアの首はどんな状態にあるのか?本人かどうかも判別不可能なぐらいに腐り、グチャグチャに溶け崩れているのではないのか?それについては観客の想像力に任せるという方法をペキンパーは選んでいる。正しい選択である。嘘臭い作り物の首を登場させるよりは断然良い。映画は視覚の芸術だが、敢えて観せない方が効果的な場合もあるのだ。そんな訳で『リング』(1998年)の「貞子お出ましの場面」には未だに納得がゆかない。映画のあちこちに疑問や破綻が点在しているのが痛いが、オーツのアクの強さ、ヴェガの頽廃的美しさ、脇役陣の好演、壮絶な暴力描写等々、観るべき部分も沢山ある。失敗作になるスレスレで回避した異色作。ペキンパー流ラブストーリーとしても楽しめる逸品である。

(2004/10/09)

『真田風雲録』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『真田風雲録』(1963年公開)を観た。主演は中村錦之助。ミュージカル仕立ての痛快時代劇である。監督は時代劇&仁侠映画の佳作秀作を多数遺している加藤泰。笑い満載。見せ場満載。こんなに面白くて洒脱な映画が今から41年も前に作られていたなんて一寸信じられない。どちらかと言えばカルト映画扱いされている作品だが、肌理の細かい仕事が隅々まで行き届いており、第一級の出来映え。爆笑場面の奥に秘められた強烈な反骨精神も見逃せない。カンヌもヴェネチアも良いが、国際舞台に出品するなら最低このレベルまでは作り込むべきだろう。時流かも知れないが、最近は安直な映画が多過ぎるよ。

この映画の猿飛佐助(錦之助)はバビル2世クラスの超能力者である。佐助は赤ちゃんの時、近所に墜落した隕石が発する放射能を大量に浴びてしまった。この瞬間、佐助は人間を超えた。読心術、催眠術、透明化能力等々を有するスーパーマンへと変身したのである。まるで『ジョジョの奇妙な冒険』(第5部)のような設定。荒木飛呂彦はこの映画を参考にして第5部を描いたんだな…ってそんな訳ねえか。だが、数々の特殊能力は佐助にとって重荷でしかなかった。余りに優れた能力を有する者は周囲の迫害を被る運命にある。妖怪人間。サトリの化物。他者の考えている事を察知する佐助少年は村民に忌み嫌われた。故に佐助は故郷を捨てて放浪の旅に出る。俺は何の為に生きているのか?何をすれば良いのか?誰とも交わらず、孤独に耐える日々。憂いを湛えた佐助=錦之助の表情や眼差しが印象的である。長く続いた戦乱の時代もようやく終息を迎えつつあった。これからは徳川一族が支配する世の中になるだろう。徳川方としては不満分子や反乱分子を根絶やしにしておく必要がある。太閤秀吉の遺産。史上最強を誇る大城塞を舞台に繰り広げられる最終決戦。大坂冬の陣。夏の陣。佐助は自分の生きている意味を見出そうと、熾烈な戦いに身を投じるのであった。

エスパー佐助の脇を固める連中も個性派揃いである。霧隠才蔵が女性(渡辺美佐子)だったり、吟遊詩人風の格好をした由利鎌之助(ミッキー・カーチス)がギターを奏でつつ反体制の歌を絶唱したり、米倉斉加年扮する根津甚八(だったと思う)が突然観客に話しかけたりと、自由奔放。奇想天外。まさにやりたい放題の大暴れである。激しいギャグとアクションの間に挿入される佐助&才蔵(お霧)の恋模様も心地好い。明日の命さえわからない恋人達。極限状況だからこそ育まれる愛もある。秀頼、千姫、淀君と言った歴史上の有名キャラクターもこの映画独特の人物造形が施されており、実に興味深い。ここまで脇役端役に神経を使っている映画というのは滅多にあるものではない。えっ。時代考証がデタラメだって?まあまあ。そんなカタい話は止しにしましょうや。どうせ完全無欠の考証なんて有り得ないんだからさ。文句をつけ出したらキリがないって。映画は夢。映画は娯楽。面白ければそれでいいじゃないですか。面白ければ勝ちっ。わはははは。

真田幸村。類い稀なる戦闘能力。異常な執念。壮絶な死に様。何もかもが俺の憧憬を誘う。個人的には最も好きな戦国武将である。この映画では千秋実が智将幸村に扮している。物語の性質に合わせて幸村も滑稽味溢れる人物として描かれている。俺の抱くイメージとは相当隔たりがあるが、千秋の演じる飄々幸村も悪くない。これは『七人の侍』(1954年)の平八役に匹敵する好演である。こんな戦争に参加する奴はバカかキ××イかのどちらかだな。随所で毒舌を撒き散らしながら、結局は大坂城に入城を果たす幸村。彼の望みはただひとつ。華々しく散りたい。カッコ良く死にたい。それだけである。幸村は佐助の超能力を目の当たりにしても少しも動じない。佐助を警戒する事も白眼視する事もない。どんな場合でも人間として佐助に接する。この辺りに幸村の懐の深さ、度量の大きさを感じる。佐助としては生まれて初めて出遭った剣を捧げるべき存在である。しかし、そこには主従関係の厳粛さは感じられない。まるで友達同士のような気楽な雰囲気だ。テレパシーで「幸村さん。幸村さん…」と話しかけてくる佐助に対して「せめて隊長と呼んでくれよ」と応じる場面が愉快である。篭城作戦に固執する臆病な豊臣家臣団を無視して、幸村は手勢のみを率いて家康の本陣を目指す。お得意の奇襲戦法だ。佐助も持てる能力を全開にして、真田軍を援護するが、その前に強敵が立ちはだかる。服部半蔵(平幹二朗)と忍者軍団の登場である。これ以降、佐助と半蔵は宿命のライバルとして激突を繰り返す。2度目の対決は天守閣の屋根の上であった。その時、大坂城内では呑めや歌えやのどんちゃん騒ぎが最高潮に達していた。その光景が視界に入った両雄は自分達がやっている事が急にアホらしくなり一時休戦。愛剣を鞘に収め「我は何故に戦うのか」について2人は暫し語り合うのであった。佐助は自分の為に。半蔵は組織の為に。第一に敵同士であり、抱く理想も全く違うが、互いに共感を覚えている二大忍者のやり取りがとても楽しく、そして切ない。人材不足の豊臣陣営。そんな中、幸村を除いて唯一まともな頭脳を持っているのが大野治長(佐藤慶)である。時には味方さえも切り捨てる冷酷采配を見せる男。アウトローぶってはいるが、基本的に温厚な性格の佐助には治長の言動も行動も理解不可能である。しかもこの男には佐助の読心術も通用しないのだ。彼に言わせると「心を動かさない奴の心は読みようがない」のだそうである。剣の好敵手が半蔵なら、知の好敵手はこの治長と言えるだろう。一癖も二癖もある登場人物を適材適所の芸達者が楽しそうに演じている。こちらも思わず画面に引き込まれ上映時間なんてあっと言う間に過ぎてしまう。映画の醍醐味が91分の枠内にギチッと圧縮されている。この斬新華麗な時代劇が公開当時は全く受け入れられなかったと聞いて、俺は首を傾げたくなった。公開後、僅か6日間で打ち切った劇場すらあったという。不名誉極まる成績だが、この映画の先駆性を物語る記録のひとつと言えなくもない。早過ぎた名作。その称号は『真田風雲録』にこそ相応しい。

(2004/10/05)

『新幹線大爆破』

先々月。お台場の映画館で『新幹線大爆破』(1975年公開)を観た。日本映画史に残るパニック映画の傑作として名高い。以前から観たいと考えていた作品のひとつである。だが油断は禁物である。何故なら、主演が高倉健、監督が佐藤純彌という迷作『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)のコンビだからである。期待し過ぎると痛い目に遭うぞ。そんな事をウダウダ考えながら、上映開始を待った。

ヤン・デ・ボンの『スピード』(1994年)の原型とも言われる作品である。ある日。国鉄本社に恐るべき電話がかかってた。相手は「東京発博多行の《ひかり109号》に爆弾を仕掛けた」と言うのだ。この爆弾は新幹線のスピードを80キロ以下に減速した瞬間に爆発するように設定されている。つまり、新幹線を停車させるどころか、乗客を避難させる事も不可能という訳だ。時間を稼ごうにも新幹線はいずれ博多駅に到着してしまう。そうなれば全ては終わる。爆弾が作動した場合、どれだけの犠牲や被害が出るか予想もつかない。これを作った奴はまさに悪魔の化身である。劇中の台詞によれば、走行中の新幹線は何か異常が発生すると、必ず速度が落ちるように設計されているらしい。外部から爆弾を撤去しようにもヘタな方法を用いれば即ドカンである。かの爆弾魔は乗客の安全を目的とした新幹線の特徴を見事痛撃したのだ。用意周到な《彼》は手始めに札幌を走る貨物列車を同種の爆弾で吹き飛ばしている。自分の電話が妄想でもハッタリでもない事を証明する為である。爆弾の機能説明を終えた《彼》は国鉄本社に身代金500万ドルを要求する。さあ大変だ。かくして、国鉄&警察連合軍vs犯行グループの息詰まる攻防戦が始まるのであった…こう書くと物凄く面白そうな映画だが、随所に杜撰な描写や展開が目立ち、その度に興醒めさせられる。物語を繋げる為の処置だと思うが、都合の良い「偶然」が多過ぎる。脚本のアラが映画の質に直接響いているのが痛い。特にこの映画に登場する警察はまるっきりアホである。こんな連中に日本の治安が委ねられているのかと思うと情けなくなる。この有様では解決可能な事件も解決しないぜ。警察の無能捜査に国鉄の運行コントロール室長(宇津井健)も相当イライラしているが、観客側も同じ気持ちである。もしかしてこれは作り手の狙いなのだろうか。活劇映画は善玉も悪玉も互角の能力を備えているからこそ盛り上がる。だが、このバランスが保たれている作品は驚くほど少ない。どちらか一方だけが、魅力的では駄目なのだ。両方とも魅力的でなければ。勿論両方とも魅力がないなんてのは話にもならない。面白い活劇映画を作るのは本当に難しい。

犯行グループの顔触れは個性的である。そのリーダーに健さんが扮しており、元学生運動の闘士たる山本圭(こんな役ばっか)が参謀を務めている。爆弾設置や身代金の受け取り等、肉体労働は健さんに心酔する織田あきらの担当である。織田は働きもせずにその辺をウロウロしていた。危うく野垂れ死にしそうなところを健さんに救われた恩義があり、彼の為には命も投げ出す覚悟である。さて、我らがヒーロー健さんが冷酷無惨な爆弾犯人を演じる筈がない。これにはきっと深ーい理由があるのだろう。何故に健さんが今回の犯行に及んだのか?その過程がこの映画の柱のひとつになっている。これを贅肉と看做す向きは当然あるだろう。実際、フランス公開版『新幹線大爆破』ではこの部分は全て削除されているそうである。しかし、俺としてはこちらの方が体制側との駆け引き云々より面白く感じてしまった。健さんは町工場の社長であった。主に精密機械の設計や製造を行っている。義理人情に厚い健さんだが、経営者としての才能には恵まれていなかった。不況の煽りを受けて、会社は倒産(この場面で「あきらを助けた丁度1ヶ月後に会社が潰れた」という健さんの独白が入るが、刹那、場内は爆笑に包まれた)。旦那を見限った奥さんは子供を連れて家を出てしまった。工場や敷地は借金のカタになっており、近く追い出される事になる。家族も仕事も財産も帰る家さえも失った健さん。この苦境にあっても決して愚痴は溢さない。この辺りは仁侠映画の主人公を思わせるが、その後の行動は荒唐無稽なヒーローではなく生身の人間のそれであった。追い詰められた者達が起死回生の策を練る。その結論が爆弾作戦であった。高性能爆弾を使って国鉄を脅迫する。爆弾作りなら任せろ。優秀な技術者とゲリラ活動の専門家が揃っている。無論犯罪である。死傷者が出る可能性もある。それは当人達が一番感じている。だが俺達に残された道はこれしかないんだ!生存競争から脱落した男達。彼らの血を吐くような叫びが聞こえてきそうである。負け組特有の痛切な哀しみが迸り、観る者の胸を打つ。生活の保障されたブルジョワ老人がやる暇潰し(金庫破り)などとは訳が違うのだ。そんなものは何の感動も呼ばない。

物語の内容が内容だけに国鉄の協力は一切得られなかったこの映画。当然、特殊撮影にかかる責任は重い。低予算(だと思う)ながら小西昌三&成田亨の両特撮監督が健闘を見せている。中でも映画終盤における2台の新幹線が並走する場面はよく出来ている。物語としてもこれがクライマックスであり、独特の緊張感を生み出す事に貢献している。肝心の「新幹線大爆破の場面」がセコいのが気になるが、アレは宇津井室長の脳内に浮んだイメージなのだから勘弁して下さい。豪華出演陣の汗だく演技が良くも悪くも印象に残る。もう少し落ち着けばいいのにと思うのだが、出てくる連中はアドレナリン全開で叫びまくっている。その分、静かなる健さんがより引き立つのかも知れないが。あの千葉真一師匠が珍しく公務員に扮している。意外な配役である。人質満載の移動爆弾と化した《ひかり109号》の運転手を熱演。頼れる相棒は小林稔侍だ。操縦席に座ったままの芝居が延々と続く。動ける千葉を敢えて動かさない面白さ。日本が誇る活劇スターが運転する新幹線。博多どころか銀河の果てまでぶっ飛びそうである。乗客1500名の命運は師匠が握っていると言っても過言ではないだろう。その重圧は想像を絶する。コントロールルームから矢継ぎ早に届く命令を懸命にこなす千葉運転手だが、激烈な緊張感に耐えられず逆ギレに及ぶ場面も。この生々しさ。時にはこういう千葉真一も悪くない。師匠としても従来とは異なる役柄に挑戦しようという思惑があったと考えられる。飛んだり跳ねたりするだけが俺じゃないんだと。シリアス演技に徹しつつも、何処かアクション俳優の習性が出てしまうのは御愛嬌である。最近は「組織vsアウトロー」もしくは「組織vs組織」なんてのは全然流行らないらしく、この手の日本映画が作られる機会がめっきり減ってしまった。需要もないし、役者もいない。たまにあるかと思えば『踊る大捜査線』(公開年忘れました)程度じゃねえ。欲求不満が蓄積します。幾つか不満点が見られるものの『新幹線大爆破』が俺の好きなタイプの映画である事は間違いない。男らしい男が死闘の火花を散らす。戦う事を忘れたらそれはもう男とは言えないですね。

(2004/10/03)

『明治天皇と日露大戦争』

我らのビッグ・ファイアの為に。今川泰宏の代表作『ジャイアント・ロボ/地球が静止する日』に登場する秘密結社《BF団》の合言葉である。この謎めいた巨大組織は「世界征服」というとてつもない目標を掲げている。破壊力&機動力に富んだロボット兵器群を保有し、全世界津々浦々、地上どころか月面にまでアジトを築いている。構成員の質も量も桁外れであり、世界最強クラスの武芸者やエスパーが多数所属。各員が強固な仲間意識を有しており、その団結力、結束力は悪党ながら天晴れである。更にその背後には人間コンピューターとも呼ぶべき大軍師が控えている。荒唐無稽なテーマもダテじゃない。あらゆる国家権力に喧嘩を売っているだけの事はある。精密を極める計画と一騎当千を誇る実行部隊。BF団が動く時、国のひとつやふたつは軽く吹っ飛んでしまう。BF団の侵略に対抗すべく結成されたのが正義の軍団《国際警察機構》である。BF団が笑うか、警察機構が止めるのか。地球の覇権を賭けた壮絶なる戦い。二大組織の死闘は果てしなく続く。そんなBF団の猛者どもが忠誠を誓う存在。それが大首領ビッグ・ファイアである。ボスの正体も秘密のベールに包まれている。どうやら「途轍もない能力」を備えているらしいのだが、真偽の程はわからない。BF団のメンバーは何かにつけて「我らのビッグ・ファイアの為に」というスローガンを口にする。戦いの最中にも、そして死ぬ間際にさえ彼らは叫ぶのだ。「我らのビッグ・ファイアの為に」と。常軌を逸している。ここまで来ると重症の狂信集団である。彼らが世界を掌中に収めんと日々暗躍しているのは全て《彼》の為なのだ。BF団の野望も行動も全て《彼》に繋がっている。作戦遂行ともなれば、如何にBF団とは言え、無傷では済まされない。警察機構の反撃を受けて、大勢の同志を失っているのだ。彼らを動かす究極の原動力。BF団団員が生命を捧げるビッグ・ファイアとは一体何者なのか?大いに気になるところだが、その疑問が解かれる前に、物語は終結してしまうのであった…。

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『明治天皇と日露大戦争』(1957年公開)を観た。明治37年。大国ロシアの度重なる「偉そうな態度」にムカついた日本では打倒ロシアの気運が急速に高まっていた。政府の腹も決まっている。陸軍も海軍も最後の一兵まで死力を尽くして戦う覚悟だ。ロシア討つべし!そんな中、天皇陛下(嵐寛壽郎)は冷静な姿勢を保っていた。戦争を回避する手段は本当にないのか?今一度模索せよ。戦端を開くのはそれからでも遅くはない。劇中、日露戦争が「自衛の為の戦争」であった事が何度も強調されている。アラカン扮する明治天皇は人望も厚く、義理にも厚い平和主義者として描かれている。実際の明治天皇の人柄や性格については皆目わからないが、この映画を観る限りでは、破格のカリスマ性を有する人物である。カリスマという言葉も近頃では随分安っぽくなってしまったが、この映画の明治天皇こそ真のカリスマだ。何しろ全国民が崇拝しているのだから大したものである。無論そうじゃない奴もいたのだろうが、画面には一人として現れない。我らの天皇陛下の為に。とは言わないが、最前線に送り込まれた兵士達は玉砕必至の突撃にさえ嬉々として取り組むのである。この戦争に敗北したら、日本はロシアの奴隷になる。彼らはそう確信しており、己が命を捨てる事にも躊躇しない。ところで、折角アラカンが出ているのだから、鞍馬天狗のコスプレをした陛下が敵陣に斬り込む…ってな場面を作って欲しかったなあ。それは時代劇マニアの妄想。

天皇陛下は絶大な権限を有している。負け戦に次ぐ負け戦。熾烈を極めた旅順攻防戦。乃木大将のシンプルな作戦は重武装のロシア軍には通用せず、日本軍は連日死屍累々の有様である。政府首脳の中では「乃木サンじゃダメだ。代役を派遣しよう」という結論に達するが「乃木を代える事は許さん」という陛下の一喝でその話はなかった事になる。陛下の指摘を受けた首脳陣は「我々が浅はかだった」「陛下のお考えは深い」などと、反省の弁と帝への賛辞を繰り返すのであった。さっきまで乃木批判に忙しかった連中とは思えない豹変振りである。奇妙と言えば奇妙。無気味と言えば無気味な光景である。難戦の末、旅順要塞を陥落させた日本軍はその勢いを駆って次なる戦闘へ突入する。そしてこの映画はクライマックスを迎える。日本海海戦。特殊撮影を駆使した海戦場面は結構迫力がある。実写場面との融合も滑らか。円谷特撮のクオリティには及ばないものの、スタッフの頑張りは評価されて良い。日本の切り札たる連合艦隊を率いるのは東宝特撮でもお馴染みの田崎潤。田崎はこの後、海底軍艦の艦長(1963年)になったり、ガイラ撃滅の指揮(1966年)を執ったりと大車輪の活躍を見せる。大海原に戦艦と来れば、今度は怪獣が出現してくれないと困るのだが。それは特撮おたくの妄想。かくして日本は強敵ロシアを退けるという快挙を成し遂げたのであった。日本万歳。天皇陛下万歳。空前の勝利に日本列島は沸いていた。この瞬間、近い将来に待ち受ける大惨劇を予測していた日本人は果たして何人いたのだろうか?公開当時、この作品は天皇を主役に据える戦争映画として物議を醸し、同時に話題も呼んで、大ヒットを記録している。公開から47年が経過している。作品の老朽化は確実に進んでおり、台詞も描写もアナクロ感は拭えない。だが、もし、もしもである。もし日本が太平洋戦争に勝利を収めていたとしたらどうなるか。現在の日本もこの映画と大差のない状態であったとは考えられないか。そう思うと、カビの生えた大時代映画だと笑ってばかりもいられなくなる。恐らく「その世界」では徴兵制度もあるだろうし、外交問題の解決手段として戦争が選ばれる事も少なくあるまい。とにかく俺のような遊び人には非常に生き難い事だけは間違いなさそうだ。この映画を観ながらハードSFの作品世界に迷い込んだような不思議な気分を味わったのだった。ビッグ・ファイアであれ天皇陛下であれ、盲目的な忠誠心には危険な匂いを強く感じる。出来る事なら、そういう世の中にはなって欲しくないなと痛切に思う。

(2004/10/01)

『人間の約束』

JR東中野駅の西口を出て、その界隈を彷徨うこと十数分。俺はようやく目的地ポレポレ坐ビルを発見したのだった。案内板によると映画館はこのビルの地下にあるらしい。劇場へと続く階段が俺の足下に伸びていた。階段の脇に設えられた陳列スペースには映画のチラシやら資料やらが山積みになっていた。それらを物色しつつ階段を降りる。着いた所はポレポレ東中野というミニシアターである。ここに来るのは今日が初めて。吉田喜重の特集上映が組まれている事を知り、やって来たという訳だ。上映スケジュールと自分の予定とを照らし合わせてみる。三國連太郎主演の『人間の約束』(1986年公開)を観る事にした。三國はこの作品で痴呆症の老人を演じている。伊丹十三が『お葬式』(1984年)のキャスティングの際、三國にも出演交渉をしたが、あっさり断られたという。伊丹によると「三國さんは当時、ボケ老人の役に入れ込んでいて、全然この役に興味を示さなかった」そうだが、恐らくこれは『人間の約束』を指しているのだと考えられる。チケットを購入した俺はロビーの椅子に腰かけて前の映画が終わるのを待つ事にした。無性に熱いコーヒーが飲みたかったが、生憎と売店のメニューにその品はない。俺は甘ったるいジュース類が苦手なので、飲み物は諦めるしかなかった。コーヒーが売っていない映画館ってのも珍しいなと思いながら、ふと横を見ると、ただならぬ雰囲気を湛えた白髪の男が座っている。男は静かにお茶を啜っていた。何処かで見た事がある顔だな。誰だっけ?思い出せないけど…まさか吉田喜重じゃないだろうな。まさか来ねえよな。こんな平日の真昼間に。パンフレットには監督のトークショーは上映会最終日って書いてあるし。だが、その「まさか」である事がほどなくして判った。映画を観終わったお客が《彼》と握手をしている。中には書籍やパンフにサインを求めている人もいる。学生風の青年が―感激の為だろう―呂律が回らなくなっている。そのような光景が俺のすぐ傍で繰り広げられているのである。自作のファンに対して誠実に接している吉田監督の姿が印象的であった。ただ、やや覇気に欠けるような気がしたのも確かであった。年齢のせいもあるのかも知れないが、健康管理には充分配慮して欲しいと思った。俺などが大きなお世話だが。まあ。大事にして下さい。病を抱えていては良い仕事は出来ないのだから。映画監督ほど体力の要る職業はないと言ったのは、黒澤明だったかな。

映画が始まる直前、吉田監督も場内に入ってきた。監督も我々と一緒に『人間の約束』を観る心算らしい。開始を知らせるチャイムが鳴り、スクリーンを覆っていた幕がスルスルと両端に分かれた。映画の導入部はミステリー風味である。住宅街の朝。ある裕福な家庭。そこに住む老婆(村瀬幸子)が死んだ。最初は自殺だと思われたが、どうやら違うらしい。他殺説が浮上する。俺が婆さんを殺したんだと爺さん(三國)は頑なに言い張っている。幸子は重度の痴呆症であり、息子夫婦(河原崎長一郎&佐藤オリエ)に引き取られていた。心身ともに疲れ切った末の凶事であった。何かがおかしい。本当に連太郎が幸子を殺したのだろうか?この事件を担当する事になったベテラン刑事(若山富三郎)は不審な気配を鋭く感知していた。とりあえず、連太郎に事情徴収を試みるが、何を喋っているのかさっぱりわからない。富三郎の質問も全く通じていない様子だ。ついに容疑者は取調室での失禁に至り、さしもの富三郎も困惑の色は隠せない。連太郎もまた痴呆症に侵されていたのだ。富三郎の部下である若手刑事を佐藤浩市が演じている。三國と佐藤。何気に親子共演―噂によれば2人は仲が悪いそうな―が実現しているのだ。物語の設定上、両者の会話がないのは一寸残念だったが。父親の余りにリアルなボケ演技を目の当たりにして、息子浩市はどんな感想を抱いただろうか。

ボケ老人の世話ほど大変な事は他にあるまい。俺自身は体験していないので迂闊な事は言えないが、知人友人の話を聞いていると余りの悲惨さに返す言葉すら見つからなくなる。自分が如何に楽な人生を過しているかという事を思い知らされる。死病であれば、いずれ天に召される時が来るだろう。しかしボケ老人の場合、肉体の方は健在である場合が少なくない。ふらっと出掛けたかと思うと、いつまで経っても帰ってこない。夜な夜な家の中を徘徊して大小便を垂れ流す。家族はおちおち寝てもいられない。現代医学の発達は目覚しいものがあるが、痴呆症に対する画期的治療法は未だに開発されていないようである。本人も辛いが周囲も地獄である。劇中、幸子が発する「死なせてくれえ。死なせてくれえ」という悲痛な叫びが耳から離れない。絶望に満ちた状況である。それでも献身的介護を展開するオリエはまさに地上の天使だ。こんなに出来た嫁さんはザラにはいないぜ。旦那としては生涯の宝と言って良い。婆さんの食事から入浴から排泄から着替えから何から何までオリエが面倒を見ているのだ。一方、長一郎はこの期に及んで昔の女(田島令子)との復縁工作に忙しい。ある種の現実逃避と言えるが、オリエにはとっくにバレている。夫の行動を承知の上で彼女は血の繋がらない幸子の世話をしているのだ。やはり家庭を真に守っているのは良妻である。全てのダメ男は無条件にひれ伏すべし。だが、そんなオリエにも魔が差す瞬間がある。それがこの映画の見せ場のひとつになっている。シリアスな題材をガチッとした硬質映像で捉える吉田演出。笑いやユーモアの要素は微塵もない。妥協を廃した映画作りは称賛に値するが、この重苦しさを耐えるには観る側も相当な覚悟が必要である。

映画後半、連太郎の孫(杉本哲太)が積もりに積もったストレスを爆発させる。ボケ老人は人間じゃないんだ。人間はボケたら動物になるんだ。人間と動物は同じ場所には暮らせない。動物は動物園に集めて、そこで飼育するべきなんだ!と絶叫する。偏見に満ちた醜悪な台詞である。だが、それだけに核心を衝いていると言えなくもない。このような悪魔的感情が我々の中にもじっと潜んでいる。単に口に出して言わないだけの事である。息子の暴言にさしものダメ親父もキレた。この大馬鹿者め。人間にはなあ。言って良い事と悪い事があるんだ!長一郎は哲太の頬に強烈な平手打ちを食らわせる。だが息子を殴ったところで何も解決しない。爺さん婆さんの痴呆は止まらないし、親父の浮気癖も治らない。この虚無感。この脱力感。家族の崩壊を顕著に示した痛烈な場面であった。上映後、吉田監督が前に出て『人間の約束』を撮るに至った経緯について簡潔に説明してくれた。声自体は小さいのだが、落ち着いた口調で解り易い内容であった。私は映画の解説は好まない。映画は観る人によって感想も違うし、印象も異なるものです。私はそれを限定したり強制しようとは思いません。そんな監督の言葉に俺は共感を覚えたのだった。外に出る。空を見上げると夕雲が漂っていた。腹が減ったな。ラーメンでも食ってから、阿佐ヶ谷にでも移動しようか。今夜のレイトショーはなんだっけ…。

(2004/09/28)

『狼よ落日を斬れ』

先日。黄金町のシネマジャックで『狼よ落日を斬れ』(1974年公開)を観た。池波正太郎の『その男』に『人斬り半次郎』をミックスした幕末巨篇。主演は高橋英樹。監督は三隅研次。三隅は奇を衒わず、堂々たる正攻法演出を貫いている。生真面目過ぎて、少々照れ臭く感じる所もあるが、訳のわからない実験映画や自称芸術映画よりは100倍面白い。この映画の公開後間もなくして三隅はこの世を去っている。享年54歳。まだ若い。しかし、こればっかりは何を言っても詮方ない。数多くの時代劇を手掛け、観客を大いに沸かせてきた三隅だが、生涯最後の作品も時代劇であった。

主人公の杉虎之助(高橋)はデューク東郷のように全身キズだらけである。激烈な武者修行の名残りである。虎之助の師匠たる池本茂兵衛(田村高廣)は隠密活動を生業とする要注意人物だ。幕府直属のスパイ。虎之助は14歳の時に入水自殺を図っている。生きているのがイヤになったからである。溺死寸前の虎之助を救ったのが、その場に偶然通りかかった茂兵衛であった。それ以来のつき合いである。茂兵衛の操る剣法は実戦的な色合いが濃い。殺人剣に華麗さ優美さは不要である。迅速かつ正確に目標を始末すればそれで良い。虎之助には生来の才能が備わっており、今では師匠を凌ぐ腕前である。だが、無闇に人を斬る事は茂兵衛から固く禁じられている。剣術とは本来人を生かす時に使うべきというのが彼の持論だからである。何だか矛盾しているようだが、田村の達観演技が素晴らしく、奇妙な説得力がある。茂兵衛は時代の趨勢を敏感に感じている。近い将来、江戸幕府は完全崩壊し「新しい世の中」が始まるだろう。それがどういう内容なのかまではわからないが…。だが、俺は徳川の人間だ。徳川と共に滅びるのが俺の宿命なのだ。当然虎之助も師匠に追随しようとするが、愛弟子の申し出を茂兵衛は決して許さない。お前は徳川とは直接関係のない人間だ。命を無駄に使うな。お前は生きて次の時代を見極めろ。子供のいない茂兵衛は虎之助を自分の息子のように考えていたのではないか。本人が語った訳ではないので確証は持てないが。俺の息子をむざむざ犬死にさせる事は出来ない。死ぬのは俺だけで充分だ。それが茂兵衛の本音ではないのか。ヘタな親子愛を超えた師弟愛がここにある。一寸恥かしいけどこういう関係は嫌いじゃないですね。

準主役の緒形拳が好演を見せている。緒形が扮するのは薩摩藩士・中村半次郎。巷間では《人斬り半次郎》として恐れられている。しかし本人は至って陽性である。殺人者特有の後ろめたさなどまるでない。生きているのが面白くてしようがないという感じである。攻撃力重視の《示現流》の名手だが、女性に対しても極めて積極的である。自分の思いが遂げられるまでは迫る迫る。生命力溢れる男であり、この物騒な時代を楽しんでいるのではないのかとさえ思わせる。半次郎は郷土の英雄たる西郷隆盛(辰巳柳太郎)に心酔しており、彼の為にはいつでも命を捨てる覚悟である。だが狂信的な西郷信者という訳でもない。避けられる流血はなるべく避けようとする分別も有している。この辺りのバランス感覚は天晴れであり、まさに快男児である。昔の日本にはこういう男が大勢いたんだろうな。ゼロとまでは言わないが最近は少数派になっているのが残念だ。虎之助と半次郎はひょんな事から知己を得る事になる。物語中盤に催される宴会場面が印象的である。この2人に伊庭八郎(近藤正臣)と沖田総司(西郷輝彦)が加わるという豪華な酒宴である。思想も立場も超えて四豪傑が男として人間として酒を酌み交わす。現実にはまずありえない光景だとは思うが、これほど気持の好い酒盛り場面は稀である。この後4人にはそれぞれ過酷な運命が用意されている。無論彼らにはそれを知る術はない。だからこそ哀しく、だからこそ美しい。こういう際の酒は一体どんな味がするのだろうか?

虎之助は2人の仇敵を追っている。師匠の仇と愛妻(松坂慶子)の仇である。後者は比較的簡単に見つかった。異常なプライド意識を持つ薩摩藩のエリート村田以喜蔵(藤岡重慶)だ。虎之助は白昼堂々、それも公衆の面前で以喜蔵に襲いかかる。大胆なやり方だが、闇討ちや不意討ちの類いは彼の性に合わないのだろう。藤岡の狼狽演技がケッサクである。まあ。いきなり死神が眼前に現れたのだから無理もないが。今にも発狂しそうな表情で以喜蔵は逃走を開始する。応戦しようという気力もないらしい。虎之助も猛然たる追撃を繰り広げる。狙うは妻敵の首ひとつ。だが邪魔する奴は容赦はしない。右に左に斬り伏せる。たちまち死体の山が築かれる。茂兵衛直伝の殺人剣が縦横無尽に炸裂する。無敵である。何者も彼を止める事は出来ないのだ。歴史上の人物を殺すとちとマズイが、この場合は何の気兼ねも要らない。殺し放題。斬り放題。存分に暴れ狂う事が可能となる。外道め。逃すものか。鬼神と化した虎之助の執念も凄まじいが、以喜蔵の逃げ足も大変なものである。武士にあるまじき見苦しさだが、誰だって死ぬのは怖いもんです。藤岡が死の恐怖を全力で体現している。逃げる者。追いかける者。いつのまにか背景は江戸市中から田園地帯に変わっている。放っておいたら世界の果てまで逃げるぞ、この男は。その前に虎之助の刃が以喜蔵を捉えた。ずどんっ。豪剣が唸りを上げて脳天にめり込み、そのまま以喜蔵の肉体は真っ二つに斬り下される。うぎゃー。文字通りの一刀両断である。馬鹿馬鹿しくも痛烈な場面。出たっ。三隅の人体バラバラ美学の真骨頂。これで見納めだぜ。おおーっ。この瞬間、場内が激しくどよめいた。多少失笑が混じり込んでいたような気もするが。

明治維新。死屍累々の果てに「新しい時代」はやって来た。虎之助は侍を廃業して理髪店を営んでいる。当時としては最先端の商売である。前の時代とどうしても縁の切れない客もいるが、虎之助の眼差しは常に温かい。これは数々の修羅場を潜ってきた者ならではの余裕であろうか。江戸から明治へ。年がら年中殺し合いをしなくてはならない野蛮な時代は去ったのだ。だが、人間の記憶は容易くは消えてくれない。茂兵衛の復讐という宿願を虎之助は未だ果たせていない。その苛立ち。丁髷と一緒に剣も捨てた虎之助だが、家の箪笥には長ドスがしっかりと収納されている。仇敵の首を刎ねる際に必要な道具である。手掛かりは無いに等しいが、いつか出遭うような気がする。明治の世になって既に6年が経過している。敵討ちなどという旧時代の風習に固執する虎之助を未練がましい奴と考える向きもあるだろう。しかし俺はかえって好感を抱いた。世界が変わろうが、政府が変わろうが、譲れない部分や割り切れない感情は当然ある筈である。それが人間である。俺達は電子計算機じゃねえんだ。そして、思わぬキッカケから虎之助は宿敵に辿り着く事になる。彼の記憶と証言者の記憶が組み合わさった結果であった。やはり人の記憶というものはバカにならない。かくして、虎之助は愛刀を携えて旅に出る。長年追い求めていた標的が潜む場所。それは鹿児島であった。不倶戴天の敵の正体。そいつの名は…。鬼才天才と謳われた映画監督でも遺作となると酷い出来になる場合が結構多い。その点『狼よ落日を斬れ』は何処から見ても立派な映画であり、三隅晩年の力量をまざまざと感じさせる。志半ばで命を散らした者、苦渋を舐めつつもしぶとく生き延びた者。各登場人物の生き方を真摯に描いた三隅演出。同時に娯楽映画としても成立させている辺りは流石である。三隅の最後を飾るに相応しい秀作であった。お見事。

(2004/09/27)

『とむらい師たち』

先日。ラピュタ阿佐ヶ谷で『とむらい師たち』(1968年公開)を観た。葬式本来の厳粛さを復活させようとする《とむらい師》の奮闘振りを描いた異色作。主演は勝新太郎。監督は『釈迦』『座頭市物語』『御用牙』等で勝とは気心の知れた三隅研次。但し天才肌のスターであるカツシンを三隅は持て余していたという説もある。常に即興的面白さを狙うカツシンと精密な映像構築を好む三隅とは水と油の関係だというのである。そうかなあ。画面を観る限りそんな印象は受けないのだが…映画というヤツはとにかく奥が深い。

カツシン扮する主人公は《デスマスク屋》を営んでいる。役場の戸籍係の前に連日座り込み、死亡者が出るや否やその家に飛んで行く。後はカツシンのペース。遺族の困惑をよそにデスマスク製造にとりかかる。てりゃー。うりゃー。などと奇声を発しつつ死体の顔面目掛けて石膏を叩きつけるカツシン。あんな方法で果たして大丈夫なのか?と遺族の不安を誘発するがカツシンは落ち着いたものである。勿論、我々観客は彼の悪乗り演技に腹を抱えて笑っている。ミスキャスト気味の役を強引に演じ切るカツシンの馬力は相変わらず凄い。時代劇こそカツシンの本領だが、現代劇の彼も決して悪くない。ただ現代だと何かと制約が多いため、やや窮屈な感じである。それがまた面白いのだが…。カツシンのアパートには今迄に拵えた作品群がズラリと並んでおり、無気味な存在感を醸し出す。この瞬間、永井豪の『デビルマン』に登場した悪魔ジンメンの甲羅をふと思い出した。豪ちゃんはこの映画を観てあの亀型モンスターを創造したのかも知れないな…ってそんな訳ねえか。因みにジンメンのエピソードは俺の中に痛烈なトラウマとして今も突き刺さっている。あれはエグい。さて『とむらい師たち』に話を戻す。カツシンは機械的に仕事を進める現在の葬儀屋に猛烈な反感を抱いている。前々から「ホトケさんは商品じゃない。この世で最も尊い存在なんだ」「俺は血の通った葬式がしたい」と考えていた。しかし、詐欺スレスレのデスマスク屋で食い繋いでいる身。会社を興す資金などない。ところが、その信念に共鳴した酔狂な資本家が現れて、カツシンの運命は思わぬ方向へと転がり始める。

野坂昭如の原作を藤本義一が脚本化。物語のテンポが若干鈍いのが気になるが、奇抜なアイディアとユニークなキャラクターを投入して観客をグイグイ引っ張ってくれる。毒の効いたユーモア精神も特筆に価する。カツシンは同志3人と組んで《国際葬式コンサルタント》を旗揚げする。略して国葬。採算は度外視。遺族親族の心に沁みるような葬式を演出するのが彼らの目的である。当然風当たりも強い。突然出現した新興勢力に対して既存の葬儀屋連中が牙を剥く。しかし喧嘩沙汰ならカツシンの望むところだ。悪?のとむらい師(遠藤太津朗&財津一郎)を蹴散らしたカツシンは我が道を驀進する。国葬の軍師格を演じる伊藤雄之助がまた面白い。外見からして胡散臭い美容整形医の役だが、場面によってはカツシンをも凌ぐアクの強さを発揮している。伊藤と言えば『生きる』の小説家、『子連れ狼』の柳生烈堂、『太陽を盗んだ男』のテロリストジジイ等々…一筋縄ではゆかない人物を敢えて選んでいるような気がする。ドロップアウトした元エリートなんて役柄がぴったりハマる。まさに怪優である。この人が画面に現れただけでただならぬ雰囲気が漂う。こういう強力な助太刀が脇を固めているからこそ、主演のカツシンも存分に暴れられるというものだ。

国葬の快進撃は続く。社運を賭けた一大イベント「全国水子供養」も成功を収め、いよいよ国葬は当時の花形たるTV業界に触手を伸ばすのであった。人類史上初となる葬式のリアルタイム放送である。この司会をカツシン自らが務めており、日本中の茶の間にカツシンのごつい顔が映し出される。遺族相手のインタビューも実におかしく、葬儀の実況中継と言うより秀逸な娯楽番組と言った趣になっている。エンターテナーとしてのカツシンの才能がここぞとばかりに炸裂する。現実世界では絶対無理な番組だけど、もし実在したら楽しいだろうな。案外視聴率もいいんじゃないかな。でも肝心のカツシンが不在だから、この企画は駄目ですね。代役は考えられない。ともあれ、カツシンの天性の明るさが味わえる名場面。番組の合間に挟まれる国葬のコマーシャルもケッサクである。マスコミを巧みに利用した国葬は規模も知名度も大幅にアップする。首脳陣は更なる飛躍を目指して葬式のデパート…国葬の総本山たる「葬儀会館」の建築に着手する。この計画を聞いたカツシンは終始浮かない表情である。国葬が大きくなればなるほど、初志からどんどん離れてゆくような感覚がある。理想と現実のギャップにカツシンは悩んでいるのである。結局、カツシンは国葬を脱退して独自の道を模索する事になる。その第一弾が「葬式博覧会」であった。カツシンは仲間の手を借りずにコツコツと独力で開催の準備を進める。PR活動も単独で行う。雑踏を掻き分けつつ博覧会の宣伝文句を絶叫する場面はカツシンか奥崎謙三ぐらいにしか出来ない荒業であろう。カツシンが心血を注いで作り上げた葬式博覧会。そこは会場全体が不吉なオブジェで彩られた異様な空間であった。葬式を追及している筈だったのに、いつのまにかカツシンは「死」そのものに取り憑かれていたのである。前半の陽気なムードは何処に消えてしまったのか。後半は暗鬱たるイメージがジワジワと観る者に迫ってくるのである。この落差こそ作り手が仕掛けた「罠」だと言えるだろう。巧妙なやり方である。やられたね。そして衝撃のラストシーンが容赦なく我々に襲いかかる。カツシン映画としては稀少なSF的オチ。よくあるパターンと言ってしまえばそれまでだが、今から30年以上も前の作品である事を考慮すると相当斬新な内容である。同年公開の『猿の惑星』にだって負けないぜ。厳格さが求められる葬式さえも金儲けの道具に変えてしまう者達。彼らの俗物性や商魂の逞しさを徹底的に皮肉りながら、随所に戦争の狂気をも織り込む芸の細かさ。たかが娯楽映画と甘く見ているととんでもない目に遭わされる。生命力溢れるカツシンが放つ葬式映画。伊丹十三の長篇デビュー作と観比べてみるのも一興だが、スケールに関してはこちらの方が断然上である。

(2004/09/23)

『D坂の殺人事件』

先日。新文芸坐で『D坂の殺人事件』(1998年公開)を観た。原作の持つ異常性&変態性を強調した造りになっている。主演は真田広之。監督は変態映画なら任せとけの実相寺昭雄。

映画前半は真田扮する贋作師の物語である。ある日。真田の家に謎めいた雰囲気の女(吉行由実)が姿を現わす。吉行は団子坂にある古本屋の主人だった。大江春泥の傑作『不知火』をコピーして欲しい。それが彼女の依頼であった。高額報酬をゲットした真田は早速作業にとりかかる。これは真田としてもやり甲斐のある大仕事だ。それだけに難易度も高い。吉行はわざわざモデル用の美女まで準備してくれたのだが、作業は遅々として進まない。かの美女が戯れに贋作師に迫るが、真田はソレに応える事が出来ない。どうやら不能らしい。仕事場の壁に掛けられた天狗の面が、虚無感を強める小道具として機能している。屈辱的エピソードの後、真田は奇怪な行動に出る。女の着物を身につけ、化粧を施す。要するに女装である。鏡に映り込んだ自分の姿を凝視する真田。彼の顔は狂気の色に隈取られている。その絵筆が大江春泥の描線を忠実に再現してゆく。ついに彼は「最高のモデル」を手に入れたのだ。はっきり言って真田の女郎姿は気持悪い。胸がムカムカするとまでは言わないが、正視に耐える映像ではない。しかし、この不愉快さこそ監督の狙いなのだろう。真田の意外な好演。得意のアクションを封印して頽廃演技に徹している。いつもの不貞腐れた表情が役柄に合致している。台詞も少なく、何を考えているのかわからない無気味な絵師がスクリーンを跋扈する。喋らない真田はやはり良い。贋作作りの過程が綿密に描写されている点も興味深い。これだけの能力を有しているのなら画家として独立しても良いような気もするが、オリジナリティを発揮する事とそれを模写する事とは、全く異質の才能なのだろう。本物と贋物。本物以上の迫力を湛える贋物を作り上げる事が真田の才能なのだ。仕事の為には常に最善を尽くす。完全主義。それが真田のやり方である。彼の生業は犯罪である。だが、彼には彼なりのプライドがあるのだ。そんな真田が人を殺す。依頼者を絞め殺す。しかし何故?その動機は?

明智小五郎。江戸川乱歩が創造した最大のヒーロー。誰が明智を演じるかが乱歩映画の楽しみのひとつだと思うが、この映画では怪人・嶋田久作がこれに挑んでいる。魁偉な風貌。暴力は使わないが、他を威圧する気配を周囲に発散している。有無を言わせない精密機械のような口調も恐ろしい。この男を敵に回したいと考える犯罪者はまずいまい。勿論かの大盗賊は別だが。一度睨まれたら絶対に逃れられない…そんな感じがするのである。絶妙の配役。前半の明智は酷い鬱に陥っており、ほとんど引き篭もり状態であった。そんな彼を戸外に連れ出したのが例の古本屋の店員(こいつも変態)だった。蕎麦屋のテーブルでボソボソと訳のわからぬ事を口走る明智。その様子を眺めていた店員が一言。あんた。頭が良過ぎるんだな。映画中盤、探偵稼業に生涯を捧げる覚悟を決めた明智が出現する。ダメ人間が一転して正義の味方に大変身。その豹変振りが実に面白い。主人殺しの疑いをかけられた恩人を救うべく明智は行動を開始する。その炯眼は既に真犯人を捉えていた。前代未聞の曲者対決。かくして贋作師vs名探偵の頭脳戦の幕が上がるのであった…。明智小五郎と言えば少年探偵団。その隊長たる小林芳雄君も顔を出している。実相寺は小林少年を敢えて女性(三輪ひとみ)に演じさせている。これは監督のイメージに合う子役が発見出来なかったという事なのだろうか。それとも他に理由があるのか。ともあれ美少年マニアの方は残念でした。小林は初登場の際、明智の話にウンウン頷くばかりだったので、こいつは失語症か?とイライラさせられたが、終盤には突然生意気な台詞を吐き、そうではない事が証明された。師匠に向って「僕には犯人の気持が解ります」などと偉そうな口を利く。予想外の助手の雄弁に接して、さしもの明智もやや困惑気味であった。監督の思惑や企みは別にして、この師弟の間に男色の匂いは余り感じない。明智と小林のキケンな関係を期待する(?)向きには物足りない展開ではあるが、俺としてはこちらの方が良いです。後は御自分の想像力で補って下さい。

続いて、同じく実相寺の『屋根裏の散歩者』(1992年公開)を観た。これも変態場面満載の異常作。こちらの頭も段々おかしくなってくる。気が狂いそうだ。物語の舞台となるアパート。そこからカメラが一歩も出ないという実験的作風である。このアパートは奇人変人しか入居出来ない規則でもあるのだろうか。どいつもこいつもロクな奴がいない。キ××イ揃いの化物屋敷だ。妖怪じみたキャラクターが延々と繰り広げる淫乱ワールド。その醜態を主人公の似非高等遊民(三上博史)が天井裏から覗き見するという趣向である。上映時間74分の映画だが「その種の場面」を削ったら30分にも満たない作品になりそうである。フィルムの状態が悪いのか、監督の指示なのか。全体的に画面が薄暗く、人物の顔すら判別困難であり、いい加減ウンザリさせられた。最前の『D坂の殺人事件』に比べるとバランスの崩れた失敗作と言えそうだ。策士、策に溺れるとはこの事か。実験映画は成功すると面白いが、作り方を誤まるとかくも無惨な結果になる。この映画でも嶋田が明智を演じているものの、魅力や存在感は今ひとつであった。逆に言えば『屋根裏の散歩者』の反省点を踏まえた上で『D坂の殺人事件』は作られたのかも知れない。

このところ、新文芸坐(池袋駅東口徒歩3分)に足繁く通っている。館内は清潔だし料金設定も良心的だ。回数券等のサービスを利用すれば一本500円程度で映画を楽しむ事が可能である。そして何より映画好きの食欲をそそる献立が常時用意されている点が嬉しい。今回の「江戸川乱歩映画祭/乱歩とその時代」のお陰で、俺は宿願の『恐怖奇形人間』を捕獲し『桜の森の満開の下』『不連続殺人事件』という異色作に遭遇し『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』の二本立てを堪能する事が出来た。都内及びその近辺在住の邦画ファンは新文芸坐の動き(下記参照)に注目すべし。そのロビーで映画の本を物色している目つきの悪い痩身の男(黒っぽい格好をしている事が多い。最近は東宝に貰ったゴジラのTシャツを愛用)を見つけたら要注意。それは俺です。命が惜しい人は近づかないように。

★新文芸坐オフシャルサイト…http://www.shin-bungeiza.com/

(2004/09/21)

『犬神家の一族』

先日。新文芸座で『犬神家の一族』(1976年公開)を観た。原作・横溝正史。記念すべき角川映画第一弾。懐かしいな。先の『日本沈没』同様、約10年振りの再会となる。これも何かの因縁であろうか。前回観たのはやはり大学の図書室であった。こういう場合、頭が悪いと得である。時間経過と共に映画の記憶が風化しており、ほとんど新作として楽しめるからである。映画を観終わって、こんなに洒脱で面白い作品だったのかと驚いた。物語の性質上、血みどろ場面が随所に登場するが、映画全体を奇妙な明るさが包んでいる。それが良い。市川崑の卓越した演出手腕(仮面、手形、遺影…小道具の使い方も巧い)に加えて、金田一耕助に扮した石坂浩二が秀逸。最大の当り役。頭脳明晰にして不思議な愛嬌を湛えた名探偵を見事具現化した。配役が終了した時点で演出は70%終わっている。というのが崑サンの持論だが『犬神家の一族』はその好例のひとつと言えそうだ。脇役端役も生き生きとした芸を披露しており、それを眺めているだけでも楽しい。高峰三枝子、草笛光子、三条美紀…三大女優の強烈な俗物演技。道化役に徹した加藤武&三木のり平。小沢栄太郎の厚み。大滝秀治の胡散臭さ。岸田今日子の妖しさ。島田陽子の可憐さ。そして、開始早々に死んじゃうのに物語の肝となる三國連太郎の存在感。どれもが印象的であり、ミステリーとしては若干物足りなさを感じるものの、娯楽映画としては第一級の出来映え。大野雄二のテーマ音楽も物語を大いに盛り上げてくれる。

探偵という職業が好きである(尤も現実の探偵業はよくわからないので、虚構世界に限っての話だが)。どんなに型破りでも所詮は公務員に過ぎない刑事よりも数倍アウトロー的だからである。被害者でもなければ警察でもなく、ましてや犯人でもない。誰の干渉も如何なる束縛も受けずに自由闊達に行動し、最終局面では一番美味しいところを攫ってゆく。これほど小気味好い役割は滅多にあるまい。但し、自由業、自営業の部類に属するので依頼が来なくなったら悲惨である。輝かしい実績を誇る金田一さえ生活の方は楽ではないようだ。どうにかこうにか食い繋いでいるような感じである。何しろ協力者に食べさせたうどん代まで必要経費として請求するぐらいだから、その懐具合が厳しい事は明白である。注目したいのは、金田一が適正な報酬以外は受け取らないというルールを自らに課している点である。この辺りに彼の美学を濃厚に感じる。一匹狼たる者、自分の法則には常に忠実でなくてはならないのだ。誇りを失ったらただのゴロツキである。

巨星堕つ。日本の製薬王として名を馳せた犬神佐兵衛(三國)が死んだ。残された親族は例によって欲の皮の突っ張った連中ばかり。莫大な遺産を巡ってエゴ剥き出しの罵倒合戦が続く。全ては佐兵衛の遺言状が原因である。これが実にややこしい内容。財産相続を待望していた人間を逆上させるに充分であった。まるでお家騒動を望んでいるかのような文面である。当然のように惨劇が発生する。菊人形に本物の生首が据えられ、絞殺死体が屋根の上に晒される。地元住民の羨望の的である《犬神御殿》は今や殺人鬼が跋扈する恐怖の館と化した。犬神佐兵衛。乞食同然の状態から財閥の領袖として権勢を振るう位置にまでのし上がった男。その過程においては随分あくどい事もしたらしい。現代の梟雄と呼んで良い人物である。死して尚、絶大な影響力を持つゴッドファーザー。かの犯人はまるで佐兵衛に操られるが如く無惨な殺しを重ねるのであった。さて我らが金田一だが、犯人逮捕や殺人防止よりも佐兵衛のルーツを探る方に興味を惹かれた様子である。彼の生涯はかの名探偵をも夢中にさせる意外性に富んでいたのである。神剣たる金田一の来訪によって、佐兵衛の恐るべき過去が、富豪一族に隠された忌まわしいエピソードが抉り出される仕掛けだ。その過程が実にスリリングであり、思わず手に汗を握る。以前、俺もある組織に属していた。その組織は知名度が高く、現在も殷賑を極めている。しかし、その内部事情は犬神家にも負けぬくらいに陰湿陰惨であった。ドロドロとした欲望と醜悪な人間関係が複雑怪奇に絡み合い、まともな神経の持主にはとても耐えられない異常世界だった。実際ノイローゼになって退職を余儀なくされた者も少なくない。幸い(?)俺の頭は元から狂っていたので、ビョーキにならずに済んだのだった。この映画が虚構である事は間違いないが、現実界にも類似の話は結構転がっている。そうか。俺もまた「擬似横溝ワールド」の中で生きていたのだ。勿論大した役ではないけれど。

金田一が芋の煮っころがし(旨そう!)を頬張りながら犬神家の人物相関図を書き込む場面がある。几帳面な字で記されたあの相関図は石坂自身の筆によるものだったのか。これは劇中人物の整理を観客に促すある種のサービスと見て良いだろう。俺も足りない脳味噌をフル回転させて人物名と俳優の顔を照合していたのだが、その内に、画面は金田一と仲良しの女中(坂口良子)との愉快なやり取りに切り替わっていた。やっぱり記憶力が悪いと人生損である。俳優の名前はともかく、俺は役名というヤツが全然覚えられないのである。映画のクライマックスは金田一による謎解き場面である事は言うまでもないが、この時、犯人は計画の全工程を完了しているというのが皮肉である。犯人が殺したいと考えていた奴は全員死んでいる。しかも犯人の自殺を止める事さえ金田一には出来なかった。もしかしたら、敢えて見逃してやった?とも考えられるのだが、その判断は難しい。この男、探偵としてはお人好し過ぎるのかなとも思った。まあ。その事は金田一自身が最も感じているのかも知れないが。とりあえず犬神家の事件は落着した。宿舎で帰り支度を整える金田一。東京に戻る名探偵を見送ろうとする者が何人かいた。それを察した金田一は慌てて予定より一本早い汽車に乗り込むのであった。照れ臭いからである。ジメジメするのが苦手だからである。風来坊とは別れ際には案外神経を使うものなのだ。神出鬼没。現れる時も去る時も風のようにありたい。アウトローの理想だね。

(2004/09/16)

『桜の森の満開の下』

先日。新文芸座で『桜の森の満開の下』(1975年公開)を観た。坂口安吾の原作を篠田正浩が映像化。主演は若山富三郎&岩下志麻。物語の構成はシンプルだが異様な迫力を帯びた映画である。エゴの塊のような登場人物が織り成す地獄絵巻。篠田作品とは相性の良くない俺だが、今回生まれて初めて面白いと思った。

富三郎御大が残忍な山賊を熱演している。自分の版図に入った獲物は絶対に逃さない。おとなしくこちらの言う事を聞けば命だけは助けてやる。但し抵抗すれば皆殺しだ。誰にも逆らえない。この男、剣術も弓術も我流に過ぎないが、その破壊力は凄まじいものがある。まさに野獣の剣という感じがする。男の剣が閃く時、切断された生首が宙を舞い、派手な血飛沫が迸る。ある日。男は艶麗な容貌を持つ女(岩下志麻)に出遭う。彼女の眼前で夫と従者を斬り伏せた男は「俺の女房になれ」と言う。女はそれに即答せず、とりあえず男のアジトに向う。向うと言っても、山道を歩くのは面倒臭いので男に「私を背負え」などと横柄な要求を突きつける。実はこの女、大凶賊富三郎をも上回るアクの強さ、したたかさを備えた毒婦だったのである。これ以降、男は女の繰り出す無理難題の数々につき合わされるハメとなる。最初は富三郎御大が志麻姐さんを苛めたり、イケナイ事を強制したりする陰惨映画なのかと想像していたのだが、これは意外な展開である。まあ。陰惨な内容である事は間違いないのだが。男の家に到着。そこには彼の愛妾がザワザワと蠢いていた。彼女達に酷薄な視線を送るや否や、志麻は富三郎に「あいつらを殺してちょーだい」と命じる。なんだと。さしもの富三郎も躊躇するが「お前は私の亭主を殺したのに、自分の女房は殺せないのか!」という志麻の絶叫に覚悟を決める。男は腰の愛刀をおもむろに引き抜くと、魔神の如く女どもに襲いかかる。きゃあああ。助けてー。白昼の惨劇。森の中に女達の断末魔が響く。この場面の悪鬼のような富三郎の形相は凄味満点。男の殺戮行動を無気味な笑みを浮かべながら見守る志麻はもっと恐ろしい。かくして邦画史上稀に見る怪物夫婦は誕生したのである。全篇に渡る志麻の我儘演技がケッサクである。居丈高な態度がサマになっている。志麻の顔色を窺いつつ右往左往する富三郎の狼狽振りも面白い。抜群の戦闘力に加えて頭の回転も結構速い。凶暴な犯罪者とは言え、これほどの能力を秘めた男が一寸情けない気もするが、惚れた弱味というものであろう。

物語の舞台は中盤から《都》に移される事になる。志麻が野趣溢れる山奥生活に飽き飽きしたのがその原因である。この女の正体は何者なのか?映画も本人も一切語ろうとしない。どうやら高貴な家の生まれらしいが、それ以上の事は全くわからない。わからない方が良いのだろう。ヘタに身の上話でもされると、彼女が有している神秘性が損なわれてしまうからである。映画の不条理感を保つ為の当然の処置だ。だから男にも女にも名前さえ与えられていないのだ。かの夫婦は《都》の郊外にある廃屋に居を構える。男は慣れぬ都会生活に退屈を持て余しているが、女の方は大喜びである。何がそんなに嬉しいのか?自分がやりたい事が存分に出来るからに他ならない。楽しい楽しい。ああ。楽しい。自分の「趣味」に日々埋没する女。彼女が正真正銘のキ××イである事がこれで判明する。その「材料集め」に男はこき使われる事になる。アホらしさを感じながらも、男は愛する妻の為に都内を奔走するのだ。まさか…全ては女の計算であったのか。男の妻になったのも現在の境遇を得る為の作戦であったのか。この世に女ほど恐ろしい生き物はいないという訳か。前半の倣岸演技から狂人演技へと違和感なく切り替える志麻姐さんの素晴らしさ。懐の深さ。これは『羅生門』の京マチ子や『蜘蛛巣城』の山田五十鈴に匹敵する名演だ。姐さんの役者人生最高の演技はこれではないのか。天晴れ。ところで、志麻のユニークな趣味のお陰で例の隠れ家は大変な悪臭に包まれている筈である。しかし、二人とも平気な顔をしている。この夫婦、頭だけではなく嗅覚も狂ってしまったのだろうか。

無敵の強さを誇る富三郎には志麻とは別にもうひとつ怖いものがある。それは映画のタイトルにもなっている「桜の森の満開の下」である。そこに踏み込んだ者は気が狂うという伝説を富三郎は信じ切っている。以前、禁断地域に進入した坊主集団が一人残らず発狂する場面を富三郎は目撃している。その瞬間、彼の疑惑は確信に変わったのである。何故桜の森にそんな魔力妖力があるのか。俺にはさっぱりわからない。劇中、その理由が明確に示される事もない。だが「行ってはいけない」と言われると、人間という奴は余計に「行きたくなる」ものである。それが人のサガというものだ。映画終盤、ついに富三郎&志麻はかのミステリーゾーンを体験する事になるのだが…結局、俺には桜の森が何を意味しているのか、何を暗喩しているのか、わからずじまいであった。元々「意味」など存在しないのかも知れないが。芸術映画のこういう部分が俺は苦手である。劇場の掲示板に『桜の森』を紹介する当時の資料(企画書?)が貼り出してあり、それを読む機会があった。そこには、この作品を国際的に売り込もうという映画会社の意欲と野心が燃え盛っていた。そう言われてみると、作品の随所に海外ウケを狙っている気配が感じられる。やたらに歴史的建造物が出てくるし。だが、その目論見は失敗に終ったらしい。無いっ。何処にも無い。無い無い無い。映画を観終わった後、宿舎に戻って、資料を漁ってみたのだが、この作品に関する情報や批評を発見する事は出来なかった。これはもしかして『桜の森』は論ずる価値もない大駄作という事なのだろうか。監督&スタッフとしてもフィルモグラフィから削除したいと考えている類いの映画なのか。富三郎御大の猛々しさ。志麻姐さんの禍々しさ。二大俳優のダークな魅力を引き出した佳篇だと思うんだけどなあ。日本映画としては珍しく女性が物語の主導権を握っている点も特筆ものだぜ。それにしても、どうして俺の気に入る作品というのは「呪われた映画」ばかりなのか。やなカンジ。

(2004/09/14)

『御用牙/鬼の半蔵やわ肌小判』

先日。ビデオで『御用牙/鬼の半蔵やわ肌小判』(1974年公開)を観た。シリーズ最終作。北町奉行所が誇る爆弾男・板見半蔵の活躍を描く痛快時代劇もこれで見納めである。

この映画、主人公に対抗出来る強力な悪役が不在である。敵役好きの俺は物足りなさを感じた。その代わりという訳でもないだろうが、個性派俳優が大挙出演している。各自がアクの強いキャラクターを楽しそうに演じており、最初から最後まで厭きさせない。さて気になる脇役陣の顔触れだが…西村晃、草野大悟、蟹江敬三、戸浦六宏、成田三樹夫、高橋悦史、小池朝雄、名和宏…これは凄い。中堅俳優、曲者俳優がズラリ。いずれも一筋縄ではいかないような連中が揃った。TV時代劇では味わえない豪華布陣。これぞ映画という感じがする。邦画好きならこの面子を見ただけでゾクゾクしてくる筈だ。共演者を選ぶ条件として、カツシンは外見の美しさや演技能力の高さよりも特異な風貌や既成概念に囚われない独自性を優先したという。この映画などその最たる例であろう。大戦艦カツシンの周囲を巡洋艦&駆逐艦艦隊(潜水艦も混じっている?)が守りを固めているような壮大なる光景である。稀代のエンターテナー勝新太郎の底力。

獅子奮迅の働きを続ける《かみそり半蔵》に友達はいるのだろうか?それがシリーズを通して抱く疑問であった。欲の皮の突っ張った筆頭与力(西村)と半蔵の漫才めいたやり取り(アドリブ合戦?)が毎回爆笑を誘うが、両者は犬猿の仲であり、スキあらば出し抜いてやろう、地獄に落としてやろうと互いに考えている。とても友人とは呼べない間柄である。では職場の同僚達は半蔵の事をどう思っているのか?正義感が強過ぎる半蔵は奉行所内の腐敗を露骨に糾弾したりする。しかも所内全体に轟き渡るような銅鑼声で。どんな人間でも後ろめたい事情や恥部をひとつやふたつ隠しているものである。そういう人間から見れば半蔵は極めて煙たい存在であり、出来る限り関わり合いを避けたい相手ではある。本人はさぞ好い気分だろうが周りは大変だ。単独行動を好む半蔵にも草野&蟹江という忠実な部下がいる。二人は島帰りの元犯罪者であり、半蔵に拾われていなかったら、またぞろ悪事に手を染めていただろう。ある程度の信頼関係は築かれている様子だが、結局、それは使う者と使われる者の関係に過ぎず、純粋な友人とは呼び難い。では半蔵に恋人はいるのか?自慢の『剣』で数多の女体を貫いた(今回は緑魔子が犠牲になります)半蔵だが、そこには女性に対する愛情はまるで感じられない。どちらかと言うと作戦や計画を円滑に進める為の一手段でしかない。半蔵にとって女性とは獣欲肉欲の捌け口であり、それ以上でもそれ以下でもないのではなかろうか。江戸市中を縦横無尽に駆け巡る名物同心。江戸在住者で彼の名を知らない奴は多分いないだろう。だが、彼と腹を割って話せる者は一人もいない。俺には《かみそり半蔵》という男が恐ろしく孤独な存在のように見える。

…と思っていたのだが、いましたよ。半蔵の友達が。幼馴染の武井兵助(山内明)である。旧友と再会した半蔵は早速酒徳利を担いで武井邸を訪ねるのであった。兵助は現在就職活動中である。アルバイトや内職で生活費を稼いでいるものの、その暮らし振りを見れば限界点を超えているのは明らか。どうやら借金もあるらしい。それも厄介な相手から借りている。実は就職の可能性を兵助は有している。武器オタクの老中(名和)に武井家に代々伝わる名槍を譲って欲しいと頼まれているのだ。承知してくれれば仕官の件は考えてやろうと。だが、石頭の兵助はこれを固辞する。武士の魂を売り飛ばしてまで職にありつこうとは思わない。痩せても枯れても俺は侍なのだ。それが兵助の誇りであり、言い分であった。バカだなおめえは…半蔵は微苦笑を浮かべつつ話を聞いている。いつにない穏やかな表情。必殺の刃を操る戦闘機械の面影はそこにはない。友人の将来を心配する気持は我々であろうと阿修羅であろうと変りはないようだ。シリーズ中、ほとんど唯一と言って良い人間的な顔であった。鬼の半蔵もやはり人の子だった事がこれで証明された訳である。山内&カツシンの演技も絶妙の域に達しており、このシリーズとしては珍しく、血の流れない好場面に仕上がっている。成績優秀だが武芸の方はまるでダメだった兵助。勉強は大嫌いだが喧嘩の腕前は抜群の半蔵。異なる属性を持つ者同士。だからこそ名コンビになる確率は高い。彼らの少年時代を想像するのも何やら楽しい。

映画のクライマックス。決戦の場所は墓地。兵助を斬り殺した剣術遣い(成田)と半蔵が死闘を繰り広げる。激しいチャンバラの末に粋な方法で仇敵を討ち果たす半蔵。ドウと崩れ去る成田。兵助。おめえの仇は俺が討ったぞ…。そう呟く半蔵の顔は何処か寂しそうであった。彼の胸に去来するものは満足ではなく虚無であったのか。この時のカツシンの眼差しが素晴らしく良い。旧友の遺体を埋葬し終えた半蔵は雑踏の中に消えてゆく。江戸に蔓延る闇勢力との戦いが再び始まるのだ。この鬼同心は現代日本にこそ必要な人材かも知れない。仮に半蔵が「こちら」にタイムワープしてきたら、余りの嬉しさに小躍りするのではないか。何しろ右も左も悪党だらけ。彼の備える能力がこれほど振るい甲斐のあるシチュエーションはまたとあるまい。存分にやってもらいたい。そうだな。まず手始めに…。カツシン時代劇と言えば『座頭市』が筆頭に挙げられる。無論それに異存はないがこの『御用牙』も『座頭市』とは違った面白さ破天荒さに満ちている。最近は置いているレンタル屋さんも少ないようだが、もし店頭で発見したら迷わずレジに持って行こう。料金以上の価値がある事は不肖宮村が保障します。観てね。

(2004/09/08)

『江戸川乱歩全集/恐怖奇形人間』

改札口を抜けて駅を出ると滝のような雨が俺を迎えてくれた。土砂降りである。時折、雷光が閃く。今夜観る映画の上映時刻まで残り30分を切っている。暫く雨宿りをしていたが雨が止む気配はない。俺は自棄気味に雨中へ飛び込んだ。傘は持っていない。こういう時に限ってコンビニも見当たらない。大粒の雨をまともに浴びながら俺は目的地に向った。ばしゃばしゃばしゃ。水溜りを蹴飛ばしつつ夜の街を走る。瞬く間に全身ずぶ濡れとなる。しかもこれから行く映画館の場所を俺ははっきり知らない。今夜が初めての訪問である。情報誌に掲載された地図だけが頼りだ。それも雨に滲んで何が書いてあるのかわからなくなってくる。今朝、頭に塗りつけておいた安物の整髪料が雨水でジワジワと溶け始める。それが両目に入り視界の確保さえ困難になる。畜生め。俺はブツブツ毒づきながら野良犬のように走り続けた。まるでこれからの俺の人生を暗示するような夜であった。道中、国籍不明の娼婦が盛んに誘惑してくる。どけっ。どいてくれ。今日の目的はあんたらじゃないんだ。俺は映画を観に来たのだ。××××を拝みに来たんじゃねえんだ。

その映画館は売春窟の片隅にひっそりと建っていた。雨に浮ぶ劇場の看板を発見した時、俺は映画の神に感謝した。ビルの3階である。俺は濡鼠のまま階段を駆け上がる。水滴が床に散る。ロビーは『その映画』が目当ての客達が大袈裟な行列を作っていた。チケットは備え付けの自動販売機で買うシステムであった。最終回の鑑賞券は一律800円。中々良心的な劇場である。予想を超えた盛況振りに全係員が客の整理に追われている。瞬間、その内の一人と目が合った。服を着たままプールに突っ込んだような俺の格好にギョッとしていたが、それを面白がる余裕は彼にはなかった。他にも俺同様の客が数人いた。いい迷惑だ。生乾きの洋服の感触が気になり始めた頃、厳かな館内放送が響いた。いよいよ入場である。行列の先頭がゆるゆると動き出した。場内は既に満席であった。そこへ100人近い新手が乗り込んで来たのだから大変な混雑である。こうなると立派な冷房装置も意味をなさない。場内は異様な熱気に支配されていた。結局俺は座る場所を得る事が出来ず、最後列まで追いやられてしまった。出入り口近辺の壁に背を任せるのが精一杯。立ち見である。立ち見で映画を観るなんて何年振りだろうか。一寸記憶にない。上映まであと5分…呪われた映画。ついに遭ったな。長年狙っていた『獲物』を捕捉した喜びに俺は震えていた。周りの連中も普通の生活は送れない映画キ××イであろう。そんな俺達がこれから観ようとしている作品もやはりキ××イじみた映画であった。カルトの帝王として名高い石井輝男の映画である。その題名とキケンな内容故にTV放映はおろかソフト化さえ許されないという曰くつきの作品。今から30年以上前の映画にこれだけの集客力があるとは驚きである。

予告篇を省略して、いきなり本篇が開始された。毒々しい蜘蛛が画面を這い回り、奇怪な音楽がそれを彩る。面妖ムード満点のオープニング。この薄気味悪さ。映画に対する期待を嫌でも煽ってくれる。原作は江戸川乱歩。かの『孤島の鬼』と『パノラマ島奇談』をベースにした暗黒の物語。とってつけたように『人間椅子』『屋根裏の散歩者』が挿入されているのは御愛嬌だ。さて映画の出来の方だが、石井作品にしてはテンポが遅かった。物語の進行速度とこちらの欲求が巧く噛み合わないのである。勿論良い点もある。登場人物の恐るべきアクの強さ。おどろおどろしい乱歩ワールドに得意のユーモアを盛り込んでいる点も好感が持てる。しかしそれ以上のものは残念ながら感じられない。これより面白い石井作品は沢山ある。まあ。普通の映画である。大騒ぎするほどの内容ではない。簡単には観られないというある種の希少価値が、この映画の評価を異常に高めてしまったのではないか。肝心の《島》の部分も予算不足が原因と考えられる安っぽさが酷く、作者の思惑とは別のところで笑ってしまう結果となった。失笑というヤツだ。出演陣の熱演がかえって痛々しい。但し、伝説と化している仰天のラストシーンは流石に目を見張った。ぎゃはははは。この間、観客の爆笑と拍手が巻き起こり場内は騒然たる状態となった。俺も場の雰囲気につられて笑い転げた。こんな光景も貴重である。昨年観た『昆虫大戦争』『空手バカ一代』以来の経験であった。外に出ると雨は小降りになっていた。これなら傘は要らないな。思い返せば、この数時間自体が極めて映画的な時間であった。こういう晩は滅多にあるものではない。無理を押して足を運んだ甲斐があった。さて、夜の歓楽街はこれからが本番である。子供はもう寝る時間だよ。でも、たまにはオトナの真似事でもしてみようかな。さっきの興奮が俺の中に根深く残留している。そうそう。その前に今夜観た映画の名前を記しておかなくては。カルト中のカルト。その名を『江戸川乱歩全集/恐怖奇形人間』(1969年公開)という。

(2004/09/07)

『切腹』

先日。ビデオで『切腹』(1962年公開)を観た。主演は仲代達矢&三國連太郎。監督は小林正樹。小林は黒澤時代劇に比肩する完全主義を貫いている。

日本映画が誇る二振りの名刀。仲代と三國が真っ向から激突する大作時代劇。俺も映画ファンの端くれ。この作品の存在は前々から知っていた。何度も観るチャンスはあった。でも観られなかった。何故かと言うと「竹光で腹を切らされる場面がある」という情報を聞いていたからである。白状するが俺は切腹場面が苦手である。チャンバラは大好きだが、ハラキリシーンはいつまで経っても慣れる事が出来ないのである。ついでに言うと、ヤクザ映画の指詰め場面も嫌である。作り物の指とわかっていてもつい冷や汗をかいてしまう。我ながら餓鬼っぽいと思うが、生理的に受けつけないのでどうしようもない。今回は俺なりに勇気を振り絞った。切腹は「もののふの華」などと言われるが俺の理解を超えた異次元の感覚である。自分で自分の肉体を切り裂くとはなんと野蛮な習慣だろうか。年末定番時代劇たる『忠臣蔵』のラストシーン。蔵之助以下、赤穂浪士が集団自殺を遂げる。君主に対する忠誠心は見上げたものだが、何処か空恐ろしい。吉良をブッ殺したらさっさと逃げちまえば良いのになあ。などと考えながら眺めている始末。逃走を図ると親族縁者に罪が及ぶからそれは無理だ。と誰かが教えてくれた。そんなものかな。切腹という儀式を通して、武家社会の孕んだ矛盾や歪みを抉り出す小林渾身の野心作。同時期に公開されて好評を博した娯楽時代劇『用心棒』『椿三十郎』と見比べてみるのも一興であろう。

江戸時代初期。巷間には無官の侍どもが溢れ返っていた。幕府による執拗な取り潰し政策が彼らを生んだのである。そういう時代である。ある日。名門・井伊藩江戸屋敷。その門前にふらりと一人の浪人が現れる。仲代達矢である。身なりは粗末だが面構えと言い態度と言いタダモノではない。アルバイトで食い繋ぐ生活にはもう厭きた。俺も武士。せめて最期ぐらいは潔く散りたい。メジャー大名たる井伊藩の庭先で腹を切れれば侍としてこれほど名誉な事はない。どうかこの願いを叶えてはくれまいか。まるで他人事のような調子で淡々と話す仲代。機械的でさえある台詞回しが無気味だ。これを応対するのが家老職を務める三國連太郎である。仲代の頼みを聞いていた三國の脳裏にある記憶が過ぎった。数ヶ月前、全く同じ要求をしてきた浪人(石浜朗)がいたのだ。仲代より随分若い男であった。この手のタカリ行為が流行していた。依頼者は腹を切る覚悟など毛頭ないのだ。大抵の藩は面倒臭いので、相手に幾らかのカネを握らせて追い払うのが常であった。だがここは尚武の気風で売っている井伊藩である。こういう連中は甘やかすと益々つけ上がる。一度でもそれを許せば、明日から乞食浪人どもがザワザワ集まって来るに違いない。キリがないぞ。井伊藩はチンピラの脅しには屈しない。その気概を世間にアピールしなくてはならぬ。藩内最強の剣士たる丹波哲郎先生の強い勧めもあって、三国は決心する。こいつを見せしめにしようと。そんなに死にたいなら死なせてやるさ。腹を切ってもらおう。切腹してもらおう。えっ。刀はとっくに売っちゃった?生活苦?腰に差しているのは竹光だって?関係ないね。切腹は自分の得物で行うのが正式ルールなんだから。刀だろうと竹光だろうと。あんたも侍なら知ってるよな。常識だぜ。常識。

かくして石浜は竹光で腹を切らされるハメになる。彼には彼なりの理由があった。どうしてもまとまったカネが必要となり、思い余って井伊藩邸を訪ねたのである。狼狽する石浜を嘲笑うかのように割腹自殺の準備が整えられてゆく。そして「その時」が来た。竹の刃で腹など切れる訳がない。介錯役の丹波先生の矢の如き催促が飛ぶ。やむえず石浜は刃先を腹に当て、体を傾けた上で全体重を…止めよう。止めた止めた。書いているだけで気持が悪くなってきた。石浜の凄惨演技が痛烈な印象を放つ。モノクロ画面に迸る鮮血。時代劇史上最悪の残酷場面。丹波先生ももったいぶらずに首を落としてやればいいのに「まだまだっ。まだまだっ」なんて言っている。意地悪やなあ。地獄に等しい時間が過ぎた。気の弱い俺は掌どころか足の裏まで汗びっしょりになった。ビデオならいよいよとなれば早回しが可能だが、劇場だとそうもいかない。公開当時は飯の不味くなった観客が沢山いたんだろうな。世にも悲惨な人生の終焉。察しの良い方ならわかると思うが、仲代は石浜の義理の親父である。彼は周到な復讐計画を組み立てて実行に移したのだ。井伊藩という巨大組織に単騎で立ち向かう為とは言え、仲代の仇討ち作戦は陰湿な感じを受けないでもない。しかし、我々の頭の中には石浜の惨たらしい死に様が焼きついている。可愛い娘婿があんな目に遭わされたら誰だって怒り狂う。闘争の時代を生き抜いてきた仲代は持てる戦闘技術&ノウハウを総動員して井伊藩に挑戦する。悪趣味の極みとも思われた竹光切腹だが、仲代の異常行動を肯定する不可欠な場面だったのだと考え直したりする。

基本的に仲代と三國が「喋っているだけ」の映画だが、徹頭徹尾緊張感が途切れないのが凄い。橋本忍の精密な作劇術には毎回驚かされる。表面上は丁寧なやり取りを交わす両雄。その裏には強烈な意地と憎悪が渦巻いている。剣豪vs策士。二大怪物の腹の探り合いが圧巻である。これは刀を使わないチャンバラだ。仲代の憤怒もわかるが、三國の言い分もそれなりに筋が通っている。単純な善玉悪玉の概念では捉え切れない複雑怪奇さがこの映画の醍醐味だ。出演陣の好演(岩下志麻の儚い美しさも忘れ難い)に加えて、立体的な構造を備える藩邸セットも見事な出来映え。武満徹の奏でる不吉な音楽も素晴らしい。但し、クライマックスの剣戟場面がやや迫力に欠けるのが残念である。活劇の計算が行き届き過ぎていて面白味が薄いのである。この辺りは小林作品の弱点と言えるかも知れない。もしキューブリックがチャンバラを撮ったらこんな映像になるのではないだろうか。ふとそんな妄想を抱いた。この前、図書館で三國の回想録を読む機会があった。この映画について彼はこう述べている。「『切腹』を超える日本映画は以降作られていないのではないか」と。邦画最強の怪優も認める異色時代劇の決定版。

(2004/09/06)

『座頭市血煙り街道』

先日。図書館で『座頭市血煙り街道』(1967年公開)を観た。シリーズ最強の好敵手が登場する血戦篇。

映画の導入部。いきなりチャンバラ。ずばずばずばっ。インネンをつけてきたヤクザ数名を一瞬で斬り伏せる座頭市。その場に偶然(!)居合わせた浪人風の男(近衛十四郎)が思わず叫ぶ。座頭!中々良い腕だな!豪快な殺陣で一世を風靡した近衛(松方弘樹&目黒祐樹の親父)と最盛期のカツシンが激突する。時代劇ファンとしては堪えられない組み合わせである。二大剣鬼が如何にして対決に及ぶのか?その過程が極めて入念に描き込まれており、ベテラン笠原良三(脚本執筆数250本!)の筆の冴えに唸らされる。今回の座頭市はひょんな事から子連れ旅を強制される(このパターンはシリーズ中、度々見られる)。僅かな情報を頼りに市は米原宿を目指す。座頭市が米原にやって来たぞ!滋賀県在住者は必見の作品でもある。生意気盛りの男の子と座頭市のやり取りがユーモラスに展開する。悪戯小僧の度重なる悪さに市もこちらも段々腹が立ってくるが、物語後半に少年の本当の気持が明らかになる好場面が用意されている。この男の子は絵師の息子であり、その才能を確実に受け継いでいる。絵は視覚で楽しむ芸術である。当然ながら、盲目の座頭市には少年の作品を観る事が出来ない。それが面白い仕掛けとして滑らかに作動するのである。笠原脚本の絶妙なる切れ味。

旅の途中、ある茶店で座頭市と十四郎が対面する。アウトローとサムライ。棲息する場所は違うものの、互いに卓越した剣術遣いであり、すっかり意気投合の様子である。上機嫌の十四郎は市にマッサージを頼む。市としても断る理由はない。喜んで按摩の技術を披露する。ここまでは和やかな雰囲気だったが、料金支払いの段階で少々ややこしい空気になる。十四郎の払ったカネが相場より随分多かったのだ。市はこれを拒絶する。俺はめくらだ。おまけにヤクザだ。世間の厄介者である事は俺が一番知っている。しかし俺は乞食ではない。だから謂れのない施しは受け取れない。なんだと。これを聞いた十四郎の顔色がサッと変わる。その両眼がたちまち物騒な光を帯び始める。十四郎の咆哮が響く。武士たる者が一度出したカネを引っ込められるか!刃物を連想させる眼光。恐ろしいまでの迫力。この時の十四郎の形相が怖過ぎる。鬼の形相である。人を殺す顔である。座頭市以外の人間ならこの顔を見ただけでショック死するんじゃないか。常に謙虚な態度を忘れない市ではあるが、譲れない部分は頑として撥ねつける。そういう厳しさがこの盲目の剣士には潜んでいるのである。猛烈な殺気が迸り、竜虎の戦いが開始されるかに思われたが、ここは十四郎が折れた。決戦は後日に持ち越される。茶店の主人としては幸運だった。こんなバケモノが暴れ出したら、ささやかな店舗など簡単に吹っ飛んでしまうだろう。一見、仲が良いように見えても、その実、決して相容れる事が出来ない両雄の関係を端的に示した名場面であった。この強烈な前哨戦が未曾有のラストバトルへと繋がってゆく。

米原宿を牛耳る田舎ヤクザを壊滅させた座頭市。少年の父親も見つかった事だし、これにて一件落着。めでたしめでたし…では勿論面白くねえ。決着をつけなくてはならない相手がいる。本当のクライマックス。カツシンvs十四郎。小雪が舞う町外れで、さあ。皆さんお待ちかね、二大剣戟スターの一騎討ちが始まる。カツシンの立ち回りの巧さは言うまでもないが、十四郎の動きも尋常ではない。刃と刃。気迫と気迫が激しく鋭くぶつかり合う。一体どちらが勝つのか?共に生まれて初めて遭遇する強敵難敵。無手勝流のヤクザ剣法と縦横無尽の王道剣法が火花を散らす。資料によるとこの決戦場面はぶっつけ本番に近い状態で撮られたらしい。両雄の繰り出す怒涛の如き太刀捌きには度肝を抜かれる。手に汗握る緊迫感はCGにもワイヤーアクションにも作り出す事は不可能であろう。類い稀な才能と運動神経を秘めた者のみが到達出来る究極の領域である。これぞ日本映画が世界に誇るチャンバラの凄味。かのタランティーノにさえ完全再現には及ばなかったホンモノの迫力がここにある。シリーズ屈指の名勝負の行方は是非自分の眼で確かめて欲しい。壮絶な戦いも終焉を迎えた。またしてもアテのない旅に出ようとする座頭市を少年が追いかける。おじちゃん。おじちゃん。断腸の思いで少年の追跡を振り切る座頭市。その頬を滂沱の涙が濡らす。アウトローに涙は禁物だ。だが、この涙だけは許せるような気がした。

(2004/09/01)

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