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映画の渡り鳥6

『日本沈没』

先日。大画面で『日本沈没』(1973年公開)を観る機会があった。俺としては約10年振りの再会となる。この前観たのは大学の図書室だったかな。気鋭・樋口真嗣の人生を「狂わせた」というSF超大作。脚本・橋本忍、美術・村木与四郎、音楽・佐藤勝、監督・森谷司郎…クロサワチームがズラリ集結。小松左京原作の奇想天外な物語。森谷が師匠譲りのダイナミック演出で魅せる。特撮は《爆発男》中野昭慶が担当。

映画冒頭。深海調査艇《わだつみ》が登場する。この《わだつみ》のデザインが秀逸である。暗黒の海中を滑らかに進む格好良さは『2001年宇宙の旅』(1968年)のディスカバリー号に匹敵すると言ったら誉め過ぎか。操縦士は我らが藤岡弘。同乗者は海底火山の専門家たる小林桂樹博士だ。博士が繰り出す我儘な注文にさしもの仮面ライダーも困惑気味。博士は鬼気迫る表情で照明弾が照らし出す海底を見詰めている。果たしてそこには「大異変」の前兆が現れていた。文字通り、日本列島を震撼させる恐怖の前触れが刻み込まれていたのだ。小林がアウトロー臭芬々たる異端科学者を力演している。口の利き方は乱暴だし、とかく強引なやり方が目立つが、正義感は人一倍強い。和製チャレンジャー博士と言った趣である。時間がない。日本を襲う未曾有の大災難を察知した小林博士はその回避策を見つけるべく行動を開始する。科学者にとって最も大切な要素は何か?自分を呼び出した謎の老人(島田正吾)の質問に博士は即答する。「それは直感です」と。

巨大地震が東京を直撃する。この映画最大の見せ場である。繁栄の象徴たる高層ビル群が、東京全域に張り巡らされた高速道路が粉微塵に崩れ落ちる。恐るべき勢いで石油コンビナートが連鎖爆発(中野サンやり過ぎ!)し、首都は瞬く間に灼熱火炎に包まれる。非難し損ねた都民が火ダルマになり、魂消る絶叫を撒き散らしつつ地面をのた打ち回る。死に物狂いで地下鉄構内から逃げ出して来た人々の頭上に無数のガラス片が降り注ぎ、辺り一面は血の海と化す。ゴジラを上回る自然の奇襲攻撃に日本政府は為す術を知らない。自衛隊のヘリ部隊が消火活動の為、緊急出動するが、地獄の業火の前には何の役にも立たない。たちまち消火弾を撃ち尽くし、退却を余儀なくされる。森谷演出と中野特撮が見事融合した破滅と崩壊のスペクタクル。これがスクリーン一杯に展開するのだから物凄い迫力だ。特撮映画は劇場で観なきゃ駄目だと改めて思った。当世主流のCG映像では作り得ない悪夢的光景(適度な嘘臭さが良い)が観客の度肝を抜く。これを観てトラウマを受けた奴が樋口の他にも大勢いるんだろうな。俺もガラスで片目を貫かれた女性の血塗れ映像が脳裏に焼きついていた。初見から随分時間が経っているがやはり怖かった。ひえっ。この瞬間、場内数箇所から悲鳴が漏れたのを確かに聞いた。新たなトラウマの発生である。可哀想に。この地震によって都民360万人の生命が消え去った。テロップには「行方不明を含む」とあるが、恐らく生きている者はほとんどいないだろう。

日本は沈没するぞ!小林博士はマスコミを通じて全国民に訴えかける。パニックが起きるのは承知の上である。それよりも本格的な壊滅現象が始まる前に覚悟を促すのが博士の狙いであった。そんなアホな。自説を笑い飛ばした「御用学者」をぶん殴った小林博士はそれ以降、暫く画面から姿を消す。代わって、主役の座に座るのが内閣総理大臣・丹波哲郎である。ミスター演説俳優たる丹波先生が期待通りの熱演を披露する。堂々たる態度。自信に満ちた言動。まさに一国の宰相に相応しい風格を備えている。東京大震災の途中、夥しい避難民が皇居正門に押し寄せて、機動隊と乱闘に及ぶ凄まじい場面がある。これを見た丹波先生の判断は素早かった。自ら宮内庁に電話を入れて「総理大臣の丹波です!門を開けて下さい!彼らを助けてやって下さい!!」と絶叫する。かくして皇居の門は開いた。丹波先生に頼まれたら天皇だろうが神様だろうが逆らえない。この後も先生は大車輪の活躍を繰り広げる。一人でも多くの国民を救うべく各国を訪問。難民化した日本人の受け入れを懇願する。この説得力。この行動力。いつ発狂してもおかしくない絶望的状況下、その重圧を撥ね退けて前進を続ける丹波総理の雄姿にもののふの魂を感じた。現実の総理大臣もこれぐらい頼もしかったら、我が国も諸外国にナメられずに済むんだけどなあ。丹波総理の強力な後ろ楯たる島田老人も無気味な存在感を発揮している。日本の政財界を影から操る本当の支配者である。その正体はよくわからないが、色々と深読みが可能である。適役を得た島田(劇中年齢100歳!)の妖怪演技も見逃せない。

四国→東北→北海道…日本列島がエリア別に海中に没してゆく。ごごごごご。野獣の唸り声を思わせる轟音が響き渡る。これは日本という名の大型生物の断末魔なのか。大地に巨大な亀裂が走り、奇怪な閃光が閃く。いよいよ日本最期の日がやってきたのだ。大量の火山灰が降り注ぐ島田邸。老人と別れの挨拶を交わした丹波総理は脱出用のヘリに乗り込もうとしていた。彼にはまだ大変な仕事が残されている。世界各地に散った日本人を指揮指導するという重大な使命が。それを果たすまで彼は死ねない。そこへふらりと現れる男がいた。消息を絶っていた小林博士であった。丹波総理は小林の同行と今後の協力を要請するが、博士はその申し出を静かに断るのであった。彼は日本列島と運命を共にすると決めていた。その顔は苦渋と疲労の色に隈取られていた。日本崩壊の危機を誰よりも早く予測していながら、結局それを止める事が出来なかった自分に博士は深く責任を感じているのである。その表情が全てを物語っている。科学者としては感傷的に過ぎる選択であり、行動だと考える向きもあるだろう。だが、誇り高き男は敢えて死を選ぶのであった。もののふの末裔たる博士のラストメッセージを聞き逃さないように。丹波総理と小林博士。どちらも世界に通用する豪傑である。両雄の異なる生き方に俺は大いに共感を覚えた。彼らは健闘した。史上空前の大災厄に敢然と立ち向かった侍達に拍手を送りたい。この映画が公開されてから30年以上が経過している。幸い日本列島は海上に浮いているが、国民の生活は年々逼迫している。失業者と自殺者の増加。頻発する凶悪犯罪。連日上演される政界茶番劇。俺達が気づいていないだけで、日本は既に「沈没」しているのかも知れない。

(2004/08/30)

『華氏911』

先日。マイケル・ムーアの新作『華氏911』を観た。俺の手には負えない部類の映画ではあるが、最初から最後まで面白く観た。

映画前半は現大統領たるジョージ・ブッシュの俗物振りを徹底的に皮肉った痛快篇。日本のTVでは観られないような興味深い映像が続々と登場する。ムーアは膨大量の映像を巧みに編集して、かの大統領を史上最大の喜劇役者に仕立て上げている。洒落っ気たっぷり。ブラックユーモアたっぷり。豪華絢爛たるスーパーワイドショーと言った趣だ。最初は腹を抱えて笑っていたが、ブッシュと宿敵(の筈である)ビンラディン一族との密接な関係が浮かび上がる辺りから、能天気に笑っていられなくなってきた。この映画に盛り込まれている情報が何処まで本当で何処まで嘘なのか…それを確かめる手段も知能も俺は持ち合わせていない。もしこれが真実だとしたら由々しき事である。だが、怒りが込み上げてくる事はなかった。むしろ滑稽に感じた。世界最強を誇る大国のリーダーともあろう者がこの程度の品性しか有していないとは驚きである。無論スケールは桁違いだが、これでは深作映画に登場する吝嗇ヤクザと大差ないじゃないか。途中からブッシュの顔が金子信雄のそれと重なった。

ムーアの勇気と孤軍奮闘は賞賛に値する。しかし、アメリカという怪物国家がここまで単純なシロモノとは、いかな俺でも一寸考え辛い。実際はそんなに甘いものではないだろう。ブッシュとその周辺の醜態が次々と暴露される光景は衝撃的ではあるが、その奥にはまだまだ途轍もない「闇」が潜んでいそうである。ムーアの刃は多分その「闇」には触れていないと思う。仮にそれに接触していたとしたら、真にヤバい情報を入手していたとしたら…ムーアは極秘裏に消去されるだろうし、この映画が世に出る事もなかった筈である。従って我々が『華氏911』という作品を観る事もなかった。観られる訳がない。この映画は「存在しない」のだから。体制側から見れば、この映画は少々危険ではあるが「許容範囲」の内に属しているのだろう。そう考えると、ムーアが釈迦の掌で踊る孫悟空に見えてくる。随分太った孫悟空だが。

前半のコメディ調から一転して、後半はシリアスな反戦映画の色合いが濃くなる。本物の戦場が容赦なくスクリーンに映し出される。米軍の攻撃によって瀕死の重傷を負った民間人。ズタズタに引き裂かれた人間の肉体。気の弱い者が観れば、眼を背けたくなるような映像が続出する。勿論、米軍側も無傷では済まない。彼らの圧倒的有利は揺るがないものの、何が起こるかわからないのが戦場である。激しい抵抗。予想外の反撃。熾烈な戦闘の末、腕や足を失った米軍兵士達。当然戦死者も出る。米兵の焼死体が吊るされる。地獄の様相。これが戦争である。これが殺し合いである。だが、最前線で戦う兵士達ほど愛国心に燃えている者はいない。恐らく財産運用に御熱心なセンセイ方よりも。アメリカの威信を守る為、彼らは命懸けの任務に従事しているのだ。そんな彼らを一体誰が責められようか。御身大切。憂えるのは我が身の事ばかり。本来、ぬるま湯ニッポンにどっぷり浸かった俺などには、彼らの事をとやかく言う資格すらないのである。

映画のクライマックス。ムーア自身が画面に登場して、職場に向うセンセイ達を道端で捉まえる。ムーアの顔を見ただけで足早に走り去る者もいれば、機械的ではあるが一応話に応じる者いる。ムーアは大量のチラシを持参している。兵隊募集のチラシである。ムーアはセンセイ達相手に家族の軍隊入団をしつこく勧誘する。強烈な嫌味である。こんな事をしても心が動かされる者は皆無だろう。ムーアとて百も承知である。承知の上でワザとやっているのである。大真面目で道化役を演じるムーア。痛い所を衝かれた政治家達の困惑の表情。カメラはその一部始終を克明に記録する。ドキュメンタリーの特性を生かした痛烈で忘れ難い見せ場であった。劇中の台詞によれば、アメリカの現職政治家の内、家族を戦場に送り出している者はただ一人だそうである。その際、日本の有名政治家が戦争が始まった途端に息子を自衛隊から除隊させたという噂をふと思い出した。戦争はしたい。物凄くしたい。でも自分は行きたくない。それが本音だ。お偉い連中の偽善の仮面が剥ぎ取られる瞬間。現在、ムーアの周囲は保険会社より派遣された用心棒数名が守りを固めているという。理由は「いつ殺されてもおかしくないから」だそうである。ムーアもまた戦争の真っ只中にいる。今後、この愉快な騎士の切っ先は何処に向けられるのだろうか?興味津々である。彼の武器はカメラと突撃精神のみ。アメリカ映画界のドンキホーテ。強者が弱者を苛めたり利用したりするのは我慢ならないが、弱者が強者に噛みつく姿は面白いし、自然と応援したくなる。拍手したくなる。例え負け戦に終わるとわかっていても。蟷螂の斧と揶揄されようと、猛烈な批判と中傷に晒されようと、この反骨監督は命果てるまで戦い続けるだろう。マイケル・ムーア。男である。

(2004/08/26)

『誰も知らない』

先日。是枝裕和の新作『誰も知らない』を観た。子供は親を選べない。

都内のアパートにYOUとその家族が引っ越してくる所から映画は始まる。男2人女2人の子沢山。その移動手段はかなりユニークである。長男(柳楽優弥)を除く子供達は大型の鞄に忍び込み、他の荷物に紛れて新居に入場する。管理人についた嘘をバレないようにする為の措置である。彼ら4人には戸籍がない。出生届を役所に提出していないのだ。学校にも行っていない。父親もそれぞれ違うらしい。この世にも困ったお母さんに役者としては素人同然のYOUが扮している。意表を衝いた配役。YOUの思わぬ(?)好演が奏功して、強烈なキャラクターに仕上がっている。無責任の塊のような人物だが、不思議なユーモアを帯びており、案外憎めない。年齢不詳の美しさ。ミステリアスな雰囲気。声質も独特で可愛らしい。これでは男どもが寄ってくる訳だ。遊び相手としてはこれほど面白い女性も稀であろう。だが、母親としてはどうだろうか?子供を育てる能力や資格がこの女にあるのか?結局、新生活も長くは続かなかった。またしても男を銜え込んだYOUは何の説明もせずに家を出てしまう。残されたのは僅かな現金と書き置きのみ。強制的に保護者代理を任命されてしまった優弥。都市を舞台に彼ら兄弟の「難民生活」が始まる。

終始不貞腐れた表情の優弥が中々良い。鋭い目つきをしている。羊ではない。狼の目である。不敵な面構えはスクリーンに映える。最初はお坊ちゃん風だったのが、物語の進行と共に「野生化」してゆくのが面白い。これは撮影にじっくり時間をかけた効果であろう。泣き言も言わず、賢しらな行動や言動も見せない優弥。時々、毒づいたり、怒鳴ったりするが、概ね落ち着いている。監督の的確な演技指導の賜物だが、優弥自身に才能がなければこうはゆかない。彼の知名度が然程高くない事が幸いして、非常に新鮮な印象を受ける。本人はサッカー選手になるか俳優道に専念するか随分迷ったそうな。現時点では役者の方に関心が傾いているらしい。現在の日本映画はとにかく駒不足である。タランティーノが認めた男の決意が変らない事を祈りたい。優弥に与えられた最大の使命は食糧の確保である。兄貴として弟や妹を飢えさせる訳にはゆかないのだ。毎日銭勘定ばかりしている。その傍らでは弟や妹が無邪気に遊んでいる。この対比が哀しいような可笑しいような。如何に大人びているとは言え、年齢が年齢だ。母親の代行を務めるには余りに若い。だが意外に悲壮感は希薄である。カメラは優弥を中心に4人のサバイバル生活を丹念に追う。そこには被写体に対する同情や愛着は感じられない。彼らの日常にカメラを無造作に放り込んだような感じだ。ざらついた映像が独特のリアリティを醸し出す事に貢献している。台詞もギリギリまで削られており、無駄な会話はほとんどない。人物の仕種や体の動きでその者の感情や気持を表現している。やや解かり辛い面もあるが、その分、観客は画面を真剣に見詰める事になる。やたらに饒舌な映画よりもこちらの方が含蓄に富んでいる。そう言えば、いい歳こいたジイさんが気恥ずかしい台詞を撒き散らす『死に花』とかいうダサクがあった。あの救いようもない野暮ったさと比べると、まさに雲泥の差である。

食べ盛り、育ち盛りの子供が4人も揃っているのだ。母親から貰った生活費は瞬く間に蒸発。金策も限界に達した。カネがなくなればライフラインも作動しなくなる。電気もガスも水道も止められてしまった。いよいよ餓死の覚悟を決める時が来たか?否、人間、追い詰められると知恵が働くものである。水は近所の公園に汲みに行く。衣服も頭髪も洗い放題である。鉄棒や遊具が即席の物干し台となる。食い物はコンビニだ。別に盗もうという訳ではない。仲良くなった店員に頼んで、賞味期限が切れた弁当を分けてもらうのだ。俺も乞食になったらこの手でいこう。腹が減れば好き嫌いなんて言ってられない。洋食だろうが和食だろうが何でも食べる。貪るように食べる。この逞しさ。したたかさ。温室栽培的なイメージが強い最近の餓鬼達もいざとなればヤルものである。それとも彼らが特別製なのだろうか。何にせよその動物的生命力は評価されても良い。理屈優先のインテリ社員よりもこういう連中の方が緊急時には役に立つ。ウチの会社に入ってくれねえかな。それにしても大家や隣人のYOU家に対する無関心振りには驚かされる。契約の際には話題にも出なかった優弥以外の子供達がアパート内をウロウロしているのである。当の母親はこの数ヶ月帰宅していない。連絡もない。肝心の家賃も払っていない。いくらなんでもこの異常事態に全く気づかないという事が有り得るだろうか?或いは気づいているのに知らん顔を決め込んでいるのか。内政不干渉主義も結構だが、ここまでくると厭きれるのを通り越して、空恐ろしささえ感じる。いや現実はこんなものか。諍いや揉め事は極力避けるのが当世流だからな。大体、俺自身そうじゃないか。誰か1人でも他人を救った事があるのか?お前は?

物語中盤から登校拒否の少女が登場する。過酷なイジメに遭遇した彼女は学校に通わなくなり、いつのまにか優弥達と一緒に行動するようになる。彼らの極貧生活を見かねた彼女は、オヤジを誘惑して(と言ってもカラオケに同行するだけだが)数万円を稼ぎ、それを優弥に渡したりする。その瞬間、優弥が披露した拒絶反応演技がまたリアル。後半に催される重大な「儀式」にも彼女は手を貸す。両者の間に恋愛感情が芽生えるのもそう遠い話ではあるまい。時間が経てば少年も少女も男になり女になる。好い組み合わせだ。現代日本の暗部を象徴する頽廃カップルの誕生。愛し合えば子宝を授かる可能性もある。その時彼らは我が子を置き去りにするだろうか?それとも自分達のような目には遭わせまいと必死の抵抗を試みるだろうか?願わくば後者であって欲しいが。全体的に笑いの要素の少ない重苦しい映画である。だが一箇所だけ笑える場面があった。ファーストフードの店内でYOUと優弥が会話をする場面である。YOUが「学校なんか行かなくても偉くなった人は沢山いるよ」と言うと、優弥が「それって誰?」と具体的な人名を尋ねる。うーん。例えば…息子の質問に考え込んだYOUが弾き出した人物とは?それは劇場でのお楽しみ。表情と言い、口調と言い、2人の様子はまるで本当の親子であった。会話の流れも実に自然で感心させられたが、もしかするとあのシーンは「二大名優」のアドリブ合戦だったのかも知れない。

(2004/08/25)

『やくざの墓場/くちなしの花』

先日。ビデオで『やくざの墓場/くちなしの花』(1976年公開)を観た。主演は渡哲也。監督は深作欣二。同コンビによる『仁義の墓場』(1975年)に比べるとやや見劣りするが、ヴァイタリティに富んだ登場人物とスピード感溢れる展開が楽しめるアウトロー映画の佳作。

「…喧嘩も散々やったけどセンズリもようかいたなあ」「ああ。俺もや。喧嘩の後のアレは気持ちがええもんや」「ほうか。お前もか。ほな俺らはセンズリ兄弟ちゅうわけやな。わはははは」ホテルの一室。マスターベーション談義で盛り上がっている傷だらけの男二人。どちらもただならぬ殺気を秘めている。ヤクザの幹部(梅宮辰夫)と暴力刑事(渡哲也)である。対立する二大勢力。両陣営の代表選手である辰夫と哲也は幾度か鍔迫り合いを繰り返していたが、この夜、ついに全面対決に及んだのである。互いに持てる能力を出し尽くした壮絶な戦いであった。いつのまにか険悪なムードは消えており、そこには友情めいた和やかな空気が流れていた。辰夫は外に待たせておいた娼婦を部屋の中に招じ入れ「今夜はお祭りや」などと絶叫しつつ、乱交パーティに突入する。最初は困惑気味の哲也ではあったが、野獣的欲望を抑える事は出来ず、激しいセックスに埋没する。これがバレたらタダでは済まない。だが、行き場を失った哲也には全てがどうでも良くなっていた。クビにしたいなら好きにしろ。数々の矛盾を抱える警察機構に哲也は絶望しており、組織の方も彼の存在を煙たがっている。何故こんな事になってしまったのか。

警官になれば喧嘩に強くなれる。それが哲也の志望動機であった。主人公が少しも正義の味方じゃないところが深作らしい。映画の冒頭から哲也バイオレンスが炸裂。この男には出世だの名誉だのに対する意欲や執着は微塵もない。穏便に済ませられる場合でも敢えて暴力を使っているような節がある。変装や狂言を弄してヤクザを罠にハメる事など朝飯前。悪党を捕まえる為には手段は選べねえ。それが哲也の理論(言い訳?)であろうか。相手が抵抗してくれば待ってましたとばかりにブチのめし、取調室で生意気な台詞を吐くと、徹底的に殴り倒す。暴力こそがこの男の唯一の表現方法なのかも知れない。趣味と実益を兼ねた理想の職業。ボコボコに殴られる方はたまったもんじゃないが。上司に呼び出されてこっ酷く叱られても哲也に反省の色は見えない。説教の最中、左の掌に右の拳をバシバシ叩きつけるのが哲也の癖である。それをやめろ!と怒鳴られるが哲也は無言のまま。鋭い視線を宙に走らせるのみ。オレ流捜査を日々繰り広げる哲也だが、次第に越える事の出来ない「壁」の存在を感じるようになる。警察上層部と有力ヤクザの癒着。警察署長がヤクザの宴会やパーティに招待されたり、出席したり。そんな異常行為が半ば公然と行われている。暴力至上主義ではあるが、曲がった事が大嫌いな哲也には信じ難い現象であり、受け入れ難い体質であった。どんなに哲也が頑張っても警察と仲良し(?)のヤクザには決定的ダメージを与える事は不可能なのだ。上の連中が裏から手を回してそれを防いでしまうからである。この稼業に行き詰まりを感じる哲也。

警察と同盟を結んで存続するヤクザもあれば、虫ケラのように踏み潰されるヤクザもある。言うまでもないが辰夫は後者である。そんな辰夫と兄弟杯を交わしてしまう哲也。ヤクザの義兄弟になる刑事というのも前代未聞だが「俺は生粋の朝鮮人なんや」という辰夫の告白が哲也を動かしたのだ。哀しい事だが、人間という生き物は他者を差別する事が大好きである。国籍だの生い立ちだの身体的特徴だのという下らない理由でその者を迫害したり苛めたりするのが大好きである。状況は若干異なるものの、辰夫も哲也も子供の頃から激しい差別攻撃を体験している。過酷な少年時代を過した彼らの間に「戦友意識」が芽生えたとしても何ら不思議ではない。辰夫の杯を哲也が謹んで受ける場面が良い。辰夫&哲也の好演を引き出した深作演出が鮮やかであり、この映画最大の見せ場に仕上がっている。男同士、人間同士の誓い。組織間の薄汚い密約とは好対照の潔さ、美しさを感じさせる。甘ったれた人生をダラダラ送ってきた俺ですら魂が震える思いがした。いや「だからこそ」と言うべきか。寝返り横行、裏切り上等の深作映画としては珍しい「仁義ある」場面。娯楽映画の中にシリアスな題材をさり気なく盛り込んでいる笠原和夫の脚本も見事である。

哲也を慕う梶芽衣子の健気さも特筆値する。美貌の奥に隠された残酷な運命。時として哲也を殺しかねない激しさを秘めており、孤立無援、四面楚歌の一匹狼には相応しい女である。ドウドウと波が押し寄せる海岸を二人が酒を酌み交わしながら会話を重ねる場面が心に残る。互いに身も心もズタズタの状態。それでも彼らは生きようとする。この逞しさ。この生命力。女アウトロー芽衣子の魅力が全篇に迸る。金子信雄、川谷拓三、成田三樹夫、室田日出男…一癖も二癖もある深作映画の常連俳優が脇を固めており、この面子が揃って警察側の人間を演じているのが面白い。秀逸なパロディである。一応それっぽい格好はしているが、どう見てもヤクザであり「所詮、ヤクザも警察も大差ないんや。紙一重なんや」という深作の主張が聞こえてきそうである。小林稔待や八名信夫や今井健二は相変わらずヤクザを演じていたが。そんな中、特別出演の大島渚(役は警察本部長)が異様な存在感を示している。今にも舌を噛みそうな台詞回しが妙に印象的である。ここまで稚拙だと逆に笑ってしまう。素人芝居の極みであり、これなら角川春樹の方がまだマシであろう。名監督が必ずしも名優たりえない事を身を持って教えてくれる。どういう経緯で出演が決まったのかは不明だが、大島としては余り思い出したくない過去ではないだろうか。映画のエンディングを飾るのは哲也が絶唱する『くちなしの花』である。これが映画の内容と全然合致していない。そもそも監督自身、主題歌に映画を合わせる気など毛頭ないのだろう。観ている方としては違和感は拭えないが、これも深作映画特有の豪快さ(いい加減さ?)という事で納得するしか方法があるまい。

(2004/08/18)

『座頭市あばれ火祭り』

先日。ビデオで『座頭市あばれ火祭り』(1970年公開)を観た。座頭市がダークサイドの巨魁と対決する死闘篇。

相変わらずの放浪生活。足の向くまま。気の向くまま。好きな時に食い。好きな時に寝る。財布の中身が寂しくなれば手近の賭場でひと稼ぎ。適所で弱者を苛める悪党を叩き潰すのもヒーローのお仕事。男なら一度は憧れるであろう自由闊達な暮らし振りである。ある宿場町で座頭市は関八州の裏社会を束ねる大物と接触する。その男は《闇公方》と呼ばれていた。多くの有名ヤクザを傘下におさめており、男の勢力は止まる事を知らない。ヤクザであろうとカタギであろうと多額の上納金を要求する。逆らったり、異議を唱えたりする奴は容赦しない。一族郎党皆殺し。冷酷無惨な性格ではあるが、他を威圧するカリスマ性の持主でもあり、大組織のボスとしての資格&迫力を有している。座頭市同様《闇公方》は盲目という設定。この辺りは脚本も担当するカツシンのアイディアだろうか。盲人にして超人。そんな両雄が邂逅を果たした。相手が誰であろうと言いたい事はキッチリ言う座頭市。市の言葉の中には《闇公方》に対する痛烈な批判が含まれている。周囲を固める親分衆はヒヤヒヤものだ。この瞬間《闇公方》の中に猛烈な殺意が芽生えた。座頭市ヲ殺ス。目障りな人間は消えて貰う。だが、その感情は表には出さない。男の顔には微笑さえ浮んでいる。この程度の芸当は彼にしてみれば容易い事だろう。その夜に設けられた幹部会議では、座頭市抹殺の是非を問う投票が行われた。反対一票、賛成多数。無益な殺生は極力避けるのが座頭市のスタイルだが、売られた喧嘩は買うしかねえ。襲来する刺客団を必殺の刃が迎え撃つ。アウトロー対ファミリー。血みどろの抗争。ところで、座頭市排除に反対した親分はどんな人物だったのだろうか?一寸気になるが、登場はしなかった。殺されたのかな。

脇役が豪華な映画である。これもカツシンの力であろうか。仲代達矢&ピーター。両者とも世界のクロサワに認められた才能だ。この映画では二人の共演場面はないのだが。仲代が座頭市を追跡する謎めいた剣豪に扮している。仲代は《闇公方》とは面識もないし、その用心棒でもない。仲代は独特の行動原理によって市の首を狙うのである。劇中、彼に関する説明は極端に少ないが、どうやらエリート武士であった事は確かなようだ。地位も名誉も投げ捨てて彼は野に下った。何故か?理由は簡単。細君(吉行和子)を殺す為である。吉行は相当な淫乱体質だったらしく、仲代に秘密で(当り前だ)数多の男どもと交わり続けた。潔癖症の仲代には到底許せない所業であった。逃げる吉行、追う仲代。凶暴な追撃マシンと化した仲代は吉行を斬り殺すだけでは物足りなくなったのか、妻と寝た男もついでにブッ殺す事にしたのである。なんという恐ろしい男であろうか。皆さん。人妻に手を出すとえらい事になりますぜ。この世の果てまで追いかけられますぜ。覚えのある人は御用心を。市を最終目標と定めた仲代は、その決着に異常な執念を燃やす。だが、場合によっては市の助太刀を買って出る事もある。座頭市を仕留めるのは俺の役目だと「勝手に」思い込んでいるからである。怖いねえ。狂ってますねえ。一方、ヤクザ志願の美少年ピーター(この時18歳)は妖しい色気で座頭市に迫る。キケンな美しさで市を盛んに誘惑するピーター。さしもの凄腕剣士もタジタジの様子。我らがヒーローは女好きではあるが「その気」は全くないのだ。両性具有のキャラクターがこの役者の魅力だと思うが、若きピーターの妖艶さには強烈な印象を受ける。このエロい雰囲気はタダモノではない。私生活でもさぞ「色んな事」があったんでしょうな。余談になるが、ピーターは『影武者』(1980年)のオーディションを受けている。その際、黒澤明は彼にこう言ったそうである。「残念だけど、この映画には君の演じる役はない。でも次回作として考えている時代劇には君にぴったりの役がある。だから、それまで綺麗にいて欲しい」と。

仲代、ピーターも面白いが、この映画の白眉はやはり《闇公方》に扮する森雅之である。この役は「もう一人の座頭市」とも言える人物。これをセコい役者が演じては話にならない。カツシンに比肩するアクの強さを誇る俳優でなくてはならない。森はその期待に見事応えた。彼もまた黒澤経験者であり、その演技力、その存在感は圧倒的だ。貴族的な風貌。押し潰したような声。貫禄たっぷりの演技で魅せてくれる。今や《闇公方》として絶大なる権力を振るう森だが、恐らく下積み時代には心ない連中から「めくらめくら」と蔑まれたのではないか。生来のハンディキャップ、周囲の差別意識を跳ね除けてギャングスターの座に就いたのだから大したものである。こういう人物は大抵の窮地にはビクともしない胆力が備わっているものだ。殺すと決めれば絶対に殺す。座頭市を誘き出す為にわざわざ点字の挑戦状を送りつけたり、二重三重の罠を邸内に仕込んだりと芸が細かい。更に安全地帯でのほほんと控えているのは性に合わないのか、戦闘に際しては自ら陣頭指揮を執っている。彼はこのやり方で数々のライバルを蹴落としてきたんだろうな。策士の頭脳に加えて剣術の腕前にも秀でているという万能型。もし侍の家に生まれていれば立派な武将に成長したに違いない。主役を食うような敵役の存在は嫌でも映画を盛り上げてくれる。もしかしたら座頭市がやられちゃうんじゃないか。次回から『闇公方』という映画が始まるんじゃないか。そんな錯覚さえ抱かせる名悪役であった。

注目の場面をふたつ。映画中盤のお風呂屋さんで繰り広げられるチャンバラが痛快である。気持ち好く湯舟に浸かっていた座頭市に暗殺集団が斬りかかってくる。愛用の仕込み杖は脱衣場のロッカーの中だ。やばいっ。市は咄嗟に敵の日本刀を奪って逆襲に転じる。血飛沫が飛び、浴槽が真紅に染まる。浴場内なので市は当然丸裸の状態である。局部を風呂桶で隠しつつ敵を斬り伏せる市の姿がユーモラスである。凄惨さと滑稽味が融合したとても面白い剣戟であった。こんなユニークな立ち廻りがこなせるのはカツシンをおいて他にはいるまい。終盤の座頭市と《闇公方》が碁を打つ場面も興味深い。盲人同士の対局なのだから碁盤も碁石も必要ないような気もするが、観客の事を考えるとそう言った小道具があった方が解り易い。それ故の配慮だろうか。突然《闇公方》が盤上の碁石を指で弾き飛ばす辺りは無気味な光景。わはははは。わはははは。最後に二大怪物は茶を啜りながら意味もなく呵々大笑する。このシュールな場面は即興演出を得意とするカツシンが手掛けたものかも知れない。あくまでも俺の想像だが。ここだけが他の場面とトーンが明らかに違うのである。カツシンワールドに接する度に彼の日本人離れしたヴァイタリティに驚かされる。この才能は国際的にも充分通用するのではないか。現にかのクエンティン・タランティーノも彼の大ファンだそうである。カツシンの『影武者』降板は日本映画の発展にとって最大級の痛恨事であった。黒澤映画出演は世界舞台に踊り出る最速の方法だったからである。天才と天才の間を巧く取り持つ参謀の不在が悔やまれる。だが「たら」だの「れば」だのを言い出したら歴史はキリがないので、この話題はここらで止めにしよう。

(2004/08/14)

『地獄』(神代辰巳版)

先日。妙な映画を観た。神代辰巳の『地獄』(1979年公開)である。監督はロマンポルノの大家として鳴らした神代。出演は原田美枝子、林隆三、田中邦衛、石橋蓮司、岸田今日子…という結構豪華な顔触れ。この面子が揃えば何か面白い事をやってくれそうだと期待してしまうが、実際は奇々怪々なゲテモノ映画であった。まあ。『地獄』なんだから仕様がないが。この題名で芸術色豊かな文芸映画が始まったらおかしいもんな。そうだよな。なにしろ『地獄』だもんな。わはははは。長年この業界で食っていれば、監督にせよ俳優にせよ、作った事や出演した事を後悔する仕事が一本や二本はあるものである。この映画はどうやらその類のようだ。出来れば抹殺したい過去。自分のフィルモグラフィから削除したい作品。だが、今更悔やんでももう遅い。映画は封切られ、後にソフト化され、そして今、俺の手元にある。映画人にとって作品選びが如何に大切かがよくわかる。そう言えば、真田広之が『宇宙からのメッセージ』(1978年)を「なかった事」にしたいみたいだけど、そうは問屋が卸さねえぞ。駄目駄目。俺は君の「活躍」の一部始終を肉眼で確認してしまったのだ。俺の記憶は俺が死ぬまで消えないのだ。わはははは。それに、無理に演技派を気取っている現在の君よりも、無我夢中、体を張って映画に臨んでいた頃の君の方が断然カッコいいと思うよ。

さて『地獄』に話を戻すが、この映画の登場人物は全員気が狂っている!特に美枝子のキ××イ演技は他の追随を許さない。なぶり殺しにされた母親の怨念を背負って生まれてきた女である。そんな訳でオカルト現象に巻き込まれる事は日常茶飯。車に乗れば(因みに美枝子の職業はカーレーサーだ)生首が空から降ってくるわ、電車に乗れば非常口が勝手に開いて、外に吹き飛ばされそうになるわ、墓地に訪れれば首吊り状態になるわで、行く先々で大変な騒ぎとなる。時々、地獄の底でのた打ち回る母親からテレパシーが送られてくる。その度に美枝子は文字通り「何かにとり憑かれた」ような超常演技を披露してくれる。まさにシャイニング。苦悶の表情。目は血走り、髪の毛は逆立ち、台詞は力が入り過ぎていて何を言っているのか全然わからない。彼女の強靭なる演技力の前には特殊効果もCGも不要なのである。この映画、エゴの塊みたいな連中が不愉快極まるやり取りを2時間近くも繰り広げてくれる。異常なアクの強さに観ている側も気分が悪くなってくる。映画の前半、邦衛が派手にゲロを撒き散らしてくれるが、吐きたいのはこちらの方だぜ。美枝子の地道な活動と蓮司が起こした土砂崩れのお陰で主要人物は一人残らず死に絶え、皆まとめて地獄に堕ちる。

各々の罪の重さや種類をチェックされた亡者は、次に閻魔大王(金子信雄!)の宮殿に引き摺り出される。美枝子を見た大王は「何か希望はあるか?」と問う。地獄に落とされて希望もへったくれもないもんだが、美枝子は「お母さんに会いたいです」などと答える。意外にもその要求は叶えられた。大王の配下たる天本英世が「そこ」まで案内してくれるというのだ。適材適所。地獄巡りのガイド役としてこれ以上に相応しい者は考えられない。死神博士の解説付き。楽しい楽しいインフェルノツアーの始まりだぜ。ここからは特撮監督・矢島信夫の腕の見せ所だ。全体的に健闘していると思う。火炎地獄や釜茹で地獄の場面も良いし、亡者を擂り潰す巨大石臼の場面などトラウマになりかねない気味の悪さを誇っている。餓鬼の頃に散々愕かされた遊園地のお化け屋敷にも似た雰囲気。ただ、クライマックス(だよな?)たる母子対面シーンがヨレヨレの出来なので陰々滅々、意気消沈。言いたくないけど、あれは笑うしかないでしょう。さては予算も意欲も尽き果てたな。訳のわからなさ「だけ」は『2001年宇宙の旅』(1968年)級というラストシーンも憤懣ものだ。

日本の地獄はヴァラエティに富んでいる。一口に「地獄」と言ってもその構造は複雑だ。国産地獄は@等活地獄A黒縄地獄B衆合地獄C叫喚地獄D大叫喚地獄E焦熱地獄F大焦熱地獄G阿鼻地獄の合計八地獄で構成されており、苛烈酷烈な刑罰と獰猛な獄卒軍団が待ち受けている。@では亡者同士が延々と殺し合いをさせられる。Aでは煮え滾る釜の中へ突き落とされたり、鋸や刀でバラバラに切り刻まれる。Bでは鉄の山に潰されたり、鋼鉄製のケダモノに食い殺される。Cではあらゆる病気に苦しめられ、灼熱の炎で焼き殺される。Dでは大型の金鋏で舌を引き抜かれたり、両眼を潰されたりする。Eは火責め専門の特別地獄。火あぶりにされたり、炎を吐き散らす怪蛇に生きながら食われる。Fでは溶岩を思わせる鉄の湯をぶっかけられたり、生きたまま全身の皮を剥がれたりする。Gは究極地獄。ここに堕ちた亡者(仏教的には最悪の罪人)を84000の刑罰が大歓迎してくれる…と言った具合である。よくもまあ、これだけ残忍残酷な事が考えられるものである。先人の奔放なる想像力には感心するやら厭きれるやら。これを完全映像化するのは現在の技術を持ってしても至難であろう。地獄について書いた文献によれば「蝿や蟻など、虫一匹殺しても堕ちる」とある。と言う事は、我々人類はほぼ100%の確率で地獄のお世話になるという訳だ。如何なる人間もいずれは死ぬ。俺もあんたも免れないし、逃げられない。でも、閻魔宮で信雄さんに裁かれるのはイヤやなあ。

この世に『地獄』と冠された映画は三つある。神代の他にも中川信夫(怪談映画の名手)と石井輝男(カルト映画の巨星)が同じ題材に取り組んでいる。俺としては最も娯楽性の高い石井版(1999年)が好きである。獄卒の造形が秀逸だし、現実の犯罪者(もしくは容疑者)のそっくりさんが多数登場するのも面白い。ツトム君やマスミさんやアサハラ教祖が地獄でどんな目に遭わされているのかは、観てのお楽しみである。石井の怒りは単純ではあるが、被害者よりも加害者の方が優遇(?)される現代日本をグサリと抉る鋭利さを秘めている。映画終盤には石井の盟友たる丹波哲郎先生がお出ましになり、抱腹絶倒のチャンバラを展開。大いに楽しませてくれる。さあ。そこのお兄さん。名作傑作ばかり観てないで、たまにはこういう映画も試してみなよ。案外美味しいかも知れないよ。地獄地獄地獄。但し一本だけにしておきな。三本いっしょに食ったりしたら、それこそ頭がおかしくなっちゃうよ。突然思い出したけど、神代版のパッケージにイカすコピーがついてたな。そう。「堕ちる前に見ておけ」ってね。

(2004/08/11)

『太陽を盗んだ男』

先日。ビデオで『太陽を盗んだ男』(1979年公開)を観た。主演は沢田研二&菅原文太。

主人公のジュリーは中学校で理科を教えている。四六時中ガムを噛んでいるので、生徒間では《風船ガム》の愛称で親しまれている。仕事に対する情熱はまるで感じられない。全くやる気がない。彼にとって教職とは生活費を得る手段に過ぎないのである。定刻が来ると六畳一間のアパートに直行する。時間が惜しい。趣味に忙しいのだ。そう。彼は極めてユニークな趣味に没頭している。この世には多種多彩な趣味が存在するが、彼のそれは魅力と言い規模と言い危険度と言い群を抜いている。原子爆弾である。冗談でもなければ妄想でもない。この男は持てる能力の全てを注ぎ込んで原爆製造に取り組んでいるのだ。仲間はいない。一匹狼である。計画の立案、材料の調達&加工、組立作業まで、全部自分でやる。薄給の中学教師に秘密基地を建てる余裕などある筈がない。だから自宅でやる。管理人や他の住民がこれを知ったら、腹を抱えて笑い転げるか、腰を抜かすか、もしくは発狂するだろう。幸いにしてジュリーの壮大なる作戦は誰にも気づかれていない。彼は『鉄腕アトム』の主題歌を口ずさみつつ最強最悪の爆弾造りに日夜勤しむのであった。今尚、被爆の影響で苦しんでいる方が大勢おられる事を考えると、甚だ不謹慎な描写が続くが、映画とは元来アブなくて挑発的な性格を有している。どうか御勘弁を。個人が原爆を所有したらどうなるか。それは《神》に近づく最良の方法ではないのか。斬新なアイディア。奇想天外な物語。日本映画史上、類を見ない娯楽活劇の誕生だ。

劇中に登場する科学者(佐藤慶)の説明によれば、原子爆弾を製造する為に必要な資材は、一般人でも容易に入手出来るそうである。ただ、秋葉原にもコンビニにも東急ハンズにも売っていないものがある。原爆の燃料だ。プルトニウムである。肝心の燃料がなければ折角の爆弾もガラクタ同然だ。プルトニウムがある場所となると…。そんな訳で、ジュリーは東海村の原子力発電所に単身で忍び込みその強奪に成功してしまう。この男、外見はナヨっとしているが、超人的な身体能力を備えている。度胸もあるし知能指数も高い。だが、職場では昼行灯で通している。賢い選択と言えるかも知れない。中村主水や吉良吉影の例を挙げるまでもなく、秘策や優秀な能力を隠す為にはバカのフリをするのが一番だからである。でも、生徒相手に「原子爆弾の造り方」を講義したりしちゃ駄目だって。これをキッカケに計画が瓦解する可能性もある。或いは、稀有な趣味を見せびらかしたいという気持があるのかな。何にせよ、歴史的犯罪者としては失格行為である。それにしても、彼は何故にこの大胆不敵な計画に着手したのであろうか。映画は主人公の正体について多くを語ろうとしない。経歴も家族も友人関係も大半が謎に包まれている。しかし、そのお陰であれこれと想像を巡らせる楽しみも生まれてくる訳である。中途半端な秘密を暴露するぐらいならこの方が賢明な処置と言えよう。神秘的で何処か茶目っ気のある知能犯。女装やオカマ芝居がサマになる男優なんて何人もいない。主人公の個性とジュリーの持味がピタリと合致して、忘れ難い強烈なキャラクターに仕上がっている。脚本と配役に恵まれれば、役者は実力以上の力を発揮する事が可能となるのだ。

空前絶後、前代未聞の大犯罪に立ち向かう鬼刑事に菅原文太。正義感の塊のような男である。宿願の究極兵器を完成させたジュリーは日本政府に無理難題を突きつける。その交渉に当たるのが文太だ。ひとたび爆弾が作動すれば東京は地上から消し飛ぶ。都民全員が人質に取られているようなものである。全都民の生命と財産は彼の双肩にかかっているのだ。並の神経ではとても対処出来ない難解な事件である。それでも文太は冷静沈着な態度で犯人と対決する。その胆力は尊敬に値する。絶対不利な状況だが、もし相手がスキを見せれば、即座に逆襲に転じるしたたかさも備えている。捜査中に知り合った美人DJ(池上季実子)をデートに誘う余裕もある。更に強靭な反骨精神の持主でもある。自分の家族をこっそり「疎開」させた上司(北村和夫)を痛烈に皮肉る場面が印象深い。もののふの末裔がここにもいた。文太と言うと、ギャングスター、アウトロー俳優というイメージが強いが、こういう落ち着いた役が案外似合う。文太としても会心の名演技であり、彼の長い役者人生の中でも最高級の仕事と言えるだろう。武道館近辺のビル屋上で繰り広げられる決戦場面も手に汗握る迫力であった。加えて、ジュリーと文太の邂逅の機会を作った伊藤雄之助の異常者演技も凄い。出演陣の好演怪演に加えて《天皇》や《ローリング・ストーンズ》と言った画面には登場しない(させられない?)大スターの使い方も実に巧みである。

アホみたいな主役がアホみたいな悪役と戦う腑抜けアクションよりも一億倍面白い映画だが、公開当時の興行成績は散々だったそうな。作品の質と金儲けは必ずしも比例しない。それが映画の特徴であり、残酷さでもある。どんなに才能があっても、ある程度の数字を稼がなくては次の仕事は回ってこない。映画監督という稼業の辛いところである。いや、これはあらゆる職業に言える事か。この映画の監督たる長谷川和彦は東大出身のエリートにして堂々たる体躯を誇る逸材だ。業界内では通称《ゴジ》と呼ばれている。学生時代、アメフトの試合における彼の姿がゴジラに酷似していた事がその理由だそうである。そう言えば、鈴木清順の『夢二』(1991年)に役者として参加してたな。ゴジラが放つ原爆活劇(そんなジャンルあるのか?)の傑作。

(2004/08/08)

『座頭市御用旅』

先日。ビデオで『座頭市御用旅』(1972年公開)を観た。シリーズ屈指の傑作…という訳ではないが、勝新太郎、森繁久彌、三國連太郎という日本映画史に名を刻む三豪傑が顔を揃える豪華篇。それだけでも一見の価値はあるだろう。今回の座頭市はやたらに冤罪をかけられる。どうにか第一の濡れ衣を晴らしたかと思ったら、すぐさま第二の濡れ衣を着せられてしまうと言った具合だ。容貌にせよコスチュームにせよ、強烈な印象を放つ男だけに厄介である。何処に逃げようが何処に隠れようがすぐに見つかってしまう。おまけに市は全国指名手配のお尋ね者である。彼の人相書が街道の要所要所に設置されている有様だ。代官所に訴えてアブク銭を稼ごうと考える輩も多い。因みに市を捕まえた者には二十両の賞金が贈られるそうである。

映画の冒頭から座頭市は大変な事に巻き込まれる。見知らぬ女の出産である。女はヤクザ者に重傷を負わされており、瀕死の状態だ。母体が生きている内に赤ん坊を救い出さなくてはならない。やむなく市は女の股の間に顔を突っ込む。物凄い格好だが「大丈夫です。大丈夫です。あっしは目が見えないから大丈夫です」と汗だくで弁明する。修羅場に盛り込まれたユーモアが楽しい。おぎゃあ。おぎゃあ。子供は助かったが、母親は死んでしまった。まさか生まれたばかりの赤ちゃんを叢に捨てておく訳にもいかず、市は父親の元に子供を届けてやる事にする。唯一の手掛かりは母親の今際の言葉のみ。道中、如何にも頭の悪そうなチンピラに「子連れの盲かよ」と嫌がらせを受けるが、市は余裕の表情で返り討ちにする。こういう手合いの扱いには慣れている。神業に等しい反撃振りだ。赤ちゃんを抱いてひょこひょこ移動する市の姿はユーモラスな雰囲気が漂う。この子は自分が最強の護衛に守られている事を本能的に感じているのか、泣きもせず、安心し切った様子ですやすやと眠っている。それにしてもこの座頭市ほどユニークな時代劇ヒーローも稀である。俺は一応五体満足なので、盲目の辛さは理解する事が出来ない。だが、弱者ゆえに虐げられる苦しみは解るつもりである。通常なら弱者のグループに属する筈の市が、強い奴や威張り腐っている奴を叩きのめしたり、ブッ殺したりする瞬間の爽快感。このカタルシスがたまらない。都合が悪くなると葵の御紋をちらつかせる偽善者どもに俺は用がない。やはり娯楽時代劇の主人公はアウトローが良い。天涯孤独なら更に良い。帰る家もなければ故郷もない。そんな過酷な境遇が映画に緊迫感をもたらし、観る者の感情移入を煽るのである。加えて座頭市の言葉遣いの丁寧さ。他人へのきめ細かい配慮はどうだ。真の勇者。真に強い者は本当の優しさを備えているものだ。俺の周囲には、教養はおろか最低の礼儀すら持ち合わせていない連中がウヨウヨしているが、奴らも市の謙虚な態度を少しは見習うべきである。おい。知らん顔をするな。お前さんの事を言っているんだぜ。

目的地に到着した座頭市は早速赤ん坊の父親を探す。かの宿場町は老練な目明し(森繁久彌)が睨みを利かせており、それなりの平穏が保たれていた。兇状持ちと保安官。普通なら敵同士の関係だが、年齢を感じさせない気骨と太っ腹を備える森繁に市は共感を覚え、一方の森繁も市の腕と度胸を大層買っている。ただ森繁にも悩みがある。親父の後を継ぐでもなく、毎日悪さばかり働く馬鹿息子(酒井修)の存在である。この世には、親父が偉大であればあるほど、その息子は出来が悪いという法則でもあるらしい。どの時代、どの世界でも後継者問題は深刻なようだ。ダークパワーの侵略。どけどけどけ。餓鬼ども。踏み殺すぞ。どけどけえ。平和な町の空気が一瞬にしてキナ臭くなる。大物ヤクザ(三國連太郎)が手勢を率いて乗り込んできたのだ。森繁は毅然たる態度でこの難敵に臨むが、そう簡単に引き下がる相手ではない。崇高な精神も無法集団の前には屈するしかないのだろうか。この映画最大の悪役たる連太郎親分は凄味満点、迫力充分だ。この男は自分の側近すら信用していないのではないか。登場から座頭市に斬り殺されるラストまでずーっと苦虫を噛み潰したような顔をしている。まあ、死ぬ時に機嫌の良い奴もいないだろうが。疑り深い眼差し。ボソボソと何を言っているのか解らないような台詞回し。時折浮かべる嗜虐的な笑い。まさに一分のスキもない徹底たる悪党振りである。三國は人間の暗黒面を表現させると抜群に巧い。こんな恐ろしい男が攻め込んできたのだからこの町の住民も不運である。並のヒーローでは連太郎親分に太刀打ち出来まい。逆に食い殺されるのがオチだろう。このバケモノを退治可能なのは我らが座頭市だけだ。桁外れのエネルギー量を誇る二大怪物。両者間には特に因縁はないが、狭い町内を行き来しているのだから激突しない方がおかしい。狡猾ヤクザが勝つか盲目の剣士が勝つか、戦いの銅鑼が今、鳴り響く。

連太郎親分に対座頭市要員として雇われた凄腕浪人(高橋悦史)も良い味を出している。弱虫や腰抜けを幾ら集めたところで座頭市には勝てんぞ。この言葉に激怒した他の用心棒候補が襲いかかってくるが、それをことごとく斬り伏せる高橋。電光石火の早業にさしもの親分も吃驚だ。腕も立つが口も立つ。そんな高橋の宿願は「世界で一番強い奴と戦う事」らしい。物語の中盤、浪人と市が擦れ違いざまに斬り合う場面が素晴らしい。強烈な殺気が迸り、練達の刃が火花を散らす。これは前哨戦であり、両雄の本格的な勝負は最終盤に持ち越される。生涯最良の好敵手に遭遇した浪人はその喜びが隠せない。この男にとっては「強い」という事がなにものにも勝る価値基準なのである。相手の身分だの地位だのは興味の範疇には入らないのだ。そういう意味では極めて公平な人物と言えるだろう。まさに快男児であり、武芸者である。剣の道に生きる男の清々しさ(ちょっぴり狂気が含まれている)を高橋が豪快に演じている。余談になるが、話し相手がやって来るまで自宅に引き篭もるような輩は侍でもなければ戦士でもない。ただの剣術おたくである。その辺りを混同しないように。悪役敵役が元気な映画は大抵面白い。この作品はその典型的な例である。映画の最後を締める巨大な「完」の文字(スクリーンからはみ出そうだぜ)も男らしくてイカす。アクの強い野郎どもが血みどろの戦いを繰り広げる中、紅一点の大谷直子が清潔な魅力を発揮して、物語を更に奥深いものにしている。娯楽性&活劇性、映画の魅力に富んだカツシンワールド。その探索が当分の間、続きそうな気配である。

(2004/08/05)

『緋牡丹博徒』

先日。深夜放送で『緋牡丹博徒』(1968年公開)を観た。全8作に及ぶ「お竜さんのサーガ」はここから始まった。

九州矢野組の長女・竜子(藤純子)はカタギの息子との結婚が決まっていた。だが、婚礼直前に父親が何者かに殺されてしまう。ボスを失った矢野組は縄張りの大半を他の組に奪われ、組織は解散に追い込まれる。この凶事に伴い竜子の嫁入りも御破算となった。それから数年後、竜子は緋牡丹の刺青を背負う女博徒《緋牡丹のお竜》に変身して旅を続けていた。復讐の旅である。仇敵を討ち果たすという宿願を胸に秘め、修羅街道をまっしぐら。犯人に繋がる手掛かりはただひとつ。犯行現場に落ちていた財布である。それだけだ。気の遠くなるような話である。後になって、舎弟の一人が犯人の顔を目撃していた事がわかるのだが、奇跡的な偶然が重ならない限り、標的に辿り着く事は不可能であろう。だが、肝の据わったお竜さんは余り焦りは感じていないようだ。今夜も田舎の賭場に顔を出し、イカサマを見破って、壺振りの指を詰めさせたりしている。お竜さんは度胸もあるし、義侠心に富んでいる。サイコロを自在にコントロールする能力も備えている。そこらの自称渡世人とは格が違う。しかし、幾ら修行を積んだとしても、喧嘩の技量に関しては自ずと限界がある。ドスの扱いは免許皆伝の腕前だが、重武装した凶暴ヤクザに囲まれると苦戦は必至だ。でも大丈夫である。お竜さんがピンチに陥ると、何処からともなく高倉健が現れて、与太者をぶっ飛ばしてくれるからである。

世界一着流しが似合う男。お竜さんの守護神たる役割を精力的にこなす高倉健。健さんは彼女を《緋牡丹のお竜》ではなく、矢野竜子→か弱い女性→守るべき存在として認識している。美形の女博徒として、各地で大活躍を繰り広げる竜子。大抵の連中はその凛々しさ、気風の良さに惚れ込み、拍手喝采を送っている。だが、健さんは見抜いている。彼女の本質を。彼女が無理をしている事を。彼女が血腥いヤクザの世界には最も不向きな人間である事を。勇ましく啖呵を切ったり、抗争の仲裁を買って出たり…精一杯《緋牡丹のお竜》を演じている竜子の姿は、博徒稼業を隅から隅まで熟知している健さんの眼には、途轍もなく不憫に映るのである。彼女の手を血で穢したくねえ。汚い仕事は俺がやる。俺が守ってやらなくては。健さんの献身的行動の原動力はその辺にあると考えられる。それだけではない。健さんは竜子に対して恋愛感情を抱いている。だから一層熱心になる訳だ。勿論「好き」だの「愛してる」だの「結婚してくれ」だのというふやけた台詞を男の中の男たる健さんが吐ける筈がない。世界の中心になど死んでも行く筈がない。自分の気持ちは行動で示すというのが健さんのやり方なのである。竜子も健さんの感情には多分気づいていると思うが、彼女もその事をいちいち口に出したりはしない。オトナの恋愛に言葉は不要だ。空疎な美辞麗句を羅列したところで一体どうなるというのか。互いの気持ちを定期的に確認しなくてはならないような恋愛は真の恋愛とは呼べないのである。まあ、俺自身はオトナじゃないので偉そうな事は言えないが。

大木実が憎まれ役を一身に引き受けている。健さんの義兄弟であり、主人公最大の敵でもある。この映画の時代設定は明治中期。武士の生き残りが大勢いた頃の物語である。大木もその一人だ。酷い時は乞食同然の状態にまで落ち込んだが、持ち前の才覚で挽回に成功。現在は新興ヤクザとして大阪に居城を構えるに至っている。先見性もある。これからは仁義云々よりもマネーパワーがものを言うだろうと予測しており、事業を拡張したり、選挙に出馬したりと、積極的な活動を展開している。経済ヤクザのハシリである。そんな訳で、任侠道の塊のような健さんが段々目障りになってくる。大木から見れば、健さんもお竜も、そして彼に対抗してくる老舗ヤクザ(清川虹子)も皆「時代遅れ」なのだ。絶滅寸前の天然記念物に過ぎないのだ。だが、そのシーラカンスどもが意外に手強い。強情だ。何故こいつらはよってたかって俺の邪魔をするのか。大木のストレスは日毎に蓄積され、ついには怒りの溶岩と化して、体外に放出される。話し合いに応じない相手は武力で黙らせるしかない。新時代に生きる者と旧時代の産物との死闘が開始されようとしていた…。

ストーリーそのものはシンプルな内容だが、洗練された様式美で一気に魅せる。主演二人の好演に加えて、個性的な脇役陣が各々の能力を最大限に発揮して映画を盛り立てる。颯爽たるお竜の振る舞いを「まるで昔の私を見るようや」と絶賛する清川。それを聞いて「わはははは。お前はあんなに美人とちゃうやろ」と秀逸な茶々を入れる金子信雄。巨大な海苔巻きを頬張りながら、徹底的に道化役を演じる若山富三郎。まさに「役者が揃っている」とはこの事だ。ドロドロした愛憎劇もあれば、激しい活劇場面もある。無論、笑いの要素も忘れない。映画(虚構)の魅力が98分の上映時間の中に見事凝縮されている。細かい事は気にするな。正義に生きる侠客達の清潔で美しい生き方に素直に共感すれば良いのだ。これは夢なんだ。日本が世界に誇る極上ファンタジーなのだ。時代考証なんて知った事か。お兄さん。つまらん突っ込みは野暮というものだぜ。深作欣二が仁侠映画の偽善性を粉々に破壊するには、もう暫く時間がかかる。せめてそれまで、この甘美な夢に酔っていよう。

(2004/08/01)

『御用牙/かみそり半蔵地獄責め』

先日。ビデオで『御用牙/かみそり半蔵地獄責め』(1973年公開)を観た。北町奉行所の名物男《かみそり半蔵》が獅子奮迅の活躍を繰り広げる痛快時代劇。凶暴性も戦闘力も前作より大幅にパワーアップ。これに二大好敵手が挑むという贅沢な内容。半蔵自前の『大砲』も益々絶好調だ。シリーズ第2弾にして最高傑作。面白い。とにかく面白い。この作品でカツシンは『ダーティーハリー』を超えた。

冒頭から濃いぞ。俺から視線を逸らしやがった。というシンプルな理由で与太者2名を追走する半蔵。その後を忠実な部下である草野大悟と蟹江敬三が続く。すると前方に上級武士の一団が出現する。カツシンと原子炉はすぐには止まらない。どけどけどけい。構わず武士集団の真っ直中に突っ込む半蔵。狙った獲物は地獄の底まで追いかけるのがこの男の信条なのだ。こらっ。何をするか。無礼者め。斬れ斬れえ。たちまち大乱闘の開始。行列の正体は勘定奉行(小松方正)のそれであった。小松の側近たる岸田森(出た!)が例の青白い表情で仲介を買って出るが、半蔵は全く相手にしない。勘定奉行?それがどうした。俺には悪党捕縛の方が大事なのだ。そこへ用心棒の黒沢年男が割り込んでくる。達人vs達人の一騎討ち。剣の腕前は両雄互角であり、簡単には決着がつかない。決定打が出ず、とりあえず引き分けとなった。半蔵は何とも思っていないようだが、年男の方は物凄く悔しそうである。同心風情に五分の戦いを演じられたというだけで、自尊心を酷く傷つけられたようだ。異常にプライドが高い男。こういうタイプは人生しんどいだろうな。この接触以降、年男は打倒半蔵に執念を燃やす事になる。奴を斬らなくては俺は先に進めねえ。但し勝負は常に正面から、策や小細工はもののふの沽券にかかわる。大抵の事には動じない落ち着き払った態度が魅力的だ。こんなに格好好い黒沢年男は初めて観た。それにしても江戸という街は怖い所である。カツシンは別格としても、草野、蟹江、小松、岸田、黒沢と言った一癖も二癖もある連中が同じ画面をウヨウヨしているのだから。田舎者は近寄らない方が無難だね。彼らの発散する桁外れのアクの強さに卒倒しそうになる。女子供には向かない映画だ。

粗悪通貨が市中に出回り、江戸の経済状況は破綻寸前。庶民の生活は逼迫し、首を括るか、夜逃げをするか、明日の食事にも困る有様である。そんなイライラを吹き飛ばすかのように日夜大暴れを展開する《人間爆弾》板見半蔵。今回の標的は尼寺である。寺社関係は奉行所の管轄外であり、手を出す事が出来ないルールである。無論半蔵もそんな事は百も承知だ。承知した上でタブーを犯している。もしかしたら、この男は掟破り自体に快感を感じているのかも知れない。文句があるならかかってきやがれ。命はとうに捨てているんでい。なんならここで腹を切ってやろうか。男子禁制の聖域たる尼寺も今や変態商人が集結する淫乱エリアと化していた。女体オークション。人身売買である。この伏魔殿に半蔵の鋭いメス(いや、剃刀か)が深々と突き刺さり、夥しい血膿が迸る。半蔵は『キル・ビル』ファンが大喜びしそうな方法で魔窟潜入に成功。うひゃひゃひゃ。手始めにSMプレイに夢中の高木均(となりのトトロ!)に痛烈な鉄槌を下す。高木の変態演技(迫真の出来)が延々と映し出され、もう止めてくれと叫びたくなる瞬間に、半蔵が斬り込んで来るという仕掛けだ。何をしてやがるんだ。キ××イ野郎!うわっ。突然の鬼神襲来に肝を潰す高木。このショックが原因で以後、高木は不能生活を余儀なくされた…というのは俺の想像。半蔵は高木の握っていた竹製の鞭を取り上げると、力任せにビシビシ振り下ろす。てめえらは何処まで世の中を腐らせたら気が済むんでい。外道集団が派手に蹴散らされる場面の強烈なカタルシス。

お前が《かみそり半蔵》か…。前作以上に半蔵の知名度は高い。問題行動が目立つのは確かだが、極めて精力的な仕事振りは、幕府内でも評判になっているようである。ゴロツキやチンピラにとっては生涯出遭いたくない人物であり、腕に覚えのある連中にとっては一度は刃を交えたい相手でもある。そして庶民には畏怖の対象となっている。物語の前半、半蔵が情報収集の為にある大店を訪問する場面がある。この際の主人(稲葉義男)の狼狽振りが実におかしい。半蔵が余程怖いのか終始平身低頭。別に悪事を働いた訳でもないし、被害者の父親なのだからそこまで卑屈にならなくても良いと思うのだが。おめえの(娘の)教育が悪いんじゃねえのかと睨まれると「とんでもございませんです」と、今にも泣き出さんばかり。まあ、自宅に拷問部屋まで設けているという鬼同心がいきなり訪ねてきたら誰でもこうなってしまうのかな。巷間で《かみそり半蔵》がどれだけ恐れられているのかが、これを見ただけでもよく解る。物語の中盤、もう一人の好敵手が登場する。極悪非道の大盗賊として諸国を震撼させている浜島庄兵衛(佐藤慶)である。頭が切れるだけではなく、最後の最後まで勝負を諦めないしぶとさをも備えている。知性派の悪役は佐藤の独壇場だ。独特の風貌と金属質の声。狡猾な盗賊団の首領に見事ハマっている。得意の冷血演技でカツシンに対抗する佐藤の勇姿。地方都市を荒らし廻っていた庄兵衛は、いよいよ首都江戸に狙いを定める。これを嬉々として迎え撃つ半蔵。互いに「日本一」の称号を持つ者同士。片や十手人、片や大泥棒。遅かれ早かれ二人はぶつかり合う運命であった。

前作では特殊武器の使用頻度が高かった半蔵だが、今回は主に日本刀を使っている。カタナマニアとしては嬉しいところ。カツシンの鮮やかな太刀捌きが存分に堪能出来る。庄兵衛軍団との剣戟場面は迫力満点。褌一丁というとても警官とは思えない豪快ファッションも衝撃的だ。自宅の防衛システムも更に充実。そして棺桶という意外な小道具が活躍するのでこれも要チェック。カツシンの怪物演技をフィルムに刻み込むのは名カメラマン宮川一夫(『羅生門』『雨月物語』『炎上』等)である。破天荒な物語を格調溢れる映像で捉えている。特にクライマックス、大量の御用提灯が夜空に浮かび上がるダイナミックな場面が印象深い。キャストもスタッフも豪華な顔触れが揃っているが、これは製作も兼ねるカツシンの人脈の厚さを物語っている。役者としての抜群の能力に加えて監督業でも天才的な閃きを見せたカツシン。私生活では、不祥事を繰り返して家族を泣かせる事もしばしばであった。それは決して許される行為ではないが、映画人・勝新太郎が不世出の才能であった事に変りはない。この物語の主人公たる板見半蔵を演じられる者が現在の日本映画界に存在するだろうか。画面に登場するだけで観客を魅了してしまう圧倒的存在感。第二の裕次郎が何処に消えたのかは知らないが、第二のカツシンが現れる事も恐らくあるまい。豪傑の多くは去り、滅びだけが残った。

(2004/07/31)

『仁義と抗争』

先日。ビデオで『仁義と抗争』(1977年公開)を観た。異色のヤクザ映画。主演は松方弘樹。

松方は何処の組にも属さないフリーの(?)ヤクザ。一匹狼と言えば聞こえは良いが、どの世界でも後ろ盾を待たない者は軽視される。そんな訳で松方に回ってくる仕事は汚いものばかり。主に殺しである。チャカの腕前には自信がある。今日は◆◆連合の幹部。明日は■■組の組長。暗殺稼業で食い繋ぐ日々。いよいよとなれば恋女房の松本留美の所に転がり込めば良い。とりあえず飢え死に、野垂れ死にだけは免れる。しかし、男伊達を売る商売としては余りに情けない状況である。松方としてもヒモ同然の生活から一刻も早く抜け出したいのだが、彼の有する「呪われた能力」がそれを阻むのである。松方に狙撃を依頼した者は必ず急死や変死を遂げるという奇怪なジンクス。この不吉な情報は業界全域に浸透しており、松方は《ばば掴みのばば伝》というイヤーな渾名を頂戴している。依頼者も標的も両方始末する殺し屋。巧く利用すれば大きな効果を得られそうだが、この死神カードを部下に加えたがる酔狂はいない。松方がこの不思議キャラをユーモラスに演じている。その為か、作品の雰囲気もカラッとしていて妙に明るい。特に前半はヤクザ映画と言うより、喜劇風味のアクション映画と言った趣である。やや泥臭いが軽快な曲調のテーマ音楽も悪くない。

宍戸錠、長門裕之、小池朝雄、中村敦夫…主人公も個性的だが、脇役陣も芸達者が揃っている。野心に燃える大阪ヤクザに宍戸。若い頃は残忍な武闘派として鳴らした宍戸だが、現在は権謀術数に長けた切れ者として組織に君臨している。捕獲した《ばば伝》を敢えて殺さず、侵略の尖兵として敵地に送り込む辺りは実にしたたか。毒も使い方によっては薬になるという訳か。大した策士である。それにしてもこの映画の宍戸は怖い。彼自身はドスを振るう事はないし、口調も穏やかだが、最終的には自分の意思を必ず通している。ギョロギョロした目玉で相手を睨み据える場面は底知れぬ凄味を感じさせる。松方に纏わる例の噂に対しても「俺を誰やと思てるねん」と笑い飛ばす度胸もある。この貫禄。主人公の宿敵たる資格は充分にある。

北関東のある温泉街。宍戸の密命を帯びた松方はこの町を支配する二大ヤクザに接近する。長門組と小池組。長門はやたらにカネにがめつい「山守型」の組長だが、全くヤクザに見えないのが面白い。中小企業のオヤジ(社長)のような印象を受ける。アクの強さに辟易させられるが、独特の愛嬌を備えているタイプ。こういう人を俺は何人か知っている。長門の守銭奴演技は爆笑もの。西瓜を食いながら、他の親分衆と《ばば伝》抹殺を企てる場面は、とてもヤクザ映画とは思えない牧歌的光景。最大の道化役たる長門惨殺を境に、この物語は途端に血腥くなる。嘘っぽい老人メイクを施した内田も無気味である。年はとっても血の気は多い。所構わず日本刀を振り回すのがこのジイさんの得意技。入浴中の松方も危うく殺されかかった。暴れ狂う内田を止められるのは、組織内でもただ一人。中村の出番である。内田家の娘婿であり、用心棒も兼ねている。元は関東の出身だそうである。腕っぷしの強さ、度量の広さ、人望の厚さには定評があり、長門組が内田組に手を出さないのは中村の存在が大きい。そのストイックな性格は陽性松方とは好対照。この男、喧嘩や諍いがない時は自室で黙々と能面作りに励んでいる。これが随分好評で、業者によれば、中村が打った面はすぐに売れてしまうそうな。いつヤクザを辞めても、能面職人として再就職可能。いつの時代も手先の器用な人は得ですね。両陣営を殺し合わせるどころか、この田舎町がすっかり気に入ってしまった松方。長門の名前を無断借用して家を買い、奥さんやら舎弟やらを呼び寄せる。二転三転。観る者の予想を裏切る脚本が巧みである。だが、幸せな時間は長くは続かない。慰安旅行の名目で宍戸が一族郎党を率いて乗り込んできたのである。この町を関東進出の拠点とするのが宍戸の狙いだが、さて、どうなるか…。そう言えば、ドサクサ紛れに内藤國雄も出てたぞ。しかも本人の役で。松方や松本との絡みもちゃんとある。勿論得意の美声も披露してくれる。原則的に俺はこの手の特別出演が嫌いである。演技の素人が登場する事で作品世界がガラガラと壊れる音が聞こえるからである。俺は角川映画は好きだが、角川春樹が出てきた瞬間に興醒めしてしまうのである。台詞なんて喋られた日にゃあ目も当てられねえ。その点、内藤の堂々たる役者振りには一寸驚かされた。棋士には極めて個性的な人物が多い。確かに俳優に向いている人種ではある。内藤などその最たる者だろう。ともあれ、内藤ファン、将棋ファンには見逃せない珍場面に仕上がっている。

松方の特殊能力が確実に作動して《ばば伝》に関わった者は次々と死んでゆく。だが、その死に方が余りに平凡で不満である。どうせなら、もっとハメを外して欲しかった。折角のユニークな設定が生かし切れていないような気がするのである。鉄骨が落ちてくるとか、隕石が降ってくるとか。バスが谷底に墜落するとか、集団食中毒が起きるとか。火事に巻き込まれるとか、地割れに飲み込まれるとか、竜巻に吹き飛ばされるとか。幾らでも考えられそうである。それに見合う予算が用意出来るかどうかは知らないが。何かそういうマンガがあったな。ああ。『ドカベン』の「吉良高校篇」か。それと『仁義と抗争』というタイトルもつまらない。まるでとってつけたような命名である。題名は映画の顔。もう少し大事にしなくちゃ。やはりここは男らしく『ばば伝』で良かったのではないか。こちらの方が作品の核心を衝いていると思うのだが。でも『ばば伝』じゃあ、客は来ねえか。俺なら行くけどね。

(2004/07/29)

『インテルビスタ』

先日。衛星放送で『インテルビスタ』(1987年公開)を観た。チネチッタ創立50周年記念作品。監督は巨匠フェデリコ・フェリーニ。

物語は新作に取り組むフェリーニの姿を追った記録映画のように幕を開けるが、途中から何が現実で何が虚構なのか、何処まで本気で何処まで冗談なのか、現在なのか過去なのか、訳がわからなくなってくる。この訳のわからなさが意外に心地好い。即興で書いたとしか思えないラフな脚本。整合性のないストーリーの辻褄を合せる事はまず不可能である。真剣に考えていると段々バカらしくなってくる。ここは摩訶不思議なフェリーニワールドにさっさと身を委ねてしまった方が得策である。物語性だの登場人物の掘り下げだのに、かの巨匠は全く興味がないようだ。映画という世紀の玩具を使って心ゆくまで遊んでいるように見える。これほど贅沢な遊びはまたとあるまい。一歩間違えればマスターベーションだが、彼の遊びには観る者を惹きつける奇妙な面白さに満ちている。つまり入場料を取るだけの価値は充分に有しているのだ。古今稀に見る特殊能力。鬼才フェリーニだからこそ為し得る荒業である。映画の神に選ばれし者だけが許される領域。これを自称天才が真似したりしたら大変だ。カネ返せ。ふざけるな。猛り狂った観客に怒鳴られるか、罵倒されるか、蹴飛ばされるか、何にせよロクな結果にはならない。

イタリア映画の総本山たるチネチッタ撮影所。チネチッタには今日も大勢の人間が集まってくる。監督、助監督、カメラクルー、衣装係に弁当係、その他各部門のスタッフ、主役級から通行人まで、個性豊かな俳優達。今回はフェリーニの取材にやって来た日本のTV局の連中もいる。撮影所の主(あるじ)然とした正体不明の人物もいる。おまけに本物の象までノシノシ歩いている。この賑やかさ。この華やかさ。映画は夢。映画はお祭。それを作る者が楽しくなくっちゃ、お客を喜ばせる事は出来ない。そんな声が聞こえてきそうである。場内に設けられた喫茶室は休憩中のスタッフ&キャストで溢れ返っている。誰もが一癖も二癖もありそうな不敵な面構えの持主ばかりである。彼らのヴァイタリティに富んだ遣り取りを見ていると、こちらも元気になってくる。当事者にとっては日常の風景なのかも知れないが、門外漢には極めて刺激的で興味深い映像が続く。そう。撮影所という空間自体が芝居であり映画なのだ。

フェリーニの回想。若きフェリーニは『インド映画』を撮影しているスタジオに迷い込む。監督の指示が矢継ぎ早に飛ぶ。それに応じるスタッフは右に左に大忙し。辛辣な演出にわっと泣き出す主演女優。せわしないだけで肝心の撮影は遅々として進まない。館内に立ち込める不穏な空気が凝固し、やがて爆発の時を迎える。監督とプロデューサーが猛烈な喧嘩をおっぱじめたのだ。止めた止めた。俺は降りるぞ。こんな下らない映画にはつき合い切れねえ。黙れ鈍才が。貴様はクビだ。この業界から永久追放してやるぞ。仕事が出来なくしてやる。覚悟しておけ。うるせえ。俺はこの国を出る。ドイツだドイツだ。ドイツへ行くんだ。俺はドイツで仕事をするのだ。ドイツじゃなくて貴様は精神病院へ行け!この大馬鹿者めが。てめえ。アクの強いオヤジどもの激突は迫力満点だが、雰囲気は何処かユーモラスだ。罵り合いが白熱すればするほど、滑稽味が増してゆくのがとても面白い。ブチキレた監督が腹いせに手近の舞台装置を壊し出すが、そこへ突然現在のフェリーニ(本人)が現れて「打ち合わせと違う事をやってくれたら困るよ」と窘める場面のおかしさ!

映画中盤。ばばーん。フェリーニのいるスタッフルームの窓が強引に開け放たれる。がはははは。魔術師(吸血鬼にも見える)の格好をした恰幅の良いオヤジが出現する。誰なんだ?ああっ。マストロヤンニである。イタリアが誇る名優マルチェロ・マストロヤンニの登場である。どうしたんだね諸君。何を深刻な顔をしておるんだね?セックスの悩みかね。がはははは。どうやらマストロヤンニはCM撮影の為にチネチッタに来ているらしい。表敬訪問と冷やかしを兼ねてフェリーニの部屋に乱入してきたという訳だ。それにしても桁外れに陽気な男である。生きているのが楽しくて楽しくて仕様がないと言った風情である。演技なのか地なのかは不明だが、大スターとは思えない気さくな態度には好感が持てる。怪しげな日本人がしつこく勧める「禁煙マッサージ」とやらにもつき合ってやる余裕もある。フェリーニも盟友の訪問に嬉しそうだ。おお。マストロヤンニか。良いところに来た。君も一緒に行こう。えっ。何処に行くんだ?アニタ・エクバーグの屋敷さ。エクバーグだって。彼女とは『甘い生活』(1960年)以来だな。この後、マストロヤンニはエクバーグ邸で素敵な魔法を披露してくれる。映画の素晴らしさと時の流れの残酷さを同時に味あわせてくれる屈指の名場面であった。鉄面皮たる俺ですら目頭が熱くなったくらいである。必見。

ああいう独特な才能の人はもういないね。何か映像の中に物凄い存在感があって強烈な衝撃があるんだ…かの黒澤明もフェリーニ映画の芸術性&独自性を高く評価している。黒澤はフェリーニと何度か対面しており、その度に親交を深めたそうな。言葉は通じないが、映画道の達人同士、シンパシーを感じる部分が多かったと思われる。フェリーニが来日した折、黒澤は馴染みの天麩羅屋さん(下記参照)に招待し、美味しい料理を楽しみつつ一献傾けている。巨匠対決。談論風発。さぞ映画談義に華が咲いたであろうと予想されるが、実際は少々違った。極度の照れ屋であるフェリーニは、自作について一切語ろうとしなかったそうである。

★天政…東京都品川区東品川2−3−10・天王洲アイル2階・シーフォートスクエア/定休日・日曜祝日

(2004/07/25)

『御用牙』

先日。ビデオで『御用牙』(1972年公開)を観た。主演はダークヒーローなら任せとけの勝新太郎。監督は勝の出演作を数多く手掛けている三隅研次。

カツシン扮する板見半蔵は公務員。隠密活動を本領とする同心だそうである。勤め先は北町奉行所。出勤するかどうかは本人の気分次第。多分タイムカードは真っ白だ。奉行所内で一番偉そうな顔をしているが、恐らく階級的には相当低い位置にいると思う。暴力には暴力で、奸計には奸計で対抗するタイプ。言うまでもないが武芸全般に通じている。特に自慢のメリケンパンチの威力は凄まじい。文字通り岩をも砕く破壊力を秘めており、こんなもので殴られたら大抵の者は頭蓋が粉砕されてしまう。それだけではない。この男の最強武器は股の間に生えた巨大な『剣』である。女から情報や本音を聴き出す際にはこの秘密兵器の出番となる。朝岡雪路も渥美マリもコレの犠牲になった。劇中×起×た×茎を米俵に突っ込んだり、繰り返し打撃を加えたりする異様な場面が登場する。その道の達人たる者、寸暇を惜しんで鍛錬に勤しむという訳か。果たしてあの「特訓」にどれだけの効果があるのかは疑問ではあるが。とにかくカツシンにしか許されない抱腹絶倒の名シーンである。更に半蔵は素敵なお家に住んでいる。ここは彼の生活拠点であるのと同時に、作戦会議室をも兼ねている。侵入者迎撃システムがここまで充実した屋敷も稀だろう。セ×ムなんてメじゃないぜ。壁の中にはあらゆる武具が隠されている。その上、ボタンひとつで天井や壁から白刃が射出される仕掛けが施してある。それを知らずにウカウカ忍び込んだらさあ大変。待ってましたとばかりに串刺しにされるのがオチである。こういう人と関わるのは止しにしましょう。命が幾つあっても足りませんから。当然ながら、奉行所内外に半蔵の勇名(悪名?)は鳴り響いている。爛熟都市江戸を縦横無尽に駆け巡る鬼同心。いつの頃からか、人々は彼の事をこう呼ぶようになった。北町が誇る名物男《かみそり半蔵》と。

初手からカツシンエンジン全開である。奉行所恒例儀式。内容は立派だが、リアリティの欠如した誓約書に署名と血判が捺されてゆく。自分の番が回ってくると「俺は飛ばして下さい」「やりたくありません」と断固拒否の構えを表明する半蔵。またお前か。立場を弁えろ。屁理屈はやめろ。横紙破りも大概にせんか。奉行や筆頭同心(西村晃)から厳重注意を受けるが、そんなもので意思を枉げるようなヤワな神経は持ち合わしちゃいねえ。ここでカツシンのアップ。それだけで人が殺せそうな眼光。物凄い迫力である。怪獣並みのインパクトがある。今にも放射能熱線でも吐きそうな勢いだ。やかましい。大体おかしいじゃねえか…奉行所内に潜む矛盾や賄賂横行を抉り出してはボコボコに批判する半蔵。喋るわ喋るわ。段々自身の演説に酔ってきたのか、興奮してきたのか、音量の方も大増幅。会議室どころか奉行所全体をも貫きかねない凄まじさ。私腹を肥やす事しか頭にない連中には誠に耳の痛い話であり、その代表たる西村は顔面蒼白の状態である。半蔵の演説はまだ終わらない。奉行所は、俺達同心は何故存在するんだ?強い奴の横暴から弱い奴を守ってやる為じゃないのか。俺達が百姓や町民を守ってやらないで、一体誰が守ってやると言うんだ!出たっ。男なら一度は叫びたい台詞。まさに王道。まさに正義の味方。江戸の治安は《かみそり半蔵》に託しておけば大丈夫だ。ここまで言い切っておきながら、上映時間の大部分を「自分の為」に費やすところがこの男の素晴らしさである。

お前は今年限りでクビだっ。▲▲▲▲(ギザギザ台)に正座をして「拷問試し」(無茶苦茶痛そう)に夢中になっていた半蔵に解雇通告を叩きつける筆頭同心西村。おもしれえ。やってもらおうじゃねえか。前々から西村の態度が気に食わなかった半蔵は、嬉々として彼の弱点探しに取り組むのであった。西村の生活スタイルや仕事後の行動を調査する内に、ある犯罪者の名前が浮かび上がってきた。三途の竿兵衛。業界内では《人斬り竿兵衛》とも呼ばれている男である。有名な殺し屋である。腕利きの配下もいるらしい。確か奴は遠島刑に処された筈だが…。この物語の中で、唯一半蔵に対抗可能な個性を備えているのが竿兵衛である。これを田村高廣が演じている。かの『兵隊やくざ』(全9作)の名コンビが敵味方に分かれて激突するという趣向だ。足の不自由な剣術遣い。田村の醸す虚無的な雰囲気が印象的である。誠実な役柄が似合う田村だが、悪役に扮すると専門家以上に凄味が出るのだから不思議である。田村本人も何やら楽しそうだ。かみそりvs人斬り。2匹の竜がまみえる時、そこは地獄の戦場と化す。魅力的な悪役を作っておきさえすれば、主人公との直接対決まで客の興味を引っ張り易くなる。面白い時代劇を作るコツである。悪役不在の活劇ほどつまらないものはない。ただ田村の出番が余りにも少ないのが気になった。竿兵衛の強さや恐ろしさをアピールするエピソードがひとつぐらいあっても良かったのではないか。俺の観たビデオは90分の「短縮版」であった。オリジナルの方は108分。もしかしたら、削られた部分に竿兵衛の活躍場面が収められていたのかも知れない。それにしても18分の削除は酷い。殺生だ。何としても「完全版」が観たくなってきた。

この映画、本篇終了後に、ちょっとしたサービスストーリーが追加されている。蛇足と言ってしまえばそれまでだが、半蔵という人物に深みを与える軽視出来ない内容である。半蔵は「えらい事に巻き込まれたな…」とか何とか言いながら、幼い姉と弟をある悩みから救ってやる。それも彼独自の判断とやり方で。そこらの偽善者ヒーローには実行不可能な解決法である。無論批判も反対もあるだろうが、いたずらに正義を振りかざすだけではどうにもならない事態がこの世にはあるのだ。こういう修羅場にこそ、かみそり半蔵のパーソナリティーは如何なく発揮される。半蔵の英断に俺は真の優しさを見た。全篇に冴え渡るカツシン魂。女性の観客に対する配慮など微塵も感じられない野蛮極まる内容。まさにオトコの映画ですね。これは。

(2004/07/24)

『続・激突!カージャック』

先日。衛星放送で『続・激突!カージャック』(1973年公開)を観た。スティーヴン・スピルバーグ27歳の作品。

TVムービー『激突!』で高い評価を受けたスピルバーグが、その勢いを駆って撮り上げたのがこの映画である。題名だけ見ると『激突!』の続篇としか思えないが、関連性はゼロである。看板に偽りあり。大ヒットを記録した前作にあやかろうという魂胆がミエミエだ。個人的にはこの手の胡散臭い邦題は大歓迎だが、マジメな客の誤解や不満を招きかねない題名であり、よくスピルバーグが怒らなかったものである。これがキューブリック辺りなら絶対に文句をつけてくるぜ。スピルバーグは日本贔屓だから寛大なのかな。因みにオリジナルタイトルは『THE SUGARLAND EXPRESS』と言う。

1969年5月にテキサスで実際に起きた事件を元にして脚本が練られた。主人公ゴールディ・ホーンが更正施設の世話になっている夫(ウィリアム・アザトーン)の面会に訪れる場面から映画は始まる。両人ともセコい犯罪をしでかしては警察や裁判所の厄介になっている。その事について特に反省している様子も、後悔している気配も感じられない。アウトロー夫婦と聞けば、何やら格好好さそうだが、まあ、チンピラ夫婦が関の山だろう。だが、このママゴト夫婦にも立派な息子がいる。まだ赤ちゃんである。でもお父さんとお母さんがこんな有様だから、里子に出されている。ある日。突如母性愛に目覚めたホーンは息子を自分の手で育てようと決心するが、福祉協会に「駄目デス」と追い返されてしまう。これにキレたホーンは「赤ちゃん奪還作戦」を画策。ミッション遂行には旦那の協力が必要だ。施設を脱出した2人は、まず老夫婦の車(ポンコツ!)を盗み取る。それがぶっ壊れると、今度は警官(マイケル・サックス)を脅迫してパトカーを強奪する。さあ、行こうぜ。目指すは3000マイルの彼方、シュガーランド。因みに運転手はサックスその人だ。とほほ。

仲間を人質に取られた警察は総力を挙げてカージャック犯を追跡する。その采配を振るうのがベン・ジョンソン警部である。例え相手が凶悪犯であろうと殺傷は極力避けるというのがこの男の基本方針。今回の事件も出来れば穏便に済ませたい。その為にジョンソン警部は最善の努力を尽くすのである。血を見るのは苦手だ。物語中盤、休憩中の犯人夫婦を遠距離射撃で仕留めるべく、本部から優秀な狙撃手が派遣されてくるが、土壇場になって「やっぱ、やめにしよう」と中止にしたぐらいである。甘いと言えば甘い性格だが、単なるハト派でもないらしい。自軍の作戦行動や指揮系統を乱す奴は何者であろうと許さない。その程度の気骨は備えた男である。カージャックをブッ殺して有名になろうぜと2人に奇襲を仕掛けてきたウヨクを撃退し、ジャックされたパトカーをしつこく追い回すマスコミのワゴンをドブ川に沈めている。俺の仕事を邪魔するんじゃねえ。そんなジョンソン警部の重厚な味わいが、間延びしがちな物語をピシッと引き締める役割を果たしている。彼の紳士的な態度に、さしもの軽薄夫婦も次第に心を開いてゆくという仕組みである。一方、与太者に拳銃を奪われた上に、車の運転までさせられるいう大屈辱を受けたサックスも、旅を続ける内に夫婦の哀れな境遇に同情を覚え始めるのだった。後半の3人の遣り取りは敵味方と言うより、友達のそれのようである。ちょっとしたストックホルム症候群状態。

スピルバーグの「ニューシネマごっこ」と言った趣のこの映画。開巻後30分はホーン&アザトーンの支離滅裂な振る舞いにどうしても感情移入出来なかった。俺は悪党映画は大好きだが、スケール感に乏しいワルには食指が動かない。こんなツマンネエ連中に最後までつき合うのかよと不貞腐れていたが、途中でふと気づいた。この夫婦は英雄でも豪傑でもない。俺と同じナマの人間なんだと。ただのアホなんだと。狡いのも弱いのも臆病なのも当り前だ。その行動や言動に整合性などある訳がないのだ。彼らは彼らなりに運命を変えようと必死なのだ。そう思うと急に親近感が湧いてきたのだった。この映画に限らず、観る視点をズラしてみる事で途端に面白くなる場合が少なくない。好みに合わない作品に遭遇した際は是非お試し下さい。この映画には恐竜、巨大鮫、宇宙人、アンドロイド等は一切登場しない。非現実的存在には出番がないのだ。出てくるのは人間のみである。となると、監督は人間を描く事に全神経を集中するしかない。スピルバーグはかの夫婦を通して人間の持つ多面性を捉えようと腐心している。この頃は駆け出しの新人監督。ワンカット、ワンカット、彼自身が楽しみながら撮っているのがこちらにも伝わってくる。そこにはルーティンワークの匂いは微塵もない。この映画の次にスピルバーグは海洋パニックの秀作『ジョーズ』(余談だが、この作品の監督には当初ヒッチコックが予定されていた)を世に放ち、勇躍、スター監督の座へと躍り出る。以降の活躍振りは皆様御承知の通り。現在も世界最強のヒットメーカーとして大作映画を量産している。最新の映像技術を凝らした一連の作品は確かに面白い。それなりに興奮もする。しかし、ド派手な映像空間の奥に機械めいた寒々しさを感じるのは俺だけだろうか。そんなスピルバーグ映画に食傷気味の向きには『続・激突!』は有効な解毒剤として機能する筈である。映画界の帝王、金儲けの達人(悪口じゃないよ)にもこんな時代があったのだ。予算も時間もCGも何もないが、若き天才の熱意や意欲が鮮明に記録されている。それだけでも一見に値するフィルムだと言えるだろう。

(2004/07/21)

『君よ憤怒の河を渉れ』

先日。ビデオで『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年公開)を観た。大スター高倉健主演の逃亡者映画。

ある日突然。東京地検検事の健さんが強盗&強姦の罪で訴えられる。バカな。これは何かの間違いだ。警察に引っ張られた健さんは完全黙秘で臨む。おいおいおい。えらい事をしでかしてくれたね。高倉君。上司の池部良は今回の不祥事が検察庁のイメージダウンに繋がるので焦燥が隠せない。池部としては健さんの無実証明よりも、手前の面子やら体裁やらの方が重大らしい。池部は健さんを伴って家宅捜索に向う。そしてそこには、さあ、見つけて下さいとばかりに「証拠品」とやらがゴロゴロ転がっているではないか。しまったっ。罠だ!ここに来て、ようやく健さんは察知する。何者かが俺を潰そうとしている。社会的抹殺を目論んでいる。しかし一体誰が?何の為に?追い詰められた健さんは「気分が悪い」と申し出て、トイレに居座り、スキを見て窓から外へと飛び出す。靴下のまま目的地に向う健さん。下校中の餓鬼どもの白い眼に耐えつつ、近所の寺(法事中)に辿り着く。参拝に来た訳ではない。靴を調達する為だ。かくして、自分を陥穽に突き落とした《敵》の正体を探り出すべく、艱難辛苦に満ちた健さんの旅が始まるのであった。

健さん追跡作戦の総指揮を執るのが『やさぐれ刑事』と全く同じ役作りの原田芳雄である。政治家やエリートが大嫌いな芳雄君は当然健さんも嫌いである。更に参謀面で作戦室を歩き回る池部も嫌いである。犯人の逃走を手助けする金持ち(大滝秀治)も嫌いだし、小生意気な娘(中野良子)はもっと嫌いである。皆大嫌いだ。芳雄自身、充分エリートのような気もするが。世論だの政治だの俺の知った事か。俺は俺のやり方で奴を捕まえてやるさ。終始不貞腐れた態度で捜査を進める芳雄。だが、異常な生命力を発揮して警察の追及を振り切る健さんに対して、芳雄は奇妙な共感を抱くようになる。検事にしとくには惜しい男だな…と。

脚本は大雑把。余りにもアラが多く、突っ込みだしたらキリがない。最初は本格的なサスペンス映画かと思っていたが、見事に騙された。健さんが北海道に上陸した辺りから、この作品の本性が「ファンタジー映画」である事が明らかになる。ジワジワと包囲網が狭められてゆく。日高山中を彷徨する健さんは、ヌイグルミの熊に襲われる中野を発見。偶然持っていた猟銃でそれを撃退する。凶悪犯罪者として指名手配されている健さんを必死に匿おうとする中野。何故そんなに俺に良くしてくれるんだ?健さんの質問に「あなたが好きだからよ」とヌケヌケと答える中野。好きだからって…それだけですか?いいねえ。羨ましいねえ。色男は何かにつけて得をするように出来ているようですな。もしこれが俺なら最速で警察に通報されるんだろうな。一方、イライラ男の芳雄は道内全域に完璧な捕縛態勢を構築する。後は高倉逮捕の報せが届くのを待つのみ。  逃避行の中で、自分を陥れた連中の見当をつけた健さん。事件解決の鍵となる人物(田中邦衛)は首都に潜伏している。俺は何としても東京に戻らなくてはならない。自ら騒動の決着をつけるのがヒーローの宿命だ。だがどうやって?そこに現れる親バカ大滝。どうだね。私のセスナを使っては。飛行機の操縦方法を僅か数分で会得した健さんは、早速初フライトに挑む。一寸ヤバい瞬間もあったけど、無事北海道を離れて、本州上空に達する。まさに奇跡である。最近の俺は奇跡の映画に接する機会が多い。それにしても、このような荒業が成立するのは健さんか裕次郎ぐらいだろう。不法な飛行を続ける健さんに対して、航空自衛隊は再三警告を繰り返す。無視を貫く大スター。自衛隊は戦闘機2機を緊急スクランブルさせるが、途中からどういう訳か姿が見えなくなった。彼らは何処に消えてしまったのか?大映名物のガメラに食われてしまったのか?実はこの刹那、健さん本人も知覚していない『スタンド能力』が発動したのである。勿論ウソである。

東京に舞い戻った超人健さんは、岡田英次が経営する精神病院に偽装入院する。そこでは「言う事を聞かない奴をロボット化」するという恐るべき実験が日夜行われていた。死中に活を求めて。単身敵の本陣に斬り込んだ健さんの極めて地味な活躍が始まる。クライマックスに向けて、物語はいよいよファンタジーの度合を強めてゆく。新宿界隈を中野の操る荒馬軍団が爆走する場面。健さんが岡田考案のクスリを服用して廃人化する場面。芳雄が無抵抗の×村×を撃ち殺し「これは正当防衛だ」と開き直る場面。リアリティを無視した幻想感覚溢れる名(迷)シーンの数々。ホンがしっかりした映画は時間の経過に関係なく楽しめるものだが、そうではない作品は悲惨である。本来なら興奮したり感動しなくてはならない場面で腹を抱えて笑っている自分に気づくのである。まあ、それが目当てで古い映画を漁っている人もいるけれど。健さんや芳雄という好きな役者が出ているだけに余計哀しかった。ところがこの映画、かの中華人民共和国で封切られるや否や、史上空前の大ヒットを記録。一躍「日本人俳優・高倉健」の名を大陸全土に知らしめたという。但し当局の手が相当加えられており「不謹慎な描写」は残らず削除。その上、オリジナルとは全く別物のラストシーンが用意されているそうである。プロデューサーの永田雅一が中国輸出を睨んで『君よ憤怒の河を渉れ』を製作したとは考え難い。しかし、この映画が数奇な運命を帯びた稀有な作品である事は確かなようだ。

(2004/07/18)

『沖縄やくざ戦争』

先日。ビデオで『沖縄やくざ戦争』(1976年公開)を観た。主演は松方弘樹&千葉真一。

物語の舞台は本土復帰翌年の沖縄。来るべき本土ヤクザ襲来に備えて、地元ヤクザは大慌てで《沖縄連合琉盛会》を設立する。だが、その内幕は大同団結には程遠い状態であった。組織重鎮が揃って腰砕け。理事長たる織本順吉は「ワシは知らんぞ」を連発し、補佐役の成田三樹雄は典型的な「長いものには巻かれろ」スタイル。頼りになるのは組織最強の武闘派たる千葉師匠だけだが、後先を考えない過激行動に周囲は大困惑だ。どういう訳か、師匠は本土の人間(特に同業者)に猛烈な敵愾心を燃やしており「ヤマトの人間は叩っ殺す!」が口癖である。映画の前半は師匠の野獣演技が存分に楽しめる。導入部。いきなり新装開店の呑み屋(東京ヤクザ資本?)に乗り込んで、頼まれもしないのに自慢の琉球空手(だと思う)を披露。早くも濃厚な千葉ワールドが繰り広げられる。人のビールを勝手に呑むわ、そこらの備品を破壊するわ、従業員を殴り倒すわとやりたい放題である。この後も千葉バイオレンスが随所で炸裂するのだが、弱い者イジメをしているようにしか見えないのが少し哀しい。師匠の卓越した戦闘技術はもっと格上の相手にぶつけて欲しかった。善玉でも悪玉でも何でもござれ(サラリーマン役は除く)の千葉師匠だが、後者を演じる時には一寸した障害がある。目である。悪役敵役にしては師匠の目つきは優し過ぎるのだ。こればかりは幾ら役作りに励んでもどうにもならない。無論、この事は師匠本人が一番意識している。故にエグい役を演じる場合にはサングラスが手放せない。ドスや凄味を利かせる際には必ずと言っていい程、この小道具を使っている。役柄同様、豪放磊落なイメージの強い師匠だが、意外にも入念な準備をした上で、撮影に臨んでいるのである。

主人公の松方弘樹は千葉の義兄弟。千葉とは数々の死線を一緒に潜り抜けてきた仲。リーダーとしての資質は千葉よりも優れているが、常に兄貴分を立てる事を忘れない義理堅い男である。千葉に比べるとやや地味な印象だが、いつものギラギラ松方よりも、俺はこちらの方が好きである。受けの芝居が案外似合っているのだ。静の松方、動の千葉。対照的な性格を有する両輪が滑らかに駆動して、血腥い物語がテンポ良く進んでゆく。脚本は高田宏治。得意分野だけに手馴れた仕上がりである。対立組織を皆殺しにした罪を全て引き受け7年間の服役生活を送った松方。出所後は千葉組の領地の半分を譲って貰う約束だったが、未だにそれは果たされていない。千葉の新参謀たる地井武男がストップをかけているからである。義兄弟か何か知らんが、今更デカい顔をされては堪らんという訳である。しかし、松方としても限界点にまで追い詰められている。エネルギーを持て余した若い衆を30人も抱えているのだ。奥さん(新藤恵美)が経営する居酒屋や腹心の室田日出男がやっている氷屋さんの収入だけでは到底足りない。このままでは野垂れ死にする他はない。新藤には「もうヤクザなんてやめたら?」と、組織解散を勧められているが、親分肌の松方には無理な相談だ。俺を慕っている連中を見捨てる事は出来ん。町工場のオヤジも大変だが、弱小ヤクザの悩みも深刻である。

千葉組が大阪ヤクザの幹部に重傷を負わせた事をキッカケに血で血を洗う抗争が始まる。生き残る為には犬でも豚にでもなるさ。という信念の下、苦渋の松方は千葉抹殺を目論む室田を黙認する。事実上、兄弟殺しを指示したと言って良い。千葉の首を敵軍に差し出す事で、今回の事件を収めたかった松方だが、そうは問屋が卸さない。密かに大阪方と同盟を結んだ成田の計略にハマった松方組は千葉→地井組との全面戦争を余儀なくされる。ボスの敵討ちという大義名分(真の狙いは《琉盛会》理事長の椅子)を掲げて、地井は松方組のメンバーを探り出しては一人一人なぶり殺しにしてゆく。兵力、機動力、資金力…あらゆる面で地井組に劣る松方組。本丸である沖縄市を捨てて、当面は逃げ回り隠れ回るしか方策がない。貧乏ヤクザの惨めさ。武器調達どころか食糧確保にも困る有様である。今は組員の実家に厄介になっている。組織を束ねる者としてこれほど情けない状態はないだろう。窮鼠と化した松方が捻り出した起死回生の策とは?

やたらに凄惨場面の多い映画である。特に室田の×××がペンチで切断されるシーンの気色悪さが痛烈だ。リンチの犠牲者である室田の演技が異常に生々しく、男なら思わず股間に手をやってしまうだろう。それをニヤニヤ笑って見守る千葉組組員のおぞましさ。これは怖い。彼らの神経は一体どうなっているのか。組長に至ってはアイスクリームを舐めている始末だ。ヤクザ…と言うより、人間とはここまで残虐非道になれるものなのか。この世には殺されるより恐ろしい事が存在している。残酷場面の次に多いのが食事場面。登場人物の大半が食欲の塊であり、ボリューム満点の沖縄料理(なのかな?)をガツガツと貪り食い、地元特産たる泡盛をゴブゴブと一気呑み。実に美味しそう。食の細い俺としては羨ましい光景である。そんな動物的生命力に満ちた彼らは、勝ち味の薄い闘争に嬉々として身を投じてゆく。ずばばばばば。どばばばばば。ベトナム相手に苦戦中の米軍から最新兵器を入手した松方組が逆襲開始。敵も味方も、多くの命が虫ケラ同然に散ってゆく。だが、さしもの激しい闘いもいつかは終焉の時を迎える。カメラは憔悴した松方の表情を捉え、その背後には沖縄民謡が虚しく響く。通常のヤクザ映画とは趣を異にするシュールな幕切れであり、俺は大いに気に入っている。蛇足だが、沖縄ヤクザには「指を詰める」という概念がない事をこの作品を観て初めて知った。いやー。映画って本当に勉強になりますね。

(2004/07/18)

『卒業』

先日。衛星放送で『卒業』(1967年公開)を観た。名優ダスティン・ホフマンのデビュー作。

当時30歳のホフマンが二十歳かそこらの若造を演じているのには多少違和感を感じるが、余り気にしない事にした。ジャンル的には俺の苦手な恋愛映画に該当するのだろう。しかし、扱われているテーマは極めて刺激的で頽廃の香りがする。となると俺好みの作品という事になる。似たような体験を有する者は痛烈な記憶が蘇る筈である。現在進行中の人には優れた参考資料となるだろう。良いのかい?よく考えろ。後で地獄を見るぞ。けけけけけ。内容の割にドロドロとした印象が希薄なのは、ホフマンの持ち味が大きく作用していると思われる。彼扮する主人公は世間の良識と照らし合わせると、相当逸脱した行動を繰り広げるのだが、何処か憎めないのである。そして、いつのまにか彼の奮戦を応援している自分に気づくという仕掛けである。劇中、サイモン&ガーファンクルの歌う『サウンド・オブ・サイレンス』『ミセス・ロビンソン』が適時適所に使用されている。音楽と映像のギアが円滑に噛み合う心地好さ。この二曲を聴くと『卒業』の名場面を思い出すという人も多いそうである。正直歌詞の意味はよくわからないが、哀しさを孕んだ流麗な旋律が主人公の気持ちや心の動きを代弁しているようで興味深い。

大学を卒業したホフマンが実家に帰ってくる所から物語は始まる。プール付きの立派な屋敷である。自慢の息子が凱旋を果たしたという事で、両親は大喜びである。今夜は親族や親友を招いての盛大なパーティが催されている。その席上でホフマンはある女性から誘惑を受ける。望むところだが、相手が悪かった。アン・バンクロフト。父親の同僚、その奥さんである。人妻である。不倫である。世が世なら死刑である。斬首である。海千山千の女豪傑に扮したバンクロフトの存在感が圧倒的である。若きホフマンを背徳の道に導く魔性の女。上流階級の女である。おまけにアルコール依存症である。旦那の稼ぎがすこぶる良いので生活の心配はない。一人娘は遠くの大学に行っている。あらゆる遊びに厭きた女。持て余す時間をどう潰すかしか考えていない妖怪である。彼女の手にかかれば、世間知らずのホフマンなど、文字通り餓鬼に等しい。この強敵に対して、無理矢理オトナの男を演じようとするホフマンが滑稽である。勇気を振り絞って、バンクロフトをホテルに呼び出してはみたものの、それから部屋に連れ込むまでに、ホフマンは秀逸な悲喜劇を展開する。こういう簡単そうに見えて、実はとても難しい役を、何気なく演じてしまうのがホフマンという役者の恐ろしさである。流石だ。やはり下積み生活の長い人は地力が違う。青二才の右往左往振りを余裕たっぷりの表情で見守るバンクロフト。一体何を考えているのやら、その真意は掴めない。いや、掴ませないと言うべきか。年齢を超越したようなミステリアスな雰囲気が魅力的だが、この妖花にはしたたかな毒が仕掛けられていたのだ。

物語の中盤から70年代ブロンド・アイドルの代表格キャサリン・ロスが登場する。バンクロフトの娘である。「ロスと会ったら私達の秘密をバラすわよ」「わかりました」いきなりデカい釘を刺された形のホフマンだが、古今東西、この手の約束が厳守された試しはない。このお調子者はお母さんとは正反対の性格のロスにすっかり魅了される。美人だし、若い。それに清潔感がある。老獪な有閑マダムより彼女の方が良いに決まっている。この辺りから、ホフマンの立場がややこしくなってくる。条約を破棄されたバンクラフトの報復作戦が開始される。いよいよ毒婦がその正体を現わしたのだ。これにトチ狂ったホフマンは致命的な愚行を犯す。自らバンクラフトとの肉体関係をロスに暴露してしまったのである。アホである。当然ながら、彼女は大激怒!信じられないわ。汚らわしいわ。顔も見たくないわ。

映画後半はひたすらにロスを追いかけるホフマンの姿が描き出される。彼女の通う大学近郊に部屋を借りて、連日連夜アタックを敢行するという熱の入れようである。この神経の図太さには恐れ入るが、これぐらいの情熱がないと恋愛は成就しないのかも知れねえな。そんなホフマンの前に次から次へと難敵が立ちはだかる。大した反撃も出来ないままに敗退を重ねるホフマンの惨めさが良い。それが絵になっているのだから面白い。この世界にヒーローなんて何人もいないさ。ホフマンにとって世界で最も会いたくない人間…バンクラフトの夫、即ちロスの父親との対面場面は強烈だ。人間の屑だのゴミだの変態だの散々に言われ放題、罵られ放題。このオヤジ、確か映画の前半で「若い内は冒険をしなくちゃいかん」などと偉そうに能書きを垂れていた気がするが。どうせ忘れてるんだろうな。手前の都合の悪い事は。ついでに偏屈大家にまで「出て失せろ」と怒鳴られる有様。堕ちる所まで堕ちたホフマンだが、最後の最後に彼は奇跡を起こす。このカタルシスがたまらない。ダメ人間がヒーローになった瞬間だ。神様も時にはイキなはからいをするものである。絶妙のタイミングで出現する路線バスは、神が遣してくれた黄金の馬車としか思えない。さあ、奇跡の目撃者足らん事を希望する者は迷わず『卒業』を観るべし。

付記。この映画の劇中音楽をナマで聴きたい人は、かの陳五郎御大が率いる《みゅーず》のライブに駆けつけるように。これは強制です。

(2004/07/15)

『華麗なる一族』

先日。ビデオ(2本組!)で『華麗なる一族』(1974年公開)を観た。監督は政財界のドロドロを撮らせたら天下一品の山本薩夫。

上映時間3時間半の超大作。うぎゃー。普段の俺なら悲鳴を上げるところだが『金環蝕』(2時間半)『不毛地帯』(3時間)等の諸作品で山本の演出手腕の巧みさは知っている。意味もなく長いそこらのペラペラ映画とは一線を画する。山本の描かんとする世界にはどうしてもこれだけの時間が必要なのだ。各場面が含有する情報量は相当なものであり、退屈する暇がない。多彩な登場人物を手際良く紹介し、意外性に富んだストーリー展開で厭きさせない。当り前の話だが、観客の集中力は時間が経てば経つほど落ちてゆく。となると、映画はそれを補う面白さを提供しなくてはならない。山本映画にはそれがある。複雑で深刻な題材を扱いつつも、第一級の娯楽作品に仕上げてしまう彼の才能はもっと評価されても良いのではないか。映像面も実に男らしい。常に被写体を正面から捉えており、その正攻法な撮り方には、ある種の風格をも感じさせる。つまらない映画に限って、訳のわからない映像や構図を濫用し、これが芸術だと居直るものである。まあ、ゲージュツもいいけどさ。もう少し面白い映画を作ってくれねえかな。面倒だけどホンもちゃんと書こうね。

この映画は山本版『ゴッドファーザー』とも言うべき作品である。関西に深く根を張るある財閥の物語だ。そのボスライオンに佐分利信が扮している。佐分利財閥は銀行業を中核にして鉄鋼、倉庫、不動産等、手広い商売を繰り広げている。佐分利銀行は全国銀行ランキング第10位に食い込んでいるが、ボスの野望はこの程度では満たされない。いずれは日本金融界のトップに躍り出てやろうと目論んでいる。その為には手段は選ばない。犯罪スレスレの作戦行動など日常茶飯事である。桁外れのアクの強さを誇る野心家に扮した佐分利が「これこそ俺の役だ」と叫ばんばかりの熱演を見せている。年齢を感じさせない恐るべきヴァイタリティの持主であり、親族の中ですら正面切って反抗出来る者は一人もいない。夜の営みも相変わらずお盛んだ。時には本妻(月岡夢路)と愛人(京マチ子)の両方をベットに引き摺り込み「3人でやるのは久し振りじゃあ」などと暴れ狂う始末。これのみだと単なるエロジジイだが、仕事に対する執念は並々ならぬものがある。肝となる商談や交渉には自らが出向き、自らが話をまとめる。この爺さん、未だに現役の戦士と言う訳だ。頭取室の椅子に踏ん反りかえっているだけの男ではない。その精力的な活躍振りには感服する者も少なくなく、部下の信望もそれなりに厚い。佐分利のやり方やライフスタイルを肯定する人は少ないと思うが、大組織のリーダーたる者、奇麗事ばかりでは済まされない。劇中「俺の判断には社員9000名とその家族の生活がかかっているのだ」という佐分利の台詞がある。かなり偽善的な印象を受けるが、当人は本気で言っているのだろう。

佐分利家の長男に仲代達矢。権謀術数に長けたエリートの役は田宮二郎(娘婿)に任せて、ここでの仲代は裏表のない真摯な性格の好漢に扮している。仲代は財閥内の鉄鋼部門を担当しており、自前の溶鉱炉を建設するのが長年の夢である。それを現実にする為には莫大なカネ(250億円!)が必要となる。その資金調達に東奔西走の毎日。だが仲代の表情は明るい。目的のある人間ならではの活力に満ち溢れている。そんな長男を見詰める佐分利の目は無気味に濁っている。彼としては次男(目黒裕樹)ではなく、長男に銀行部門を継いで欲しかったのだが、仲代は敢えて鉄の道を選んだ。それが気に食わない。何故こいつは俺に逆らうのか。やはりこいつは××の××じゃないのか。顔も似ているし。仲代も父親の感情は承知している。両者の関係は日に日に険悪になり、ついには衝突の時を迎える。佐分利vs仲代。これに他の家族や愛人のマチ子も加わって、大変な騒ぎとなる。二度に亘るド迫力の親子対決がこの映画最大の見せ場だ。

対決と言えば、政治家、実業家、マスコミ…策士同士の駆け引きや腹の探り合いが山本映画には頻繁に登場する。俺の好きな伊丹映画にも同様の場面があるが、山本映画の厚味に比べると、まるで子供騙しである。いや、伊丹どころか、この種の演出に限定すればクロサワ以上の腕前かも知れない。監督自身が類似した体験を経てきたとしか思えない強烈なリアリティがあるのだ。映画後半、仲代の夢が文字通り木端微塵に吹き飛ぶ場面があるが、その特撮が見事な出来映えであった。この2年後に発表された『不毛地帯』にも特撮が使用されているが、余りにも稚拙で、酷く落胆した記憶がある。あれは『華麗なる一族』と同じチームが手掛けたのであろうか。だとしたら、随分予算を削られたらしい。映画というものは残酷な特徴を持っている。他の場面が幾ら良くても、ワンシーンでも手抜かりがあると、その部分が目立ち、全体の品質を下げてしまう。その点、この映画にはスキがない。豪華キャストが各々の個性を充分に発揮しており、群集劇特有の面白さを存分に堪能出来る。途中、難解な箇所にさしかかると、必ず鈴木瑞穂の説明ナレーションが挿入されるという親切さ。頭の悪い観客(俺)が観ても大丈夫なように施された配慮が嬉しい。まさにプロの仕事である。アマチュアがデカい面をするようになってから映画は駄目になった。この映画が公開されたのは昭和49年。見覚えのある数字だと思ったら、俺が生まれた年じゃないか。そう言えば、この年は丹波先生の代表作たる『ノストラダムスの大予言』も封切られている。既に観客の邦画離れは始まっていただろうが、監督もスタッフも役者もまだまだ才人が揃っていた。ああ。魅惑の70年代。タイムマシンが実用化したら是非行ってみたいね。

(2004/07/12)

『子連れ狼/三途の川の乳母車』

先日。ビデオで『子連れ狼/三途の川の乳母車』(1972年公開)を観た。

シリーズ第2弾。今日もまた冥府魔道を彷徨する拝一刀(若山富三郎)とその息子。幕府公認の暗殺集団《裏柳生》との闘いは果てしなく続く。かの組織は日本全国、津々浦々にまで隈なくネットワークを張り巡らせている。拝親子ヲ殺セ。各出張所には総大将・烈堂の「子連れ狼抹殺指令」が飛んでおり、最早拝親子に逃げ場はないのだ。どの街道を選ぼうが、何処に隠れようが、常に《裏柳生》の追求が迫ってくるのである。この絶望的状況下、ガラガラと愛息・大五郎を乗せた乳母車を押しながら、元公儀介錯人は何を思うのか。若山御大の病的な表情からは秘められた感情を読み取る事は困難である。今回の相手はローカルチーム。練達の女暗殺者を擁する《明石柳生》が当面の敵となる。映画後半は幕府御用達の護送専門家《弁天三兄弟》との死闘が展開する。血戦に次ぐ血戦。前作を超える「出血大サービス」が随所に用意されている。大道芸人や農家の娘に扮装した暗殺者が間髪入れずに斬りかかってくる。その迎撃に大忙しの子連れ狼。ずばっ。どばっ。ぐばっ。一刀の愛剣『胴太貫』も大車輪の活躍だが、流石に食傷の感は拭えない。御大の立ち廻りも精彩を欠く部分があり、活劇場面の回数と映画の品質が必ずしも比例しない事を教えてくれる。

阿修羅地獄さながらの生活を送るアウトロー親子の収入源は刺客業である。子連れ狼の仕事料は五百両。全額前払いである。現在の価値に換算すると幾らになるのだろうか?見当もつかないが大体5000万円ぐらいかな?誰か詳しい人がいたら教えて下さい。一刀の公務員時代の年収がどの程度なのかはこれまた不明だが、今の方が懐具合は暖かいかも知れない。何回か仕事をこなせば《裏柳生》に対抗する遊撃隊結成も夢ではなさそうである。一刀の財産管理は豪快そのもの。大金の包みを乳母車の中に無造作に放り込んでいるという有様だ。もののふの余裕とでも言うべきか。それとも神経が太すぎるのか。まあ、子連れ狼からカネを盗ろうと考えるバカも少ないと思うけど。依頼者によって印象は異なるだろうが、この金額は決して高くはない。何しろ殺す人数は関係ないのである。1人殺そうが100人殺そうが一律五百両。時代劇史上に残る無敵の必殺マシン。それを雇う費用がたかが五百両なんて、安い安い。仮に「■■藩を潰してくれ」と頼んだら、本当にやりそうである。仮に「江戸幕府を滅ぼしてくれ」と頼んだら、本当にやりそうである。大きなお世話だが、一刀はこの莫大な報酬を何に使っているのだろうか。遊興や女道楽に耽っている様子は全然ないし、まさか例の乳母車(凶器満載!)の改造費にでも充てているのだろうか。それにしたって限度があるだろう。因みにこの乳母車を設計&製作をしたエンジニアは天才である。

後半戦は《弁天三兄弟》との全面対決に時間が割かれている。大木実、新田昌玄、岸田森…この面子が向こうからやって来ただけで大抵の奴は道を避けるであろう。このような世にも恐ろしい兄弟を産み落とした母親は一体どんな人物であろうか。恐らく名うての女武芸者か地獄の怪物に違いない。その尊顔を一度拝したい気もする。噂によれば「今迄に何人殺したか数え切れない」ほどの連中である。当然腕は立つ。奇妙な武器を使う。殺しの手口は残虐を極め、彼らに殺(や)られた死体はとても見られたものではない。では、血に飢えた殺人鬼かと言うとそうでもないようだ。襲撃者に対しては、徹底的に応戦するが、攻撃を仕掛けてこない者には手出しはしない…それが《三兄弟》のポリシーなのである。激突の前に下等船室で対峙する一刀と3匹の戦鬼。同じ業界だけに情報は早い。漂泊の刺客人・子連れ狼の存在は既に《三兄弟》の耳にも入っている。そして、何処から見ても《子連れ狼》としか呼びようのない浪人が自分達のすぐ傍に座っている。これが偶然である筈がない。俺達を殺しに来たのだ。今の内に潰しておいた方が後々楽に決まっている。しかし、彼らはそれを実行しようとはしない。何故なら、その行為が自分達のルールに反するからである。プロフェッショナルは常に己が信条に忠実なものである。悪役ながら天晴れな心意気であり、こういう敵なら『胴太貫』も斬り甲斐があるというものだ。つまらない小者ばかりを相手にしていては、伝家の宝刀が泣く事になる。

息子の大五郎が健気な活躍を見せる。手負いの親父を助ける為に、水を汲んできたり、食い物を調達してきたり(でも泥棒はいけないよ!)。大五郎の台詞と言えば「ちゃん」ぐらいしかないが、この短い言葉の中に親を慕う子の心が凝縮されているのである。今回、大五郎は女忍者の一人を鮮やかに仕留めている。敵の下腹部に白刃を突き刺す瞬間を見逃すな。大五郎の初手柄だ。幼稚園に入園するかしないかの年頃なのに大したものだ。今日は楽しい運動会。仲良く手を繋いで一緒にゴール…そんな甘ったれたハウス栽培児とは事情が違うし、出来も違うぜ。それに度胸もある。壮絶な殺し合いの中にあっても、この子は顔色ひとつ変えずに、冷静に戦況を見守っている。将来が楽しみと言うべきか、それとも末恐ろしい餓鬼と考えるべきか。蛙の子は蛙。刺客の子は刺客。父親の有する殺しの才能、闘争感覚は確実に受け継がれているようだ。どの世界でも二代目に対する風当たりは強いが、親父の教えをよく聞いて、立派な暗殺者に育って欲しいものである。

(2004/07/11)

『殺し KOROSHI』

先日。ビデオで『殺し KOROSHI』(2000年公開)を観た。

冬。雪に沈む小さな町。主人公の石橋凌は毎日会社に行くフリをして、パチンコ屋に通っている。何故そんな事をしなくてはならないのか。それは3ヶ月前に会社をクビになったからである。まさか自分がリストラの対象になるとは…。その衝撃で受けた傷は完治していない。パチンコに没頭するくらいなら、就職活動でもやればいいのにと思うが、今の彼には意欲も気力もなさそうだ。惰性と誤魔化しの毎日。未だに「その事」を妻(大塚寧々)に告げられずにいる。自分の気の弱さに嫌気がさしつつも、どうしても切り出せないのである。どうやらこの家庭は細君が主導権を握っている様子だ。石橋の娘は現在アメリカ留学中だが、これを許可したのも多分奥さんであろう。留学なんてカネがかかってしようがねえ。というのが石橋の本音なのだから。退職金と預金通帳を操作して毎月分の「給料」を振り込む石橋。子供じみている。そんな偽装工作をしたところで、バレるのは時間の問題だ。それでもやるという事は余程奥さんが怖いらしい。いや「らしい」ではなく、彼女は本当に恐ろしい女である。夫が考えている以上に。それが判明するのは物語の終盤になる。

なけなしの退職金も間もなく消滅する。いよいよ後がなくなった石橋はパチンコ屋の駐車場で奇妙な男と出遭う。荒れ模様の日であった。馴染みの店が突然潰れてしまい、さてどうしようかと思案していたところであった。石橋の車に「彼」が強引に乗り込んできたのだ。目つきの鋭い白髪の男である。その風貌からしてタダ者ではない。老人と呼んでもおかしくない年齢だと予想されるが、依然として危険な気配を周囲に発散している。誰だろう?宮崎駿だろうか?いやいや緒形拳である。緒形は当然のように助手席に座り込むと、石橋に極めてユニークな再就職の話を持ちかける。石橋さん。貴方、人を殺してみませんか?と。えっ。何だって?緒形は石橋の抗議や質問が聞こえないかのように滔々と話し始める。報酬は幾らか。殺人の要領は。凶器の隠滅はどうすれば良いのか等々…言葉遣いは丁寧だが、そこには相手に有無を言わせぬ底知れない迫力が感じられる。半信半疑の石橋に頭金、標的の顔写真&資料、ピストル、携帯電話が入った紙袋を手渡すと、じゃあ。よろしく。緒形はそう言って雪の中に消えてしまうのであった。誰なんだ?あのジジイは?

緒形扮する謎めいた老人のキャラクターが面白い。闇世界の住人。暗殺組織を率いる元締めである事は間違いないが、規模も目的も正体も不明のまま。そのミステリアスさがたまらない。人気時代劇「必殺シリーズ」における緒形の格好良さにシビれた者としては実に嬉しい配役。まるで藤枝梅安や知らぬ顔の半兵衛が現代に転生してきたかのようなワクワク感。監督&スタッフが果たしてその事を意識していたかどうかはわからないが。暗殺者のスカウトから成功報酬の支払いまで自ら行っているくらいだから相当マメな男である。場合によっては、自分の手を汚す事も辞さない。それに親切である。最初の仕事を終えて、興奮冷めやらぬ石橋にその対処方法を教えてやる緒形。今夜はたっぷり奥さんを可愛がっておやりなさい。

一方の石橋だが、今回の役を持て余しているような印象が否めない。石橋だと恰幅が良過ぎて、リストラサラリーマンの哀愁を表現するには不向きである。どうしてもヤクザの幹部か不良刑事に見えてしまうのである。その点を演技や演出でどうカバーするかが焦点となるが、残念ながら成功水準までは達していない。石橋の熱演が空転気味でかえって痛々しい。もう少し楽に演じて欲しかった。これが蟹江敬三や平田満辺りなら得意のユーモアを交えつつ適確に演じこなすだろう。登場人物が極端に少ないだけに出演者の選択にはもっと気を配るべきであった。まあ、映画の場合、興行的な思惑が絡むのは致し方ないが…。登場人物も少ないが、この映画は脚本自体がシンプルであり、物語の舞台も限定されている。最大の見せ場となる筈の「殺しの場面」も拍子抜けするほど淡白に撮られている。音楽も主題歌も一切使用されていない。何処まで贅肉を削り落とせるかが、この映画の主眼だったようである。その実験精神は大いに買いたい。作り手の目指す無国籍な雰囲気や不条理な感覚はかなり出ていたと思う。ただ、石橋の車のナンバープレート(はっきり「札幌」と読める)が画面に出た時は興醒めした。更に欲を言えば、登場人物の名前も不要な気がした。ホンの工夫次第で充分消去可能だったと思う。こういう種類の映画は細部まで凝らないと、築き上げた世界観が簡単に瓦解してしまうものだ。劇中、何度も出現する風力発電用の巨大プロペラ群が美しい。あれが現れる度に異世界に迷い込んだかのような不思議な気分になる。あの大型建造物が一体何を象徴しているのか?俺には想像すら出来ないが、瑣末な事であくせくしている人間どもを高みから嘲笑っている…そんな感じを受けないでもない。

(2004/07/08)

『ダイナマイトどんどん』

先日。ビデオで『ダイナマイトどんどん』(1978年公開)を観た。奇妙なタイトルである。これを聞いただけで映画の内容がわかった人はエラい。

菅原文太、北大路欣也、嵐寛寿郎、金子信雄、田中邦衛、志賀勝…この面子が揃えば撮る映画の種類は限定されてくると思うが、妙才・岡本喜八の手にかかればあら不思議。観た事もないような風変わりなヤクザ映画が出来上がる。物語の舞台は敗戦直後の北九州。地元警察の防犯体制も整っておらず、幾度も進駐軍のお世話になっている有様である。こうなると、ヤクザやらゴロツキやらヤサグレやら、得体の知れない連中の天下となる。白昼堂々、闇物資&進駐軍物資を巡っての熾烈な抗争が繰り広げられている。これが深作欣二だと、泥まみれ、血まみれの死闘が画面一杯にぶちまけられる所だが、岡本の場合は同じ殺し合いを描いても、何処かユーモラスで喜劇的味わいが強い。作家性の違いである。よく観ると誰も死んでないし。

この街の覇権を競って激しくぶつかり合うふたつのダークパワー。アラカン組と金子組。前者は昔ながらの任侠道を重んじる大時代なヤクザであり、後者は領地拡大の為には手段を選ばない「仁義なき」ヤクザである。現在の戦況は新興勢力たる金子組の方が押しており、優勢を確保している。アラカン組の斬り込み隊長たる文太はこの状況が気に食わず、血の気の多い子分を集めては遊撃活動に勤しんでいる。思い切り暴れ狂った後には行きつけの居酒屋に直行する。以前から、その店を経営する宮下順子に熱烈なラブコールを送っている文太だが、ほとんど相手にしてもらえない。どうやら男がいるらしいがその正体は不明である。そんなもん知るか。アルコールで頭のおかしくなった文太は宮下を力ずくで押し倒し強姦に及ぶ…という事は全くない。この男、女性に関しては少年のように初心なのである。

二大ヤクザの度重なる蛮行に対して、当地の警察署長(藤岡琢也)が奇想天外な打開案をぶち上げる。今後、ヤクザ同士の喧嘩は一切禁止。揉め事の決着は全て野球でつけろと言い出す。試合に負けたチームが勝ったチームの要求を無条件で飲むという訳だ。よくわからないが、それが「民主主義」というヤツらしい。因みにこのルールを破った者は強制労働の刑に処する。覚悟しとけ。そんなアホな。ありえねえ。ヤクザも観客も藤岡の荒唐無稽なアイディアに面食らうが、井出雅人(名作多数)の脚本が実に巧みで、あれよあれよと言う間に組対抗の野球大会が開始されてしまう。快調な岡本演出もさる事ながら、これは井出脚本の見事さを湛えるべきであろう。ヤクザ+野球。異質な要素が融合する時、そこには斬新な物語が誕生する。粗雑な描写が目立った『死に花』(本年度ワースト候補)なども井出クラスの作家が手掛ければもう少し何とかなったかも知れない。脚本家育成こそ日本映画の急務だ。いねえんだもん。ホンを書く人が。

ヤクザ映画常連俳優の中で、岡本作品とは相性の良い岸田森が独特の存在感を放っている。金子組長の腹心たる岸田はチーム力強化の為、東奔西走、大忙し。札束で頬を叩いて、次々と野球巧者のヤクザを己が陣中に引き込む。何やら何処かの金満球団を連想させるスカウト振りである。ピンクのスーツに身を固めた岸田が珍しく陽性な演技を見せている。俺の印象ではこれはミスキャストだと思う。だが、自分に合おうが合うまいが、強引とも言える役作りでそのキャラクターになり切ってしまうのが岸田の凄さだ。流石に松田優作、萩原健一、藤岡弘と言った錚々たるメンバーが尊敬し、あのカツシンさえもが一目置いていた稀代の怪人である。例え端役であっても全身全霊で演じこなす役者根性は見上げたものだ。本当に少なくなったよな。こういう名脇役が。

紛れもない娯楽作品だが、謎の傷痍軍人に扮したフランキー堺(アラカンチーム監督)の存在が、この映画に深みを与えている。この大馬鹿者!映画後半、ある目的の為に自ら指を切り落とした若い衆を罵倒するフランキー監督。この人物が内包していた憤怒が一気に表面化した瞬間であり、ヤクザの慣習と戦争の残酷さを同時に批判するという名シーンであった。地獄のような戦争体験を持つ岡本の慟哭が胸を貫く。それまで能天気に笑い転げていた観客の不意を衝く強烈な場面である。必見。さて、気になる『ダイナマイトどんどん』の由来だが、俺の文章能力では説明困難。それは観てのお楽しみという事で。本日の放言はこれにておしまい。どんどん。

(2004/07/04)

『魚影の群れ』

先日。ビデオで『魚影の群れ』(1983年公開)を観た。主人公の凄腕漁師に緒形拳。緒形の娘に夏目雅子。夏目の恋人に佐藤浩市。物語中盤、オレ流緒形に耐え切れず、燕を作って逃げた奥さんが登場。これを十朱幸代が演じている。この映画の主要キャラクターはこの4人。人間関係も物語の構造も至ってシンプルだが、秀逸な人物描写と凝った映像で魅せてくれる。監督は長回し大好き男・相米慎二。

夏目、佐藤、十朱が各々の個性を生かした好演を披露しているが、緒形がその上をゆく渾身の演技で観る者の度肝を抜く。劇中、鮪漁のプロセスが何度か登場するが、専門職でもない緒形がこれに挑戦しており、立派に成功を収めているのだから驚異的だ。人間vs大魚。ホンモノの殺し合いを観客は目撃する事になるだろう。長く激しい攻防戦が展開する。弱った鮪を舷側に引き寄せて、金属製の鉤爪をその脳天に叩き込む。鮮血が迸り、たちまち海面が真っ赤になる。何本もの鉤爪を突き刺し、鮪が完全に動かなくなると、これを船尾に誘導して、ロープで頑強に固定する。ここまでやって、ようやく戦闘終了となる。これをカットを割らずに丸ごと撮ろうと言うのである。映画監督とは真に欲の深い生き物である。この難題を緒形が見事にこなしており、緊迫感漲る名場面に仕上がっている。如何にベテラン緒形とは言え、度胸と体力に自信がなければ到底不可能な芸当だ。緒形の強靭な精神力を激賛したいところだが、かの快男児の事である。いや。俺は役者ですから…などと、サラっと応えそうである。

物語の舞台は東北地方の港町。緒形はこの界隈ではトップクラスの漁師である。今日も愛用の漁船を駆って、大海原に繰り出す。波飛沫を蹴立てて太平洋を突き進む緒形の勇姿。だが、大自然の雄大さだのロマンだのに浸っている暇はない。金持ちや道楽者の舟遊びとは訳が違うのだ。生計がかかっている。借金も残っている。目標は20kg近い重量を誇る鮪である。首尾良く仕留めれば、大金が転がり込むが、相手もそう簡単には捕らえさせてくれない。場合によっては数時間に及ぶ死闘となる。ひとつ間違えればこちらが大怪我を負ってしまう。再起不能になる者も少なくない。実際、緒形の好敵手的存在だった漁師(三遊亭円楽!)も左足をグチャグチャに破壊されて、現在では義足生活を余儀なくされている。まさに命懸けの仕事である。同時にギャンブル性の高い稼業でもある。沖に船を進めれば、それだけで数万円(燃料費)が吹っ飛ぶ。不漁が続けば、その分、無駄な経費が嵩むのだ。何日もヒットがないと、流石に焦燥感も募ってくる。そんなギリギリの状況下で鮪漁の戦士たちは闘っているのである。それだけに帰宅後の酒は死ぬほど旨い。緒形が茶の間に寝そべりつつ、焼酎(勿論ストレート)をゴブゴブ呑み干す場面が良い。あれこそが本当の酒というものだ。半端な仕事しかした事のない奴にはこの味はわかるまい。勝利者のみが許される美酒である。娘の雅子には少しアルコールを控えるように注意されているが、こればっかりはやめられねえ。

漁師には極楽か地獄しかない。それが緒形が辿り着いた結論である。この商売の過酷さを知り尽くしているだけに、佐藤風情が弟子入りを希望しても腹が立つだけ。ふざけるな。当初は完全無視を貫いていたが、根負けして渋々船に乗せてやるハメになる。やがて漁場に到着。猛烈な船酔いに襲われてゲロを撒き散らしている佐藤を尻目に、緒形は着々と闘いの準備を整えている。青二才と達人の鮮やかな対比である。久々のヒット。ド素人は引っ込んでろ!強烈な警告が飛ぶ。にも関わらず緒形の周りをウロウロしていた佐藤の頭部にテグスが巻きついてしまう。さあ大変だ。鋭い刃物と化した釣り糸が、ギリギリと表皮に食い込む。血塗れになりデッキにぶっ倒れる佐藤。二者択一。決断を迫られる緒形。獲物を取るか、娘の恋人を取るか…一瞬躊躇したが、緒形が選んだのは鮪の方であった。凄まじい男である。この人物が有する恐るべきアクの強さを感じさせる。お父さんは鮪と人の命とどっちが大切なの?陸に戻った緒形は雅子に散々罵られるが、無言でそれを聞いている。鮪漁は戦争だ。そこにノコノコ踏み込んできたのはお前らじゃないか。一寸ぐらい反論しても良さそうな気もするが、緒形はただ黙っている。もののふとは言い訳をしないものなのだ。

緒形と十朱の演技合戦も見応えがある。土砂降りの雨の中での再会である。雅子が5歳の時に十朱は家を捨てた。両者の間には20年の時が流れている。緒形はお前は変わらないなと評し、十朱はあんた老けたわねえと笑う。十朱が経営する呑み屋で酒を酌み交わす元夫婦。最早喧嘩をする気にもなれない。互いに歳を取り、人生の辛酸も舐め尽した。まるで久々に出遭った旧友か戦友のように2人の会話は弾むのであった。その後に用意されていたこの映画唯一の濡れ場はややクドかったが。ワンシーン・ワンカット。控え目なカメラポジションが観客の感情移入を牽制し、強固なリアリティを構築している。リアリティと言えば、登場人物が操る方言の応酬も実に気持ちが好い。まあ、地元の人間が聴けばおかしい発音もあるのかも知れないが、緒形も雅子も佐藤も十朱もちゃんと漁師町の人間に見えるのだから大したものだ。時々、会話の内容が不明瞭になるが、そこがまたリアルなのである。言葉もまた映画の小道具。相米演出がことごとく図に当っており、彼としても会心の作だったと思われる。夏目雅子共々、その急逝が悔やまれる。相米&夏目。慢性的人材不足に悩む日本映画にとっては痛過ぎるダメージであった。

(2004/07/04)

『子連れ狼/子を貸し腕貸しつかまつる』

先日。ビデオで『子連れ狼/子を貸し腕貸しつかまつる』(1972年公開)を観た。主演は若山富三郎。宿命のライバルに怪優・伊藤雄之助という強烈布陣。

江戸時代初期。幕府は各藩に隠密を放ち、不穏な動きや反乱分子がないかを調査させていた。少しでも怪しい藩を見つけると重箱の隅を突き、難癖をつけては、藩主を切腹に追い込む。その際の介錯を命じられているのが、この物語の主人公・拝一刀(若山)である。役職名は公儀介錯人。大名専門の斬首マシンという訳だ。場合によっては年端もゆかぬ子供の首を刎ねる事さえある。さしもの大丈夫も些かの罪悪感を感じているらしく、自宅の片隅に供養塔を建てて、今まで殺した奴の霊を丁重に弔っている。この習慣が一刀の運命を劇的に変える事になるのだから人生は不思議。エリート公務員から冥府魔道を突き進む血みどろアウトローへ。幕府直属の暗殺部隊《裏柳生》が策動を開始したのだ。彼らは前々から公儀介錯人の座を狙っていた。その野望を達する為には拝一族を排除する必要がある。その日。一刀と息子の大五郎(まだ赤ちゃんです)が例の供養塔に篭ったのを見計らい《裏柳生》の刺客団が拝邸に侵入。一刀の奥さんから使用人の婆さんまで一人残らず虐殺するという大凶行に及んだのである。水鴎流免許皆伝の遣い手ともあろう者が、これだけの騒動に気づかないとは解せないが、とにかく彼としては生涯の不覚であった。更に一刀は「幕府への謀反の疑いあり」という濡れ衣まで着せられてしまう。全ては《裏柳生》のボス烈堂(伊藤)が仕掛けた巧妙な策略であった。

ずばっ。どばっ。ぐさっ。派手な効果音と共に首が腕が足が…バラバラに切断された人体が宙を舞い、夥しい血糊がスクリーンを真紅に染め上げる。この映画の最大の見所はやはり迫力満点の殺陣場面である。これはまさに黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』の進化形、発展形と言えるだろう。時々、冗談と紙一重の瞬間があるが、映画(活動写真)の原点たる「見世物としての面白さ」を存分に満喫出来る。堂々たる体躯に強靭な瞬発力を秘めた若山御大の立ち廻りが圧倒的である。とても人間とは思えない太刀捌きの数々。御大の誇る運動神経はマンガを現実化してしまった。そして、その愛剣も相当凄味がある。名刀『銅狸…じゃなくて『胴太貫』の驚異的破壊力。この小道具の放つ魅力がそのままこの映画の魅力に繋がっている。何処かの床の間に飾ってあるパチモンやナマクラとは比較にすらならない業物だ。人間の骨肉を容易く切り裂いてしまう恐るべき武器でありながら、ある種の美しさをも湛えている。美術品としても第一級の出来映え。流石に公儀介錯人を務めたまでの男である。商売道具には随分と凝っている。

それぞれ工夫を施した戦闘場面が実に楽しいが、俺としては映画中盤のチャンバラが特に気に入っている。死に装束に身を固めた若山御大が《裏柳生》と結託した役人どもを散々に蹴散らす。左手に我が子を抱き、右手には伝家の宝刀『胴太貫』が握られている。その形相。その眼光。阿修羅の気迫に一刀を取り囲んだ外道連も思わずたじろぐ。俺が斬れるかっ。てめえらの細腕で俺が斬れるか!男なら一度は吐いてみたい台詞を絶叫しつつ、おもむろに敵勢に襲いかかる若山一刀。戦鬼降臨。子連れという致命的ハンデを背負いながら、まるで無人の野を行くが如く、百戦錬磨の刃が雑魚役人を虫ケラ同然に殺戮してゆく。強い強い。強過ぎる。豪刀『胴太貫』が閃く時、そこには確実なる死が訪れるのだ。怒涛の勢いを駆って、一刀は烈堂の右腕(露口茂)との決闘に雪崩れ込むのであった…。勝利を得る為には利用可能なものは何でも利用するのが一刀のやり方である。卓越した刀剣術の持主であるのと同時に、権謀術数に長けた烈堂を出し抜くほどの策士でもあるのだ。勝負に対する並々ならぬ執念が素晴らしい。それでこそもののふ。それでこそ戦闘者である。どうやら《裏柳生》は大変な男に喧嘩を売ってしまったようだ。殺伐たる雰囲気の中で、あどけない表情の大五郎が清涼剤的役割を担っている。自分の父親が、大量殺人者という事を知ってか知らずか(多分知らないと思うが)あぶぶあぶぶとラブリーな仕種で笑わせる。父親の背中を見て子は育つと言うが(最近は余り言わねえか)果たして、大五郎はどんな大人に成長するのだろうか。彼の親父の背中は途轍もなく重い。

(2004/07/01)

『ノーライフキング』

先日。ビデオで『ノーライフキング』(1989年公開)を観た。

今日は人気RPG『ライフキングの伝説』(シリーズ第4作)の発売日である。玩具屋の前には大層な行列が出来ており、餓鬼どもは店のシャッターが開くのをじっと待っている。中には徹夜組もいるそうである。そこまでしてTVゲームなぞがしたいのかとも思うが、俺も『ドラクエ』だの『ファイナル・ファンタジー』だの『ウィザードリー』だのに夢中になったクチなので、余り人の事は言えない。待望のソフトを入手した者は大急ぎで家に戻り、早速虚構世界に浸り込む。学校での話題は当分『ライフキング』の攻略法一色になるだろう。そして、最初にゲームを制覇した奴はクラスの英雄として称えられるだろう。だが、発売後暫くしてから、無気味な噂が餓鬼達の間を飛び交うようになる。馬鹿馬鹿しい情報だが、彼らの表情は至って真剣である。何でも『ライフキング』の中には「悪魔が作ったソフト」が混入しているらしい。悪魔のソフト『ノーライフキング』をやり始めた者には、その瞬間「呪い」がかかると言うのだ。呪いを解除する方法はゲームを終わらせるしかない。それに失敗した場合は、プレイヤーに死が訪れる。本人だけではない。家族全員の命もまとめて消滅するのだそうである。何処かで聞いたような話だが、この映画の方が『リング』よりも随分早く公開されている。つい、都市伝説を題材にしたホラー映画を期待してしまうが、それはあっさり裏切られる事になる。何かが起こりそうで、結局は何も起こらない…というのがこの映画の正体なのである。

誰一人として感情移入可能な人物が登場しないというのも見事である。大勢の子供が登場するが、何処となく機械的で昆虫を思わせる。生きているのか死んでいるのかわからないような幽霊のような連中である。自分の意思があるのかないのか、昆虫のように水泳教室に通い、昆虫のように夏期講習を受ける。まるで人造人間が決められたプログラムを黙々と消化しているような感じである。勉強も遊びもそのプログラムの内なのか。最初から最後まで、それがずーっと続くので流石にイライラさせられるが、あの生気のなさ覇気のなさは、現実の子供にも感じられる傾向であり、リアルと言えばリアルである。じゃあ、それが面白いかと言えば、全く面白くないと答えるしかない。むしろ不快である。映画的面白さゼロっ。第一監督の市川準も面白く撮ろうなどとは恐らく考えてはいまい。そういう意味では監督の目論見は充分達成されていると言えるだろう。映画全体を貫く作り手の冷徹な視線は、観る者をゾッとさせる怖さがある。さっきホラー映画ではないと言ったばかりだが、この作品がある種の「怪談」である事は確かなようだ。

何の魅力もない子供達よりも更に輪をかけて不愉快なのが、オドオドした態度の大人達である。その卑屈な物腰、意味のない強張った笑顔。何が伝えたいのかさっぱりわからない話し方。表情や風貌も温室的で、気色が悪い。イライラする。俺には彼らの方が餓鬼に見えた。餓鬼以下の餓鬼に。子供どころか大人さえもこんな有様では、この国の将来も相当暗そうである。日本は確実に滅びるぜ。この映画が公開されてから15年近くの時間が経過しているが、我が国の滅亡度はどの辺まで進んでいるのやら…。寒気がしてくるね。

主人公の母親も絵に描いたようなアホ振りで俺の不快指数を一気に上昇させてくれた。自分の息子(ゲームに没頭して最近構ってくれない)に向って「あんまり遠くに行かないでえ」(思い切り甘ったれた声で)だってさ。こういうバカ親が増殖しているのかと思うと胸がムカムカしてくる。いい加減に子離れしろよ。結構な歳なんだからさ。この女も国を滅ぼす因子のひとつになりそうだな。段々腹が立ってきたぞ。大体、メシも作れない(のか作らないのかは知らないが)母親なぞは子供に嫌われて当然である。食事という儀式を軽視するな。母子家庭なら尚更だぜ。過度に豪華である必要はない。手作りであればそれで良い。毎日が無理なら一日置きでも構わない。それも出来ないなら母親なんて辞めてしまえ。折角の夕食を店屋物やレストランで誤魔化すようでは母親失格だね。生物的には母親かも知れないが、人間の母親とは言えねえな。まともなメシも食わせないから、餓鬼の頭も性格も狂っちまうんだよ…って、これは脱線し過ぎでした。すみません。

中村伸郎、嶋田久作、イッセー尾形と言った、ベテランや個性派も顔を出しているが、デビル市川に彼らの持ち味や能力を引き出そうという気はサラサラない。果たして彼らを起用した意味があるのかどうか。それすらも疑問である。3人とも例の昆虫演技に徹しており、市川はそれぞれの個性を完全に殺している。これほど贅沢な役者の使い方というのも稀であろう。何しろ、芸達者に芸をさせないのだから。劇中『ノーライフキング』の他にも様々な噂話が登場する。その大半が「死」に関係するものである。「■■に会うと3日後に死ぬ」とか「▲▲を見ると1週間以内に死ぬ」とか…やはり子供達は死にたがっているのだろうか。無味乾燥な機械生活から逃げ出したいと。でも自ら命を絶つ度胸もない。故に「絶対に死ぬシチュエーション」を設定したがるのだろうか。それとも死の恐怖を知らないからこその戯れなのだろうか。どちらにせよ、彼らの心が病んでいる事に変わりはない。問題提示はするものの、その治療法や解決案を示す事もなく、映画は無愛想に幕を降ろす。後は手前の脳味噌で考えろという訳か。

(2004/06/27)

『スローなブギにしてくれ』

先日。ビデオで『スローなブギにしてくれ』(1981年公開)を観た。原作は片岡義男の同名小説。監督は藤田敏八。

世間の常識から逸脱した登場人物が織り成す気だるい物語。劇的展開はほとんど見られず、大袈裟な会話が交わされる事もない。抑制の利いた俳優陣の演技。無駄とも言えるエピソードの積み重ねが妙に楽しい。心地好い無駄とも言えば良いのだろうか。独特の雰囲気だけで観る者を魅了してしまうのが藤田の凄い所である。人生後半は監督業だけでは食えず、役者としての活躍が目立ったが、日本映画界には珍しい貴重な才能の持主であった。

主演は浅野温子。性質も身のこなしも野良猫を思わせる少女だ。一種のアウトローと言えるかも知れない。どうやら高校生らしいが、学校に通っている様子はないし、在宅している事も稀のようだ。あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。自由奔放、神出鬼没。えっ。主体性がない?もっと将来の事を考えろだって?いいじゃん。今が楽しければ。誘われれば知らないオヤジの車にだって乗るし、望むなら寝てあげてもいいよ。でも100万円貰うからね。そんな温子と同棲生活を始める古尾谷雅人。相当に血の気の多い男であり、腕っぷしにも自信がある。必要以上に攻撃的になるのがこの男の特徴だ。俺をナメるんじゃねえ。誰もナメちゃいないさ。あんたが勝手に興奮しているだけだろーが。アルバイトで生活費を稼ぎながら、愛用のバイクを転がす日々。たまにアパートに帰ると、そこは野良猫の天下。猫の化身たる温子がそこら中から子猫だの捨て猫だのを拾ってくるからだ。みゃあ。みゃあ。バイク野郎の城は大変な騒ぎである。恋人がいても、他の女と交わる事に躊躇はない。ある日。自分と同類であるバイク女とチェイスを繰り広げた末に仲良くホテルに直行。ついでに御褒美まで貰っちゃった。それが余程嬉しかったのか、自慢たらしげに一部始終を温子に話す古尾谷。おめーに売春婦が出来るかよっ。これだけのカネが稼げるかよっ。などと訳のわからない台詞を吐く古尾谷。おいおい。それって威張る事か?どう考えてもアホとしか思えないが、その破綻振りが案外面白い。

この物語のもう一人の主人公たる中年男に山崎努。激しい女性遍歴が祟り、奥さんはとうに娘を連れて家を出てしまっている。目下、離婚の手続きが進められている。両者の間に立ち、細々とした調整作業を行っているのが弁護士の伊丹十三である。伊丹は客演に近い扱いであり、映画後半にちょっぴり顔を出すだけなので見逃さないように。現在、山崎の家には原田芳雄とその恋人が住んでいる。彼らの子供は「原田の子か山崎の子かわからない」というややこしさ。養育費は山崎と原田が月単位で交互に払っている。女も軽率だが、他人の彼女に食指を伸ばす山崎も悪い。そんな3人がひとつ屋根の下に住んでいるのだから、これは常軌を逸した光景である。だが3人とも平気な表情で生活をしている。むしろ何処か楽しげにも見える。この程度の異常さでオタオタするようなヤワな神経は持ち合わせていないのだろうか。それとも、人間とはどんな突飛なシチュエーションであろうと、いずれは慣れてしまうものなのか。山崎の自宅は劇中度々登場するが、この映画を代表する魅力的アイテムと言える。洒落た構造の変わった家だなと思っていたが、後で資料を調べてみたら「福生の旧米軍ハウス」という事であった。

温子は学校に行っていないが、山崎は会社に行っていない。俺は会社から追い出されたとは本人の弁だが、この性格では無理もないかな。どうやら親族経営の会社らしく、しっかりと給料だけは貰っているらしい。安定した収入源があるからこそ、山崎も遊び歩いていられる訳である。そうじゃなかったらとっくに日干しだ。その事を原田に揶揄されると「うるせえ」という感じで睨み返す山崎。不良中年は怒らせると怖いぞ。外見だけでも充分怖いけど。然程暴力的な人物ではないが、山崎のイライラ演技が絶妙で、危険な気配を濃厚に発散している。世の中の全てが気に食わないような態度。そうかと思うと、情に脆い部分もあるし、自殺願望も抱いているしで、一言では言い表せない複雑な人物である。こういう役を演じさせると山崎は恐ろしく達者だ。やはりこの人には善人は似合わない。毒を含んだ人間造形にこそ、彼の才能は最大限に発揮される。

山崎も良いが、温子のバイト先である呑み屋のマスター室田日出男も良い。凶暴ヤクザのイメージが強い室田だが、この映画では人生の達人とも言うべきオヤジを演じている。若い時は音楽活動に没頭していたのだが、全くものにならず、今の店を始めた。客の顔触れもユニーク(岸部一徳、鈴木ヒロミツ等)だし、店内も清潔だ。食い物も酒も多分旨いだろう。そして何より、室田マスターの昔話は無茶苦茶面白そうである。こういう呑み屋が近所にあるとありがたいのだが。原則的に他人の人生には無関心だが、温子と古尾谷の事にはそれとなく注意を払っている。破天荒な生き方を続ける彼らの姿が、かつての自分に重なるからだろうか。そんな室田が温子の「仇」を討つ為に一度だけドスを利かせる場面がある。この辺りは流石の迫力。真のアウトローは普段は物静かだが、いざという時は、瞬時に狼に戻る事も可能なのだ。室田の個性を見事生かした藤田演出の勝利。ラスト近く、廃屋と化した山崎の家に温子が潜り込む。これぐらいの芸当は野良猫には朝飯前。何気に冷蔵庫を開けると、卵やら缶詰やらトマトやら…腐った食品がギッシリ。それらを取り出して、壁にぶつけるシーンが強く印象に残る。藤田映画の有する頽廃美が頂点に達した屈指の名場面と言えるだろう。

(2004/06/26)

『仁義の墓場』

先日。ビデオで『仁義の墓場』(1975年公開)を観た。監督は深作健太の親父。タイトルも凄いが「俺が死ぬ時はカラスだけが泣く!」という惹句も素晴らしい。

主人公の石川力夫は実在の人物である。戦後のダークサイド史に名を刻むスーパーアウトローだ。社会の敵として忌み嫌われるヤクザ。石川はそのヤクザ世界にさえ適応出来ず、惨めに放逐された。四面楚歌。行き場を失ったアウトサイダーが迎える凄惨な末路とは?人間という生き物はここまで堕ちてしまうものなのか。ヤクザ映画の概念自体を揺るがす異常な生々しさ。好材料を得た欣二演出は乗りに乗っており、石川に扮した渡哲也の熱演も加わって、忘れ難い痛烈な映画に仕上がっている。

物語の舞台は敗戦直後の新宿。ヤクザにゴロツキに愚連隊。そして台頭著しい三国人…狭いエリアにギラギラとした野望と欲望に満ちた猛獣どもが集結。連日血みどろの勢力争いを繰り広げている。石川もまたその混沌たるエネルギーを形成する一要素であった。彼はハナ肇の束ねる組織に属している。ハナは意外に懐の深い度量のある親分である。石川が次々に引き起こす喧嘩沙汰、刃傷沙汰にも「まあ、若いからしょうがねえな」てな感じで大抵の事は許してきた。だが、余りにも石川絡みの不祥事が多過ぎる。このままでは組織存続も危うくなるかも知れない。他の部下への示しもあるし。ここらでシメておかんとマズいかな。棍棒を振り回し、石川をボコボコにどつきまくるハナ組長。この大馬鹿者めが。少しは組の事も考えろ。だが、石川の脳内に反省の文字はない。半殺しの目に遭った狂犬は、ついに自分のボスに白刃を向けるのであった。石川が恐ろしいのは、怒りに我を忘れると、前後の見境がつかなくなる所である。どう考えても、自分の立場を悪くするだけなのに我慢が利かないのだ。親分であろうと義兄弟(梅宮辰夫)であろうと関係なしで斬りつける。いつ起爆スイッチが作動してもおかしくない欠陥爆弾。石川の秘める凶暴性は周囲を大いに震撼させた。敵味方を問わずに。映画の冒頭、石川の子供時代を知る人達(本物)のインタビューが紹介される。彼らの証言によれば、石川少年は性格温厚で、成績抜群の優等生であった。後の爆弾児振りとは程遠いイメージである。だが「僕は大きくなったらヤクザになる」とも言っていたそうである。既に少年は己の内に眠る《怪物》の存在に気づいていたのであろうか。強烈な暴力衝動を存分に発揮可能な場所は、ヤクザの世界しかないと…。

ヤクザ映画を観ていると解る事だが、彼らには彼らなりのルールがある。それは一般人には理解し難い部分が多々あるが、彼らの秩序を維持する為にはどうしても必要な規則なのだろう。そして、その掟を破った者にはそれ相応の制裁が加えられる。石川はヤクザとして最大のタブーを犯した。親殺しの罪である。ハナ組長は重傷を負ったものの死んではいないので正確には「殺し」ではないのだが、ドスを抜いた時点でアウトなのである。結果、石川は期間限定の関東圏追放処分を受ける事になる。逆に《親殺し》を殺せばこの世界で一躍名を売る事が出来る。それ故に石川の命を狙う者が続々と現われ始める。獄中の石川が疑心暗鬼に陥った末に刃物(分解した鋏)を持って暴れ出し、それを看守数人が取り押さえる場面の凄まじい迫力。大阪潜伏中、ある娼婦(芹明香好演)をキッカケにクスリの味を覚えてしまう石川。これ以降、彼の転落人生はいよいよ破滅度を増してゆく。石川のシャブ仲間(あるのか?そんな言葉)に扮した田中邦衛も特異な存在感を示している。この男、最早まともな会話すら不可能な状態であり、何を言っているのか全然判らない。覚醒剤に手を出した者がどのような運命を辿るかを田中が迫真の演技で見せつけてくれる。これは、彼の長い役者人生の中でも最高の演技ではあるまいか。最高の演技がクスリ中毒のそれというのも一寸イヤだが。

右も左も敵だらけの石川だが、愛人の多岐川裕美にだけには心を許しているようある。重病の多岐川が大量喀血した時、石川は無言でその血を拭ってやるのだった。狂気と暴力の権化のような男が唯一見せた優しさであり、人間的行動であった。その多岐川も病を苦に自らの命を絶つ。だが、葬式を出すカネも墓を作る費用も今の石川にはない。幽鬼のような表情でハナ組の門を叩く石川。多岐川の遺骨をバリバリ食べながら(!)土地が欲しい。2000万円欲しい。などと無茶苦茶な要求を連発する石川。流石にブチキレたハナの側近(室田日出男)が「調子乗るな!このキ××イ野郎!」と大声で彼を罵倒する。その際のドロリと濁った哲也の目つきが良い。まるで石川その人が乗り移ったかのような眼差しであった。血塗れ人生の終止符を石川は自ら打った。刑務所内における投身自殺である。彼の独房の壁には辞世の句らしきものが記してあった。「大笑い三十年の馬鹿騒ぎ」と。更に観客の度肝を抜くのは、映画の最後に映し出される石川の墓石側面に彫られた××の二文字である。これは彼一流の諧謔精神なのだろうか。それとも案外本気なのだろうか。後世の者を惑わせる冗談の心算だったのか。言うまでもないが、それを知る術は残されていない。この傑作を欣二は僅か18日間という強行軍で撮り上げたそうな(予告篇には「構想3年!」とあったけど…)。彼もまた、石川に匹敵するヴァイタリティの持主と言えよう。キャスト&スタッフを引っ張る統率力だけでも大したものだ。これに比べると(比べちゃいけないのかも知れないが)健太の作った『鎮魂歌』などはまだまだツメが甘い。親父を超えるのは至難だが、いつか観せて貰いたいものである。健太流の『仁義の墓場』を。

(2004/06/24)

『本陣殺人事件』

先日。ビデオで『本陣殺人事件』(1975年公開)を観た。横溝正史の原作を自主製作映画で鳴らした高林陽一が鮮烈に映像化。

まず画面一杯に美しい水飛沫が舞うオープニングが良い。ゆらゆらと現れるテロップも洒落ている。これから面白い映画が始まるぞ!というゾクゾクするような期待を抱かせる秀逸な出来映え。幻想的な葬列場面を経て、映画は名門田村一族の婚礼場面へと進む。厳かな儀式が手際良く消化され、やがて酒宴の席となる。田村一族の現当主たる高廣の結婚という大イベントの割には盛り上がりに欠ける。何故か?花嫁の「格」が高廣よりも随分落ちるというのがその理由だ。周囲の猛烈な反対を押し切っての結婚だったのである。酔っ払った親戚の一人が「アメリカ帰りか何か知らんが、所詮は小作人の娘じゃねえか」などと差別意識丸出しの台詞を吐き散らす。それも花嫁とその父親の眼前でである。やれやれ。何処の家にもこの手の厄介なオヤジが一人や二人はいるものである。こういう手合いはとにかく場の雰囲気を白けさせるのが大好きで、自分の言動や行動が周りの人間を動揺させる事を、何か素晴らしい能力だとでも錯覚しているようだ。それを指摘されると今度は狂ったように怒り出すから手に負えない。煮ても焼いても食えないとはこの事か。かの高廣はアホとつき合う時間は私にはないと言わんばかりに、冷ややかな視線を暴言オヤジに投げかけるのみである。

突然惨劇は起こった。初夜の契りを屋敷内の『離家』で交わす事になった新郎新婦。その2人が《何者》かに殺された。見るも無惨な斬殺死体が床に転がっている。部屋中に撒き散らされた夥しい血液。壁に塗りつけられた謎の血文字。予想外の大凶事に親戚衆は腰を抜かす。血塗れの日本刀が庭の地面に突き刺さっている。ふたつの生命を奪った凶器は恐らくこれだろう。ここで大いなる疑問が皆の前に立ちはだかる。果たして犯人は何処から『離家』に侵入したのか?そしてどうやって逃亡したのか?扉にせよ窓にせよ雨戸にせよ、全ての鍵は閉じられていた。更に『離家』の周辺に降り積もった雪には足跡ひとつ残っていなかったのである。悪魔の所業としか思えないこの事件。ミステリーの王道たる「完全密室殺人」の完成である。

その翌日。一癖も二癖もありそうな風貌を持つ年齢不詳の男が田村家に姿を現わす。中尾彬である。ラフな格好にサングラスをかけた名探偵の登場である。金田一耕助。海外放浪中、金田一は花嫁の父に命を救われた恩義がある。若き日のカリを返すチャンスが訪れたという訳である。大恩人の要請を受けた金田一はあらゆる用事をおっ放り出して、かの旧家に駆けつけてきたのだ。この映画における中尾には、後年のアクの強い薀蓄オヤジのイメージは感じられない。鋭い目つきにガッチリとした体格。推理能力だけでなく喧嘩の方も強そうである。敵に回すと恐ろしいが、味方にすれば極めて頼りになるタイプ。こういう男が援軍に来てくれれば依頼者も随分と安心であろう。意外に礼儀を弁えた人物でもあり、誉められるのが苦手で、しきりに恐縮している。恐縮する中尾というのも一種見物であり、何処となくユーモラスでもある。恩人との再会を喜ぶのも束の間、金田一は早速調査にとりかかる。まずは事件の概要を知らなくてはならない。漬物をバリバリ齧りながら、地元警察の東野英心警部の話を聴く金田一。捜査線上に浮かび上がる《三本指の男》の影。そして、婚礼当日に届けられた《生涯の仇敵》なる者による無気味な挑戦状。果たして両者は同一人物なのか?稀代の名探偵が弾き出した解答とは…。

田村&中尾。強烈な個性を備える2人の男がこの物語を支える柱石となる。田村は映画開始早々に死んでしまうので、両雄の直接対決はない。まあ、田村が健在なら名探偵を召還する必要も生じない訳だが。中尾の追跡が進む内に少しずつ田村の異常な人物像が明らかになってくる仕掛けである。この辺りがとても面白い。余りに気高くエリート意識の強い男。己が高い知性に絶対の自信を持ち、親類縁者さえも見下していた男。この病的な人物を田村が精密機械のように演じており、見応え充分である。そして、彼の13歳年下の妹に扮した高沢順子の頽廃的美しさ。滑らかな黒髪に猫を連想させる双眸。この眼でじっと見詰められたら、大抵の男は参ってしまうであろう。知能の発達はやや遅れ気味だが、琴の天才的演奏技術の持主でもある。この非常時にタマのお墓がどうのこうのと騒ぎ出し、中尾や家族を困らせるが、彼女の奇行が真相究明に繋がってしまうのだから世の中わからない。高沢のたどたどしい台詞回しも、このキャラクターによく合っていた。それも監督の計算だろうか。製作費の関係かも知れないが、場面がコロコロ変わらないのが良い。田村一族を深く濃く描き込む事に作り手は専念しており、それが成功している。カネがないならないなりの「闘い方」をこの映画は教えてくれる。かなり強引なトリックが使用されており、現実味に乏しいが、観ている間は然程気にならなかった。確固たる世界観と俳優陣の好演、凝った映像設計等の魅力が、幾つかの不満を大きく上回っている。

(2004/06/20)

『女必殺拳』

先日。ビデオで『女必殺拳』(1974年公開)を観た。活劇女優・志穂美悦子の主演映画第1弾。彼女を鍛え上げた千葉真一も応援出演。

全篇を志保美のアクションで押し通す強引作。物語性だのリアリティだのとは全く無縁の映画である。そんなものは犬に食わせちまった。上映時間(90分弱)の大部分が活劇場面で占められており、そのサービス精神は大いに買うが、後半は食傷を起こす人がいるかも知れない。血湧き肉踊るアクションもしつこく繰り返されるとクドく感じるものである。

志保美の兄・宮内洋は麻薬捜査官(香港警察所属)である。横浜を根城とするヤクザを追跡中、宮内は消息を絶った。敵組織は予想以上に手強く、さしもの宮内もズバッと解決という訳にはゆかなかったのである。そして、宮内救出とヤクザ殲滅の為に呼び出されたのが《女ドラゴン》の異名を持つ李紅竜=悦ちゃんであった。つまりこれは、ビジンダー志保美がアオレンジャー宮内を助けにゆく話である。その影響かどうか、全体的に特撮ヒーロー番組のような雰囲気が漂っている。天津敏率いる麻薬組織も犯罪集団と言うより《ショッカー》やら《鉄十字団》やら《ダッカー》みたいな「悪の秘密結社」に近い感じだ。天津は無類の格闘オタクという設定であり、シャブ販売で稼いだ銭を投入して「格闘家集め」に凝っている。この連中が異常に胡散臭くインチキ臭い。強面の悪役俳優達がこれを演じており、さしずめ彼らはヒーローの宿敵たる改造人間(怪人)と言ったところか。驚異的身体能力を誇る女闘士と強烈なアクの強さを放つオヤジどもの対決である。志保美は頭よりも肉体が先に動くタイプ。自ら危地に飛び込んで、片っ端から、悪の戦闘員をぶっ飛ばす。

日本の警察は全く役に立たない…事を悟ってしまった志保美。そんな彼女をバックアップをしてくれるのが、少林寺・日本支部である。天津の配下の一人・石橋雅史は少林寺拳法に猛烈な憎悪を燃やしており、ボスの承諾を得た上で、少林寺の本部に殴り込みを仕掛ける。本部道場で、日本支部総帥たる内田朝雄(珍しく善玉の役だ)と対峙する石橋。その勝負に横から割り込んでくるのが、74年最大のスーパースター(予告篇より)千葉真一である。千葉師匠は少林寺に逗留している食客だ。勿論、あらゆる武道に精通した達人中の達人である。師匠は不敵な笑みを浮かべつつ「そんなアホと試合ったら、少林寺50万の恥ですぜ」などと痛烈な台詞を吐く。汚い仕事は俺に任せろという訳だ。なんだ。てめえっ。引っ込んでろ。ブッ殺すぞ。たちまち千葉vs石橋の死闘が始まる。活劇場面にこそ、役者・千葉真一の本領は発揮される。対する石橋も空手の有段者であり、両雄の激突はホンモノの迫力がある。最初2人の実力は互角に見えたが、やはり師匠の腕前の方が一枚も二枚も上だ。敵わぬと判断した石橋は懐から凶器を取り出す。武道家としてあるまじき行動だが、師匠は動じない。石橋の攻撃を逆利用して、その利き腕を叩き折る。うぎゃー。実戦的(野獣的?)な千葉拳法の鬼気迫る冴え。対決の行方を静観していた内田総帥が一言。あれでは、少林寺の段位はやれんな。

天津の本拠地に潜入した志保美はついに兄との再会を果たす。宮内は瀕死の状態であった。外道集団の人体実験の末に彼は廃人と化していたのだ。悦子…俺はもうダメだ…。兄の変り果てた姿に愕然となる女ドラゴン。そこへ牧師姿の奇怪な暗殺者が現れて、宮内を妹の眼前で撃ち殺す。ぷちっ。この瞬間、志保美の中で「何か」が切れた。この後、天津コレクションとの闘いが延々と続く訳だが、志保美は映画の序盤から中盤までは封印していた「ある行為」をやり始める。殺人である。それも手口はかなり残酷である。天津の愛人を白刃の生えた落し穴に突き落としたり、相手の武器を奪って脳天に突き刺したり、力任せに敵の首を180度ゴリゴリ捻ったり…これが必殺拳『乱花血殺』の威力なのか。人を殺した直後の志保美の表情が印象的だ。自分の凶暴性に戸惑っているような驚いているような喜んでいるような複雑な顔である。台詞はないが「やっちゃったー」という彼女の声が聴こえてきそうである。

天津軍団との戦闘も大詰め。体の数箇所に傷を負い、流石に疲労困憊の志保美。この女ドラゴンの大ピンチに颯爽と駆けつけるのは…言うまでもないが、我らが千葉師匠である。それにしても出来過ぎたタイミングである。自分の出番が来るまで、扉か柱の影にでも隠れていたんじゃないのか?「天津!今度は俺が相手だ!」などと大見得を切りながら、手当たり次第に悪党外道をブチのめす。痛快極まる活躍振りである。主役は志保美の筈なのに、美味しい場面をキッチリいただいてしまうのが千葉師匠のしたたかさである。勢い余って敵の下腹部を貫いた上に内臓が飛び出すシーンは一寸やり過ぎに思えたが。志保美!ここは俺に任せろ!師匠の助太刀を得た志保美は仇敵たる天津を追う。闘いの舞台はいつのまにか何処かの海岸に。天津は何故か上半身裸になって大奮戦を展開するが、肥満の進んだ中年男と華麗なる美形拳士が争えば…結果は見え見えである。かくして悪は滅んだ。しかし、志保美最大の目的は失敗に終ってしまった。苦い勝利である。女ドラゴンの双眸に浮ぶ涙は哀しくも、美しい。

(2004/06/19)

『世界大戦争』

先日。ビデオで『世界大戦争』(1961年公開)を観た。

映画の導入部。観る者の不安感を煽る音楽。まず「芸術祭参加作品」というテロップが現われ、続いて『世界大戦争』という真っ赤なタイトルが飛び出す。その背景は宇宙空間に浮ぶ太陽系・第三惑星(靄に包まれている様子が美しくも無気味だ)である。次に出演者が列記される。フランキー堺、宝田明、音羽信子、星由里子、白川由美、山村聡、上原謙…実に多彩な顔触れである。これに、笠智衆、中村伸郎、東野英治郎と言ったクロサワや小津映画の常連俳優が加わるのだから凄い。この時期の東宝の特撮映画は配役も一流である。特撮映画の主流と言えば、やはり怪獣という事になるのだろうが、この作品にゴジラやアンギラスの出番はない。その代わりに怪獣よりも恐ろしい「究極の死神」が登場する。人類の悪魔的叡智の結晶。核爆弾である。そう。この作品はスタンリー・キューブリックの傑作『博士の異常な愛情』よりも2年早く作られた核戦争映画なのだ。

庶民代表たるフランキー一家の生活と、二大強国の誇るミサイル基地内で発生するトラブルの数々とが交互に描き込まれている。これに緊迫する世界情勢に揺れる日本政府の対応が挿入されるという仕掛けである。脚本に名を連ねる八住利雄は、この後、特撮映画史に残る大怪作『ノストラダムスの大予言』(1974年)を放つキケン人物である。この映画でも八住の異常な才能は充分発揮されており、多少遠慮している部分があるものの、子供が観たら即トラウマに成りかねない描写を随所に展開。突然聖書を引用(持主は焼き芋屋のオヤジ!)したり、キ××イ集団らしき団体が画面を何気なく横切ったり、総理大臣を演じているのが山村聡だったり…今にして思えば『ノストラダムス』っぽい。これで丹波先生の獅子吼が轟けば完璧だったのだが。

特撮部門は―当然ながら―我らが神・円谷英二が担当している。滑らかに動く戦闘機や戦車等の兵器群も流石の出来映えだが、最大の見せ場は核ミサイル直撃場面であろう。第三次世界大戦勃発の報を聞いて、東京都民は大混乱。各交通機関は麻痺状態に陥り、狂った群集は首都から少しでも離れようとする。東宝特撮お家芸とも言うべき場面。核爆弾の爆撃範囲を考えれば、国内の何処に逃げようが助かる術はない。餓鬼にでも解りそうな理屈だ。しかし、それでも人々は逃げようとする。意地悪く観れば滑稽な光景だが、人間という奴は極限状況下では可笑しな行動に走るものである。他人の事は言えませんよ。パニック都民に比べると、フランキー一家は驚くべき冷静さを保っている。茶の間に家族全員が集合。有名な「最後の晩餐場面」が始まる。食卓の上には信じられない御馳走が並んでいる。わーい。わーい。まるでお正月みたいだね。子供達は無邪気に喜んでいる(この「お正月」というのが泣かせる)。だから余計に哀しい。親父は「メロンもあるぞ」と陽気に笑うが、その顔は絶望の色にくまどられている。どうして俺達がこんな目に遭わなくてはならないのか。俺達の平和を踏み躙る奴は一体誰だ?余りにも巨大な「敵」の前ではフランキーの憤りも怒りも虚しいだけ。

大崩壊。東京上空に出現した核ミサイルは、正確無比のコントロールで首都の中心に着弾する。ぐわっ。どどっ。どどど。どどどどどーん。恐るべき閃光が煌く。猛烈な爆風があらゆる建造物を吹き飛ばし、灼熱地獄が全ての物体を焼き尽くす。誰であろうと、この圧倒的破壊から免れる事は出来ないのだ。官憲だろうとヤクザだろうと、金持ちだろうと乞食だろうと、サラリーマンだろうとアウトローだろうと、善人だろうと悪人だろうと、皆死ぬ。絶対に死ぬ。一人残らず死ぬ。この核爆破シーンは円谷芸術最高の成果と言えよう。キューブリックは同様の場面を実写映像で誤魔化した(?)が、円谷の飽くなき創造力はついに人類最大の悲劇に到達したのである。ドロドロに溶け崩れた国会議事堂や富士山よりもデカいキノコ雲の禍々しさ。核攻撃によって焦土と化した日本列島。やがて滅亡の大地に夥しい死の灰が降り注ぐだろう。或いは星由里子(フランキーの長女)の婚約者・宝田明のように一時的に難を避けた者もいるかも知れない。だが、強烈な放射能に汚染された世界で生き延びる事はまず不可能である。この映画が公開されてから40年以上が経過しているが、今の所、辛くも人類は生存している。この作品も「絵空事」「笑い事」で済んでいる訳だ。しかし、それが「現実」になった瞬間、俺もこの感想文を読んでいるあなたも恐らくこの世にはいまい。その事実を心の片隅にでも保存しておいた方が良さそうだ。この映画の提唱する恐怖は未だに消えていないのだから。

(2004/06/15)

『エスパイ』

先日。ビデオで『エスパイ』(1974年公開)を観た。小松左京原作のSF活劇。

エスパー+スパイ=エスパイ。冗談みたいなネーミングだが、覚え易くて良い。世界の平和を守る為、正義の使徒《エスパイ》は日夜闘い続けるのだ。メンバー全員が何らかの超能力を有している秘密組織である。そして、彼らの《敵》もまた並の存在ではない。向こうも超能力軍団である。その目的はズバリ人類の殲滅だ。人間は邪悪で下等な生き物であり、地上から一人残らず消し去らなくてはならない。それが《逆エスパイ》の標榜する究極のテーマらしい。おいおい。お前らも人間じゃないのか?と言い返したくなるが、彼らによれば「超能力者は人間を超えた生物…超人類」なんだそーです。僕達が惰眠を貪っているその裏で《エスパイ》対《逆エスパイ》の熾烈な抗争が繰り広げられているというのが、この映画の世界観なのである。

大掛かりな特撮ヒーロー番組とも言うべき趣向が楽しい。加えて配役が絶妙で面白い。超能力よりも肉弾戦が得意な主人公に藤岡弘。その相棒兼恋人役に特撮女優・由美かおる。見せ場を作る前に映画が終ってしまった新人エスパイに草刈正雄。意外に頼りになる《エスパイ》日本支部局長に加山雄三。4人ともほとんど棒読みに近い演技だが、浮世離れした独特の風貌が、荒唐無稽な物語の雰囲気にピタリと合致している。国際派俳優として鳴らした岡田英次も顔を出している。あの厚味のある声で《エスパイ》最古参にして、軍師格の老超能力者を熱演。珍妙なメイクと衣装もケッサクである。これを岡田が照れる事なく、真剣に演じているので、余計におかしいのだ。これら異常に「濃い」連中に敵対する《逆エスパイ》側も大変だが、その首領を務めるのが、かの若山富三郎御大なので大丈夫。善玉と悪玉とのパワーバランスが見事にとれている。

映画前半の見せ場として、藤岡vs若山の直接対決が用意されている。これは単なる殺し合いではなく、両陣営のイデオロギーの違いを印象づける論戦舌戦となっている。仮面ライダーを自分の手駒に加えたくなったのかどうか、若山御大は藤岡にしつこく「我々の仲間になれ」と繰り返す。無論、正義の体現者たる藤岡に飲める要求ではない。よせばいいのに「貴様らはキ××イ集団だ!誰がキ××イの言いなりになるものかっ」と野太い声で絶叫。即座に用心棒の大男にボコボコに殴られるのであった。御大の配下の一人であるスナイパー(内田勝正)が無気味な存在感を発揮している。内田は強力な透視能力の持主であり、これに優れた射撃術が合わさって、まさに百発百中の腕前だ。映画の導入部、豪華列車で移動する標的4人を次々に射殺する場面は異常に格好良い。ずばばばば。孤軍奮闘の末《エスパイ》の猛烈な銃撃を受けて、蜂の巣になる死にっ振りも記憶に残る。

最終決戦。若山御大の招待に応じて、藤岡、由美、草刈の3名は《逆エスパイ》の牙城に乗り込む。余裕の表情で敵の精鋭部隊を迎える御大。その落ち着き払った態度。流石の貫禄である。ここまでは良かったが「俺の親父も超能力者だった…」などと突然身の上話を始めたのには驚いた。いや、驚いたと言うより残念だったと言うべきか。その中には御大が人類皆殺し計画に着手した「理由」が含まれているのだが、これは不要な処置であったと断じたい。僕としては御大の漂わせる「正体不明感」が好きだったのに…神秘のベールを自ら剥いでしまったように感じられた。そして始まる壮絶なサイキックバトル(えっ。ただの家具のぶつけ合いだって?それは言わない約束)。世界最強を誇る御大を倒したのが、藤岡と由美の×とは、少々気恥ずかしい。この頃は割と気軽に×を叫べる時代だったのかな。まあ、今でも時々叫んでいる人がいますけど。折角、御大と藤岡という剣の達人が揃っているのに一寸勿体ない終り方。やはり、男の勝負と世界の命運は刀でつけるべきであった。どの資料を見ても評価の低い映画だが、爆発男・中野昭慶が担当した特撮場面の出来も良く、結構美味しい作品だった。ヒロインのかおるちゃんが華麗に着こなす70年代ファッションも見逃せない。

(2004/06/13)

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