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映画の渡り鳥4

『ゴールデンボーイ』

先日。図書館で『ゴールデンボーイ』(1998年公開)を観た。原作は『シャイニング』『ショーシャンクの空に』のスティーヴン・キング。

容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群…まさに絵に描いたような優等生。主人公のブラッド・レンフロはあらゆる面で完璧な少年であった。ただひとつ性格が歪んでいる点を除いては。ある日。レンフロは近所に住む謎めいた独居老人(イアン・マッケラン)を訪ねる。老人は元ナチス高官であった。かのアウシュビッツの副所長を務めた男であり、数え切れないほどのユダヤ人を虐殺した過去を持つ。老人の正体を掴んだ少年は、彼を破滅させる準備を整えた上で、彼の住処に訪問したのである。少年は老人を脅迫する。僕の言う通りにしないと全部バラしちゃうぞ。意外な追跡者の出現に驚く老人。小僧っ。何が欲しい?何がお前の望みだ?少年の目的はカネでも物品でもなかった。彼の求めるものは「老人の記憶」それのみであった。

最初は老人の「お話」を聴くだけだったのだが、少年の要求は次第にエスカレートする。ついには「クリスマスプレゼント」と称して、ナチスの軍服(芝居用)を持ってきたりする。皮肉なユーモア感覚。少年はそれを老人に身につけろと命令する。ふざけるな。いい加減にしろ。これを着て買物に行けとでも言うのか。餓鬼にナメられぱなしの老人は怒りを顕わにするが、弱味を押さえられている身なので、逆らう事は出来ない。已む得ず、軍服を着用する。それを見た少年は老人に「行進」の真似をしろと言う。ざっざっざっざっ。軍靴が刻む機械的リズム。最初は嫌々の様子だったが、昔取った杵柄(?)か。老人は徐々に往年の迫力を取り戻し始める。もういい。止めろ。だが、止めろと言われても、動き始めた狂気の歯車は急には止まらない。行進を中止した老人の異様な眼光。ドスの利いた声で彼は警告する。

「小僧。気をつけろ。これは危険な遊びだ」

老人に扮するマッケラン(一寸三國連太郎似)の怪演が光る映画であった。物語の序盤は、レンフロに主導権を握られているが、中盤からは実に狡猾な手段で反撃を開始する。殺人能力は流石に衰えてはいるものの、頭の回転はまだまだしっかりしている。なにしろこの老人は40年もの長きに亘り、苛烈な残党狩りを逃れてきた男なのである。その忍耐力、行動力、強運だけでも大変なものだ。本来、平和な時代しか知らない頽廃小僧などの手に負える相手ではないのだ。この複雑怪奇な人物をマッケランは確かな演技力と貫禄で見事に表現している。少年との力関係を互角にまで持ち込んだ際、小躍りしながら『第九』を口ずさむ辺りは、底知れぬ恐怖を感じさせる名演であった。この映画の面白さを支えているのは間違いなくマッケランの存在感である。

残虐描写が極力避けられているのもこの映画の特徴である。老人の収容所時代の具体的映像が登場する事はなく、精々、少年のイメージ映像が挿入されるくらいである。後は観客の想像力次第という訳だ。映画と言うより、むしろ演劇に近い演出スタイル。当然、これを食い足りなく感じる向きもあるだろう。しかし俺には、これでもかこれでもかと残酷な場面を連ねるよりはこちらの方がかえって怖いように思えた。その手のシーンが少ないだけに、シャワールームにおける少年の幻視場面が極めて不気味に映る。恐らく、監督のブライアン・シンガーはそこまで計算しているのだと思う。

老人との奇妙な交流を続ける内に、少年の中に「悪魔の種子」は確実に植え込まれた。この苗が本格的に萌芽する事もそう遠い日ではあるまい。その時こそ真の《ゴールデンボーイ》が誕生する時である。人生はバラ色だ。

(2004/04/24)

『ショーシャンクの空に』

先日。図書館で『ショーシャンクの空に』(1994年公開)を観た。

原作は『シャイニング』を巡ってキューブリックと大喧嘩をやらかしたスティーブン・キング。

映画の導入部は法廷場面。妻とその愛人を射殺したとして、激しく追求されるティム・ロビンス。必死に無罪を主張するが、全く聞き入れられず、哀れ終身刑を申し渡される。分厚い石の壁に囲まれたショーシャンク刑務所。ここで僕は生涯暮らすのか…。絶望と虚無に打ちのめされたロビンスは口を利く元気すらない。素っ裸にされた上に、大量の水で洗浄され、頭から消毒剤をぶっかけられる。その後、愛しの独房へ。気の遠くなるような時間が彼を待っている。

可愛い顔をしたロビンスは所内の変態集団の格好の標的となる。何かにつけて奴らは彼の××を狙ってくる。これがクリント・イーストウッドなら、待ってましたとばかりに反撃に転じて、襲撃者どもをボコボコに叩き潰すところだが、残念ながらロビンスはそれ程の腕っぷしは有していない。但し彼には別の類稀なる能力があった。だが、その能力が本格駆動するまでには暫く時がかかる。オスとして現役の者が刑務所という非日常空間に閉じ込められればどうなるか…。立派な×××××の捌け口に困るのも無理もない。ここでは、その気のない者でも頭がおかしくなってしまうのではないか。まさか、これも刑罰の内に含まれているのだろうか。やはり恐ろしい場所である。皆さん、くれぐれも注意しましょう。

ロビンスと奇妙な友情を交わすベテラン(?)受刑者にモーガン・フリーマン。フリーマンは所内で〈調達屋〉と呼ばれる者の一人。受刑者の注文や要望に応じて、大抵のものは揃えてしまうという器用な男である。犯罪者にしては人情味のあるオヤジではあるが、同時に極めてクールな視点を持ち合わせた人物でもある。長い獄中生活が彼に悟りを開かせたのであろうか。品の良いお坊ちゃんタイプのロビンスとは好対照。両者のやり取りや会話がとても面白く、観る者をグイグイと引っ張ってゆく。

刑務所所長(ボブ・ガントン)が強烈な悪役振りを発揮している。表向きは聖書がどうのこうのと偉そうに講釈を垂れているが、その正体は私腹を肥やす事しか頭にない大偽善者である。反吐が出るぜ。畜生が。優秀な銀行家として活躍していたロビンスの計算能力に目をつけ、手前の財産増殖に散々利用するのである。目的の為には平気で殺人を命じるわ、ロビンスが言う事を聞かないと判断するや、懲罰房にブチ込むわ、脅迫はするわとやりたい放題。俺の近くにも似たような奴がいるのでムカムカ度数は120%を軽く突破!こんな腐れ外道を野放しにしておいて良いのか?いやいや、俺達には知的英雄ロビンスがいる。我らがヒーローは「あっ」と驚く精密作戦で鮮やかな逆襲をキメてくれる。この辺りのプロセスは極めてスリリング、まさに圧巻。この映画最大の見せ場となる。

印象的場面の多い作品であった。50年の刑期を終えて仮釈放された老囚人が社会に適応出来ずオロオロする。強盗でもして再び獄中に舞い戻ろうかとも考えるが、今の年齢ではそれも不可能。そんな彼が選んだ道はひとつしかなかった…。フリーマンが指摘する。「終身刑は人間を廃人にする刑罰だ」と。確かにその通りである。人生の大半を刑務所生活に費やした人間がまとまな社会生活を送れる訳がない。終身刑…ある意味、死刑よりも残酷で酷薄な処置と言えるのかも知れない。逆に刑務所というシチュエーションを活用した素晴らしいシーンも多い。中でも刑務所の屋上で受刑者達が冷たいビールを味わう件(ロビンスのお陰)は、特筆すべき名場面に仕上がっている。ビールという何気ない小道具が、刑務所の屋上という特殊な舞台で使われる事によって生じる途轍もない爽快感。この場面を観てビールを呑みたくなった者も少なくないのではないか。それにしても旨そうである。

刑務所を題材とした映画としてはほぼ完璧な仕上がりであった。これなら、何かと五月蝿いキング先生にも合格点が貰える筈である。まあ。これで駄目なら、先生は自作の映像化の許可を出さない方が良いな。開幕から終幕まで実に丁寧に撮り上げられており、ここまでやられてしまうと、アラ探しが大好きな俺も文句のつけようがない。強いて言うなら「親切過ぎる」ラストシーンぐらいか。刑務所映画の十指に入るのはまず間違いない傑作である。今後、これを超えるムショ映画が作られる事は果たしてあるのだろうか?俺の個人的洋画ランキングも一寸変わりそうな気配だ。

(2004/04/11)

『野獣暁に死す』

先日。衛星放送で『野獣暁に死す』(1968年公開)を観た。

何処かの監獄。独房の中で早撃ちの特訓に打ち込む男(モンゴメリー・フォード)が映し出される。投獄以来、男はその訓練を日々欠かした事がない。囚人の名はカイオワ。鬼気迫る彼の様子に看守達も口を出せないでいる。かの囚人には対決すべき存在、何が何でも倒さなくてはならない相手がいるのだ。看守の一人がそっと呟く。「余程の敵らしいな…」と。

出獄後、カイオワは友人宅を訪ね、預けておいた軍資金を受け取る。カイオワの標的は近隣を震え上がらせる盗賊団のボスである。彼が何故に首領抹殺に執着するのか?その理由は伏せられたまま物語は進行する。さしものカイオアも1人で凶暴な殺人集団と闘う心算はない。仲間がいる。それも飛び切り腕の立つ仲間が。という訳で、映画の前半は皆さんお馴染みの「侍集め」である。前金で5000ドル。仕事が終れば更に5000ドル。この極めてわかり易い条件の下に揃った4人の猛者。@でぶA古強者B女たらしCギャンブラー…強烈な個性と卓越した戦闘能力を備えたメンバーと共にカイオワは盗賊団を追う。

映画中盤の博打場面が面白い。西部劇であろうと時代劇であろうと、アウトロー映画には外せない要素である。かのギャンブラーが見るからに物騒な連中とポーカーで勝負している。互いにイカサマは常套手段。それを承知で勝負をしている。要はバレなきゃいいのだ。どんな手段を使おうが勝った奴が偉い。最後の大勝負。敵手が秘蔵の切り札(スペードのエース)を取り出そうとした瞬間、ギャンブラーの放った刀子がそのカードを貫く!劇画じみた馬鹿馬鹿しいシーンだが、この胡散臭さが堪らない。俺は好きだな。こういうの。

追撃チームの編成が完了した所で、いよいよ宿敵登場となる。エル・ファーゴ。それがカイオワが狙う男の名前である。このファーゴに扮するのが―仰天配役―仲代達矢(当時36歳)である。黒澤マニアの監督がわざわざ招いた特別ゲストだ。仲代もその期待に応えて、凄味溢れる演技を披露している。性格残忍にして奸計に長けた男。優れた射撃術に加えて剣の腕前も抜群だ。愛用の蛮刀(日本刀じゃないのが残念!)を縦横に振るうサマはまさに時代劇。ギラギラした目つきと言い、サディスティックな笑顔と言い『用心棒』『椿三十郎』に匹敵するアクの強さ。やはりこの人には悪役敵役がよく似合う。如何に西欧風の風貌とは言え、純然たる日本人である仲代が、西部の町を闊歩する光景は奇妙な印象を受けるが、なんでもアリのマカロニ・ウエスタンに怖いものなどあろう筈がない。むしろその破天荒さを楽しむのがこの映画の正しい鑑賞法であろう。

無駄のない脚本である。かの『七人の侍』の「訓練篇」を省略したような怒涛の展開で、一気に魅せる。作品の随所に散りばめられた黒澤映画へのオマージュも興味深い。そして何より、単身異国に乗り込み、言葉もロクに通じないスタッフと共演者に囲まれながらも、あれだけの存在感を示した仲代の奮闘は賞賛に値する。日本男児の面子を保った名優に拍手拍手である。彼こそもののふの末裔だ。

(2004/04/10)

『ザ・ドリフターズのカモだ!!御用だ!!』

先日。深夜放送で『ザ・ドリフターズのカモだ!!御用だ!!』(1975年公開)を観た。いかりや長介追悼番組。

『全員集合!!』シリーズは1967年〜1975年にかけて製作された。8年間で計16本。年2本だからかなりのペースである。第8作からは『男はつらいよ』の併映作品として好評を博した。今回観た『カモだ!!御用だ!!』はシリーズ第15作となる。全体的にややパワー不足を感じたが、最終作の一歩手前となればこんなものだろうか。

当然ながら《ザ・ドリフターズ》が総出演している。物語の中心は、顔は怖いが情に厚い刑事(長介)と何をやっても中途半端なチンピラ(加藤茶)の両名である。志村、仲本、ブーの3名は脇を固める形であり、本筋には余り絡んでこない。長介が加藤を捕まえては騙され、騙されては捕まえ、また騙されては捕まえる…基本的にはこの繰り返しである。まるでエンドレスのような展開。しまいには厭きてくるが、加藤の姉ちゃん(倍賞美津子)が突如登場して、死んだ父親の話をし始めると、途端に画面がジメジメしてくる。この辺りは松竹映画特有の湿っぽい雰囲気と言えそうだが、殺伐とした映画ばかり観ていると、こういう味も悪くないなと思ったりもする。

長介の演技が意外に硬質である。無論ヘタという訳ではないのだがが、やや面白味に欠けるのである。この時点で相当なキャリアを積んでいる筈なのだが。長介自身、演技に対して苦手意識があったと聞いている。確かにそんな感じだ。あの情報はどうやら本当だったらしい。むしろ加藤の方が自由奔放に楽しんで演じているような印象を受けた。

映画のクライマックスは加藤がネコババした宝石の争奪戦である。お宝を奪還すべくヤクザが加藤を追いかけてくる。加藤を救うべく長介も奮闘。そこに援軍が現われて大騒ぎになる。普通の活劇映画なら銃撃戦かチャンバラが開始されるところだが、これは喜劇映画。さてどうする心算かなと思っていたら、パイ投げ合戦に変換されていた。これなら死人も血も出ないし実に平和的である。ヤクザも警察も汗まみれクリームまみれになってパイをびゅんびゅん投げまくる。参加者全員が本気で投げ合っているので結構迫力がある。恐らくリハーサルなしのぶっつけ本番で撮ったのではないだろうか。

グループ解散後も俳優として活躍を続けた長介。最近ではTVの2時間ドラマや俺の嫌いな『踊る何とか』に出演して、新たなファンを獲得していた。息の長い芸人振りを発揮していただけに今回の訃報は一寸ショックであった。長介の肉体を蝕んでいた癌細胞は相当悪質なヤツだったらしい。俺の身近な人も何人か癌で逝っている。人間、いつ何処でくたばるのか神ならぬ身にわかる筈もないが、来るべき日に備えて(?)やりたいようにやっといた方が人生得かも知れねえな。長介本人は自分の生涯をどう分析していたのだろうか?ある程度は満足していたのか、それともまだまだやり残した事があったのか…これもまた神ならぬ者には知る術すらないが。

(2004/04/07)

『水の女』

先日。衛星放送で『水の女』(2002年公開)を観た。

主人公のUAは銭湯の娘。人生のイベント時には必ず雨が降るという奇妙な能力を有している。そのせいなのか何なのか、結婚を約束していた男も豪雨の日に交通事故で死んでしまった。天涯孤独の身となったUAは傷心旅行に出掛ける。

UAが久々に我が家に戻ってみると、得体の知れない男が台所で飯を食っている。画面が暗くて判然としないが、このボソボソ声は浅野忠信である。怪しい男である。胡散臭い男である。それにしても浅野はこんな役ばかり演(や)っている。それを見たUAは特に騒ぎ立てもせず「一緒に暮らさへんか」などと異常な提案する。浅野もどうやら行く所がないらしい。かくして、奇妙な男女の不思議な共同生活が始まるのであった。

物語が進む内に浅野の正体が少しづつ明らかになってゆく。彼は炎に魅せられた男であった。火が燃える様子を眺めている時にのみ、彼は安息を感じるのだという。かなり危険な性質だ。水の女と火の男。異なる属性を有する二人が共に生きられる場所は、確かに銭湯ぐらいしかない。風呂屋には大量の水があり、湯を沸かす為の釜がある。やがて、情交を交わすようになるUAと浅野。両者の適度にヘタ(?)な関西弁が案外心地好い。

ブルーを基調にした映像が美しい。主人公が雨女だけに、劇中やたらに雨が降っている。雨好きの俺としては嬉しい設定である。雨に濡れる下町の風景が実に幻想的で、時に水中都市のそれのように見える事すらあった。この監督の作品を観るのはこれが初めてだが、優れた映像感覚の持主だと思った。但し、余りに懲り過ぎて、やや嫌味に映る場面が幾つかあったのも事実である。

物語は単調で猛烈に眠気を誘う。特に前半がキツかった。中盤以降は、銭湯運営の描写が多くなり、好奇心も手伝ってそれなりに興味深く観た。煙突掃除のオヤジがやって来たり、ペンキ屋が風呂の壁面に描かれた富士山を描き直しに来たりする。昼間は風呂場全体の掃除をしなくてはならない。ごしごし。洗剤を撒いて、床面をブラシで丹念に磨く。男湯は浅野。女湯はUAの担当である。それが済むと、男湯と女湯を隔てた壁を利用してバトミントンに興じたりする。この辺り、中々面白い。

小川眞由美扮する狂女が時折銭湯に現われる。全くのアカの他人だが、UAは彼女を「お母ちゃん」と呼び、来る度に無料で背中を流してやっている。浅野に言わせると「あれはキ××イのフリをしとるだけなんや」だそうだが、真相はわからない。そうかも知れないし、そうではないのかも知れない。或いはこの世の者ですらないのかも知れない。劇中、小川は一切言葉を発せず、浮世離れした雰囲気を醸している。主人公を見守る守護霊のような存在とでも言えば良いのだろうか。

夢はそう長くは続かない。浅野とUAの生活は呆気なく崩壊する。文字通り炎の化身と化した浅野&浄化の雨を呼び寄せるUA。両者が持てる能力を開放するクライマックスが圧巻である。クセのある登場人物が織り成す神秘的ラブストーリー。

(2004/04/04)

アマチュア

★内職で小銭を稼ぐことばかり考えている男が、スペシャリストに勝つということが絶対におかしいのです。

各所で散々述べてきましたが…藩内最強の遣い手と斬り合おうというのに、真剣ではなく竹光を提げて行っちゃう清兵衛さん。しかもそれを自ら暴露しちゃうんだから相当なお人好しと言うしかないでしょう。少なくとも戦士としては失格です。貧乏生活なのはよくわかりますが、武器の調達ぐらいはしっかりして欲しいものです。サムライなんだから。戦闘のプロなんだから。

主人公も一寸おかしいのですが、対する剣豪氏の行動も不可解です。この人は自宅に閉じこもって一体何をしようと言うのでしょうか?このまま餓死するまで「引きこもり」を続ける心算だったのでしょうか?愛娘も骨になってしまった事だし、もはや後顧の憂いはありません。今こそ、持てる戦闘技術を全稼動させる時ではないでしょうか。手始めに家の周りを囲んでいる腰抜け侍どもを片っ端からブッ殺す!当然、藩中に剣豪氏の逃走を防ぐ為、十重二十重の包囲網が築かれている事でしょう。望むところじゃないですか。手当たり次第に斬って斬って斬りまくり、兵法家の恐ろしさを見せつけてやろうじゃないですか。包囲網と言ったって、どうせ天下泰平を貪るサラリーマン武士ばかり。剣豪氏の腕を持ってすればかなりのところまでゆけるんじゃないかな。いつかは力尽きるでしょうが、鳥篭侍の手柄にされるよりは遥かにマシでしょう。

まさかとは思うけど…剣豪氏は誰かに自分の苦境を聞いて貰いたかったのかな?俺はこんなに辛い境遇なんだと。俺はこんなに寂しい人生なんだと。だとしたら、えらく甘っちょろい感情だし、随分情けない武人がいたものです。アホかいな。彼もまた清兵衛さん同様、サムライとしては不適という事になります。そーか。かの剣戟場面がゴテゴテしていた理由がやっと解りました。あれは非情に徹し切れないアマチュア同士のチャンバラごっこだったんだ。アマ対アマ。道理で緊張感がない訳や。

(2004/04/02)

戦士の感覚

★要するに武士が描けてゐないのです。いや、監督に描く気がなかつたのでせう。

かの『七人の侍』の前半。五郎兵衛(稲葉義男)が平八(千秋実)を仲間に誘う場面があります。この時、平八はアルバイト(薪割り)をしています。その背後に五郎兵衛が立つ形で会話が進みます。両者のユーモラスなやり取りが実に楽しいのですが、その途中、平八は愛剣を抜刀可能な位置にさり気なく移動させています。つまり、敵か味方かはっきりしない五郎兵衛を警戒している訳です。もし彼が斬りつけてきたら直ちに反撃出来る用意をしているのです。七人中、最弱の剣士とされる平八でさえこの程度の危機管理能力を有しているのです。闘いに生きる者の嗜みと言えるでしょう。この感覚があれば、竹光を持って対決に臨むなどと言う自殺行為は絶対にしない筈です。

黒澤時代劇の後継者は山田洋次だ!などというバカな風潮が以前ありましたが、そんな簡単に引き継げるなら苦労はしません。小手先で作ったサムライ映画ぐらいでわあわあ騒ぐなって。

(2004/04/04)

甲乙つけ難し

『ジャッカルの日』は殺しに来る奴とそれを防がんとする官憲が激突する話。俺の苦手な「2時間を超える映画」ですが、この作品は内容がぎしっと詰まっています。長くても面白さが持続するなら文句はありません。一方『ダラスの熱い日』は命を狙う側の視点のみで描かれており、これはこれで映画として成立しています。ヘタに大統領側の行動を加え出すと、収拾がつかなくなる危険性があります。中途半端な描写を省略した作り手の判断は正しかったと言えるでしょう。両作品とも「暗殺」という同じテーマを扱いつつも、アプローチの仕方は微妙に異なっています。両作を観比べてみるのも一興。どちらも秀作なので観て損はないと思います。

(2004/04/02)

プロフェッショナル

★刑事が自らの負けを認めるような心理描写の一場面があってもよかったのではないかと思うな。

なるほど。そういうシーンがあれば映画により深みが出たでしょうね。

俺には森様とは別の不満(或いは疑問)があります。それは、ジャッカルは標的を始末してからどうする心算だったのかという事です。あの状況なら、仮にドゴール大統領の脳天を撃ち砕いたとしても、追跡者に捕まってしまうのは時間の問題。真のプロフェッショナルなら仕事を済ませた後の逃走経路を用意しておくのは当然の行為です。狙撃の度にいちいち逮捕されたり、射殺されたりしていては殺し屋稼業は成立しません。莫大な報酬を得たところで何にもなりません。劇中、狙撃可能な場所に至るまでのプロセスは非常に綿密に描かれているのですが、その辺の描写は雑と言うか、全くされていなかったように思います。ジャッカルは自分の命と引き換えにしてでもドゴールを殺(や)る覚悟だったのでしょうか?ではその覚悟は何処から来るのか?依頼人とジャッカルはビジネスの契約を結んだだけの関係であり、自爆して果てるまでの義理は彼にはない筈です。主人公が一体何を考えているのか俺には今ひとつ掴み切れませんでした。

(2004/04/03)

『ダラスの熱い日』

先日。深夜放送で『ダラスの熱い日』(1973年公開) を観た。

ケネディ大統領暗殺事件。この20世紀最大のミステリーに鋭く切り込んだ野心作である。

導入部。豪華な一室に怪しげな老人達が集結している。いずれもただならぬ経歴の持主が揃っている。(1)元CIA高官(バート・ランカスター)(2)元軍人(ロバート・ライアン)(3)石油業界の大物(4)右に偏った退役将校…桁外れにアクの強い連中が先程から物騒な議論を重ねている。ジョン・F・ケネディを殺す。矢継ぎ早に打ち出される革新的政策の数々。民衆の絶対的な支持とは裏腹に、それは彼らにとって都合の悪い内容のものばかりである。鬱陶しいな。奴を放置しておけば我々の将来に悪影響が及ぶのは明らかだ。今の内に癌細胞は摘んでおかなくてはならない。何らかのスキャンダルを武器にしてケネディを失脚に追い込む事も考えた。しかし、かの人の私生活には―俺達とは違って?―一部の隙もなかった。もはや暗殺以外に方法はない。死んでもらいます。

作戦推進リーダーにランカスター。後見人兼相談役にライアン。綿密な殺人計画が練り上げられ、その準備が着々と進められてゆく。謀略と殺戮に彩られたランカスターの人生の中でも、今回の獲物は恐らく最大最高クラスのものであろう。それだけに失敗は許されない。三方向からの同時射撃。ランカスターは標的を確実に仕留める為に2組の狙撃チームを編成。猛特訓を繰り広げる。狙撃ポイントの事前調査は勿論、暗殺後の逃走経路の確保、更には成功報酬の支払方法まで、この映画は実に丹念に描き込んでいる。観客もいつの間にか暗殺計画に参加しているような、そんな錯覚すら覚えるリアルさであった。さて狙撃の用意は万端整った。いよいよ計画の最終段階。マスコミや大衆の目を引きつけるスケープゴートの準備である。ランカスターは自己のネットワークを駆使して、一人の適格者を弾き出した。その男の名は、元海兵隊員リー・ハーベイ…

ランカスターにせよライアンにせよ、自国の、しかも現職大統領を射殺する事について、罪悪感を感じている様子は見られない。邪魔者は可及的速やかに排除するのが彼らのやり方なのだろう。そこには善も悪もへったくれもない。いや、彼らにとっては「輝かしい未来」を守る為の至極当然の行動なのである。所詮、この世には絶対的正義も絶対的悪も存在しないのだ。

劇中、実際の記録映像が多数採用されている。故に画面がモノクロになったりカラーになったりと少々せわしないが、独特の緊迫感を醸している事も確かだ。夥しい情報量を2時間にも満たぬ時間の中に圧縮した脚本&構成がお見事。世紀の事件の目撃者(共犯者?)となった観客に追い討ちを仕掛けるように、極めて無気味なラストメッセージが待ち受けている。怖い怖い。最後の最後まで油断の出来ない映画である。

(2004/03/30)

黒澤明が選んだ百本の映画2

★ジャッカルのナントカという映画と混同しているかもしれません。

貴兄の仰っている映画は『ジャッカルの日』(1973年公開)だと思います。こちらはフランスのドゴール大統領暗殺計画を題材にした作品。かの黒澤御大も認める傑作です。手元にある「70年代映画懐かし地獄」(洋泉社)という本の中にこんなコメントがあります。

…それにしても、この時代の暗殺映画は何でも「日」がついてる。『ジャッカルの日』とか『怒りの日』とか。

(2004/03/30)

『ニュー・シネマ・パラダイス』

先日。深夜放送で『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年公開)を観た。

物語の舞台は第2次大戦終結直後のイタリア、シチリア島。

映画好きの少年サルバトーレ(通称トト)は村唯一の映画館《パラダイス座》に入り浸りの毎日を送っている。当初、映写技師アルフレードはトトの悪戯小僧振りに怒鳴りまくっていたが、次第に少年との親交を深めてゆく。戦争で父親を亡くしたトトと子宝に恵まれなかったアルフレード。両者は自分に欠落した部分を相手に求めていたのかも知れない。ともあれ、ここに理想的補完関係が誕生したのである。

トトを演じる子役の男の子が抜群に巧く、アルフレードに扮するフィリップ・ノワレも愛すべきオヤジを好演しており、心地好い夢のような映像空間を楽しむ事が出来る。全篇に流れる明るさと切なさが融合したエンニオ・モリコーネの音楽も素晴らしい。

この時代、映画は娯楽の王座を独占していた。話題の新作が上映されるとなれば《パラダイス座》は連日満員となる。アルフレードも飯を食う暇さえないほどの忙しさだ。スクリーン上の人物の一挙一動を食い入るように見詰める観客達。共に泣き、共に笑う。彼らは物語世界の中に完全に入り込んでいる。監督の手腕がどーのこーの、俳優の演技がどーのこーの、映画の主題がどーのこーの、時代背景がどーのこーの、映像技術がどーのこーの…くだらない情報だのつまらない知識だのは、彼らにとって興味の外の外である。ただ純粋にただ真っ直ぐに。これこそが「映画を観る」という行為の本来の姿なのだと思った。

ある理由でシチリア島を離れていたサルバトーレは、実に30年振りに故郷に帰ってくる。アルフレードの葬儀出席の為である。言葉では言い尽くせない懐かしさを胸に想い出の場所を訪ねるサルバトーレ。長い長い時の流れの中で、自分は何を得て何を失ったのか。それを確かめるようにサルバトーレは島内を彷徨う。そして彼は遭遇する。生涯最良の友人が仕掛けた「魔法」の全貌に…。

前半に埋め込まれた伏線の数々が滑らかに作動する鮮やかさ。脚本がしっかりした映画はやはり面白い。初監督とは思えないジュゼッペ・トルナトーレの達者な仕事振りには驚かされる。

些細なキッカケや一寸した弾みで人生はその色合いを変えてゆく。

人間の運命とは何と危うく、何と儚いのであろうか。

人生もまた1本の映画である事を、この作品は教えてくれる。

(2004/03/26)

『13ウォーリアーズ』

先日。深夜放送で『13ウォーリアーズ』(1999年公開)を観た。

原作は才能があるのかないのかよくわからないマイケル・クライトン先生。クライトン先生は最初の出来映えが(監督はジョン・マクティアナン)が気に食わず、わざわざ一部映像を撮り直したそうだから、相当な熱の入れようである。タイトルからすると『十三人の刺客』のリメイクみたいだが、実際はクライトン版『七人の侍』と言うべき趣であった。

人妻との関係がバレたアントニオ・バンデラス(職業・詩人)は遠方への出張を命じられる。要するに態の良い追放である。やってらんねーよ。と不貞腐れていたバンデラスとその一行の前に盗賊団が出現する。その毒牙からバンデラス一行を救ってくれたのが、勇猛果敢で鳴らすバイキング軍団であった。

その夜。バイキングの宴会に出席するバンデラスだが、通訳を介さないと意志の疎通も困難な状況であり、向こうは向こうで彼に興味はないらしい。白けた雰囲気を突き破るようにバイキング本国から緊急の使者が到着する。我らが故郷が「凶暴凶悪な蛮族」の侵略に晒されて今や滅亡寸前であるというのだ。使者に同行してきた怪老婆(イタコ?巫女?)が絶叫する。この未曾有の危機を打開するには「13人の勇者」が必要であると。但しそのメンバーの内の1名は「異国の人間」でなくてはならない。俺に任せとけ!たちまち喧嘩自慢の猛者どもが名乗りを上げる。そしてバンデラスも当然のように対蛮族チームに加わるのであった。男バンデラスの義侠心を誉めたいところだが、断ると袋叩きにされるのが怖かっただけかも知れない。

物語は恐るべき速度で進む。各メンバーの個性や性格の描写、心的葛藤等はバッサリ省略されている。本国到着後は、戦闘に次ぐ戦闘である。映画中盤の夜襲場面が良い。選抜隊入城を待ちかねていたかのようにかの蛮族どもが斬り込んで来たのだ。敵襲!敵襲!勇者連も愛剣を引き抜いて必死の応戦を試みる。暗闇の中で繰り広げられる死闘。誰が敵で誰が味方やら把握する事さえ困難なシチュエーション。その慌て振り、その混乱振りが生々しく、強烈なリアリティを感じた。

初めは全くやる気のなかったバンデラスが、徐々に戦士として覚醒し、闘いの渦中へと身を投じてゆく。流石にそのプロセスは比較的丁寧に描かれている。俺は詩人なんだ。俺は非戦闘員なんだなどという理屈が戦場で通用する訳がない。腹を決めた後のバンデラスの勇姿が見物である。迎撃準備中、バイキング好みの大剣を扱い切れぬと判断したバンデラスが、鍛冶屋に頼んで、自国風の刀に改造する辺りはとても面白い。

上映時間102分。贅肉を削ぎ落とした造りには好感を抱いたが、もう少しもったいぶった方が深みや奥行きが出たような気もする。ダラダラと無駄に長いよりは遥かに良いのだが。観客を適度に焦らしておけば、派手な戦闘場面も一段と盛り上がるというものである。アクションが開始されるまでの「タメの部分」も活劇映画には欠かせない重要な要素なのである。

(2004/03/25)

蛮族の正体

★助けを求めにきたのは本国でなく友好国ではなかったかと思います。

資料を棒読みしますと、主人公アントニオ・バンデラスはアラブ人(かなり無理がありますが)という設定です。盗賊団はタタール人の皆さん。蛮族の侵略を受けたのはバイキングの故郷とあります。恐らく「友好国」ではないと思うのですが…。俺の記憶もあやふやで申し訳ありません。侵略者の正体はよくわかりません。貴兄の御指摘がずばり的中しているのかな?劇中では明言を避けているような感じがします。彼らはバイキングすら戦慄する「恐るべき野蛮人」として描かれていましたが、仮に「ケルト人」と断言してしまうと、何らかのトラブルが生じてしまう可能性があるからでしょうか?この辺りの微妙さは、俺の脳味噌や知識では把握し切れないというのが正直なところです。

(2004/03/26)

映画の記憶

★私の記憶、やはりかなりあやしいです。

貴兄が御覧になったのは劇場ですか?余程印象に残る映画でない限り、記憶というのものは加速的に失われてゆくものではないでしょうか。それで普通だと思います。俺などは数日前に観た映画の事すら思い出せないという有様です。最近は家庭用映像機器が大充実していますので、同じ映画を繰り返し観る事が容易になってきました。その事が映画批評にも相当な影響を及ぼしているような気がします。極めて精密な映画分析には感心する事しきりですが、何処か機械的でやや面白味に欠ける感じがしないでもありません。資料的には大変優秀でも全然面白くない文章もたまに目にします。

映画ファンの集まりなどで、膨大な映画知識を詰め込んだ人に遭遇した事が何度かありますが、喋っていて、非常に不愉快でした。要するに自分が貯め込んだ知識や情報を他人に自慢したいだけなんですね。自分の意見は何もないという貧しさ(勿論、そうじゃない人も沢山いると思いますが)。映画ファン云々と言うより、こういう連中とは人間として低俗だし、二度とつき合いたくないなと感じました。

(2004/03/28)

自己最多記録

★少年時代は、最低3回繰り返し観たものです。気になる映画は、朝から最終まで5回かな。

凄いですね。俺が映画を連続で観たのは、恐らく『七人の侍』(1991年のリヴァイバル上映)のみだと思います。何しろ3時間半の超大作ですので、昼前に観始めて、映画館を出た時は辺りは暗くなっていました。食糧持参で乗り込んだ記憶があります。それまでTVの画面でしか観た事のなかった黒澤映画。その最高傑作をスクリーンで楽しむ事が出来た喜び。帰りの電車の中でも感激でぼーっとしていました。あれから随分時間が経ちましたが、その際に購入した記念パンフレット(でかい!)は今も俺の本棚に飾ってあります。

(2004/03/30)

『オール・アバウト・マイ・マザー』

先日。深夜放送で『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999年公開) を観た。

最初は臓器移植をテーマにした深刻映画か?と思わせるが、予想とは全く違う方向へと物語は転がってゆく。即興で書き飛ばしたような気もするし、案外計算が行き届いているような印象も受けるし、とにかく不思議でユニークな脚本である。

主人公マヌエラは息子エステバン(作家志望)が可愛くて可愛くてしようがない。父親不在の家庭だが、生活水準は結構高い。きっとお母さん(移植コーディネーター)の稼ぎが良いのだろう。息子の希望や我儘は無条件に叶えてしまうマヌエラではあるが「僕のお父さんはどんな人だったの?」という質問だけは答えられない。さてその理由とは?

今日は愛する息子の誕生日。異常に仲の良い母子は芝居見物に出掛ける。鑑賞後、息子は出演女優のサインが欲しいという。劇場の裏口。土砂降りの中、目的の人物を待ち続けるマヌエラとエステバン。ようやく目当ての人物が姿を見せる。嬉しさの余り、不用意に道路へ飛び出すエステバン。きききき。どがっ。ぐわっしゃーん。

生きる目標を失ったマヌエラは傷心の旅に出る。目指すは因縁の地バルセロナ。

マヌエラの性格や感情が丹念に描き込まれている。彼女に扮するセシリア・ロスも好演。「若い頃は散々無茶もしたけど、今は真面目になりました」という雰囲気がよく出ている。運命という名の強敵に敢然と立ち向かうマヌエラ。別に千葉真一の経営する寿司屋に刀を買いに行く訳ではないが「女闘士」と呼ぶに相応しい風格を湛えている。或いは「精神的武芸者」とでも言うべきか。

さしものマヌエラも、時に号泣してその場に崩れ落ちてしまう事もある。しかし、それは最大限の抵抗を試みた結果であり、その涙は尊く美しい。マヌエラは常に物語の中心に位置している。近頃は主人公なのか通行人なのかさっぱりわからない主人公が流行りのようだが、マヌエラは主役らしい主役であり、そういう意味では王道に忠実な映画と言えるかも知れない。

マヌエラがエステバンの父親となる人物と出会った街バルセロナ。この世界的名声を誇る第一級都市も相当病んでいる。麻薬、売春、そしてエイズ…街の至る所に危険な誘惑が潜んでいるのだ。それに打ち勝つ資質や心構えのない奴は、たちまちこの魔都に飲み込まれ、食い潰されるであろう。そのような状態を正義面して糾弾する心算はこの映画の作り手にはないらしい。現実は現実として冷静に捉えている所に好感を覚えた。

人生は死と隣り合わせ。志の途中や夢半ばにして果てる者も少なくない。愛する者を亡くし、とり残された者は一体どうすれば良いのか?如何に遣る瀬無くても、如何に惨めでも、やはり命ある限りは生き続けるしかない。それが散っていった者への礼儀でもある。凡人にはとてもマヌエラのような生き方は真似出来ないだろうが、俺もどんなにブザマな状態に陥っても生きてゆこうと思った(現時点でも充分「ブザマな状態」ではあるが)。生きるという事は随分と苦しく辛いものだが、その中に喜びや楽しみを発見する面白さもある。そんな当然にして、日頃は忘却している事を思い出させてくれる映画であった。

(2004/03/19)

『クレイマー、クレイマー』

先日。衛星放送で『クレイマー、クレイマー』(1979年公開)を観た。

主役のダスティン・ホフマンは広告代理店に勤務する男。今回、数年に一度という大きな仕事を任される事になった。これを成功させれば重役の座も夢ではない。きっと家族も喜んでくれるだろう。意気揚々と自宅に引き上げると、そこでは愛する妻(メリル・ストリープ)がせっせと旅支度をしているではないか。状況が全く把握出来ないホフマンはストリープに訊ねる。「どうした?何処に行くんだ」「私家を出ます。さよなら」「えっ」明確な理由も告げずに妻は消え去った。7歳の一人息子を残して。

さあ大変だ。俺の苦労を女房は解ってくれていると思い込んでいたホフマンとしては、まさに青天の霹靂。複雑な職務をこなしつつ、家事や子供の世話をしなくてはならない。食事の用意から買物から掃除から学校の送迎から、目の回るような忙しさだ。ここにきて主婦業の大変さを身を持って知るハメになるとは。そんなホフマンのあたふた振りが面白い。仕事に関しては優秀だが、その他は際立った特徴を持たない平凡な男。こういう役は案外難しいものだが、流石に演技巧者で鳴らすホフマンである。時にリアルに時にユーモアを加味して…自由自在の好演を披露している。

生きるという事は飯を食う事である。この作品にも随所に食事場面が登場する。親父も息子も余り良いものは食っていないようだ。スーパーかコンビニで買ってきたような即席料理が食卓に並ぶ。肉中心の食生活。栄養に偏りが出るのではないかと一寸心配になる。基本的に調理が苦手なホフマンだが、たまにキッチンに向う場合もある。フレンチトーストである。最初はこれもヘタだったが、徐々に腕前をあげてゆく。終盤、このありふれた家庭料理が絶妙の小道具として利いてくるのである。

妻が消えて18ヶ月。息子との生活も軌道に乗ってきたホフマンの前に、突如ストリープが姿を現わす。久々の再会。ストリープはホフマンに意想外な要求を突きつける。息子を渡して欲しいと言うのだ。今更それはねえだろ。ふざけるんじゃねえ。さしもの温厚なホフマンもブチ切れた。渡す渡さないを繰り返す内に、ついに両者は法廷で激突する事になる。ホフマンは弁護士を雇って迎撃作戦を練る。裁判となればカネが要る。会社をクビになっていたホフマンは、再就職の為にマンハッタン中を駆け巡る。夫と妻が我が子を奪い合う。この世にこれほど不毛で虚しい活劇があるだろうか?勝っても負けても少しも嬉しくない。

ホフマンの憤りもストリープの葛藤も解らないではない。しかし、真に息子の事を思うのなら、自分の意地を捨てて一緒に住むべきではないのか。子供には両親が必要だ。せめて子供が生活能力を身につけるまでは互いに協力して面倒を見る。それが最低限の親の務めと言うものだ。それにしても、家庭という世界最小の組織の維持がこんなに難しいとは!結婚をする家庭を持つという事は、同時に重大な責任を担う事を意味する。

俺の周りにも、何かにつけて「結婚したい結婚したい」と喚くどうやら頭が空っぽらしい連中がウヨウヨしているが、一体こいつらは結婚をして何をする心算なのか?よく考えて発言&行動をして貰いたいものだ。生半可な覚悟では悲劇を招くのがオチである(実例も何度か目撃している)。しょうもない見栄やファッション感覚(アホか)でやるような結婚ならしない方がマシだ。まあ。結婚は良いとしても餓鬼は作るなよ。そんな事を考えながらこの映画を観た。全体的にユーモラスな雰囲気だが、扱っている素材は深刻で切ない。

(2004/03/14)

フレンチトーストが食べたい

★今まさに日本バージョンともいうべきドラマ『僕と彼女と彼女の生きる道』がやってます。

『クレイマー、クレイマー』は20年以上前の映画ですが、扱っているテーマは全く古びていません。むしろ現代の人間(日本人)にこそ観て欲しい作品です。フレンチトーストの作り方も判るし。アメリカだろうが日本だろうが、庶民の生活というのはそれほど違いはないのではないでしょうか?この映画の設定を日本に置き換える事は充分可能だと思います。後はどれだけ新工夫を追加出来るかが勝負。さが様が認めておられるぐらいなので、このドラマ、相当面白く仕上がっているのでしょう。通常、テレビドラマはまず観ない俺ですが、今度覗いてみます。ダスティン・ホフマンに挑戦する(?)草薙パパのお手並拝見ですな。大杉蓮も相変わらず忙しいのかな。俺の好きなタイプの役者ではありませんが、独特の存在感は認めざるを得ません。松重豊は良いですね。面構えもガタイも迫力があります。ラジオドラマ版『バイオレンスジャック』に出演していた頃が懐かしいですね…って、誰も知らないか。そんな話。

(2004/03/15)

『泥棒成金』

先日。衛星放送で『泥棒成金』(1955年公開)を観た。

主演はケーリー・グラント&グレイス・ケリー。監督はアルフレッド・ヒッチコック。

主人公ケーリー・グラントはかつて〈猫〉の異名で数々の大仕事をやってのけた盗賊。現在は泥棒稼業から手を引いて、優雅な独身生活を満喫している。だが、安息の日々が破られる時が来た。彼の周辺で宝石を狙った盗難事件が頻発。そしてその手口は〈猫〉を彷彿とさせるものであった。警察はケーリー・グラントの仕業と決めつけて、彼の包囲網を構築する。違う。俺じゃねえ。この汚名を晴らすには真犯人を捕らえるしかない。かくして、偽者とオリジナルの壮絶な闘いが始まった!

舞台は高級リゾート地リヴィエラ。美食にカジノに仮装舞踏会…ヒマとカネを持て余した連中の遊びっぷりが羨ましいぞ。全体的に華やかで贅沢な雰囲気。犯罪映画、スリラー映画と言うより、お洒落な冒険活劇と言った趣である。ケーリー・グラントがどうしても「元怪盗」に見えないのが難だが、グレイス・ケリーの美しさは素晴らしい。最初は金持ちのバカ女かと思わせるが、意外に頭も良く、勘も鋭い。中盤「貴方が〈猫〉なんでしょ?」とケーリー・グラントにしつこく迫る場面が秀逸だ。

小難しいテーマは犬に食わせて、娯楽に徹し切っているのが良い。但し映像設計の方は随分凝っている。奥行きを感じさせる濃密な映像はヒッチコックならでは。まさに映画だ。デジタルに侵略される前の映画独自の輝きがここにはある。屋根の上で繰り広げられる最終決戦も迫力満点。テレビではなく劇場で観たいクオリティを誇っている。毎回話題を呼んでいたヒッチコックの特別出演場面だが、今回監督は迷惑なバス乗客に扮している。公開当時、場内は爆笑に包まれたんだろうな。

俳優業を一時退き(1953年頃)荒んだ生活を送っていたケーリー・グラント。そんな彼を説得して、この作品で職場復帰させたのは、誰であろうヒッチコック自身であった。奇妙な逸話に彩られたヒッチ先生としては珍しい一寸良い話である。

(2004/03/14)

『イノセンス』

先日。押井守の新作『イノセンス』を観た。

最強の斬り込み隊長を失った公安9課《攻殻機動隊》のその後の物語。

電脳世界の彼方に消え去った草薙素子。その良き理解者であったバトーが今回の主役を務めている。このバトーが不良刑事振りを発揮して大いに楽しませてくれる。9課以外の連中には疫病神呼ばわりされており、アウトロー臭濃厚。ヤクザの事務所に突っ込んで組員全員をブチ殺すような男が、家に帰ると愛犬の世話をまめまめしく行っている。そのギャップが実に面白い。バトーのゴジラ的発想と行動に終始振り回される相棒・トグサとのコントラストも鮮やか。愛玩用ロボットが引き起こす殺人事件を迷コンビが追う。

登場人物の会話は相変わらず訳がわからないが、ストーリー自体はシンプルで解り易く、ペテンのトロい俺でも何とかついてゆく事が出来た。やたらに偉人賢人の名言箴言が挿入され、少々鼻につくが、これも押井の作戦であろうか。監督が構築したイメージを見事に映像化したスタッフの頑張りも評価したい。今回の押井は人形にこだわっている。物語の随所に押井流人形論のようなものが登場する。賢い人には幾らでも深読み可能な内容なのでこれも注目だ。俺の脳味噌には手に余るけど。上映時間99分という枠の中に膨大な情報がぎゅぎゅっと圧縮されている。

後半、敵の中枢で孤軍奮闘を続けるバトーの前に〈守護天女〉が華麗に舞い降りる。この場面には思わず鳥肌が立った。奇怪な雰囲気を醸す人形アクションも見物である。とかく難解な印象を受ける押井作品だが、今回は娯楽映画としても充分通用する内容に仕上がっている。観る前に『攻殻機動隊』(1995年公開)を復習しておいた方がより楽しめるのは言うまでもないだろう。

(2004/03/14)

知識ゼロでも楽しめる映画

★1度だけでは難しいが、2度以上観ると面白い。そんな映画のようですね。

押井守の映画というと『オンリー・ユー』『ビューティフル・ドリーマー』『パトレイバー2』『攻殻機動隊』『紅い眼鏡』『アヴァロン』ぐらいしか観ていないので、余り偉そうな事は言えないのですが…あの観客に媚びない「不親切さ」が良いですね。解る奴だけ解ればいいというような開き直りが実に魅惑的です。クセになる面白さ。新作『イノセンス』もそういう要素が濃厚でした。衛星放送か何かでやれば、また観てしまうでしょう。退廃的な物語に散りばめられた「謎」に迫ろうと、繰り返し観てしまう辺りは、かのスタンリー・キューブリックの映画を連想します。そう言えば、押井は『2001年宇宙の旅』(リヴァイバル上映時)のパンフレットにユニークな文章を寄稿していましたね。現在、国産映像作家の中で世界の注目を浴びている者はほんの僅か。押井守の更なる活躍を期待しています。

貴サイトの『押井守小辞典』は大変な労作。感服しました。今後とも宜しくお願いします。

(2004/03/15)

『ラウンド・ミッドナイト』

先日『ラウンド・ミッドナイト』(1986年公開)を観た。

天才サックス奏者デイル・ターナー(デクスター・ゴードン)が単身パリに渡る所から映画は始まる。デイル渡仏の理由は本人にしか解らない。本拠地ニューヨークでの音楽活動に限界を感じたのだろうか?それとも嫌気がさしたのだろうか?或いは…

デイルの就職先は決まっている。パリ市内の名ジャズクラブ《ブルーノート》である。ジャズ史に名を刻む大物登場が話題を呼び、店は連日満員である。神業とも言えるデイルの演奏に客全員が魅了されている。そして画面は《ブルーノート》の外へと切り替わる。そこには、雨の中、壁の隙間から漏れるデイルの音色に聴き惚れる若い男(フランソワ・クリューゼ)がいた。

デイルに扮するのは、既存の俳優ではない。世界的サックス奏者デクスター・ゴードンである。天才が天才を演じている訳であり、これ以上の配役は有り得ないだろう。ゴードンの醸し出す圧倒的重量感。老いてなお獅子の風格を保つ男。ごつい容貌と言い、独特の声と言い、貫禄充分である。更にガッシリとした体格の持主でもある。このガタイだ。多分喧嘩も強いだろう。劇中、デイルが軍隊時代に白人上官をぶん殴ったというエピソードが出てくるが、ゴードン本人にもこの程度の武勇伝は幾らでもあると思われる。

たまたま神はゴードンに音楽の才能を与えたが、こういう人は何をやらせても一流の人物になるものだ。演技経験のないゴードンが立派に絵になっているのには驚かされる。無論監督の演出手腕もあるのだろうが、それに応えるゴードンの資質も凄い。生まれついてのアクターとでも呼ぶべきか。

デイルを崇拝する男フランシスは売れないデザイナーである。嫁さん(クリスチーヌ・パスカル)は他に男を作って出てっちまった。フランシスは一人娘を抱えて困窮極まる生活を送っている。何しろ《ブルーノート》の席料も払えないくらいだから、相当悲惨な財政状況である事は確かだ。

やがてデイルとフランシスは厚い友情を交わす事になる。憧れの大スターとの知己を得て狂喜乱舞するフランシス。デイルの口利きで店に入る事も自由になった。親交を深める内にフランシスはデイルの悪癖に気づく。酒である。生ける音楽財産がアルコールなどに蝕まれるのを黙って見ている訳にはゆかない。フランシスはデイルを自宅に引き取り、彼のビョーキを治そうと決意する。まず生活スタイルから改善しなくては。それには、今の我が家は狭過ぎる。早急に転居の必要がある。だがそんな余裕はない。ではどうするか…

やむなく逃げた女房に金の無心をするフランシス。以前「てめえは娼婦以下だ」と罵倒した相手に借金をするのは相当格好悪い行為だが、この際だ。背に腹は変えられねえ。フランシスは元・妻の前で「彼は僕に霊感を与えてくれるかけがえのない存在なんだ」とデイルを激賛する。それを聞かされた彼女の寂しげな表情が良い。「私には霊感は感じないの?」

全篇に流れる落ち着いた雰囲気。雨に濡れた街並みの美しさ。そして、音楽をジャズを真に愛する人々。それらが適度に混じり合い濃厚な作品世界を構築している。この作品には、普段、アウトロー映画にしか食指が動かない俺をも捉える魅力がある。押しつけがましさが微塵もなく、観る者の心に沁み込むような感じ…まさにオトナの映画。良い作品はジャンルを超える。

2〜3年前から陳五郎御大のライブを求めて京都各地を転戦している。この経験が劇中の演奏場面をより味わい深いものにしてくれた。そもそも御大との出遭いがなければ、この映画を録画する事もなかったであろう。そのキッカケを作ってくれたのが『奇魂』であり、かの管理人様である。改めて両先輩に感謝せずばなるまい。今夜はこの前得意先に頂戴した舶来の酒を開けよう。歯も治ったし、久々にストレートで呑みますか。それでは『奇魂』に音楽に映画に乾杯。

(2004/03/07)

知識ゼロでも楽しめる映画

★この物語は、本作にも出演しているバド・パウエルというピアノマンをモデルにしたものです。

音楽に関する知識や歴史的背景の把握等々…何も知らない何も持っていない俺ですが、充分楽しめる映画でした。登場人物が皆良い顔をしています。溢れんばかりの生命力が彼らの音楽の源泉なのでしょうか。映画後半のホームパーティの場面も実に楽しそう。思わず、この世界に飛び込みてえ!と叫んでしまいました。そんな個性的人物群の中心にどしっと聳え立つゴードン御大の存在感も圧巻。ドスで斬り合う映画も良いのですが、こういう落ち着いた趣のある映画も味わい深い。それにしても、貴兄お薦めの映画はハズレがないですね。

(2004/03/13)

名優の余技

★宮村さんのヒーロー、イーストウッドはかなりのジャズファンであります。

イーストウッドの役者人生をテーマにしたドキュメンタリーを観た事があります。その中でイーストウッドは「アメリカの誇る文化…それはジャズと西部劇だ」と断言していました。如何にもイーストウッドらしい台詞。御大自身、演奏技術には相当自信があるようです。番組中、何かのパーティでピアノを弾くイーストウッドの姿が映し出されていました。結構歌も巧いし。この資質が『センチメンタルアドベンチャー』のような佳作を生み出したのだと思います。『バード』と『ラウンド・ミッドナイト』の比較ですか…これは難問ですね。『ゴッドファーザー』と『バラキ』の方は「ドスで斬り合う系映画」なので、何とかなりそうですが。映画というものは掘り下げようと思えば何処までも掘り下げてゆく事が出来ます。奥が深い深い。

(2004/03/14)

『[Focus]』

先日。深夜放送で『[Focus]』(1996年公開) を観た。

全篇ビデオテープの映像という異色の「映画」である。これは単なるお遊びではなく、必然性を帯びている事を声を大にして言いたい。何の意味もない「実験映画」とは一線を画するのだ。同じ脚本をフィルムで撮影したら、この作品の有する異様な生々しさを醸す事は出来なかった筈である。作り手の作戦が図に当った。

登場人物は少ない。浅野忠信扮する盗聴マニアの青年、白井晃扮するTVディレクター。これに助手の女性とカメラマンが加わる。但しカメラマンが画面に姿を見せる事はない。何故なら「彼」は我々観客の分身だからである。今日は白井が担当する報道番組の撮影日。今回のテーマは「ある盗聴マニアの生態」という訳だ。

君は盗聴という行為に罪悪感を感じないのかい?という質問に、青年はこう答える。

「電波は傍受されるものなんですよ。聴かれて困る電話ならしなければいいんだ」

この青年に取材を仕掛けるTVディレクターも相当アクの強い人物である。マスコミに属する者のサガなのか。とにかく刺激的な情報、衝撃的な映像を欲しがるのだ。目的の為には強引な説得もヤラセや狂言も厭わない。大衆は社会の裏側を知りたがっている。そして我々には視聴者の要望に応える義務があるのだ。それが私の使命なのだ。文句あるか。わはははは。

両者とも一見理屈は通っているが、何処かおかしい。何処か狂っている。そしてどちらもその事に気づいていないのである。だが、俺達に彼らを笑ったり、批判したりする資格があるのかどうか。多かれ少なかれ似たような事をしているぜ。なあ。※※※※さん。ゴミみたいなメールを打ってるヒマがあるなら、そろそろ就職先でも探しなよ。もし彼らの行動や言動が狂っているとするなら、大抵の現代人はキ××イという事になる。俺もあんたも。

二つの「毒」が交わる時、予測不可能な惨劇が始まる…浅野が会心の演技を披露している。特に後半の暴走演技は目を見張るものがある。おたく野郎が内包する凶暴性を見事に表現。禍々しさの中にユーモアを感じさせる一世一代の名演であった。対する白井も浅野に劣らぬ好演で応酬。当初正義派を気取っていた男が、徐々に本性を顕わにしてゆく過程を違和感なくサラリと演じてみせる。巧い役者だ。

映画は劇場で観るべきものだと常々強調してきたが、この作品に限ってはTVで鑑賞した方が良いかも知れない。映像も物語もTVの小さい画面にピタリと納まるのである。そしてそちらの方が、臨場感もリアリティも増すような気がする。そういう意味でも従来の概念では捉え切れない映画だと言えるだろう。見かけはバタフライナイフだが、切れ味は日本刀クラスという逸品。

(2004/03/02)

『道』

先日。図書館でフェデリコ・フェリーニの『道』(1957年公開)を観た。

貧乏人の娘ジェルソミーナが大道芸人ザンパノ(アンソニー・クイン)に買われる所から映画は始まる。彼女の値段は1万リラ。現在の価値に換算すれば幾らぐらいになるのだろうか?彼女の母親に言わせると「壊れた屋根を修理出来て、残された家族が暫く食っていける」程度の金額とか。

ザンパノに厳しく仕込まれたジェルソミーナは次第に芸の面白さに目覚めてゆく。彼女を演じるジュリエッタ・マシーナ(フェリーニの奥さん)の演技が絶妙だ。ビクビクした表情と言いオドオドした態度と言い、主人公の不安定な心情や境遇を的確に表現している。

大道芸人の生活が果たして如何なるものなのか…世間知らずの俺には想像すらつかないが、この映画に描かれているそれは、かなり現実に近いのではないかと思った。フェリーニは妙な感情移入を廃して、ジェルソミーナ&ザンパノの運命を冷徹な視線で追う。

胸の筋肉で鎖の留め金を引きちぎるのがザンパノご自慢の芸である。他にはジェルソミーナと組んで余り笑えない寸劇を披露するぐらいだ。このシンプルなパフォーマンスで一体どれだけ稼げるのかな?と心配になるが、案外客には好評である。儲けた銭はその日に使っちゃうのが芸人のサガ。酒を喰らい、行きずりの女と夜の街に消えるザンパノ。その間、ジェルソミーナは放ったらかしの状態である。それにしても酷い野郎だ。奴にとって彼女は「道具」でしかないのか。淀川大先生の文章によると「ジェルソミーナはザンパノのセックス相手も務めている」とあるが、本当だろうか?俺には、ザンパノはジェルソミーナを性欲の対象として認めていないように見えるのだが…。

食事場面の多い作品である。ザンパノもジェルソミーナも伊達や酔狂で芸を見せている訳ではない。それはれっきとした生活手段なのである。大皿に山盛りに盛られたイタリア料理が実に旨そうである。自分の技能で獲得した報酬で食べる料理の味は格別であろう。これこそが「本当のメシ」というものだ。俺のように、何のやる気もなく、嫌々に仕事をして、その上給料だけはしっかり貰っている奴には絶対に味わえない味である。死んでいるのか生きているのかわからないような者には、本当のメシを食べる資格は永久にないのだ。

映画は後半から陰鬱な雰囲気を帯び始める。ザンパノが獰猛な本性を剥き出しにするのがその原因だ。殺人未遂で一時留置場にブチ込まれたザンパノ。野獣と決別する好機を放棄し、尚もザンパノについていこうとするジェルソミーナ。だが、この野蛮人は自分を慕う健気な女をも裏切るのだった。終盤、己の犯した罪の重さに押し潰されるザンパノの姿が無惨である。正直ざまあみろという気持ちがしないでもないけれど。その引き金となるのが、ジェルソミーナがよく口遊んでいたメロディというのが見事である。音楽を効果的な小道具として活用した好例と言えよう。それはこの映画のテーマ音楽でもある。作曲はニーノ・ロータ。

どちらかと言えば『ローマ』や『アマルコルド』の方が俺の好みに合うが、観終わった後にずしんと胸に来るものあった。世界的評価も頷けるフェリーニ初期の名篇。

(2004/02/27)

『007/消されたライセンス』

先日。深夜放送で『007/消されたライセンス』(1989年公開)を観た。シリーズ第16作。

突如友情に目覚めたジェームズ・ボンド(4代目ティモシー・ダルトン)が友達の仇討ちに乗り出すエピソード。直属上司の制止をも無視したボンドはかの「殺人許可証」を剥奪される。さあ大変だ。この時点でボンドは一介の民間人に成り下がった訳である。殺人を犯せば当然罪に問われる筈だ。巨大組織の援護を失ったボンド。武器の調達や情報収集もさぞ困難になるだろうし、それが今回の面白味であり、見所なのかなと予想していた。ところが、作り手にこの設定を生かす心算が少しもない事に途中から気づいた。

ボンドは「いつもように」標的のアジトに忍び込み「いつものように」その配下を片っ端からブチ殺してゆく。例の上司も序盤に顔を見せたきりで、その後は全く登場しない。おいおいおい。こんな殺人鬼を野放しにしておいて良いのか?責任持てよ英国諜報部。

ボンドが宿敵としてつけ狙うのが、南米某国の麻薬王(らしい)サンチョスである。このオヤジがしっかりしてくれていれば、この話も盛り上がるのだが。はっきり言って迫力も貫禄もハナも何もないオヤジであり、ボンド程の男がムキになって追いかけ回す価値が、このオヤジにあるのかどうか。現にかの麻薬王は相当人望が薄いらしく、裏切りや背反は日常茶飯事ようだ。こんなもん放っておけば、遅かれ早かれ自滅するんじゃなかろうか。やはり、それなりの信念や野望や魅力を備えた悪役じゃないと観ていて面白くねえ。敵役の印象が弱いと、それと闘うヒーローまでアホに見えてくるから要注意だ。

但し、アクションシーンは見応え充分である。海に空に壮絶なアクションが展開する。まだCGに毒される前の映画であり、生身の人間が命と身体を張って繰り広げる戦闘場面には手に汗握る。映画終盤、トラック野郎と化したボンドが、サンチョスに猛烈な追撃を仕掛ける。ここまで活劇にカネと人材を投入するのなら、脚本の方にも一寸は労力を注いで欲しいものである。まともなホンさえ書けば、シリーズ屈指の異色作に仕上げる事も可能だったように思う。

サンチョスをめでたく地獄に送ったボンドは「いつものように」美女と戯れている。彼はこのまま英国諜報部をクビになったままなのだろうか?という事は『007』シリーズはこれで終りなのだろうか?その説明や言い訳が為される事もなく、映画は当然のように幕を閉じるのであった…。

(2004/02/25)

『ゼブラーマン』

先日。三池崇史の新作『ゼブラーマン』を観た。岐阜県のシネコン。レイトショー1000円也。

哀川翔100本目の主演映画。内容の出来不出来は当然あるだろうが、映画不況の時代としては驚異的数字である。

ヤクザでも殺し屋でも不良刑事でもない。今回哀川が扮するのは冴えない小学校教師である。生徒にも同僚にも白眼視されている哀れな男。哀川自身も仕事への情熱はとっくに消え失せており、職員会議の最中もひたすら妄想に耽っている有様だ。更に男の家庭は完全に瓦解している。妻は不倫に走り、娘は中年男に体を売り、息子は激烈なイジメに遭っている(しかも原因は哀川)。職場にも家庭にも居場所がない。そんな哀川の唯一の避難場所が「ゼブラーマンになる事」であった。

『ゼブラーマン』とは、低視聴率のせいで僅か7話で打ち切りとなった特撮ヒーロー番組である。劇中『ゼブラーマン』の映像が随所に登場する。その主題歌をわざわざ水木一郎に歌わせる辺りは、かなり手が込んでいる。哀川はその熱烈なマニアであり、部屋に篭ってはゼブラーマンの衣装を縫い上げている。手製のコスチュームを着込み、鏡の前でポーズを取る哀川。訳のわからぬ事を呟きつつ、飛んだり跳ねたり転んだり。変質者に限りなく近い男を、俳優としても個人としても縁遠い哀川が演じるギャップ、それが生むおかしさ。いつものアウトロー振りとは余りにも異質な哀川の姿に、場内各所でクスクスと笑いが起こり、時には爆笑が弾ける。

哀川の住む町は地球外生物の侵略拠点であった。邪悪な異星人の魔手が町を覆い尽くそうとしている。それを察知した哀川は「本当のゼブラーマン」と化して侵略者と真っ向から対決する。正義のヒーローとしての活躍を続ける内に、男としても父親としても自信を取り戻してゆく哀川。馬鹿馬鹿しくも感動的な展開である。まあ、それは良いのだが、哀川が何故に「超人覚醒」したのかがよく解らない。改造人間でもないし、悪魔と合体した訳でもないし、まして宇宙人でもない。どう考えても一般人に過ぎぬ哀川が、ゼブラーマンに変身可能な「理由」が俺には最後まで掴めなかった。作り手に問えば「それは哀川翔だから」という回答が返ってきそうだが…。荒唐無稽な話である事は百も承知である。しかし、物語の肝になる部分なので、そこは外さずにキッチリと描いて欲しかった。

戦闘場面も大いに不満である。特に敵の親玉との最終決戦が、薄っぺらいCG映像で処理されているのには辟易した。ゼブラーマン、お前もかってな感じである。哀川も頑張ってはいるものの、CG相手の活劇はどうしても迫力に欠けてしまう。作品の性格を考えれば、やはり泥臭い着ぐるみアクションに徹するべきではなかったか。映画中盤のゼブラーマンvs蟹男(柄本明!)の激突場面が面白かっただけに、肩透かしを喰らったような印象を受けた。

助演の渡部篤郎が哀川に迫る個性を発揮している。防衛庁所属の特殊機密部員というエリートだが、何が気に入らないのか、冒頭からイライラし通しである。但し暴力は使わない。意外に紳士的で情に厚い人物なのだ。不貞腐れた男を演じさせると、渡部は相変わらず巧い。イライラが頂点に達すると『ウルトラQ』じゃないんだからさ。とか、少しは現場の言う事も聞けよ、てめーら。などと怒声を張り上げる。しかもそれが絵になっている。渡部一流の芸と言えようか。渡部と哀川は家が近所同士でプライベートでも交流があるらしい。渡部の哀川に対する喋り方が演技と言うより、素に近いように思えるのはその為か。

異生物の侵攻から町を守ったゼブラーマンを人々は歓迎する。大観衆に拍手とエールで迎えられる正義のヒーロー。その中には哀川の家族の顔も見える。

妻が「よく見ると結構良い男だね」と言うと

娘が「でも…なーんか、お父さんに似てない?」と尋ねる。

妻は「バカね。おかしな事、言わないの」と笑う。

そして、ヒーローの正体を知る息子は黙って頷いている。その双眸には尊敬の輝きが。

これって『サラリーマン金太郎』(1999年公開)の終り方といっしょやなあと野暮な考えが浮んだが、何処か観る者をホッとさせる微笑ましいエンディングではあった。マントを翻しつつ「白黒つけるぜ!」と大見得を切るゼブラーマン=哀川翔。今回の「難役」をこなした哀川に最早怖いものはない。その快(怪?)進撃はこれからも続く。

(2004/02/22)

『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』

先日。深夜放送で『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994年公開) を観た。

サンフランシスコの夜景を上空から捉えていたカメラが、ぐぐーっと下降を始める。賑やかな街並みと道行く人々が映し出されたかと思うと、カメラは再び上昇を開始し、街角のある小さなビルへと入り込む。その一室では奇々怪々なインタビューが繰り広げられていた。部屋の中には2人の男がいる。1人はFMラジオのディレクター。そして、もう1人は自らを「ヴァンパイア」と名乗る謎めいた青年(ブラッド・ピット)である。キ××イでも法螺吹きでもマニアでもヒモでもないらしい。彼は既に200年の時を消費しているという。青年が何故に吸血鬼と化し、如何なる運命を辿って、現在に至ったのか…その経緯を青年は詳らかに語り出す。

映画の大部分が青年の回想場面というかなり大胆な構成である。つまらん寄り道をせずにズカッと本題に切り込んでゆく辺りは好感が持てる。多少説明不足を感じないでもないが、不明な部分は観客自身の空想で埋めれば良い。それが映画の楽しみのひとつじゃないか。闇雲にわからんわからんを連発したってしようがねえ。少しは手前の頭で考えろって。別にこの映画に限った事ではないが。

僕達は何処から来て何処へ行くのか…苦悩するヴァンパイアという設定が面白い。肉体は吸血鬼だが、宿る精神は人間…まるでデビルマン(原作の方)を思わせるキャラクターが気に入った。ブラッド・ピットは良い役を貰ったな。アホな役ばかり演じていると、俳優本人(例え実力はあっても)までアホに見えてくるが、これはその逆パターンと言えそうだ。ヴァンパイアたる者、人間の生き血を啜るのがお仕事である。だが、ブラッド・ピットにはどうしても「それ」が出来ない。彼の中に根強く残っている良心がそれを邪魔するのだ。已む得ず、鳥やら犬やら、動物の血液を吸収して渇きを凌いでいる。溝鼠の血を吸うヴァンパイアなんて初めて観た。そんなブラッド・ピットがついに人間の喉笛に噛みつく時がやって来る。それが映画前半のヤマ場となる。

ブラッド・ピットを闇の世界に誘う先輩吸血鬼にトム・クルーズ。優等生専門だと思っていたトムちゃんが、不死身のモンスターを文字通り怪演している。夜な夜な歓楽街だの舞踏会だのに出没しては、美男美女を誑し込み、新鮮な血液を頂戴する。罪の意識?ある訳ないだろ。だって僕らは最も神に近い存在だ。そしてこいつら(人間)は僕らの食糧に過ぎないのだ。人間が家畜を食べる度にいちいち躊躇うかい?しないだろ。それと同じ事さ。桁外れのアクの強さでブラッド・ピットを圧倒するトム・クルーズ。悩む前者、嘲笑う後者。個性の異なる吸血鬼2人のやり取りが実に面白い。

映画中盤から登場する美少女吸血鬼(キルスティン・ダンスト)にも強烈な印象を受ける。狩りの才能、殺しのテクニックに関してはブラッド・ピットよりも上。あどけない表情のままで殺戮を重ねてゆく場面は無気味でもあり、退廃的な美しさをも感じさせる。さしものトム・クルーズもこのラブリーな同業者にはタジタジの様子であった。

映画終盤には激しい戦闘場面が用意されている。その際、ブラッド・ピットが巨大な鎌をびゅんびゅん振り回す。ダークサイドの代表選手に相応しいユニークな小道具だと思った。凄まじい威力。仇敵の首を吹き飛ばし、胴体を両断する。血飛沫が舞い、絶叫が木霊する。サムライには刀が、ヴァンパイアには大鎌がよく似合う。

吸血鬼というありふれた題材を第一級の娯楽作品に仕上げた原作もお見事だが、映画版もそれに負けない出来栄えであった。

(2004/02/18)

トム・クルーズ

★吸血鬼の個性描写はリアリティ?が感じられましたし、登場人物の心的葛藤を描きながら辛気臭くならない点も見事でした。

原作者アン・ライスが手掛けた脚本がよく書けていました。原作の方は三部構成ですが、映画版では第二部をバッサリ切り落としています。この潔さが映画を成功させた要因のひとつかな。脚本が良ければ、出演者が多少大根でも面白い映画を作る事は充分可能です。

主演のトム・クルーズは配役が決まった時、原作者と熱心なファンに猛反発を喰らったとか。そのプレッシャーを撥ね退けて、鮮烈な吸血鬼像を創造したのは天晴れだと思います。見上げた役者根性。流石にサムライの精神を理解する男です。彼のフィルモグラフィを調べる内に「意外に作品を選んで出演しているのかな?」と感じました。そう言えば、キューブリック最後の映画の主役もこの人でした。

(2004/02/19)

『人でなしの恋』

先日。衛星放送で『人でなしの恋』(1995年公開)を観た。

映画を観た後、本棚の奥から江戸川乱歩の短編集を引っ張り出して、原作を読んでみた。乱歩お得意の毒気と妖しさに満ちた怪作だった。ある金持ちの家に嫁入りした主人公の独白という形で物語は進行する。一行目から物語世界に引き摺り込まれ、一気に読了してしまった。これは乱歩自身、お気に入りの作品らしい(但し編集者と読者の評判は芳しくなかったとか)。映画版は原作の持つ禍々しさに負けており、最初から最後までおままごとが続く。乱歩の小説を映像化したいという気持ちは解るが、乱歩に匹敵するアクの強さがなくては成功は難しい。

主演は羽田美智子&阿部寛。まるで人形のような美形夫婦だが、演技の方までお人形さんクラスなので困ってしまう(最近の阿部は一寸面白いけど)。先の『人間椅子』における清水&國村のネットリ夫婦に比べると狂気度は数段落ちる。両人とも黙っている内は良いのだが、喋り出すとどうもいけない。観ているこちらが恥かしくなるような演技。余りのもどかしさにイライラしてくる。いっそ、字幕を駆使してサイレント映画風に仕上げてみたら面白かったのではないか。勿論、映像はモノクロで…。

脇役陣が豪華である。主人公の50年後の姿に加藤治子。阿部の恩師(だと思う)に岡田英次。ワンシーンのみ登場する写真屋に竹中直人と言った具合である。映画監督の藤田敏八も顔を出していた。晩年は俳優としての活躍が目立った藤田だが、俺は彼の諸作品が大好きである。世の常識から逸脱したキャラクターが織り成す気だるい物語。あの独特の雰囲気は藤田にしか出せない。かと思えば『修羅雪姫・怨み恋歌』のような血みどろ活劇(傑作です)を撮り上げてしまう。とにかく達者な人であった。得難い才能であった。藤田なら乱歩の原作をどう料理しただろうか…などと「幻の映画」について考えている内に現(うつつ)の映画は終了していた。

美智子が絶叫するエンディングテーマ(作詞も美智子)がこのダサクにトドメを刺していた。

(2004/02/15)

『十三人の刺客』

創刊4周年・サイト開設2周年、おめでとうございます。

先日。衛星放送で『十三人の刺客』(1963年公開)を観た。

淫乱にして性格残忍。蛇蝎のように嫌われる明石藩主(菅貫太郎)の老中職就任が内定した。将軍の弟とは言え、このような人物が幕府中枢に居座れば必ず政治に乱れが生じる。幕府重臣の一人、丹波哲郎は貫太郎暗殺を思い立つ。癌細胞は早目に除去してしまおうという訳だ。この大仕事のリーダーに選ばれたのが、目付・片岡千恵蔵である。千恵蔵は文武両道に秀でた傑物であった。その上、気ままな独身生活を送っているので、死んだところで悲しむ家族もいない。まさに適任である。千恵蔵自身、このミッションの中で自分が果てるであろう事を予感していた。

早速、メンバー集めに奔走する千恵蔵。嵐寛寿郎(参謀)西村晃(剣豪)里見浩太郎(放蕩者)と言った、一癖も二癖もある侍どもが集結する。この11月、貫太郎は明石に帰国する事になっている。この移動途中を狙うしかない。明石に入城されてしまったらこちらの負けである。更に老中に正式就任されてしまっては、暗殺は事実上不可能となる。奴をブッ殺すのは今をおいてないのだ。問題がもうひとつ。貫太郎の傍には内田良平という切れ者が控えており、守りを固めている。この内田が刺客団最強の敵として立ちはだかる。

実は千恵蔵と内田は面識がある。互いの実力を認め合っている両雄。終生の友として酒を酌み交わす間柄になる可能性すらあった。しかし、運命はこの2人に対決を命じる。敵となれば容赦はせんぞ。二大強豪の死力を尽くした攻防戦が展開する。劇中、内田は千恵蔵と互角、もしくはそれ以上の豪傑として描き込まれている。頭脳明晰にして、剣の腕前も抜群。バカ君主に振り回されつつも、あくまでも忠義を貫く辺りはサムライの鑑である。敵役が元気な時代劇(活劇)は観ていて気持ちが好い。

時代劇なのに剣戟場面が驚くほど少ない作品である。刺客団が標的を如何にして捕捉するのか?そのプロセスがクドいぐらいに綿密に描写されている。そして物語は最終決戦へ。刺客団が必殺の場所と定めた宿場町で繰り広げられる大血戦。仲間や障害物が邪魔になって思うように刀が振るえない。道場剣法が全く役に立たない戦場。ここで通用するのは野獣のような殺人剣のみである。約30分に及ぶ大クライマックス。汗みどろ血みどろの闘いの果てに侍達が見たものとは?集団時代劇の名人・工藤栄一の文句なしの最高傑作。これぞ映画、これぞ時代劇。久々に本物の時代劇を観た。

(2004/02/11)

ふかさくきんじ

★機会を見つけて、是非とも見てみたい、と思います。

多分『十三人の刺客』はレンタル屋さんに置いてある筈ですが…こういう良い作品は劇場で観たいものです。名画座隆盛の頃は頻繁にかかっていたそうですが。この作品の迫力に比べたら、平成の時代劇なんて紙細工みたいなものです。依然『ラスト・サムライ』が話題を呼んでいますが、かつての日本映画界にはこういう作品を生み出す底力があったんだなと思いました。ストーリー自体は物凄く単純なのですが、極めて丁寧に作られているので、グイグイ引っ張られます。今は訳のわからない役者が訳のわからない脚本を訳もわからずに演じているので、こちらまで訳がわからなくなります。

工藤栄一は映画でもTVでも死ぬほど時代劇を撮っています。この人には、予算がなくても緊迫感のある映像を構築してしまう技量がありました。まさに時代劇の職人。俺の大好きなアウトロー時代劇の傑作『必殺必中仕事屋稼業』の最終回「どたんば勝負」(シリーズ屈指の名作)を手掛けたのも工藤。真に才能のある監督でした。

深作欣二の『資金源強奪』も面白い映画です。前にこの掲示板でも紹介しましたが、尾崎君が観てくれたとは嬉しいですね。梅宮辰夫が演じた不良刑事が良かった。他のキャラクターもアウトロー臭が濃厚で飽きさせません。ラストの空港シーンも好きだな。深作特有の破綻は見られるけど、娯楽に徹してますよね。これは深作が最も忙しい時期に撮り上げた作品。監督のテロップが「ふかさくきんじ」になっているのは、殺人的スケジュールに対する深作の皮肉が込められているとか。深作映画となると『県警対組織暴力』『北陸代理戦争』『ドーベルマン刑事』辺りがお薦めです。

(2004/02/12)

内田の迫力、西村の醜態

★あの異常なくらゐ高いテンションを維持できた理由のひとつでは。

おーっ。海老様も御覧になっていましたか。確かに「内田良平主演」という印象すら受けてしまう作品でした。あそこまで、敵役を丁寧に描写した時代劇というのも稀少だと思います。内田vs千恵蔵の頭脳戦はある意味チャンバラよりもスリリング。暗殺チームの中では、西村晃扮する剣術遣いが強烈でした。恐らく『七人の侍』の久蔵を参考にしたキャラクターでしょう。刺客団最強を誇る戦士なのに×が×××途端に態度豹変、敵前で醜態を晒してしまいます。この演出には意表を衝かれました。西村の見苦しい演技も最高です。これは黒澤明には出来ない演出だと思いました。

(2004/02/12)

『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』

先日。スティーブン・スピルバーグ の『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(1997年公開)を観た。

奇跡のテーマパーク「ジュラシック・パーク計画」の崩壊から4年が経過した。果たして、かの島はどのような変貌を遂げたのか?現代に復活した恐竜達の「その後」は一体どうなったのか?前作『ジュラシック・パーク』(1993年公開)の出来が芳しくなかっただけに、今回は名誉挽回のチャンスだったのだが…。

島の調査隊の一員として、ジェフ・ゴールドブラム扮する数学者が選ばれる。ジェフは既に「ジュラシック体験」を済ましており、まさに適任かと思われた。しかしジェフはその依頼を頑なに拒否。俺は二度とあんな所には行かねえぞ。先の肉食恐竜に追いかけ廻されたのが余程応えたのだろうか。俺は行かないを連発…していたのだが、自分の好きなねーちゃん(古生物学者)が島に上陸している事を知って、あっさり前言を翻す。島に行ってからはワゴン内に隠れていた愛娘を見つけて吃驚仰天。今度は「帰りたい帰りたい」と喚き散らす。まるで駄々っ子だ。そうかと思うと、映画後半は急に良い奴になったりするし、とにかく訳のわからんの男である。

今回は恐竜捕獲のエキスパート軍団が登場すると聞いて、密かに期待していたのだが、これがとんだアホ集団であった。斬られ役ならぬ「食われ役」と言ったところか。映画中盤、主人公チーム&偽エキスパートの皆様は、恐竜王国横断という決死行を強いられる事になる。獰猛な巨大爬虫類がウヨウヨしている危険地帯を突破しようとしているのに、緊張感がまるでないのには驚いた。

この非常時に大音量で音楽を聴いているバカがいた。周りの奴らもそれを咎めようともしない。いや、咎めるどころか気づきもしないのか?そんな鈍重さで、どうやって恐竜と渡り合う心算なのか?銃器の扱いも相当雑であり、この連中には何が何でも助かろうという執念も執着もないようである。そんなに恐竜の餌になりたいのだろうか。イライラするなあ。もっと真面目にやれ!思わず叫びたくなった。

もう大丈夫。もう安心だ。考えられる限りの守りを固めておいた所に、それを覆すような大災難が襲いかかって来るからこそ、サスペンスが生じる訳である。その辺りをどう盛り上げてゆくかが、映画の肝であり、監督の実力が問われる部分であろう。しかし、スピルバーグは思い切り手を抜いている。CG恐竜を大勢出しておきさえすれば客は満足するだろうという驕りのようなものが、チラチラと見え隠れする。うわー。助けてくれー。アホな連中がアホみたいに食われてみても、どきどきもわくわくもしない。単に不愉快なだけである。当のティラノザウルス先生もこんなバカどもを幾ら食っても嬉しくないだろう。後で腹痛を起こしたんじゃねえか。

唯一面白いのが、墜落寸前のワゴン内で繰り広げられるアクション(後部ドアのガラスに亀裂が走る場面が良い)のみというのは寂し過ぎる気がする。これはスピルバーグが金儲けの為だけに作った映画なのだろう。そうじゃないと困る。

(2004/02/04)

『人間椅子』

先日。深夜放送で『人間椅子』(1997年公開) を観た。

原作は江戸川乱歩。監督は『ISOLA多重人格少女』の水谷俊之。水谷は脚本も手掛けている。

清水美砂扮する主人公は潔癖症の女流作家である。異常なまでの綺麗好き。自宅でのパーティが終了すると、その日の内に掃除をしないと気が済まない。理由は「お客様(他人)の匂いが屋敷に染みついてしまうから」だそうである。何かにつけて手を洗い、夫婦の営みが終るや否やシャワー室に飛び込む。かと思うと、切除した自分の爪を瓶の中に溜めたりしている。まるで吉良吉影のような女である。夫も彼女の偏執振りにいい加減ウンザリしているが、それを改める気は全然ないらしい。美しさの中に微妙な狂気を湛えた清水の表情が良い。

その夫を國村準が演じている。外交官を務めるエリートであり、一見まともだが、彼もまた何処か奇妙な人物である。趣味は腹話術。腕前は素人の域を超えており、客人達にも好評を博している。國村の操る人形が実によく出来ており、操縦者そっくりである。この人形が無気味な存在感を放っている。人形の喋る台詞こそが國村の本音である事は明らかである。それは妻へのメッセージ。清水はそれを感知している筈だが、表面上は知らぬ顔を決め込んでいる。もしかしたらこの女は何も気づいていないのだろうか?その辺りの曖昧さが絶妙である。國村は終始落ち着いた演技に徹している。宴の席で「堕落してるんだよっ」と毒づいた挙句にオーレン・イシイに首を刎ねられた奴と同一人物とはとても思えない。

風変わりだが、それなりに平和な生活を楽しんでいた清水のもとに一通の手紙が届く。その内容は奇々怪々。最初は変態野郎の悪戯かと訝んでいた清水も次第に面妖な世界へと埋没してゆく。それは「椅子の中に潜り込んだ男の物語」であった…。

乱歩の名作短篇を映画として巧く膨らませている。原作の要素を生かしつつ、映画独自の味わいを出しているのには感心した。作品の随所にエロいシーンが登場するが、そこは元・ピンク映画の巨人たる水谷である。その辺りの演出は手馴れたものだ。無駄なキャラクターやセットは一切登場させないという潔さも良い。単に製作費が少ないだけかも知れないが、その分、知恵を絞っている。才能もないのに莫大なカネを注ぎ込み、その上、観客に「感動」を強制する下品な作品よりも、俺はこういう映画の方が好きである。低予算映画で鍛えた手腕はダテじゃないのだ。

『ISOLA』の水谷と『人間椅子』の水谷。一体どちらが本物なのだろうか?

(2004/02/02)

『ISOLA多重人格少女』

先日。深夜放送で『ISOLA多重人格少女』(2000年公開)を観た。

主人公の木村佳乃はテレパスである。他人の考えている事を自在に読み取る事が出来る能力。使い方次第では相当な財産を築く事も可能であろう。だが佳乃にはそれが出来ない。この能力を統御するには彼女は気が弱過ぎるのである。類稀なる能力が彼女にはかえって重荷という訳だ。激烈なストレスに耐え切れず、自殺を図った事もあるらしい。どうにか生き延びてはいるものの、精神安定剤を携帯していないと外出も出来ない生活を送っており、所構わず発生する「発作」に悩まされている。しょっちゅう便所に駆け込み、錠剤を貪る超能力者というのも珍しい。佳乃のビクビク演技が秀逸。

そんな佳乃が阪神大震災直後の神戸を訪れる。被災者コロニーのひとつを訪問した佳乃の眼前でいきなり事件が。恐ろしい顔をした老人(室田日出男)がボランティアの女性を思い切り突き飛ばしたのだ。何をするんですかあ。熱い茶をまともに浴びたボランティアが涙ながらに絶叫する。老人は無言。そこへ別の被災者が割り込んできて「善意の押し売りは鬱陶しいんだよ」と怒鳴り出したから大変である。一触即発。周囲は異常に気まずいムードとなる。

佳乃は老人の意識の深層部に「触覚」を伸ばす。どうやらこの爺さん、戦争中に仲間を見捨てた事が強烈なトラウマになっているようだ。地獄のような神戸の状態を見て、戦場の記憶が蘇ったのであろうか。そんな老人を優しく諭す佳乃。彼女の誠実さに打たれたジジイはこれを機に改心し、その後は自らもボランティア活動に積極的に協力する…事にならないのがこの映画。老人はその翌日に、どういう訳か自らの命を絶つ。ボランティアの間で妙な噂が飛び交い、佳乃はこのコロニーにいられなくなる。

そして佳乃は十三の人格を秘める少女と出遭う。多重人格障害。この子を救済する事が私の使命なんだと思い込む佳乃だが、ほとんど相手にされない。されないどころか「自分も救えない人が私を救えるのかしら?」などと嘲られる有様である。この少女に扮するのが黒澤明の孫娘たる優である。その面貌は確かにクロサワの遺伝子を濃厚に感じさせる。演技は決して巧いとは言えないが、それを補うに足る存在感はある…と思うんだけど…贔屓目かな。

優の中に存在する第十三の人格〈ISOLA〉。優の周りで頻発する殺人はどうやら〈こいつ〉の仕業らしい。しかもこの人格は優が作り上げたものではなさそうである。では〈彼女〉は一体何処からやってきたのか?その正体を暴くべく、佳乃は必死の追跡を開始するのだった。

雑な脚本が映画の完成度を落している。多重人格という興味深い素材が生かし切れていないのである。このネタは案外映像作品には向かないのかな?と思ったりもした。ホラー映画にしては余り怖くないのも致命的。面白くなりそうで面白くならない辺りにもどかしさを感じた。主人公のダメ振りだけが楽しい作品だ。ここまで役に立たないと、逆に愛しくなってくるのだから不思議である。

(2004/01/29)

『植村直己物語』

先日。深夜放送で『植村直己物語』(1986年公開)を観た。

俺は以前から、植村直己という人間に猛烈な興味を抱いていた。

五大陸最高峰を単独制覇。犬橇を駆って、北極圏12000km縦断に成功した男。並の人間に成し得る業ではない。怪物である。その怪物が妻として選んだ女・公子。植村に匹敵する女豪傑かと思いきや、むしろ正反対の領域に属する女性であった。自らの体力&知力のみを頼りに、自殺行為とも言える冒険行を繰り返す植村。生来の虚弱体質に悩まされ、自宅と職場の往復すら困難な公子。極めて対照的な二人が、どのように出会い、どのように結ばれたのか?その経緯と植村の活躍が交互に描き込まれてゆく。

稀代の冒険児に扮した西田敏行が体当りの演技を見せる。モデルも大変な人物だが、それを演じる者はもっと大変だ。人気シリーズ『釣りバカ日誌』における道化演技とは一味も二味も違う西田の表情と眼差し。極限状況下での撮影である。現場の危険度は西田の長い役者人生の中でも随一であろう。これをこなしたのだから、その後の西田は大抵の事には驚かなくなったのではないだろうか。劇中、植村が乗り移ったのかと錯覚するような瞬間もあり、西田という俳優の底力をまざまざと感じさせる。

植村が冒険に目覚めたのが、学生時代だったというのは意外な事実であった。明治大学山岳部。植村はここで登山の面白さを覚えたのだった。卒業後、旺盛な挑戦意欲を燃やしつつ植村は海外を放浪する。カネもなければアテもない。語学が堪能な訳でもない。新たな冒険を求めて続く果てしない旅。平気で嘘八百を並べ立てる図太さと少年のような繊細さを併せ持つ植村の個性が、そのような生活を可能にしたのである。

そんな植村だが、殊勝にも「まともな生活」を志した事もある。だが長続きはしなかった。大人しく会社勤めが出来るような男ではない。狭苦しい日本で生息するには器が大き過ぎる男である。やはり植村には大秘境・大魔境がよく似合うし、本人もそう思っているに違いない。結婚後も植村のライフスタイルが改まる事はなかった。彼が日本に滞在しているのは、次の冒険の費用を調達する為である。スポンサーとの折衝や交渉に疲れると、公子に八つ当たりしたりする。この辺はそこらのオヤジと変わらない。超人植村も決して完璧な人間ではなかったという事である。この映画は植村のダメ部分をも冷静に映し出す。この作品が「植村直己万歳映画」ではない事が判り、伝記映画アレルギーの俺としてはありがたかった。

数々の修羅場を潜り抜けてきた植村が最後に選んだ山。冬のマッキンリー。植村はこの登山を冒険家としての潮時と考えていた。彼がマッキンリーに挑むのはこれが2度目である。装備も万全。何の心配もいらない筈だった。しかし、植村は還ってこなかった。公子を残して、植村は雪の山中に消えたのだった。必死の捜索活動にも関わらず、彼の遺体が発見される事はついになかった。余りにも劇的でミステリアスな最期であった。奥さんや親族には誠に悪いが、冒険家の生涯としては最高の幕切れかも知れない。いや、公子もこのような日が到来する事を半ば予想していたのではないか。その程度の聡明さは充分持っている女性である。

懲りもせず、キ××イじみた計画に嬉々として取り組む植村。そんな男を公子は愛した。

(2004/01/23)

『殺人遊戯』

先日。深夜放送で村川透の『殺人遊戯』(1978年公開)を観た。

主演は松田優作。優作扮する一匹狼の殺し屋・鳴海昌平が暗躍する『遊戯』シリーズ第2弾。

物語は単純そのもの。同じ町の中で激しくぶつかり合うふたつのヤクザ。それを優作が両方まとめて叩き潰す…何処かで観たような話だな。物語の構造がシンプルだけにダラダラ続けられると参ってしまうが、約1時間半の枠内にキチッと収められていたので助かった。

血腥いキャラクター演じつつも妙に明るい優作が良い。全篇に優作得意の即興演技が炸裂する。アドリブというのは許される者とそうでない者がいるような気がする。そして、許される者はそう多くはないというのが俺の考えである。アドリブは一歩間違えれば単なる自己満足に終ってしまうので、才能のない奴はヘタに手を出さない方が無難である。優作でさえ「今のギャグ、滑ってるよなー」と感じる瞬間があるくらいである。劇中、ヤクザに囲まれた優作が「これから『野生の証明』を観に行かなくちゃならないんで…」などと誤魔化す辺りはとても面白かったが。

鳴海昌平は凄腕の殺人機械ではあるが、プロフェッショナルとしては二流である。映画冒頭の殺しでは2人の女に仕事を目撃されている。鳴海もそれに気づいているのだが、両者の始末もせずに帰ってしまうのだ。目撃者は残らずこの世から消去するのが犯罪者の鉄則ではないのか。その仕事から5年後、鳴海はヤクザのボスAに対立組織のボスBの暗殺を依頼される。その直後、鳴海は奇妙な行動に出る。何と標的Bの所に出向き、今度は依頼者Aの殺しをも引き受けてしまうのである。契約の重複。こんな事を繰り返していては信用はガタ落ち。誰も鳴海に仕事を頼む者などいなくなるだろうし、命が幾つあっても足りないだろう。

無駄な殺しが多いのも気になる。標的だけを始末する心算など、最初から鳴海にはないらしい。真正面からヤクザの事務所だかアジトだかに乗り込み、直接関係のない下っ端から幹部から皆殺しにしてしまうのである。この男は悪と闘う「理由」が欲しいのであろうか。或いは闘争が楽しくて楽しくてしようがないのか。殺人自体が鳴海の生きる目的なのかも知れない。殺人と戯れる男の物語か。だとすると『殺人遊戯』とは巧いタイトルをつけたものである。

脇役陣では老舗ヤクザの首領Aに扮した佐藤慶が面白い。自分の手は極力汚さずに競争相手を消そうとする狡猾さ。佐藤のクールな持ち味がよく生かされている。知的な悪役を演じさせると、この人は見事にハマる。佐藤本人は俳優としては珍しく(?)非常に真面目で誠実な人だと聞いているが。優作の腰巾着を演じる阿藤海(現・快)も豪快だ。鳴海さあん鳴海さあん。と絶叫しつつ、海中に転がり落ちる場面が印象的だった。ガタイの大きい2人が屋台のラーメンを啜り込む場面も良い。阿藤が汗だくになって一生懸命喋っているのに、優作がほとんど無視している辺りも実にユーモラス。

5年間のブランクを埋めるべく、トレーニングに励む鳴海。鉄アレイを持ち上げ、街中を走り込む。平凡な生活に埋没していた狼が、徐々に緊張感と凶暴性を取り戻す。その過程を鮮やかに表現した優作の演技が秀逸であった。

(2004/01/13)

『トラック野郎・男一匹桃次郎』

先日。深夜放送で鈴木則文の『トラック野郎・男一匹桃次郎』(1977年公開)を観た。

シリーズ第6作。最も脂の乗っていた頃の作品である。ゲスト陣も多彩な顔触れが揃った。正月映画に相応しい賑やかな雰囲気。映画はお祭り。こうでなくっちゃ。デビュー間もない夏目雅子が華を添え、ベテランの若山富三郎が要所要所をガッチリ締めてくれる。

主演は勿論菅原文太。気性は荒いが、義侠心に厚い快男児・星桃次郎を好演している。桃次郎は運転手連中のリーダー的存在であり、その男気に惚れる者も多い。考えるより先に行動に移す桃次郎の猪突猛進振りが面白い。最近特に感じるのだが、実戦の場では、ふにゃふにゃと訳のわからん理屈をこねる奴はおよそ役に立たない。乱世にはこういう男が頼りになる。今こそ桃次郎復活の時。

桃次郎の相棒たる〈やもめのジョナサン〉に愛川欽也。映画の中では常時道化役に徹している。桃次郎に比べると、男らしさは数段劣るものの、やはり重要なキャラクターである事は間違いない。この二人の好漢が映画を推進させる両輪なのである。どちらが欠けても『トラック野郎』という作品は成立しないのだ。ジョナサンは抜群の繁殖能力を有しており、シリーズが進む毎に子供が増えてゆくという趣向。この作品では10人の子宝に恵まれており、人類の未来に大いに貢献している。

全篇小学生並のギャグが続くが、名も芸もある役者が本気になってやっているので思わず笑ってしまう。かの富三郎も〈子連れ狼〉というケッサクな異名を持つ孤高の運転手に扮して大活躍。大衆食堂(トラック野郎の溜まり場のひとつ)を舞台に繰り広げられる文太vs富三郎の一騎討ちは本作最大の見せ場である。両雄ともまだまだ体が動いた時期であり、食堂の備品を派手にぶっ壊しながら、ボコボコに殴り合う場面はスピード感に溢れ、迫力充分だ。男同士の真剣勝負。文太の仲間達は一切手を出さず、勝負の成り行きを見守っている。その清潔さが心地好い。

物語終盤。文太は超人的(!)運転技術を駆使して、恋人の待つ空港へと雅子を送り届ける。雅子に想いを寄せながら、自分の感情を告白出来ない文太。使い古されたパターンだが、何度観ても切ない。サムライを気取るのも中々大変なのである。雅子の彼氏を演じるのは清水健太郎。たどたどしい演技で、こんな男の何処が良いのかさっぱりわからないが、それはもう言うまい。2人の旅立ちを密かに見送った後、文太は愛車を駆って、空港から離れるのだった。また増えた失恋のキズを抱えつつ、一匹狼は黙って走り続ける。

(2004/01/11)

『模倣犯』

先日。民放で森田芳光の『模倣犯』(2002年公開)を観た。原作は宮部みゆきの同名小説。

若い女性を狙った連続殺人が発生。切断した死体を使って、マスコミや警察を翻弄する犯人。ワイドショーに出演して自分の智能をひけらかす犯人。被害者の家族にとってはハラワタの煮えくり返る光景が続く。そして犯人は「史上初の殺人中継」を高らかに宣言するのだった。キ××イ2人が繰り広げる前代未聞の犯罪が日本全土を揺るがす。

主役のキ××イに扮するのは中居正広&津田寛治。中井は脱偶像には至らず、遠慮気味の演技に終始しているのが物足りない。その分、相棒の津田が頑張っている。喋り方から表情から仕種から何から何まで鬼畜そのもの。彼が画面に現れる度に吐き気と殺意を催すのだから大したものだ。イヤな役がイヤに見えるという事は、津田が巧いという事であり、森田の演出技術が優れているという事である。

中井&津田と真っ向から対決する豆腐屋のオヤジに山崎努。明らかに黒澤明の『天国と地獄』を意識した配役である。今や演技派の代表たる山崎だが、彼が初めて世間の注目を浴びたのが『天国と地獄』における狡猾な誘拐犯役であった。かの名作と同様に『模倣犯』でも電話が重要な小道具として活躍している。両作品には40年近い隔たりがあるが、この間に電話というテクノロジーは恐るべき進化を遂げた。ついでに映画の方もそうあって欲しかったが実情は…。

山崎は森田の期待に応えて重厚な味わいを発揮している。可愛い孫娘が殺人鬼の餌食となった。孫に殺される理由はない。ささやかな夢も愛もあった。それを奴らは無遠慮に土足で踏み躙った。犯人からの電話。無論山崎の神経を逆撫でする内容である。それでも山崎は冷静沈着に対応するのである。犯人の陋劣さを強調しつつ、山崎の崇高さを浮かび上がらせるという仕掛けである。悪党に対して一歩も引かぬ強靭な精神力。この豆腐屋さんはきっともののふの末裔に違いない。娘は入院している。孫の死は伝えていない。いや、伝えられない。それでなくても娘は夫の浮気で心を病んでいるのだ。

人間の生命をゲームの材料として利用する連中への凄まじい怒り。怒髪衝天。ふざけるんじゃねえ。ついに、静かなる男の堪忍袋の緒が切れた!何で俺達が手前らみたいなキ××イの玩具にされなきゃならねえんだ。俺の孫は手前らに殺される為に生まれてきたんじゃねえぞ。仕置人時代の山崎なら、自ら腐れ外道を「始末」していたであろう。しかし、そういう訳にもゆかないので、同じ境遇のルポライターと組み、反撃を開始するのだった。

追いつめられた中井がとった意想外の行動。原作ファンの不興と失笑を買ったという××シーンである。俺としては意表を衝かれた感じで面白かった。それは良いとしてCGで作られた映像が余りにも安直で、痛々しかった。先の『陰陽師』ではないが、どうせ嘘寒いなら特撮を使って欲しかった。そちらの方がCGに食傷気味の観客には新鮮に映るのではないだろうか。かつては世界水準を誇った日本の特撮技術も最近はお呼びがかからないようである。年末の『ゴジラ』だけが出番でもあるまいに。このままだと折角の伝統芸が絶えてしまうぜ。

森田版『天国と地獄』と言えるこの映画だが、幕の閉じ方は『羅生門』風であった。遊び心は健在。

(2004/01/08)

『マークスの山』

先日。深夜放送で『マークスの山』(1995年公開)を観た。

高村薫の直木賞受賞作を崔洋一が映画化。崔の作品群の中では最大級のスケールを誇る映画であろう。

都内で発生した猟奇的な殺人事件。その残虐な手口から見て、犯人はまともな奴ではない。恐らくキ××イだ。だが、それを追いかける警察もかなり狂っている。この映画で何が面白いかと言えば、警察の内輪揉め風景に尽きる。難しい事はよくわからないが、警察内部には縄張りだの暗黙の了解だのが複雑に絡み合い横たわっているらしい。このルールを乱したり接触したりする者には、それ相応の制裁が待っている。時に捜査活動よりもそちらの方が重要視される事すらあるのだ。

捜査部隊は何班かに分かれて行動する訳だが、お互いに出し抜こう出し抜こうと考えており、協調性は全くございません。毎晩、各班の捜査の進み具合を会議室で報告する決まりである。その際「本日は成果がありませんでした」などと発表すると、たちまち罵声が飛ぶ。馬鹿野郎。手前は何やってたんだ。今日は何時に何処に行って誰に会って何を調べて、どういう反応でどう成果がなかったのか説明しろ。怒鳴られた奴は黙って椅子にへたり込むのみ。警察の会議と言うより、ヤクザの集会みたいだが、現実の警察はこんな風かも知れないな。そう思わせるだけのリアリティはあった。

主演の中井貴一が良い。いや、中井はいつもといっしょの演技だが、彼の演じている合田という刑事が良い。目的の為には手段を選ばない男である。例のルールも必要とあれば平気で破る。好い気になるなよとジュースをぶっかけられても「何するんですか。弁償して下さい」と逆に噛みつくふてぶてしさを備えている。危険な仕事を他人にやらせたり、重病人から無理矢理情報を聞き出したりする。そんな自分に嫌悪を感じている様子はない。この程度でいちいち反省していたら、とても刑事稼業など務まらないのであろう。

こうなると、アクの強い刑事達が追跡する犯人役が重要になってくる。彼ら全員に匹敵する個性の持主でなくてはならない。これに萩原聖人が扮しているが、見事に期待を裏切ってくれた。萩原には少々荷が重かったようだ。萩原の中途半端なサイコ演技にはウンザリさせられた。この犯人、どうやら別の人格を飼っているらしいのだが、その辺りの演じ分けも成功しているとは言えず、もどかしさが募るばかり。むしろ萩原に脅迫される小林稔侍の方が余程恐ろしい。うるあー。奇声を発しつつ、鉄パイプをぶんぶん振り回す稔侍は本当に怖いぞ。眠れない眠れないと呟きながら窓から飛び降りちゃう岸部一徳も相当無気味。これで萩原がもう少し頑張っていたら、かなりの傑作になっていたと思う。惜しいっ。

(2004/01/04)

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