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映画の渡り鳥3

『ルナ・パパ』

先日。衛星放送で『ルナ・パパ』(1999年公開)を観た。

舞台はタジキスタンのある田舎町。主人公は芝居好きの少女。将来は女優になろうと考えている。月夜の晩。少女は正体不明の男に処女を奪われる。森の中でのセックス。強姦という訳ではない。少女も半ば同意していたからである。マズいのは、彼女のお腹に新しい生命が宿ってしまった事である。さあ大変だ。中絶しようにも産婦人科の先生はゲリラの流れ弾に当って死んじゃった。頑固親父に報告したら殴り殺されるかも知れない。戦争帰りの兄貴も「飛行機になって」町中を走り回っているような有様で、到底頼りにならない。

少女の告白を聞いて、父親は烈火の如く怒り出す。俺の娘をキズモノにした野郎は何処じゃあ。このオヤジ、血の気は多いが家族思いの良い奴である。今日迄、亡き妻に代わって娘を育て上げてきた。そこへこの凶事。地面に頭を擦りつけて妻に謝る場面は悲惨である。だが泣いてばかりもいられない。何としても「父親」を見つけなくては。オヤジは愛車をぶっ飛ばして、近隣の劇場に片っ端から殴り込む。唯一の手掛かりが、男が「俺は役者」だと名乗っていた事だからである。

主人公の住む町の美しさ。石造りの橋だの民家だのレストランだの船着場だのが実に魅力的である。こんな町なら是非歩いてみたいものだ。小さいながらも劇場もある。定期的に旅の劇団が訪れて、シェイクスピアの芝居を上演したりする。近くには港があり、漁獲量も豊富だ。市場に並ぶ美味しそうなお魚さんの数々。かの《味舟》のマスターに頼めば、旨い料理が出来そうである。

町民の少女に対する反応は極めて冷たい。狭い町の事である。少女の妊娠はたちまち周囲に知れ渡る。アバズレ。淫乱。そこらの餓鬼にまで石を投げられる始末。貞操観念零の某国の女子学生が行ったりしたら、全員海に放り込まれるぜ。とは言え、少女の受ける迫害は一寸度が過ぎている。ムラ特有の排他的性格はどの国も同じなのか。

作品の随所で激しいアクションが展開する。えっと思うような所で突然活劇が始まったりするので油断ならない。出演陣の身体を張った演技が見物だ。過酷な運命から目を逸らさず、愚痴もこぼさず、果敢に立ち向かう登場人物達の逞しさが心地好い。このくらいでなくては、かの国では生きてはゆけないのかも知れないが。開幕から終幕まで全速力で突っ走る映画。ちゃんと意外なラストシーンも用意されている。但し、このオチは賛否両論を呼びそうである。俺はどちらかと言えば否定派の方。あなたはどう思いますか?

(2004/01/04)

『それから』

皆様。明けましておめでとうございます。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

先日。深夜放送で『それから』(1985年公開)を観た。

才人監督として鳴らした(頃の?)森田芳光が夏目漱石に挑んだ意欲作である。

明治時代後期。松田優作扮する主人公は大金持ちの次男坊。既に30歳を超えようとしているが、働く訳でもなく、嫁を貰う訳でもなく、思索と遊興の毎日を送っている。親やら兄やら友人やらから、放蕩生活を改めるように再三怒鳴られているが、本人には全くその意欲も気配も見られない。生活を保障された奴は好い気なもんだなと反発を覚えるものの、優作は優作なりに悩んでいるらしい。

優作が密かに恋慕を寄せる女性に藤谷美和子。藤谷は優作の旧友(小林薫)の妻である為、非常にややこしい状況になっている。俺は藤谷が「女優」などと、一度も思った事はないが、この映画に関してだけは女優と呼んでも良いのかなと思った。病弱で清楚な女性だが、時々毒を含んだ強烈な台詞を吐く。そんな油断ならない女を、あの藤谷が巧演しているのだ。容易く演じられる役ではない。藤谷のレベルをここまで引き上げた森田の演出手腕はやはり大したものである。その夫を演じた小林も無気味な存在感を放っている。喋り方と言い仕種と言い、何処か機械的な印象を与える怪演であった。

優作独特のとらえどころのない魅力も頂点に達している。何を考えているのか、それとも何も考えていないのか、それすらも判らない。芸者遊びの途中、焦点の定まらない目つきで踊り出す優作。小林の人物判定に対して「僕は蝶々じゃない。勝手に分類するのはよしてもらおう」と静かに反論する優作。繁栄を誇ったものが少しづつ少しづつ腐ってゆくような感じ…優作の醸し出す退廃的な雰囲気が映画全体を支配している。これを不快に思うか、心地好く思うかかは観る者の人生次第である。まあ。それはどんな映画でもそうなのだが。この作品には特にそれを感じたのだった。

最近知った事だが、森田は渋谷にある有名料亭の息子だそうである。芸者衆と美食に囲まれた生活。そんな極めて羨ましい環境で、森田は幼少時代を過したという。森田作品に観られる「食」へのこだわりはこれが原点に違いない。彼自身「料理の食べ方で、そのキャラクターを表現する」事を意識して撮っているらしい。そう言えば『家族ゲーム』における伊丹十三の目玉焼きの食い方は実に象徴的であった。食事場面に注目しつつ、森田作品を味わうのも一興と言えるだろう。

(2004/01/02)

『まちがいの狂言』『陰陽師』

先日。衛星放送で『まちがいの狂言』を観た。

2002年8月に《世田谷パブリックシアター》で上演された作品である。

出演&演出は野村萬斎。萬斎は《パブリックシアター》の芸術監督も務めており、八面六臂の活躍である。

題名を見れば判るように、原作はシェイクスピアの『間違いの喜劇』である。主人と召し使い。二組の双子が巻き起こす大騒動。先に紹介した『十二夜』と同タイプの芝居と言えるが、こちらの方がより喜劇色が強い。狂言版では、これを室町時代の日本に舞台を置き換えている。翻案の仕方が実に巧みで、シェイクスピア劇と狂言の面白さが同時に楽しめる。贅沢な芝居だ。

出演陣の磨き抜かれた業に思わず引き込まれる。古典芸能を極めた者の凄さ。舞台上には立体的な装置が組まれており、デザインも使い方も秀逸である。二組の双子が交互に現れる為、ヘタをすると観客の混乱を招きかねないが、萬斎の的確な演出がそれを防いでいる。物語終盤、二組の双子が一堂に揃う場面がある。その際、狂言特有の小道具たる面を活用している辺りにも感心した。萬斎会心の出来であり、ロンドン公演で好評を博したというのも頷ける。これを劇場で観た人が羨ましい。

その数日後、民放で萬斎主演の『陰陽師』(2001年公開)を観た。

萬斎としては『乱』以来の久々の映画出演となる。

萬斎が演じるのは正義(?)の陰陽師・安倍晴明。彼に敵対する悪の陰陽師にまたしても真田広之。陰陽師という言葉だけ聞くと、何やら胡散臭いが、当時の宮廷内ではかなり重宝されていたようである。俺には歴史的背景など全く判らないが、用のない時は、昼間っから酒を呑んでいられるのだから結構な身分である事は確かだ。

萬斎の妖しい魅力。真田の悪役振り。どちらも良い。ただ、後者の度重なるオーバーアクションはやや嫌味だ。他の出演者はどうしようもない。柄本明&岸部一徳、当世を代表するベテラン2人が顔を出しているが、両者とも余りやる気がなさそうであった。その時代のコスチュームを着用しただけで、その時代が表現出来る訳もない。では、平安時代の雰囲気が如何なるものなのか、説明しろと言われても、答えに詰まってしまうのだから情けない。ぶうぶう文句を垂れる割には、観る側のレベルも相当低い。

映像の安っぽさも致命的。どれだけCGを投入しても、作品の持つおどろおどろしさが出ないのである。こういう作品には、日本映画の伝統たる特撮技術が向いている。真田が怨霊か何かを率いて、平安京に殴りこんで来るクライマックスが少しも盛り上がらないのは、その辺りにも原因がありそうである。同じ伝奇時代劇でも、低予算の『さくや・妖怪伝』に負けている。密かに「新感覚時代劇の誕生」を期待していたのだが、俺の思惑は見事に裏切られたのだった。萬斎は芸の安売りをせず、本業に専念した方が良いのではないだろうか。

(2003/12/31)

ヒーローが闘う理由

★あれは幼少より培ってきたものと天性のあいまったカンなんでしょうかね?

俺が初めて黒澤明の『乱』を観た時(中学一年くらい)は、嫌じゃ嫌じゃを連発する鶴丸君(萬斎)がとにかく鬱陶しかった。刺客が迫っているのにも関わらず「笛を忘れた」などと駄々をこねる。こいつはバカか?さっさと死ね。などと思っていましたが、冷静に考えてみれば、あれが萬斎少年の演技力だった訳です。暴君秀虎に両目を潰された鶴丸の無力さ、情けなさ、惨めさを実に見事に表現していたのですから。あの年齢にして、過酷な黒澤演出に耐えられたのも、古典芸能の修行をみっちりと積んでいたからでしょう。これからも狂言界のエースとして大いに活躍して欲しいものです。

★はっきりいって伊藤英明がバツです。

記憶が曖昧なのですが…映画『陰陽師』のクライマックス。平安京に攻め込んできた真田広之を萬斎が迎え撃ちます。当初「都が滅びようがどうなろうが俺の知った事か」などと言っていた萬斎が何故真田と闘う気になったのか?それは友達の伊藤英明に頼まれたからです。つまり伊藤は最強の陰陽師を動かすほどの快男児でなくてはならないのです。台詞を覚えるのに精一杯のような伊藤にそんな厚味が出せる筈もありません。あれじゃあ、陰陽師どころか猫さえ動かないでしょう。相棒の演技がこの有様では萬斎もさぞ演(や)り辛かったと思います。幾ら萬斎が頑張っても共演者がダサくては映画になりません。いっそ、一人芝居か狂言版『陰陽師』が観たいものです。脚本は勿論原作者にお願いしましょう。新作歌舞伎を書き下ろした実績のある獏さんのこと、面白いホンが出来るんじゃないかな。それとも歌舞伎と狂言とではまるで毛色が違うのかな?

(2004/01/05)

『リング』

先日。衛星放送で『リング』(1998年公開)を観た。

そのビデオを観た者は7日後に必ず死ぬ…TVディレクター松嶋菜々子はこの都市伝説の真相を突き止めようと取材を重ねる。菜々子自身はこの伝説を信じているのであろうか。もし信じているとしたら、このような「危険物」に近づこうとは決して思わないだろう。彼女を動かすのは、マスコミの人間としての使命感か、それとも怖いもの見たさの好奇心か。菜々子はついに待望(?)の「呪いのビデオ」と遭遇する。このビデオを観た4人の高校生が変死した事を菜々子は知っている。それなのに菜々子はおもむろにビデオを再生する。やめときゃいいのに。

おぞましい呪いの存在を確信した菜々子は、元・夫である真田広之を呼び寄せる。この男、実は〈シャイニング〉の持主であり、呪いを解除するには適任だと思ったのだろう。映画を観る限り、離婚の経緯は不明だが、別れた男でも適時利用しちゃう菜々子のしたたかさに驚くやら呆れるやら。その辺を特になじる事もなく、真田は元・妻の生命を救うべく、行動を開始するのだった。真田が好演を見せている。いつもの不機嫌そうな態度がピタリと役柄に合っているのだ。この掲示板ではボコボコに野次られている真田だが、作品と役によっては良い味も出している。

元夫婦の共同調査が進む内に「呪いのビデオ」の謎が少しづつだが解け始める。誰がこのビデオを作ったのか?呪いの発端は40年前のある実験へと遡る。インチキ呼ばわりされた超能力者。その娘、貞子。貞子のパワーは母親の比ではなかった。任意の人間をその場で殺す能力。惨殺された貞子は超ド級の悪霊と化して、人類に挑戦する。かのテープには貞子の怨念が焼きつけられているのだ。

物語の肝となる貞子のキャラクターが強烈である。物語終盤、貞子先生が現世に「降臨する」場面がある。公開当時話題になった場面である。未だに宴席で酔っ払いが真似をするあの場面である。だが、俺には不要な気がしてならなかった。派手な仕掛けを使わず、テレビや電話といった何気ない小道具を使って、観客を震え上がらせていた作品の流れが「ここ」に来て、急に変わってしまったように思われたからである。どうせやるなら「観せない美学」を最後まで貫いて欲しかった。

それにしても、貞子の呪いは強力かつ陰湿である。貞子の姿を目撃した者は100%死に至るらしい。更に7日間という猶予期間も実にイヤである。ビデオを観た瞬間に死ぬのならまだ楽だ。呪いをかけられた奴はこの一週間をどう過ごせば良いのか。貞子が現れる前に狂い死にする奴もかなりいるのではないだろうか。呪いから逃れる術が「××××して××に観せる」というのも極めて悪質だ。本当に貞子はイヤな奴である。悪霊なんだから、イヤな奴に決まっているが。

このビデオを暗殺兵器として活用しようと考える者もいるかも知れないな。とにかく「観たら終り」なのだから恐ろしい。殺戮範囲もどうやら無制限のようである。人数も距離も関係ない。仮に100人に観せれば7日後にその100人は確実に死ぬ。陰陽師を雇おうが、核シェルターに潜ろうが、宇宙に脱出しようが、貞子は地獄の底まで追ってくるのだ。これを、それこそ衛星放送で流したらどうなるか…。自分の設置した「地雷」を巡って右往左往する人間を、貞子は何処かで笑っているに違いない。

(2003/12/29)

最後の侍

先日。彦根の映画館で『ラスト・サムライ』を観た。

南北戦争の折、不本意ながらインディアンを殺しまくったトム・クルーズの前に日本人スカウト(原田眞人)が現れる。彼の「実績」を買った日本政府が、近代式軍隊の指南役として雇おうと言うのである。日本?知らねえなそんな国は。法外な報酬をふっかけたトム・クルーズは、海路日本へと向う。この男、優秀な軍人ではあるが、良心の呵責に悩まされており、酒瓶が放せない毎日を送っている。要するにアル中である。

あっと言う間に不思議の国ニッポンに着いてしまったトム・クルーズ。とりあえず《天皇》に拝謁し、その後、事務的な態度で仕事に取りかかる。やがて、異国の新軍隊に教練を施す彼の耳に無気味な情報が入ってくる。新政府に牙を剥く反逆軍の存在。彼らの正体は、新政府設立と同時に日本から駆逐された筈の《侍》だという。トム・クルーズはその討伐を命じられるが、俄か拵えの軍隊で、洗練された戦闘集団である《侍》に対抗する自信は無かった。案の定、彼の率いた部隊は《侍》の強襲を受けて壊滅。自身は囚われの身となってしまう。敵中に落ちた彼の運命は…。

《侍》の頭領を渡辺謙が雄々しく演じている。戦場にあっては鬼神の働きを見せる渡辺だが、それ以外の場所では人情もあるし、融通も利く人物である。田舎狂言に飛び入りするという茶目っ気も備えており、英語も流暢に使いこなすぐらいだから語学力も抜群だ。

渡辺の側近の1人である剣豪に真田広之が扮している。いつもの不貞腐れたような表情は変わらないが、寡黙なのが良い。余計な事を喋らず、アクションに徹した真田はこんなに格好良いのか。木刀を正眼に構えた姿も堂に入っており、千葉師匠直伝の剣捌きがスクリーンに炸裂する。これからの真田は無口な役を選んだ方が良いのではないだろうか。台詞も覚えなくて済むし、彼も楽だろう。

渡辺や真田の立ち廻りが見事なのはある意味当然だが、トム・クルーズも随分と頑張っている。彼なりに殺陣の研究や特訓を積んだ成果であろう。劇中、最初は真田にボコボコに叩きのめされていた主人公が、稽古を重ねてゆく内に、引き分けに持ち込むまでに腕を上げる。その姿がトム・クルーズ本人の姿とダブるのである。チャラチャラしているだけの二枚目俳優かと思っていたが、結構根性がある。見直したぞ。トム・クルーズ。

監督のエドワード・ズウィックは相当な黒澤マニアと聞いている。この映画のクライマックスたる合戦場面は『影武者』の土壇場「長篠の闘い」を連想させる。この映画の人物配置と『影武者』における滅びゆく者(武田軍)と先に進む者(織田&徳川)の関係とが、実によく似ているのだ。ズウィック監督は黒澤が「省略した部分」を丹念に映像化している。生身の人間が繰り広げる大戦闘シーンの迫力には息を飲む。ハリウッド流物量作戦の勝利。

ただ…俺の個人的感情としては、何の勝ち目もない玉砕攻撃はどうしても好きになれない。渡辺の意地は解るが、部下全員を道連れにしてまでも通さなくてはならない意地なのだろうか。この決定に反論ひとつ唱えない家臣団も少々薄気味悪い。生きて恥を晒すくらいなら、名誉ある死を選ぶ。それが《侍》であり《武士道》なのだろうか。だとしたら、俺はとても《侍》にはなれないなと思った。

(2003/12/23)

負け組

★「ファンタジーとリアリティ」の極めて危ういバランスの上に成り立った作品かな、とも思いました。

劇場の廊下に貼ってある『ラスト・サムライ』のポスターを見た時から「これはファンタジー映画なんや。トム・クルーズのサムライごっこなんや」と覚悟を決めました。映画を観つつ何度か「?」と思う瞬間がありましたが「これはファンタジーなんやから…」と湧き上がる疑問を強引に払いのけました。しかし、考えてみれば、時代考証が隅々まで行き届いた映画なんてそんなに多くありません。俺などは深作時代劇やら『戦国自衛隊』やら『忍者武芸帳・百地三太夫』やら『必殺シリーズ』やらと言った、デタラメ時代劇を観慣れているせいか『ラスト・サムライ』は随分「まともな映画」に感じられました。

この映画は、謎めいた共同体に主人公(アウトサイダー)が紛れ込むという俺の好きなタイプの物語でしたので、とても楽しめました。主人公は「南北戦争の英雄」という設定ですが、インディアン虐殺の記憶から逃れようと酒浸りの日々を送っています。人殺しを生業としているにしては、余りにも精神が脆弱過ぎます。卓越した戦闘技能を有しつつも「負け組」に属してしまった人物。そんな男だからこそ、絶滅の危機に瀕している《侍》という種族との交流を果たす事が出来たのかも知れません。それにしても、アウトロー要素の強いこの主人公を、トム・クルーズが巧みに演じてくれたのは、嬉しい誤算でした。我が脳内に浮かんでいた「サムライごっこ」という誤った認識は当然削除しました。

渡辺謙も真田広之も良かったのですが、悪役に扮した原田眞人の意外な好演には驚かされました。顔見せ程度の出演だろうと思っていたら、最後まで話に絡んできます。主要登場人物の1人と言っても良い扱いでした。立ち振る舞いや台詞回しも堂々としており、これなら、監督業を辞めちゃって、役者に転向したらどうかな、などと余計な事まで考えてしまいました。原田と言えば、日本屈指の黒澤通でもあります。撮影後の呑み会では、同じく黒澤マニアのエドワード・ズウィックと意気投合していたのではないでしょうか。多少のキズはありますが、スタッフ&キャストの熱気迸る力作だと俺は思います。

(2003/12/26)

頼りない指南役

★孫次郎を演じた子役も良かったですし、総じて俳優の演技は真剣さを感じさせるものでした。

黒澤にせよキューブリックにせよ、腕の良い監督は子役を使うのが実に巧いですね。巨匠と呼ばれる人は子供を自在に動かすコツを心得ているようです。黒澤御大なら「ヘタな大人より、子供の方が余程達者だぜ」などと、得意の毒舌を吐きそうですけど。

俺などに尾崎君の指南役が務まるとは一寸考え難いのですが、俺の戯言が何らかの刺激や参考になれば幸いです。当り前の話ですが、同じ映画でも観る人によって印象も違うし、評価も分かれます。それが映画の面白さであり、奥の深さなのだと思います。そんな訳で、俺の感想文に対する御常連の反応&意見を読むのが、毎日楽しみでした。

今年は結構映画を観ました。最近、映画の観方のようなものが少し掴めてきたのではないか…そんな気がしています。気がしているだけで、実際は何も解っていないのかも知れませんが。来年も時間が許す限り、映画を追いかけたいと考えております。こちらこそ、よろしく。

(2003/12/28)

『燃えつきた納屋』

先日。衛星放送で『燃えつきた納屋』(1973年公開)を観た。

舞台はフランス東部の農村。雪の夜。余所者の女が何者かに殺された。証拠不充分の為、断定は出来ないが、犯人は村民の誰かに違いない。犯行現場の近辺に住んでいる牧場一家が怪しい。そして、真相を究明すべく、普段はパリで活動している予審判事(アラン・ドロン)が村に来訪する。

雪化粧に彩られた農村の風景が美しい。木目細かい映像を背景にして、緊迫感溢れる物語が展開する。かの判事は捜査目標を例の牧場に絞り込み、粘り強く、何度も足を運ぶ。これを迎え撃つのが事実上の牧場主ローズ(シモーヌ・シニョレ)である。外見は何処にでもいるような田舎のおばさんだが、実に手強い相手だ。誇り高く、人望も厚く、肝も太い。百戦錬磨の女傑の迫力に、さしもの判事様もタジタジの御様子。

この家にはローズの夫と息子夫婦2組が生活している。愛する家族を殺人犯として疑っている判事に猛烈な反発を感じつつも、ローズは判事を歓待するのである。不意の訪問にも「何か飲む?」とワイン(だと思う)を出したり、豪雪の晩には寝床を提供したりするのである。深夜。寝つかれず、カード占いに興ずる判事に、ローズが珈琲を淹れてやる場面が良い。もののふの心意気を備えるローズと比べると、かのエリート判事は紳士ではあるが、人間的に小さいのは明らか。判事とローズの「静かなる闘い」が進行するのと同時に、牧場一家が抱える様々な問題や悩みが浮かび上がるというのが、この映画の仕掛けだ。

事件落着の後、牧場の前で判事とローズが握手を交わす。この対決、判事はローズの貫禄の前にほぼ完敗したと言って良い。ドサ廻りでの思わぬ敗北。大都市を根城とするエリート男としては、かつて経験した事のない挫折感であろう。負け戦の惨めさとローズに対する尊敬が混じり合ったアラン・ドロンの表情が良い。敗者を罵る事もなく、まるで友人を送るが如く、送り出すローズ。最後の最後まで潔癖な態度を崩さない傑物であった。だが、彼女の守り通してきた牧場も経営状態が年々逼迫しており、崩壊の時は近い。その胸に去来するものは?シモーヌ・シニョレの年季の入った腹芸を堪能出来る。寒い夜には最適の映画。

(2003/12/23)

『ギャルソン』

先日。衛星放送で『ギャルソン』(1983年公開)を観た。主演はイブ・モンタン。

1時間半にも満たぬ映画だが、ダサい長篇よりも遥かに味わい深い。

主人公は初老のギャルソン(ウェイター)。職場では人生の先輩然としており、落ち着いた態度を崩さないが、若い時は相当な野心家でもあった。着手した事業はことごとく失敗。借金の山をこさえて、家族にも逃げられた。愛する息子にもこの20年会っていない。かなり悲惨な境遇と言えるのだが、男は終始闊達である。彼の妙な明るさは何処から来るのだろうか。これは、過酷な運命を通過してきた者だけに許される明るさなのか。オトコとしてもまだまだ現役の様子であり、気に入った女性の心を掴もうと懸命に走り回る。適役を得たモンタンの軽妙な演技が心地好い。

ギャルソンの仕事振りやレストランの内幕も見所のひとつ。主人公の勤めるレストランはパリ市内でも相当な評判店であり、飯時ともなれば大変な混雑振りを呈する。お客がどんな料理を食いたいのか、どんな酒を欲しているのかを巧みに聞き出し、短時間で注文をまとめるのがギャルソンの腕。この辺りの話術や対応は営業職の参考にもなる。ガタイの良いモンタンが、狭い厨房と客でごった返す店内を往復する姿はとてもユーモラスである。美味しそうな料理や旨そうな酒が度々登場する。その味が如何なるものなのか、想像すら出来ない自分が恨めしい。

映画の後半は、主人公の長年の夢とその実現が描かれる。その夢とは、海岸沿いの空き地(亡父の遺産)に遊園地を作る事である。資金不足の為、男の計画は危うく座礁しかけるが、そこは百戦錬磨の貫禄。昔のコネに助けられ、何とか開園に漕ぎつける。夏ともなれば観光客が大勢押しかける地域であり、男の遊園地は予想外の大繁盛を見せる。餓鬼やら親やらカップルやらの世話で男は大忙しだ。そこへ突然の暴雨。来場者は蜘蛛の子を散らすように雨宿り先を求める。びしょ濡れになりつつも男も客も実に楽しそうな表情をしている。この場面が良い。穏やかな天候もあれば、鬱陶しい天候もある。人生もそんなものか。

(2003/12/16)

堅実な人生

★男としてはこういう人生に何故かあこがれてしまうんでしょうね。

基本的には、結婚して子供を作って、それを守るというのが人類の務めだと思います。とは言いながら…かの主人公のように、洒脱で自由奔放な生き方に憧憬の念を抱いてしまうのも確か。我が職場の若い連中と話していると、その大半が「堅実な人生」を望んでいるのには驚かされます。俺のような「無頼希望」は極めて少数。異端と言って良いですね。まあ。会社勤めをしているような人間が真のアウトローになれる筈もないのですが。

イブ・モンタンのギャルソン振りがとても格好良いのですが、このような役をサラッと演じられる俳優が、現在の日本映画界に何人いるのかな?と、少し心配になります。温室栽培の役者モドキにはまず表現不可能なキャラクター。この映画はビデオ化もDVD化もされていますので、もしかしたらお近くのレンタル屋さんに置いてあるかも知れません。何かの折に御覧下さい。

(2003/12/17)

大物俳優

★中村吉右衛門はどうでせうか。小林旭に演じてもらふのも面白いかもしれない。渡哲也はどうだらう。

なるほど。吉右衛門は良いかも知れませんね。小林旭はどうかな。案外ハマりそうな気もしますが、その際は少し減量して貰わないとね。渡哲也がいる事を忘れていました。確かにこういう役は似合いそうですね。他には誰がいるかな。原田芳雄は怖そうだし、津川雅彦は怪し過ぎるし、高倉健は歳食っちゃったし、梅宮辰夫は台詞覚えないし。もし存命なら松田優作に演じさせてみたかったですね。

渡辺謙の株が最近急上昇ですが、某女性週刊誌の見出しに「渡辺謙『ラスト・サムライ』はあの大物俳優の代役だった!」とありました。もしこれが本当なら、渡辺は随分得をした事になります。ところで「大物俳優」って誰なんだ?役所広司か?

(2003/12/18)

ギャルソンを演じるのは…

★どんどん出てきますね。

山崎努の演技を観て、俺は映画や演劇に目覚めました。今年は千葉真一師匠、大活躍の年。我がベスト1たる『バトル・ロワイアルU』『キル・ビル』の両作品に出演。現在の日本には、藤岡弘の特殊能力を生かせる企画がないようです。TVの「水曜スペシャル」の隊長役とかで食い繋いでいるような有様。加藤剛と西田敏行なら可能性はあると思いますが、松平健と武田鉄矢にはまず無理でしょうね。特に武田は役者ですらない。竹中直人と西村雅彦は脇役に徹して欲しいな。主役に座ると強烈な個性がかえって嫌味に。杉本哲太は…難しいな。もう少し経験と年齢を重ねるべきではないでしょうか。児玉清は良いですね。有力候補の1人です。でも、最近は俳優としての活動は殆どしていないような印象が…。中尾彬はアクが強過ぎますね。料理には詳しそうですけど。本田博太郎はヤクザもやれば、北京原人もやる。まさに役者。でもギャルソン役には相応しくない。

森繁久弥&植木等。両御大に20〜30歳若返って貰えれれば充分可能です。宍戸錠はどうかな。この人も需要がないのかな。買物番組か何かに出ている姿が哀れ。鬼籍組では田宮二郎。ギャルソンと言うより、ソムリエって感じですが。天下のカツシンを投入したらどうなるか。お客より先に呑んじゃうか、それともお客と喧嘩を始めるか…。

(2003/12/20)

真田広之

★真田広之には個性というものが全く感じられない。

森様の厳しい御指摘が出ました。真田広之で印象に残っている作品&役と言えば…

『たどんとちくわ』の倣岸な作家

『真夜中まで』の無愛想なトランペッター

『秀吉』(大河ドラマ)のゴマスリ野郎・石田三成

どれもこれも「イヤな奴」というのが特徴です。意外とヒーロー役が似合わない。この人はイヤな奴をやらせると実に巧い。何が気に食わないのか始終イライラしている奴とか、小心者のくせにやたらに威張り散らす奴とか。これらの役は地で演じているのかも知れませんね。だから嘘臭さがないのかも。そんな事言ったら怒られるかな。個人的には、千葉師匠と一緒に画面狭しと暴れ回っていた頃の真田が懐かしいですね。

(2003/12/20)

渡瀬恒彦

★渡瀬恒彦という役者がすきです。

渡瀬恒彦の出演歴を見ると、半分以上がヤクザ映画か活劇映画。アクションには相当なこだわりがあると聞いております。危険な場面でも、スタントを使わずに自ら挑むという姿勢が良いですね。張り切り過ぎて、大怪我を負ってしまった事もありますが…。それがまた、渡瀬の役者魂を感じさせてくれます。

餓鬼の頃『震える舌』(1980年公開)という映画を観て、余りの怖さに泣きそうになりました。資料によれば、渡瀬が主演を務めています。この作品は一種のホラー映画(和製『エクソシスト』と呼ぶ者もいます)ですが、渡瀬がどんな演技をしていたのか、観直してみたくなってきました。

近年では『忠臣蔵外伝・四谷怪談』(1994年公開)の堀部安兵衛役が印象に残っています。

(2003/12/20)

転機

★70年後半くらいからよくなりました。豹変しました。

70年代後半の渡瀬恒彦の出演作と言うと…

『沖縄やくざ戦争』『女必殺五段拳』『狂った野獣』『実録外伝・大阪電撃作戦』『暴走パニック・大激突』『恐竜・怪竜の伝説』『皇帝のいない八月』『事件』『神様のくれた赤ん坊』『戦国自衛隊』辺りになりますか。陳五郎様が「渡瀬は変わったな」とお感じになった作品はこの中にあるでしょうか?

最近は映画出演が少ないのが、一寸寂しいですね。TVドラマでは常に主役ですが…。

(2003/12/21)

意地の張り合い

★勝新太郎もいいです。兄貴の若山富三郎もいい。

日本映画史上最強の兄弟俳優だと思います。

黒澤明の『影武者』は当初この2人が配役されておりました。若山富三郎に武田信玄を、そしてその影武者に勝新太郎。でも、この構想は早々に瓦解します。撮影準備中の段階で、まず若山が降りてしまいました。やむなく、信玄と影武者を勝が演じる事になりましたが、これも頓挫してしまったのは皆様御存知の通りです。思えば『影武者』ほどトラブルに見舞われた黒澤映画も稀です。それでも完成に漕ぎつけた黒澤の腕力はやはり尋常ではありません。

『影武者』の試写会にカツシンを招待したクロサワも凄いけど、それに応じたカツシンも凄い。

(2003/12/23)

深夜放送

★『皇帝のいない八月』が印象深いですね。

社会派で鳴らす山本薩夫の作品ですね。資料によると1978年公開の松竹映画。自衛隊員(多分、渡瀬恒彦)がクーデターを目論むという結構ヤバイ内容。学生時代に深夜放送で観た覚えがあるのですが…物語の展開も結末もほとんど記憶に残っていません。何故だろう?途中で寝ちゃったのかな?単に頭が悪いだけかな。秘密司令室みたいな所で三國連太郎がウロウロしていたのと、山崎努が一言も喋らない内に蜂の巣にされてしまうのが、脳味噌の片隅に残っているだけです。陳五郎様はやはり劇場で御覧になったのでしょうか。

(2003/12/23)

『バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲』

先日。図書館で『バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲』(1997年公開)を観た。

架空の街《ゴッサム・シティ》に夜な夜な現れる謎のヒーロー・バットマン。その正体は大富豪のお坊ちゃん。いい歳こいて何やってんねんという感じだが、本人は至って真面目である。恥かしいコスチュームやら秘密兵器やら専用マシンやら、これらを揃えるだけでも大変だろう。冷静な執事も、案外裏では悲鳴を上げているのではないか。この道楽の裏には「眼前で両親を惨殺された」という暗い過去が秘められているそうだけど。

さて、今回(第4作)のライバルは…あらゆる物体を瞬時に凍らせる冷凍男Mr.フリーズ。これを、天下のアーノルド・シュワルツェネッガー先生が演じている。シュワルツェネッガーとしては久々の悪役。観る者は『ターミネーター』における強烈な殺人マシン振りを期待してしまうが、その望みはあっさりと裏切られる。脳味噌も凶暴性もお子様レベルに設定されており、失望感は大きい。

とは言え、特殊メイクと分厚いプロテクトアーマーを装備したシュワルツェネッガーの外見は迫力満点。こんな奴が家に乗り込んできたら、それだけで住人は腰を抜かしてしまうだろう。知事だか政治家だか知らないが、やはりシュワルツェネッガーにはこういう格好がよく似合う。選挙活動中にこの姿で演説したら拍手喝采だったろうな。まあ。ついでに落選の覚悟も決めておく必要があるだろうが。

Mr.フリーズをそそのかす猛毒女に『キル・ビル』のユマ・サーマン。研究熱心な植物学者が「ひょんな事」から、人類滅亡を目論む怪人へと華麗なる変身を遂げる。但し、彼女の武器と言えば、利くのか利かないのかはっきりしないフェロモンガスと猛毒を仕込んだキスぐらいである。この程度の戦力では宿願成就はほど遠い。となると、強力な相棒(傀儡)が必要になってくる。それに選ばれたのがかの冷凍男だった訳だ。

この荒唐無稽な役柄をサーマンが楽しそうに演じている。全ての悪事がバレた挙句に「キサマを生き地獄に落としてやるぜ!」とMr.フリーズが怒鳴り込んできた時の仰天表情がケッサクだ。バットマンにせよMr.フリーズにせよ、複雑な理念だの大義名分だのに縛られているが、彼女だけが自分の欲望に正直生きている。このようなキャラクター(悪役)は観ていて気持ちが良い。

この映画がやっている事は『仮面ライダー』や『ゴレンジャー』と大して変わらない。そんな内容に贅沢な予算と知名度の高い俳優を投入してしまうのがアメリカ映画の底力と言えるだろう。ここまで来れば、馬鹿馬鹿しさを通り越して、崇高ささえ感じてしまう。我が国でも『鉄人28号』『キャシャーン』『キューティーハニー』『デビルマン』等の実写版が公開待機中もしくは撮影中である。中途半端な作り方では玉砕は必至であり、残るのは惨めな残骸だけである。スタッフもキャストも何処まで《アホ》になり切れるかが勝負であろう。

(2003/12/15)

『十二夜』

先日。衛星放送で『十二夜』(1996年公開)を観た。

シェイクスピアの同名戯曲の映画化である。監督はRSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)の芸術監督を務めるトレヴァー・ナン。シェイクスピア映画にはうってつけの人材。

時代設定は19世紀末に変更されているが、物語はほぼ原作通りに進む。メサリーン国出身の双子の兄妹セバスチャン&ヴァイオラ。2人はしがない役者稼業で生計を立てている。旅の途中、兄妹が乗っていった船は大暴風雨に襲われて難破してしまう。ヴァイオラは何処かの海岸に漂着し、奇跡的に命を拾うが、そこはメサリーンと対立するイリリア国の版図であった…。

ヴァイオラはイリリアを治めるオーシーノー公爵に仕官する事になる。その際、ヴァイオラは女から男へと変装する。俺には男装の理由がよく解らないのだが、彼女の行動がこの喜劇の核となる。如何に役者とは言え、女が男に化けられる訳がない。しかもヴァイオラは公爵の館に住み込んでいるのだから、公爵にせよ家来にせよ使用人にせよ、毎日顔を合わせている。誰も彼女の正体に気づかないというのはかなり不自然である。これが演劇ならそんな事は思わないのだが、映画となるとどうしても歪みが生じてくる。その点を割り切らないと、この作品を楽しむ事は難しくなる。

さて、ヴァイオラの主人たる公爵は近辺在住の姫君を嫁さんにしようと目論んでいる。ところがこれが上手くゆかない。公爵の熱烈なアプローチもほとんど無視されているような有様なのだ。公爵の信望厚いヴァイオラは、姫君の真意を問い質すように命じられる。ヴァイオラは剛毅な殿様に想いを寄せており、彼女には酷な命令だが、当の公爵はその気持ちに全く気づいていない。何しろ彼女を男だと思い込んでいるのだから話にもならない。そして事態は混迷の様相を呈してくる。ヴァイオラの真摯な態度に好感を覚えた姫君が、公爵ではなく、彼女の方を愛し始めたのである。私は女なのに…。皮肉過ぎる状況に頭を抱えるヴァイオラ。

中盤以降は喜劇的な味わいが一層濃厚になり、とても面白い。ヴァイオラを演じるイモジェン・スタッブスが美形俳優だけに、その慌て振り騒ぎ振りが、かえって笑いを誘発するのである。後半、妹同様に難を逃れていた兄セバスチャンがイリリアの町に現れて、各登場人物は混乱を極める。双子の再会が最後の最後まで果たされないのが、少々じれったいが、これは大団円の効果を高める為の適切な処置と言えるだろう。シェイクスピアの作劇の妙。

(2003/12/15)

『死刑台のエレベーター』

先日。衛星放送で『死刑台のエレベーター』(1958年日本公開)を観た。

マイルス・デイビスの名演奏に乗って描かれる犯罪(失敗)映画の傑作である。

男(モーリス・ロネ)は殺人を決意する。愛する女(ジャンヌ・モロー)との愛を成就させる為には「ある障害」を取り除かなくてはならない。その障害とは自分の勤める会社の社長である。言うまでもないがモローの現・夫である。男は自室で仕事をするフリをして、ベランダに出る。そして、予め準備しておいたフック付きロープを利用し、社長のいる最上階へと潜り込む。男は戦時中、落下傘部隊に所属していた勇者であり、この程度の芸当は朝飯前である。ただ、真昼間にこんな目立つ行動をしても良いのかな?と少し心配になる。いくらなんでも通行人の誰かが気づくのではないか。

社長殺害に成功した男は、何食わぬ顔で退社するのだが…例のロープを回収するのを忘れていた事に気づく。あんなものをいつまでも社屋にぶら下げておいたらえらい事になる。どうもこの男はそそっかしい。表情は落ち着いているが、内心はビクビクしているのだろうか。急いで社に戻るが、警備員が主電源を切ってしまったので、男はエレベーター内に閉じ込められてしまう。

可愛そうなのはモローである。待てど暮らせど男は現れない。果たして殺人計画は遂行されたのか?失敗したのか?携帯電話など存在しない時代である。男としても連絡の取りようがない。イライラと虚しい時間が過ぎてゆく。女の方もまさか恋人が昇降機の中で立ち往生しているとは夢にも思わない。男を捜して、夜の街を彷徨する女の姿が哀しくも美しい。

この犯罪にもうひとつの犯罪が絡む。第2の犯罪を犯すのは別のカップルである。チンピラ&花屋の店員。チンピラは盗みの常習らしい。鍵がつけっ放しなのを良い事に、ロネの車を勝手に持ち出し、高速道路を爆走したりする。このような軽薄な男とつき合う娘もどうかと思うが、二人は結構楽しそうである。やがて、チンピラはしょーもない理由でドイツ人旅行者を撃ち殺す。ロネ&モローの綿密な殺人計画とは大違いの衝動的な犯行。それに使用されたのはロネの拳銃であり、警察の捜査は難航を極めるが…。

鮮烈なラストシーンが用意された作品である。ふたつの犯罪が同時に瓦解するという見事な構成。劇中、ロネとモローが直接会う場面は1度もない。その事が土壇場になって絶大な効果を発揮してくるのである。脚本の巧みさ、小道具の秀逸な使い方に息を飲む。映画中盤、脱出を試みるロネがエレベーターに踏み潰されそうになる迫力も凄い。

(2003/12/11)

フランス映画

★JAZZファン垂涎の映画ですね。

随分前の話ですが、山藤章二がNHK・FMの「日曜喫茶室」に出演した事があります。その番組内で、かのイラストレーターがマイルス・デイビスの演奏と『死刑台のエレベーター』について熱く語っておりました。いつかは観てみたいなと思っており、先日ようやく捉まえる事が出来ました。貴兄に教えて戴いた『フランス式十戒』(1962年公開)も実に面白く、このところ、フランス映画の魅力に酔っています。端正な映像と皮肉な雰囲気が気に入りました。今回御紹介の『死刑台のメロディー』(こちらはイタリア映画)も中々の名作のようですね。

(2003/12/14)

『シックス・センス』

先日。図書館で『シックス・センス』(1999年公開)を観た。

「この映画にはある秘密があります。映画を観ても家族や友人にその秘密を話さないで下さい」

などというブルース・ウィリスの余り嬉しくないメッセージが消えた後、ようやく本篇が始まる。

幸か不幸か、この映画の《秘密》を俺は知っていた。早くもこの作品を純粋に楽しむ事は不可能である。仕様がないので、どの部分に《秘密》に関する布石や伏線が仕込まれているのかを注目しつつ鑑賞する事にした。

事実上の主人公はハーレイ・ジョエル・オスメント演じる少年である。この少年、常人には備わっていない《第6の感覚》の持主であり、生来の異常な《能力》の為に、級友にも教師にも半ばキ××イ扱いをされている。子供というのは残酷なもので、自分達と異質な者には過剰な反応を示す。当然のように少年はイジメの標的になっている。

巷間で評されているようにオスメントが「天才子役」かどうかは正直疑問だが、全篇を貫くオドオドした態度が全て演技だとしたらこれは大したものである。少なくとも、終始省エネ演技に徹しているウィリスよりも芸熱心なのは確かだ。それにしてもウィリスの薄っぺらい演技は何なのだろうか。まさか××の役だから印象が希薄な方が良いとでも言うのだろうか。そーか。あれは役作りか。

「僕には死んだ人が見えるんだ…」

映画の中盤、少年がウィリスに自分の《能力》について話す場面がある。勘の働く観客なら、この時点で例の《秘密》に気づくだろう。俺は頭が悪いのでまず無理だろうが。このアイディア自体は俺は秀逸だと思う。誰もが考えそうだが、それを映像化したのはこの作品が初めてなのだから。映画だからこそ生きるアイディアでもある。ただ、素材の魅力を充分に引き出せぬままに終ってしまったような感じである。例えばヒッチコックの『サイコ』辺りと比べると、数段見劣りしてしまう。若干20代(当時)の監督とサスペンスの神様と比較するのは酷かも知れないが…。

中盤以降、様々な幽霊が登場して、大いに背筋を寒くしてくれるが、俺が最も恐ろしかったのは、自分の娘(しかも重病人)に床磨きの洗剤を食わせるおばさんであった。幽霊より何より人間が怖い。

(2003/12/07)

超能力少年

★あの勉強會の夜に宿屋で見ました。テレビでやつてゐました。

恐らくNHK・BS2で放映されたものを御覧になったのだと思います。不覚にも俺はこれを見逃してしまいました。後日、地元図書館の映像資料の棚に同作品を発見したので、早速観てみました。加藤様が仰るように笑いの要素は皆無に等しい映画でした。超能力者故の苦悩とでも言いましょうか。誰にも理解されない、される筈もない少年の境遇。行き場のない息苦しさがずーっと続きます。TVドラマのような平板な映像が、かえって作品の緊張感を高めていたようにも思えます。大して期待もせずに観た作品ですが、カネよりも知恵で勝負をしようというスタッフの心意気には好感を覚えました。

(2003/12/08)

『金融破滅ニッポン・桃源郷の人々』

先日。深夜放送で『金融破滅ニッポン・桃源郷の人々』(2002年公開)を観た。

原作は『ナニワ金融道』の青木雄二。監督はここ数年、驚異的な生産量を誇る三池崇史。主演は三池の『DEAD OR ALIVE 犯罪者』で地球を消滅させた哀川翔。

舞台は大阪。ある河川敷で暮らすホームレス集団があった。水洗便所完備、入浴は週2回、食い物には必ず火を通す…この意外に清潔な共同体を束ねる《村長》を哀川翔が痛快に演じている。今回の哀川はテッポウをブッ放したり、ドスを閃かしたりという得意技を封印。危機に際しても、暴力は使わずに知恵で回避する。哀川としては珍しい役と言えるが、気取らない自然体演技が心地好い。この村長、正体は判然としないが、どうやらヤクザの世界では伝説的な人物らしい。裏社会で築いたネットワークを的確に利用する辺りも実に面白い。映画やVシネマで散々アウトローを演じてきた哀川だけに妙な説得力があるのだ。

哀川と互角の個性を発揮しているのが、印刷会社社長に扮している徳井優である。最大の得意先が突如倒産し、不渡り手形1000万円が発生。小さい町工場が潰れるには充分な金額である。庶民に襲いかかる残酷な運命…ジメジメした芝居になりがちの所を、徳井は滑稽味を強調した演技で乗り切っている。特に後半のテントの中で「わしはアホやー」と号泣するシーンが素晴らしい。涙と笑いの鮮やかな調和。本作屈指の名場面である。徳井はひょんな事から哀川と出遭う。徳井の苦境を知った哀川は起死回生の作戦を発案、仲間と共に実行に移す。

時間も予算も贅沢とは言いかねる状況下、与えられた戦力で手際良く映画を完成させる三池の手腕には毎度驚かされる。佐野史郎(哀川の参謀)の軽妙な味わい、室井滋(哀川の愛人)のヴァイタリティ、麿赤兒の憎々しい悪役振り…役者の使い方も達者なものである。登場人物の強靭な生命力も三池映画の魅力のひとつ。彼らは少々の事ではへこたれないしぶとさ、したたかさを備えている。この屈強さは監督自身のものでもあるのだろう。三池の作品には観客を元気つけてくれるエネルギーに満ちている。

原作者も特別出演。流石に緊張気味の青木雄二が「法律は弱者の味方ではありません」と断言する弁護士を演じている。この台詞に、青木の描いてきた物語の要素が凝縮されているような気がしないでもない。

(2003/12/07)

オタク映画の競演

★『マトリックス・レボリューション』は…『リローデッド』で広げた風呂敷を最後までたためませんでしたね。

★『キル・ビルvol.1』の方は、想像以上というか、想像をはるかに越える出来でしたね。

結局『マトリックス』という作品は「観客を選ぶ映画」だったのかな。俺などは『リローデッド』の途中から何が何やらさっぱりわからず、物語の加速について行けない自分の頭の悪さにウンザリしました。観客の脳味噌を試す知能テストのような映画です。今後はこの種の映画がどんどん増えてくるのかも知れません。ただ、夥しい情報量を作品に詰め込むのは良いのですが、余程周到にやらないと、必ず矛盾が生じてきます。作り手の方には綿密な計算をお願いしたいものです。出来ればアホにも理解出来るように配慮して欲しいな。

今回の完結篇は尾崎君にとっては不満足な出来だったみたいですね。俺としてはドンパチ中心の内容だったので結構楽しめました。人類最後の砦《ザイオン》における激烈な攻防戦は見応えがありました。端役だと思っていたミフネ船長の意外な(?)奮闘振りが印象的でした。それに比べると、ネオvsスミスの最後の対決はやや単調。空を飛んだり、壁をブチ破ったり色々していますが、基本的に殴り合いの繰り返しなので、どうしても飽きてしまいます。折角の最終決戦、もう少し凝った殺陣を観せて欲しかった。これなら『ガメラ・大怪獣空中決戦』(1995年公開)のラストバトルの方が迫力があります。時間も気力もなかったのかな?それとも、この闘いの裏にも「大いなる謎」が秘められているのかな?

一方『キル・ビル』は殺し屋組織の内部抗争という俺好みの物語。全篇にタランティーノの映画に対する愛着が漲る痛快作でした。6年間の鬱憤を晴らすかのように激しい活劇場面が続出しますが、個人的には冒頭のアクションが一番面白かった。子供が顔を出すと、互いに武器を隠して、戦闘を中断する辺りはとてもユーモラス。敢えて難を言うなら《青葉屋》斬り込み場面の長さ。過剰なまでのサービス精神に一寸辟易です。宿敵オーレン・イシイとの決戦も確かに面白いのですが、暗殺者(プロフェッショナル)同士の闘いにしては饒舌過ぎるように感じました。饒舌なのがタランティーノの持ち味だと言われてしまえばそれまでなのですが…。それにしてもタランティーノは日本映画をよく研究しています。陳五郎御大も認める『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)の引用には狂喜しました。

(2003/12/06)

原典発掘

★「同時多発テロを受けて、物語の構想を大きく変更せざるを得なかった」に非常に説得力を感じます。

あの文章はとても面白かった。解り易いし、文体自体がユニーク。流石に映画通は着眼点が違います。世界情勢の影響で物語の方向性が変わってしまうのは残念な気もしますが、それが『マトリックス』という作品の持つ「運」だったのかも知れません。それにしても『マトリックス』はこれで本当に終りなのかな?数年後に「全世界待望の続篇」が作られたりして。ルーカスの『スター・ウォーズ』の例もあるしね。

★いろんな映画から引用しているのですね。

「タランティーノは本当に勉強している。何でもよく知ってますよ」さしもの千葉真一師匠も舌を巻いておりました。予備知識零でも充分楽しめる映画だと思いますが「原典」を知っていればいるほど面白くなるのも確かです。この作品を観た人が「ルーツ探し」を始めてくれると嬉しいですね。日本映画に興味を持つ人が増えるキッカケをタランティーノが作ってくれた訳です。

タランティーノは『キル・ビル』の現場に好きな映画のビデオを大量に持ち込み「この場面はこの作品のこの部分の雰囲気でやってくれ」と、俳優やスタッフに指示を出していた模様です。コッポラ先生が『地獄の黙示録』の撮影中、スタッフに毎晩『七人の侍』を観せていたという伝説がありますが、タランティーノも負けてないなと思いました。

(2003/12/09)

『ナバロンの要塞』

先日。教育放送で『ナバロンの要塞』(1961年公開)を観た。

主演は善玉代表グレゴリー・ペック(『ローマの休日』『アラバマ物語』等)先生。

第2次大戦の真っ最中。エーゲ海に浮かぶケーロス島では、ドイツ軍の手によって、連合軍捕虜2000名が処刑されようとしていた。

何としても彼らを救わなくてはならない。だが難題がある。通過途中にあるナバロン島に築かれた敵要塞の存在である。かの要塞には馬鹿デカい大砲が2門配備されており、版図をうろちょろする輩は片っ端から吹き飛ばす仕組みなのだ。事実、連合軍は《ナバロン砲》の爆撃能力に幾度か煮え湯を飲まされている。

敵要塞の主砲を排除するべく、連合軍はスペシャルチームを急遽編制。岩壁登攀の達人、爆発物のエキスパート、ナイフ使いの名手等…各分野の専門家が集結した。ナバロン島に接近する事すら至難なのに、その中枢たる主砲を破壊せよとは、無茶苦茶な命令である。しかし拒否すれば映画が始まらない。特別部隊は勇躍、敵地へと向った。

冒険行の前半、上官が重傷を負ってしまう。やむなく、その代行としてペック先生が指揮を執るハメに。ジャンルは異なるものの、各人、己の腕には覚えのある者ばかり。当然、自己主張も激しい。中には戦争が終った瞬間にペックをブッ殺そうと目論んでいる奴(アンソニー・クイン)もいる始末だ。連中は何かにつけて、ペックのやり方や作戦に噛みついてくる。その度に彼らを説き伏せなくてはならないのだから、監督代理も楽じゃない。ショッカー並のドイツ軍よりもこちらの方が数倍厄介である。

物語の終盤。連合軍が派遣してきた駆逐艦隊を迎え撃つ為、ついに伝家の宝刀《ナバロン砲》が動き出す。この際、大砲発射のプロセスがかなり入念に描きこまれているので正直驚いた。一瞬、大友克洋の短篇映画『大砲の街』を想起した。射撃準備完了っ。発射(ファイアー)!司令官の号令が下り《ナバロン砲》が火を吐く。

ずばあん。きゅる。きゅるきゅる。きゅるるるるるん。どどっ。どどどっ。どどどどーん。

あれ?手間がかかった割には一発も当たらないぞ。続く第2射撃も派手な水柱を上げるのみで、敵艦隊にダメージを与える事は出来なかった。うーん。世界最高水準を誇る軍事科学の結晶にしては余りにもお粗末である。少しは《メーサー殺獣砲車》の命中精度を見習って欲しいものだ。そして、第3射撃が放たれる前に、ペックと爆弾オヤジ(デヴィット・ニーヴン)が仕掛けた爆破装置が作動。基地内に大量保管されていた爆薬やら燃料やらに次々引火。爆発が爆発を呼んで《悪》の城砦は木端微塵に砕け散るのだった。

ラストでは、反目していたペックとクインが和解する気恥ずかしい場面がちゃんと用意されている。連合軍=言い奴、ドイツ軍=悪者という解り易い図式が今となっては新鮮に映る。劇中、残酷描写は適度に抑制されており、作り手の配慮が伺える。大人も子供楽しめる。正統派の称号が相応しい冒険活劇であった。古き良き時代の映画。

(2003/12/04)

『生きたい』

先日。衛星放送で新藤兼人の『生きたい』(1999年公開)を観た。

老人問題を真正面から捉えた問題作である。全体的に泥臭い印象を受けるが、得体の知れぬ無気味な迫力に満ちた作品であった。誰もが目を背けたい、考えたくないテーマを、新藤は観る者に強引に突きつけるのだ。その腕力は相当なものである。

主演は三國連太郎。生ける日本映画史とも言える怪優が、行き場を失った哀れな老人に扮している。この男、興奮の余りに絶叫すると、同時に×××を漏らしてしまうという悪癖を持っている。恐らく老化現象の一環だろうが、周囲の反応は極めて冷たい。娘(大竹しのぶ)には「この糞親父がー」と罵倒され、馴染みのバーからも「2度と来るな!」と叩き出される有様である。

三國はこのような人間の醜悪な部分を演じさせると実に巧い。西田敏行と一緒に釣りをしているのは、あくまでも小遣い稼ぎであり、こちらの方こそが三國の本領なのである。食事場面の演技なども強烈なリアリティを感じた。もしかしたら演技ではなく「地」なのかも知れないが、老いさえも自分の味方につけるという恐るべき生命力には脱帽するしかなかろう。やはりこの人はバケモノである。

三國のアクの強さも凄まじいが、助演の大竹も負けてはいない。躁鬱病の四十女を猛演している。大竹得意のオーバーアクションの連続には辟易させられるが、この作品に限ってはそれも許せた。毒々しい物語と大竹の過剰演技が見事な調和を為しているのだ。自分の不幸を全て他人のせいにするというどうしようもないビョーキ女が、時折チャーミングに見えるのだから不思議だ。終盤「躁の時は力が強えんだぞ」などと喚きつつ、大立ち回りを演じる場面が妙におかしい。

この映画は「姨捨山伝説」が物語の核になっている。三國が病院から失敬してきた民話の本を読むと、それがモノクロ映像で再現(津川雅彦が怪しげな村長役で登場)されるという仕掛けである。これらをバッサリ切り落としたとしても映画は成立するような気もするが、新藤は執念深く描写している。このクドさ。この鬱陶しさ。老人問題は姨捨山の時代から何も進展していないじゃねえか。新藤の凄愴な叫びが頭蓋骨を突き破って、脳味噌にめり込んでくる。年寄り監督のボケ映画とナメてかかると、痛い目に遭うぞ。

(2003/12/01)

『ダーティハリー4』

先日。図書館で『ダーティハリー4』(1983年公開)を観た。監督&主演クリント・イーストウッド。ヒロインを演じるソンドラ・ロックはイーストウッドの恋人(当時)だ、そーです。

数年前、出張先のホテルで観た記憶があるのだが、その際はベロベロに酔っ払っていて、映画を楽しむどころではなかった。以前からシラフの時に観直さねばと考えており、この日ようやく実現した訳である。

陳五郎様の御指摘通り「悪役不在」の映画だったが、ハリー・キャラハンの凶暴度がかなり高めに設定されており、結構面白かった。イーストウッドの演出は終始快調で、ハードな活劇場面を丹念に描き(演じ)つつ、ユーモラスな味わいも巧みに織り込んでいる。

チンピラ3人組を思い切り威喝したり、行きつけの喫茶店に侵入した強盗団をブチ殺したり、ヤクザのボスを結婚式場で心臓麻痺に追い込んだりと、サンフランシスコ市警最強のトラブルマシンは今日も大忙しだ。署に戻れば、いつものように怒り心頭の上司が待ち構えており、ハリーのオレ流捜査を徹底批判するが、ハリーの方も負けじと言い返す。机上の空論を捻くり回す手前らより、最前線で闘う俺の判断が正しいに決まっている。

上司「キサマ…誰に向って口を利いているのかわかってるんだろうな?」

ハリー「自称英雄だろ」

この物語のもう一人の主人公と言えるのが、女復讐鬼ジェニファーである。十年前、彼女と妹は鬼畜集団に輪姦された。その結果、彼女は耐え難いトラウマに悩まされ、妹は廃人と化した。医者も病院も頼りにならず、妹が治癒する見込みはまずない。ジェニファーは変態野郎を見つけ出しては、怨念の篭った弾丸を眉間と股間に撃ち込んでゆく。ハリーの素敵な毎日とジェニファーの悲壮な活躍が交互に描写される。そして、雄雌、2匹の狼の運命が交わる時がやって来た…。

自身を格好良く撮る事に関しては、恐らく世界一巧いイーストウッド。監督10本目となるこの作品でもそのスタイルは変わらない。奇を衒わず、堂々と無敵のヒーロー振りを撮り上げている。我が国の映画人でこれに対抗出来るのは、やはりカツシンか奥崎謙三(←映画人じゃねえか)ぐらいであろう。北野武もイーストウッドに似ているが、彼の場合は作品内にテレのようなものが見え隠れする。珍しくヒットを飛ばした最新作『座頭市』にもその傾向は顕著である。

ケビン・コスナーや長渕剛のように自爆せず、コンスタントにワンマン映画を発表し続けているイーストウッド。彼の映画には不思議とあざとさは希薄である。これ以上やると嫌味になるぞ…その直前で回避しているような印象さえ受ける。計算と言うより本能。便利な「安全装置」が彼の中には備えられているらしい。

(2003/11/29)

『オリエント急行殺人事件』

先日。衛星放送で『オリエント急行殺人事件』(1974年公開)を観た。

原作は勿論アガサ・クリスティ。監督は『セルピコ』のシドニー・ルメット。

イスタンブールからロンドンを繋ぐ豪華列車オリエント急行の中で殺人事件が発生する。被害者は金持ちのアメリカ人。犯人は既に逃亡を果たしたのか?それとも未だ車中に潜んでいるのか?難事件が名探偵を呼ぶのか、或いは名探偵が難事件が呼び寄せるのか…この大陸横断列車に「偶然」乗り合わせていたエルキュール・ポワロが事件の解明に挑む。

物語の大部分は車両内(大雪の影響で停車中)で進行する。映画と言うより、演劇的雰囲気が濃厚な作品だが、観客を退屈させない工夫が随所に凝らしてあり、大物俳優同士の演技合戦も見物だ。ディスカッションドラマの傑作『十二人の怒れる男』を撮り上げたルメットの手馴れた演出が堪能出来る。

「私は気に入った仕事しか引き受けない」ポワロ先生の調査が着々と進む。そして、被害者の意外な正体が明らかとなる。かのアメリカ人は犯罪組織のメンバーであり、5年前に起きた幼児誘拐事件の主犯格だったのだ。この殺人の背景には、とてつもないものが横たわっている…。この辺から、不貞腐れ気味のポワロも事件に興味を抱き始めたようだ。観る者も徐々に画面に惹きつけられる。

稀代の名探偵に扮したアルバート・フィニーがアクの強い個性を発揮している。中盤以降は喋りに喋りまくり、汗だくの猛演を披露。臨時の捜査本部となった食堂車における終盤の大演説も迫力充分であった。真相究明の為、一切の妥協を許さぬ追求振りを繰り広げるポワロだが、彼もまたホームズ先輩同様、必ずしも犯人逮捕が至上目的ではない。土壇場で見せたポワロの優しさには大いに共感を覚えた。謎の氷解と呼応するかのように、線路を塞いだ雪の壁を突き破り、救援列車が姿を現わすラストシーンも素晴らしい。

(2003/11/29)

シドニー・ルメット

★謎解きの面白さはないのですが、そこは豪華キャストでヒットしてゐました。

不勉強にも原作は読んだ事はないのですが、オチについては何処かで聞いた覚えがあります。ただ《犯人》の動機については未知でしたので、その辺りを注目しつつ観ていました。それと、ミステリー映画は伏線の張り方が難しいので、この映画では、どのように処理されているのか興味がありました。劇中、わざとらしい場面は少なく、成功している部類ではないでしょうか。先日の『セルピコ』にせよ『オリエント急行殺人事件』にせよ、手堅い演出で安心して観ていられます。シドニー・ルメットは相当腕の立つ監督だと思いました。

(2003/11/29)

『レ・ミゼラブル』

先日。衛星放送で『レ・ミゼラブル』(1997年公開)を観た。

言わずと知れたビクトル・ユゴーの名作の映画化である。遥か昔、小学生向けを読んだ記憶があるが、その内容は俺の脳内から綺麗に消え去っていた。お陰で純粋に映画を楽しむ事が出来たように思う。

脱走犯ジャン・バルジャン。老いた司祭との出遭いが、バルジャンの運命を劇的に変えた。凶暴な犯罪者が正義を体現する鋼鉄の男と化したのである。人望と財産の両方を獲得したバルジャンは、ついにある町の最高責任者の座まで登りつめる。頭の回転が速い上に、人並み外れた膂力を備えているバルジャンである。その成功は必然とも言えるだろう。一流の悪は一流の善足り得る事を教えてくれる。

バルジャンを追う者。それがジャベール警部である。彼は「一度犯罪を犯した者は必ず悪事を繰り返す」という信念に取り憑かれている。冷徹な法の番人たるジャベールは、バルジャンの過去をネチネチと洗い出し、その失脚→逮捕を策謀する。絶対に敵に廻したくない人物だが、自らの不正を告白する清潔さをも持ち合わせており、やはりタダ者ではない。

まさに男の中の男のような両雄が対決するのだから、物語は俄然盛り上がる。ジャベールは他人任せにするのがイヤなのか、それとも自分以外の人間は信じられないのか、作戦遂行時は自らが陣頭に立つ。彼の性格が如実に現れており、とても面白い。映画の中盤、逃走するバルジャンを猛然たる勢いで追跡するジャベール。どがががん。うおあー。この際、飛ばし過ぎた馬車がひっくり返り、ジャベールが空中に放り出される場面がユーモラスである。

不撓不屈の男バルジャンをリーアム・ニーソンが熱演している。特にラストシーンの演技が印象的だ。ジャベールとの最終決着をつけたバルジャンの表情が良い。長年の夢…真の自由を手に入れた震えるような喜びを、ニーソンは無言で演じ切っている。その好敵手に扮したジェフリー・ラッシュの魅力も捨て難い。更に女剣戟人になる前のユマ・サーマンも、重要な役で出演しているのでこれも注目だ。

監督はビレ・アウグスト。彼の作品を観るのはこれが初めてだが、終始手を抜かない演出には感心した。堂々たる文芸映画でありながら、娯楽作品としても充分楽しめる映画に仕上げている。重厚な映像も良いし、長い原作を手堅くまとめた脚本もお見事。恐れ入りました。

(2003/11/26)

『ドッペルゲンガー』

先日。黒沢清の新作『ドッペルゲンガー』を観た。

平日。ガラガラの映画館。と言うより、俺以外の客は誰もいない。もし俺が出て行ったら、上映も中断されるのだろうか。そんなアホな事を考えたりする。

黒沢と言えば、この映画館で『回路』という作品を観た覚えがある。全くの期待外れであり、余りのつまらなさに辟易したものだ。今回もカネと時間をドブに捨てるハメになるんじゃねえだろうな。そんな疑惑が俺の中にしつこく渦巻いていた。

主演は役所広司。役所演じるエリート技術者は「人工人体」の開発に取り組んでいる。外見は車椅子に似ている。これに座った人間の意志に反応して、移動したり、アームを動かしたりするロボットである。身体が不自由な者でも単独で日常生活が可能となる画期的な機械。だが、研究は遅々として進まない。俺の才能はここまでなのか?周囲の期待に応えられない自分に対する苛立ち。上層部からの圧力。役所のストレスはとっくに限界を超えている。同僚に部下に備品に八つ当たりする毎日が続く。そんな役所の前に突如《分身》が現れた。幻覚?妄想?役所は《彼》の存在を否定するが《彼》は一向に消えない。そして、役所の思惑を無視して《彼》は、ドッペルゲンガーは動き出す…。

瓜二つの人間が同じ場所にいるだけで、こんなにも異様な雰囲気が出るものなのか。はっきり言って、この映画はこのアイディアのみで持っている。役所は《本体》と《分身》同一人物でありながら、性格は別物というややこしい役柄を鮮やかに演じ分けている。監督の演出も的確であり、役所&黒沢のコンビプレーは円熟の域に達してきたようだ。

後半に入り、物語はロードームービーの様相を呈し始める。悪夢的で狂気に満ちた展開。ついに完成した「人工人体」を巡る醜悪な闘いが延々と繰り広げられるのである。奇々怪々なドタバタ劇に、段々嫌気がさしてきたが、これこそが黒沢映画の醍醐味なのかも知れない。

役所だけでなく、脇役陣もアクの強い個性を発揮していた。弟の幽霊(分身?)に平然と弁当を届ける永作博美、俺はてめーらが思っているほど俺はバカじゃないんだぜ…終始無気味な存在感を示すユースケ・サンタマリア、そして、役所の同僚に扮する柄本明。最近、柄本は映画に演劇に大忙しとか。捉えどころのない飄々としたその持ち味は、現在の邦画界では貴重。この作品でもやる気があるようなないような…不思議な演技で要所を締めてくれる。

同日。かの『マトリックス』の完結篇を恐る恐る観たところ、こちらも予想外に(失礼!)に面白く、満足のゆく出来栄えであった。以前『魔界転生』と『あずみ』を連続で観て、虚脱感と絶望感に打ちひしがれた日があったが、今回は完全に逆のパターン。宣伝も重要だが、質の高い面白い映画を作り続ける事が、お客の足を劇場に運ばせる最も確実な方法なのである。

(2003/11/18)

『鬼平犯科帳』

先日。図書館で『鬼平犯科帳』(1995年公開)を観た。

好評を博した中村吉右衛門主演TVシリーズ。その劇場版である。原作は池波正太郎。

映画の前半は〈鬼平〉こと長谷川平蔵の密偵の一人(梶芽衣子)と老舗(?)盗賊団の二代目(世良公則)との恋模様が描かれる。悪党に対しては文字通り鬼神の姿勢で臨む鬼平。今回の梶芽衣子の行動は自分に対する裏切りにも等しい。だが、敢えてそれを許す鬼平。但し男の方はそうはゆかない。見逃す代償として、利き腕をバッサリ斬り落とす。この辺りは〈鬼〉の面目躍如と言うべきか。激痛に耐える世良の背中にすがりつく芽衣子の複雑な表情が良い。この辺まではそれなりに観られたのだが…。

中盤、大阪を本拠とする大盗賊〈白子の菊右衛門〉が登場する。藤田まことが悪役を楽しそうに演じている。配下の一人を鬼平率いる《火付盗賊改》に処刑された菊右衛門は、精鋭を引き連れて江戸に向う。かの地の大物〈荒神のお豊=岩下志麻〉との頂上会談の為である。菊右衛門は江戸進出の野望を秘めており、計画遂行の際には鬼平の存在が目障りになるのは必定だ。ならば早い内に排除しておいた方が得策である。当然「東西の最強組織が共同戦線を張って鬼平に挑む!」という展開を期待してしまうが、そうならないから少しも面白くねえ。

菊右衛門は「鬼平か何か知らんが、さっさと殺(い)てもうたらええんや」とバカに威勢が良かったが、用心棒の一人が倒されただけでさっさと大阪に帰ってしまう。一体この人は何をしに江戸に来たのだろうか?『はぐれ刑事』の撮影が忙しかったのだろうか?

残されたお豊は自力で《火盗改》と闘うハメとなる。若い頃、彼女は鬼平と恋仲にあり、色々あったが最終的には惨めに棄てられた。この恨みを今こそ晴らさなくてはならない。彼女はまず鬼平の息子に照準を定める。これを誘惑して、掌中に収めれば、鬼平に対抗する強力な武器となり得る。狙いは良かったが、いよいよ決戦という時に切り札の逃亡を許してしまう。菊右衛門と言い、お豊と言い、あんたら。本当にやる気はあるのか?見張りぐらいつけろって。

お豊の組織は呆気なく全滅した。鬼平との直接対決の際もさしたる抵抗も出来ずに捕縛される有様。江戸町民を震撼させる盗賊の割には妙にお上品だ。せめて鬼平を道連れに自爆でも図る気迫を見せて欲しかった。TVスペシャルなら、この程度でも良いのかも知れないが、これは銭を取って客を呼ぶ映画である。独自の工夫や迫力を追求すべきではないだろうか。肝心のチャンバラ場面も全然殺気が無いし。これじゃあ、折角の豪華キャストが泣くぞ。

(2003/11/15)

『スモーク』

先日。衛星放送で『スモーク』(1995年公開)を観た。

物語の舞台はニューヨークの街角。主人公は、ハーベイ・カイテル扮するタバコ屋の店主オーギー。気は短いが、人情に厚い陽気なオヤジである。彼の店には様々な人種、あらゆる職業の人間が訪れる。○も来れば●も来るし、ヤクザのボスもいれば、小説家もいる。お客の好みのタバコを常に用意しておくのが彼の仕事だ。慌しい割には儲からないが、それなりに充実した日々。

オーギーにはユニークな趣味があった。毎日決めた時刻に、同じ構図で自分の店周辺を写真に撮る。これを14年間続けている。ある日。膨大な量の写真を収めたアルバムを常連の作家(ウイリアム・ハート)に見せるオーギー。作家は数年前に愛妻を銀行強盗に射殺され、それ以来作品を発表していない。最初は何気なくアルバムを捲っていた作家の指がふと止まった。その頁には在りし日の妻の姿が記録されていたのだ。まさか、その数日後に自分が殺されるとは、そんな事は想像もしていない妻の表情。作家は思わず目頭を押さえる。壮大な無駄にも見えるオーギーの行為が、眩い光を放った瞬間であった。

この映画は、前述のような泣ける五つのエピソードで構成されている。脚本がよく練られており、会話の内容も洒落ている。更に適度なユーモアが上品な笑いを醸し出す。出演陣も皆好演。こういう話を大袈裟な芝居で表現すると、感動も何もあったものではない。監督のウェイン・ワンはその辺りを充分に心得ており、各俳優に控えめな演技を徹底させている。加えて、必要のない場面は極力省略する潔さも好感が持てる。

この映画に登場する人物は英雄でも豪傑でもない。だが、生きる為には働かなくてはならない事を熟知している人達であり、同じような境遇にいる俺には、とても身近に感じるのだった。心配事や悩みは尽きないが、意外に図太く、結構楽しく生きているんだぜ。そんな庶民の逞しさ、生命力の強さを丁寧に描写した愛すべき映画であった。題名が示すように、劇中至る所でタバコが小道具として使用されている。愛煙家の方には特にお薦めしたい一本である。

(2003/11/15)

『クイック&デッド』

先日。衛星放送でサム・ライミの『クイック&デッド』(1995年公開)を観た。

何を血迷ったのか、シャロン・ストーンが西部劇に挑戦している。

莫大な賞金が懸けられた「早撃ち競技大会」が毎年開催される町リデンプション。競技大会の時期ともなれば、一攫千金を夢見るならず者達が続々とリデンプションに集結する。その中に風変わりなガンマンが一人混じっている。ガタイは大きいが、間違いない。女である。彼女もまた大会に出場するのだが、その目的は優勝賞金ではなかった。そう。真の狙いは、リデンプションの町長であり、大会主催者たるジーン・ハックマンの命。奴こそは、少女時代の彼女に強烈なトラウマを植えつけた張本人であった。

ストーンに女イーストウッドを期待してはいけない。凝った衣装を身につけ、彼女なりに精一杯凄んではいるものの、殺気も迫力もまるで感じられない。彼女の意欲とは裏腹に、空転を続けるアウトロー演技が痛々しく、寒々しい。

印象の薄い主人公を嘲笑うかのように、敵役のハックマンが異常なアクの強さを発揮している。恐怖と銅鑼声でリデンプションを束ねる男。当然、多くの部下を有しているが、玉座にふんぞり返っているのは彼の性には合わぬらしい。現役ガンマンの血が騒ぐのだろう。自らも一選手として競技会に参加。自慢の射撃術を駆使して、殺し屋だろうが息子だろうが、お構いなしにブッ殺してゆく。陽気さと酷薄さが融合したハックマンの演技が圧巻である。

この映画には、豪華客船に乗る前のレオナルド・ディカプリオと剣闘士になる前のラッセル・クロウが出演している。ディカプリオはストーンお姉さまを手に入れようと幾度も迫るが、ほとんど相手にされない悲惨な役。物語の前半、ベロベロに酔っ払ったストーンと「寝た」そうだが、多分夢であろう。そして土壇場では「痛いよー。死にたくないよー」と、見っともない死に様を披露してくれる。

一方のクロウは、ハックマンの元配下の牧師。劇中、餓鬼どもにゴミは投げつけられるわ、町民からは罵声を浴びせられるわ、ゴロツキには蹴飛ばされるわで散々な目に遭わされるが、最後の最後に見せ場が用意されており、ディカプリオよりは少しマシな役と言えるだろう。因みに、この両名はストーンが直々に口説き、出演を承諾させたそうである。

ついに宿敵ハックマンを打倒したストーン。愛馬に跨り「この町の事は任せたわ」と、クロウに言い残して去って行く。使い古された場面だが、役者冥利に尽きる瞬間でもある。それは良いとして、ストーンがハックマンに勝利を収める事が出来た「理由」が不明瞭な為、カタルシスを得るにはほど遠い。その辺りは脚本の段階で充分修正可能だと思われるのだが…。普段は「悪役不在」の活劇に泣かされているが、今回は「主役不在」という珍しい例。光と闇。どちらが欠けても面白い活劇は成立しないという訳か。

(2003/11/12)

『ダーティハリー3』

先日。図書館で『ダーティハリー3』(1976年公開)を観た。

シリーズも3本目となり、主演のクリント・イーストウッド御大もそろそろやる気が失せてきたのではないだろうか?と心配していたが、実際はそうでもなかった。

ぐわっしゃーん。映画の冒頭、強盗が立て篭もる雑貨店に車ごと突っ込むダーティハリー。ガラス片が盛大に飛び散り、商品だの備品だのが派手に吹き飛ぶ。ずどーん。間髪入れず、腰を抜かしたゴロツキどもに必殺のマグナム弾が炸裂する。市警最強の不良刑事は今日も絶好調だ。

やたらに犯人を殺しまくるハリーのやり方に市民の非難が集中する。直属の上司も頭を抱えている。ハリーの度重なる暴走行為は警察全体の信用にも関わる。穏健派の上司はハリーを怒鳴りつけるが「犯罪者と仲良くお話ししろってか?」と居直る有様。殺人課→人事課への異動を告げられても、かの問題児は「人事課?あれはおカマのやる仕事だ!」と獰猛に吐き捨てる。とは言え、彼もまた組織の一員。上司の命令には逆らえず、嫌々ながらも「おカマのやる仕事」をやるハメとなる。面接試験の際に見せるハリーの不貞腐れた態度がケッサクだ。

かの上司(人事課10年勤務)は手前の出世&保身しか頭にない小役人(映画中盤辺りで判明)であり、体を張って、凶暴な犯罪者と闘い続けてきたハリーとはまさに水と油。ウマが合う筈がない。

今回の敵はテロリスト集団。兵器会社を襲って入手した武器を利用して、市長誘拐に成功する。彼らのリーダー格に相棒を刺殺されたハリーは、仲間の仇討ちとばかりに追跡を開始する。閑職に飛ばされようが、停職を喰らおうが、ダーティーハリーは止まらねえ。

そして物語は、決戦の地・アルカトラズ(廃墟)へ。3年後にこの監獄島にブチ込まれる事を知ってか知らずか(多分知らないと思うが)ハリー=イーストウッドは、新しい相棒を引き連れて奇襲を仕掛ける。かくして、ハリーvsテログループの死闘が繰り広げられる訳だが…如何せん、対戦相手ががダサ過ぎた。彼らの内にハリーに対抗出来るような個性の持主は一人もおらず、撃たれ役(?)に徹している。例のリーダー格も、さあ拾って下さいとばかりにバズーカ砲を落とし、さあ狙って下さいとばかりに人質を手放すというダメ振りであった。これでは、折角のクライマックスも一向に盛り上がらない。

面白い小エピソードを随所に盛り込みつつ、サクサクと進む物語の展開も良いし、皮肉の利いた幕切れも悪くない。これで敵役さえしっかりしていれば申し分なかったのだが…惜しい作品である。

(2003/11/11)

『セルピコ』

先日。衛星放送で『セルピコ』(1973年公開)を観た。

主演はアル・パチーノ。監督は『十二人の怒れる男』の社会派シドニー・ルメット。

警察学校を卒業したセルピコは、配属早々から意欲的に動き出す。果てしない犯罪者との闘いが始まった訳だが、警察署は正義の戦士が集まる場所ではなかった。敵はむしろ内部に存在していたのだ。賄賂だの買収行為だのが平然と罷り通る状態に愕然とするセルピコ。汚らしいカネは俺はいらない。賄賂の分け前を拒絶する彼を、同僚達はまるで宇宙人でも見るような目つきで見詰めるのだった。これが中村主水なら、小躍りしてそれを受け取るだろう。だが、潔癖症のセルピコにはそれが出来ないのである。

セルピコはこの状況を改善しようと奔走するが、組織の腐敗は修復不可能なレベルにまで進んでいた。上層部に相談してもほとんど相手にされず、ようやく重い腰を上げたかと思えば、それが同僚達にバレてしまう。後ろ暗い連中の密告者(チクリ)に対する攻撃は凄まじい。まさか盗聴器を持ってるんじゃねえだろうな。更衣室で身体検査を強要されるセルピコ。ここまで来ると警察なのかヤクザなのかわからなくなってくる。周り中敵だらけ。まさに四面楚歌。いつ闇討ちを受けるやも知れない状況にストレスを爆発させるセルピコ。そんなセルピコに愛想が尽きたのか、同棲していた恋人も彼の元から去ってしまう。天下のアル・パチーノをフルんだから大したもんや。

組織の歯車として生きてゆくのも結構疲れるものである。《上》の御機嫌取りに専念すれば《下》の反感を買う。逆に《下》の為に立ち回ったり発言したりすれば《上》に睨まれる。せめてどちらかに属していればセルピコも気が楽なのだろうが、彼の場合《上》にも《下》にも爪弾きにされているのだから悲惨だ。強過ぎる正義感はかえって身を滅ぼしてしまうのだろうか?もしセルピコのような人物が俺の所属する組織に入って来たとしたらどうなるだろう。俺は《彼》を避けてしまうのではないだろうか?俺もそれほど清潔な人間ではないからである。

物語の後半、セルピコは麻薬密売人に撃たれて、病院に担ぎ込まれる。傷ついた体をベットに横たえるセルピコに、ブタ野郎からのメッセージが届く。ゆっくり苦しめ。そして、くたばれ。それでもじっと耐えるセルピコ。彼こそ真の勇者である。それにしても…いつの時代にも、何処の国にも、この手の変態が潜んでいるらしい。安全地帯から石を投げるしか能のない変態が。なあ。※※※※さん。あんたの事を言ってるんだぜ。

資料によると、この映画の主人公は実在の警官をモデルにしているそうである。そんなセルピコを、アル・パチーノ(当時32歳)が全身全霊で演じており、非常に見応えがある。アル・パチーノはこの前年に名門ヤクザの末っ子も好演。実力派俳優としての位置を確立した時期と言えるだろう。脇役陣の個性がやや弱いものの、アル・パチーノの魅力で一気に観せてしまう作品に仕上がっている。俺としては、セルピコの行動には100%共感は出来ないが、腐り果てた組織を何とか浄化しようという沈痛な叫びに胸を打たれた。

(2003/11/09)

フルメタル・ジャケット…完全被甲弾

★私は、前半部分を長めのプロローグと感じました。

なるほど。そういう見方がむしろ普通なのかも知れませんね。映画の中でも、前半(訓練篇)と後半(実戦篇)を明確に分けられている訳ではありませんし…。頭から二部構成と決めつけて『フルメタル・ジャケット』を語るのは、資料の読み過ぎ。短絡でした。

俺は『フルメタル・ジャケット』の面白さは前半部分に集約されていると考えています。後半の「実戦篇」は蛇足とまでは言いませんが、やや緊張感に欠けるような気が致します。戦争の狂気や歪みを、激烈な戦闘場面ではなく、戦争に至るまでのプロセス=新兵訓練を通して語り尽くしてしまった点がキューブリックの凄さではないでしょうか。

物語の冒頭、鬼教官に「てめーらは蛆虫だ。地球で最下等の生物だ」と罵られる新兵達。訓練期間中、教官にも仲間にも徹底的に苛められていた〈微笑みデブ〉が、ある日突然、優秀な狙撃手へと変貌する無気味さ。夜な夜な愛銃に話しかけるデブ。やはり戦場においては狂った奴が一番強いのか?訓練最後の夜、デブは教官を撃ち殺し、自らの命を絶ちます。ふたつの死体が転がるのは便所の床。確かに「蛆虫」が果てるにはこれ程相応しい場所はないでしょう。この辺りも、キューブックの皮肉なユーモアが利いているように思います。

★便器かなにかに飛び散った血と猿人が放り投げた骨とがダブりましたが、いかがでしょうか。

この御意見につきましては、俺も考えてみたいと思います。キューブリック関連の本は随分読み漁りましたが、貴兄のような指摘はなかったように思います。キューブリックは説明的描写を省略する傾向があります。勿論わざとです。不親切なようにも感じますが、その分、観客は自分なりの解釈を展開する事が出来ます。ある評論家が『2001年宇宙の旅』に登場するモノリスについての見解を、キューブリック本人に述べ立てたところ、かの鬼才は「君がそう思うなら、それでいいよ」と答えたそうです。

(2003/11/06)

『キル・ビル Vol.1』

先日。クエンティン・タランティーノの新作『キル・ビル Vol.1』を観た。

映画の冒頭「偉大なる映像作家・深作欣二に捧げる」というメッセージに魂が震えた。周りの若い連中には「深作?誰それ?」てな感じだが、深作映画への出演を希望していたタランティーノとしては当然のケジメだったのだろう。そして『キル・ビル』は全篇に日本映画―それも黒澤や小津ではなく、深作を代表とするB級作品―のオマージュに満ち満ちた怪作となった。わざわざ東宝特撮映画風の東京を再現したり、回想場面(アニメーション)に『攻殻機動隊』の製作会社を起用したりと、希代のおたく監督らしいこだわり振りである。

物語は実に単純である。暗殺集団の一員である主人公(名称不明)は、結婚式場で組織の襲撃を受ける。親類縁者は皆殺し。幸福の絶頂から、一転地獄へ。意識を失う寸前、彼女は仇の顔を脳裏に焼きつけるのだった。

数年間の昏睡状態から覚醒した主人公は、復讐の旅に出る。狙うは組織所属の4人の暗殺者…そして、その頂点に君臨する総大将ビルの首である。主人公の得意技は剣術。操る武器は日本刀。題名の「キル」は「斬る」にも通じる。良いタイトルだ。

主人公は強敵との闘いに備えて沖縄に飛ぶ。自分に相応しい最強の剣を入手する為だ。ついに我らが千葉真一の出番である。千葉は伝説の刀鍛冶にして、主人公の宿敵ビルの師匠格という美味しいポジション。でも現在の職業は流行らない寿司屋!千葉曰く「今回は、沖縄一マズい寿司屋の役なんです」。寿司屋の2階に業物の日本刀が格納されているというのも、よく考えるとおかしな設定だが、ここまで来れば何でもアリである。

百戦錬磨の千葉としては、やや演技に硬さが見えるのが気になった。タランティーノ作品に初出演という事で、さしもの千葉も緊張したのだろうか?但し、本職の正装に着替えてからの千葉は、眼光鋭く、年齢を感じさせぬ迫力を発散していた。刀の扱い方、立ち振る舞い等、流石に堂に入っている。

ユマ・サーマンが血塗られた主人公を熱演。クライマックスでは、高級料亭を舞台に獅子奮迅の大暴れ。仇敵の一、オーレン・イシイの配下を斬って斬って斬りまくる。自慢の妖刀が閃く度に、腕が足が首が吹き飛び、血のシャワーが大画面に降り注ぐ。ユマはこの映画の為に3ヶ月の訓練を積んだそうだが、その成果を思い切り発揮している。だが何度観ても日本刀を構える姿はサマになっていない。それどころか、不恰好に見えてしまう瞬間が幾度かあった。このアンバランスさこそが魅力なのかも知れないが…。

仇敵の内、2人を倒した主人公。後篇では、組織の反撃も開始されるだろうし、前篇を超える激しい闘いが繰り広げられる筈である。今回張り巡らされた伏線が、どのような形で作動してくるのか非常に楽しみである。復讐達成の為には手段を選ばない主人公が、子供に対しては妙に甘い。この性格が最終決戦の場で吉と出るか凶と出るか。これまた注目である。後篇公開は来春の予定。その日が今から待ち遠しい。

(2003/11/03)

『最後の事件』

仕事の帰りに地元の図書館に寄る事が多い。蔵書の充実度は然程でもないが、夜10時迄開館してくれているので有り難い。故に終業後でも充分間に合う訳である。このようなサービスを実施しているのは全国でも稀ではないだろうか。その事を職員の一人と話してみたら「そういう要望が多かったので…」という返答であった。

最近、視聴覚コーナーでDVD『シャーロック・ホームズの冒険』(イギリス・グラナダTV製作)を観ている。以前、NHKで放送されていた作品である。これは何かとうるさいシャーロッキアンも認めているという極めて質の高いシリーズだ。原作に忠実な脚本、重厚感溢れる映像。コナン・ドイルの作品世界が見事に再現されている。主演のジェレミー・ブレットもノリノリの様子で、仕種から表情から、かの名探偵になり切っている。相棒のワトスン(デビッド・バーク)との息もぴったりである。イギリスの俳優ランキングが如何なるものか、俺には全くわからないが、毎回登場するゲストには豪華な顔触れが選ばれていると、当藩随一のホームズ通〈一心太助〉が教えてくれた。

『ボヘミアの醜聞』『踊る人形』『海軍条約事件』『美しき自転車乗り』『まがった男』『まだらの紐』『青い紅玉』『ぶなの木屋敷の怪』『ギリシャ語通訳』『ノーウッドの建築業者』『入院患者』『赤髪同盟』と…難事件・怪事件がずらりと並ぶ。叡智の限りを尽くして、その解決に挑戦する我らがホームズ。周到に仕掛けられた謎の解明こそが彼の主要目的であり、警察発行の表彰状にはとんと興味がないらしい。時には哀れな犯人を見逃してやるという寛大さも見せている。

そして、第1シリーズ最終回『最後の事件』が来る。今回はホームズ最強の敵・モリアーティ教授との死闘が展開するガチンコ篇。世界最高水準の頭脳を誇る両雄の対決である。巨大な犯罪組織を束ねるモリアーティだが、意外にも紳士的なオヤジだ。ホームズに対する最終通告を自ら言い渡したり(わざわざベーカー街の下宿にやって来る)、決闘前の書き置きを許してやったりと、もののふの心意気を備えている。まさに宿命のライバルに相応しい人物であり、これを演じるエリック・ポーターも迫力充分。ブレットにも劣らぬ熱演を披露してくれる。

かの図書館には、ホームズが劇的な復活を遂げる第2シリーズのDVDも揃えられており、当分の間、視聴覚コーナーの利用が続きそうである。それにしてもこのコーナー、俺以外の人間が座っている所をほとんど見かけない。平日に加えて時間帯が遅い為だろうか。折角の宝の山を素通りとは勿体ねえ。血税の産物である公共施設を活用しない手はないと思うが。まあ良いけど、俺さえ楽しければ、わはははは。

(2003/11/01)

『小早川家の秋』

先日。衛星放送で小津安二郎の『小早川家の秋』(1961年公開)を観た。

老舗の造り酒屋・小早川家。領袖たる万兵衛(中村鴈治郎)は、婿養子に稼業の全権を譲り、悠々自適の毎日を送っている。そんな万兵衛がこのところ外出回数がやたらに多い。家族や使用人達は「またオヤジのビョーキが始まったんじゃねえのか…」と心配するが、その不安はずばり的中する。万兵衛は競輪場の帰りに昔の愛人と偶然再会。連日のように彼女の家に上がり込んでは、遊び呆けていたのだ。相手の方もまんざらでもないらしい。万兵衛の本妻は既に死亡しているので浮気ではないのだが…。

映画の前半は、道楽三昧の万兵衛と「みっともないから止めてくれ」という家族のやり取りが、時にユーモラスに、時に辛辣に描かれている。小早川家の騒動は、言ってみれば何処にでもある家族の風景であり、観る者は、登場人物の誰かに自分を当て嵌める事が容易である。それだけに、劇中の会話がまるで自分に向けて発せられているように聴こえてくる瞬間がある。油断をしていると痛撃を喰らうぞ。

万兵衛が心筋梗塞で倒れた辺りから、映画は無気味な色合いを帯び始める。一度は蘇生したものの、結局は還らぬ人となってしまう万兵衛。火葬場の煙突、禍々しい烏の群れ、突然わっと泣き出す親戚…一族の要を失った空虚な雰囲気が精密に表現されている。万兵衛最期の言葉「なんや。もうしまいか。もうしまいなんか」を、本人ではなく愛人の口から語らせるのも芸が細かい。

この作品には、人気絶頂時の森繁久彌も出演しているが、ゲスト扱いで実際の出番はほとんどない。期待していた鴈治郎との直接対決(?)が観られなかったのが残念であった。

(2003/10/30)

『ダーティハリー2』

先日。図書館で『ダーティハリー2』(1973年公開)を観た。主演は無論クリント・イーストウッド。

サンフランシスコ市警最強の問題児ハリー・キャラハンは警察を辞めていなかった。第1作の痛烈なラストシーン一体何だったのだろうか…。宿敵〈蠍〉を撃ち殺した後に、猛烈な勢いで警察手帳(?)を投げ捨てた筈ではなかったのか。閑職とは言え、ハリーは未だに市警に所属している。例の件はどうやら「なかった事」になっているらしい。この辺りは続篇特有の歪みとでも言うべきか。

独断でハイジャック犯と対決したり、上司と喧嘩したり、ヤクザを挑発したりと、不良刑事は相変わらずのやりたい放題。ただ、その凶暴度は、異常な執念を燃やして〈蠍〉を追いかけていた頃に比べるとやや薄まっているような気もする。今回はハリーの私生活も随所に描かれている。上層部にしてみれば煙たい存在でも、同僚や友人には、実に頼り甲斐のある男なのである。そして、アパートでは、東洋系の美人娼婦が彼の帰宅を待ってくれている。

そんなハリーの前に恐ろしい敵が立ちはだかる。犯罪界の大物連が片っ端から殺戮される事件が発生。ハリーはその犯人が警察内部に潜んでいる事を逸早く察知する。そして、ついに正体を現わす《処刑軍団》の首領!彼らは「我々の仲間になれ」と執拗に勧誘する。しかし、ハリーはその誘いを断固として拒否する。

「警官が死刑を行ったらどうなるか…。どんなに腐った法であろうと、俺はそれを守る」

数々の犯罪者を地獄の釜に突き落としてきたハリーとしては、意外な反応である。甘っちょろい回答のようにも聞こえるが、この信念こそが彼を殺人機械と化す一歩手前で止めているのかも知れない。

愛銃マグナム44を失った状態でハリーは決戦に挑む。致命的なハンデだが、所詮相手は実戦経験の乏しいエリート&若造である。臨機応変な方法で敵を次々撃退。百戦錬磨の貫禄を見せつけてくれる。終始緊迫感に満ちた前作には及ばないものの、そこそこ楽しめる作品には仕上がっている。ただ2時間3分という上映時間はアクション映画としては長過ぎるが。

(2003/10/28)

『フィオナが恋していた頃』

…という訳で『フィオナが恋していた頃』(1998年公開)を観た。

まず初老の高校教師が登場する。学校では歴史を教えているが、生意気な生徒どもに毎日茶化される有様である。妻は早くに亡くしており、子供もいない。題名にもあるフィオナとは彼の母親である。彼女は男の妹の家に暮らしているが、脳卒中の後遺症で、半ば廃人のような状態である。妹には息子がいるが、こいつもどうしようもない悪餓鬼で母親も手を焼いている。麻薬はいかんぞ。麻薬は。

男は父親の顔も経歴も知らない。アイルランドの小さな村の出身である事だけは判っている。長年抱えていた謎をここらで解いてみるか…。男は出来の悪い甥っ子を連れて、自身のルーツを探るに旅に出掛けるのだった。

鮮やかに映し出されるアイルランドの風景。緑を基調とした美しさの中に何処か冷たさを感じさせるのが良い。絵画的な映像をバックにして、若き日のフィオナと純朴な青年との悲恋が丹念に描かれている。

時は1930年代。まだまだ神の威光が通用した時代である。フィオナは裕福な家庭の一人娘であり、質素な生活が当り前の村の中では、やや浮いた感じの存在である。フィオナの母親は気位が異常に高く、村の連中を完全に見下している。かの青年(孤児)も例外ではない。この貧乏人も私の土地財産を狙っているに違いないわ。その為に娘を誘惑したんだわ。と、勝手に思い込んでいる。身分が違い過ぎる事を理由に、娘の恋愛を破綻させようとする母親。こいつはバカか?とも思うが、この時代の感覚からゆくと、彼女の行動は至極当然の事なのかも知れない。いや、現在もこの種の意識は根強いかな。単に口に出さないだけで…。

物語の中盤に突如出現する粋な飛行機野郎が面白い。彼の撮影した写真が重要な小道具として使用されている。出番は少ないが、何やら謎めいた雰囲気で、単調になりかけた物語を活性化させる機能を果たしている。劇中、随所にアイルランドの民俗音楽らしきものが登場するが、この辺の解説は陳五郎御大にお任せしよう。

原則的にアウトロー映画しか興味のない俺ですが、今回は御大のお陰で、落ち着いた良い作品に出遭う事が出来ました。ありがとうございました。感謝。

【出演】エイダン・クイン/ジェームズ・カーン/スティーブン・レイ/ジョン・キューザック他

(2003/10/26)

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