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映画の渡り鳥1

『可愛い悪女』

3月21日〜5月15日迄。杉並区〈ラピュタ阿佐ヶ谷〉で催されている特別企画「可愛くて凄い女たち・第4弾」の1本である。1971年公開の松竹映画。監督は一連の裕次郎映画で有名な井上梅次。范文雀(若え!)扮する主人公のマヤは写真週刊誌のトップカメラマン。その美貌と毒舌が大変な評判を呼び、上司・同僚・商売敵…会う男会う男にモテまくる。新たなスクープを求めて、今日も愛車ミニクーパをぶっ飛ばす痛快姉ちゃんだ。相手役の森次―モロボシダン―浩司も意外な(失礼)好演を見せていた。

映画の前半はマヤの悪魔的魅力についての描写に費やし、中盤からは本題のミステリー劇が展開する。社長婦人の不倫を原因とする殺人事件が発生。その犯人という濡れ衣から逃れるべく、マヤの推理と奮闘が始まる。

終盤は一寸もたついたものの、監督自ら手掛けた脚本もよく書けていた。派手な財布、エロテープ、ミニクーパの発車音、ボーリング…小道具の使い方が巧みで厭きさせない。これこそ映画だと思った。当時の流行や風俗などもたっぷりと盛り込まれており、上映時間(84分)が非常に短く感じた。ゴテゴテと訳のわからん心象場面を作っては喜んでいる最近の映画(しかも無駄に長い)も少しは見習って欲しいものである。映画は娯楽であり『可愛い悪女』はその原則に忠実な作品であった。

(2003/04/22)

『家族の肖像』

先日。以前に録画しておいた『家族の肖像』(1974年製作・1978年日本公開)を観た。世界に冠たる巨匠ヴィスコンティの作品である。俺のようなペテンのトロい人間には「一寸しんどいかな」とも思ったが、いつもいつも『昆虫大戦争』だの『吸血髑髏船』だのと、キ◆◆イじみた代物ばかり観ていては、本当に頭がおかしくなってしまう。たまには「まともな映画」でも観て、解毒しなくては。

鑑賞前、眠気覚ましにと大量の珈琲を用意しておいたが、思ったより軽い造りで睡魔の誘惑に屈する事もなかった。この映画はヴィスコンティが心臓麻痺で生死を彷徨い、その復帰後に初めて撮り上げた作品らしい。体調の影響なのか、ロケが面倒だったのか、予算が少なかったのか。理由は解からないが、最初から最後迄、カメラは主人公の〈教授〉の家から一歩も出ない。演劇的雰囲気にこだわった演出であり、個人的にはこういうタイプの映画は大好きである。

登場人物も最小限の人数に絞り込まれており、物語も至ってシンプルである。ある日。気儘な隠遁生活を送る〈教授〉の家に、異常に傲慢な伯爵夫人が「部屋を貸せ」押しかけて来る。ただそれだけだが、個性豊かな人物達の繰り広げる洒落た会話を駆使して、観る者を厭きさせない。監督の分身とも言える〈教授〉を演じるのは、かつてアクロバット俳優として鳴らしたバート・ランカスターである。ランカスターの演技は多分ヘタだが、その存在感は圧倒的だ。大根役者も優秀な監督の手腕にかかれば、名優に変身する好例であろう。

1年間の賃借契約を結んだ途端に、天井はブチ抜くわ、大浸水は起こすわ、乱交パーティーをやらかすわで、傍若無人の限りを尽くす伯爵夫人&その愛人。さしもの温厚な〈教授〉も何度かキレそうになる。しかし、その度に超らぶりーな伯爵夫人の娘が何処からともなく現れて、彼の憤激をおさめる。その時に漂う奇妙な面白さが印象的だった。世界的大家の映画としては小品の部類に入るのだと思うが、そこらの「大作」を凌駕する濃厚な味わいは流石。全篇を貫く雅趣に富んだ映像も素晴らしい。

(2003/03/31)

『吸血髑髏船』

ぎゃはははは。地下道へと続く階段を下ると、泥酔したオヤジどもの馬鹿笑いが耳に付く。そこは居酒屋数軒が並んでおり、その店先では中からはみ出した酔漢達がどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。その輪に入りたいという誘惑に一瞬襲われたが、今夜の目的は酒ではなく映画であった。尤も、キワモノ・ゲテモノの類だが。

俺は自動発券機で〈銀座シネパトス〉のレイトショー「特撮・スペクタクル大特集」のチケットを購入する。今日の出し物は、1968年の松竹映画『吸血髑髏船』であった。小学生の陳五郎様を震え上がらせた『吸血鬼ゴケミドロ』に続く「松竹・吸血シリーズ」第2弾にして最終作である。2本目で哀れ打ち切りとは、余程客が来なかったのであろう。観客は30人程度。平日にしては多い方か。劇場側にしてみれば物足りぬ人数だろうが。定刻になり、上映開始。本題の前に予告篇が流れる。何故か『大怪獣決闘・ガメラ対バルゴン』(1966年公開・大映東京)の宣伝映像が大音響で始まった。画面狭しと暴れ狂う超大亀と冷凍怪獣(水に触れると溶けちゃうという訳のわからん体質の持ち主)の雄姿に思わずエキサイト。大阪の街を焼き尽くすガメラか?大阪城を凍らせるバルゴンか?琵琶湖水中で展開する大決戦!世界に誇る大映特撮巨篇!!という非常にわかり易いコピーも最高だ。何やら『髑髏船』よりもこちらの方が観たくなってきたぜ。

てな、俺の思惑は当然無視されて『吸血髑髏船』の幕が開く。おどろおどろしい音楽と共に現れる出演者の顔触れ。松岡きっこ、岡田真澄、小池朝雄、金子信雄、西村晃…これって、結構豪華キャストやんけ。端整なモノクロ映像が美しい。主演の松岡きっこの異国風の容貌がスクリーンに映える。物語もミステリー仕立てで意外にシリアスである。金塊を満載した貨物船〈竜王丸〉で起きた大量虐殺事件。その惨劇から3年後、きっこは強盗団に殺された姉の復讐を誓う。彼女は5人のメンバーを悪魔のように探り出し、呪いを込めて一人一人ブチ殺してゆく。彼女の常軌を逸した行動とその動機が、姉の霊魂によるものなのか、それとも単なる妄想なのか、最後まではっきりしないのが面白い。

全体的に特撮映画!という感じはしない作品である。しかし、西村博士が開発してしまった「なんでも溶かす液体」によって〈竜王丸〉がドロドロと腐り果て、ついには海中に没するラストシーンはかなり気合が入っていた。前作『吸血鬼ゴケミドロ』に比べると、スケールも恐怖度も格段に落ちるが、それなりに見応えはあった。この映画で最も怖いのは、タイトルに「吸血」と銘打ちながら、それを完全無視した脚本かも知れない。

(2003/03/23)

『昆虫大戦争』

その晩。俺は〈銀座シネパレス〉に向かった。かの劇場では、今月1日から4月4日迄「特撮・スペクタクル大特集」と銘打ち、東宝以外の会社が製作した特撮映画を集中的に上演している。今夜はその第2弾、1968年公開の松竹映画『昆虫大戦争』の出番だった。俺は〈銀座シネパレス〉を訪ねるのは今回が初めてである。劇場名の記された看板に接近してみると「入口→」とある。矢印に従って、地下へと続くコンクリートの階段を下ると、呑み屋がズラリと軒を連ねており(1軒、極めていかがわしい店が混じっていた)こんな所に映画館があるのか?といぶかしんでいたら、入場券の自動販売機が壁面に現れた。その対面に老朽化の進んだミニシアターの扉が見える。

客の入りは30名程度。定刻になり、カラカラと映写機が作動し始めた。日活最初で最後の怪獣映画『大巨獣ガッパ』の予告編(アメリカバージョン)を散々観せられた後『昆虫大戦争』の毒々しいタイトルがスクリーンに踊る。フィルムの損傷が激しいのか、画質はかなり悪い。映画の舞台は日本近海の孤島。主人公は川津祐介扮する秋山ジョージという冗談のような名前の男かと思ったが、実は彼の知人たる昆虫学者(園井啓介)が真の主役であった。タイトルからすると、凶暴化した昆虫軍団と人類の死闘が展開しそうである。だが実際は蜜蜂がブンブン飛び回っているだけ。どうやら世界中で毒虫の大群が猛威を振るい「大変な事」になっているらしいのだが、その映像は一切登場せず、ラジオ放送でお茶を濁す。脚本は荒いし、出てくる役者の自棄気味の演技が時折場内の失笑を誘う。終盤、例の昆虫学者を乗せた米軍機が蜜蜂の襲撃を受けて空中分解。その拍子に搭載していた水爆が島に落下して大爆発!ちゅどーん。ジョージの妻を除く全ての登場人物が死に絶えた所で、画面には「終」という赤い文字が。わははははは。この唐突過ぎるラストに観客は大爆笑である。俺の近くにいた映画マニアらしいオヤジ2人などは腹を抱えて笑い転げていた。資料によると『昆虫大戦争』は女性路線が不調だった松竹が「苦し紛れに作った特撮映画」とある。確かにそんな感じだよな。

(2003/03/08)

『呪怨』より怖い映画

◆同年上映だったと思うが、『吸血鬼ゴケミドロ』は小学生の私には恐かったゾ。

わはははは。出たっ。流石は我らが陳五郎様。松竹特撮映画の傑作であり、和製オカルト映画の屈指の名作の名前が出ましたね。この映画は、ハインラインの侵略SF『人形つかい』を題材にした無数の作品群の中でも最高の部類に属しております。犠牲者の額がパックリと割れて、そこにナメクジ型エイリアンが侵入する場面の気持ち悪さ。そして、人類滅亡を予感させる冷血のラストは悪夢的な迫力があります。因みに『吸血鬼ゴケミドロ』は今回の特集に選抜されています。上演期間は3月15日〜18日迄。さあ。地獄巡りを体験したい人は〈銀座シネパレス〉に走れ!

(2003/03/08)

『レッド・ドラゴン』

リメイクではありませんが…人食いレクター第3作『レッド・ドラゴン』は面白かったです。

冒頭から緊張感が途切れない面白い映画でした。獄中のレクターは何だか「楽しそう」で良いです。

(2003/02/23)

天才殺人鬼

◆『レッド・ドラゴン』ぼくも観ました。

そうですか。海老様も御覧になりましたか。前作の『ハンニバル』は、我らが〈人喰いレクター〉が己の超人的能力を持て余し気味で、物足りなさを感じました。やはり彼の魔力は娑婆ではなく、牢獄の中でこそ光を放ちます。自分を逮捕した元FBI捜査官の家族を、もう1人の殺人鬼〈レッド・ドラゴン〉を誘導して殺戮しようとする辺りは流石天才。彼が獄中にて高級料理を賞味する場面には爆笑しました。第1作『羊たちの沈黙』でもそうでしたが、単なる民間人に過ぎないレクターの存在や言動の為に、天下のFBIやら上院議員やらが右往左往するサマが実に面白く、痛快です。でも「レクターシリーズ」はここらで終っておいた方が無難だと思います。さしものアンソニー・ホプキンスもしんどそうだし。

(2003/02/24)

『ハンニバル』

◆前作の『ハンニバル』は、観てゐないんです。

◆最後のところで、女性FBI捜査官の面会だ、とあるので、ここで第一作『羊たちの沈黙』へとつながるのでせう。

そうですか。海老様は『ハンニバル』は御覧になっていないのですね。ある意味幸運かも…。監督がリドリー・スコットなので結構期待していたのですが、最後の最後まで、盛り上がりそうで盛り上がらない失敗作でした。前作で見事脱獄に成功し、悠々自適の生活を送るレクター。そんな彼に追跡者(不良刑事)や復讐者(謎の大富豪)が忍び寄ります。ダークサイドに属する者同士の血みどろの死闘!が展開するのかと思いきや、ゴテゴテした生煮え活劇が延々と続きゲッソリしました。クラリス役の女優(名前すら忘却)は華も演技力もなく、アンソニー・ホプキンスもやり難かったと思います。ジョディー・フォスターも訳のわからない意地を張らずに出れば良いのになあ。因みに劇中〈世界十大犯罪者〉のリストが登場するのですが、レクターの横で、殺戮集団の首領たるビンラディンが映っているそうです。かの自爆テロはこの映画の公開年の9月でした。

海老様なら御存知でしょうが、原作小説は(1)『レッド・ドラゴン』(2)『羊たちの沈黙』(3)『ハンニバル』という順番で刊行されました。実は『レッド・ドラゴン』はジョナサン・デミが『羊たちの沈黙』を手掛ける数年前に、別のスタッフ&キャストで映画化されています。故にデミは第2作を題材に選んだ模様です。今回の『レッド・ドラゴン』はかなり好評のようですが、この勢いに乗って旧作もDVD化するかも知れません。良質とは言い難い出来だそうですが、一寸観てみたい気もします。

(2003/02/25)

『エルミタージュ幻想』

先日。渋谷の〈ユーロスペース〉で話題のロシア映画『エルミタージュ幻想』を観ました。

俺は眠気を堪えるのに必死でしたが「映画史上に残る傑作」と大評判です。尾崎君。如何かな?

◆名作『8・1/2』で爆睡した人間ですから(笑)。

◆申し訳ないですが、今回は辞退させて下さい。

わははは。勿論、強制するつもりはありません。俺はフェリーニの作品とは相性が良いらしく、この前観た『アマルコルド』も実に面白かったですね。それに比べると『エルミタージュ幻想』は、ロシア300年の歴史が華麗に綴られているらしいのですが…何の予備知識もない俺には何が何やらさっぱりわかりませんでした。全編90分ワンカットという壮大な実験も余り成功していないような気がしました。そんな俺もラスト1分だけは「綺麗だな」と思いましたが。あの「1分」を味わう為の映画だったのかな。ただ、20年も経てば、この作品は『2001年宇宙の旅』のような別格映画として、神棚に祀られているかも知れません。その頃「俺は『エルミタージュ幻想』を劇場で観たんや」などと、映画好きの若造どもに威張り散らし、顰蹙を買っている事でしょう。

(2003/02/23)

『資金源強奪』

先週。以前から観たかった深作欣二の『資金源強奪』(1975年公開)を、ようやく深夜放送で捕まえた。主要人物はヤクザかそれを上回る悪党だが、実録路線とはまた違う味わいの娯楽活劇である。ある暴力団の若き組員・武司(北大路欣也)は先輩格に「男になれや」と拳銃を手渡され、対立組織の首領抹殺を命じられる。その任務を見事果たした武司は当然ムショ送り。8年の刑期を終えれば、めでたく幹部に仲間入りの約束であった。しかし、彼が臭い飯を食っている間に、両組織は和解、同盟締結と相成った。こうなると武司は邪魔者の何者でもなく、例の兄貴分に「お前の居場所みたい何処にもあらへんぞ」と、突き放される始末。組の冷遇にブチ切れた武司は、組織への反抗計画を企てる。彼は川谷拓三&室田日出男というピラニアコンビを仲間に引き込み、組主催の賭博会場を奇襲。まんまと数億円の現金を奪い去る。当然、組側も犯人追跡に着手。そのリーダーに選ばれたのは「警官が鉄砲撃ったらあかんのは日本だけや」とほざく不良刑事(梅宮辰夫)であった。かくして、欲の皮に突っ張った連中の血みどろの攻防戦が開始される。北大路、川谷、室田、梅宮、が、仲間もしくは依頼者を、裏切ろうが殺そうが、何の罪悪感も感じない野獣のような男どもを怪演。特別出演の松方弘樹のデタラメな芝居も笑える。かなり凄惨な内容だが、作品の雰囲気は妙に明るい。92分というコンパクトな時間に様々なアイディアが詰め込まれた贅沢な造り。ラストの観客の意表を衝く仕掛けも鮮やかで、深作の喜劇的演出が奏功した痛快作である。俺が生まれた頃の滋賀県(大津市)が舞台というのも、個人的には点数が高い。

(2003/02/13)

『呪怨』

◆うーん、「繋ぎの話」ですか。見に行くの止めようかな。

◆『呪怨』という映画は、宮村さんの御眼鏡に適いましたか。

第2作と第3作の製作を同時に発表したという事はその可能性は高いと思います。でも「繋ぎ」だから下らないと即断するのも短絡的ですし、現時点では劇場で観ようかなと考えています。映画を観るという行為にも一種の「賭け」のような所があります。前評判も高く、自分でも期待していた映画に裏切られる場合もあれば、その逆もあります。俺の頼りない経験からゆくと、面白い映画というのは「初めから面白い」というパターンが多いですね。やや傲慢な言い方ですが、最初の20分ぐらいでアタリかハズレかは大体わかります。導入部がダラダラしている映画はまず駄目です。例外も存在するとは思いますが、そう多くはないでしょう。アタリを引いた場合は有意義な時間を過ごせますし、ハズレの時は「何故この映画はつまんねえのかな」とその原因や理由を考えながら観ています。

俺が『呪怨』を観に行こうと思ったキッカケは、予告編の出来が良かったからです。お恥かしい話ですが、俺は『リング』も『らせん』も観ておらず、最近の和製ホラーについては余り詳しくありません。かの作品は大変な人気で〈新宿テアトル〉の前には熱心なファンが行列を作り、立ち見もでるという盛況振りでした。さて『呪怨』の感想ですが結構面白く観ました。著名な役者を使っていないのが、画面のナマナマしさに貢献しており、中々やるなと思いました。単に製作費が少ないだけなのかも知れませんが…。物語的には「幽霊屋敷に訪れた者を襲う恐怖」の変形パターンで目新しさはありません。ただ、狙った標的は自宅だろうが、職場だろうが、その者を殺すまでは何処までも追跡する悪霊達の執念深さは強烈でした。夏公開の続編では、今回ほとんど語られる事のなかった「悪霊の正体」が暴かれる展開になるのでしょう。でもこのネタだけで面白い続編を作るのは一寸しんどいのでは?と思います。

(2003/02/09)

トシオ

かの悪霊一味の筆頭として活躍(?)するのが〈トシオ〉という餓鬼の幽霊。口からゲロを吐くでもなく、眼から殺戮光線を放つでもなく、ただ「見てるだけ」なのだが、とにかくしつこい。標的を定めると何処までも追跡してくる。ある被害者が、そろそろ寝ようかなと思い、床に入ると、トシオ君は布団の中でしっかり待ち構えている。もう1人の被害者が飯を食いにゆくと、トシオ君はテーブルの下にじーっと蹲っている。因みにこの場面は、客席から悲鳴が上がりました。こんな壮絶に嫌な奴に追いかけ回されたら、数日で発狂するか狂い死にするのも無理はない。おぞましい事にトシオに呪い殺された奴は、そいつも悪霊と化すらしい。こんな連中がどんどん増殖して行ったら…終いには日本は(人類は?)滅亡してしまうのではないだろうか。そんな想像を転がしながら、俺は『呪怨』を観た。トシオ、恐るべし。

(2003/02/11)

『マトリックス』

1999年製作のアメリカ映画。仮想世界を題材としたSF活劇である。監督と脚本を務めるアンディー&ラリー・ウオッシャウスキー兄弟は日本製アニメおたくと聞いている。この作品でも『攻殻機動隊』を始めとして、一連の押井守作品の影響が随所に見られる。他にも、冒頭の追撃シーンにはヒッチコック映画の明らかな引用もあった。実にパロディ精神旺盛な兄弟監督である。仮想現実は国内外のSFでも頻繁に使われているアイディアである。このジャンルは映画よりも小説の方が、読者の想像を刺激して面白いような気もする。それを敢えて映像化するのだから、作り手も相当気合を入れて取り組む必要がある。率直な感想を述べると…中盤はややモタつくが、テンポも悪くないし、アクションシーンもかなり迫力があるしとても面白かった。敵方のヘリを奪って、高層ビルに奇襲を仕掛ける戦闘場面。よくあるパターンではあるが、これが「仮想空間の出来事である」という情報が観客に与えられている分、通常の映画にはない厚みが形成されている。一寸残念だったのは主演のキアヌ・リーブスのハナのなさ。先日正式発表があった『マトリックス』の続編にも出演するそうだが、そろそろ彼なりの個性を発揮しないとマズそうだ。むしろ脇役のローレンス・フィッシュバーン(って詳しく知らないのだが)が良い味を出していた。無表情のヒロイン(何処かで見たような…)を演じたキャリー=アン・モスも及第点。彼らの宿敵となる3人のエージェント達。一筋縄では倒せない手強さとしぶとさを誇るが、少し個性不足。近頃の映画は悪役の造型に手を抜くという良くない傾向がある。この辺りが惜しい。アラ探しのついでに言わせて貰うと、映像的な弱さが目立つ。例えば『攻殻機動隊』に登場した「光学迷彩」のような斬新なアイディア。この映画も独自の未来世界をどどーんと打ち出せば、文句なしのSF映画の名作になったのだが。ついに決定打を放つ事なく終了してしまった。CG技術は日々発達しているが、それと同時に製作者のイマジネーションも向上しないと、映画の将来は暗いと思う。彼らが傾倒する押井守が発表した実写作品『アヴァロン』(2001年公開)と観比べてみるのも面白い。

(2003/02/03)

パート2に傑作なし

『マトリックス』は「知ること」と「信じること」の矛盾、というテーマをもった物語…という尾崎君の指摘はこの映画の世界観を端的に表している。流石だ。俺などより遥かに精密緻密に映画を観ておられると思う。物語の中盤、主人公はレジスタンスの首領に「無の空間」へと誘われる。初めは全くの「無」の状態だったが、そこに年代物のテレビやソファが忽然と出現する。そして主人公(観客)は自分が置かれている状況や敵の存在についてのレクチャーを受ける。この辺りにグダグダ時間を費やさず、観る者が退屈する前に活劇への準備に入ったのは賢明な処置であった。アンディー&ラリー・ウォシャウスキー兄弟が心酔する押井守作品の場合、世界観の「説明」は極めて長い。ヘタをすると終幕間近までそれが延々と続く。巷ではそれこそが、押井作品の強烈な個性と絶賛されているし、俺も異存はない。ただ、いつ果てるとも知れぬ異常に理屈っぽい会話や独り言は、ペテンのトロい連中(例・俺)にとってかなりの苦痛であり、終いには訳がわからなくなってくる。その点『マトリックス』は娯楽性を優先しているので俺としては有り難かった。

さて、この映画最大の見せ場たる「仮想空間における戦闘」である。キアヌ・リーブスは『マトリックス』の続編について「今度はカタナアクションで頑張ります」などと小学生みたいな事を言っていた。まあ。それも良いのだが、せっかく仮想空間という魅力的な舞台があるのだから、観客のド肝を抜く奇想天外なアクションを繰り広げて欲しいものである。第1作程度では、まだまだ生温い。何処まで破天荒な映像を作り上げる事が出来るかどうか、それが新作の勝負所と言えそうである。資料によると、かの兄弟監督は「本当は『攻殻機動隊』の実写版が撮りたかった」と、公言しているそうな。高坂様も御指摘の主人公ネオの影の薄さは、これが原因のようだ。キアヌ・リーブス自身の頼りなさばかりが問題ではない。要するに彼らは「押井映画」が作りたかったのだ。かの映画で主人公を差し置いて活躍する2人…冷静沈着な司令官モーフィアスと寡黙な女闘士トリニティー。どちらも「押井的なキャラクター」である。作り手は、彼らの造型に心血は注いだが、主人公の描写は忘れて(?)しまったようである。押井映画の中には主人公がほとんど機能しない作品もあるけれど、まさかそれに習ったわけでもあるまい。新作では押井映画を凌駕するくらいの気迫で臨んで貰いたい。時は21世紀。最早ヴァーチャル・リアリティという言葉には決して新鮮味は感じられない。そして映画には「パート2に傑作なし」なる厳しいジンクスもある。ネオの前に立ちはだかるエージェント軍団も手強いが、こちらの「敵」も相当厄介である。

(2003/02/04)

悪役の作り方

●僕はこの作品において二つ残念に思うことがあります。

●最大の敵役であるエージェント・スミスの個性や位置付けがはっきりしない点

●続編の公開は、僕の『マトリックス』解釈を覆す結果に終わるでしょう。それは、いろんな意味で残念なことです。

面白い悪役の存在は活劇を大いに盛り上げてくれる。主役に匹敵する戦闘能力と哲学を有している敵役は観ていて気持ちが良い。しかし敢えて悪役の描写を省くという手段もある。ダサい野望だか計画だかを得意気に謳い上げる奴よりも、一言も喋らない奴の方が無気味で強烈な印象を与えてくれる事も少なくない。その点『マトリックス』のエージェント達は中途半端な感じである。例えばスピルバーグの出世作に登場する暴走トラックのように、ヘタな「正体」を晒すくらいなら、いっそ「不明」のまま滅ぼされる潔さ(?)が最近の悪役どもには欠落していると思う。饒舌なのは良いが、聞き応えのある美学をお願いしたい。俺も『羊たちの沈黙』の続編に失望したクチなので、尾崎君が『マトリックス』のそれを拒絶する心境は多少解かるつもりである。ただ、かの続編は案外「バケる」のではないかと、密かに期待している。

(2003/02/05)

頼りない予想

●『銃夢』という漫画に登場する悪役・ノヴァ教授の「カルマ論」なんかいいですよ。

●宮村さんにそういわれると、なんだかそんなような気がしてきました。

最近マンガ読んでねえな。尾崎君御推薦の作品は『銃夢』ですか。覚えておきます。さて…この世の中で俺の予想ほどアテにならないものはありませんが、俺が思うに『マトリックス』という映画は魅力的な部分も多いけど、キズも少なくない作品です。つまり、修正や改良を加える余地があるという事です。偉大なる第1作を超える続編となると、これを作り上げるのは至難。幸か不幸か『マトリックス』はこの条件を満たしておりません。前作の不満や疑問点を一挙に吹き飛ばすような痛快なるパート2が観たいものです。それにはやはり脚本の完成度を何処まで高めるか。よく吟味したシナリオが成功の鍵だと思います。

(2003/02/07)

期待と不安

◆『マトリックス』には、続編への含みと、単体作品としての完成度との軋轢を感じます。

◆「二兎」を追わざるを得なかったことが『マトリックス』に「中途半端さ」を与えているように思います。

そういうのが一番危険ですね。俺は観てないけど、まずまずの人気を博している『指輪物語』辺りは、原作の長さ故に「三部作」という形を取らざるを得なかったのだと思います。日本映画では内田吐夢の『宮本武蔵・五部作』等がそうですね。必然的な理由があるならともかく、基本的に映画は凝縮の芸術です。ある面白い題材の肝を抽出して2時間から3時間の時間で語り尽くすというのが王道。ところが、これに金儲けが絡んでくると話はややこしくなります。売り出す側としては、作品の質云々よりも、興行的にアタるかコケるかが最大の関心事。俺はこれに賛同もしませんが、否定もしません。映画を作るという行為は、新しい会社を設立するようなものです。もし映画(商品)が売れなかったら、社員とその家族は路頭に迷うしかないのですから。ただ、最近はDVD等の家庭用映像機器が普及しているので、本当に面白い映画さえ作っておけば、劇場公開時の成績が悪くても、後で挽回出来る可能性は充分あります。とにかく作り手には質の高いものを目指して欲しいですね。

◆気になるのは、二作目と三作目の公開との間が半年くらいしかない、ということですね。

◆三作通してみて初めて物語としての一貫性がわかる、といったような危惧を持っています。

第2作と最終作は「同じ映画」として観るべきでしょうね。パート2はパート3に客を呼ぶ事を前提とした「繋ぎの話」になるのはまず間違いないと思います。最終作を観た観客が「金返せ」と喚き出すような事態だけは絶対に避けて貰いたいものです。それは第1作の評価をも落とす最悪の結果を招きます。一寸脱線しますが、先週〈テアトル新宿〉で話題のホラー映画『呪怨』を観ました。映画が始まる直前、スクリーンに「『呪怨2』製作決定!!」という文字が躍り、次の刹那、客席に苦笑と失笑が起きたのが妙に印象的でした。

(2003/02/08)

『七つの顔の女』

先日。久々に杉並区の〈ラピュタ阿佐ヶ谷〉を訪ねた。現在、特別企画「可愛くて凄い女たち・第3弾」が開催中。若尾文子、岩下志麻、京マチ子、加賀まり子、岸田今日子等の初期出演作品(奇作・珍作揃い)を一挙に上映してしまおうという試みである。俺が観たのは、岩下志麻主演の『七つの顔の女』(1969年公開)だった。監督は職人肌の前田陽一。舞台は横浜。志麻は4人の男どもを操る盗賊団の首領を演じている。配下の顔触れは…緒形拳(参謀)西村晃(偽札造り)有島一郎(金庫破り)左とん平(雑用係)と、今にして思えば結構豪華な布陣である。志麻はある大企業に潜入して、貯まりに貯まった裏金をそのまま頂戴しようと暗躍。計画遂行の為、芸者やら看護婦やら婦人警官やらに次々と変装する。しかし何をしようが志麻は志麻。劇中人物に「お前ら。いい加減に気づけよ!」とツッコミたくなるが、それは野暮というものであろう。脚本のアラを探すより、思い切りデフォルメされたキャラクターとそれを演じる出演者の喜劇演技を堪能すべき種類の映画だと思う。33年前の志麻は流石にセクシー。アジトのみで見せるロングヘアとケバケバしいファッションがよく調和していた。但し、彼女の演技は全体的にぎこちなく、この荒唐無稽な役柄を持て余し気味の様子であった。その分、緒形と西村が馬鹿馬鹿しい役を照る事なく軽妙に演じており、大いに楽しませてくれる。役者と名乗るからにはこうでなくてはならない。緒形は健在だが、西村が他界してから随分時が経つ。彼のような優秀な脇役俳優がいるからこそ、映画は成立するのである。岸田森同様、我が国は惜しい人を亡くした。この作品は生粋の娯楽映画だが、劇中、先の大戦の傷跡が随所に刻み込まれているのが興味深い。戦争の記憶が何かの弾みで表出する…そんな時代の怪盗映画である。

(2003/01/30)

『センチメンタルアドベンチャー』

昨夜。クリント・イーストウッド監督・主演の『センチメンタルアドベンチャー』を観た。1983年日本公開の映画である。イーストウッドと言えば、拳銃かライフル片手に悪漢どもをばんばん撃ち殺す勇姿を連想するが、この映画ではピストルからギターに得物を換えて、売れないミュージシャン(但し腕は抜群)に扮している。物語は至ってシンプル。ある人気音楽番組のオーディションを受ける為、イーストウッド(当然アル中)は遥かナッシュビルを目指す。親戚衆は彼の合格を期待するが、飲酒運転の常習者たるイーストウッドが無事に目的地に着けるかどうか心配である。そこでお目付け役として、彼の甥っ子を随行させる事にする。一応、この物語の主人公はイーストウッドだが、劇中、この少年が果たす役割は大きい。彼は一寸頼りない叔父さんを援護すべく、様々な場面で孤軍奮闘を展開する。呑んだくれの叔父さんの世話をする内に、少年は魅惑的な音楽の世界を垣間見、自分もミュージシャンを志すようになる。秀逸なロードムービーでもあり、少年の成長物語でもある。イーストウッドの作品は映像的にはやや物足りないものの、遣る瀬無い独特の雰囲気が味わえる。やはり彼は監督としても非凡である。甥っ子役を務めた少年俳優が好演。資料に拠れば、彼はイーストウッドの実の息子らしい。カツシンの『座頭市』(1989年版)を筆頭に、親父の映画に子供が出演するとロクな事がないが、この作品は珍しく成功を収めている。何事にも例外はある。最初から最後まで、面白く観たが、もし俺がかの陳五郎氏と知己を得ていなかったとしたら…受けた感想は少し違っていたかも知れない。鑑賞中、主人公の心情に共感したり納得したりする部分がかなり多かった。これは、陳五郎氏のライブを見たり、話を聞いたり、文章を読んだりした影響や恩恵があるのは明白である。映画には作り手の人生が反映されるのは当然だが、観客も自分の人生(例えどんなにつまらなくても)と重ね合わせて映画を観るものである。

(2003/01/14)

全身アウトロー

クリント・イーストウッドはユニバーサルの新人として役者生活をスタートさせました。ところがロクな仕事がなく、TV番組に出演して食い繋ぎました。1959年〜66年まで放送された『ローハイド』のレギュラーにて、お茶の間の(アメリカにあるのかな)人気を獲得。でも映画の話は来ない。そんなイーストウッドは、B級映画とパクリ映画の巣窟たるイタリアに渡ります。64年、黒澤明の『用心棒』の無断リメイク『荒野の用心棒』に主演。映画はバカ当たりしましたが、黒澤プロに盗作の件で訴えられるわ、本国では「イカサマ野郎」と陰口を叩かれるわと、散々な目に。数年後、呪われた凱旋を果たしたイーストウッドは『奴らを高く吊るせ!』『マンハッタン無宿』『荒鷲の要塞』(3作品とも68年公開)そして『ダーティハリー』(71年〜)シリーズと、ヒット作を連発するものの、評論化筋には「所詮は活劇出身の二流俳優」とつい最近まで冷遇されていました。彼が真のスターと「認知」されたのは、アカデミー賞を見事射止めた『許されざる者』(92年)辺りからと言えるでしょう。既に20本近い監督作品を発表しているイーストウッドですが、撮影に必要な技術や人脈は全て現場で得た模様です。頭(屁理屈?)ではなく、体を張って作る映画。彼はスクリーンの中でも「自分」を演じ続けているのかも知れません。

さて、尾崎君御指摘の「年寄り臭いヘアメイク」ですが…多分、周囲がなんと言おうが、あのスタイルが「最高に格好良い!」と心底思い込んでるんじゃないのかな?それぐらい自我が強くないと、映画監督や俳優などという稼業はとても務まりません。まして、彼はその両方をこなしているのですから。強烈な自己顕示欲と清濁を飲み込む屈強な精神力。それが、クリント・イーストウッドという俳優だと俺は思います。

(2003/01/15)

『県警対組織暴力』

先日。深夜放送で深作欣二監督の『県警対組織暴力』を観た。1975年の映画である。スタッフ・キャスト共に『仁義なき戦い』とほぼ同一の顔触れである。時代設定は昭和30年代後半。主演は勿論、菅原文太。役柄は対暴力団専門の巡査部長なのだが、どう見てもヤクザにしか見えない。行動自身もヤクザそのもの。お気に入りの暴力団組長代理(松方弘樹)が経営する店で、連日連夜の乱痴気騒ぎをやらかす始末だ。その事を批判されても「極道を取り締まるには己が極道になるしかないんじゃあ」と逆ギレする有様である。文太の蛮行の情報が漏れて、ついに県警本部がテコ入れに動き出した。文太とその仲間たちは、県警幹部(鈴木瑞穂)に「お前らアホか」と散々に怒鳴られるが「ワシらにはワシらのやり方があるんじゃあ」と居直り、反省する気など欠片もない。そして、文太は本部から派遣されたインテリ警部補(演じるは梅宮辰夫、全くそう見えないのが可笑しい)と激しく対立する。ある事件の大詰めで、松方配下のチンピラを敢えて見逃す文太だが、結局は梅宮の手によって捕縛されてしまう。それを聞いた文太は激怒。梅宮のカレー(夜食)を吹き飛ばし「手前は情けいうもんを知らんのか。手前も闇市の飯で大きゅうなったんやろが。その罪を償ってから法の番人を気取らんかい」と無茶苦茶な台詞を喚く。これを受けて、梅宮は「それが君の論理かね。ははは」と相手にしようともしないのであった。映画後半、暴走した松方軍団がラブホテルに篭城。その説得にホサれていた文太が駆り出されるが…。深作映画は多少安っぽい所があるが、テンポ快調で強烈な暴力描写と毒気たっぷりのユーモアが楽しめる。金子信雄や成田三樹雄等の常連脇役のワンパターン演技もマンネリを超越した面白さがある。この作品も全篇に凶暴なエネルギーが横溢している。アクの強い映画を御所望の方は、是非お試し下さい。

付記…昨年、癌の告白をした深作欣二が再入院。病状が心配である。

(2003/01/08)

深作映画雑感

俺が最初に観た深作映画は…多分1983年公開の『里見八犬伝』であろう。一般的評価は低いが、TVの前の俺(小学生)は、怒涛の展開に結構ドキドキさせられた。薬師丸ひろ子と真田広之が仲間を率いて、魑魅魍魎のアジトに殴り込む。城内に仕掛けられたトラップの数々に盟友達は次々と玉砕する。彼らの屍を越えて、伏魔殿へと突き進む薬師丸と真田の凛々しさ。2人とも若く、眩しかったものである。尤もその時点の俺は、監督も出演者の名前も知らなかったが。深作欣二と言えば『仁義なき戦い』シリーズを筆頭とした実録ヤクザ映画が余りにも有名だ。己の本能や野望を満たすべく、野獣のように生き続ける者達。彼らの繰り広げる血みどろの死闘を描く時、深作の本領が発動する。深作は非常に守備範囲の広い監督でもあった。実録路線に飽きた(?)後は、SFやら時代劇やら文芸映画やらにも手を染め、何度も失敗を繰り返しながらも、懲りずに新作に着手する。その恐るべき生命力は劇中の登場人物をも凌駕していた。遺作となった『バトルロワイアル』が、俺が唯一劇場で観た深作映画である。各所に「老い」を感じさせる台詞や芝居があったもの、無人島を舞台に中学生同士が殺し合う阿修羅地獄的物語を巧く纏め上げており、深作健在をアピールしたものである。この映画は賛否両論を巻き起こし、興行的にも大成功を収めた。余談になるが、この映画の上映中止を叫んでいた某代議士が刺し殺されたのは衝撃的であった。深作は昨年終盤から『バトルロワイアル2』の撮影に入る。その製作発表の会場で、癌に侵されていた事を告白。マスコミを賑わせた。そして、2003年年頭。病状悪化の為、撮影現場から退陣。ついに還らぬ人となってしまった。深作が自分の人生をどう評価しているか不明だが、生前50本以上の作品を手掛けており、日本の映画監督としては幸福だった方ではなかろうか。今夜は深作最後の実録映画『北陸代理戦争』でも眺めながら、彼の冥福を祈りたいと思う。因みに『バトルロワイアル2』は深作の息子が監督を引き継ぐそうである。

(2003/01/12)

『フェリーニのローマ』

先々月。深夜放送(NHK−BS)で『フェリーニのローマ』を観た。人工美の天才と呼ばれたイタリアの巨匠フェリーニ。1972年の作品である。恥ずかしながら、彼の映画をまともに鑑賞するのはこれが初めてである。ローマという国際都市を舞台に、時空を超えたエピソードが積み上げられてゆく。物語性はほとんど存在せず、一歩間違えれば催眠映画だが、これが妙に面白い。売れない大道芸人の公演や訳のわからないオブジェの数々。日常会話の断片を拾い集めたような登場人物のやり取り。これが噂の「フェリーニスタイル」と言うものなのか。劇中、フェリーニ直轄の撮影部隊も顔を見せて、映画は虚構と現実が融合する多重構造の様相を呈してくる。かの撮影スタッフが巨大トレーラーにカメラを持ち込み、豪雨が降り注ぐ高速道路を、猛スピードで突き進むシーンが圧巻であった。映画ならではの不思議で魅惑的な世界が現出する。チャチなTVの画面じゃ勿体ない秀逸な映像。映画はやはり劇場の大スクリーンで楽しむべきものだと改めて思った。2003年は、彼の諸作品を追いかけてみようかなと考えている。

お薦めのフェリーニ作品がおありの方は、是非教えて下さい。

(2002/12/23)

『GO』

人間という生物は基本的に弱い者苛めが好きらしい。俺はあらゆる面で他人より秀でた部分がなく、言わば劣等感の塊である。自分の弱点を必死に隠蔽しようとしても限度があり、他人にその辺を痛撃されるとそのダメージは半永久的に残る。損傷を受けた人間は、2度とそんな目に遭いたくないので、懸命に自己防衛に走る。内心ビクビクしながら他人と接する日々。もうこれ以上傷つけられたくない…その為に神経を擦り減らすというのも結構辛いものである。などと言いながら、俺自身も時として、他人を見下したり、罵倒したりして、他人の心を土足で踏み躙っている。彼らから見れば、俺もまた無神経極まる腐れ外道という訳だ。人間というのは余り奇麗な生物ではないなとつくづく思う。この世には様々な種類の差別が無数に転がっており、恐らく人類が死滅するまでそれが消える事はないだろう。

窪塚洋介演じる主人公・杉原は「差別を受ける側の人間」である。差別がテーマの映画と言えば、学校の道徳の時間か何かで観せられる必要以上にジメジメした作品を連想させる。対して、この映画のユニークなのは、主人公にせよ、その家族にせよ、差別の根絶など夢物語と割り切っている所である。いや、そんな意識すらないのかも知れない。では、どう生きるのか?杉原の父親(山崎努)は息子を闘士として徹底的に鍛え上げる。攻撃者からひたすら逃げ回るような軟弱さは杉原には存在しない。ある一線を越えた奴は許さねえ。問答無用でブチのめす!映画冒頭、体育館で大立ち回りを繰り広げる杉原。まさに孤高なる獅子の迫力である。俺は思想的な事や高尚な事はよく判らないので(威張れた話じゃないが)この映画は現代を舞台にした活劇映画として楽しんだ。杉原親子の関係は、まるで剣豪一家のそれである。息子はこの手強い親父をいつか打倒してやろうと考えている。クライマックスの真剣勝負も見応え充分。老獪なる親父は奇策を用いて、若武者の出鼻を挫き、怯んだ息子に老巧のパンチを叩き込んで圧勝を収めるのである。世の中、場合によっては狡猾さも必要だと、父は息子に教えているのだろうか。それとも、相手が実子であれ誰であれ、一旦リングに上がれば、何がなんでも叩き潰すという武闘家のサガであろうか。鉄拳を交えて語り合う親子。殺伐としているようで案外ユーモラスである。

杉原の風変わりな恋人を演じていたのは『バトルロワイアル』で凄絶な笑みを浮かべながら、鎌を振り回していた柴咲コウである。映画後半、主人公が文字通り裸になって、自分の出生を告白した時、彼女の表情は凍りつき、激しい拒絶反応を見せる。さしもの無思想無神経の俺にとっても強烈な印象を受けた。行定勲監督の演出手腕と柴咲の意外な(失礼)好演が噛み合い、リアリティのある名場面に仕上がっている。1度は別れたものの、再び結ばれる2人。この後、彼らの前には様々な障壁が立ち塞がるであろう。そこらの不良連中をボコボコに張り倒すような訳にはゆかないが、このカップルならそれらと堂々と対決し、乗り越えてしまうのではないか、そんな期待を観客に抱かせてくれる。昨年観た新作日本映画の中では、傑出した作品である事は間違いない。ただ、映像的魅力が弱い映画は2時間以内にまとめてくれるとありがたい。大画面を自分のものにしている映画監督が、和洋を問わず、この頃少ないようである。

(2002/12/03)

『たそがれ清兵衛』

今月の初め。山田洋次監督の第77作『たそがれ清兵衛』を観た。黒澤映画のような豪華さはないが、細部まで入念に作りこまれた映画であった。真田広之扮する主人公・井口清兵衛は無敵のヒーローではない。小太刀の名手ではあるが、どちらかと言えば、普通の人である。結核を患った妻がついにこの世を去り、幼い娘2人とボケ老人、そして相当な借金を抱えて、侍としての勤めと内職に忙殺される日々。楽しみと言えば友人と行く川釣りぐらいだろうか。そんな清兵衛の地味な暮らし振りを山田監督は妙な感情移入をせずに、淡々と描写を重ねている。下級武士の生活をこれ程丁寧に描いた映画も稀であろう。清兵衛が密かに想いを寄せる朋江(友人の妹)に宮沢りえが配役されている。女優の演出には特に厳しい山田。宮沢も随分シゴかれたのかどうか、巧く画面に溶け込んでいた。彼女の前夫のアル中侍に大杉蓮。こういうどうしようもない男こそ彼の得意分野であり、大杉が主人公に叩きのめされるシーンが良い。彼の憎々しさが強烈故に、観客は大いにカタルシスを楽しめるという仕掛けである。

山田監督がこだわったラストの決闘。清兵衛の相手は藩内の政争に敗れた男である。この男、藩内最強の剣術遣いで、主人公とは1度だけ対面を果たしている。清兵衛としても勝てるかどうか判らない。しかも、彼に個人的に恨みがある訳でもない。理不尽極まる指令に結局は従ってしまう清兵衛の辛さ。哀しさ。この戦いには虚無感が濃厚に漂う。そして、それこそが監督の狙いだったのは間違いない。愛用の小太刀の整備を済ませ、愛する朋江に髪を結い直して貰った清兵衛は、いざ標的の屋敷に向かう。彼の前に放たれた第1の刺客は、かの剣豪に首を貫かれている。その死体が庭に転がり、無数の蝿が集っているカットは中々痛烈だ。雨戸の締め切られた薄暗い邸内で、剣豪と対峙する清兵衛。だが、戦闘は始まらない。まあ。酒でも呑もうや。男は似たような境遇の清兵衛に同情や共感とも取れる言葉を重ねる。意外な展開に主人公も観客も意表を衝かれる。脚本の工夫である。しかし…清兵衛の大刀が「竹光」である事が発覚すると、男の態度が豹変する。この俺を甘く見たな。男は愛剣を抜刀して清兵衛に襲い掛かる。応戦する清兵衛。激しい斬り合いが続くが、戦場は狭い室内である。軍配は小回りの利く清兵衛の短刀に上がった。男はトドメの一撃を食らっても、それでも何やら喋り続けていたが、あれは蛇足だったような気がする。リアリティを追及するのなら尚更である。後、不思議で仕様がなかったのが例の竹光の件。果たして、凄腕の剣士との殺し合いに竹光で向かう者がいるだろうか?清兵衛は借金苦に耐えかねて刀を売ってしまったそうだが、それなら他人の太刀を借りてでも武器を用意すべきではないのか?それとも恥ずかしくて言い出せなかったのか。その辺りの説明は映画の中では見られなかったのが、残念と言えば残念であった。

劇中、富樫慎様が指摘されていた、子供の溺死体(史実無視)が2回登場した。監督としては、清兵衛の住む世界が飢餓と隣り合わせである事を端的に示したかったのだと思うが、やや中途半端な感じを受けなくもない。尤も、事前に富樫様に御教授を戴いてなかったら、愚かな俺はきっと見逃していたであろう。多少の不満を感じないでもないけれど、この映画が近頃珍しい真っ当な時代劇である事は確か。出演者も渋めの実力派が揃えてありますので、安心して観られます。皆様。機会あらば御覧下さい。

(2002/11/20)

『凶気の桜』

話題の映画『凶気の桜』を観た。退廃の街・渋谷を舞台に、破滅的な運命を辿る三人組を描いた一種の青春映画である。窪塚洋介扮する山口は二人の仲間を率いて、この街に巣食う〈ゴミ〉どもを手当たり次第にブチのめす。即興芝居やゲリラ撮影(高坂さんに教えて戴いた)が大いに効果を発揮している。粗削りな感じが作品の雰囲気によく合っており、元気な頃の深作映画のようなエネルギーを感じさせる。尤もこの映画の暴力場面は『仁義なき戦い』の汗臭さは希薄で、基本的に当世風のドライなノリである。無敵の進撃を続ける山口達の前に、ついに本物のダークパワーが出現。山口は一定距離を置いて、つき合おうと主張するが、仲間達はヤクザどもの思惑通りに利用されて、哀れリタイア。両人の復讐を誓い、敵陣に単身乗り込む山口だったが…。脇役陣も充実。原田芳雄やら本田博太郎やらのアクの強い演技も痛烈だったが、意外にも、ヤクザ専属の殺し屋に扮した江口洋介が良い味を出している。今迄、江口を役者とも俳優とも思った事は一度もないが、この映画に限っては見応えがある。この作品を機にアホなTVドラマの出演は中止して、映画俳優に徹して貰いたいものだ。でも、生活の為にはそうも言ってられないのかな。

俺はこの映画を〈渋谷東映〉で観た。劇中の窪塚が着用している白い戦闘服を模したスタイルの若い観客が何人かいた。若い連中が日本映画の登場人物の姿を真似るなんて、近年稀である。窪塚洋介。結構人気者である。一寸嬉しかったが、模倣するのは格好だけにしてくれ。映画館を出る。昼下がりの渋谷。雑踏の中から、スキンヘッドの窪塚=山口が突如飛び出してくるような…そんな錯覚に瞬間襲われた。

(2002/11/03)

『生きる』

我らが陳五郎様が「何十回も観た」と激賛される映画。それが、黒澤明の『生きる』である。黒澤の動の代表作が『七人の侍』なら、静の代表作はこれだとされている。黒澤映画は大抵の場合、時代劇にせよ現代劇にせよ、熾烈な攻防戦が繰り広げられる。強靭な個性を備えたキャラクター同士の対決は非常に見応えがあり、国境を越えて、多くの映画ファンを魅了してきた。さて『生きる』の主人公はどうだろうか。映画の冒頭、彼は「この男は死んでいる」といきなり断言されてしまう。事なかれ主義で何に対しても消極的。明確な目標や野望を持たぬ男など、ヴァイタリティの塊たる黒澤に言わせれば「死人同然」なのである。黒澤の役人嫌いは有名な話だが、この作品には彼の役所(国家?)に対する強烈な不信感が横溢しており、中々興味深い。

主人公の男は自分が末期癌であり、後半年も生きられない事を知る。残された時間で己に出来る事は何か?それを発見した時から、彼は黒澤映画の主役に相応しい人物として機能し始めるのである。黒澤一座の重鎮・志村喬が、職場で〈ミイラ〉と嘲笑されている情けない中年男を熱演。七人の侍を率いる軍師とは対極に位置する人物。この男のどうしようもないもどかしさや優柔不断さを、志村は巧みに表現している。尤も、黒澤としては「もう少し力を抜いて、楽に演って欲しかった」そうだが。映画の後半は、主人公の通夜を舞台にしたディスカッションドラマである。主人公の遺影の前で、家族や同僚達が、彼の英雄的行動について、その理由や動機について語り合う。観客の意表を衝く大胆な構成と言えよう。カメラは通夜の席から基本的に動かず、回想場面がふんだんに取り入れられている。この部分が長過ぎるのではないかという批判もあるが、演劇的雰囲気が濃厚で俺としてはかなり楽しめた。このクドさこそ、当時の黒澤が持つアクの強さの現われのようにも思える。後年、かの王様は「観るべき所の少ない作品だ」と、この映画を斬り捨てている。芸術家とは自作の評価にも随分と辛辣なものらしい。

(2002/10/31)

両雄共演

かの『風の谷のナウシカ』の最終局面。無理矢理起動させた究極兵器〈巨神兵〉が熱線を発射して、王蟲の大群を吹き飛ばす場面。この作画を担当したのが若き日の庵野秀明である。庵野はこのシーンを作る為に、三日三晩、原子爆弾の爆発映像を観続けたそうである。それを横から眺めていた監督の宮崎駿は「変わった奴が現れたな」と苦笑するのと同時に(自分を凌駕するかも知れない)新しい才能との遭遇に戦慄したという。庵野はメカニックを描かせると天才的だったが、人物の方はどうも駄目。例のクライマックスで、同一場面に巨神兵と女将軍クシャナが登場する所がある。宮崎は庵野の描くクシャナが気に入らず「どけい」てな感じで、庵野を押し退けて、女将軍の作画を自ら手掛けた。つまりこのシーンは今後実現する事はまず無いであろう「両雄共演」と言える訳である。穿った見方をすれば、この時、宮崎の中に庵野に対する嫉妬や怖れが芽生えたのではのではないだろうか。その感情が宮崎に前述のような行動を取らせたような気がする。宮崎本人は絶対認めないだろうが。

(2002/10/26)

『ゴッドファーザーPARTV』

先日。フランシス・コッポラの『ゴッドファーザーPARTV』を観た。1990年公開の映画である。昨年12月の初旬に放送された時に録画しておいたものである。そのテープが行方不明になり、家中を掻き回したが見つからず、段々腹が立ってきて放っておいた。先月末。ふと自室の机の上を見ると、かのテープが当然のように立っている。不思議だ。俺の家には座敷童子でもいるんじゃねーか?さて『PARTV』である。この映画はシリーズ中、最も評判が悪い作品である。前2作に比べると品質が極端に落ちるとか、莫大な借金を返済する為にコッポラが不貞腐れて作ったとか、ヒロインの女優(コッポラの娘さん)が不美人だとか、散々な言われようである。そんな噂を思い出しつつ、俺はテープをビデオデッキに滑り込ませた。

主演はアル・パチーノ。初老のメイクを施して、マフィアの首領を熱演している。彼は偉大なる親父殿から暗黒組織を引き継ぎつつも、闇の世界から脱出しようと東奔西走。その大目的を遂げる為に家族をも捨て去った執念の男である。だが、さしもの英雄も老いた。糖尿病の進行も酷い。そろそろ引退を考えている。組織の合法化も一応完了し、長い戦いの日々も終わるかに見えた。しかし、またしても内部抗争が勃発。武装ヘリに闇討ちされるわ、心臓発作でぶっ倒れるわ、商談相手には裏切られるわで、寝ている暇もない。ゴッドファーザーも大変な激務だ。全篇を支配する豪奢なセットと贅沢な雰囲気。この重厚感は流石に鬼才監督である。俺はそれほど悪い映画ではないと思った。ラストの無情感も痛烈。三部作を締め括るには適当な作品ではないだろうか。余談になるが『ゴッドファーザーシリーズ』はその筋の方々の評価が誠に高いとか。逆に日本のヤクザ映画は案外不人気。例えば『極妻シリーズ』に登場するどうしようもない男ども(主人公を引き立てる為にはどうしてもこうなる)を見て、有名組織の幹部が「あいつら。ただのアホやんけ」嘆いていたそうである。

(2002/10/07)

異色時代劇

黒澤明の時代劇には、チャンバラシーンが殆ど登場しない(一部それに近いものもあるが)。大型時代劇『七人の侍』を製作する際、かの王様は「嘘だらけの従来の時代劇を叩き潰す」という野望に燃えていた。この映画では、様式美もへったくれもない殺し合いが幾度も繰り広げられる。七人の侍の内、4人の勇者が討ち死にするが、彼らはいずれも野武士の銃撃によって落命する。余りにも突然に主役級の人物が殺されてしまうので、最初は拍子抜けした。だが、あの呆気なさこそ黒澤的リアリティなのだと後で思い直した。刀の耐久性についても黒澤はこだわった。一振りの剣で何人もの敵を斬れる訳がない。そのこだわりが、決戦前のあるシーンに現れている。菊千代が土饅頭に何振りもの段平を突き刺して敵襲に備える場面である。実際、戦闘中の菊千代は折れた刀を投げ捨てて、泥飛沫を上げつつ新しい刀を取りに走っている。これら一連のシーンは有名な剣法マニアの将軍(名前は忘れた)のエピソードの引用であり、後世、かの『新世紀エヴァンゲリオン』にも流用される事になる。『七人の侍』は昭和29年に公開された。この年の『キネマ旬報』のベストテンでは何と第3位に甘んじている。当時としては異色尽くめの時代劇に対する評者の戸惑いが、この順位に繋がったのかも知れない。因みに、時代劇特有の美しい所作や立ち回りを求めるファンの中では、黒澤時代劇の評判は低いと聞いている。黒澤映画も絶対的存在ではない。

(2002/09/28)

『探偵物語』

先日、深夜放送で根岸吉太郎の『探偵物語』を観た。出演は薬師丸ひろ子と松田優作。1983年の作品である。優作が主演を務めたTVシリーズとは特に関係はない。1週間後に渡米を控えた女子大生が殺人事件の解決に乗り出すという筋書きである。原作は赤川次郎。ミステリー風味のラブストーリーと言った趣だ。ド下手だと思っていた薬師丸が案外健闘している。彼女の最盛期をフィルムは確実に捉えていた。角川春樹は彼女を映画スターに育てようと本気で取り組んでいたようだ。残念ながらその野望は潰えた。彼自身、監獄にブチ込まれるわ、会社からは追放されるわで(自業自得とは言え)散々な目に遭っている。大愚作『天と地と』の監督というだけで彼の存在は映画史から消し去りたいが、俺は角川映画の独特の雰囲気は嫌いではない。我らがアクションスター・千葉真一を積極的に起用してくれた点も得点が高い。千葉が「最近仕事がねーな」と何処かで嘆いていたが、春樹王国崩壊もその一要因と言えそうだ。さて、松田優作である。この作品における彼は悪党連を素手で叩き潰す超人ではなく、その辺にいる普通人に過ぎない。終盤の、薬師丸に向かって「一人で寂しくない人間なんていないよ。でも一人で過したい時もあるんだ」と複雑な心境を独白する場面が良かった。活劇俳優として有名な優作だが、細やかな演技も可能な得難い俳優であった。彼に憧れる役者は多いものの、哀しいかなその後継者が未だに現れていない。龍平。頑張ってくれ。脇役では、エロいヤクザに扮した財津一郎が指詰めまで披露する熱演を見せ、黒澤作品常連たる藤田進が大親分役で貫禄を示した。藤田が財津を「この大馬鹿者」と叱責する所は迫力があった。19年前の日本の風景も興味深い。登場人物の服装、大学のキャンパス、地下鉄や乗車券の販売機、そして、赤や黄色の公衆電話。携帯電話などという汚らわしい手妻(俺が好きになれないだけだが)が普及する以前の日本である。映画はこういう一寸したタイムマシン的機能も備えている。だから映画は面白い。

(2002/09/12)

王様と騎士

先日(俳優座劇場)で黒澤明の『天国と地獄』を観た。この作品については『奇魂』誌上にて駄文を書きたいと思っている。高校生の時にビデオで観たっ切りだから、久々の再会である。やはり三船敏郎は凄えと思った。かの巨匠が発見し、己の演出能力の全てを投入して鍛え上げた大豪傑。黒澤映画で縦横無尽に暴れ回る三船の雄姿は圧倒的迫力である。初期の『酔いどれ天使』『七人の侍』等では、腕力は強いが精神的には未熟…という感じだったが、後期の作品では百戦錬磨の貫禄が備わり、男の中の男を鮮烈に体現していた。劇中における理不尽な勢力に対して、一歩も引かぬ三船の屈強な姿勢は、まさにクロサワ自身であった。どちらかと言えば、三船は大根役者の部類に入ると思う。猛烈無比の黒澤演出があって初めてその威力が発動可能なのである。理由はよく解らないが『赤ひげ』以降の両雄決裂は彼らにとっても、日本映画界にとっても大悲劇だった。三船には和解の意志があったそうだが、黒澤側が頑なに拒絶したという噂もある。巨匠後期の超大作時代劇『影武者』『乱』は両方とも仲代達矢が主演を務めている。これが三船なら作品の厚味は更に増したかも知れない。仲代も風格のある良い役者だが、三船の持つ生来の野生味やユーモラスさには欠けており、その点に関してはいささか物足りない。黒澤と三船。2人の老雄が「お互いジジイになったなあ」などと笑いつつ、若き日そのままの姿で新作の撮影に臨む…そんな光景が見てみたかったものである。

(2002/09/08)

『修羅雪姫・怨み恋歌』

8月25日〜10月19日迄、かの〈ラピュタ阿佐ヶ谷〉では「可愛くて凄い女たち・第2弾」という特集が組まれている。昨夜、その先陣を飾る『修羅雪姫・怨み恋歌』を捕まえた。監督は藤田敏八。1974年公開の作品である。俺は藤田の映画を余り観た事がない。随分前に深夜放送で中年男と女子大生の奇妙な恋愛関係を描いた『ダイアモンドは傷つかない』を眺めた程度である。主人公は〈修羅雪姫〉の異名を持つ女暗殺者。彼女を梶芽衣子が演じており、その周囲を伊丹十三、原田芳雄、岸田森と言った濃過ぎる面々が固めている。伊丹は修羅雪姫が抹殺を依頼される無政府主義者の役。頭は良いが、相当エロい。こういう屈折したしたエリートをやらせると彼は見事にハマる。原田は伊丹の弟にして、貧民窟に治療所を構える医者である(全然そう見えないが)。そして、我らが岸田先生は秘密警察の親玉を鬼気迫る表情で演じている。如何なる端役でも全力投球するのが岸田の本領。この映画でも吸血鬼並の蒼白なメイクを施している。過剰なまでの役作り。流石は日本唯一のドラキュラ俳優である。異常にアクの強い連中が、血みどろの闘いを繰り広げる為、後半まで修羅雪姫の見せ場はほとんどない。仲間を皆殺しにされた原田は修羅雪姫の助太刀を借りて、仇敵どもを片っ端からブチ殺す!放送禁止用語を連発しながら見苦しい死に様を晒す岸田。根っからの役者である。この国は惜しい人を亡くした。どう考えてもB級ゲテモノ映画だが、作品内に流れる強烈な反骨精神が、この作品をバカ映画になる寸前で食い止めている。素っ裸の餓鬼達が駆け廻るスラム街の壮絶な描写や反逆者に対する過酷な拷問場面は、後で悪夢として蘇るだろう。日の丸と海軍旗が交差して、その間から呆然と立ち尽くす修羅雪姫を捉えたラストシーンも印象的であった。上演時間89分。頭さえ使えばこれだけで充分ドラマを完結させる事が出来るのである。最近の映画は無駄に長い。

(2002/08/27)

『人間蒸発』

先日〈ラピュタ阿佐ヶ谷〉にて、今村昌平の『人間蒸発』を観た。1967年の作品である。早川佳江という実在の女性が、突如失踪した婚約者を追跡するドキュメンタリー映画。彼女の後見人として俳優の露口茂が登場する。若き日の露口は何処となくVシネマの巨頭・哀川翔に似ていて可笑しかった。映画中盤から今村自身も画面に現れて「この映画はどの方向に進むべきなんだろうか?」などとスタッフ一同に問いかけたりする。生死不明の婚約者を追う過程で、常に誠実な態度で接してくれる露口を、いつのまにか早川が愛してしまうというハプニングも発生。予想不可能な展開が面白い。やがて、奇怪な事実が浮かび上がる。早川の姉が彼女の婚約者と仲良く歩いている所を何度も見たという目撃者が現れたのだ。元々、確執のあった姉妹はこの証言を巡って激しく衝突する。痛烈な言葉の応酬。もしかして、姉が婚約者を殺したのではないか?だが真相が完全解明される前に映画は幕を閉じる。最後の会話。露口が「早川さん。この映画はこれで終わりますが、貴女はこれからどうしますか?」と問う。彼女は「わかんない」と不貞腐れたように答える。実に投げやりなラストシーンである。ややモタつく部分もあるが、異色で刺激的な映画であった。鑑賞の際、俺の体調は最悪の状態だった。見落としてしまっている点がかなりあるような気がする。健康体の時に再度観てみたい。

(2002/08/26)

五社時代劇3本

本年正月。五社英雄の『闇の狩人』を観る。仲代達矢が率いる暗殺集団が紆余曲折の末に壊滅する話。原作は池波正太郎。彼は映画の出来には不満の様子であった。確かにストーリー展開の粗っぽさは気になった。最後の仲代vs千葉師匠の一騎討ちは面白かったが。6月の中旬。六本木の〈俳優座劇場〉で『御用金』を鑑賞。三船敏郎がゴネて、結局は出演しなかったという曰く付きの作品である。右往左往するスタッフを見かねた萬屋錦之助が急遽代打を買って出たという。主演の仲代は錦之助の男気に涙。しかし、完成した映画は凡庸であった。1時間半で表現可能なモノを2時間以上観せられては、流石に飽きる。そして本日。いつもの〈ラピュタ阿佐ヶ谷〉にて『人斬り』を捉えた。大して期待していなかったが、思わぬ拾い物。恐らく五社時代劇の最高傑作であろう。血風吹き荒れる幕末京都。岡田以蔵(カツシン)が斬って斬って斬りまくる!勝のダークな魅力爆発。暗殺者の凄味と惨めさを見事に表現していた。以蔵を操る武市半平太(やはり仲代)の冷酷非情さも良い。ラスト近く、密告と引き換えに入手した金子で、愛した遊女を救い出す辺りも泣かせる。脚本は橋本忍。黒澤映画の黄金時代を支えた名ライターの1人である。映画の命はシナリオに在り。この作品、どういう訳か三島由紀夫が主演している。薩摩藩の誇る剣客の役だが、濡れ衣を着せられた事を悟りながら、突如割腹して果てる。後に、三島が本当に自決した際、この映画の記憶が瞬間蘇ったかどうかは、定かではない。

(2002/08/06)

『愛と復讐の騎士』

先日、深夜放送で『愛と復讐の騎士』というフランス映画を観た。1997年の作品である。物語の展開はシンプル。主人公のお調子者の剣士がある貴族と知り合う。貴族の青年は自分に娘が存在する事を聞き、我が子を迎えに行く。剣士はその護衛役で同行する。それを阻止すべく動き出す黒衣の一党。彼の財産を狙う者の指図である。死闘の果てに刺殺される貴族。剣士は彼の復讐を誓い、その愛娘を守りつつ大道芸人としての旅を続けるのだった…。劇中、随所で繰り広げられるチャンバラシーンが最高。日本の時代劇は「斬る」イメージが強いが、こちらは「貫く」という感じである。悪漢どもの額に必殺のレイピアが突き刺さる瞬間は迫力があった。出演者達の面構えも良い。作品世界に溶け込む術を彼らは心得ている。我が日本映画にはこれが出来る俳優が本当に少数になってしまった。歯痒い限りである。仏製冒険活劇をたっぷりと楽しませてもらったが、気になるのはこの邦題。誰がつけたのかは知らないが、もう少しマシなタイトルはなかったのだろうか。

(2002/07/14)

『地獄』

先日、オウム真理教の殺人マシーンと呼ばれた男に死刑判決が下された。カルト映画の大御所・石井輝男の『地獄』は1999年に公開された。俺が観たのは、忘れもしない〈上野スター座〉というミニシアターであった。オウム真理教や毒殺おばさん等、現実の犯罪者・容疑者をモデルにしたキャラクターが多数登場。彼らはことごとく、地獄に堕ち、獄卒どもの餌食となる。この映画では、オウム(劇中では宇宙真理教)の描写にかなりの時間が割かれている。例の弁護士一家惨殺事件もマスコミの情報の通り、忠実に再現されている。もし彼らが、現実にこの所業を行ったとしたなら、死刑は妥当だろう。この作品は、最近ビデオ化され、レンタル屋に並んでいる。もし、お暇ならお試し戴きたい。最終盤、丹波哲郎vs獄卒軍団のチャンバラという大サービスもついている。現実の裁判は果てしなく続きそうな気配である。

(2002/06/30)

忘却の彼方2

先日、深夜放送で深作欣二の『華の乱』を観た。大正時代に活躍した、芸術家や思想家が多数登場する。文芸映画の筈なのに、時折乱闘シーンが挿入されるのが面白い。押さえ切れぬ深作のアクの強さである。主演は吉永小百合。彼女が与謝野晶子に扮している。好演とは言えないが、ヘタでもない。及第点には達していると思う。その夫には、緒形拳が配役されており、彼の徹底たるダメ親父振りが良い。この作品は、日本映画としては松田優作最後の出演作である。顔色の悪さは役作りによるものばかりではないらしい。この頃から、既に優作は死神の標的になっていたのだ。俺は公開当時(1988年)に、新聞に挟み込まれた、特大の『華の乱』のポスターを観た記憶がある。あの時の俺は何を考えて生きていたのだろうか…。

(2002/06/07)

蟹とキューブリック

ある日の深夜放送で、深作欣二の『北陸代理戦争』を観た。劇中、主人公が越前海岸の魚屋に立ち寄り、塩茹での蟹を購入するなり、旨そうにかぶりつくシーンが登場した。その時、俺の脳裏にある想い出が脳裏を過ぎった。数年前、後輩ら4人と蟹を食べに行った記憶である。場所は映画と同じ越前海岸であった。野獣のように腹を減らしていた我々は、山盛りの蟹を貪り食った。そのメンバーの1人にNという男がいた。彼も相当な映画好きで、その種の話で幾度も盛り上がった。彼の「キューブリックの『シャイニング』は面白いですよ」という一言こそ、俺をキューブリック狂にしたスイッチであった。以来〈彼〉の作品や文献の追跡が始まり、現在に至っている。昨年の暮、Nは呆気なくこの世を去った。釣りと酒と映画を愛する好漢だった。

(2002/05/24)

『スター・ウォーズ』

先日ビデオ録画しておいた『スター・ウォーズ』第1作を観る。実は今回が初見である。例のテーマソングが鳴り響き、物語の幕が開く。気合いの入った洋画ファンは吹き替え放送を異常に嫌がるが、こういう単純明快な冒険活劇なら問題は無いのではなかろうか。この作品が初めてテレビ放映された時は、主人公を渡辺徹が、ハン・ソロを松崎しげるが担当したそうな。黒澤明の『隠し砦の三悪人』や『用心棒』が作品に溶け込んでいるのは嬉しいが面白い映画特有の吸着力に欠けている。原因はキャラクターの設定が杜撰だからである。その為、映画の奥行きが感じられない。『影武者』の予告篇にジョージ・ルーカスとフランシスコ・コッポラの両雄が登場しているが『地獄の黙示録』辺りを観ると、コッポラの方が一枚も二枚も役者が上である。

(2002/05/08)

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